東京人形倶楽部あかさたな漫筆
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光用穆の場合 その1
1.はじめに
﹃文章世界﹄大正7年1月号掲載﹁現代文士録﹂によれば、光用穆は、
明治20年3月10日、新潟県高田市に生る。早稲田大学英文科の出身。数篇の短編小説の外ウエルスの﹃宇宙戦争﹄の訳がある。﹃中央美術﹄編輯。現住所、小石川区白山前町四。
と説明されている。﹁数篇の短編﹂の中に﹁人魚﹂と題された作品があるので、ミツモチキヨシを取り上げてみたい。
2.中央新聞時代と﹁病児﹂
早稲田大学英文科を明治42年7月5日卒業した光用は、大学時代は相馬御風方に同居していた。御風は新潟県糸魚川の出身で、県立高田中学、早稲田英文科の先輩に当たり、明治39年の卒業後は﹁早稲田文学﹂の編集に従事した。当時の早稲田英文科の卒業生は中学の英語教師か新聞記者になるものが多かったが、光用も8月3日、中央新聞に入社している。この頃の思い出を光用自身が、若山牧水追悼の雑誌﹁創作﹂(1928年12月)に﹁中央新聞時代﹂と題して寄稿している。牧水と光用は、安成貞雄の紹介で同時期に中央新聞に入社し、社会部の外交に回された。当時の新聞記者は外回りの探訪︵外交記者︶と、外で取ってきた材料を話させて記事にまとめる内勤記者に分かれていた。二人は両国の川開きの探訪などに一緒に出かけている。2、3ケ月で光用は家庭部の翻訳担当に替わったが、牧水は社会部に留まった。
雑司ヶ谷の相馬方を出た光用は小石川区高田老松町の老松館に下宿して、朝9時から7時まで、不時の事件が起これば夜中の12時まで、京橋区山城町の中央新聞社で働いた。月給がいくらであったかは明らかではないが、松崎天民の回想によれば、大正の初めで、﹁初任給が二十円の社もあり、四十円の社もあった﹂とされている。ちなみに、天民の初任給は明治33年8月で10円であった。光用は﹁わずかばかりの月給﹂と表現していて、日々の労働で時には文学のことも忘れたと弱音を吐くこともあった。
中央新聞は昭和16年1月1日より日本産業報告新聞と改題して19年4月30日まで発行を続けていたが、以後廃刊に追い込まれ現在は存在しない。その前身は明治16年1月22
日発刊の絵入朝野新聞まで辿ることができ、以後江戸新聞、東京中新聞を経て明治24年8月16日から中央新聞として発刊されていた。光用らが入社した明治42年当時の社長は大岡育造(1856-1928)、主幹小野瀬不二人(1868-1938) 、社会部長堀柴山(1867-1940)の体制であった。小野瀬は初め二六新報の編輯局長を勤め、アメリカでジャーナリズムの研究もしてきたが、日露戦争後、中央に移った。小野瀬は安成の紹介で永代静雄(1886-1944)を入社させたが、永代が優秀だったので、次々に安成の推薦で早稲田出身者を中央新聞に採用している。ところが、明治42年の暮れに、小野瀬と大岡社長の意見が対立して、小野瀬ー安成ラインの人々が10人余り退社することとなる。光用も、12月20日頃退社してしまった。
この明治42年に知り合った永代静雄、そして、当時太平洋通信社﹁サンデー﹂の編輯 をしていた安成二郎︵貞雄の弟。1886-1975)は生涯の友として、光用のその後の人生に関わることとなる。自然主義文学隆盛の中、しかもその運動の理論面の推進力となった早稲田関係者であったが、光用はこの時期を﹁暗い悲しい﹂と回想し、﹁デカダンか自殺﹂という言葉を同時代の手紙の中で使っている。失業、病弱という状況で、社会・文化的にも閉塞感を持っていたが、文学的にはポスト自然主義の趣味を有し、何かをやり遂げようとする気持ちは持っていた。一元的に作者に映る庶民の生活でなく、芸術家とその周りの人々の心理を追求すること、白樺や世紀末ロシア文学︵ソログーブ、アンドレーエフ、チェーホフ︶に通じる世界に惹かれていたが、明治44年頃、光用が注目する日本の作家は鈴木三重吉であった。
明治43年、初夏に一時高田に帰郷していたが、その年の9月、雑誌﹁創作﹂に﹁病児﹂という短編を発表している。雑誌﹁創作﹂は、中央新聞退社後に若山牧水が編集を担当、東雲堂書店から発行していた。創刊は明治43年3月、月刊の小説、評論、詩歌を載せる総合文学誌であった。牧水の歌名も上がり、﹁創作﹂も好調であったが、神経を使いすぎて、この1巻7号、9月号から編集は親友の佐藤緑葉(1886-1960)に代わった。白秋、杢太郎、露風らの詩、牧水、夕暮らの歌、未明、本間久雄らの評論、さらに蕭々、御風らの訳詩に混じり、小説は光用の作一編であった。
﹁健次は六月の末頃から病気に罹った﹂という書き出しで肋膜炎を煩う男児の状況︵家族・町の様子︶を語りながら、最後近くに病児の夜毎の悪夢を配する5ページの作品である。
毎晩健次が眠りに就くと、屹度えたいの知れぬ怪異のものが枕元に現われた。真暗 の中に、黄色く燦々光るうじょうじょした蜘蛛の巣みたいなものが現れて、その真中の処に人の形した大きなものが突立っている。
﹁眼を閉じればぱっと消えて行くが、眼を開くと直ぐ其処へ現れて来る﹂怪異は、母親が胸を擦ってくれれば解放されるものであった。怪異の描写は﹁ぐじゃぐじゃ﹂﹁ひらひら﹂とオノマトペを用いて表現されているが、病児の神経を伝えるものなのか、大きく時代を暗示させるものなのか、この一作だけではわからない。しかし、子供とその神経を怪異に絡ませて描写するところが新鮮だったのだろう。
倉田白羊(1881-1938)表紙画、木下茂カット、全95ページの清々しい雑誌は原稿超過のため加藤朝鳥、山村暮鳥の詩、永代静雄の﹁ブレエク評伝﹂などを積み残していた。
INTERLUDE 1 中央新聞発行﹁ホーム﹂
中央新聞は講談掲載、少年欄創設の嚆矢となったことで知られているが、光用が退社するまで所属していた家庭部は主任が惠美東臺︵孝三︶、その下に永代静雄、光用、若杉鳥子がいた。時代は光用時代と異なるが、明治39年11月3日に中央新聞週報として﹁ホーム﹂を創刊している。B4大の婦人子供向けのグラフ誌である。毎日新聞が月刊の﹁ホームライフ﹂を創刊したのが昭和10年、﹁コドモアサヒ﹂大正12年、﹁婦人子供報知﹂昭和六年と比べても、早い時期の出版物だと思われる。この雑誌に人魚関連の記事があるので紹介してみよう。
7号︵明治39年12月16日︶から29号︵明治40年5月19日︶まで全21回連載された絵物語﹁不思議国﹂中の、9回、10回分に人魚が登場する。1回から9回までは無署名であるが、10回からは﹁よし夫画、親兵衛解﹂と銘打ってある。新兵衛とは他の記事署名から判明するが、尾上新兵衛という作者らしい。カラーの絵がナンバーリングされたコマ絵になっていて、どことなく欧米風と和風の折衷を感じさせる絵柄で、話の内容も翻訳、翻案を思わせるものである。
鬼退治から戻って、しばらくおとなしくしていた日本太郎は、薬師如来像背面の不思議国入り口から冒険に出発した。アリスを彷彿させる書き出しで、まずは神羊宮︵第3回目の9号は明治40年1月1日発行。この年は未年であった。︶に迎え入れられ、和服から洋服に着替えをし、空飛ぶ木羊に乗って火山下の地下世界の探検に赴く。鉱物の林を抜け地下湖から海底へと進む。ここで海中王の使者である人魚の出迎えを受ける。海には色々な魚類がいるが、マンボウは萬寶と表記し、﹁背中に日の丸のある﹂のがジョン、ドーリーだと紹介している。和名のマトウダイと言わず、英名のJohn Doryと呼ぶ所や金髪人魚が原作の存在を推測させる。タツノオトシゴに引かせた龍車に乗って海中を見物していると、沈没船に出会う。この船は昔の海賊船で、その悪行のために神の怒りにふれ、奪った宝とともに海に沈んだ海賊たちは今は海亀に姿を変えられ、財宝を守護していた。宝を再び世に戻すまでは罪が消えず、太郎を待っていたのである。太郎は宝を南の島に引き上げ、白鳥の力を借りて島人の大王となる。大王となった太郎は人々を指揮して大船を建造して航海に出発し、イルミネーションに飾られた街に上陸する。女の子たちの遊ぶ海上の街から蝶の車に乗って元の薬師像の前に戻って来る。
地、海、空の三界を巡り、火山・鉱物、魚名などの科学知識や南洋の地理風俗を取り込む教育的部分とファンタジーを加味した話は美しい挿絵を眺めながら読み進めば、かなり面白かったのだろう。太郎の弟には日本次郎もいて、お爺さんから魔法の笛を得て冒険に出かけようとしたらしいが、実現したのであろうか。
﹁ホーム﹂の刊行されていた明治40年には、上野で東京勧業博覧会が催された。﹁ホーム﹂誌上でも︵﹁帝国画報﹂﹁理学界﹂の関連記事は紹介済み︶教育水族館に展示された﹁人魚﹂についての記事を拾うことが出来る。28号︵5月12日︶の﹁人魚の話﹂がそれである。内容は3誌ともにほぼ同じで、﹁理学界﹂のものがもとになっているのであろう。人魚はザン︵ジュゴン︶のことであると断定して、沖縄新城島のオガン︵霊場︶とかつての捕獲法を中心に科学啓蒙記事仕立てにしている。﹁ホーム﹂34号︵6月23日︶にも面白い仕掛け絵がある。﹁ソレ喰われてよ﹂という題で、女の子が大きな魚に追いかけられているのであるが、縦の折り線が入っていて、折り曲げると、女の子の上半身と魚の下半身がつながって人魚になるというわけである。﹁ホーム﹂には他にも恐竜紹介記事︵ただし恐竜という文字は使用していない。﹁前世紀の動物﹂と言っている︶など興味を引かれる内容のものがある。
3.﹁奇蹟﹂への道
