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浅原六郎「自殺した牧野」
昭和11年4月




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浅原六郎「牧野のこと」
昭和11年5月




 ()姿
石川淳「牧野信一氏を悼む」
昭和11年5月




調

 便
井伏鱒二「牧野信一のこと」
昭和25年11月




 ひところ、牧野さんは原稿を書かうと思つても書けないときには、書く気持を呼ぶために膝栗毛を読むと云つてゐた。それでも書けないときにはプラトンを読むのだと云つてゐた。アテナイ人諸君、書けないときには書けないのだと云つた。月日がたつにつれて作品を発表する数が次第に少くなつて行つた。その頃たまた逢つたときの話では、書きたいことが喉もとまで出かかつてゐるが出て来ないといふことであつた。俺はアゼンスの町の広場で噴水を見てゐる老人だと云つた。俺はビヤ樽をころがして行く男の気持で書くのだと云つた。「嘘でなし誠でなし、半ば笑ひ半ばまじめな顔で、ビヤ樽をころがして行く男がある。それだ」と云つた。私にはその真意が呑みこめなかつたが、何か従来にないやうな作品に思ひを致してゐる気持だけはわかつた。身すぎ世すぎの書きなぐりなど出来なかつた人である。それに今まで書いたやうなものは繰返して書きたくないとなると、真の意味の明窓浄机を念ずる気持とはいへ、焦躁の気持は堪へ難かつたことだらう。身も細る思ひといふやうなものであつたらう。

井伏鱒二「牧野信一」
昭和31年8月




 西西
 西西西
西
西調

 西
宇野浩二「一途の道」
昭和13年12月




 姿
 


 
 

 

 
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宇野浩二「牧野信一の一生」
昭和33年1月




 
 
 姿
 

宇野千代「牧野さんのこと」
昭和11年3月




 
 
 姿姿
 姿姿
尾崎一雄「牧野信一氏のこと」
昭和11年4月




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河上徹太郎「死んだ牧野信一」
昭和11年5月




 調
河上徹太郎「牧野信一」
昭和24年3月




 
 
河上徹太郎「わがデカダンス(三)」
昭和36年4月




 尾崎士郎氏の「九十九谷」(行動)と牧野信一氏の「剥製」(文藝春秋)との批評を書きあぐねて、私はまた頭が痛くなつた。これらの作品が分らないとは思はない。その印象がいひ現しにくくて、ヒステリツクになつて来るのだ。批評といふものの空しい味気なさが、私の胸に穴をあけるのだ。こんな作家には、私は永久の負債を負はねばならぬ。重苦しいことだ。それでも尾崎氏に対しては、分るんだよ、おい、と尾崎氏の肩でもどんとたたけば、それでさつぱりしさうな気もするが、牧野氏の作品となると、もう作者の顔を見るのも厭だ。会へば私はいつでも妙な顔をする。批評家といふものは、自分が完全に理解してゐる作家に対してだけ、まともに向へるのだ。従つて私の批評は借用証書ばかり書いてゐるやうなものだ。苦しい借金のいひわけに過ぎぬ。そこを汲んでくれないで、私の批評を批評する人があつたつて、向う横町の子供の馬鹿囃子としか聞えない。天下太平の他人事である。
 先づ尾崎氏になり、牧野氏になり、聞いてみるがいい。自分の作品が満足に理解されたと思ふ批評に出会つたことがあるかと。多分否と答へるだらう。無理解の評価の下で、彼等は十年以上も作家生活を続けて来たのだ。恐ろしいことである。二人に限らず、多くの作家がさうであつた。これは日本の作家達の胸に巣食ふ厳然たる事実である。批評家の理解を作家が殆ど期待しないありさまは、なんと抗弁しようとも、批評家の罪である。

川端康成「評価と理解」
昭和9年7月




 
 

 
 








 
久保田万太郎「牧野の自殺」
昭和11年3月




 
 西

 
 西
 
 
久保田万太郎「切抜帖 牧野信一」
昭和37年4月




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 辿
 西

小林秀雄「滝井孝作と牧野信一」
昭和5年9月




 使使使
小林秀雄「『文藝春秋』と『経済往来』の作品」
昭和8年11月




 ()
 
坂口安吾「牧野さんの死」
昭和11年5月




 
坂口安吾「牧野さんの祭典によせて」
昭和11年5月




 




 
 
坂口安吾「オモチャ箱」
昭和22年7月




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佐々木茂索「牧野断片」
大正13年9月




 
 
