太宰治 ︻だざい・おさむ︼ 小説家。本名、津島修治。明治42年6月19日〜昭和23年6月13日。青森県北津軽部金木村に生まれる。津島家は津軽の大地主で、父は貴族院の勅選議員。昭和5年、東京帝大仏文科に入学。昭和8年、﹁魚服記﹂、﹁思ひ出﹂を発表し、本格的に創作活動を開始するも、自殺未遂や薬物中毒により生活が荒れ、﹁ダス・ゲマイネ﹂︵昭和10︶など、小説形式の解体を目指した実験的作品が多くなる。昭和13年、井伏鱒二の斡旋により石原美知子と結婚した頃から生活に安定が見られ、﹁富嶽百景﹂︵昭和14︶、﹁女生徒﹂︵昭和14︶など、平明で安定した作品を多く発表するようになる。戦後になると、社会への失望から再び生活が荒れはじめるも、﹁斜陽﹂︵昭和22︶などの佳作を多く発表し、若い読者の賛美と支持に囲まれた。昭和23年6月13日、山崎富栄とともに玉川上水に入水自殺。享年38歳。代表作は﹁ダス・ゲマイネ﹂、﹁走れメロス﹂、﹁ヴィヨンの妻﹂、﹁斜陽﹂、﹁人間失格﹂など。 ︹リンク︺ 太宰治@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 太宰治@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説 ‥ 発表年順 習作 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 井伏君がこの太宰君を僕の家につれて来た。井伏君は太宰という名前を言わなかったようだし、言っても私の記憶に残らなかったかも知れないが、﹃思い出﹄の作者だと言わなかったのは確実である。若しそう言ったら、私はもっと明確に思い出して、その作品の話をした筈だろうから。それより何より驚ろいたのは、この無名の青年の礼儀知らずである。たまたま夕飯時で、スキ焼を出したところが、この青年は黙りこくったまま、一人で牛肉だけを拾って食うのである。もとより豊富な分量の肉が入っているわけでは無く、それをカバーするつもりもあつて、多量のネギや白タキが入っているのである。人は肉鍋に向うとき、一片の肉を食べたら、次はネギなり白タキに箸をつけて、その間にゆとりをつくって、相客が肉を拾う余裕を与えてやるのが普通のようである。それだのに、この新参者はネギや白タキは殆んどかえりみない。そばで給仕していた妻が見かねて、下の方から肉を引きずり出して、﹁どうぞ井伏さん、お肉も‥‥﹂と言っても、井伏君がぐずぐずしている間に平気で取ってしまう。だいたい、僕はかういう態度はとくべつ耐えられない方だが、この時は別に腹もたたなかったのは不思議である。これはその後彼と深く知るようになって分ったのだが、あのおおらかな、真正直なところが出ていたのかも知れない。腹はたたなかったが、困っただけだった。 青柳瑞穂﹁太宰君の思い出﹂ 昭和23年7月 当時、太宰君は船橋に住まっていたが、酷いパビナール中毒で、殆ど外出できぬということだったので、確か十年の十一月の末に、檀君の案内で、僕と山崎が初めて船橋の太宰君の宅に出向いた。一方、太宰君からも、僕たちの来訪を促す手紙や葉書が頻々と来ていたからである。僕と太宰君との一応の親交は、じつにこの時から始まったのである。 太宰君の船橋の宅は、門のところに夾竹桃の植わった、﹁めくら草紙﹂や﹁黄金風景﹂に出てくる、建ったばかりの木の香の新しい借家であった。山崎の実家は播州の造り酒屋なので、その時、家醸の一升罎を用意して行ったが、省線の船橋駅で降りると、通りの一膳飯屋の店先に赤い茹で蟹が旨そうに並べられていたので、酒の肴にそれを買って行ったりもした。けれども、その時、太宰君は茹で蟹はつついたものの、サイダーばかり飲んでいて、尠しも酒を口にしようとはしなかった。そして、時々座敷から姿を消した。