明治43、44年、光用は老松館を出て、同じ小石川区内東青柳町の青柳館へと移っている。明治44年の数ヶ月間は職についていた︵出版関係だと思われる︶ようだが、失業が基調の光用の生活の中では、早大の仲間とのやるべき文学と金に換える売文が分けられていたようである。回覧誌として始められた﹁稲風﹂は光用、舟木重雄(1884-1951)、宇高信一(1886-1943)、宮地嘉六(1884-1958)らがメンバーで、下宿でそれぞれの自作を朗読していた。この頃の光用の作は正宗白鳥ばりだと伝えられている。
明治44年9月の雑誌で光用が読んだ物は中央公論と青鞜のみであった。中央公論には風葉、藤村、青果、花袋、三重吉、白鳥の作があるが、三重吉、白鳥あたりが目当てであったのだろうか。他の既存の文芸誌︵スバル、文章世界、早稲田文学、三田文学、白樺、新潮など︶ではなく、この9月創刊の女性の文芸誌﹁青鞜﹂を光用は手にしている。青年読者に新しいものとして期待されていた証左かもしれないが、その﹁鼻いきの荒﹂さに少々辟易したようだ。しかし、紙面に現れたエネルギーに刺激を受けて、売文でなく、﹁真面目﹂な作のみでやっていきたいと思ったもようだ。だが、現実はそれを許さない。
満洲日日という新聞がある。編輯人岡田雄、発行人木村柳太郎、印刷人比良正吉、大連市東公園町17号地﹁満洲日日新聞社﹂発行の一部3銭、月極60銭の日刊6頁立の新聞である。その明治44年10月6日(1434号︶から連載が開始された小説は、小杉天外、光用絲川合作﹁毒酒﹂であった。光用絲川とは糸魚川から採られた光用の号である。前日本銀行総裁田中男爵、その情婦大瀧若子、若子の恋人伯爵家の次男一宮忠篤が繰り広げる全122回︵最終回は明治45年2月14日︶の家庭小説は、あまり読者をわくわくさせるような内容とは思われなかった。もっとも、まだ最初と最後の10回分づつにしか目を通していないのだが。小杉天外は明治36年、読売新聞の連載小説﹁魔風恋風﹂で大受けした作者である。同時期の明治44年9月から翌年45年7月まで報知新聞紙上に﹁伊豆の頼朝﹂を連載していた。﹁毒酒﹂は明治44年8月から45年1月半ばにかけて光用が書いたものに天外が手を加えたものだろうが、どの程度天外の関わりがあるか分からない。この時期、光用が天外宅︵芝区内︶にいたという証言もある。天外と光用の繋がりのきっかけがどこにあるのか分からないが、地方新聞小説には代作がまま見受けられるので、この他にも光用の通俗小説や翻訳下訳があるかもしれない。
いったい新聞小説の合作はいくらくらいの収入を齎すものであろうか。永井荷風の東京朝日紙上の﹁冷笑﹂は、明治42年12月から翌2月いっぱいの掲載であったが、これも松崎天民の証言であるが、一回の原稿料が5円。明治41年の藤村の﹁春﹂は一回10円で、破格の扱いだったらしい。概ね、一回分2円から7円が相場だそうだ。満洲の日本語新聞だったので、光用の原稿料は一回(1400字前後︶1円ももらえたのだろうか。
光用の経済は、この新聞連載でも余裕を齎さず、明治45年2月21日、都落ちして、金沢市の石川新聞︵明治41年12月創刊︶に社長秘書格で就職した。石川県の町内別の歴史調査や社長の相談役が主な仕事だったようだが、この年の9月には東京に戻ってきた模様だ。
4.﹁奇蹟﹂時代
大正元年9月1日、青鞜から丸一年遅れて﹁奇蹟﹂は書店に並んだ。回覧同人誌でなく二百部印刷されて、書店にも百部を置いた。青鞜が当初千部、最盛期には三千部を刷ったというから、規模はかなり小さい。同人は舟木重雄(1884-1951)、葛西善蔵(1887-1928)、相馬泰三(1885-1952)、広津和郎(1891-1968)、峰岸幸作(1889-1919)、光用穆(1887-1943)ら、途中から谷崎精二(1890-1971)、板橋卓一が加わった。葛西以外は早稲田関係者である。広津和郎によれば20部しか売れない月もあり、通巻9号で潰れてしまった。葛西、相馬、広津などが大正中期から頭角を現すようになり﹁奇蹟派﹂として文学史に名を残すこととなる。葛西善蔵の処女作﹁哀しき父﹂は﹁奇蹟﹂創刊号に発表されたものだが、初期の代表作として記憶されている。その葛西と同人中最も早く知り合い、仲が良かったのが光用である。葛西は徳田秋声に師事したが、相馬御風を介し光用と交誼を結ぶ。文壇登場の場に結びついたのは、光用との友情であった。
光用は、﹁奇蹟﹂第1巻第3号︵大正元年11月1日︶﹁クリスマスの夜﹂を皮切りに、四作の小説を発表している。いづれも強くアピールするものとはなり得ていない。
(1)クリスマスの夜 1巻3号大正元年11月1日pp.5〜12
﹁年の暮れに近い日であった。﹂の一行で始まる恋人たちのクリスマスの宵のスケッチである。知り合って2年以上もたつ精二と豊子であるが、男は生気を失う一方、18になる女は自由で自信にあふれている。今日も、クリスマスの夜に何人の男友達が自分の下宿を訪れるかゲーム感覚で楽しんでいる。それを一番目の男として訪ねた精二は、独り自分の下宿に戻る。何となく責任から逃れたような清々しい心で。すると宿には、豊子からの葉書が到着していた。月明かりの窓外の街を見やりながら、精二は忘れかけていた恋情と自由な気持ちを取り戻すのであった。
叙情性と措辞の新鮮さ、心理の齟齬を女性の自由、男の憂い、或いは狂気の中に探る、これらが光用の小説の特色であろう。時代も、﹁新しい女﹂をキーワードに動いていた。光用も松井須磨子のノラに興味を引かれ、友人らに観劇を勧めている。ただし、光用の作品は文学的、芸術的理解を、拵え物の人形として時代に当てはめているようで、物足らなさを読者は感じることだろう。葛西善蔵が明治44年12月3日の光用宛封書で、﹁僕には君の芸術があぶなしく考えられて仕方がない。滅びるものはすべて美しいという意味で美しく思われて仕方がない、芸術的気分の尊重が、どれほどまで人間の深い、強い処に根を張っているかも疑えば疑われる。︵中略︶醜い、汚いものを避けようという態度は全然同感できない。﹂と言っている事が思い出される。ただし、性を拒否した光用世界に無い物ねだりを私たちはしているのであろう。
(2)高臺 1巻4号大正元年12月1日pp.33〜40
﹁向こうに大きな工場の太い煙突﹂が見える高台に、三日月の夜にやって来た忠篤︵﹁毒酒﹂の登場人物の名でもあった︶と道子。忠篤はかつての恋人︵彼女の結婚により別れた︶ともこの高台を上った。忠篤は恋、愛、慈悲、これらに負担感を持ってしまい、自由な心を希求している。胸に﹁黒い毛虫﹂を持っているような忠篤を道子は言葉でなく、態度で包み込み、接吻を交わす。﹁二人はやがて高臺を下った。﹂
﹁クリスマスの夜﹂の精二と同じような気持ちの忠篤である。女はコケティッシュではないが、どちらも男が考えたような女性像である。性の一歩を超えたところで、道は既に下り坂。男女の心理に亀裂は入るだろう。
(3)メリーゴーランド 2巻2号大正2年2月1日pp.49〜60
雑誌社に勤めていた三浦と磯野は社長と衝突して退社した。本当は三浦は磯野と酒を飲むのが怖いのだが、人寂しくて三浦は磯野を訪ね、海近くの料理屋に泊まる。磯野は次の事業目標が決まっているが、三浦は﹁生けるとしも思われず﹂という気分が払拭できない。翌日、浅草でメリーゴーランドに乗った二人は、一時の高揚した気分と、その後の寂しさを胸に、﹁誰にも妨げられない一人っ切りのベッド﹂を求めて別れる。
上記二作とは変わって、男女間の心理ではなく、会社社会の人間模様をコント風にまとめた作品である。ただし、生に情熱のもてない男とそれと対照的な精力溢れる人物が登場する構造は同じものである。記述がややカリカチャーぽく感じられる部分が新しい。メリーゴーランドは新しい風物なのであろうか。それとも当時としても陳腐になりつつあったのか分からない。
(4)旅立ちの日 2巻4号 大正2年4月1日 pp.22~35
西野と磯村は下宿の一部屋を共有している。今晩12時、西野は植民地の新聞社に就職するために東京を旅立つ、古行李一つ持って。風呂帰りの高揚した気分のまま、西野は和衷協同の哲学、霊魂の充足した幸福と平和の境地を語る。数人の友に送られて西野は無言のうちに、都会の廻る広告燈に目をやりながら旅立って行く。
行動や人物描写に滑稽味を出すのでなく、議論自体におかしみを漂わせている。西野が和衷協同の考えに気づいたのは、生活に行き詰まり、故郷で選挙の応援をした時のことだった。憲法発布の詔勅の内に﹁同胞は相与に和衷協同して帝国の光栄を中外に宣揚し、祖先の遺業を永久に鞏固ならしめねばならない﹂という一節を見つけ狂喜した。これこそ日本建国以来の精神、宇宙存在の常態だと、思いついたと言う。これは本気の議論なのだろうか。当時、光用の周りにいた誰か、もしかしたら﹁奇蹟﹂同人の中に、こんな口吻で息巻いていた人物がいたのかも知れない。西野は続けて、霊魂的感応、霊魂的自覚を口にし、﹁僕は醜い人間よりも美しい花を見るのが好きだ。犬と金魚と牡鹿を愛する﹂とまで言う。先に引用した葛西善蔵の光用宛手紙に、﹁まさかにガラスの鉢へ金魚をいれて、見た眼の美しさを尊重するという意味で気分を尊重しているのではないことはわかっているが﹂という一節があった。葛西への揶揄が西野の発言の中に感じられる。これが﹁奇蹟派の道場主義﹂と宇野浩二が命名した現象だろうか。
