岡本かの子 ︻おかもと・かのこ︼ 小説家、歌人、仏教研究家。本名、岡本︵旧姓、大貫︶カノ。明治22年3月1日〜昭和14年2月18日。東京赤坂青山南町の大貫家の別荘に生まれる。大貫家は神奈川県の三百年来の大地主。明治39年、与謝野晶子に師事し、雑誌﹁明星﹂などに短歌を発表しはじめる。明治43年、漫画家の岡本一平と結婚し、翌年、後に芸術家として大成する太郎を出産する。昭和4年から7年にかけての渡欧を機に小説家へ転進し、芥川龍之介との交流を描いた﹁鶴は病みき﹂︵昭和11︶により文壇に登場。昭和12年、母性愛を昇華した﹁母子叙情﹂により文壇的地位を確立し、その後も精力的に文学活動を続け、豊穣華麗な文体による作品を多く発表した。また、小説以外にも大乗仏教に関する研究、エッセイを多く発表し、独自の生命哲学を展開した。昭和14年2月18日、脳溢血により死去。享年49歳。代表作は﹁母子叙情﹂、﹁老妓抄﹂、﹁東海道五十三次﹂、﹁家霊﹂、﹁雛妓﹂など。 ︹リンク︺ 岡本かの子@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 岡本かの子@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説・戯曲 ‥ 発表年順 短歌 ‥ 発表年順 紀行文 ‥ 発表年順 仏教論 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 かの子女史はある時女ばかりの会合の席で――その席には、長谷川時雨、平林たい子、森田たま、板垣直子、その他四五人の顔があつた――相変らずゆる〳〵した口のきゝ方で一平氏の自分に対する敬愛をこんな風に語つた。 ﹁私がね、少し帰りに晩かつたりすると、顔をみると拝むのよ。ほんたうに拝むの。有難いんですつて……それはねえ、私が器量がいゝとか、才能があるとかいふためではないのよ。﹂ そのあとをかの子女史がどう説明したかは忘れてゐる。たゞその﹁拝むのよ﹂といふ言葉が臆︵お︶めずにゆる〳〵と語られた雰囲気だけが記憶にこびりついてゐる。 その時にもう一つ、異様に見えることを言つた。かの子女史がらん〳〵とした眼でゆつくり一座を見まはして ﹁私、この中に好きな人がたつた一人ゐるのよ。﹂ と言つたのだ。かの子女史に愛され度いと思つてゐる人は恐らく一人もゐなかつたが、何だか籤︵くぢ︶を引かされたやうな気分にさせられたことは事実である。 それから数日して、森田たま女史にあつた時、森田さんは顔をしかめて、 ﹁岡本さんて気味がわるいわ。あの日の帰り道にそつと私の傍によつて来て、さつきこの中に好きな人が一人ゐるといつたのあなたのことよつて凝つと私の顔をみるの。﹂ といつた。なるほどと私は思つて、その次平林さんにあつた時そのことを話した。︵読者よ、私のチヨコマカしたおしやべり癖のいやらしさには私自身もうんざりしてこれを書いてゐるのです︶平林さんは怒つたやうな顔できいてゐたが、ふうむと深い息をついて、 ﹁さうですか……実は、私もあの帰りに岡本さんに同じことを言はれたのよ。﹂ といつた。さうして大きな声で笑出した。私も笑つた。化かされた当人より色の浅い笑ひ方だつたが、あとはひどく索漠とした。事をかまへて強ひて他人の心を自分にひきつけようとする岡本かの子その人の孤独の深さが身に食入つて来た。かの子女史の死後追悼会の席で、一平氏がかの子女史の写真の前で落涙滂沱と頬を伝ふのを現に私はみたが、涙を流しても拝んでも、一平氏によつてかの子の孤独は救はれなかつたのである。 