本論の概要
・曽野綾子氏の産経新聞コラムには、第一の誤謬﹁人種主義﹂と、第二の誤謬﹁文化による隔離﹂の二つの問題点がある。
・現状において、より危険なのは、第二の誤謬の方である。
・文化人類学は、かつて南アフリカのアパルトヘイト成立に加担した過去がある。
・アパルトヘイト体制下で、黒人の母語使用を奨励する隔離教育が行われたこともある。
・﹁同化﹂を強要しないスタンスが、﹁隔離﹂という別の差別を生む温床になってきた。
・﹁異なりつつも、確かにつながり続ける社会﹂を展望したい。そのために変わるべきは、主流社会の側である。
産経新聞コラムとその余波
2015年2月11日の﹃産経新聞﹄朝刊に、曽野綾子氏によるコラム﹁透明な歳月の光‥労働力不足と移民﹂が掲載された。
﹁外国人を理解するために、居住を共にするということは至難の業だ。﹂
﹁もう20~30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。﹂
﹁爾来、私は言っている。﹁人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい﹂﹂︵曽野, 2015年2月11日︶
この文面を見る限り、曽野氏は南アフリカのアパルトヘイト︵人種隔離政策︶の歴史を肯定しているように読める。将来の日本が、介護労働者不足を解決するために移民を受け入れるにあたり、同様の政策を提唱しているものと受け止められ、多くの批判を浴びた。
この人物によるコラムには、さまざまな要素が折り重なって存在し、議論は加熱した。移民に対する蔑視、女性への偏見、介護労働に関する誤解、ベストセラー作家としての影響力と過去の言動、現在の政権与党との近さなどの点が、議論の俎上に乗せられた。また、アパルトヘイトを容認する表現が海外の多くのメディアによって報道されることで、人権を尊重しない国として日本に対し厳しいまなざしが注がれることを危惧する立場もあった。
アパルトヘイトは、﹁人道に対する罪﹂と呼ばれている。これが、世界史に名を残す犯罪的な制度であったことは論をまたない。人権尊重を基調とする今日の国際社会において、アパルトヘイトを肯定する思想と表現、提言が受け入れられることはまずありえないだろう。また、近未来の日本においてそのような政策が実行されようとするならば、内外の多くの批判を浴びるはずである。
実際、すでにこのコラムに対しては、南アフリカ共和国モハウ・ペコ駐日大使が正式に抗議を申し入れている。日本国内では、NPOアフリカ日本協議会、日本アフリカ学会有志、大阪大学外国語学部︵旧大阪外国語大学︶スワヒリ語専攻在学生・卒業生有志が抗議の意志を表明した︵本論末のリンク参照︶。国内の新聞各社によってコラムの問題点が報道されたほか、海外でも複数のメディアにおいて、批判的論調による記事が掲載された。
日本の移民政策と外国人労働者のあり方についても、すでに識者によるいくつかのコメントや論考がある。介護の問題も含め、具体的な政策提言については、それぞれの当事者や専門家の方がたの論説に委ねたい。
ここで私が取り上げたいのは、文化人類学者としての問題意識であり、危機感である。文化人類学、すなわち、人間の文化の多様性と普遍性を、とりわけ文化の差異の側面を中心に専門的に扱ってきた学問にたずさわる者のひとりとして、曽野氏の言説が奇妙な共感を呼んでしまう可能性に対し、アパルトヘイトの歴史をひもときながら、あらためて警鐘を鳴らす必要があると受け止めている。
この小論では、曽野氏のコラムおよびその後に追加で公開された言説を分析しながら、二つの誤謬を指摘し、アパルトヘイト期との類似性を指摘しつつその危うさを検討したい。
第一の誤謬:わずかな事例を「人種」と結びつける悪意
曽野氏の第一の誤謬は、人びとの肌の色に関する言説を堂々と新聞紙上で開陳したことである。
同コラムにおける﹁白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい﹂という文面は、どう好意的に理解しても、人間の本質を生まれながらの肌の色により分類して理解する人種主義︵レイシズム︶であるとの非難を免れようがない。
﹁黒人は基本的に大家族主義だ﹂﹁白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住む﹂といった表現は、仮に、ある地域、時代の特定の社会階層の事例において、たまたまそういう人びとが観察されたとしても、肌の色に還元して説明すべきことではない。当該の人びとにおいて営まれていた、文化要素の一つに過ぎないからである。
