尾崎紅葉 ︻おざき・こうよう︼ 小説家。本名、尾崎徳太郎。慶応4年1月10日︵旧暦、慶応3年12月16日︶〜明治36年10月30日。江戸芝中門前町に生まれる。幼少の頃に母を亡くし、祖父母の下に育てられる。帝大予備門在学中の明治18年、石橋思案や山田美妙らと硯友社を興し、同人誌﹁我楽多文庫﹂を発行する。当初は戯作風の小説や雑文を書いていたが、坪内逍遥の﹁当世書生気質﹂﹁小説神髄﹂︵明治18,19︶の影響を受け、ヨーロッパ文学に範をとった近代小説の確立を目指すようになる。明治22年4月、﹁二人比丘尼色懺悔﹂によって華々しく文壇に登場し、以降、主に西鶴に学んだ雅俗折衷体の文体を磨きあげ、旺盛な執筆活動を展開する。23歳で結婚した頃には既に文壇の大家と仰がれ、多くの門下生を育成した。明治28年、﹁である﹂調の口語文を彫琢しつくした言文一致体の小説﹁多情多恨﹂を発表、その後の多くの作家に影響を与えた。明治36年10月30日、胃癌により死去。享年35歳。代表作は﹁伽羅枕﹂、﹁三人妻﹂、﹁多情多恨﹂、﹁金色夜叉﹂など。 ︹リンク︺ 尾崎紅葉@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 尾崎紅葉@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説 ‥ 発表年順 初期詩文 ‥ 発表年順 逸文・未定稿 ‥ 発表年順 俳句・俳談 ‥ 発表年順 共同執筆・翻訳 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 逝去の前夜――二十九日の晩は他の友人等は一先づ帰宅して、私だけが残る事になりましたが、私が側に居たら気にかけて却つて病気に悪からうと思つたんで、帰つた体にして階下へ来てちよつと横にならうと為たのは翌三十日の午前三時頃です。所が側に付いて居た者が気立ましく階を降りて来て、今遺言が……と涙ながらに私に報じたので、私も直ぐ行かうと思つたが、家族に対する遺言などには立入らない方が宜いと考へたから少時してもう済むだ頃かと二階の病床へ参りますと尾崎君が私の顔を凝乎︵じつ︶と視て﹁オー石橋! まだ居たのか﹂﹁実は君の容体が余程悪いから僕だけ友人の総名代に残つて居たんだ﹂﹁さうか﹂そこで私は家族に対する遺言もあらまし済んだやうでしたから、何か文学に対する君の意見でもないかと云ふと尾崎君が微笑して﹁僕は今まで筆を執つて……倒れたんだから文学に対してどうかうと云ふ意見は無い﹂と言つたです。つまり尾崎君は筆と共に斃れた――斃れて後已むといふ、常日頃私達に言つて居つた理想を立派に実行したのであるから、此期に及んで兎や角言ふ必要はないと云ふ意味だらうと思ふ。︵中略︶ 将来の文学に対しては、臨終の際には言ひませぬでしたが、何処までも文学者の位置を高めたい、極限すれば、今は書肆に使はれて居るがそれは本末を過︵あやま︶つて居るのだから、著作者を本とし、出版者を末としなければならぬ。それに付ても予︵おれ︶を今少し活して置いて呉れ! 予が食へないまでも文学者の位置を高めて踏ン張つて出版者に一泡吹かして呉れると、死ぬ一週間ばかり前までも言ひ続けて居ましたが、もう其言は耳に残つて居ても、其人は目に見ることが出来ません! 石橋思案﹁紅葉山人追憶録 第六﹂ 明治36年12月 ○風葉君 食物の話が出ましたが、先生は衣食住の中では一番食物に付て趣味を有つて居られた。先生の食道楽と云ふことは世間へも知れて居るのだから今更言ふまでもないのですが、食物の次は住居です。