円地文子﹁かの子変相﹂ 昭和30年7月 かの子は妻と片付けられる女ではなかつた。 僕にとつて母と娘と子供と、それから師匠でもあり友だちでもあつた。 日常生活で一ばん濃厚なお互ひの感じは、子供同志といふ感じであらう。ひたむきな性格で、如才なくとか、いはゆる要領よくとか、いふ事が出来なさうに見ゆるかの女を、僕は憐んだ。かの女はまた僕の粗笨で、時にはどうでもいゝやと投げてしまひさうな性格を、危いものに思つた。しかしその実、僕の方には多少、世故に慣れた狸のところもあるのだが、かの女は自分のひたむきな性格の鏡に写して、その方面は見えないから、たゞ危ないものに思つて一生懸命、庇ふやうにした。相手が自分の好意に従はないと互に怒つた﹁なんだ子供の癖に﹂﹁なんです子供の癖に﹂ かの子のひたむきで思ひ入る性格の現れた例を一つ想ひ起す。かの女は嘗てある雑誌から桜百首を一週間の期限で頼まれた。昼夜兼行で桜のあらゆる姿態を胸裏に描いて詠んだ。それが出来上つたので雑誌社へ渡し、ちやうど季節も桜が咲いたので、上野の山へ実物の桜を見に行つた。足は清水堂の辺にかゝつて、そこの崖にちらほら咲き始めた桜が眼に入ると、急にかの女は胸を悪るくし実際に嘔吐した。空想でも桜の姿をかの女はすでに満喫し、もうそれ以上、事実の桜の如きは嗜慾に受容れるに堪へなかつたのだ。かの女のひたむきな性格が精神と肉体を分たず自由に馳せ廻つたかういふ例はいくらもある。 岡本一平﹁妻を懐ふ﹂ 昭和14年4月 岡本 僕は、僕の母親には、いわゆる母性というものはなかったと思うよ。 有吉 わたくしもそう思うんですよ。作品読んでも、ぜんぜん母性というものを感じないもの。金切り声をあげて﹁母性、母性﹂と叫び続けているんだけれども、まるで実体がないんですよ。わたくしは、大変失礼な言い方をしてごめんなさい、岡本太郎は、はたして彼女の子かという疑問を持つくらいなんです。つまり、産んでいるのかしら、と思うときがあるんですよ。というのは、あんなに母性母性というのなら、やはり、産むときの苦しみとか、身ごもつているときの母親の感慨とかが当然、出てこなければならないと思うんだけれども。︵中略︶ 岡本 産んだことは事実だろうけれど、岡本かの子の場合は、そんなこと関係ないんだな。そこが彼女の凄いところ、素晴しいところですよ。僕はしよっちゅういっていることだけれども、岡本かの子の場合は、母性というものがないんですよ。もしあるとすれば、大母性だな。大母性と母性とは違うと思うんだ。そういった意味で、かの子は大母性だったと思う。ということは、いわゆる母性というものにぜんぜんこだわらない。 一番、僕としてかの子に困っちゃったのは、まあ、母親ぶってはいたけれども、僕が中学生になったら、甘えちゃってねえ。ときどき母親的権力的な態度をとることが、たまにはあったが。こちらの妹みたいなふうになっちゃって、どうも、こっちから見れば、おばあちゃんともいえないけど、えらい年上で、お母さんなのに、甘えられると困っちやうんだねえ。これ、どうも始末に悪い。甘えて甘えて、妹みたいになって、うっかりすると、こっちがお父さんになったような錯覚を起こすくらいにね。非常に困ったよ。ときには嫌気を覚えたね。だけども大きく考えると正しかったと思うんだ。ということは、人間というのは同時に母親であり、娘である。 岡本太郎・有吉佐和子﹁“母”なるかの子﹂ 昭和49年3月 岡本さんの日常の生活振りを、ここに書き伝へるつもりはないが、岡本さんは随分贅沢な浪費家と見られてゐた。