そもそも、﹁人種﹂自体が、近代になって構築され、強化された概念である。ヨーロッパによる非ヨーロッパ世界の搾取を正当化する、科学的な装いを伴った言説としてもてはやされ、定着した。﹁人種﹂概念がヨーロッパによる世界支配に資する虚構であったことについてはすでに多くの指摘がなされており、それを現実の社会現象を説明するために援用するのは、あまりに不勉強であり、かつ偏見と悪意に満ちている。
南アフリカで自身が見聞したと主張するわずかな事例を、何十億人にも上る世界の人びとに対して拡大適用し、生まれつきそなわった外見的特徴に関連させて決定論的な言説を振りまいたことは、文字通りの﹁人種主義﹂として非難に値する。
第二の誤謬:「文化による分離」の素朴さが孕む危険性
第二の誤謬は、文化を異にする人びとの分離を提唱していることである。
仮に、の話であるが、曽野氏が第一の誤謬である肌の色に関する箇所を撤回したと想定してみよう。そして、改めて、生活様式や言語などの﹁文化の側面に限って注目し﹂、﹁異なるから分けておくことが望ましい﹂と提唱したらどうであろうか。このような言説は、ひそやかに多くの人びとの共感を呼んでしまう可能性をもっている。
実際、曽野氏はコラムの中でも、居住のしかた、水道の使い方、日本における移民労働者の言語など、多くは生活様式や言語の面に関心を寄せて事例を示している。肌の色のくだりは人種主義に他ならないが、実は、この人物の最大の関心は、人種そのものではなく文化の側面にある。それを強調した上で、分離せよと述べている。
このことは、コラムの後に追加して公表された本人の発言からも、裏付けることができる。朝日新聞へのコメントでは、﹁﹁チャイナ・タウン﹂や﹁リトル・東京﹂の存在はいいものでしょう﹂と述べているし︵﹃朝日新聞﹄2015年2月17日︶、荻上チキ氏によるインタビューにおいては、くさやのひものなどの食べ物にまつわる便利さのほか、ジェントルマンたちのチェスのクラブ、女性たちのファッション、さらには、芸術、学問などの営みを例に挙げながら、差別ではなく区別の必要性を強調している︵﹁荻上チキ・Session-22﹂2015年2月17日︶。つまり、この人物の関心は、たえず﹁肌の色﹂ではなく、﹁文化﹂の側面へと向かっている。
これは、一見、リベラルでものわかりのよさそうな言説に見える。自分の文化を守るとともに、表向きは他者を否定せず、自他の違いを認めた上で、別の場所でそれぞれ自由に生きていくことにしましょう、と。文化相対主義をまじめに受け入れ、相互のあり方を尊重しているようにも見える。これは、﹁同じ言語、同じ生活様式を共有する人たちの中で、心地よく暮らしたい﹂という人びとの素朴な感情にも訴える魅力をもち、多くの賛同を得る可能性がある。
しかし、私たちはその言説に潜む罠にこそ、目を向けねばならない。この﹁一見ものわかりのよさそうな他者理解の言説﹂こそが、実は、南アフリカにおけるアパルトヘイトの成立を後押しし、かつ巧妙に存続させた重要な要因の一つだったからである。
以下では、﹁アパルトヘイト成立期の文化人類学の関与﹂と﹁バンツー教育における民族諸語の使用﹂の2点に注目し、これら、﹁差異を承認する言説﹂が陥った過ちを検証していく。
アパルトヘイトの成立を後押しした人類学
白人とそれ以外の住人を、居住地、参政権、結婚、教育、職業などのあらゆる側面で分離したアパルトヘイトは、「前近代的な差別的慣行の残存」のイメージで見られることがあるかもしれないが、そうではない。20世紀に入って次第に強化され、20世紀中葉に完成した、近代国家における法に基づいた制度的な差別である。この政策が導入された背景には、オランダ系移民をルーツとする貧困白人層(プアホワイト)の救済という問題があった。
アパルトヘイトを推進した白人政権は、もちろん政治・経済的な側面を計算し尽くして、計画的にこれを導入したが、この政策に対して文化面での装飾を施し、人びとを同意へと誘った役割を果たしたものの一つに、イギリス系の社会人類学の存在があった(注:「文化人類学」と一般に呼ばれる学問であるが、イギリスではしばしば「社会人類学」の呼称が用いられる)。
この経緯について、明快な指摘を行っている著作を、以下に引用する。
