賞記 帝國學士院ハ大矢透ノ假名ニ關スル研究ニ對シ本院授賞規則第二條二依リ茲ニ恩賜賞牌及賞金ヲ授與ス 大正五年七月二日 帝國學士院長正三位勳一等男爵 菊池大麓自分は名聞を好むものではないが、渺たる研究に對し恩賜賞を授與せられたるは深く光榮とするところである。 研究すれば研究するほど、一層徹底的の研究を要する問題が起つて來る。そのうちに國語調査委員會は廢止せられたので、茲に自分は專心假名の研究を遂ぐべき決心を定めた。しかしこれには多少の經費が要る。貧乏な自分には困難だ。なんとか方法はあるまいかと、かねて自分の研究に同情を寄せられた上田萬年博士・澤柳政太郎博士等に相談したところが、それは啓明會の補助を仰いだ方がよからうといはれ、同博士等の盡力にて、當分の間年々千八百圓宛の研究費を補助せられることになつた。これが大正八年三月である。當時帝室博物館の總長は故森林太郎博士であつたが、非常に好學の人で、自分に對し奈良で研究した方がよいと勸められ、終に思ひ立つて奈良へ移住し、同年より大正十二年まで、足掛げ五年間同地に居住し、専念研究に沒頭し、大震災の五日前に歸京した。 この奈良の在住中は、正倉院の御本をはじめ、畿内各古社寺その他舊家所藏の古典を出來得るかぎり研究した。恰もよし、正倉院聖語藏の古經卷が修繕のため奈良帝室博物舘内に保存せらるゝに逢ひ、森總長の好意にて、三年間内覽研究の便宜を與へられた。このことはいまなほ自分の感謝措く能はざるところである。この間﹁假名遣及假名字體沿革史料﹂の第二として研究したものは左の通りである。 ●一、地藏十輪經元慶點 大正九年十二月刊 ●一、成實論天長點 大正十一年三月刊 ●一、願經四分律古點 大正十一年八月刊 以上既刊 ●一、聖語藏御本唐寫四分律古點 大正十二年稿 ●一、同阿毘達磨雜集論古點 大正十一年稿 ●一、同景雲寫華嚴經古點 大正九年稿 ●一、同央堀魔羅經古點 大正九年稿 ●一、同菩薩善戒經古點 大正九年稿 ●一、同金剛般若經讃述︵嘉詳點︶ 大正十二年稿 ●一、西大寺本金光明最勝王經古點 大正十年稿 ●一、聖語藏御本成實論︵天長點︶ 大正十年稿 ●一、同唐寫説無垢經古點 大正十二年稿 ●一、同華嚴經探玄記古點 大正十二年稿 ●一、東大寺本金剛般若經讃述卷上古點 大正十二年稿 ●一、聖語藏御本十住毘婆娑論序品第一古點 大正十年稿 ●一、同中觀論古點 大正十年稿 以上未刊 ●一、最勝王經古點 大正十年稿 ●一、辨中論古點 大正十年稿 ●一、唐寫阿毘曇經古點 大正十一年稿 ●一、大乘十二門論古點 大正十一年稿 ●一、大乘掌珍論古點 大正十一年稿 ●一、義章問答古點 大正十一年稿 以上未定稿 以上は主として奈良において研究したものである。 大正十二年九月に東京へ歸つてから、奈良において蒐集したる資料を整理し、豫ての研究に成れる﹁韻鏡考﹂を著述し、これを大正十四年に刊行した。實は、去る大正五年に、自分が帝國學士院から恩賜賞を授けられたときに、知り合の學者から、學位請求論文を帝國大學へ提出するやうにと切りに勸められたが、當時自分の考としては、自分の研究には未だ餘地が相當にあると信じたので、知人の勸説に從はなかつた。ところが、奈良在住五年間の研究により、いかなる方面よりするも最早動かすべからざる確信を得た。そこへ京都大學の懇意な諸君からたつての勸めに任せ、大正十二年中、學位請求論文として﹁假名の研究﹂の一篇及び參考論文數篇を提出して置いた。それが同大學文學部教授會において審査の結果、一昨大正十四年、即ち自分の七十六歳の年に左のとほり文學博士の學位を授與せらるゝことゝなつた。
新潟縣 大矢 透 右者論文 假名ノ研究ヲ提出シ學位ヲ請求シ本學文學部教授會ハ之ヲ授與スベキ者ト認メタリ仍テ大正九年勅令第二百號學位令ニ依リ茲ニ文學博士ノ學位ヲ授ク 大正十四年七月三十一日 京都帝國大學この論文は、その後啓明會に報告したので、昨大正十五年同會において刊行されてゐる。 話は前後するが、支那の反切の學問は、文字に對しては最も重要なるもので、したがつて韻鏡と共に假名の研究には須臾も離るべからざるものである。そこでこの反切の起原については、必ず魏の孫炎を稱するを常としてゐる。ところが、自分が研究の結果、李賢注後漢書和帝紀の記述から押して、後漢時代すでに説文音あることを明かにすることを得、同時に魏の孫炎の説は誤りであることもわかる。これらの詳細は拙著について知られたいが、久しく反切のはじめを魏の孫炎となし來れる唐宋以後の碩學鴻儒の確信も、一朝にして東洋における而も自分の如き老學究のために破られたといふも、奇とすべきことである。 つぎに彼の伊呂波四十七字の歌は弘法大師の作として古來言傳へられてゐる。ところが自分の研究によつてそれが誤りであることを發見した。由來延喜以前にありては國語構成の音數四十八あり、ア行のエ衣とヤ行の延とを分別したことは、すべての研究によつて明かになつた。この衣延の辨については往時これに言及した學者がないでもないが、しかし歴然たる幾多の證據を發見したのは自分である。しかして空海作と稱せられる伊呂波歌は四十七字で、ア行のエを缺いてゐるのが第一にをかしい。空海は弘仁・承和の間の人で、正しくこの二音を分別した時代であるから、こんな歌を作るべき筈がない。さらにこの歌の形から見ても空海時代のものではない。まづ平安朝末期と斷定して差支あるまい。 要するに、自分の微々たる研究によつて我國の假名は、支那周代以上の古音と一致するものなること、また延喜以前には國語構成の音數四十八あり、ア行のエとヤ行のとを一般に分別せること、韻鏡なる内外轉の別と四等の別との意義、漢呉音にてサ行の音なる止川等の文字が、假名となつてはタ行の音と呼ばるゝ理由、伊呂波歌が空海の作にあらざること、反切の始が魏の孫炎にあらざること等を明かにした。即ち從來不明なりし諸項のやゝ明かになれるより、少くとも假名そのものゝ成り立ち、假名遣即ち歴史的沿革の状態、その理由等一々實例によつて説明することを得たるは、淺學なる自分にとりては實に勿怪の幸であつた。 自分の研究は全く自分の趣味から出たもので、物質的には少しも縁故のないものであるが、たゞ何か一つ發見し、また一研究が完成すると實に無上の愉悦を覺ゆるので、知らず識らずの間に幾十年を經過した。研究すべき問題はいくらもあるが、自分も昨年七十七歳に達し、老嬴日に加はり、歩行も昔のやうにかなはない。遺憾ながらこの研究を繼續することが出來ない。よつて研究の全部を擧げて、久しく奈良にありて自分の研究の經過を知つてゐる文學士春日政治氏に委托し、ただ今では無聊を醫するために、素人流の文人畫を弄んでゐる。︵完︶