宇野は奇蹟廃刊後、同人たちが文壇に出てから、互いに遠慮なく、或いは歪曲して小説の題材にすることを言ったのであるが、白樺、新思潮の同人たちが主張を同じくして結束を保っているのに対し、奇蹟派は時に悪意を持って互いに対していることを、面白がって表した言葉だ。葛西、相馬、広津などが特に個性が強かったようだが、光用にも自身の主張を曲げぬ、批評を受け付けぬ所があったのかも知れない。明治20年前後に生を受けた青年たちの特徴かも知れない。青鞜に集まった同世代の女性たちも、霊、自我の深化を標榜していた。そう言えば、西野の発言にこんな部分もある。﹁霊魂は太陽の如くでなければならない。 物質文明がどんなに僕達を眩惑させても、原始的生活がどんなに僕達を驚嘆させても、太陽は普遍に僕達の上を照らしているのだ。僕達は太陽の如く霊魂的自覚に生きて始めて歓びと力と明察の大いなる主権者となり得るのだ。﹂青鞜の平塚らいてうの﹁元始女性は太陽であった﹂という発刊の辞を彷彿とさせる文言である。ただし、光用自身の思想をそのまま表しているとも思えない。羞恥と韜晦の気味がある。夜の広告燈は贋の太陽である。人工のもの、都会に惹かれるのもこの時代の気分の一面であった。奇蹟の四作品の中で﹁旅立ちの日﹂が最も興味深く読める短編であろう。
﹁奇蹟﹂は翌5月の戯曲号を出すと、後が続かなくなる。光用は5月には小石川区新諏訪町の江戸川館から赤坂区台町の関根医院方に移り、9月の末には同じ赤坂区福吉町保谷方に居を移している。石川新聞後の光用の職はどうなっていたのだろう。生活費はどこから得ていたのであろうか。翻訳でも売っていたのであろうか。少し古い話になるが、明治37
年9月から翌4月まで若山牧水が北原白秋らと止宿した﹁穴八幡の傍の原っぱの中にあるひどいバラック﹂の清致館の宿料は一ヶ月7円50銭であったと、言われている。下宿代だけでも10円ぐらいは必要だ。それに、光用は酒が嫌いでないようだ。これらはどのように融通していたのだろう。光用の次に明らかになる就職は、大正3年、東京毎夕新聞である。
by外栗壮平︵aka.Yモロ︶
光用穆の場合その2
INTERLUDE2
いきなりinterludeから始まる。﹁奇蹟﹂には同人以外のロシア文学翻訳も掲載されたが、2巻4号の小口みち子﹁﹁女﹂三篇﹂︵小説︶は異色の掲載である。女性作者の突然の登場であるとともに、なぜ小口みち子なのだろう、と思ってしまう。青鞜の女性作家たちでも、青鞜の外にいた有力書き手であった岡田︵永代︶美知代、小野美智子、片山広子などでなく、小口が光用、葛西らと同じ誌面に載っているのである。
小口︵こぐち︶みち子(1883-1962)は同人最年長の舟木重雄よりも二歳近く年上で、明治16年2月、兵庫県加東郡社町に教育者寺本武の娘として生まれた。師範学校付属教育養成所後、検定を受けて、明治33年、神戸市立神戸小学校の教師となる。その後、東京の小学校教師、女店員などの職に就く。平民社︵初期社会主義者結社︶に関係して、明治37年婦人の政治参加を認めるよう、誓願運動に従事。明治40年、当時著名な美容師遠藤ハツ子(1862-1933)に入門して美容師︵美顔術技師︶となり、師と共著の﹃新式婦人化粧法﹄を大正3(?)年出版している。歌人としての号は美留藻。﹁へちまの花﹂3号︵大正3年4月︶には﹁柵新道より﹂と題して4首が載っている。
ひなまつり桃のかをりと白酒の香とキュラソオの香とおしろいの香と
パウリスタのイルミネエションがさしまねくあれさしまねく春の夜なりと
﹁へちまの花﹂4号︵大正3年五月︶には﹁小口みち子君一口評﹂として西川文子(1882-1960)、久津見蕨村(1860-1925)、貝塚渋六︵堺利彦1871-1933。﹁へちまの花﹂編輯長)、安成貞雄(1885-1924)、白柳秀湖(1884-1950)、山口孤剣(1883-1920)の六人が短評を寄せている。しぶ六は昔の野趣の抜けないみち子の歌﹁起てよ君、起たぬ男は踏みこえて、乙女主義呼ぶ時なり﹂を引き、蕨村は﹁少し怪しいやつだ﹂と第一印象を述べ、文子は﹁十年前のみち子さんはよく泣きよく笑う天才詩人だった﹂と昔の印象と、﹁みち子さんは天才である﹂と今の生活を伝えている。
﹁奇蹟﹂に寄稿した当時、小口みち子は西川文子、宮崎光子(1885-1916)、木村駒子(1887-1980)、日向きむ子(1886-1967)らと共に﹁新真婦人﹂という雑誌を始めようとしていた︵創刊は大正2年5月1日︶。ジャーナリズムは﹁青鞜﹂の対抗誌として、既婚者を中心とした﹁新真婦人﹂を位置づけ、はやし立てていたが、西川らは婦人問題を明治30年代後半から取り上げていたので、思想研究を中心に雑誌を運営しようとしていた。発行部数は二千、124号︵大正12年9月。関東大震災の月︶で終刊。﹁新真婦人﹂には﹁青鞜﹂関係者の瀬沼夏葉や岩野清子らも寄稿している。小口みち子は小説、歌、評論の他、﹁職業としての美容術﹂﹁婦人の美容研究法に就いて﹂﹁顔のあれない手当﹂など美容関連記事を載せている。同誌には遠藤はつ子の化粧記事もある。
その﹁新真婦人﹂第23号︵大正4年3月︶に山田きよ﹁人魚の夢﹂がある。わずか4ページの作品である。﹁ゆうべの夢というのはねえ。﹂という一文で書き出された小品は、海中を楽しく歩き回っていた﹁私﹂が小さな船にしがみついている男に悪戯を仕掛けようとすると︵そっと後からその男を海へ突き落としてやろうと考えたのです。 私の足許にふみつけて、ひと思いに殺して了えばいい私はそう思ってにっこりしました。︶、後ろに迫る人がいるのに気づき、その人物と交わす会話が中心になっている。後ろの人物は﹁私﹂の半分であり、振り向いて見たら後悔する、と警告する。後ろとは、私の背中であり、過去であり、過去を共有した恋人であり、別れた後悔であり、と色々に想像を進めることが出来る。霊と肉、が当時の流行語であり、精神と肉体、男と女、芸術と俗︵日常︶のように対立概念を想定することが社会の中心にあった。﹁新しい女﹂が出現すれば、それらは行動のみで精神においては完全に自由ではないとして﹁真の新しい女﹂を作り上げられた。人魚が、人と魚の二要素を持つものならば、男女、和洋、雅俗の象徴として大正という、明治と来るべき世界の中間地点であると意識された時代に多くの出現が見られるのも納得の行くところである。
過去を懐かしむ弱い気持ちになった時、人間と意識されていた﹁私﹂は﹁人魚﹂に変身しており、波間を泳ぐその青い鱗の一枚一枚には、先ほど海に引きずり込もうと悪戯心を起こさせた男の憤怒の顔が出現したのであった。﹁人魚の夢﹂は以下のように終わっている。
﹁あヽ﹂と私の半分だと名のる男が後でまた吐息しました、それが恰度夕暮の鐘のように、静かに震えた響をながく引くように、私の胸に伝わらせたのでした。
私の頬に涙が流れました。その涙は夢から現につヾいて、いつかほんとに泣いて居たのでした。
いやな夢じゃありませんか、わたしはきょう一日いやな気持がして居ます。
人魚は両性具有者として描かれている。この時代、変態心理︵通常心理の対立概念。超心理、無意識の意味で使われた︶の研究が始められていたが、山田きよは時代の底流を今私たちに伝えている。山田きよ、或いは三野村きよは﹁新真婦人﹂に9号以来、小説を載せている作者であるが、その人となりは私には全く不明である。
小口みち子に返れば、芝公園清光寺境内に婦人美容法研究会を設立し、三越美容室に関係し、昭和13年時点では京橋2丁目に小口美容室を経営し、東京婦人美容協会理事長を務めた。新真婦人以降も婦人選挙運動に長く従事している。歌の他、俳句、活け花にも趣味を持っていたという。それにしてもなぜ﹁奇蹟﹂に作品を載せているのかは調査が進んでいない。
﹁奇蹟﹂つながりで、雑誌﹁奇蹟﹂と同じ時期に﹁奇蹟﹂という作品、それも人魚と関連する浦島伝説を元としたものがあるので紹介したい。
編輯兼発行人諸岡存︵九州帝国大学医科大学精神病教室内︶、福岡市天神町の南社発行の﹁エニグマ﹂第1巻第2号︵大正2年3月10日︶に載っている土田杏村(1891-1934)作﹁奇蹟﹂がそれである。龍宮から帰ってきて玉手箱を開けた直後の浦島と里人との会話を戯曲仕立てにしたものである。不思議を夢見る若者であった浦島は常に不安を持ち続けていた。龍宮にいても快楽の果てには不安がもたげてくる。不安に促されて故郷の濱に帰るが、急に龍宮から貰ってきた小箱を開けたくなった。元気がなくなり、皺が前身を覆うようになったとき、﹁奇蹟が人の世へ降った﹂という強い自覚を持つことができた。憧れ、不安は消え、何も望まず夢心地の境地に到達することができる。﹁快楽の中に住むのが目的じゃない、幻の中に住むのが目的なのだ﹂と言いつつ、浦島は龍宮へ帰るべく海中へ没し去るのであった。
玉手箱を開けた浦島の心理を﹁奇蹟﹂という深層心理で解明しようとする杏村22歳の作品である。浦島のストーリー以外は必ずしも分かり易いとは言い難いのであるが、生物学、哲学、国文学の研究を在野の立場で進めていった極めて多作の杏村の初期の作品と思えば、﹁奇蹟﹂は杏村を真理解明へと促し続けたエネルギーとも読め、興味深い作品と言えるだろう。海外では浦島が人魚伝説のアンソロジーに組み込まれている。︵例えば、Helga Gebert , "MEERMÄDCHEN und WÄSSERMANNER", 1989, pp.158-166, ' Uraschimataro, Sohn der Insel' ) また、現在の浦島説話研究の第一人者林晃平にも人魚研究がある。なお、エニグマという言葉は同名のプロジェクトがあることで音楽関係では知られているだろうが、ギリシャ・ラテンに語源を持つ、﹁なぞ、不可解な出来事、正体のつかめぬもの﹂の意である。同誌には、土岐哀果(1885-1980)﹁寝臺﹂︵歌︶、久保より江(1884-1941)﹁食卓﹂︵小説︶などが掲載されている。