「当時(引用者注:居住区の隔離が法制化されていった20世紀初頭)の隔離政策のブレーンとして、「原住民」の境遇に同情するイギリス系の知識人が積極的に利用された」
「白人権力による征服と抑圧、さらには部分的な同化の容認によって、伝統的なアフリカ人社会は崩壊の危機に瀕していた。白人社会と伝統的なアフリカ人社会を引き離しておくことで、それぞれの集団は、それぞれの価値観に従って生存していくことができる。こうした考え方は、「文化相対主義」を信奉し「原住民の伝統文化の保護」を求める当時の人類学者によって、強く唱導された。」(峯, 1996: 124)
人種による隔離を唱導していた人びとの思想的な立場はさまざまであり、その中にはたとえば人種と社会を明白に序列化してとらえる進化主義者や社会ダーウィニズムの信奉者なども存在していたが、同時に、文化相対主義を唱えるリベラルな人びとが存在していたことが指摘されている(Dubow, 1995)。
たとえば、「文化的適応(cultural adaptation)」ということばが、政治的な場面で称揚され、広く用いられた。「バンツー文化(Bantu culture)」(引用者注:黒人住民の文化)は認知され、奨励されるべきだとし、「原住民の義務とは、黒いヨーロッパ人になることではなく、自らの理想と文化をそなえたよりよい原住民になることである」と述べる者もいた(Dubow, 1995: 162)。
こうした言説が、アパルトヘイトの成立と強化にどのように加担したかについては、たとえば以下のような指摘がある。
「人類学者が人種隔離政策を積極的に提唱したわけではないが、彼らの知的営みは、隔離政策に理論的根拠を与えるものとして、南アフリカ連邦の官僚と政治家に大いに活用された。」(峯, 1996: 124)
当時、強制的な移住や隔離居住区の設置に対して、疑問を抱いたり、心を痛めたりする人びとが一定数存在したことも考えられる。しかし、自他の文化の本質的な差異を強調し、それを承認しようとする、一見して「良心的で、多様性に対し理解を示す」言説が、隔離政策を正当化し、異論を封じ込める側の陣営にいたことは明らかである。少なくとも、文化人類学は、この隔離政策強化の時代にあって、明快な否を唱えてはいなかった。
バンツー教育:黒人には黒人の言語を与えよ
アパルトヘイト成立期に唱導された、﹁黒人には黒人の文化を﹂という、一見、異文化を尊重するふれこみで巧妙に強化されていった隔離の思想は、その後も別の形で政策として実行に移された。その典型が﹁バンツー教育﹂である。本節では、ヘイスロップ︵1999 = 山本訳 2004︶を引きつつ、その巧妙な文化的支配のあり方を見てみたい。
﹁バンツー教育﹂とは、アパルトヘイトの一環として、黒人居住区の子どもたちを対象として計画、実施された教育である。それまでは、ミッション・スクールに丸投げであった黒人教育に、白人政権が乗り出し始めたのである。その背景として、都市部の不就学の黒人若年層が非行に走ることを脅威と受け止める見方があった。同時に、白人層の特権を脅かさない程度に、従順な黒人労働力を調達する必要性もあったとされる。
このバンツー教育として整備された初等教育では、黒人住民たちの母語であるコーサ語やズールー語などの民族諸語が用いられた。さらに、黒人の教員を雇用し、黒人の有力者を学校運営に参加させるといったふうに、自律性を尊重するかのようなリベラルな装いを伴っていた。
しかし、そこには、民族意識をあおり、言語集団ごとに黒人たちを分断するねらいがあった。さらに、﹁ホームランド﹂という、名目上、南アフリカから﹁国﹂として独立させる形式をとっていた黒人自治区の制度にふさわしい政治意識を作り出すことが目的とされていた。
この教育によって、かつては存在していた初等教育における英語へのアクセスの機会は奪われ、英語能力が下がり、中等教育への進学は困難となった。また、白人の学校とは異なるシラバスが用意され、園芸などの実業科目が多く設置された。黒人居住区における中等学校の設立は制限され、初等教育を終えた黒人の生徒たちは低賃金労働者として働くか、遠方のホームランドにある中等学校に通う以外の選択肢をもつことは困難であり、かつ後者の道もきわめて限られていた。
黒人には、黒人の母語による教育を。これは、一見すると今日の多言語主義の思想にも近いかに見える。しかし、それは自らの決定権により選んで行っている自律的な母語教育ではなく、明白な隔離原則のもと、それを補完する目的と効果とともに行われていた﹁強いられた自文化の実践﹂であった。そして、白人支配層にとって脅威とならない、低賃金労働者を供給する役割を負わされていた。