西洋風に住みたいとか、或は斯う云ふ風に住みたいとか平生仰つしやつてでありましたが、いろ〳〵御都合もあることだし住ひに手を着けると大袈裟になるから、其の儘で居られた。一番衣服に付ては淡白であられて、大抵は奥さんの方からそれでは見ッともないから今年は春衣を御新調なさいと督促されて御拵へになる位で、時には結城木綿のじみな千筋か何かの表に花色の裏を付けて、洗ひ張りの糸織ぐらゐの羽織を引ッかけて居られたことも往々ありました。尤もそれは余程後になつてからのことで、私が初めて伺つた時などはモツと木綿づくめでありました。︵中略︶ 衣服は質素が宜い〳〵と云はれましたが、わざと垢の着いた物や、わざ〳〵粗末な衣服を着て、さうして殊更に磊落がると云ふことは非常に嫌つて居られた。元来虚偽と云ふ事が嫌ひな人ですからさうでもありませうが、何かでも此のがると云ふ事が大嫌でした。それから礼容を重んじられる方ですから、不断は粗服でも、礼服と云ふことに付ては頻りにやかましく言はれた。身分相応の礼服なるものは必ず拵へて置かねばならぬ。それには紬が一番出ず入らずであるから、紬の紋服が極平民的で可いと始終言つて居られました。 泉鏡花・小栗風葉﹁紅葉山人追憶録 第七﹂ 明治36年12月 ○鏡花君 前には言文一致と豆腐は大嫌ひだと言つて居らつしやいました。わたくしどもに仰有るのでも、文章は必ずなだらかに、誰にでも易々と分るやうに書け、即ち女中が読んでも合点が行くやうにしなければならぬと云ふので、それは、前に私共が玄関に居た時分に、生意気に新聞を読む下女が居て、例の小説に出るやうな、頬の赤い肥つた美人、それが台所で新聞を読んで居る、あれに分るやうに書かなければならぬ、といふお言葉です。︵中略︶ ○風葉君 先生が文章を御推敲なさることは、誰も知つて居る話ですが、一回なら一回作つて印刷にするまでは幾度となく繰返して読み、且直しもされますが、前に書いた旧作に付ては殆ど二度と読まれたことはないと云ふのは先月拵へたものよりは今月拵へた者の方が必ず良い、又今年の作よりは先年のは必ず劣つて居ると云ふ御自信でありました。それで御病気中先生は御退屈だと仰しやるから、何か慰める方はないかと考へて、門下の者が朗読会を先生の御病床でしやうと云ふやうな議がありました。先生は古人の良い作を読んだら面白からうと云ふ御話でしたが、其の間に先生の御旧作をお慰みに挟むんで読んだらどうでせうと申上げたら、自分の作を読まれるのは寧ろ苦痛である、拙い旧作などを読まれるのは御免だと仰ッしやつたのです。 泉鏡花・小栗風葉、同上 私は又尾崎君から大分本を借りました。就中西鶴本などは、尾崎君に依て初めて知つたのです。其時分私は貸本屋の本ぐらゐを読んで居たので、貸本屋には西鶴本などは無いから、西鶴と云ふ名は聞いたがどんな事を書いたのか知らない。尾崎君は淡島氏などへ往つて珍書を漁つて、西鶴の﹃一代男﹄、﹃一代女﹄などを写したのです。それを私に見せて呉れた。私も其頃は写物を盛んにやる時分だから尾崎君から借りて写した。写本の又写本です。﹃五人娘﹄は露伴君に借りて尾崎君が写したのを、私が又借りて写した。所が私は塾に居る時分で﹃好色一代男﹄の好色と云ふ字が困る。塾の風紀に関すると云ふので公然写す訳にはいかない。そこで夜他の者の寝しづまつた頃に、コソ〳〵写したから中々手間取りましたが、尾崎君が、それを読んで仕舞つたら、之を読み給へと云ふやうな事で、今まで知らなかつた西鶴本や、蒟蒻本を見ることを教へられた。併し私は面白いと敬服して居つたけれども、其文を学ぶほどの勇気はなかつたのです。 巌谷小波﹁紅葉山人追憶録 第一﹂ 明治36年12月 私と一緒に玉を突くことがあつたが、いつでも尾崎君が、君は不熱心でいかぬと云つて憤慨するのです。