事実また、一平氏は手綱を放して、寧ろ贅沢癖を鼓舞してゐたであらう。したいだけの贅沢はして来たと、かの子さんはよく話したものである。さういふ欲望はもう満ち足りた後でゆつたりと落ちついてゐた。さうして私の女房に時々打ち明けてゐたのは、見かけによらず、また世間が思ふよりも、簡素に恬淡と暮してゐるといふことだつた。その話は聞いてゐてをかしい一方、しんみりとした響きがあつた。真剣な子供のやうであり、大人の思慮もあつた。一平氏の健康と仕事とをいたはつて、負担を軽くするといふ心配りは、なかなか深かつた。贅沢な装身具もどこかに置き忘れてゐるといふ風で、物欲の執着を超えてゐた。金や物のしたりげな使ひ方は、遂に知らなかつたと言へるであらう。また、贅沢を見せて歩いたり道楽に耽つたりする暇もなかつた。社交的なものも出来るだけ避けて、ひとり書斎に籠つた。岡本さんの姿を見てゐると、この人が異常な刻苦勉励家だとは、ちよつと信じにくいのであるが、自分の書庫を一度見せたいと、いつか私の女房に戯れ言つてゐたことがある。作物にうかがへる教養と博識、また遺作の驚嘆すべき質量で、今はこの人の狂的なばかりの勉強を疑ふ者もあるまいが、その精神の贅沢もまた豪華なものであつた。高貴で豊潤な美女といふものは、物質と精神の贅沢な生活なしには絶対に生れない。美女の生成は、神の面でも、悪魔の面でも、芸術の創造と一脈通ずるものがある。岡本さんの美女が死や滅びを思はせるほどの、生命の極光を放つのも、道理である。 川端康成﹁岡本かの子序説﹂ 昭和14年7月 岡本かの子さんは世間周知のことであるが、大貫晶川といふ芥川龍之介氏と友人だつた若い文学者を兄としての処女時代を送られ、その頃から明星の与謝野晶子女史の門下であつたから文壇人との交際もあつた。一平氏の夫人となられてから、漫画漫文で天才を博した一平氏が全く渾身的愛を以つてかの子さんを愛し、さうしてかの子さんの豊かな天分を育てた。全く幸福なかの子さんであるが、またご自分でも自分は幸福だと常々いはれてゐた。幸福、幸運児といふ自信があるから人に対しても臆さない。世に対しても負目を取らない。もちろん臆したり負目を取らないほどの才もあるのであつた。ラジオにも講演にも座談会にも何でも出る。さうしてどんなことでも滔々とあの博学と熱弁でやつてのける、全く近代式の明朗な女性であつた。 杉浦翠子﹁牡丹くづれぬ﹂ 昭和14年4月 だが、日常の岡本さんを知つてゐる者は、あのやうに世間の色々を書きわけて行つたその見聞や知識の広さに驚くにちがひない。 私も不思議でならなかつた。 去年の暮、有楽座でお逢ひした際、どうしてあんなになんでも知つてるんです。見かけたところは、何も世の中を知らない奥様、と言ふより無邪気で大まかなお嬢さんとしか私の眼にうつらないんだが、と無礼なことを言つたことがあつた。 すると、岡本さんも恥しさうに笑つて、小首を傾け、自分自身も不思議でならない、生活者としては不能に近い自分だが書きはじめると、ペンの先きから種々雑多な具体的な事実が流れはじめる、そんなこと知つてるとは自分でも気づかないことが、小説の進行のうちにひよこひよこ踊り出て来るんだ、と言つたやうなことを語つた。 私は、 ﹁あなた天才だ。﹂ と言つた。まことに、小説の天才である。 武田麟太郎﹁岡本さんを悼む﹂ 昭和14年4月 このひとが何とも挨拶に困るやうな厚化粧の極彩色で歩いてゐる姿を一二度、見た事がある。その印象はグロテスクであつた。