アフリカ民族会議︵ANC︶などの反アパルトヘイト勢力は、このバンツー教育の危険性を早くから見抜き、反対運動を展開していた。ANCの活動家たちは、世界に対して英語によりアパルトヘイトの不正義を告発するという運動を展開し、黒人たちを民族諸語の中に封じ込めるというもくろみは、結局、失敗に終わる。
今日、アフリカ諸国の民衆の間には、母語による教育よりも、公用語である英語やフランス語の教育を望む声が多いと指摘される。なぜだろうか。人びとの記憶の中には、表向き、多言語・多文化に対して理解を示すふりをしながら、その実、政治・経済的な資源へのアクセスを遮断しようとした、南アフリカのアパルトヘイトの歴史がある。このような側面を十分に理解しないままに、安易に文化の差異を強調し、分離を支持することはあまりに軽卒であるし、もしそれが計画的に構想されているとすれば、当然のことながら非難の対象となる。
文化の差異を承認することを、隔離の口実にしてはならないし、また、結果として隔離の事態を招くこともあってはならない。差異を承認しつつも、その差異を越境する自由は、あらゆる人間の基本的な権利だからである。それを、特定の集団や階層に居合わせた者が一方的に否認することなど、できようはずもない。
最終的に、南アフリカはアパルトヘイトを放棄する道を選んだ。反アパルトヘイト活動にたずさわっていた政治犯たちを釈放、全人種参加の総選挙を経て、ネルソン・マンデラ氏が大統領に就任した。弾圧の対象であったANCが政権与党となり、今日の民主社会を築き上げるにいたる。
南アフリカの手話通訳者の事件
2013年12月10日、故ネルソン・マンデラ元大統領の追悼式に手話通訳者として登壇した男性の所作が、まったく手話の体をなしていなかったとして、世界の笑いものになった。この話題は、どうかすると﹁福祉が未整備の後れたアフリカで起きた変わった事件﹂という程度のイメージとともに消費されてしまった可能性があるが、実態はそうではない。南アフリカは、世界に先駆けて憲法で手話を公認した国の一つとして知られている。
1996年に採択された南アフリカ共和国憲法は、アパルトヘイト体制を打破する固い意志とともに制定された、世界で最も民主的な憲法であると言われる。人種はもちろんのこと、性別、民族、性的指向、年齢、障害、宗教、信条、文化、言語、出生など、あらゆる差別の禁止を明確に記している。そして、第6条では、多くの民族諸語と並んで、手話の地位が明確に示されている。
法律の上で手話を公的に位置づけ、大学で手話の研究や教育を行い、世界中の首脳が集まる重要な国家の式典で手話通訳が用意されるという、それこそ日本が達成していないことも含めて、一つずつ実践している姿がある。このデタラメ手話のニュースを世界に対して発信したのは、他ならぬ南アフリカのろう者たち自身であった。ろう者たちの厳しい問題提起を受け、追悼式に続くマンデラ氏の埋葬の場面ではベテランの手話通訳者が配置され、多くの南アフリカのろう者たちが満足したという。
こうした歴史的背景と実態を考えると、南アフリカの手話の事例を笑いものにしている場合ではなかろうと私は考える。そこに見えるのは、﹁手話を話す少数者の差異を承認しつつ﹂﹁それを主流社会に受け入れる﹂という、一見逆の方向を向いているようにも見える、しかし確かに両立可能な二つのことを着実に行っている国の姿である。
南アフリカが、これまで﹁黒人たちの文化の差異を承認しつつ﹂﹁そのまま主流社会から切り離してしまった﹂アパルトヘイトの苦痛に満ちた歴史から学び、克服しようとしている努力の一端を見ることができるポジティブな事例として、私は受け止めていた。
二種類の差別:「同化型」と「隔離型」
この﹁差異の承認と主流社会への受け入れ﹂の問題を、理論的な側面から補っておきたい。
フランスの社会学者タギエフは、次のような指摘を行っている。人種主義には﹁同化型﹂︵assimilation︶と﹁隔離型﹂︵ségrégation︶の2タイプがあり、一方の差別に対する告発は、もう一方の差別を容認してしまう、と︵Taguieff, 1987︶。