私の方はどうでも宜いと云ふ気で突いて居るんでせう。向ふはちよいとした勝負でもゆるがせにしない。一生懸命です。一度おかしい事がありました。私が元園町に居る時分で直き近所に玉屋があつて、其処へ二人で二時頃から行つて玉を突いたです。所が私は五時に宴会に招ばれて居るので先に帰つて仕舞つた。さうして十時頃に宴会から帰つて寝やうとすると表を叩く者がある。見ると尾崎君なんだ。どうしたんだと言つたら、今迄玉をついて居たがくたびれて帰れないから泊めて呉れと言ふんです。さう云ふ風に凝り出すと極端に走る男で、自分でも其の弱点は知つて居るが、調子が狂ひ出すとさういかないんですナ。又弓でもさうです。引き出すと非常に凝る。写真にも大分凝りましたが、写真器械を持つて、一日歩いて写さずに帰ることは幾らもある。併し写真だけは成功しなかつたやうです。私が欧羅巴に居る時分も、今度君の子供を写して送つてやるなどと言つて寄越した事は度々ありましたが、写すといつでも失敗すると見えて、遂に一枚も呉れませんでした。 巌谷小波、同上 紅葉は親分肌で、門下や友人の面倒を能く見た。が、厚意を難有がつて感謝しないと不機嫌だつた。殊に門下生に対しては、七尺去つて師の影を踏まずといふやうな厳格な奴隷的道徳を強圧した。﹃青葡萄﹄といふ作に、自分は鞭と縄とで弟子を薫陶するといふやうな事を云つてるが、門下の中には往来で摺違つた時、ツイ迂闊して挨拶しなかつたといふので群集の中で呼留められて、新兵が古兵にトツチメられるやうに威丈高に叱られたり、正月の年始が遅れたとか近火の見舞を云はなかつたとか云ふので勘気を蒙むつたりしたものもあつた。 門下生ばかりでなく、友人関係の同人に対しても草創時代の同輩は別として、後進生に対しては世話もする代りに先輩の権威で臨んだものだ。︵中略︶ こんな塩梅に人の世話もしたが十分感謝して自分を立てないと満足しない親分肌通有の欠点をも持つてゐた。夫でも後進生や門下生が帰服してゐたのは紅葉が文壇に勢力があつたばかりでなく、尋常ならぬ熱情と親切とを持つてゐたからであつた。紅葉は人に叱言を云ふ時は涙をポロ〳〵覆して、之ほど俺の云ふのが解らないかと泣く事が珍らしく無かつたさうだ。此熱情と此親切とが有つてあれだけの門下を養成し、多数の硯友社員を一身同体の如くに率ひて活動する事が出来たのであらう。紅葉は確に人に長たる親分的性格を有つてゐた。 内田魯庵﹁硯友社の勃興と道程﹂ 大正5年3月 尾崎が文章に苦心するのは其時分から一通りではなかつたので、たとへばどんな零砕なものでも容易に書捨てにはしなかつた。一寸した例を言ふと、ある日学校に居つて講義を聴いて居つたときに、尾崎は熱心に傾聴して何かノートブックに書いて居る。重な学科ではなかつたし、別に筆記を要する程のものではなかつたので、寧ろ不思議に思つて居た。すると時間が済んで講義が終つてからもまだ何か書いて居る。皆が席を立つたのに未だ残つて書いて居るから、何かと思つて傍へ行つて見ると、講義の筆記ぢやなくつて一篇の美文なんです。処がそれを仕上げるまでに丁度三日掛つた。僅々二三十行ばかりのものであつたから、一気に書流した儘でも済むのであるのを、中々それでは満足しない、私は初めから見て居たから苦心の跡をよく知つて居る。後に聞くと、家へ帰つてからも殆んどそれに奪はれて了つて、飯を食ひながらも傍に引寄せて見詰めて居る。寝る時にも枕元に置いて見て居るといふ程であつたと言つた。一寸したものにもそんな風で、未だ筆を執つて世に立たない時分からかうでした。 