二葉亭四迷 ︻ふたばてい・しめい︼ 小説家。本名、長谷川辰之助。元治元年4月4日︵旧暦2月28日︶〜明治42年5月10日。江戸市ヶ谷に生まれる。明治14年、東京外語露語部に入学し、ロシア文学に熱中する。明治19年、坪内逍遥を訪問し、生涯の知友となる。同年、小説の原理を考察した評論﹁小説総論﹂を発表し、その理論のもとに小説﹁浮雲﹂︵明治20〜22︶を発表。言文一致の心理主義リアリズムで、近代日本文学の始まりを告げる記念碑的作品となった。また、同作と並行して、ツルゲーネフの﹁あひゞき﹂︵明治21︶、﹁めぐりあひ﹂︵明治21〜22︶を翻訳。革新的な文体で、文壇での名声は決定的となった。明治22年、内閣官報局雇員となり文壇を去ったが、明治39年、﹁其面影﹂によって文壇復帰。明治41年、朝日新聞特派員としてぺテルブルグに赴くも、その帰国途中の明治42年5月10日、肺結核により死去。享年45歳。代表作は﹁小説総論﹂、﹁浮雲﹂、﹁あひゞき﹂、﹁其面影﹂、﹁平凡﹂など。 ︹リンク︺ 二葉亭四迷@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 二葉亭四迷@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説 ‥ 発表年順 翻訳 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 氏は又あれ程の文名がありながら、非常な文学嫌ひで、文学の話をし出すといつも機嫌が悪るかつた。在北京中一度も氏の口から文学談を聞いたことがない。帰朝後も度々会つたが、いつも僕はなまじ此の筆がある為め事が為せない、窮すると間に合ふものだからツイ書く気になる、書けば其が世にうたはれて世人は益々文学者扱ひにし居︵を︶る。僕の処へ来る奴は誰も彼も文学ばかり話して癪にさはるから友人は皆絶交した。天下の知己君一人あるのみだ。僕はもう日本人は一切相手にせぬと言はれて憤慨して居られた。余は実に御尤と同情して居た。北京に於ける氏を知れる者は氏の自任せられた如く経世家の資格を備へ、たしかに仕事の出来る人だと言ふことを承認するが、不幸にして一方文名の余りに大なる為め覆はれて、遂に其の技倆を世に問ふの機を得られなかつたのである。残念なことであつたらう。 阿部精一﹁北京警務学堂に於ける長谷川君﹂ 明治42年8月 長谷川君を知つて居る人で、私の所へ来て長谷川は余り多く語るを喜ばない風があるとか、無口だとか云ふ人がありますが、此れも全く誤解です、決してお喋りではありませんでしたが、仲々宜く話しました。座談は寧ろ得意の方でしたらう。尤も平常から文学に関する話は余り喜ばないやうで﹁己れの所へ来てやれ象徴主義だのローマンチシズムだのつて文学の話なんどする奴には口も利かない﹂なんて冗戯︵じょうだん︶を云ふ位でした、だから、長谷川君を談嫌ひだなんて云ふ人は恐らく文学談でも持ち出して其様な目に会つた人等でせう。 長谷川君は又非常に真面目な人で、極めて常識に富んだ人でしたから、言行常規を逸して逸話なんてものはほとんどありません。何しろ四五年間、腰弁で官報局へ通つた事もあるのですから、決して、所謂変つた人ぢやありません。変つた人間には到底此んな平凡な職は務まるものぢやない。斯んな平凡な職にも甘んじた所が、愈々、彼の人の偉い所です。金銭の事に関しても、極潔僻で、友人から借金をしても、其れを返済して仕舞はない中は其れが、気になつて仕方が無い、家賃等も毎月約束した日に払はなければ気持が悪いといつた風な性質の人でした。ですから、家庭の生活等は、全く平凡な官吏の生活を見るやうな風がありました。 内田魯庵﹁二葉亭の人物﹂ 明治42年6月 当時の語学校と云ふものは今日のやうに単に語学ばかりを教へたものでなく、高等普通学を原書で教へてゐたから、級が進むにつれて、後には文学書ばかり読むやうになつた。