2004年10月10日
「著作権法改正要望事項」に対する意見募集
文化庁は、﹁今後の著作権制度の改善に向けた検討の参考とするため﹂として、今年8月、関連団体に法改正に関する要望を募集しました。
その際、さまざまな団体から寄せられた、保護期間延長の求めを、以下で参照できます。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/013/04093001/002.htm
文化審議会著作権分科会法制問題小委員会は、これらの意見を参考にしながら、﹁優先して対応すべき著作権法上の検討課題の抽出・整理を進めている﹂とのこと。
この作業に、幅広い国民の意見を反映させたいとして、意見の募集が行われることになりました。
http://www.mext.go.jp/b_menu/public/2004/04100601.htm
著作権法は、第一条にその目的とするところを掲げています。
大きな目標は、﹁文化の発展に寄与すること﹂。
それを実現する手段として、﹁著作者等の権利の保護を図﹂る。ただしその際、﹁文化的な所産の公正な利用に留意﹂するのだと、法の基本的な立脚点が説明されています。
﹁権利の保護﹂と﹁公正な利用の促進﹂は、共に欠かすことのできない、社会を育てる二本柱だろうと、私も思います。
ただし、関連団体から大波のように寄せられている期間延長の求めがそのまま受け入れられてしまえば、天秤は大きく﹁権利の保護﹂の側に傾き、インターネットという環境を得てはじめて実のあるものとなった﹁公正な利用の促進﹂は、大きく後退してしまうでしょう。
青空文庫が仰ぐ﹁空﹂は、著しく小さなものとなってしまいます。
過去から連綿と続く文化の大河の中で、積み重ねられたものに育まれ、先人に繰り返しに学んではじめて、人は﹁創造﹂に至るのではないでしょうか。
その成果物を、死後、一定期間を過ぎたところでもう一度文化の大河に戻し、次の世代がよりたやすく実りを享受できるようにする。
そうすることで、新たな創造の芽もまた、育んでいく。
過去からの賜り物に、あらたな何かを付け加え、しっかりと未来へ受け渡していくためのこうした道筋を、保護期間の延長は狭めてしまうでしょう。
私はそう考えるので、保護期間の延長には反対する旨の意見を、提出しようと思います。
私たちは今、社会の基本設計に関わる、重大な選択を迫られているようです。
あなたは、著作権の保護期間の延長について、どうお考えでしょうか?
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
﹁著作権法改正要望のパブリックコメントを提出する﹂というサイトが、開かれています。
http://publiccomment.seesaa.net/article/766410.html
★この文章を書いた人→富田倫生★こんな時間に→2004年10月10日 23:33
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こんにちは、富田さん。
本来は私信で送ろうかと思っていたのですが、こちらにパブリッシュされたということで、こちらにコメントします。
みずたまりの﹁ ﹁著作権法改正要望事項﹂に対する意見募集﹂に関する記事を拝見しました。貼られたリンクをたどって、﹁保護期間﹂に関するところの要望も読んでみました。そして今、そのことについてぼんやりと考えをめぐらしています。
私自身、安易な保護期間延長に関しては、到底同意出来るものであるとは思いません。ただ、一部の商品的価値のあるものは著作権継承者︵保持者︶が許諾申請を出す形で、延ばしてもいいのではないかと思っていました。その点では資料281ページから書かれている﹁知財系BLOG運営者会議﹂の考えと同じとほとんど同じだと思います。
そもそも、著作者の死後の著作物に対して私が持っている考えは、芥川龍之介﹁後世﹂の中に集約されています。ですから、ひとまずこの作品をまるままコピーして、言葉でも添えて、文化庁に送ろうと思います。
けれど、私は何を送るにせよ、このままでは安易に保護期間は延長されると思っています。たとえ、実際にその権利の経済的な利害にかかわる渦中の中にいない私のような人間が言ったところで、リアリティのない意見は簡単に退けられてしまう、と思っています。抽象的な正論なんて、この国では受け入れられないものなのだ、という悲観的な考えも、これまでの政府を見ていて感じてしまいます。結局は、経済的な利害がすべて優先される世界に、国に生きているのだ、と。ならば、その土俵で正論を得ない限り、勝つことは出来ないのだ、と。
その土俵の上では、あっさりと抽象的な、道義的な正論は敗れ去ってしまうのかもしれません。少なくとも、●○協会、××協会とやらの方が、明らかに経済的な利害関係の渦中にいるのですから。