檀君は、太宰は奥でパビナールを注射してるのですよと、僕たちに説明した。なるほど、そういえば、太宰君が座敷に戻ってくると、ぽッと頬が赧らんでいて、暫くは見違えるように饒舌になっていた。すると、そのうち、また元気がなくなり、注射に立つという風であった。 浅見淵﹁﹁晩年﹂時代の太宰治﹂ 昭和23年8月 私が太宰君に初めて会つたのは昭和五年か六年頃のことで、太宰君が大学にはいつた年の初夏であつた。私に手紙をよこし、会つてくれなければ自殺すると私を威かくして、私たちの﹁作品社﹂の事務所へ私を訪ねて来た。ふところから短篇を二つ取出して、いま読んでくれと云ふので読んでみると、そのころ私と中村正常が合作で﹁婦人サロン﹂に連載してゐた﹁ぺソコ・ユマ吉﹂といふ読物に似た原稿であつた。﹁これは君、よくない傾向だ。もし小説を書くつもりなら、つまらないものを読んではいけない。古典を読まなくつちやいけない。﹂と私は注意した。外国語が得意なのかと訊くと、一向に駄目だと答へるので、それでは翻訳でプーシキンを読めと勧めた。それから漢詩とプルーストを読めと勧めた。そのころ私は﹁オネーギン﹂を読みかけてゐたが、三分の一も読まないで止してゐた。また漢詩やブルーストを読まうと思つてゐたが、漢詩は二頁か三頁か読み、プルーストも五頁か六頁を読むだけで投げだしてゐた。自分で読まうとして読まなかつたので他人に勧めてみたわけである。さう云ふ当人の私は、とうとうプルーストもプーシキンも読まなかつたが、太宰君は﹁オネーギン﹂を読んですつかり魅了され、再読三読した後で﹁思ひ出﹂の執筆に取りかかつた。それと並行して月に二篇か三篇の割で短篇の習作をした。 井伏鱒二﹁太宰治のこと﹂ 昭和30年10月 この時の旅は、そのことによっても印象ぶかいが、なお忘れられないことがたくさんある、往きに私の持参したポケット・ウイスキイを、熱海までもたせるために、横浜についたら一杯、藤沢をすぎたら一杯などと、瓶の目盛りを考えて協定していたのだが、有楽町を通過する頃からもう飲ませろと言い出して、始めざるを得なかったこと、それから彼が気づかぬのをいいことに藤沢を過ぎても知らぬ顔をしていると、汽車が茅が崎に着くや愕然として一駅ごまかしたといって狂気のごとくわめき出したこと、そして帰りの汽車でも、大磯あたりから乗りこんで来た隣席の紳士の身だしなみのよさに反撥を感じて、わざと毛脛を無作法に突き出したり、その読んでいる原書がカーライルとはあきれると僕に耳うちしてはけらけらと笑いだし、笑い出すとなかなかとまらず、紳士に対して一同はらはらした思いをさせられたことなど、まだ昨日のことのようにあらたである。 彼はよくわらった。わらうというよりは噴き出すと、あの長身を折り曲げ、眉を波うたせ顔中くしゃくしゃにしていつまでもいつまでも笑う。その顔も今はむなしい。どこか遠いところにフェイド・アウトしてしまった。私は限りなくさびしい。 伊馬春部﹁悲劇名詞﹂ 昭和23年7月 外へ出るとすつかり暗く、街の灯が美しい秋の夜であつた。別な店で日本酒をのんだ。芥川龍之介の話が出た。 ――気の毒な人だよ。 と太宰氏がいつた。芥川氏は生前、皆から悪くいはれてゐた人だ、といつた。僕はちよつと気になつた。当時、僕は太宰氏が皆から悪くいはれてゐるかどうか、知らなかつた。一時妙な噂もあつたやうにきいてゐたが、そのころのことは知らなかつた。だから芥川氏に対する単なる同情なのか、それとも太宰氏自身を省みての憐みなのか、判らないのである。が、太宰氏の言葉には、芥川氏への同情と共に好意めいたものが感じられた。︵中略︶ それから話が自殺に移り、太宰氏は自殺を肯定した。そのとき太宰氏はこんなことをいつた。 ――芥川龍之介が自殺したのを、独身のときは、あとに残つた妻子のことを考へ莫迦な奴だと思つた。死ぬなら一人のとき死ぬべきだと思つてゐた。