仮に、同質であることを少数者に要求する﹁同化型﹂の差別があるとする。これに対する反発として、同化からの解放を求める分離主義が生まれた場合、実はそれが﹁隔離型﹂の差別を招く結果となってしまうことがある。逆に、﹁隔離型﹂の差別に対し、怒りをもって批判する立場がある。しかしそうした主張が、気付かぬうちに﹁同化型﹂の差別を助長してしまうことがある。自分では反差別を唱えているつもりでありながら、もう一つのタイプの差別を招き寄せてしまうことがあるという事態を指摘した、ある意味でシニカルな警句である。
しかし、この命題には、一つ見えない前提がある。﹁もしも、主流社会がそのあり方を変えることがないならば﹂という条件が隠されているのだ。
なぜ、少数者は、主流社会との距離において﹁近寄っても地獄、遠ざかっても地獄﹂の二択の立場に立たざるをえないのだろうか。そして、どちらか一つを選んだ時に、なぜ﹁自己責任﹂の名において、どちらか一方の差別を受忍せねばならないのか。それは、主流社会が自ら一向に変わろうともせずに、少数者に対して一方的に﹁同化か/隔離か﹂の二択の踏み絵を強いているからに他ならない。
少数者たちが差異をそなえたままでありながらも、主流社会とつながり続ける。そのための居場所をともに新たに創ろうとする努力は、少数者のみに課せられた責務ではない。主流社会こそが、その変化のために汗を流すべきなのである。
同化と隔離のはざまで:手話をめぐる共存の課題
この﹁同化/隔離﹂のテーマは、私がかねてより取り組んでいる手話言語とろう者コミュニティの研究の分野でも、先鋭化した課題として立ち現れる。
耳の聞こえない人たち︵ろう者︶は、身体的に、音声言語を習得して用いることが困難である一方で、視覚的な自然言語である手話を世界各地で生み出してきた。しかし、19世紀から20世紀にかけて、主流社会に参加させるためとして、日本を含む世界の多くのろう学校で、手話を教えず、むしろ音声言語の習得を義務付ける教育が行われてきた。この状況におけるろう者たちの反発、怒り、そして苦痛ははかりしれないものがあった。まさに、﹁同化型﹂の抑圧が行われていたと見ることができる︵木村・市田, 1995; 金澤, SYNODOS 2015年2月17日︶。
近年では、音声言語のみによる教育の限界が指摘され、手話の使用を容認する教育が世界で普及しつつある。学校教育から一度排除された手話は、ろう者たちのことばとして復権を果たしつつある時代にある。このこと自体は、少数者の文化の自由が解禁されたできごととして、評価することができる。
しかし、私たちが忘れてはならないのは、それがいつしか﹁強いられた自文化の実践﹂、つまり、﹁差異の承認﹂を口実とした、主流社会からの強制的隔離の事態を招くことがあっては絶対にならない、という強い意志を確認し合うことである。
﹁ろう者たちがそんなに手話を話したいなら、社会の隅の方で勝手に使っていればよろしい﹂というふうに、主流社会がこの言語の存在を軽視し続けていたら、どうなるであろうか。一見、差異を承認し、自由を認めたかに見えて、それは結局﹁同化型﹂差別から﹁隔離型﹂差別へと移行するだけで終わってしまうのである。重要なことは、﹁手話という異なる言語の存在を承認しつつ﹂﹁それを主流社会につなぎとめる﹂ための、何らかの積極的な措置を講じることが必要だという点である。
南アフリカに限らず、手話を国や自治体の公用語の一つと位置づけて、法制化する事例が増えている。ニュージーランドでは、英語と先住民のマオリ語に加えて、ニュージーランド手話が第三の公用語となった。日本ではまだ国レベルでの法制化の動きは顕著でないものの、鳥取県手話言語条例を始めとして、地方自治体レベルで手話を言語として公認し、その使用を奨励する動きが見え始めた。
人びとの多様性に寛容であることを基本として展望しながらも。頭のどこかで、それがアパルトヘイトの再来になりはしないかという警戒心をもって、慎重の上にも慎重を重ねつつ、差異の承認とつながりの確認の両方の歩を進めていく。﹁同化か/隔離か﹂の二択を迫る踏み絵を行うのではなく、主流社会こそが率先して変わる努力を常に伴わせる。
この綱渡りのような繊細な作業を通じてこそ、初めて、文化の差異の尊重と、それを相互に越境し合う自由が両立するものと考える。アパルトヘイトの成立を後押ししてしまった、あのあまりに軽率な人類学者たちの姿を、反面教師として思い起こしながら。
南アフリカのアパルトヘイト撤廃と手話公認の二つの歴史は、多言語・多文化の共存をはかろうとする私たちにとって、得がたい重要な先行事例であり、学ぶべき教科書である。