けれど、その一方で、●○協会、××協会とやらがどうした、とも思います。
確かに、そこに加わっている人は現在クリエイターであるかもしれません。ですが、その人たちが自分の死んだ後の経済的な利益を云々、やれ50年だ70年だ、ということが、どれだけリアリティのあることなのか。そしてその50年を70年にしろなんていう遠い未来の雲をつかむような意見が、彼等クリエイターたちの本心なのか。
その点に関しては、私は、今作品を作っている当事者の方達が、ちゃんと文化庁に意見を送ってくださるものと、私は信じています。
私が考えているのは、もう一方の側面のことです。著作権保護延長についての当事者は、本当に●○協会や××協会という団体なのか、ということです。
思うに、本当の当事者というのは、来年、あるいはこの数年先のうちに著作権が失効するボーダーライン上の、著作者あるいは著作権継承者なのではないか、ということです。実際に、著作権が延長されるかされないかが決められることによって、お金がもらえるかもらえないか、ということに関係していく人々です。この人たちは、●○協会や××協会なんかよりは、確実に、意見の正当性を持っているはずです。
……と、ここまで考えたところで、ふと思いました。
実際のところ、この人たちはいったいどのように考えておられるのだろうか、と。
1.著作者本人はどのように考えていたのか。
2.著作権継承者はどのように考えているのか。
この意見募集によって、これらのことが伝えられることが、もっとも有用な意見なのではないか、と考えます。
けれども、これらの意見はどうすれば、文化庁に伝わるのでしょうか?
1については、ボーダーライン上にある作家︵﹁死せる作家の会﹂︶で確認出来ます。そして、それらの作家の全集なり作品なりをあさって、そのような意見に該当するものがあれば、文化庁に送る意見として送るに足るものであると思います。
2については、これを文化庁に意見として送付するのは、1よりも困難なことだと感じています。もし著作権継承者本人が気づき、それに関して意見を送るのであれば、それがいちばん良いことなのだと思います。しかし、このような募集の仕方では、どれだけの人が意見を送るのか疑問でもあります。そしてもしこの意見送付に関して、連名による送付が、あるいは意見をならべた形で誰かが代表して送ることができるのであれば、気づいた誰かが著作権継承者たちに意見を取材してくるというのも、ひとつの手段ではないかと思います。
しかし、1にせよ、あるいは2のために取材するにせよ、意見の募集〆切は 平成16年10月21日︵木曜日︶︵必着︶ です。
私一人には、それだけの期間にそれだけのことをする時間もお金もありません。けれど、やれるだけのことはやってみたいと思います。せめて1だけでも、なんとか文化庁に送れるものに仕上げてみたいな、と思っています。
どれだけの作家が、芥川のように後世自分の作品が読まれることについて文を残しているのか、その時点で、ある程度の絶望に立脚しなければならないのでしょうが……
やや、横道にそれてしまうことですが、著作権保護期間の延長とともに、もう一つ気になるのが、出版者の権利を保護せよ、という要望です。
それは、﹁社団法人 日本書籍出版協会﹂﹁社団法人 日本雑誌協会﹂から出されている、 また、著作権の保護期間が経過した著作物や著作物でない情報を掲載した出版物については、著作権に基づく主張はできないため、こうした出版物が自由に複製されることによって出版者が不当なリスクを負うことになる。というようなものです。
たしかに、著作隣接権が、出版者に与えられるべきであるとの意見は、音楽業界などと照らし合わせてみれば、しかるべき要求であろうか、という気もします。ただ、安易にこれが認められてしまうと、いろいろと厄介なことがおきそうです。単にコピーして製本しただけのような複製本︵私に言う﹁愛のない複製本﹂︶にまで著作隣接権が発生してよいとは思えませんし、青空文庫との関連で言えば、底本にしてはいけない、とか、OCRにかけるのはまかりならん、とかいう話も出てくるでしょう。
著作権は、出版者ではなく著作者が有する権利である、ことが、いまだに根付いていない状況が、ますます強まるのではないかと、心配するものです。
なぜ、著作権の保護期間を延長したいのか、というのも、﹁欧米に合わせるべきだから﹂と言っていますが、要は、﹁儲け続けられるだけ儲け続けたい﹂ということとしか思えず、それも、著作者そのものの権利よりも、隣接権の権利者達が、ということなのが、要求を読んで落ち着かないところです。
ちょっと思うんですが、
著作権って、何か作るためのインセンティブを高めるためにあったんじゃないんですか?
