中原中也 ︻なかはら・ちゅうや︼ 詩人。明治40年4月29日〜昭和12年10月22日。山口県山口市に生まれる。山口中学時代から短歌を雑誌や新聞に投稿しはじめるも、学業を怠けるようになり、大正12年に落第。大正14年3月、恋人の長谷川泰子と共に上京するが、同年11月に泰子が小林秀雄の許へ去るという事件が起こる。昭和4年、河上徹太郎や大岡昇平らと同人誌﹁白痴群﹂を創刊。昭和8年、東京外語専修科仏語部を卒業。以後、生涯を通じて就職せず、詩作に専念する。昭和9年、処女詩集﹁山羊の歌﹂を刊行。平易な用語と天成のリズム感によって、哀切な喪失感をうたった。以前からノイローゼを発症していたが、昭和11年、長男・文也の死により、精神に変調をきたし入院。退院後、鎌倉に転居し、第二詩集﹁在りし日の歌﹂の編集をすすめたが、昭和12年10月22日、結核性脳膜炎により死去。享年30歳。代表作は﹁山羊の歌﹂、﹁在りし日の歌﹂など。 ︹リンク︺ 中原中也@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 中原中也@文学者掃苔録図書館 著作目録 詩・短歌 ‥ 発表年順 翻訳︵詩︶ ‥ 発表年順 翻訳︵散文︶ ‥ 発表年順 小説・童話・随筆 ‥ 執筆年順 評論・その他 ‥ 発表年順 回想録 音楽に就いて云へば、彼は私の所へ来てはよく私の貧弱なレコードのコレクションを繰返し繰返し聴いた。彼の最も喜んだのはバッハのマタイ受難楽中のアルトのアリア、それから同じくバッハのハ短調オルガン用パツサカリアであつた。此のレコードは彼の為に何遍針を載せられたか解らぬ位であつた。私が持つて居ないのを知り乍ら、よくモツアルトは無いか無いかと云つたりした。セザール・フランクには激しい嫌悪の言葉を吐いた。併し夫はその音楽が嫌なのではなく、何か不機嫌な聯想を持つものらしかつた。夫は或は自分自身の姿であるらしくも思はれた。又或る時は自分でベルリオーズの幻想交響曲のレコードを携へて来て、どう思ふかと異常な熱心さで聞いたりした。私は余り重要視して居なかつた此の曲に就いて、改めて考へさせられたりしたものであつた。又或るときは蓄音機を聞きたがらず、あの針を載せてから、音楽が始まるまでの間の針音に堪へられないのだと云つたりした。 内海誓一郎﹁追憶﹂ 昭和12年12月 僕が初めて会った頃の中原は、丁度ヴエルレーヌの描いたランボオの肖像そっくりの格好で、つまり真黒な服とワイシャツ、鍔の広い山の低い御釜帽子で、頭の毛を長く首の所まで垂らし、両手を上衣のポケットに突込んで歩いていた。そして人に会うとすぐからんで来て、実に傍若無人のつき合いをした。常に興味と嫌忌の交錯した気持を感じないで彼の話を聞いていることは出来なかった。この印象は実に特異なもので、彼を知らない人には伝え得ないものだ。恐らく彼とつき合って心から楽しかったものはないだろうし、しかも彼の話が全然面白くない者は、芸術を論じるに足りぬ人間であろう、こういうと得手勝手な話になるが、然し彼自身の方がもっと得手勝手なのである。 河上徹太郎﹁死んだ中原中也﹂ 昭和12年12月 中原中也の肉体は小さかつたけれども重たく不透明だつた。それはあたりの色をも変色させるやうな毒気をもつてゐたやうに思はれる。 それでゐて彼の心象はかなしく澄み、いつも半音調の楽器がなつてゐた。彼が酔ふと毒舌になつたり破れたりするのもその悲しい透明な韻律のなす業であつた。彼の律儀さも間にあはなかつた。︵中略︶ 彼の詩の朗読をレコードにしておきたかつたと告別式の日に自分は洩したが、全くこれは残念なことをした。自分達の﹁歴程﹂の会で彼の朗読は度々きいたが、彼が声を出してよむと彼の詩ではなんとも言へなかつた。自分の知つてゐる範囲で﹁独自﹂なといふ言葉に恥じない朗読をしたのは宮沢賢治と中原中也だけである。あとは山脈のデコボコの高低に過ぎない。 