が、自分が結婚して子供も出来てみると、却つて楽に死ねる気がする。 当時独身の僕はむろん、妙な顔をしたらしい。太宰氏は重ねていつた。 ――本当だよ。をかしいだらうが。 それからちよつと笑ふと附加した。 ――しかし。僕は死なないがね。 僕は死なないがね――しかし、かれこれ七年になるであらうか、時代は変移し、肩の上に名声を積み上げた太宰氏は、自ら生命を断つた。 小沼丹﹁﹁晩年﹂の作者﹂ 昭和23年7月 家に着くと、太宰は奥から酒と盃を運んで、私たちに勧めた。 ﹁今夜は飲め﹂と、太宰は改まった断固とした口調で言うと、﹁君たちが、しつかりしなけりゃ、後が続かないじゃないか﹂と、声をはげますようにして叱咤する。彼はときおり、﹁めぐる盃、めぐる盃﹂と言って、私たちの盃にしきりに酒をつぎながら、ひとり堰を切ったように喋り続ける。 ﹁俺は一茶の句は嫌いだが、ひとつだけ、いい句があるんだ﹂と、太宰は言い、 善をつくし美をつくしてもけしの花 という俳句をくちずさんだ。そして、﹁芸術の限界を言ったものだ﹂と、説明した。芸術家で志士というようなものはあり得ないし、芸術家で政治家だったのはネロだけだ、という意味のことも言った。太宰の脳裏には、若い頃の左翼運動のことが閃いていたかも知れないし、戦争と芸術ということについて、私たちになにかを教えようとしたのかも知れない。 ﹁俺はニヒリストだが﹂と、太宰は註釈を加えるように言ったが、﹁芸術はけっきょく虚無を埋める抒情︵リリシズム︶なんだ。水溜りに映る星の光なんだよ﹂と言った。 桂英澄﹁戦時下の一夜﹂ 昭和44年5月 太宰にはじめて会つたのは、いつだつたかはつきり思ひ出せぬ。たしか昭和十一年秋の﹁晩年﹂出版記念会であつたらう。それは上野精養軒で催された。佐藤春夫氏も井伏さんも、そのとき私ははじめて見た。太宰は黄色い麻の着物をきて、仙台平のはかまをはき、誰かが新い足袋をもつてきたの宴会場の入口のところではきかけてゐるところであつた。彼と私は、だまつておじぎをしただけである。出版記念会には全部の出席者がテーブルスピーチを試みた。私も演説をした。﹁病める貝殻にのみ真珠は生れる﹂といふアンドレエフの言葉を彼に送つた。 最期に太宰は立つてあいさつすることになつたが、そのとき彼は非常に健康を害してゐることをはじめて知つた。誰かに傍から支へて貰つて、よろめきながら辛うじて立ち上った。そして暫くのあひだ、何も言へなかつた。皆がしんとして、彼の発言を待つてゐたが、いつまでたつても、何も言はなかつた。口ごもりつゝ、何か言つたのだが、明瞭には聞きとれなかつた。太宰は静かに涙を流しながら、全身を以て感謝の心をあらはしてゐたのである。 彼はふるへる手で、私に﹁晩年﹂を渡した。その扉には筆で大きく、﹁朝日を浴びて、赤いリンゴの皮をむいてゐる、ああ、僕にもこんな一刻。亀井勝一郎兄。﹂とかいてあつた。 亀井勝一郎﹁太宰治の思ひ出﹂ 昭和23年6月 最近はさうでもないが、太宰は服装にひどく凝る。鮎つりの時も、熟考し、ひどく凝つたつもりで、たうとう奥さんのスキーズボンをはいてやつてきたことがある。彼はまた、自分の目だちやすい長身をはにかみ、同じ三鷹に住む元横綱男女ノ川に、ひどく同情してゐたこともある。 いかに野人であるかは、食卓をともにすればわかる。刺身を一度に八枚ぐらゐ食ふ。鮎などは決して好まなかつた。鮎といふ魚は上品で、趣味高き人が食ふ魚であると思ひこみ、とくに師の井伏さんがお好きなので、我慢して食ふといふ次第であつた。彼がほんたうに食べたいのは、﹁津軽﹂に出てくる北方の、あの荒々しい大味の料理なのである。﹁斜陽﹂の中で、ほんたうの貴族は、骨のついた肉など手づかみで食ふとあるが、彼はどこからか聞きこんできて、大喜びで幾たびも話してきかせた。東北流に乱暴に食ひたいのである。