川上眉山﹁紅葉山人追憶録 第二﹂ 明治36年12月 それと初対面の人でも一度君に会へば二度も三度も行きたいと思はせたのは、親切であつた為もあらうし、心に藩離を置かない何時も胸襟を開いて快談せられたと云ふことも一の大原因であつたでせう。非常な能弁家であつた。此の会話が非常に巧みであると云ふことが他の心を引寄せた是も一の原因であつたらうと思はれる。あの人の口に上ると只の俗談平話でも忽ち光彩を放つて活動して来る。実に面白く感ぜしめた。何時かなどは只郊外へ猟に出て小鳥を打つたと云ふ一場の話をしたことがありましたが、別に何ともない事柄であるのに、それを聞いてゐると一種の立派な油絵を見るが如き感じがしたのでした。デ私の思ふに紅葉さんは文章も非常に巧みであるが、弁舌の巧みなことは或は文章の上に居りはしないかと云ふ感じを起したことがあります。それで或時私が貴下︵あなた︶は誠に話を巧みに為さるから一つ速記さして御出しになつたら何うです、不用意な自然な所に面白い点があつて、或は苦心の文章も及ばない別趣味の名文が出来ませうと言つたことがあります。﹁イヤ自分でも一つやつて見やうかと思はんこともありませんが、何うも談話といふ奴は音声の抑揚や身振り手真似と云ッたやうなものに大いに助けられて、始めて面白みがあるのだから、口で饒舌つたまゝを速記さしたンぢやァ物になりませんね。それを何うにか纏つたものに為やうとすると、大変に筆を入れなければならんから、其位なら初めから自分で文章を書いた方が宜い﹂と云つて居りましたけれども、私共はあの方の談話は一種の名文であると信じて居りました。 後藤宙外﹁紅葉山人追憶録 第四﹂ 明治36年12月 写真を見るとすぐ分るが、紅葉さんの髪は他の流行とは少し違つて独得の刈方でした。前を房々と長く周囲は極く短かいので、門下の人々も大分之れに習ッて刈ッて居たやうでした。行きつけの床屋は神楽坂の和良店と云ふ寄席の側にあるあれが永年のお馴染みなのです。それに付て思出しましたのがあの人は例へば料理屋にしろ下駄屋にしろ呉服屋にしろ乃至は理髪店にしろ、何でも自分が買ふなり行くなりする所は決して容易に替へると云ふことはなかつた。一旦気に入ッて、其処で決めた上は少々の不都合位では却々︵なか〳〵︶それを捨てないと云ふ工合、それにも余程説がありまして、同じ銭を使ふなら自分の土地に銭を落すのが私の主義ですと云ッてね、実にさう云ふ細かい所まで情合があッて能く注意が行とゞいて居つたのです。 後藤宙外、同上 御覧の通り色懺悔とは此本です。たつた是ばかりの一冊の本だけれども、之を作るまでの先生の苦心と云ふものは一通りでなかつた。此文章などは殆ど幾度直したか分らぬ位です。今になつては尾崎は実にまづいなどゝ云つて、自分の書いた物をひどくけなして居ましたけれども其当時先生が此事に就ては、一句々々自分が練つて〳〵書いた文章なんです。それで、私が此時分遊びに往つたときに、あれは何時だつたか日は忘れましたが、目の下を真黒にして居る。両方とも、不思議な面体なんです。何うしたんだと云つたら、実は此﹃怨言の巻﹄と云ふのがある、此﹃怨言の巻﹄といふ処を書いて居つて、余り自分が思ひ詰めたものだから、ひどく悲しくなつて涙が出たのだ、手に墨がついて居るのを知らずに擦つたものだろうと言つた。これは勿論尾崎に限らず何人にも文章を書くうちに、自分が書いたもので自分が感して筆を止めたり、物悲しくなつて来た為に思はず涙が出る位の事はあるのですが、尾崎には此例が多かつた様です。 丸岡九華﹁紅葉山人追憶録 第五﹂ 明治36年12月
明治24年 明治27年 明治34年
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