草野心平﹁中原中也﹂ 昭和12年12月 大学時代、初めて中原と会つた当時、私は何もかも予感してゐた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期の心に堪へた経験は、後になつてからそんな風に思ひ出し度がるものだ。中原と会つて間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に︵人間は憎み合ふ事によつても協力する︶、奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌はしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言ふまでもなく、中原に関する思ひ出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白といふ才能も思ひ出といふ創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだつた中原も、この出来事に関しては何も書き遺してゐない。たゞ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、﹁口惜しい男﹂といふ数枚の断片を見付けただけであつた。夢の多過ぎる男が情人を持つとは、首根つこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。そんな言葉ではないが、中原は、そんな意味の事を言ひ、さう固く信じてゐたにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は﹁口惜しい男﹂に変つた、と書いてゐる。が、先きはない。﹁口惜しい男﹂の穴も、あんまり深くて暗かつたに相違ない。 小林秀雄﹁中原中也の思ひ出﹂ 昭和24年8月 中原中也はこの娘にいささかオボシメシを持っていた。そのときまで、私は中也を全然知らなかったのだが、彼の方は娘が私に惚れたかどによって大いに私を呪っており、ある日、私が友達と飲んでいると、ヤイ、アンゴと叫んで、私にとびかかった。 とびかかったとはいうものの、実は二三米離れており、彼は髪ふりみだしてピストンの連続、ストレート、アッパーカット、スイング、フック、息をきらして影に向って乱闘している。中也はたぶん本当に私と渡り合っているつもりでいたのだろう。私がゲラゲラ笑いだしたものだから、キョトンと手をたれて、不思議な目で私を見つめている。こっちへ来て、一緒に飲まないか、とさそうと、キサマはエレイ奴だ、キサマはドイツのヘゲモニーだと、変なことを呟きながら割りこんできて、友達になった。︵中略︶ オイ、お前は一週に何度女にありつくか。オレは二度しかありつけない。二日に一度はありつきたい。貧乏は切ない、と言って中也は常に嘆いており、その女にありつくために、フランス語個人教授の大看板をかかげたり、けれども弟子はたった一人、四円だか五円だかの月謝で、月謝を貰うと一緒に飲みに行って足がでるので嘆いており、三百枚の翻訳料がたった三十円で嘆いており、常に嘆いていた。 坂口安吾﹁二十七歳﹂ 昭和22年3月 彼がカソリックを信仰しだしたといふことは最近きいたことだが、それは洗礼を受けたといふのでもなく、教会へ行くといふのでもなく、聖書をよんで一人で泣き一人で祈つてゐたのである。ヴェルレエヌが教会の扉を押し破つて入つてサンタ・マリヤの像の前で涙を流して告訴してゐたのを警官は暴行罪として拘引したといふ話があるが、さういふ発作的な祈らずには居られぬ感情の昂揚を彼も幾度か経験したのであらう。このやうな宗教意識についてはもつと彼に親しかつた人達によつて解明して貰ひたい問題である。がまた彼の中にヴェルレエヌに対するあのランボオの激情的な悶えがあつて、彼の不幸は限りないものであつたと思ふ。