それを非常にはにかみ、たうとう﹁貴族﹂をでつちあげてしまふ。彼の﹁貴族﹂の裡には、野生の復讐がある。ダンデイズムは、彼の自嘲である。 亀井勝一郎、同上 その夜、太宰氏はやはり私の視線から目をそらしながら、暗い翳りをたたえたまなざしとは裏腹の、むしろうきうきした口調でこんな話をした。 ――このごろ、真夜中に仕事をしていると、怖くて後ろを振り向くことができないんです。背後に誰かが立ってるんです。女なんです。誰だかはわかりません。しかし確かに立っているんです。振り返らなくても、肌でわかります。だから慄えながら机の上から目が離せない。怖くて怖くて立ち上がることもできません……。 聞いていて私はぞっとした。薄い笑顔で酒盃をあげる太宰氏にむかい合って、目のやり場に困った。 それから二カ月経って、太宰氏は玉川上水に入水自殺した。私は驚愕すると同時にあの夜の話を思い出した。もちろん、それが死と関係があるとは思えない。また、あれはあるいは彼の持ち前の道化癖から、初対面の私へのサービスとして座興ばなしを聞かしてくれたのかもしれない。現に私からそれを聞いた友人の一人は、﹁いかにも彼らしい話だな。しょっちゅうそんな作り話をして自ら愉しんでいるんだよ、彼は。君は初めてのことだから、びっくりしたろうが﹂と事もなげに笑い去ったが、だからそれが一場の座興にすぎなかったとしても、私には太宰治氏の生涯と無縁の作り話とは受け取れず、あのとき感じた鬼気は忘れられない。 木村徳三﹁文芸編集者 その跫音﹂ 昭和57年6月 お宅の近くで警報が鳴つて、お宅へ着いた時には、太宰さんはじめ皆さんは既に防空服装に身を固めてゐられて、ご挨拶もそこ〳〵にして、私共々に防空壕へ避難しました。このときの空襲は大したことはなく、高射砲の音が二、三度聞えただけで、庭を隔てたお隣の家では、そこの奥さんが子供さんを遊ばせながら、針仕事をしてゐたほどでしたが、太宰さんはなにやら慎重に構へてをられました。﹁なにせ僕は隣組長だから、範を示さなくちやならないんでね。﹂と云つてをられました。それからこんなことを云はれました。﹁この隣組は、旦那様が誰方も勤人でみんな留守だもんだから、こんな際には奥さん連が心細がつてね、この隣組は男の人がゐないから心配ですわなんて、ほかの隣組のことを羨むんだよ。そこで僕が、こゝにも日本男児が一人ゐるといふことを知らせてやらうと思つて、えへん、えへんと大きい咳払ひをしてみせるんだけれど、やつぱり、男の人がゐなくてはねえなんて不安がつてゐるんだ。どうも僕は男の部類には入らないらしい。﹂そのうち園子さんがむづかつてきましたら、太宰さんは、壕の中へ持ち込んだ小さいリユツクサツクからするめを取り出して、園子さんにあげたりして、﹁園子はね、防空壕つてのは、ものを食ふところだと思つてゐるんだよ。﹂と云はれました。﹁お伽草紙﹂の序文には、園子さんをなだめるために、お伽噺の絵本を読んで聞せてあげたやうに書かれてゐますが、園子さんも、いつもするめを噛ぢつてゐるだけではつまらなくなつてきて、お父さんにお話をねだるやうになられたのでせう。 小山清﹁﹁お伽草紙﹂の頃﹂ 昭和23年1月 然し、こんな筋の通らない情死はない。太宰はスタコラサッちゃんに惚れているようには見えなかったし、惚れているよりも、軽蔑しているようにすら、見えた。サッちゃん、というのは元々の女の人のよび名であるが、スタコラサッちゃんとは、太宰が命名したものであった。利口な人ではない。編輯者が、みんな呆れかえっていたような頭の悪い女であった。もっとも、頭だけで仕事をしている文士には、頭の悪い女の方が、時には息ぬきになるものである。 太宰の遺書は体をなしておらぬ。メチャメチャに泥酔していたのである。サッちゃんも大酒飲みの由であるが、これは酔っ払ってはいないようだ。尊敬する先生のお伴して死ぬのは光栄である、幸福である、というようなことが書いてある。