5.東京毎夕新聞時代
光用は中央、石川の次に東京毎夕新聞に就職する。大正3年2月には在職している。この新聞は中江兆民を主筆に明治31年2月に創刊された毎夕新聞の流れを受け、明治40年9月2日から東京毎夕新聞となったものである。第二次世界大戦の新聞統合まで続いている。中央新聞と同じく、政友会系で、株式報道、社会面に力を入れていた。毎夕には光用の親友永代静雄が前年の大正2年から勤めていた。
中央新聞時代の後、永代は明治44年に富山日報、45年は日本週刊新聞の記者を務め、中央の前に在籍していた︵明治41〜42年︶毎夕新聞に戻った。永代は田山花袋の小説﹁蒲団﹂︵明治40年8月︶の登場人物田中秀夫のモデルで、同志社、早稲田に学んだことがあり、早稲田時代に光用、安成二郎と親交を結んだ。﹁蒲団﹂では良いイメージで描かれていないが、実際は才もあり、実務に長けた人となりである。﹁蒲団﹂の直後は、その悪い印象の描写で、就職もままならなかった。読売新聞では文芸主任正宗白鳥から、﹁蒲団﹂のゆえ就職を断られている。しかし、各紙で実績を積み、東京毎夕新聞に腰を落ち着けてからは、大正7年に社会部長、8年には編集局長と進み、大正8年11月退社後に光用らと新聞研究所を設立している。近年、横田順彌がSF作家としての永代静雄を再発見していたり︵﹁日本古書通信﹂1996 年7月号、8月号︶、﹁不思議の国のアリス﹂の初期紹介者としても︵﹁翻訳と歴史﹂3号、2000 年11月。川戸道昭﹁永代静雄と﹁トランプ国の女王﹂︶研究され、田山花袋絡み以外にも業績が注目されている。国会図書館で所蔵が確認できるのが11冊。﹃新島襄言行録﹄︵明42)、﹃アリス物語﹄︵大元︶、﹃逗子物語﹄︵大2︶、﹃都会病︵ルネ・パザン原作︶﹄︵大2︶、﹃黒姫物語︵少女小説︶﹄︵大3︶、﹃女皇クレオパトラ﹄︵大3︶、﹃独逸工業の発達︵訳︶﹄︵大4︶、﹃大ナポレオンの妻﹄︵大5︶、﹃天体旅行﹄︵大7︶、﹃透視液︵探偵小説︶﹄︵大7︶、﹃外相の奇病﹄︵大8︶。他に横順が指摘する作品に、﹃終篇不如帰﹄、﹃カイゼル代表演説集﹄がある。
光用は毎夕時代は、赤坂区福吉町に下宿していた。永代は毎夕在籍中に著作を出版しているが、光用にも翻訳が一冊ある。袖珍本の、﹃宇宙戦争﹄、勿論H.G.ウェルスの原作である。
十九世紀の末葉には、人はまだ、自分達よりもずっと聡明で、又自分達と異りのない生き物が、一生懸命に人間のする事を見張りしていようなどと、一人だって信じたものはなかった。
と書き出されている406ページの訳書である。赤坂区溜池町33番地、秋田書院︵寺澤栄助︶、大正4年1月1日の発行である。巻末の広告によると、他に、安成二郎﹃ナポレオン警句集﹄、福永挽歌(1886-1936)﹃ビスマーク警句集﹄、永代静雄﹃画家の妻﹄︵ドーデー︶を出版しているが、訳者全員が親しい友人であった。
光用は大正4年には、田口掬汀(1875-1943)の設立した日本美術学院に移っている。東京毎夕に美術部長として戻るのが大正8年秋のことであった。
by外栗壮平︵aka.Yモロ︶
光用穆の場合3︵完結編︶
6.日本美術学院時代
田口掬汀がいつ、日本画、洋画の通信教育機関である日本美術学院を始めたのかは分からない。﹁文章世界﹂現代文士録大正2年の田口の記述では﹁日本美術学院理事﹂、大正4年では﹁日本美術学院主幹﹂となっている。明治45年時点の職は﹁大阪毎日新聞及び東京日日新聞社員﹂となっているので、大正2年3月には小説家から美術出版へと、スタンスを大きく変更しようとしていたと思われる。
掬汀、田口鏡次郎は明治8年、秋田県角館町に、人形師・荒物商の家に生まれた。小学校卒業後、様々な商業、郡役所雇員を経た後、同郷の佐藤義亮︵さとうぎりょう、1878-1951、新潮社の創業者︶の雑誌﹁新聲﹂の編集者となるべく、妻子を故郷に残し単身上京した。﹁新聲﹂の経営が隆文館に替わると、小説専門の社員として萬朝報に入社、その頃流行りの家庭小説作者として人気が出た。義亮が新しく雑誌﹁新潮﹂を明治37年5月に出すと、高須梅渓(1880-1948)、金子薫園(1876-1951)ら旧新聲同人らと、その出版事業を応援した。大正に入ると、劇作に比重を傾けていたが、創作活動は断念して、美術方面に新事業を求めていった。佐藤の他に、平福百穂(1877-1933) も同郷の友人であり、掬汀自身美術評論に筆を染めていた事が転身の背景にはある。掬汀については、孫の小説家高井有一︵本名田口哲郎 1932〜︶が小説﹁夢の碑﹂で扱っている。
光用は初め日本美術学院の講義録、その後、同学院で出した美術雑誌﹁中央美術﹂の編輯に従事した。日本美術学院は﹁東洋唯一の通信美術学校﹂を謳い、一年間の速習で日本画、洋画が学べた。日本画科では、結城素明(1875-1957)﹁画法一斑﹂、吉川霊華(1875-1929)﹁歴史風俗画﹂、中村不折(1866-1943)﹁日本画論及画法﹂、杉浦非水(1876-1965)﹁図案講義﹂、鏑木清方(1878-1972)﹁新浮世絵講義﹂、益田玉城(1891-1955)﹁透視図法﹂、今村紫紅(1880-1916)﹁色彩講話﹂、安田靫彦(1884-1978)﹁古画の研究﹂、川合玉堂(873-1957)﹁墨画の練習﹂、寺崎廣業(1866-1919)﹁山水画描法﹂、美術学院編﹁絵画史概要﹂の講座がある。毎号120頁、月刊であるから通巻1500 頁、絵手本説明画400 種を誇っている。洋画講義には藤島武二、石井柏亭、岡田三郎助らが名を連ねている。
大正4年10月、﹁中央美術﹂は創刊された。大正時代には﹁中央﹂と冠した雑誌が目に付く。中央公論、中央文学、中央史壇。創刊号は再版されたので5000部印刷。以後毎月3000 部刷られたという。定価は始め25銭、後30銭、毎号120〜130ページ、赤坂溜池町33番地は掬汀の自宅であるともに日本美術学院の住所でもある。創刊号の個人消息欄には﹁光用穆 赤坂区新坂町八二 北村方へ﹂と光用の転居が報じられている。4年12月の第三号には、光用訳、ピエール・ルイ原作﹁芸術家の勝利﹂が掲載されている。全109頁の内で19頁を占めている。
﹁芸術家の勝利﹂は紀元前400年頃のアテネの画家バラシウスが岩に繋がれ鷲に肝臓を啄まれるプロメテウスを描いたときの逸話を、バラシウスの友人、彫刻家のブリヤキシスが若い弟子達に語る芸術家物語である。英語からの重訳で、アテネがアゼンス、プラトンがプラトーと表記されている。高貴な顔立ちのプロメテウスが苦痛にゆがむ様を描きあぐねていたバラシウスは、マケドニア王フィリップスに征服されたオリンシア人の医師ニコストラタスを奴隷として買い、本物の岩に裸体で縛り付け、肝臓を他の奴隷に突かせて苦痛の表情を写し取った。人々は奴隷を殺したバラシウスを糾弾しようと押しかけるが、高々と掲げられたプロメテウスの荘厳な悲劇の画面を見せられて、深い沈黙に落ちていった。倫理を超えた芸術家を、その話を伝えるもう一人の芸術家は、かつてはその姿勢を肯定していたが、今では疑問を持つようになっている。
顔に憑かれた芸術家の狂気は大正5年2月号﹁早稲田文学﹂所載の、光用の創作﹁人魚﹂でも語られている。
7.人魚と百足
﹁奇蹟﹂時代の創作が習作と位置づけられるなら、﹁人魚﹂は作家となるべく飛躍の作になるものであった。読売新聞大正5年2月3日(7)面﹁二月の雑誌﹂の評者は、
光用穆という人の﹁人魚﹂は狂熱的に時々発作する若い芸術家と其の妻とのことを書いたもので、妻が夫を嫌悪し、恐怖して家出をしては、また帰って来る血の気の多い女心と、夫の生一本な調子とが一寸面白い。文章も不器用ながらに独特の書きかたをしている。
と、好意的に扱っている。﹁光用穆という人﹂という表現に、光用が無名な存在であることが分かる。28頁、400字原稿用紙で50枚前後の作品は、﹁毒酒﹂を別にして、公表された光用作品では最長のものであり、内容的にも力が入ったものとなっている。
﹃つまり彼女は聡明にやったのだろうか? そして何かを学んだのだろうか?﹄
若しこう訊ねる人があれば、私は何の猶予もなく答えることが出来る。
﹃聡明にやったのだ。﹄と。そして﹃何かを学んだのだ。﹄と。
書き出し7行は﹁彼女﹂の事件を伝える﹁私﹂が登場しているが、8行目からは当事者である﹁彼女﹂の一人称形式で家出への顛末が語られる。佐藤春夫や谷崎潤一郎、芥川龍之介らが展開しつつあった犯罪小説の形式を彷彿とさせる書き振りである。結婚二年目の彫刻家夫妻は今まで何事もなく暮らしていたが、生活上の小さな不幸が続くようになり、妻にとって理想の夫と思えたものが、悪魔のように感じられるようになる。妻の告白で最近二ヶ月ばかりのことを知らされるだけで、夫には夫のシナリオがあるのであろうが、表面上は凡庸な芸術家の行き詰まりと奇矯な行動が語られるだけである。時代背景としては、女性の意識向上、その結果として小説家・画家となるものが排出し、しかも彼女らが配偶者を文学・美術方面の男性に求めるようなったことが挙げられる。古くは北田薄氷と梶田半枯、鳳晶子と与謝野鉄幹、田沢稲舟・山田美妙などがあるが、小山内八千代と岡田三郎助、素木しづと上野山清貢、佐藤俊子と田村松魚・鈴木悦、尾島菊子と小寺謙吉、長沼智恵子と高村光太郎等々、芸術家カップルばかりが目に付く。そこに葛藤が生まれないはずはない。また、大正は性や狂気、犯罪の捉え方に海外から新思想が導入され始めた時代でもあった。