さういふ部分の彼は死後に非現実的な脚光を沿へるものであるが、人間としての彼が宗教を求めてゐたことは僕を深く打つものがあつた。 阪本越郎﹁中原中也を憶ふ﹂ 昭和12年12月 病気で倒れる前、数ヶ月このかたの中原中也君は、明るく希望に満ちてゐたやうに私にはながめられた。私と同氏との日の浅い交友は、今年のはじめ、私が鎌倉に引き移つて以来のことである。私は氏の過去については殆ど知らぬのだけれども。この春以来の氏は氏の今までのうちでも、格別にわるい状態ではあるまい、むしろいい方ではないのか、とひそかに思つてゐた。最近の時からもうかがはれた、子供さんを失つた大きな痛手からもやうやく回復し、新しい希望に向つて心を燃してゐるといふふうに見えた。最近詩作は少なかつたけれども、そこからわるい状態を推測しなければならぬやうなものではないと思つた。むしろ反対で新しい発足の前の休息のやうに思へたのであつた。 この秋には大体一年位滞在の予定で帰郷することになつてゐて、帰郷後の生活や、仕事についてもいろいろ楽しい予想を持つてゐたのである。夏頃から私と逢ふとその話があつた。﹁中学生のやうな気持で﹂と云つて、若々しく前をのぞんでゐる自分の気持を語つたこともあつた。︵中略︶ そしてさういふ此頃の氏であつただけに、氏の思ひがけない卒然の死といふものが、ひとしほいたましくてならぬのである。 島木健作﹁追悼﹂ 昭和12年12月 暫くして、先の家とは又別な、しかし同じく上水道に添つた畑の中の、小さな僕等の家に荷物を運んで来た。そして三人の一年近い共同生活が初つた。 三人の生活と云つても、一切は五郎さんがやつた。朝早く炭火を熾す焚付けの煙が家中に流れてゐて、井戸のポンプを押す音の中に低い五郎さんの口笛が聞えるのを、隣合せのベツトの中に寝てゐる中原は大きな眼を開けて聞いてゐた。晩方になると三人が三人で夕食の材料をぶらさげて帰つてくる。中原はみつばのしたしが好きで毎日それを買つて来たが時期によつて値段に高低のあることに気付かなかつたので、二十何円か八百屋に支払つた月があつた。中原は料理には知識もあり自信もあつたが、当座の用にはたゝなかつた。五郎さんが黙つててきぱき調理してゐる傍で、中原は次ぎ〳〵に失敗をしては、何の手助けも出来ないのを悲しんだ、たゞ、葱の刻ざんだのを水に晒してレースをかけて喰べる料理は中原の発明で、それを作るのは中原に限ることになつてゐた。布片にくるんで長いこと氷の様に冷い井戸水の中に入れてもんで、きら〳〵光る白い葱の山を皿にのせて運んで来る時に、中原は嬉しさうであつた。 関口隆克﹁北沢時代以後﹂ 昭和12年12月 文也坊やが生れて彼は歓喜し、幸福な日々を送っていました。ところが、その急死によって悲嘆の底に陥いり、ついに気がふれて入院しました。そして苦しみ、衰弱し、幻視や、幻聴や、幻覚に悩みました。﹁白蛇が、ホラ、坊やを狙っている﹂と真顔でいい、指すところを見ると、屋根瓦と雨樋が月の光に濡れているのでした。最愛の人の死にあって狂う、という昔話はきいたことがありますが、今の世でも、そのような純愛の人があるのを知りました。︵中略︶ 病の進行は思いの外に迅速で、みるみる衰弱し、やがて意識を失い、わずかに十数日で危篤に陥りました。最後の日、見舞うと手を握って名を呼ぶ私を知ってか知らずか、呟くように、﹁二つの神を同時に信ずること……﹂といったようでした。何を言おうとしたのか。それきりもう一言も発しませんでした。そして慈母のふくさんにみとられ、彼の魂は故郷の山口に帰ったのか、去って行ってしまいました。 関口隆克﹁中原中也との出会いと別れ﹂ 昭和49年1月 中原と泰子さんの関係も、両方からきくともなしにきいた。それで私が中に入ってなんとかするというようなものではなく、私はただ、眺めているだけだった。中原は以前のように彼女との生活をしたいらしい。