太宰がメチャメチャに酔って、ふとその気になって、酔わない女が、それを決定的にしたものだろう。︵中略︶ 太宰のような男であったら、本当に女に惚れれば、死なずに、生きるであろう。元々、本当に女に惚れるなどということは、芸道の人には、できないものである。芸道とは、そういう鬼だけの棲むところだ。だから、太宰が女と一しょに死んだなら、女に惚れていなかったと思えば、マチガイない。 坂口安吾﹁太宰治情死考﹂ 昭和23年8月 志賀 若い人のを最近になつて少し読んでるんだけど、中村君のはなかつたから読んでない。梅崎春生といふ人のを三つ読んだかな。それから太宰君の﹁斜陽﹂なんていふのも読んだけど、閉口したな。 佐々木 はあ、さうですか。 志賀 閉口したつていふのは、貴族の娘が山だしの女中のやうな言葉を使ふんだ。田舎から来た女中が自分の方に御の字をつけるやうな言葉を使ふが、所々にそれがある。それから貴婦人が庭で小便するのなんぞも厭だつた。作者がその事に興味を持つ事が厭なのかも知れない。 佐々木 あれは最後になつてガタ落ちになりましたね。 志賀 あの作者のポーズが気になるな。ちよつととぼけたやうな。あの人より若い人には、それほど気にならないかも知れないけど、こつちは年上だからね、もう少し真面目にやつたらよからうといふ気がするね。あのポーズは何か弱さといふか、弱気から来る照れ隠しのポーズだからね。︵中略︶ 佐々木 今の二十代の青年なんか、戦争中から太宰の影響下に育つた人といふのが、ずゐぶん多いやうですが……。 志賀 どうも評判のいい人の悪口をいふ事になつて困るんだけど、僕にはどうもいい点が見付からないね。 志賀直哉・佐々木基一・中村真一郎﹁座談会 作家の態度︵一︶﹂ 昭和23年6月 太宰のそばに、年のころ三十ばかり、色が浅黒くてひきしまつた表情の、しずんで冷たい目をした女がつきそつていた。みんな﹁スタコラのサッちやん﹂という奇妙な名前で呼んでいたが、このサッちやんは、何かおかしいことがあつてみんながゲラゲラ笑つていても、ニコリともせず、何かひとつのことを必死に思いつめているという目つきだつた。やがて飲みすぎた太宰が、急に気分がわるくなつて反吐をはきそうになると、この女は、サッと立ち上つて金ダライをもつてきて、まめまめしく介抱をはじめた。誰かが手伝おうとそばへ寄つても、そのすきを与えないくらい、キビキビとひとりで運んでいた。それはまるで、 ﹁太宰治は私の所有ですから、ほかの人は指一本触れないでください﹂ と身体じゆうで声のない叫びを叫んでいるように見えた。そういう女に背中をなでてもらつて、せつせとへドをはきつづけている太宰は、僕には日本じゆうで一番幸福な男にみえた。あとで知つたが、太宰はやはりこの女と死んだ。 杉森久英﹁志賀直哉と太宰治﹂ 昭和34年8月 じめじめと暗く寒い日のことである。中原中也と草野心平が、ふらりと私の落合の家に現われた。先客として太宰がいた。この辺り記憶は朦朧としているので或は古谷綱武のところでみんな落合ったのかも知れない。 いずれにせよ、﹁おかめ﹂という程近いおでん屋に打連れて出かけていって、かなり酔った。中原と太宰は初対面である。酒の暖で体がほぐれてゆくのと一緒に、例の通り中原中也は太宰治にひどくからんでいるようだった。太宰は閉口し、くしゃくしゃな泣き出しそうな顔だった。中原を、兎にも角にも先輩として尊敬していたからである。ひどくからんで、さんざんにしぼり上げた末、中原は太宰に言った。﹁おめえ、何の花が好きだい?﹂ 太宰はちょっと当惑してヘどもどした。 ﹁ええ、何だい? おめえの好きな花は?﹂ まるで断崖から飛び降りるような思いつめた表情で、しかし甘ったるい、今にも泣きだしそうな声で、とぎれとぎれに太宰は言った。 ﹁モ、モ、ノ、ハ、ナ﹂ 言い終って、例の愛情、不信、含羞、拒絶何とも言えないような、くしゃくしゃな悲しいうす笑いを泛べながら、しばらくじっと中原の顔を見つめていた。 ﹁チェッ、だからおめえは﹂ という中原の声を上の空のように聞いているのか聞いていないのか、太宰は、その悲しいうす笑いの表情のままぷいと立上がって、それから、矢のように逃げ帰っていって終った。みんな白けた。が、私は、暫時、私の盃の中にぽっかりと桃の花片が泛んでゆくのを見るふうだった。 檀一雄﹁光焔万丈長し﹂ 昭和23年9月 十九日の夕方、東京に着いた。新聞社に勤めている友達から、いろ〳〵と様子を聞きたいと思つて、省線にのると、﹁屍体が発見された﹂という新聞の見出しがすぐ目に入つた。やつぱり……これでもう間違いはない……と思つた。心のどこかでは、まだ大丈夫と思つていた所もあつたのだ。ガタ〳〵と沈みこんで行くような気持ちだつた。 友人と二人で三鷹に向う。吉祥寺に下車したのが十時半頃。井の頭公園は真暗。木立がシインと静まりかえつて人一人通らない。雨が本降りになつて来た。シト〳〵と身体にねばるようにふつて来る。何度となく太宰さんと渡つた万助橋。上水は夜目にも白く濁つて、水かさをまして、恐ろしい程の速さで流れていた。上水、こゝにもよく散歩した。夏の頃、私が、こゝで泳ごうかと云つたら、太宰さんは、真顔になつて、 ﹁こゝは人喰川と云つて、入つたら最後、絶対に上れないんだ﹂ と、ひどく私の乱暴を叱つたことがあつた。春先のことだつたか、木下利玄の歌を説明して呉れて、軍艦がどつしりして動かないつていうのを﹁八幡ゆるがず﹂つて表現しているんだ。どうだ素晴らしいだろうとまるで自分の歌のようにその立派さを云つていながら、突然絶叫に近い悲鳴をあげて、私の肩にだきついたので、私も吃驚すると、道傍の古縄を蛇とまちがえたのだつた。それもこの辺だつた。 戸石泰一﹁仙台・三鷹・葬儀﹂ 昭和23年8月 その病院の懐しい思い出に太宰治のことがある。実は彼がパビナール中毒の患者として入院して来て、私がその主治医になったわけであるが、昭和十一年十月頃であったろうと思う。カルテには津島修治︵二十八歳︶と書かれていた。この男が太宰治であることを知ったのは少したってからのことである。入院した晩、逃走の虞れありというので、開放病棟から鍵のかかった病棟に収容された。一週間位はおちつきなく、恐らく夢中であったろう。不法監禁、インチキ病院、虐待、命保たず、救助タノム、詐欺、裏切り者等と壁紙や硝子戸に色鉛筆で書きなぐっていた。看護日誌には廊下徘徊、逃走要注意などと書かれてあった。回診に行くと、﹁内証でここから出して下さい﹂と平身低頭したり、私や看護人が廊下を通ると、動物園の猿のように鉄格子につかまって出してくれ、出してくれとどなったので、可哀想に思ったこともある。 ひどい禁断症状がとれると、彼は別人のように黙って坐り、考えこんでいた。夜あけに眠れないで、廊下を歩いたり、薬包紙に﹁あかつきばかり物うきはなし、先生何とかいいお薬を盛って下さい﹂と書いて看護人に渡し、医局に眠り薬をとりに来させた。医局ではなかなか面白いことを書く患者だと感心していたが、彼の諧謔性、時にユーモアに富んだ文章はその頃既に際立っていたように思う。 中野嘉一﹁精神科入院時代の太宰﹂ 昭和40年9月 青森中学校では毎年六月頃陸上競技大会をやるのが例のようであった。小学校でいえば運動会である。然し小学校のように父兄は誰も来ない。生徒だけである。生徒は皆喜んで参加したものである。若い血潮に燃えている少年達だから勝負は別として大いに張り切ったものである。処が太宰君は出ない。彼は走る練習をした故か大分はやかった。百米の競争には大丈夫賞にはいれると私は思っていた。本人も自信があったようだ。私は百米の競争に出るように大いにすすめたが、どうしても出なかった。