あんな風の教へ方をしてゐた学校は他に無かつたでせうが、其頃の露語科の教科書として用ゐたのは有名な文学書だ。処が名高い文学書は一冊しかないので、グレーと云ふ教師がそれを読んで聞かせて学生は手ぶらで聴いてゐるのだ。このグレーといふ人は朗読が頗る名人で、調子も面白い、節も面白い。真に妙を極めたものだ。誰でも聞惚れないものは無い。自づと文学の感興が湧いて来る。で、読終るとハラクタレスチカ︵Characterization︶即ち性格批評、作中の主人公︵ヒーロー︶又は女主人公︵ヒロイン︶の批評を作らせて、之で文章の練習をさせた。毎日之をやつたもんです。最初のうちは露西亜の文学のセレクシヨンから始めて追々と各大家の名作に及んだもので、何でもレルモントフ、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、カラムジン、カラゴゾフなどで、トルストイの﹃戦争と平和﹄なども読みました。毎日々々読んだのだから随分沢山な数で、小説もあれば脚本もあり、コミツクの物トラジツクの物種々雑多な物があつた。上の級になつてからは語学の力も大分付いて来たし、鑑賞力も次第に増して来たし、朗読上手の先生が世界の名著を面白く読んで聞かせるンだから、学生達も日本の小説同様に面白がつて一心に聞いてる。其中で長谷川君は元来文学の素質があつたから一層シミ〴〵と聞惚れて知らず識らず文学に深入して了つたのだ。 太田黒重五郎﹁三十年来の交友﹂ 明治42年8月 ずつと以前、学校にゐた時分から長谷川君は口癖のやうにジーズニ︵人生︶と云ふ言を云つてゐたが、このジーズニには一種深い興味を持つてゐた。そこで人生を研究する為めには思切つて極端な所為をしたもんだ。故高橋健三氏の下に官報局の役人をしてゐた時分、わざ〳〵裏長屋の汚ない家に下宿してゐて、役所から帰ると盲縞の絆纏に着更へて下等な職人と交際したり、ヤゾウをきめ込んで裏店連と一緒に遊んだりして、裏長屋の二階から洋服姿で官報局に出勤してゐた事がある。コンナ話がある。何処だか知らぬが、極々下等の地獄屋へ六十許りの引張り婆さんに連れ込まれた。路次の裏の裏の奥へ突当つた汚ない狭苦しい家で、枕許に薄暗いカンテラがちらくらしてる板のやうな臭い煎餅布団の上に座らされてボンヤリしてゐる。婆さんは相手の女を捜しに出て云つた。暫らくすると独りで戻つて来て、﹃誠に生憎様ですが若いのが出払つてをります。私ではお気に召しますまいか、﹄といふ御挨拶。﹃之がライフだよ、﹄といふ其時の長谷川君の話だつた。 太田黒重五郎、同上 長谷川君は如何にも性質の緻密な、何事をも粗略にする事の出来ない人で、之は学校に出てゐた時分でもよく現れてゐた。露西亜語中何か不審な点があれば、半日でも一日でも取調べられて、これならばよいと自分で得心する迄は、生徒に教へなかつたものです。又文章の如きも少しでも腑に落ちぬ所があれば、それに関するあらゆる書物を漁つて、何処までも慎重に調べられた者です。当時語学校には露西亜語の教師としては私と長谷川君、今一人は露西亜人でした。よく生徒に露文を日本文に直させたものですが、ある時などは其露西亜人の訳し方が気に入らないと云つて長谷川君は教場で露人と大に議論した事などもあつたさうです。一寸した語を露西亜語に訳するのでも、之れは適切でないと思ふ時には、二時間も三時間もかゝつて研究されたやうです。 鈴木於莵平﹁文壇以外の長谷川君﹂ 明治42年8月 二葉亭四迷君は明治文壇の恩人であるのは言ふまでもない。私などは明治二十二年、﹃浮雲﹄の出た頃から、常にその偉才に驚かされて居た。高瀬文淵君には、私は二十五年頃いろいろお世話になつたが、その文淵君の口から私は二葉亭氏の偉い人格であるといふことを常に聞いた。﹃君、長谷川君には是非一度逢つて置きたまへ、日本には実にめづらしい人物だ。﹄かう言つて、文淵君は、﹃浮雲﹄第三編の﹃都の花﹄に載せられたあたりを、節のついたおもしろい調子で読んで聞かせて呉れた。