著作者本人はもう作っちゃったのでお金儲けできるんならそりゃお金入ったほうがいいだろうし、
著作権継承者って、何やってくれるんでしょうか?
それよりも、もっとたくさんの人たちがいろんなのを作りたい、作れるってほうが面白いと思います。
もっと簡単に色んなのを参照できたり、引用あるいは転用が自由にできるってことと、
作ったときの報酬のバランスが大事な気がします。
まぁ中には、著作権弊害のおかげで美しい作品ができるってこともあるようですが。
<ワラッテイイトモ、>のアラン・スミシーとか。
でもまぁ、僕としてはむしろ短くしてもらいたいくらいです。
まぁいくら言ったところで無駄だろうけど。
てか、いくら法つくったところで無駄だろうけど。
CCCDみたくなっちゃえばいいのに。︵C︶が多すぎ!
︻もう一方の当事者として︼
繰り返しになりますが、著作権法にいう﹁権利の保護﹂と﹁公正な利用の促進﹂は、法が目的とする﹁文化の発展﹂を促していく上で、共に欠かすことのできない二本柱だろうと思います。
何かを表現した人。
相続などによって、表現した人の権利を引き継いだ誰か。
著作権を管理する人と、著作物を商品化する人。
彼等の多くは、主に権利保護の側から、著作権に関わる問題をとらえようとするでしょう。
加えて今、公正な利用の促進という異なった立場から、著作権に関わる約束事や仕組みを構想しようとする、もう一方の当事者が目覚ましい勢いで育っていることを、私は知っています。
新しい人達が次々と現れる様を、日々、この目にしています。
どこで? ここ、青空文庫で。
著作権の切れた作品を、自分の働きによって、誰もが共用しやすい形に仕立てようとする人達が、ここにはいます。
作りためられた作品を味わうことができるのは、晴眼者だけではありません。視覚障碍者の読書支援に、ファイルは活用されています。
ここを利用できるのは、パソコンを使える人だけではありません。自由に使えるファイルを使って、常識はずれの廉価版書籍が作られています。
単に、作品がただで読めるというだけではありません。
一定の約束事に従って作られたファイルは、まとまって巨大な日本語の用例集、漢字使用のデータプールを形成しつつあります。
作者の死後、一定の期間が過ぎたところで著作権を切るという﹁公正な利用の促進﹂を意識した条項は、今、インターネットという新しい社会基盤を得て、大きな意義と可能性を発揮しつつあります。
著作権切れ作品の電子化を世界規模で進める、プロジェクト・グーテンベルクをみてください。
国立国会図書館が押し進める、近代デジタルライブラリーをたずねてください。
まずは、文字の世界から花開いたデジタル・アーカイブの可能性は、今後、さまざまな表現の領域に広がっていくはずです。
インターネットを基盤とした、これらの試みが共に仰ぐ﹁青空﹂は、権利の保護を重視して保護期間を長くとれば、より狭まることになるでしょう。
今、そうすることが、妥当であると考えるのか否か。
青空文庫の作業に関わり、作品に触れ、利用の裾野の拡大を願う人は誰も、著作権問題のもう一方の当事者として、この問いに答えを示す権利をもっていると思います。
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