等身大の人魚像を造ろうと志した夫は、人魚の顔に悩み、妻の﹁少ししゃくんだ﹂輪郭と﹁大洋の庭に棲んでいる魚のように﹂大きな眼を写そうとする。何と言うことはない、ラファエロ前派のモデルにある顔立ちである。妻は自分の美に始めて気づいたように鏡に見入っていたが、夫は暖かな米粒を妻の顔へ塗りつけたのであった。あたかも、最愛の妻のデスマスクを採るように。そう言えば、数日前に、夫のかわいがっていた雌犬が雄犬と絡もうとしたら夫は雌犬を殺し、﹁最愛のジョン、ここに眠る﹂と墓標を刻んで晴れやかな顔をしていた。妻は﹁悪魔め! 悪魔め! 悪魔め!﹂と思いながら家を出て、その一週間後にまた﹁彼の胸に帰ってきた﹂。人魚は夫の性への象徴でもあり妻の自惚れの姿でもある。また、夫の身体は妻の性の対象であり、妻の語りで事件を追ってはいるが、夫の狂気だけでなく、妻の心理も病んでいることが読者には分かる。時代は佐藤春夫が﹁薔薇病めり﹂と記していた、その頃である。
﹁奇蹟﹂の仲間広津和郎は、﹁洪水以後﹂6号︵1916.5.21)に﹁人魚﹂評を載せている。
これは一寸めずらしい形式の作だ。技巧などは大変うまいものである。︵中略︶全体が一体如何なる作者の思想を現わしたものであるかが、一寸見当がつかない。何処かに、作者の今の生活とは割合に縁遠い、悪く云えば思いつきと云ったような処が見える。
技巧と光用の芸術家気質を指摘して、これからの作品に期待を込めている。広津は早大卒業後、父柳浪の口利きで毎夕新聞社会部に入社している︵大正3〜4年︶。社会部長は永代であった。その後、植竹書院の翻訳部を経て、雑誌﹁第三帝国﹂の後継誌﹁洪水以後﹂の文芸欄を担当、友人らに誌面を提供していた。光用も﹁人魚﹂発表の翌月、同誌に﹁百足﹂を載せている。都会のコントという趣の原稿用紙10枚に満たない小品である。
私とM君が新劇団の試演会︵美しい王妃が敵に包囲された自市民の命と引き替えに、敵将に我が身を投げ出すというもの︶の帰り道の赤電車中で、私の学校時代のクラスメート、脚本家の嶋田金三に出くわす。Mは面識のない嶋田にまるで旧知の友人であるかのように話しかけ、挙げ句には唐突に﹁頭のてっぺんを百足に噛まれた﹂と言い出す始末。更に調子に乗ったMは自分は﹁嶋田湘風﹂だと名のる。湘風とは金三が関係している劇団の首脳であり、私たちの学校の先生の名だ。この部分は﹁嶋田﹂という姓が同じで意味が掴みにくいのだが、当時の雑誌読者には事情が了解されたものなのだろう。光用の母校早稲田の劇団首脳といえば、坪内逍遙と島村抱月がいて、同級には坪内士行がいる。また、Mとは﹁奇蹟﹂の仲間で辛辣な批評眼と悪戯心を持っていた峰岸幸作のことだろうか。Mと金三はその後車中で真面目な緊張状態を保つ。私とMは電車を降りると、晴れ晴れと心ゆくまで笑い崩れた。最後は﹁おゝ、裏切られたる霊魂の一夜よ!﹂の一文で締めくくられている。
これはファルス、ナンセンスなのであろうか。落ち着く先は﹁技巧だけは稀に見るフレッシュな、芸術的なもの﹂﹁他の人がうっかりすると見逃していまいそうに思われるような細かい点を、片意地に捉まえて放そうとしない作者の芸術家的気むずかしさ﹂︵広津﹁人魚﹂評︶の表れと見ればよいのだろうか。直截な読後感が得られないもどかしさがあるが、枝葉には興味ぶかい情報がある。﹁百足﹂では銀座通りのカフエーや赤電車という言葉が目に飛び込んでくる。赤電車とは赤い電灯を点ずる終電車のことで、夜遅く帰る遊客のことも意味する。利他主義の女王の霊魂︵精神︶に触れた高揚感と、銀座をゆく白粉顔の女性に惹かれる遊び心︵肉︶が赤電車に象徴される。赤電車はまた怪しげな雰囲気も持つ。大正10年7月2日﹁東京朝日新聞﹂5面には﹁怪談 赤電車﹂と題して、轢殺された老婆の霊が芝大門金杉橋間に現れると伝えている。﹁人魚﹂ではこんな部分が気になる。夫が妻に﹁人魚とは一体なんだと思うね?﹂と尋ねると妻は﹁人魚は人魚じゃありませんか﹂と即答する。それを受けて夫は更に﹁人に非ず、魚に非ずー人魚は矢っ張り人魚なんだ。和漢三才図会にもちゃんとそう書いてあるんだよ﹂と教える。平凡社東洋文庫本の﹁和漢三才図会﹂には﹁日本紀﹂を引いて﹁その形は小児のようで魚ではなく、人ではなく﹂︵7巻P.183)と述べている。夫はまた、﹁人魚は水から陸へ引き上げられた。いや、彼奴め自分でのこのこやって来たんだ。そして人間と獣と、文明を見た。﹂﹁西洋の人魚は手に鏡を持っているが、俺の人魚は鏡の必要を感じない。彼の胸は鏡のように明らかだ。何ものをも真実に映すことが出来る。﹂﹁人魚は蛇のような冷血動物じゃない。彼の不思議な身体には、人間の血ー殊に温かな女の血が脈打っている。彼らはめすだけだ。俺は彼の表情にセックスの欲望をば、ほんの少しばかり吹き込んでいいかどうかと迷っているんだ。﹂と人魚観を披瀝している。光用の教養としての人魚は西洋文学を学んだ者としてはまあ普通と言えばいいだろう。人間界に惹かれる人魚としてはやはりアンデルセンの人魚姫が下敷きになっていよう。夫婦としての芸術家の危機を基調とはしているものの、そこに人魚が絡むことにはやや違和感が残る。だが、習作後の飛躍を志した作品と﹁人魚﹂はとらえることができよう。広津の出世作が大正6年﹁神経病時代﹂であるならば、大正5年時点での光用の創作は決して遅いものではない。以後が期待されるのであるが、﹁百足﹂後の創作は確認できない。大正4年の後半に結婚したらしい光用は、家庭とジャーナリストとしての仕事に追われたものか、作家としては確立できず人生を送ることとなる。
INTERLUDE3 安成二郎の﹃貧乏と恋と﹄
大正5年1月、安成二郎は短歌集﹃貧乏と恋と﹄を、当時自身が勤めていた実業之世界社から出版した。明治41年3月から大正4年9月まで書き留めてきた短歌を袖珍本に纏めた第一歌集である。内田魯庵、宮田脩、与謝野晶子、大杉栄、薄田泣菫、青柳有美、相馬御風、堺利彦、三宅雪嶺、野依秀一、日向きむ子、生田長江、桜井義肇、杉村楚人冠、原田譲二、水野盈太郎、池田藤四郎、荒野放浪、馬場孤蝶、安成貞雄の計20人からの序と自序を巻頭に置き、﹁児が悲し、里に遣られし児よりも、我が身が悲し、其の日に追はれる﹂で始まる歌集には、永代静雄と光用穆の跋がある。第2首目は安成の歌の中で最も人々の口元にのぼる﹁豊葦原瑞穂の国に生れ来て、米が食へぬとは、嘘のよな話﹂であるが、初期の歌は叙情が勝っている。
海に来て日毎見れども涯無きに心躍りぬ海は我が恋
大空の下に日は照る日の下に海は凪ぎたり海の人魚よ
われは見ぬひとりの乙女波をわけ海に浮かびて憂ひ歎くを
我が恋ふる海の乙女よ海にあるわれらが児らに恙はなきや
﹃われすてゝなど海に行く﹄﹃否あらず人魚の母をもてるわれゆゑ﹄
これらの歌に呼応するように与謝野晶子の﹁序に代えて﹂と題された詩には﹁あれ、見知らぬ舟が通る…… わたしは慄く…… もしやあの舟が先きに 底の人魚を釣ったのぢやないか﹂の聯が最後に置かれている。同詩は﹁闇に釣る船 安成二郎氏の歌集﹁貧乏と恋と﹂の序詩﹂として読売新聞大正4年11月28日(7)面に掲載されている。
安成二郎は当時、野依秀一(1885-1968)経営の実業之世界社の社員として雑誌﹁女の世界﹂の編輯に当たっていたが、﹁うみのにんぎょ﹂というペンネームで同誌に歌を発表している。その後、読売新聞、平凡社に勤務、﹁貧乏と恋と﹂発刊時には口語短歌を中心にしていたが、再び定型歌に戻り、歌誌﹁美奈加美﹂を主催、故郷の秋田魁新報などの歌壇の選者を長く務めた。晩年に纏めた人物随筆﹃花万朶﹄︵昭和47年12月15日、同成社発行︶のあとがきにこんなことを書いている。
私は明治三十八年に秋田から上京した。いろいろの人に会ったが、私の最初の歌集に跋文を書いてくれた永代静雄と光用穆の二人が最も親しい友人になった。殊に光用君は思い出すと懐かしさに堪えない。猪苗代湖の方へ一度、松島から花巻温泉へ一度一緒に旅行もした。紀行文があるが、この本には少し種類が異なるのでいれなかった。光用君は高田の人で雑誌﹃奇蹟﹄の同人でいい小説をいくつか書いている。
﹃花万朶﹄より56年前、29歳の光用は30歳の安成の歌集の跋に、二人の出会い︵明治42年、光用の中央新聞時代︶と、その頃から盛んになった自然主義文学運動の暗鬱感を述べ、当時の安成の歌作に共感を示し、現在の歌風には些かの懸念を述べている。但し、現在の作風が時代の要請なら、安成のこれからの真摯の歩みを信じ、﹁君の最も暗く悲しかった時代を共に歩いて来た僕は、今も亦君に附して歩みたく思っている。 大正四年十一月二十日夜﹂と結んでいる。
8.再び、中央美術時代
﹁芸術家の勝利﹂の翻訳掲載の後、大正5年には光用生署名で﹁アトリエ巡り﹂を、5、7、9月号に書いている。和田英作、中村不折、丸山晩霞の画室と人となりを見開き2頁にまとめたものである。美術記者としての光用を窺えるものであるが、敢えてこの中からは美術の情報でなく、光用の個人的情報を引き出すこととする。