三馬一九、でなければ春水近松などを読んでゐた私の耳に、ロシアのゴンチヤロフ張の細かい心理描写がいかに奇異にひゞいて聞えたか、それは今更言はないでも分ると思ふ。 ﹃あひびき﹄の翻訳は二十二年の﹃国民の友﹄に二号にわたつて出た。あの細かい天然の描写、私等は解らずなりにも、かうした新らしい文章があるかと思うて胸を躍らした。﹃あゝ秋だ! 誰だか向うを通ると見えて、空車の音が虚空にひゞき渡つた……﹄其一節が故郷の田舎の楢林の多い野に、或は東京近郊の榛の木の並んだ丘の上に、幾度思ひ出されたことか知れなかつた。明治文壇に於ける天然の新しい見方は実に此﹃あひびき﹄の翻訳に負ふところが多いと思ふ。 田山花袋﹁二葉亭四迷君を思ふ﹂ 明治42年8月 君は最も早く且つ最も深く西洋文学に現れた十九世紀の新精神を玩味し体得した人と言つてよい。明治新文学の先登には紅葉露伴其他の諸家があるが彼の西洋のクラツシヽズムやロマンチシズムに反動して盛んに勃興しつつあつた写実主義的の精神を始めて其作に実現した真先魁は君より外に無いと言つてよからう。私は﹁書生気質﹂や﹁小説神髄﹂を書いた当時に君と知合になり、只一二回の談論によつて西洋小説を味ふ態度も其薀蓄も私共の及ぶ所で無いことを悟つた。私は君の説を聴くにつれておひ〳〵自分の考の皮相に止まり、態度の軽薄であつたことに心付き、二年程も交際するに及んでは、到底小説は私の力では書けぬとまで思つた。惜しいことには其頃の君の文学論は席上の而も断片的︵ちぎれ〳〵︶の談話であつたので、短い翻訳の文学論が一二の雑誌に載つた位で、世間には知られてゐないが、断片的たるに係らず其頃の文学論としては最も進んだものであつた。 坪内逍遥﹁長谷川君の性格﹂ 明治42年8月 長谷川君は何でも新らしい仕事を初める時は必ず大得意だ。文学だけは始終嫌だ〳〵で押通してゐたらしいが、外国語学校の教師となつた当座も中々な得意でした。満州行の時は私は知らんが、彼地で会つた時は頗る気焔を吐いてゐた。夫れから露西亜行は殊に大得意で、出立前、朝日新聞の社員として当局者︵多分外務省の次官と思つた︶と対談し、兼て抱懐してゐた対露の経綸を吐露した時は頗る会心の容子で、差詰め露都に行けば北京に於ける倫敦タイムスのモリソンを以て任じやうといふ心組であつたらしい。露西亜に行つてから通信が来なかつたのは、病気の為もあらうが、病気ばかりぢやァない。自重してゐたに違ひない。夫だから病気が次第に重つて、友人の切なる勧告があつても退けて容易に帰朝を肯んじなかつた。其心持を酌むと、実に断腸に堪へない。 中沢房則﹁容易に獲易からざる赤誠の人﹂ 明治42年8月 長谷川君と余は互に名前を知るだけで、その他には何の接触もなかった。余が入社の当時すらも、長谷川君がすでにわが朝日の社員であるという事を知らなかったように記憶している。それを知り出したのは、どう云う機会であったか今は忘却してしまった。とにかく入社してもしばらくの間は顔を合わせずにいた。︵中略︶すると間もなく大阪から鳥居君が来たので、主筆の池辺君が我々十余人を有楽町の倶楽部へ呼んで御馳走をしてくれた。余は新人の社員として、その時始めてわが社の重︵おも︶なる人と食卓を共にした。そのうちに長谷川君もいたのである。これが長谷川君でと紹介された時には、かねて想像していたところと、あまりに隔たっていたので、心のうちでは驚きながら挨拶をした。︵中略︶第一あんなに背の高い人とは思わなかった。あんなに頑丈な骨骼を持った人とは思わなかった。あんなに無粋な肩幅のある人とは思わなかった。あんなに角張った顎の所有者とは思わなかった。君の風はどこからどこまで四角である。頭まで四角に感じられたから今考えるとおかしい。その当時﹁その面影﹂は読んでいなかったけれども、あんな艶っぽい小説を書く人として自然が製作した人間とは、とても受取れなかった。魁偉というと少し大袈裟で悪いが、いずれかというと、それに近い方で、とうてい細い筆などを握って、机の前で呻吟していそうもないから実は驚いたのである。 