異なりつつも、確かにつながり続ける社会へ
冒頭のコラムの問題に戻ろう。曽野氏のコラムには、人種をめぐるずさんで悪意に満ちた﹁第一の誤謬﹂があった。ただし、これはあまりに明白な間違いであり、論理的に破綻していて、多くの人びとの賛同を得られないはずである。油断はできないが、たやすく論破することができる点である。
実は、このコラムがはらむ危険性の本丸は、文化をめぐる﹁第二の誤謬﹂にある。こちらは、一見説得的に見えてしまうだけに、かえってその危うさに気付きにくい。
しかし、﹁文化が違うから分ければよい﹂というあまりにも無邪気な言説が、いかに暴力に満ちたものであるか、そしていかに歴史から学んでいないか、すでにお分かりであろうと思う。これは、そのまま﹁隔離型﹂の差別を奨励している。﹁文化的に同質な人たちと一緒にいたい﹂という素朴な心情に訴えかけ、動員しようとする点において、より悪質である。
アパルトヘイトが利用した﹁差異の承認の政治﹂の過ちを何度でも思い起こし、その轍を踏まないために学び直す必要がある。自分たちが、我が手と心でアパルトヘイトを招き寄せてしまうかもしれないという危機感とともに、その負の歴史を引き受ける姿勢が必要なのである。
文化人類学も、その後、大きな変化を遂げていった。かつてのような、自他の文化の差異を固定されたものとして強調する本質主義は、厳しく批判されるようになった。文化相対主義の原則を振りかざすことで、たとえば暴力や差別の存在を開き直ったり、対話を打ち切ったりするなど、文化を一種の﹁隠れ蓑﹂として用いてはならないとの認識も広まりつつある。今日では、常に同時代の他者と出会い続ける学問として、自画像の修正をも重ねながら、﹁文化という枠組みを何らかの絶対的な根拠にしない﹂、相互の理解と共存のために努力し続ける学問の営みとしてある。
軽薄に自他の文化の差異を根拠として、﹁隔離型﹂差別を公然と煽動する新聞コラムの出現。文化を語ってアパルトヘイトを成立させた歴史を忘却し、あるいは隠蔽することで、その再来すら予期されうる今日の状況。こうした事態を、改めて文化人類学徒のひとりとして批判するとともに、通俗的かつ固定的な文化観に基づいた隔離への潮流にうっかりと共感してしまわない慎重な姿勢を、読者のみなさまに呼びかけたい。
新しい、他者との共存のあり方のために。新しい、文化人類学の営みを手にたずさえながら。
■文献
・﹃朝日新聞﹄﹁曽野綾子氏﹁アパルトヘイト称揚してない﹂﹂(2015年2月17日).
・NPOアフリカ日本協議会﹁産経新聞 曽野綾子さんのコラムへの抗議文﹂(2015年2月13日).
・大阪大学外国語学部︵旧大阪外国語大学︶スワヒリ語専攻在学生・卒業生有志 (Facebook).
・﹁荻上チキ・Session-22﹂﹁曽野綾子氏のコラムが波紋、改めて考えるアパルトヘイト﹂︵直撃モード︶(2015年2月17日).
・金澤貴之﹁日本にあるもう1つの言語: 日本手話とろう文化﹂SYNODOS (2015年2月17日).
・木村晴美・市田泰弘. 1995. ﹁ろう文化宣言: 言語的少数者としてのろう者﹂﹃現代思想﹄23(3). 354-362.
・産経新聞コラムに抗議する日本アフリカ学会有志 (Facebook).
・曽野綾子﹁透明な歳月の光: 労働力不足と移民﹂﹃産経新聞﹄2015年2月11日朝刊. 7.
・ヘイスロップ, ジョナサン. 1999=2004. 山本忠行訳﹃アパルトヘイト教育史﹄横浜: 春風社.
・峯陽一. 1996.﹃南アフリカ: ﹁虹の国﹂への歩み﹄東京: 岩波書店.
・Dubow, Saul. 1995. The elaboration of segregationist ideology. In: Beinart, William and Saul Dubow eds. Segregation and Apartheid in Twentieth-Century South Africa. New York: Routledge. 145-175.
・Taguieff, Pierre-André. 1987. La force du préjugé : essai sur le racisme et ses doubles. Paris: Edition La Découverte.
サムネイル﹁Apartheid Museum﹂Joao Vicente
http://urx.nu/hK9h