しかし、﹁あいつに会うのは嫌だ﹂と泰子さんは云っていた。﹁会うのが嫌なら、ここへ来なけりゃあいいじゃないか。﹂中原が毎日アトリエへ来るのは、そこで彼女に行き会えると思ってかもしれない。またよく落ち合った。そうして私の前でけんかした。取組み合いも数回やった。広いアトリエだから活躍できるが、彫刻台が十台も列んでいる。﹁とっくみ合うのは勝手だが、俺の彫刻をぶっこわすなよ。用心してけんかしてくれ!﹂中原は小さくやせていたから、いつも彼女に負けて、ふーふー息をついていた。けれどもこんなにけんかした時は、かならず二人は一しょに帰ったから面白い。たぶん私が二人を同時に帰したのだろう。次の日来た時は双方ともけろりとしていた。 けれどもある日、中原は分厚い綴じた原稿を持ってきた。﹁これは誰にも見せない、あいつにも見せないんだけど、僕が死んだら、あいつに読ませたいんです。高田さんには見てほしいんだ。﹂全部愛の詩であった。私は読みながら涙がにじみ出たのをおぼえている。 高田博厚﹁人間の風景﹂ 昭和47年12月 中原が、アテネ・フランセに通っていた頃、九段下の泡盛屋で、よくのんだ。東大の仏文の講義の盗聴も、中原はしていた。富士原清一に言わすと、中原のフランス語は、なっていないということだったが、外語の専修科にも通ったので、進歩したのであろう。家庭教師なども、したようだ。 ベルレーヌの猥詩を、二つ、中原は、訳してくれたことがある。或雑誌に掲載するため、中原に依頼したのであった。﹃ランボー詩集﹄なども訳しているが、京都時代は、中原は、まだフランス語は知らなかった。 私は、昭和の四、五、六、と三年間、東京には居なかった。この間に、中原は、﹃白痴群﹄を出した。昭和七年の一月、私は上京して、中原との交友が復活した。 彼は、洗足池の近くに居たり、牛込の方にも居たことがある。﹁ヴァレリーはサラリーマンにすぎぬ。﹂と言って、ヴァレリーの肖像写真の拡大したものを、私の目の前で、破いたりしたのは、原町の木立の多い家の二階の部屋だった。書棚には、有朋堂の、﹁古代歌謡集﹂﹁近代歌謡集﹂などがならんでいた。詩の形態、及び発想には、人知れぬ苦労を、重ねていたのである。 高橋新吉﹁中原中也の思い出﹂ 昭和50年3月 謙助︵註、中也の父︶が寝ついたとき、私は中也に、﹁お父さんも長くはないかもしれんよ﹂と、いってやりました。すると中也は、﹁月に一回ずつ、とにかく帰ってきます﹂といい、さっそく、うちに帰ってきました。 中也は謙助の枕元にいって、なにか話をしておりました。そのとき、文士のようなものにならずに、まじめに勉強して、サラリーマンになれ、といわれたんでしょう。中也は私のところにきて、お父さんって、おかしな人じゃね、わけのわからん人じゃね、としきりにいっておりました。 ﹁それはすべて、あんたの将来のことを心配してじゃから、あんたは怒るもんじゃない﹂ ﹁いや、全然わけのわからん人ですよ。あんな人とは思わなかった。ぼくがせっかく一生懸命にやっておるのに、やめさせようとするのだから﹂ そのころは、中也も詩を書くことに、かなり自信があったようです。それをやめさせようとばっかりしたんですから、中也は不満でしかたなかったんです。いま考えると、中也はほんとうにつらかったろう、と思っております。 東京から、中也は二、三回ほど、自分の詩を印刷したうすいものを送ってくれました。︵中略︶ 謙助は寝ついてから、中也が送った詩を読んでおったことがありました。そして、涙をこぼしておりました。あの涙がどういう涙であったか、私にはようわかりません。けど、中也の詩を読んで、涙をボロボロだしておったのは事実です。 中原フク︵註、中也の母︶述・村上護編﹁私の上に降る雪は﹂ 昭和48年10月 中原君の詩はよく読んだが、個人としては極めて浅い知合だつた。前後を通じて僅か三回しか逢つて居ない。それも公会の席のことで、打ちとけて話したことはなかつた。