夏目漱石﹁長谷川君と余﹂ 明治42年8月 今にして思へば、長谷川君は実に人格の立派な人で、誠実にして信義を守り、友誼に篤い。即ち今日の社会では珍らしい尊敬すべき人であつた。今一つ長谷川君の美所は憐み深い点である。友人の困難などに際しては自分の左右を顧みず、出来得る限り助力を惜まなかつた。従つて今日の世間の風潮に習つて居ないものだから世間的の成功はしなかつた。も少し世の風潮に従つてゐたら、あれだけの学才と人格を持つてゐたのだから、官吏なり実業なり、も少し好い地位になつたのであらうが、世に処するの道が拙下︵へた︶で多くは理想的に走つてゐた。然し此の世間的の栄達を求めず、誠実で友誼に厚かつた点は長谷川君の特色として又美所として伝ふべきものである。 西源四郎﹁高谷塾時代の交友﹂ 明治42年8月 其頃お伽譚︵とぎばなし︶にも意が動いて居たやうであつた。﹁今のお伽譚は不自然で文学的でない、実に下らないもの許りだ。僕は何か書いて見たい。気の利いた小冊子にして叢書にして出したら面白からう。﹂と云つて居られた。犬の話は大変大切にして居られた種で、犬の事だけで一冊書いて見たいと度々話された。私の聞いたゞけでも随分長い物語である。所が﹁平凡﹂を書き出して苦しまぎれに犬の話しを其内へ編み込まれてしまつた。これに就いては﹁どうも取つときの種をダイナシにしてしまつた、惜しいことをした。﹂といつてこぼされた。これをお伽譚風に書いて第一篇にしたらよからうと話された事があつた。 去年の発売禁止が頻々として行はれた時先生は大に憤慨して、﹁余り馬鹿々々しい。干渉好な露西亜だつてそんなもんぢやない。僕は一つ露西亜物のひどいやつを翻訳して世論を喚起してやりたい。それを露国の雑誌などにも通信したら面白からう。﹂と云はれた事があつた。これは誰れかと一緒に行つた折にも話された。その梗概を四つ五つも聴いたけれど皆は覚へてゐない。其内にアンドレーエフの﹁崖﹂があつた。波蘭︵ポーランド︶人の書いた西比利亜︵シベリヤ︶へ追放せられて乱暴をする男の話もあつた。 西本翠蔭﹁著作に関する計画﹂ 明治42年8月 話が少し前後しますが、往年外国語学校が廃止された当時、該校の生徒であつた長谷川君は、同学の少年と共に、高等商業に転学することを拒んだものですから、学資の供給が絶えて了つたので、如何にかして衣食の道を講ぜねばならぬことゝなりました。当時露語は十分の造詣があつたのですが、露語では到底衣食の資を得るに足りないと云ふので、英語を学ぶ必要に迫られ、一ヶ月程イーストレーキの門に入つて、エビシからやり初めた。処が何様語学の才の秀でた同君のことですから、其の進歩が著るしい。或る日のこと、英作文があつて、何でも一瓢を携ふる底の課題が出た。其の時に氏は脳中早くも露文を綴つて、英露の字引を対照しながら、斯の露文を英文に翻訳した。僅に一ヶ月か二ヶ月間修学の学生が作る英文であるから、もとより碌なものではあるまいと思ひながら、氏の文章を見ると、驚くべし、高雅な思想と、清新な観察とが文中に活躍して居て、堂々たる一篇の大文章をなして居るから、流石のイーストレーキ氏も舌を巻いて、この麒麟児の技倆を賞讃したが、只一言長谷川君の文章にはスラボニツク・スタイルがあると云つて笑つたさうです。 日向利兵衛﹁愛国の志士としての長谷川君﹂ 明治42年8月 長谷川君は前にも云つた通り外面を飾つたり辺幅を修めたりなどすることは嫌ひな人であつて、極めて真面目の人であつたけれども、亦非常に多方面の趣味に富んでゐた人であつた。そうしてその頭脳は極めて緻密で、物を論じ物を検︵しら︶ぶるにも、ずつと秩序的に理論の立つやうにならねば満足せぬ人であつた。その頃の学生は例の磊落不羈を以て得々たるところから英雄色を好むなどといふ理屈をつけて、遊里に出入するものなども随分少くはなかつた。が、長谷川君には断じてその種類の事は無く、学生時代には最も厳格なる品行方正家であつた。然しながら、同君も歌舞音曲といふやうなものをば好んで、寄席などへはよく歩を運んだものである。