――百米を走っている時のあの顔をゆがめて頑張っている顔が気にかかってとても出られない――というわけである。その時私はふき出して笑ったが、太宰君には一般の生徒と違った感覚があったようだ。彼はおとなしく、気の弱い方であったが、指導力といったようなものを持っていた。クラスの多くの生徒は彼になついていた。大分気の荒いような生徒でさえ彼には従順であった。それは彼の人柄――特に彼のユーモア性に依る処が大きかったと思われる。彼のユーモアは稀有なものであった。よく人を笑わせ人に親しまれた。 中村貞次郎﹁青森時代の太宰治﹂ 昭和32年 太宰に関しては、改造社の誰かに、こんな話をきいた。改造社が前の新橋にあつた頃だ。三階建木造の、靴ばきで歩くやうになつてゐた。或る時、社長の山本實彦氏が歩いてくると、袴をつけた文学青年がいきなり廊下に土下座して、どうか自分の小説を採用してくれと、額を床につけぬばかりに懇願、嘆願、最大級の表情で訴へたといふのである。山本社長は驚いた。編輯部に話すと編輯者がとりあげなかった。後日太宰の小説が改造にのつたとき、山本社長は記憶してゐて、あの男も一人前になつたかと述懐したといふことを私は伝へ聞いた。面白い話だと思つた。 太宰らしいやり方である。人をくつたやり方である。腹の中では、舌を出してゐただろう。手段は選ばない、己の小説がのれば、成功である。常識人にはたうてい真似られないことをやつてのける太宰を、えらい奴だと私は思つた。 丹羽文雄﹁太宰治と私﹂ 昭和23年9月 六月四日、都合で、私は帰宅が夜九時になつた。太宰さんから電報である。 スグ ジタクヘ オイデコフ ダザイ 五時過ぎての発信である。私はぎくりとした。これは、なにかの変事、と思ひ、何かの御用にも、と考へて私は、女房同道、急いだ。或ひは、太宰治の死? 玄関を開けたら、鼻をつく、線香のにほひ、これはいよいよ、と思つたら太宰さんが出てこられて、ほつとした。にほひは蚊取線香だつたのである。私はどうかしてゐる。 太宰さんはいまから﹁如是我聞﹂を書かう、と言はれる。最近の﹁新潮﹂にとつて、この日、七月号の原稿が頂けるなら、破格の早さである。 太宰さんは、しきりに、本箱をがだがた言はせ、あの本この本、ひつくりかへして、何かを探してゐたが、ないらしく、 ﹁おい、志賀チョクサイの本はなかつたかね。何かあるだらう。﹂ 奥さんも一緒になつて、かなり長い間、かきまはしてをられたがたうとう見つからず、 ﹁縁がないんだねえ。まあいい。﹂それから、夜更けて家を出、仕事部屋の前にくると、私の女房に向ひ、 ﹁奥さん、今晩一晩だけ、ご主人をお借りしますよ。﹂ 仕事は徹夜で、はかどつた。 野平健一﹁如是我聞と太宰治﹂ 昭和23年6月 戦争中、まだ学生であった頃に、ある人の紹介で太宰治氏と酒を飲んだことがありました。何が話の主題であったかは忘れてしまいましたが、途中に一度激しい口論になり、まず若気のいたりというものだったのであろうと思います。 そのときのことで、しかし、忘れられないのは、太宰氏が自分の作品の大部分を、ほとんど暗誦出来るほどに記憶されていることでした。氏がどういう具合方式で原稿を書かれていたものか、そういうことは何一つ知らないのですが、作品の冒頭からでも、途中からでも、どこからでも朗々と暗誦され、そうすることがひどく、極上に楽しいことであるように見受けられました。 口論になったのは、ひょっとするとそういうことが出来るということ自体について、であったかもしれません。 私には、そういうことの出来る作家というものが、若者ながらに想像も出来なかったのであろうと、いまにして思います。 堀田善衛﹁御挨拶﹂ 昭和50年9月
昭和2年 昭和10年頃 昭和23年
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