ただ最後に﹁四季﹂の会で逢つた時だけは、いくらか落付いて話をした。その時中原君は、強度の神経衰弱で弱つてることを告白し、不断に脅迫観念で苦しんでることを訴へた。話を聞くと僕も同じやうな病症なので、大に同情して慰め合つたが、それが中原君の印象に残つたらしく、最近白水社から出した僕の本の批評に、僕の人物を評して﹁文学的苦労人﹂と書いてる。その意味は、理解が広くて対手の気持ちがよく解る人︵苦労人︶といふのである。僕のちよつとした言葉が、そんなに印象に残つたことを考へると、中原君の生活はよほど孤独のものであつたらしい。︵中略︶ 中原の最近出したラムボオ訳詩集はよい出来だつた。ラムボオと中原君とは、その純情で虚無的な点や、我がままで人と交際できない点や、アナアキイで不良少年ぢみてる点や、特に変質者的な点で相似してゐる。ただちがふところは、ラムボオが透徹した知性人であつたに反し、中原君がむしろ殉情的な情緒人であつたといふ一時である。このセンチメントの純潔さが、彼の詩に於ける、最も尊いエスプリだつた。 萩原朔太郎﹁中原中也君の印象﹂ 昭和12年12月 二人のことをどうにかしなければというわけで、小林が大島へ行こうといったのは十月のことです。午後の十二時か一時でしたか、品川の駅で落ち合う約束をしました。当日、私が出かけようとしているとき外出していた中原が戻ってきたのです。雨も降っていました。中原はまた出かけるだろうと思っていましたが、その様子がないのです。私は嘘をついて品川駅まで行きましたが、もう小林はいませんでした。 小林は大島から小笠原をまわって戻ってきたようでした。帰京後、小林が盲腸の手術をしたと聞いて病院に見舞に行ったときには、私の決心はついていました。 だから、私は悩んだり考えたりしませんでした。﹁行くわね、小林のところへ﹂と中原に告げました。中原は机に向かっていたと思います。顔をあげ、尻あがりの語調で﹁ふうん﹂といいました。驚いたふうもないのです。 小林も同じ高円寺に住んでいましたから、引越しは簡単です。私が荷造りをはじめると、娘を嫁にやる父のように中原も手伝ってくれました。当時、それほど私たちは愛とか憎しみとかを知らなかったのだと思います。私は自分のしていることが、他人にどんな痛みと犠牲を払わせるか気づかないのでした。あれは、小林が二十三、私が二十一歳でした。別れた中原は十八歳です。 長谷川泰子﹁中原中也との愛の宿命﹂ 昭和49年3月 あのころ、中原や青山︵二郎︶さんたちの仲間は、本格っていうことで、すべてを測っておりました。それが評価の基準なわけです。あれは本格か、そうじゃないか、まずそれをみるんです。そんな基準のものさしで、たいていの人は中原にやっつけられて、逃げていきました。︵中略︶ 中村光夫さんが﹁レアリズムについて﹂︵﹃文学界﹄昭和十年十一月号。編者︶というのを書いたことがありました。それは左翼的な書き方のところがあったんでしょう、そこが中原には気に入らなかったみたいです。あるとき、中原たちとゾロゾロと料理屋に行ったとき、中原は連れだって一緒に行った中村さんをつかまえて、卓の上に倒しちゃって、首をしめました。﹁こいつめ、左翼のようなこと書いて、……﹂とか何とかいって、中原は一人で腹を立てていました。中村さんはされるがままに、庖丁を入れられる鯉みたいにジーッとしておりました。 中原もそうだし、青山さんもそうだと思うんだけど、つねにいうのは人間の根性なんです。流行に支配されるというのかな、主義に走るなどということを中原はもっとも軽蔑しておりました。つまり、そんなのは本格じゃないときめつけておりました。 長谷川泰子述・村上護編﹁ゆきてかへらぬ﹂ 昭和49年10月
山口中学時代 大正14年 昭和10年
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