とりわけても新内が好きで、その頃、盲目の婆さんで、鶴賀若辰といふのが、最も気に入つてその婆サンの出る寄席には随分遠方まで出掛けたことなどがある。長谷川君が酔余近視眼を一層細くして﹃指さき強く二ツ三ツ四ツ目の紋のツカミ染め……﹄などと柄にもない意気な声で歌うたことは、氏が謹厳の人であつた丈に一層奇妙な反照で、今に我々の目にも耳にも残つて居ることである。 同君はまた酒が好きで、春のころなどにはよくビールの空壜へ酒を一杯つめ込んで、郊外へ散歩することが多かつた。酔へば乃ち眠ると云ふ風で、或時一緒に木下川へ梅見に行つたことがあつたが、例のビール壜の日本酒で酔つてしまつて、本所の緑町の通りを眠りながら歩き始めた。車に突き当るやら子供がからかうやら、非常に弱らせられたものであつた。 藤村義苗﹁旧外国語学校時代﹂ 明治42年8月 先生が三十五年に学校を辞された時には、何か心中快からざることでもあつたらしく思はれたが、だん〴〵聞いて見ると、豈図︵あにはか︶らんや、先生は既に或る大計画をされて、満州の野に活動飛躍の志を固められたのであつた。吾々はさうと知らずに区々たる感情の行違位で先生が吾々を見捨てらるゝのは、あまり無常だ。是非共今暫く吾々の為に教鞭を執つて下さいと、切に留任を懇願したが、﹁君等には誠に気の毒だが、今は僕が予ての希望通り雄飛する気運に際会したのであるから、僕の自由を任して置いて呉れ給へ。僕の希望の一部でも達せらるれば、僕は直きに帰つて来て、僕の理想たる、東洋的の立派な実業家を養成する東洋商業学校を設立するつもりである。その時には君等の手を借りるやうになるだらう。君等には僅か三年位の露語学修期間だから、多くを望めないが、マーそれ迄に寝転んで居て﹁ノーウオエ、ウレミヤ﹂の論説位スラ〳〵と読める様になつて居てくれ玉へ﹂。これを以て先生の満州へ行かれた時の抱負の一端を窺ふことが出来る。 先頃露国へ出立せらるゝ少し前に、突然僕の事務所に来られた、愈々今度、露都へ行く事になつたが、自分も本職は新聞記者だが、折角露国へ行くのだから、商業上の取調も十分やるつもりだから、何か好適の問題があつたら、よこし給へ、僕も送るよ。お互いに研究しやうと、えらい元気で日露貿易の現状など質問せられ、又旅行に関する注意事項及露都滞在費等種々聞き糺されて行かれた。 今の様な姿で帰られる事とは夢にも思はれなかつた。先生も理想の一部分も実現せられずに瞑せられたのであるから、実に残念であらう。 股野貫之﹁長谷川辰之助先生の東京外国語学校教授時代﹂ 明治42年8月 君が露西亜通であるといふ事は世間既に公評あり。私は寧ろ軍事通として少しく君を知つてゐる。黒木軍が鴨緑江に大勝した当時、君は公報を見て﹁もし実際この通りであつたとすれば、非常な成功だ。此一戦で欧州の世論は覆へるであらう﹂と言はれたから、其時私は冷かし半分に、貴君も矢張り恐露病に罹つてゐますねと言つたら、ひどく真面目になつて、イヤ左うぢやないといふ証拠を示さうと、それより露軍の内容に就て大分詳しい説明――それは今一々記憶はしないが、敵の大砲の数や其実勢力に就て精細なる説明をされたが、これに就て私は今新たに参謀本部か軍令部あたりの枢要部にある人からでなくては到底聞く事の出来ないと思ふ位専門的の知識を、この不遇なる一文士から聞く事を意外とし、且この江湖漂浪の一寒士がどうして何時の間に斯かる研究をしたものかと驚ろいたのであつたが、驚く勿れ、君は海軍省に居た間にちやんと調べて居られたのであつた。 松原岩五郎﹁二葉亭先生追想録﹂ 明治42年8月 長谷川辰之助氏も、僕の逢ひたくて逢へないでゐた人の一人であつた。僕のとう〳〵尋ねて行かずにしまつた人の一人であつた。 浮雲には僕も驚かされた。小説の筆が心理的方面に動き出したのは、日本ではあれが初であらう。あの時代にあんなものを書いたのには驚かざることを得ない。あの時代だから驚く。坪内雄蔵氏が春の屋おぼろで、矢崎鎮四郎氏が嵯峨の屋おむろで、長谷川辰之助氏も二葉亭四迷である。