和田英作の巻では、光用が﹁芝琴平町﹂に住んでいたことが分かる。早大時代の雑司ヶ谷から明治時代の光用の東京の住所はたいてい小石川区にあった。芝区には小杉天外の家がある。明治42年白金台町、明治45年君塚町。﹁毒酒﹂を天外との合作として発表していた頃、光用が天外宅に居住していたとする噂は何らかの根拠があると思われる。中村不折の記事では、大正四年の春、日本美術学院から不折の著﹃芸術解剖学﹄がようやく出版されることとなり、その用向きで光用が訪問したことが明らかとなっている。中央美術発刊以前には講義録の他に、単行本の編輯も担当していたことが分かった。
日本美術学院発行の単行本は、大正二年の石井柏亭﹃我が水彩﹄から大正12年の﹃ゴオガンの手紙﹄﹃ルノアルの言葉﹄まで60点程が確認できる。中には定価20円の﹃玉堂画集﹄︵大正7年︶などもある。光用退社後ではあるが、﹃世界現代作家選﹄︵9巻、大正10〜12年︶、﹃泰西名画家伝﹄︵13巻、大正10〜11年︶の大型企画もある。大正12年からは中央美術社になったが、高橋新吉の﹃ダダイスト新吉の詩﹄をはじめ、村松梢風﹃本朝画人伝﹄上中下、﹃現代漫画大観﹄︵10編、昭和3年︶、﹃日本風俗画大成﹄︵10巻、昭和4年︶、﹃妖怪画談全集﹄︵4編、昭和4〜5年︶ら80点余りを出版している。高井有一の小説﹃夢の碑﹄では、新生美術社︵中央美術社︶が円本として﹁日本風俗画集成﹂全20巻、﹁世界妖怪全集﹂全25巻を刊行したことを、﹁新生美術﹂が昭和4年6月、163号で休刊しなければならなかった因としている。高井の﹁世界妖怪全集﹂の説明には、﹁妖怪変化に関する東西の絵画や文献を網羅する企画で、第一線の画家に古画の模写をさせるのを売り物にした﹂とある。実際の﹁中央美術﹂も昭和4年6月、通巻163号で一時休刊、その後昭和8年8月、復刊1号を出し、会員制の雑誌として40号︵昭和11年12月︶まで続いた。﹃妖怪画談全集﹄は昭和4年7月の﹁日本篇上﹂を皮切りに、﹁ロシア・ドイツ篇﹂﹁支那篇﹂と進み、昭和5年8月の藤澤衛彦編纂﹁日本篇下﹂の四冊で終わっている。
﹁妖怪画談全集﹂4冊の内で人魚に関連する部分を取り出してみよう。﹁日本篇 上﹂︵藤澤衛彦編︶に江戸時代の随筆・草紙が元となった59の妖怪話と石燕、芳年らの画が収められている。﹁濡れ女﹂(pp.1-10、石燕﹁濡女﹂図︶、﹁船幽霊﹂(pp.23-25)、﹁龍宮へ行った男﹂(pp.209-213)などの話が注目される。藤澤による物語化が図られているので出典は特定できない。巻頭に原色版、網目版の挿絵があり、石燕﹁栄螺鬼﹂、春泉﹁舞首﹂、國芳﹁海坊主﹂らの海妖怪を見つけることができる。﹁ロシア・ドイツ篇﹂︵アレキサンドル・ワノフスキー編︶で注目すべきは巻頭の図版でベックリンの人魚図が5点見られることだろう。キャプションのままに紹介すると、﹁ドリートンとネライデ﹂﹁波の戯れのまにまに﹂﹁ナヤーデンの戯れ﹂﹁トリイトンの家族﹂﹁海の静寂﹂である。ベックリンの人魚画は、小川未明﹁赤い蝋燭と人魚﹂の発想源として﹁波のたわむれ﹂があったことを上笙一郎が指摘していたり、鏑木清方﹁妖魚﹂発表時に春山武松からベックリンの模倣だと決めつけられたことなどが知られている。また、加門七海の最新長編﹃環蛇銭﹄︵八百比丘尼、海尊・清悦説話の絡んだホラー。講談社、2002年5月25日刊︶pp.355-356にベックリン﹁凪﹂︵海の静寂︶の描写と日本でも15年ほど前にベックリン展︵1987年1月24日〜3月8日、国立西洋美術館︶が開かれてたことが語られている。﹁ロシア・ドイツ篇﹂には他にラッカムの﹁ラインの三姉妹﹂、テグナア﹁海の妖女と人魚﹂などの絵が収められている。物語としては北・中欧、ロシアの伝説が紹介され、その中には﹁スタウフエンベルグの泉の精﹂﹁妖女ローレライ﹂﹁人間になりたがる人魚﹂﹁水の精﹂などがある。﹁人間になりたがる人魚﹂はアンデルセン﹁人魚姫﹂の一部分である。﹁支那篇﹂︵過耀艮編︶には図として﹁山海経﹂から﹁互人﹂﹁冉遺魚﹂﹁陵魚﹂﹁人魚﹂が引かれ、説話では﹁海岸の婦人幽霊﹂︵聞奇録︶、﹁海の怪﹂がある。海の怪とは海中に住む猿のような小人で、古老によると海坊主と呼ばれる生き物らしい。この話は確か岡本綺堂の作にもあった。最後の﹁日本篇 下﹂も藤沢の編であるが、今度は出典が明らかとなっている。注目作は﹁水生神﹂﹁海上の怪﹂︵怪談年男︶である。
﹁妖怪画談全集﹂は光用とは関係ないが、人魚関連で紹介してみた。光用が次に訪ねるアトリエは丸山晩霞の所である。ここでは、光用が、よほど以前から美術評論に関係していたことが分かる。大正三年の東京毎夕時代は社会部であったが、日本美術学院退社後の大正8年に毎夕に復帰した時には美術部長の職に就いている。美術に一家言を有していたことは経歴や創作、中央美術の記事などで推測できるのだが、まとまった著作を目にすることはできなかった。﹁現代美術界総覧﹂と題する著作が有るようなのだが、未だ手にしていない。﹁中央美術﹂第2巻には、KM生著名の﹁ペンネルの工場画﹂︵6月︶、﹁マンシップの彫刻﹂︵7月︶、﹁ドナテルローの二作品﹂︵9月︶がある。海外の雑誌、新聞記事の翻訳と思われる。
3巻、大正6年になると、日本美術学院は本郷区湯島6丁目20に移転している。編集兼発行人は田口掬汀から寺澤栄助に替わる。4月号の個人消息には﹁光用穆氏 小石川区白山前町へ移転﹂とある。前年の10月に赤坂区新坂町から本郷区金助町へ移転し、半年ほどで再移転をしている。白山前町には大正11年時点でも居住が確認できるので、長く棲んでいたものと思われる。大正末から昭和にかけては府下荏原町中延︵洗足下車︶に住まいを移している。本郷時代に光用は結婚した。どうやら﹁人魚﹂発表前に結婚したらしい︵宇田川昭子による︶。相手は、筆者が聞いているところでは、﹃青鞜﹄の女性作家加藤みどり︵高仲きくよ。1888-1922)の妹はるこ︵明治29年1月15日生れ︶である。加藤みどりは光用の早大での同級生加藤朝鳥(1886-1938)の妻であった。朝鳥は大正9年9月から翌年の8月まで爪哇日報の主筆として単身ジャワに渡っていたが、みどりが子宮癌に罹り帰国しなければならなくなった。みどりは信州の父の元で静養していたが、大正10年9月、浅草楽山堂病院に入院した。朝鳥の方は帰国直後は光用方に身を寄せていたらしい。
本郷時代の日本美術学院について、高井は小説中で﹁二階建て五十坪の仕舞屋、階下の広間を学院の事務所、二階を編集室﹂と表現している。大正6年以降は光用の署名記事はない。﹁一記者﹂名義の記事はいくつかあるが、それらが光用のものであるかは分からない。4巻、大正7年の新年号の謹賀新年挨拶(p.160)には、日本美術学院長、伯爵林博太郎、主幹田口掬汀、中央美術編輯部、石井柏亭・鏑木清方・中林僊・小泉勝爾・吉川霊華・光用穆・白木正光、日本美術学院営業部、中村正直・寺澤栄助・安藤清治が︵いろは順︶に名を連ねている。この巻の途中から編輯発行人に掬汀が復帰している。この頃までの田口掬汀の活動で特筆されるものに、大正5年、掬汀の斡旋で五人の日本画家が結成した金鈴社がある。文展の運営に不満を持っていた鏑木清方、吉川霊華、結城素明、平福百穂、松岡映丘が自由な結束の元に大正11年まで展覧会、講演会の開催を中心にまとまったものである。清方、霊華は中央美術編輯に名を連ね、百穂は掬汀と同郷、映丘、素明も日本美術学院の協力者であった。平成7年に、練馬区立美術館で﹁大正の日本画 金鈴社の五人展﹂が開催されている。金鈴社展に出品された作品のみではないが、清方の人魚画﹁妖魚﹂︵大正9︶や素明﹁歌神図﹂︵大正5、人頭鳥身の迦陵頻伽図︶など88点が展示された。
光用が日本美術学院を辞めた事情は分からない。大正8年には結城禮一郎が個人的に出した﹁新聞研究﹂の編輯に携わっている。
INTERLUDE4 第二次﹁早稲田文学﹂掲載の人魚作品
光用の﹁人魚﹂が掲載されたのは﹁早稲田文学﹂第123号︵大正5年2月1日︶であったが、管見に入ったその他の人魚作品としては、第107号︵大正3年10月1日︶倉方寛一﹁人魚の血﹂、第159号︵大正8年2月1日︶須藤鍾一﹁人魚の誘惑﹂がある。
倉方寛一は歌人三ヶ島葭の夫だが、自身も歌を詠む。﹁人魚の血﹂は30首の短歌の総題である。
こひすればかならずいのち死ぬといふ人魚の血かもわがむねに燃ゆ
人魚すら恋するものゝおもかけはむねにゑがくをゆるされたりき
﹁恋すれば必ず命死ぬ﹂とはアンデルセン﹁人魚姫﹂を念頭に置いている歌であろう。﹁人魚の血﹂とは昨年の夏(2001.8.25)に出版された井上雅彦編の人魚アンソロジーの題名でもある。
須藤鍾一(1886-1956)は光用らの一年後に早稲田大学英文科を卒業している。加藤朝鳥と同じ米子中学の出身で、中学在学中は朝鳥、鍾一は文学の双璧であると言われていた。報知新聞を経て大正2年博文館に入社、雑誌﹁淑女画報﹂の編集主任を務めた。早稲田文学への登場は大正7年7月、中村星湖の紹介による﹁白鼠を飼う﹂からである。﹁人魚の誘惑﹂は、妻が郷里に二ヶ月ばかり帰省したので自由になった男が、海水浴逗留中に出会った女を人魚に見立てた小説である。光用作より3年後に発表されたものだが、文章の技巧的なおもしろさはない。男が潜水中、接近する人魚を発見したと思ったことから、旅役者の女と知り合うこととなる。この女がファム・ファタルであった。男は海中での出会い時にKliegerの名画Sireneを思い浮かべている。あるいは、この画から須藤が﹁人魚の誘惑﹂を構想したのかも知れない。須藤には新聞小説に﹁妖魚譚﹂︵国民新聞、大正13年︶があり、気になる存在であるが調査が進んでない。
9.﹁新聞研究﹂時代