細川ちか子氏が、﹁あの化粧を見てゐるとどう考へても知的婦人といふ気がしない﹂といふ意味を書いてゐた。私は岡本氏を知的婦人とは思はないが、あの化粧は然し、さういふ批評を超越した﹁堂々たる一流の態度﹂であつた。氏の文学における﹁堂々たる一流の態度﹂にも、初期の作品には、ちよつと正視し難いあの化粧を思はせるグロテスクがある。 恐らく、化粧においても文学においても、岡本氏が平然とこの態度を押し切つた﹁無邪気﹂さが、氏の芸術の異色を支へてゐたのであらう。かういふ﹁無邪気﹂さが、川端康成氏などから観ると、﹁この世ならぬ美しさ有難さ﹂と感じられたに達ひない。氏はその追悼文で次のやうに書かれてゐる。﹁自己陶酔の、また自己崇拝のナルシスムは岡本さんのいちじるしい性格である。﹂ 十返一﹁岡本かの子論﹂ 昭和15年12月 谷崎 ぼくは兄貴の大貫晶川を通じて、いろんな……。高等学校が一緒だつたし、ぼくはあそこの家へも泊つたり何かしたんだけれども、嫌いでしてね、かの子が。︵笑︶お給仕に出た時も、ひと言も口きかなかつた。︵笑︶ ︵中略︶ 谷崎 学校は跡見女学校でね、その時分に跡見女学校第一の醜婦という評判でしてね。︵笑︶ 武田 ひどいことになつたな。 谷崎 実に醜婦でしたよ。それも普通にしていればいいのに、非常に白粉デコデコでね。︵笑︶だから、一平といつしよになつてからもね、デコデコの風、してましたよ。着物の好みやなんかもね、実に悪くて……。 武田 そうそう、それは確かにそうかも知れない。 谷崎 それでとてもいやだつたんだ。歳取つてヘンにふとつたでしよう。それだから醜婦の所が判らなくなつたんですよ。︵笑︶ 武田 これは今日の座談会の中で、一番面白いな。︵笑︶こういう岡本かの子論て、今までなかつた。 伊藤 実際ふとつて割合いに見よくなりましたね。醜婦が判らなくなりましたね。 谷崎 そうなんです。 十返 だけど、あのお化粧は、実際、変つてたな。 谷崎 一平はチャキチャキの江戸ッ子で、大貫のほうは田舎ですからね、一平がなぜこんなものを貰つたんだろうねつて、蔭で悪口を言つたんですよ、木村荘太か何かとね、言つたおぼえがありますよ。︵笑︶ 谷崎潤一郎・伊藤整・武田泰淳・三島由紀夫・十辺肇﹁座談会 谷崎文学の神髄﹂ 昭和31年3月 この二人の芸術家は、結婚後十年近く経た頃には、普通の夫婦の関係は一切清算して居て、一平はかの子の芸術的天分を如何にして育てゝ行くかに就いて、深い愛情を注ぐやうになつてゐた。童女かの子の生活は世俗を超越して文字通り探美耽美の生活に没頭してゐた。だから彼女は時々恋愛めいた感情を抱き、相手の青年にそれを通じさせようとする努力なぞは全然やらないで、相手に自分の気持が通じない悩みを自分独りで噛み締めながら、その中から悦びを味ふといつた調子だつた。さうした時には彼女の紳経は針のやうに鋭く尖つてゐて、一平は勿論私にまで苦しい気持を告白するのが常だつた。私達は彼女の気持を落ち着かせることに随分苦心したものだ。 一度こんなことがあつた。神田のYMCAの講堂でエルマンだつたかクライスラーだつたかの演奏会があつた時、彼女の隣の席に若いロシヤ人が居り、演奏の合ひ間に彼女に英語で話しかけて来たのを私が通訳した。このロシヤ人は実に美貌で知的な感じのする青年だつた。彼女はこの青年にたつた一度会つただけだつたが、その翌日から恋情が日毎に募つて行き、数ヶ月といふものは傍の見る目も傷ましい程悩み続けたことがあつた。このロシヤ青年に対する感情を詠つた短歌が、彼女の歌集の中に数首載つてゐる。