あんな月並の名を署して著述をする時であるのに、あんなものを書かれたのだ。嘘の名を著述に署することはどこの国にもある。昔もある。今もある。後世もあるだらう。併し﹁浮雲、二葉亭四迷作﹂といふ八字は珍しい矛盾、稀なるアナクロニスムとして、永遠に文芸史上に残して置くべきものであらう。 翻訳がえらいといふことだ。僕は別段にえらいとも思はない。あれは当前だと思ふ。翻訳といふものはあんな風でなくてはならないのだ。あんな風でない翻訳といふものが随分あるが、それが間違つてゐるのである。あれがえらいと云はれたつて、亡くなられた人は決して喜びはせられまいと思ふ。︵中略︶ 併し丸で交通がないのではない。ゴルキイを訳するのに、独逸訳を参考したいと云つて、借りによこされたから、僕は人に本を貸すことは大嫌なのに、此人に丈は貸したことがある。何とかいふ露西亜人が横浜で雑誌を発刊するのに、僕の舞姫を露語に訳して遣りたいが、差支はなからうかと、手紙で問ひによこされたことがある。僕はたゞちに差支はないと云つて遣つた。程なく雑誌に舞姫が出ることになると、その雑誌社から、わざ〳〵敬意を表するといふ電報が来た。次いで雑誌を十部ばかり送つて来た。僕は余り鄭重にせられて恐縮した。 森鴎外﹁長谷川辰之助氏﹂ 明治42年8月 氏は下層人民の状態を研究することに多大の趣味を持つて居ました。貧民の生活はどうか、彼等の思想、感情、嗜好はどうか、斯う云ふことを研究せねばならんと云ふので、変装して、仕事師の衣服を着て、彼等の合宿所とでも云ふべき処へ、職人の風体をして入り込んだものです。人の最も困難とする江戸ッ子弁は、氏の得意とするところでしたから、巧みにベランメーをやる。而し余り永く居ると、見現はされる恐があるから、好い加減の処で引上げて、また他の処へ移る。少しの間は誰も感づく者がないので、先生ます〳〵得意になつて之をやりましたが、只此際一番困つたのは、近視眼だから眼鏡がある。処が眼鏡を掛けて居る労働者は先づ無いから、如何してもそれを外さねばならん。処で、外すと目がギラ〳〵光つて妙なことになるので、大いに困つたと云つて居ました。 山下芳太郎﹁失敗したる経世家としての長谷川君﹂ 明治42年8月 斯う云ふ風に氏の望むところ欲するところは、主として東亜の経営と云ふ政治上の問題にあつたので、文士などゝ云はれることは、嫌で嫌で堪らなかつたのです。此に就いては一寸面白い話があります。或は日向君が云つて居るかも知れませんが、例の西園寺首相の文士招待会の時なども、氏は無論招待を受けた一人ですが、何故か出席しませんでした。其の後氏に会うと、氏は突然、君は僕が文士でないことを知つて居ながら、何故文士だなどゝ云つて僕を招待したのだと、非常な権幕で食つて懸るのです。で、私は君は自ら文士でないと思つて居るか知らぬが、世間は夙に文豪として君に尊敬を払つて居る。又実際の事を云つても、君の文章、君の小説は句々珠をなし筆を下す処字々悉く錦繍ならざるはない。文士と云つて何の差支へがある。よしや百歩を譲つて君の志す処は経営にあるとした処で、欧米に於ては経国済民の大家にして文士を兼ぬるものが多いことは、君も知つて居る通りだ。文章は経国の大業で、文士の其の職に忠なるもの程、世に尊敬すべきものはない。だから文士として君を呼ぶに何の不都合があると、畳みかけると、氏は答へて云ふに、成程夫れは尤もだ。しかし僕の志は文士たるにあらずして、自から他に存す。志の成つた後に、文士の名を受けることは甚だ名誉なことであるが、僕はまだ其志の十が一をも達して居ない。然るに其の本志本願でない所の文士の名を受けることは、残念だと云つて、其の意見を曲げませんでした。実際氏の真骨頭、真本領は文士たることではなかつたのです。さりとて氏が文士や文学を軽蔑して居たと云ふ意味ではありません。 山下芳太郎、同上
東京外語時代 明治33,4年頃 明治42年頃
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