フィリピンにおける虐殺の記憶としての記念碑
﹁ワラン・ヒヤ―日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録
﹂︵石田甚太郎、1990、現代書館︶
︵P158-172︶
一九四五年一月末から三月にかけて、マニラの南部のラグナ州で起こった日本軍の﹁ゲリラ討伐﹂と称する住民虐殺は、秋田歩兵十七連隊長でもあった藤兵団長の命令である。﹃戦史叢書60﹄によると、彼は次のような経過で、﹁ゲリラ粛正﹂を命令した。
﹁兵団長は︵一九四五年︶一月中旬、わが討伐中隊がサンパブロ地区で約十名の死傷を生じ、次いで同二十二日前後に集成討伐大隊が同方面で十数名の死傷を生ずるや、︵一九四五年一月︶二十五日、中隊長以上を会同し、﹃対米戦に先立ちゲリラを粛正する﹄命令を下した。この際、﹃現状をもって推移すれば対米戦を待たず自滅に至る﹄旨を述べ、﹃住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛正せよ、責は兵団長が負う﹄旨を述べた。部隊はこれにより粛正を行った﹂
カランバの場合、前記の本によると、藤兵団第七中隊が﹁討伐﹂にかかわっていたと思われる。﹁至る所ゲリラが跳梁し、住民が匪化する状況下に︵中略︶兵団長は二月初には、︵中略︶︵二︶南部ラグナ湖―タール湖北部方面に新たに備えなければならなくなった。︵二︶のために、種市︵7︶中隊をクエンカからタナウアン、次いでカランバに北進させ﹂ている。種市︵7︶とは藤兵団第二大隊種市第七中隊である。クエンカからカランバまで約四十キロの距離なので、二日もあればカランバに到着可能である。兵団命令を二月初めに受けていれば、虐殺日の二月十二日以前にはゆうにカランバに異動できる。
︵略︶
男たちが集められたアプライヤ小学校の正面に、鉄柵に囲まれて虐殺の記念碑があった。白っぽい石を四段ほど積み上げた壁面の中央のプレートに、タガログ語が刻まれていた。
﹁忘れられない墓碑銘
一九四五年二月十二日、この学校に四百人以上の男たちが、日本軍によって強制的に集められ、ラグナ州カランバのリアールで殺された。
この最悪の運命を悼み、私たちは親愛の情を込めてこの墓碑銘を造った。彼らは英雄であった。
一九六五年二月十二日﹂
︵略︶
バランガイ・サンペロハンは漁師たちの町で、家の隅に丸木舟の廃舟が置かれ、魚の匂いがどことなく漂っていた。汚れた川に架かる手作りの橋を渡ると、小さな広場に出た。その中央に虐殺された人たちの冥福を祈るコンクリートの円柱の記念碑が建っていたが、円柱の台座に当たる部分がだいぶ壊れていた。半年後に訪れた時には日本人の寄附で修理されて、きれいにペンキを塗られていた。
記念碑のプレートには、タガログ語で次のように書かれていた。
﹁一九四五年二月十二日
ここで残酷で恐ろしい出来事があった。残虐な日本軍によって、無実の子どもから大人まで、妊婦から母に抱かれた幼児まで、七十人も銃剣で突かれて焼き殺された。
ここに戦争の犠牲者たちを葬った。
墓碑銘は犠牲者たちに捧げられる。﹂
︵略︶
三叉路に虐殺記念碑が建ち、次のようなタガログ語のプレートが留められていた。
﹁一九四五年二月十二日、このリアールのバランガイで日本軍によって二千人の男性が、ラグナ州カランバから欺かれて集め縛られ、正当な理由もなく銃剣で虐殺された。
一九六五年十一月一日
カランバ・ライオンズクラブ﹂
日本軍によるフィリピン人虐殺の記憶を留める記念碑ですが、これには日本人の寄附も貢献しています。中国の南京大虐殺記念館に対する資金援助に対して国賊扱いする自民党政権や極右団体、ネトウヨらは、フィリピン人虐殺記念碑に対してはどう感じているのでしょうか。
国力の劣る国など無視して構わないという考えなんでしょうか。
同書には、フィリピン人の言葉として以下の内容が書かれています。 ﹁俺は日本の若い人に言ってやりたいな。﹃あんたらの父や祖父がどんなことをフィリピンでやったか、知ってるのかい?﹄って。日本兵はすぐビンタをしたり、歩哨の前を通る時は指を伸ばし、深く頭を下げさせた。それに、理由もなくつかまえて拷問したり殺した。それでも謝らないんだから、ほんとうの友人になるのは難しいよ。まあ、この頃の日本人は英語も話せるから、兵隊とは違っているけどな﹂
同書には、フィリピン人の言葉として以下の内容が書かれています。 ﹁俺は日本の若い人に言ってやりたいな。﹃あんたらの父や祖父がどんなことをフィリピンでやったか、知ってるのかい?﹄って。日本兵はすぐビンタをしたり、歩哨の前を通る時は指を伸ばし、深く頭を下げさせた。それに、理由もなくつかまえて拷問したり殺した。それでも謝らないんだから、ほんとうの友人になるのは難しいよ。まあ、この頃の日本人は英語も話せるから、兵隊とは違っているけどな﹂