﹁新聞研究﹂は結城禮一郎の個人誌とでも云うべき雑誌である。毎号16頁、横組左開き、創刊は大正8年5月5日である。編輯兼発行人は結城、玄文社発行、創刊号は2000部印刷、以後は500 部、非売品扱いである。4号、大正8年11月5日発行まで確認できる。光用の名は誌面のどの部分にも明示されていないが、編輯に当たっていた。多分、光用一人で編輯していたものと思われる。発刊に際して結城は、
雑誌と云う事は出来ぬかも知れぬ。従て発刊と云う言葉も、妥当でないかも知らぬ。別に同志がある訳でもなく、誰に相談したのでもない。只漫然斯んなものでも拵えて見たら自他多少の利益になろうかと思ったまでゝ、事によると此一回だけで後が続かないかも知れぬ。続いても恐らく毎月キチンキチンと出すような事はあるまいと思う。
其れは、私が現在三つも四つも仕事を持って居て、仕事が立て込んで来ると正真正銘、寸暇だもなく迚も斯んな雑誌なぞ作って居る時間がないからである。︵中略︶僅に新聞研究会の方々の原稿を頂戴して、やっと之れだけにしたような次第、顧みて何だか気恥ずかしくてたまらない。︵﹁此雑誌を発刊したわけ﹂︶
と述べている。一号の執筆者は、結城の他に杉村廣太郎、本田増次郎、佐伯好郎、小松緑、永代静雄らである。永代は当時東京毎夕新聞理事であった。結城が明治末に大阪で帝国新聞を発行していた時に永代は記者として勤めていた。帝国新聞は失敗し発行が続かず、永代は東京に戻ってきた。光用と結城の間は永代が結んだものかもしれない。第2号︵大正8年6月25日︶には、﹁此雑誌は元来が個人の道楽仕事で印刷を以て筆記に代えただけです。従て別に代価送料を頂戴せず五百部限りどなたにでも御送りします。御望みの方は御職業明記の上、玄文社内結城禮一郎宛で御申越下さい﹂とある。二号には﹁米国新聞記者の活動振り﹂﹁新聞に関する新刊洋書﹂などの無署名記事があるが、これらは光用の仕事であろうか。
結城禮一郎の当時の肩書きは玄文社主幹。玄文社は御園白粉の販売元伊東胡蝶園の資本で結城が大正5年に設立した出版社である。﹁新演芸﹂﹁新家庭﹂の二誌を中心に出版活動を始め、後には﹁花形﹂﹁詩聖﹂という雑誌も加え、大正時代末までに160 点ほどの単行本を世に送り出した。﹁新聞研究﹂第3号︵大正8年8月25日︶掲載の﹁玄文社の新刊﹂によると、三田文学会編﹃三田文選﹄、田中貢太郎﹃怪談﹄、小田律訳補﹃アルセン・ルパン﹄、岩野泡鳴﹃猫八﹄、長田幹彦﹃絵日傘﹄、渡辺霞亭﹃残月﹄、和気律次郎﹃死刑囚の手記﹄、金尾夏子﹃金か女か﹄、今井藻水﹃人間料理﹄の書名が確認できる。金尾夏子という作者については知るところがないが、玄文社からは他に﹃名ばかりの妻﹄を出している。ともに大正8年の出版である。玄文社は﹁新家庭﹂の発行元ということもあり、女性作家のものをよく出している。素木しづ﹃美しき牢獄﹄︵大7︶、長谷川時雨﹃情熱の女﹄︵大8︶、伊藤白蓮﹃几帳のかげ﹄︵大8︶、中条百合子﹃貧しき人々の群﹄︵大6︶、松村みね子﹃愛蘭戯曲集﹄︵大11)、椙本まさを﹃月見草﹄︵大10︶﹃かたばみ更紗﹄︵大10︶、金井時子﹃涙の底から﹄︵大11︶。大家のものでは、坪内逍遙﹃役の行者﹄︵大6︶、森鴎外﹃蛙﹄︵大8︶、正宗白鳥﹃生まざりしなば﹄︵大13︶がある。
結城禮一郎(1878-1939)は大正13年、玄文社から﹃旧幕新撰組の結城無二三﹄︵﹃お前達のおぢい様﹄︶という父の伝記を出版している。山梨県出身の武田家浪人の医家の家系で、親戚には小林一三、子ども自分の喧嘩相手には前田晃がいた。麻布中学卒業後、国民新聞へ入社、徳富蘇峰の弟子を自認しているジャーナリストである。国民新聞の三面主任として注目を集め、国民新聞から地方の新聞へ出向をして手腕を発揮し、東京毎夕新聞主幹、帝国新聞主幹を経て、玄文社主幹。玄文社の後は、大正14年、中央新聞の副社長、昭和四年には東京市会議員に当選している。アイデアと行動力は抜群だが、持続と成功にややかけるところがある。大正後半には、貴族院研究会の幹部、子爵水野直(1879-1929)の黒幕となる。日支事変以降は、上海で出版活動、文化工作に従事。胃癌を患って上海から帰国、昭和14年10月17日永眠。著書には﹃我が江原素六先生﹄︵大15︶もある
結城は﹁新聞研究﹂に﹁斯様云ふ風に改正して貰らひたい﹂︵1号、新聞紙法改正について︶、﹁新聞局設立の急務﹂︵2号︶、﹁東京各新聞の同盟休刊﹂︵3号︶、﹁新聞同盟休刊のあった後﹂︵4号︶と、新聞行政についての持論を載せている。その合間に、新聞関連の翻訳記事があり、光用が関係しているだろう、とは先に指摘した通りである。終刊号と思われる第4号︵大正8年11月5日︶にもニューヨーク・サン紙の文芸付録編輯主任による﹁文芸記者の任務﹂という記事がある。また、﹁米国最初の婦人記者﹂というシカゴ・ディリー・ニュースからの知識も紹介している。﹁新聞研究﹂の発行は大正8年の秋に終了し、光用は東京毎夕新聞美術部長の職に就いた。なお、玄文社の編集者には、優れた装幀で有名な第一書房(1923-1944)の創業者長谷川己之吉(1893-1973)がいた。
INTERLUDE5 プラトン社の﹁女性﹂﹁苦楽﹂
明治化粧品界の四大ブランドとは、クラブ、御園、ライオン︵明治24年創業、小林富次郎商店︶、レート︵明治11年、平尾賛平商店︶と言われている。白粉の御園は玄文社のパトロンであったが、玄文社に遅れること6年、大正11年4月、雑誌﹁女性﹂の発刊と共に登場したプラトン社は、洗粉から出発したクラブ、中山太陽堂︵明治36年創業︶の資本である。プラトン社については、小野高裕・西村美香・明尾圭造共著﹃モダニズム出版社の光芒 プラトン社の一九二〇年代﹄︵2000.6.20、淡交社︶に詳しい。
プラトン社の看板雑誌﹁女性﹂﹁苦楽﹂に人魚関連の作品が掲載されているので紹介したい。﹁女性﹂(1922.5.〜1928.5)には、原阿佐緒(1888-1969)﹁人魚﹂(1924.7)がある。山六郎(1897-1982)の挿絵入りである。青葉に両側から覆われた森の小径を抜けて、男女が夕暮れの海水浴場に行くスケッチである。女性の海水着姿を人魚に喩えている。男性が語る女性美は散文というより、歌人阿佐緒の言葉となっている。ちなみに原阿佐緒は三ヶ島葭の友人であり︵﹁女性﹂1927.6.に阿佐緒﹁吾が友三ヶ島葭子逝く︵歌︶﹂あり︶、恋多き女性、モダンガールとして知られている。玄文社﹁新家庭﹂が﹁新しい女﹂の雑誌であるとすれば、プラトン社は﹁モダンガール﹂の雑誌と言えるだろう。大衆文学の雑誌﹁苦楽﹂(1924.1.〜1928.5)の昭和2年8月号には、井上康文(1897-1973)﹁海情挿話 海の夫人を恋ふる﹂が掲載されている。井上は民衆、社会派詩人であるので、夏向きの散文詩という趣になっている。母娘と貝拾い、海水浴に興じる青年の思いを綴ったものだ。
渚 桜貝の夢が醒めた。
海の瞳は明るく輝かしく見ひらかれた。
青い空と藍青の海 接吻、その中で、美しい人魚、海の夫人の白い柔かい手や足が、海藻のやうになよなよと漂う。
﹁海の夫人﹂とはイプセンの戯曲の題名にもあり、H・G・ウェルズの人魚小説の題名もThe Sea Ladyであった。井上の海の夫人には山名文夫(1897-1980)の挿絵が付されている。プラトン社は山、山名のデザイナーのほかに、顧問として小山内薫、編集者として川口松太郎が加わっている。翌9月のクラク︵苦楽︶では岡本一平の漫画﹁人魚と青年﹂を見ることが出来る。プラトン社は昭和3年5月、出版活動を停止したが、創業からの六年間に文学書を中心に単行本出版も行っていた。中で注目されるのは、大正13年10月の菊池寛﹃陸の人魚﹄発行であろう。出版社としては10年に満たない活動であったが、御園、クラブとも化粧品メーカーとしては長く続いている。
10.新聞及新聞記者社時代
永代静雄は大正2年に東京毎夕新聞社に再入社する︵以前の社歴は明治41年︶。大正7年に社会部長、大正8年には編集局長に累進する。大正9年10月に、毎夕を退社し、自宅︵小石川区原町︶に﹁新聞及新聞記者社﹂を設立し、新聞に関する専門雑誌﹁新聞及新聞記者﹂を創刊する。光用も行動を共にした。﹁新聞及新聞記者﹂は毎月一回一日の発行、定価50銭︵大正10年︶だったが、大正15年︵第7年︶時点では、毎月2回︵1、15日発行︶で定価は35銭になっている。特別号として日本記者年鑑を発行している。これは後に﹁日本新聞年鑑﹂に発展した。第7年第4号︵通巻82号、大正15年2月15日︶は、全56頁で、大竹博吉﹁大庭柯公氏の行衛を探ねて﹂、松崎天民﹁日本新聞界一百人︵二︶﹂などの記事を載せている。この頃は、新聞及新聞記者社を新聞研究所︵大正11年1月より︶と改め、京橋区南鍋町に事務所を構えている。社名改名と共に、大正11年1月2日より、新聞紙法に則った日刊の﹁新聞研究所報﹂も発行するようになった。大正15年10月15日発行の﹁新聞及新聞記者﹂創刊七周年記念号で、新聞研究所の陣容を確認すると、所長永代、主幹光用、編集部長中村勝治、同幹事中村誠、調査部長氏家司治、総務部長金子清吉、同次長佐藤十三、同次長宮村富男、供給部長松村吉太郎、他所員となっている。昭和9年時点では総勢20〜30人の態勢を維持していた。昭和2年4月には、新聞学院を創設している。これは一年間の専門教育機関で、翌年40名程の卒業生を送り出したが、経済的事情で継続は困難になった。創刊2年目には単行本発行の計画も立てている。企画の永代、実務の光用と、互いに補い合う関係のように思えるのだが、安成二郎は﹁花万朶﹂のあとがきで、