 姿
 
鈴木十郎「空想の中の人生」
昭和37年3月




 去年の初夏の或る夜、私は久しぶりで銀座の喫茶店で牧野氏に逢つたのだが、そのとき牧野氏は私のそのとき発表した「昭和絵巻」その他一連の同じ傾向の小説について、平素の牧野氏とは思へないほどはつきりとした態度で私にいろいろと忠告してくださつた。それは「読売新聞」や「早稲田文學」で批評して下つた言葉の注釈のやうなものであつたが、鮮やかにいまでもおぼえてゐることは、私たちの社会的関心の濃厚な文学的傾向に大いに賛意を表されたことである。――このことは意外とする人があるかも知れないがたしかにその頃、牧野氏は大きな転機にぶつかつてゐたのではなからうかと私は思ふのだ。さうして暫く喋つてから、しらふではまだ充分語り足りないから後から来給へ、うんといはうといつて裏通りの或る飲み屋の名を教へて出て行かれた。私は要事を済ませてから急いでそこへ電話したのだけれど、時間が少し遅すぎたので、気遣つてゐた通りもうさつきお帰りになりましたといふ女中の返事である。それきり、私はこの先輩と逢はずに終つてしまつた。

田村泰次郎「牧野信一氏の死」
昭和11年5月




 

 
稿
稿稿
 稿
 

 
稿
 


 
広津和郎「牧野信一について」
昭和23年8月




 調 
藤森淳三「文壇新人論(五)・牧野信一論」
昭和2年6月




 亡兄の埋れた作品を探しだす役をひきうけて三十五年も昔の小説を読んでいるうち、どうやら私も信一の亡霊にとりつかれてしまつたようだ。亡兄と私とは、二人きりの兄弟なのに、十三も年齢差があつて、一しよの家に住んだ記憶といえば、小田原の生家で少年期を過した間しかなかつた。彼は四十歳で死んだから、晩年には私も漸く話相手になれた筈だが、もうその頃彼は、すつかり神経をすり減らしていた。私の方へ向いてきた彼の顔は、いつも苦渋にみちて孤独な印象ばかりが強かつた。
 信一のたつた一人の息子英雄は、終戦の年に未教育の補充兵で召集され、六月頃ニューギニアのビアク島で戦死してしまつた。戦死の日時や状況をずいぶん調べてみたが、ビアク島の近くで、弾薬輸送の舟艇が敵襲をうけた時、百数十人いつしよに全滅したことだけがわかつた。それが原因で亡兄の妻、節子は精神異常となり、いまだに病院生活をおくるような不幸がつづいている。

牧野英二「亡兄牧野信一像」
昭和36年11月




 牧野は常に元気な青年達を敬愛し、共に語り遊ぶのを非常に好みました。快活に笑ひ、屈託を知らぬげに、私をつかまへて、喜劇は悲劇よりも深刻だ、(俺は深刻と云ふ言葉は大嫌ひえだ)笑はせる事は、泣かせるよりもむづかしい、笑ひの極地と、涙の極地とは窮極の処一致すベきものなり、と盃をかたむけ、アノ喉で笑ふ、クツクツクツとの声をたてて、目にいつぱいの涙をためて語りました。「アア、誰の前でも声高く朗読出来るやうなものを書きたい、どこから読み始めても面白く、どこで終りにしても親しめるやうな――俺は小説を書きたいよ。」それは沁々とした秋の調べ、春の歌、人生の生活の歌でなければならなかつたのでありませう。宇野様のお仰言るやうに牧野のお腹の中には笑ひの虫と云ふものがあるなら、人より一匹や二匹余計にゐたのかも知れません。どんないやないざこざも、意地の悪さも、憂欝さも、牧野の話頭に一度登れば、滑稽と化して、人々を笑はせてしまひます。それは多くお酒を飲み、又は心おけない人々の前だけの談笑の折ではありましたが。あの小田原のがらんとした家で夜半過ぎ飲んだお酒もさめかける頃、俺――落語家にならうかしら、いやいやなかなか落語家と云つてもむづかしいぞ、一つ、やつてみるから聞いてゐろ、柳家小さん、馬楽、しん生、と次から次へと語る面白さ、(それはネストルの化身かとも思はれるやうな)女房である私は物語ればかたるほどに、聞いてゐればゐる程に寒々としたものにとりかこまれて、涙は溢れ、気持だけではなく、肉体の苦痛を感じ、とめどもない牧野の哀しい(牧野の心情を思へばそれは限りなく哀しい)お喋りに蓋をしなければなりませんでした。折々、憂欝に取り憑かれて、それは底なしの憂欝でした。地獄の底にでも通じてゐるやうな、暗い暗い顔付をして、終日、いや幾日も過さなければなりませんでした。涙脆く、気が弱く、素直な、悲しい心になりました。瞳は力なく瞬きましたけれど、うつくしく澄んでゐました。

牧野せつ「つぶやき」
昭和12年6月




西姿
 
山本健吉「牧野信一」
昭和16年10月




 
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早稲田大学時代 大正11年頃 昭和9年12月



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