永代の事はこの本にある。毎夕新聞の編集長をして、後に新聞研究所を作り、光用君がその編集長になり、戦争で廃刊するまで一緒だった。光用君が一度肺を病んだとき、永代は冷酷に関係を断とうとしたのに、僕は強硬に反対した。
と述べている。光用の肺患は大正11年に悪化し、大正12年前半には入院生活を送っていたらしい。
安成は大正8年実業之世界社を辞して読売新聞社に転じた。但し、安成は実業之世界社﹁女の世界﹂の巻頭言を大正10年の第7巻にも書いている。その﹁女の世界﹂に光用も登場している。大正10年六月、世界名画物語﹁愛妻の墓場へ詩稿を埋めた画家 ダンテ・ガブリエル・ロセッチの話﹂と、8月号﹁濱田榮子問題真相号﹂のアンケート﹁榮子の死及び周囲の人々を如何に観るか﹂に対する回答である。世界名画物語は巻頭の口絵原色版ロセッチ画﹁モンナ・ボモナ﹂の解説を4頁に纏めたものである。毎回光用が担当している訳ではない。濱田栄子問題とはどのような事件であったのだろう。以下に記す。
INTERLUDE6 濱田榮子事件
大正時代に名家の令嬢が起こした事件で思い起こすものに、芳川鎌子事件がある。芳川顕正伯爵(1841-1920)家の相続人鎌子(1891-1921)が婿養子を迎えるものの、家の運転手と出奔、電車に飛び込むが一命を取り留める︵大正6年3月︶。その後、再び、別の運転手と家出、今回は自殺の心配から芳川家は結婚を許した︵大正7年10月︶。鎌子は伯爵家からの仕送りを断たれ、横浜の借家で困窮の内に死亡する︵大正10年4月︶。鎌子が死亡した2ヶ月後に濱田榮子の事件は起こった。榮子は日本産婦人科学のパイオニア濱田玄達(1854-1915)の娘で相続人であった。玄達は医家大学長を務め、子宮摘出術の新法を案出し、大学教授辞職後は濱田産婦人科病院、濱田産婆学校を開設した資産家でもあった。大正4年2月16日に病没している。榮子には兄がいたが、医者にはならず新橋芸者と付き合っていたため、大正5年廃嫡。但し結婚は認められ、家の援助で洋行している。濱田家には弁護士、医者の顧問がいたが、未亡人と相談の上榮子に医者の婿を迎えようとした。濱田家には玄達の存命中から濱田夫人の甥が食客として同居していたが、榮子はこの年上の従兄弟になついていた。大正8年榮子は家を出、従兄弟の野口と同棲する。子供も生まれるが、生後直ぐ死亡。榮子は結婚の同意と財産の分与を母に求めるが、母は顧問と相談の上拒絶。榮子は談判に来ていたが、大正10年6月17日、猫いらずを呑んで自殺してしまう。榮子の自殺が遺書と共に新聞各紙で報じられ、社会の関心を大いに引いた。
在京各新聞の報道状況を見てみるとこの事件の関心の深さが理解できる。読売新聞では6月21日に事件の一報を載せ、23日からは﹁儚なく死んだ榮子の恋 彼女は何故に世を去り愛人と別れたか﹂の連載をはじめた。これは27日まで5回続き、その後も28、29日と﹁愛と欲の犠牲となった榮子が投げた謎の数々﹂がある。事件の反響の大きさに困惑した濱田家が6月30日に各新聞社通信員を招き顛末を発表した内容が7月2日に載り、3日のよみうり婦人欄には﹁廃娼運動に使われる榮子記念の二千円﹂とあり、廓清会、矯風会に寄付される金額のことが報じられ一連の報道は終わる。6月27日のよみうり婦人欄にも、新婦人協会の佐々木伊都子の﹁環境の無理解不道徳と愛の生活の欠陥 榮子さんの自殺に就ての考察﹂が掲載されている。東京朝日新聞でも事件の一報は21日。22日から28日の7回に渡り﹁濱田榮子 死の道筋﹂が連載され、29日﹁榮子問題の公表に松浦博士上京す﹂と報じ、7月1日の﹁榮子自殺事件 世間の疑惑を解くとて博士の遺言状、遺産、捷彦氏の手紙等公表﹂の記事で収束を迎える。東京日日新聞は特集を組むことはなく、21日、28日、7月1日に関連の報道がある。報知新聞は23日夕刊から報じ始め、24日から3回の﹁在りし日を綴る……手記﹁涙の足跡﹂﹂を連載している。これらを受けて﹁女の世界﹂7巻8号一巻丸まるの﹁濱田榮子問題真相号﹂がある。
その内容は安成二郎の巻頭言﹁濱田榮子の死﹂、﹁濱田家事件の厳正批判﹂として白柳秀湖、佐藤紅緑、永代美知代ら8名の論、榮子の夫野口亮の手記﹁女の世界を通じて私は総てを告白致します﹂、﹁関係者の観た濱田問題﹂同級生ら5人の証言、藻岩豊平・岩野英枝の﹁野口荒木両氏に対する公開状﹂、千葉亀雄、徳田秋声ら72名へのアンケート﹁榮子の死及び周囲の人々を如何に観るか﹂、布施辰治・高島米峰の﹁遺産問題の研究﹂、﹁女子教育家の観た榮子の死﹂17名、﹁事件関係新聞記者の観た真相﹂読売・電通・萬朝・やまと記者、艶頭人﹁榮子事件登場者の裏面﹂などとなっている。
この事件に対するジャーナリズムの態度について、佐藤紅緑(1874-1949)は、
私は総ての新聞を見て、五年前の新聞記者と今の新聞記者とは非常に差違のある事に驚いた。濫に榮子にも同情せず、また濫に榮子を賞賛せず飽込も公平な批判的態度を失わずにこの問題を報道したという事に就ては私は非常に感謝と尊敬とを捧げ度い。六年前に芳川鎌子の事件があった当時の新聞記者は筆を揃えて鎌子を攻撃した。而して当時知名なる婦人教育者達の説を掲載して、右教育者達は口を揃えて鎌子を攻撃した。この時私は或る雑誌に鎌子の心事を弁護した長論文を書いた。︵中略︶其が六年の星霜を経た今日に於て鎌子に対する同情者は続々として出て来た。今度の濱田家の問題に就ても榮子に対する評論は殆んど我々が言葉を費やす必要がない程各新聞記者に依って正当に解釈された。是は何より楽しく思う。
と述べている。榮子に対する同情に関しては、花袋﹁蒲団﹂のヒロインであり、永代静雄の妻となった美知代は、﹁此頃某女学校で以て、生徒に榮子の問題を課し答案をもとめた処、だいぶ榮子に同情し、榮子の自由恋愛を賛美する傾きあると同時に、未亡人たる母君の無理解を云々者が多いようでした﹂と伝えている。もっとも、美知代は自由恋愛は肯定するものの、榮子、女学生らの母親に対する態度には疑問を呈している。光用は新聞の専門家であるが、紅緑とは異なり、報道の真実性に疑問を持っている。
私には新聞記事がー殊に此事件に於いて信頼が出来ません。新聞としては出来る丈客観的に真相を伝えようとしているのかも知れないが、どれも多少づゝ関係人物の誰かのプロパガンダ的色彩を帯びています。死んだ榮子に対しては比較的正確に伝えられているようだが、野口氏や尾越氏︵濱田家顧問弁護士ー引用者注︶や母堂やの事となると甚だ解らなくなります。
その上で事件の評価を保留しつつも、当事者らに人間としての情愛の欠如を見て、﹁本能力の麻痺した世界には如何なる組織も制度も意味がないと思われます﹂と結論を述べている。
11.彼らの死
明治初期の毒婦ものから新聞小説掲載が始まり、明治30年代に家庭小説の流行を見、海外の演劇、小説から﹁新しい女﹂の概念が紹介され、やがて青鞜に集った女性らが﹁新しい女﹂として生きて行く。時代と共に新しい世代の行動様式も生まれ、かつての家庭小説のような事件が実際に起こりジャーナリズムがそれを追う。花咲く﹁新しい女﹂たちの周囲にいた﹁新しい男﹂であった永代、光用らも文学から離れ、新聞研究所を続けて行くこととなる。大正13年版から毎年﹁日本新聞年鑑﹂を刊行し、昭和16年版の発行をみた昭和15年に新聞研究所は閉鎖となった。その間、永代静雄は大正15年に美知代と別れ、翌年、大河内ひでと再婚している。美知代の方は﹁主婦の友﹂記者として渡米、昭和16年、太平洋戦争直前に帰国、妹の嫁ぎ先である広島県庄原市北町に住み、昭和43年、82歳で死去。光用は戦争の最中、昭和18年10月12日、56歳で死亡。永代も腸チフスのため昭和19年8月10日、58歳で亡くなっている。
12.おわりに
光用穆は﹁奇蹟﹂の作家として語られる。大正7年10月19日﹁読売新聞﹂文壇昔話、広津和郎﹁創作本位であった﹁奇蹟﹂﹂に、頭に残っている作品として、葛西﹁哀しき父﹂谷崎﹁黒き夜﹂などと共に光用﹁高台﹂が挙げられている。広津、谷崎の﹁奇蹟﹂回想には、当然光用への言及がある。しかし、﹁奇蹟﹂後に作家としての代表作が無かったため、可能性の小説家は、独り立ちできなかった。﹁人魚﹂は飛躍の作品となるはずであったが、その後がない。資質、性格のなせることだったのだろうか。
近年、白石実三がらみで、宇田川昭子が光用について精力的に報告している。﹁光用穆の白石実三宛未発表書簡︵一︶︵二︶︵三︶﹂︵﹁花袋とその周辺﹂32、33、34号、2000 年6月30日、12月31日、2001年6月30日︶である。また宇田川の監修で﹁白石実三とその時代﹂展が群馬県立土屋文明記念文学館でつい先日まで開かれていた︵2000.4.27〜6.9)が、そこにも光用の言及がある。それらの成果を大いに利用させてもらった。
本来は人魚を中心としたコラムであるが、人魚に関連した人物として光用穆を語ってみた。ただし、人魚につられて道草をだいぶしている。光用と同じ立場の須藤鍾一には多くを費やしていないが、客観的理由は無い。調査が行き届いていないだけである。最後に光用関連の人物の最新研究として、曾根博義﹁加藤朝鳥ノート はしがき﹂︵﹁SAN PAN﹂第�V期第2号、2002 年7月1日︶と横田順彌﹁少年スーパーヒーローの誕生と系譜﹂︵﹁日本古書通信﹂2002 年5月号。永代静雄への言及あり︶があることをお知らせする。
by外栗壮平(aka. Yモロ)