いつか誰かが彼女について書いた中に彼女はいつも傍に若い燕を持つてゐたと書いてゐたがそれは間違ひで、彼女の恋愛はいつも自分だけの頭の中に描いて苦しみ悩むことによつて、自分の芸術的紳経を研ぎ澄ましてゐたのだ。だから一平もかの子のさうした純情を愛し、彼女がこの世を去るまで、無限の愛情を彼女の上に注いだのだ。 恆松安夫﹁若き日の一平とかの子﹂ 昭和30年3月 たしか明治四十二三年頃のある日、馬場孤蝶先生のお宅に、いつものように、五・六人の文学ずきの若い女性が集つて、座談の面白い先生から、そのころさかんに日本に入つてきた外国文学についての四方山はなし︵主にロシヤや北欧作家の小説や劇についてのお話でしたが︶をうかがいました。その席に見馴れない、どこかまだ幼な気のあるひとりの女学生がおりました。この日はじめて出席したので、先生から大貫かの子君と紹介されました。――これがわたくしのかの子を知つた最初でした。長い袂の縞の着物にえび茶袴という当時の女学生共通の姿ですが、袴のつけ方などにどこかやぼつたいものがあるので、地方の女学校出の、東京へ遊学に出てきた地主階級の娘さんという感じでした。 この集りは、たしか週に一回ありました。あるとき、連れだつて帰る途中、かの子はわたくしにからみつくように寄り添つて、しきりになつつこく話しかけてきます。――それはわたくしをとうからよく知つていたということ、上野図書館で一緒だつたということでした。そしてわたくしについての実に微細な観察を、頭のさきから足のつまさきまで一々言われるにはびつくりしました。わたくしはそんなところでひとから穴のあくほど見られていたとは全く知りませんでしたから。 ﹁あなたが観音さまのように見えて、あなたばかりじつと見ていたのですもの、あなたの見えない日は、とても淋しくて……﹂ その後も、かの子はわたくしにいつも親愛と信頼を示し、よく自分のこと令兄晶川氏のことなど話しました。 平塚らいてう﹁若き日のかの子﹂ 昭和29年6月 生前かの子が人々に与へてゐた印象は、眼立ちやすい色彩をあまりにまざまざと示してゐたので、彼女の意の在りどころを汲みまどつた人々は、その性格なり生活なりをほしいままに臆測し誇張して、一つの岡本かの子的観念を何時のまにかでつち上げてしまつてゐたのだ。そしてその映象が醸し出す揺影は、かの道明寺伝説をすら思はせるやうな異様な精気と妖気とを放つてゐた。それは死後の今日に到つても尚且人々の胸裏に生きて印象づけられてゐるし、それがまた或る一部の人々、その道の具眼の士すらも、眼をそむけしめるやうな嫌な後味を件なつてもゐたのである。 このやうに彼女が我々に与へた印象が、漠として掴み難いままに辺りに撒き散らす色彩と匂ひだけは強烈に感じ取ることが出来たので、彼女を賞讃するにも非難するにも、一種の意味ありげな苦笑ひを交へれば、言はうとする気持は相手に通じると言つたやうな不思議なところがあつた。人々は彼女の豊富さに虚飾を見、彼女の稚純さに姿態︵ポオズ︶を見た。そして彼女の悩ましい肉感性はなべて厭はしいものであつたのだ。そのやうなことは総べて彼女の揺影させる雰囲気が齎した不幸であつたと言へるであらう。今こそ我々は、彼女に於ける厭はしいものこそ彼女の偉大さに外ならぬことを知り、あまりに豊富であつたがゆゑに孤独であつた彼女の魂を見るのである。 山本健吉﹁岡本かの子の文学﹂ 昭和15年4月 ある時、新聞社の講堂に文芸講演会が催され、その講師のなかに岡本かの子があった。これはぜひ聞いてみたかった、いつもわたくしに向って説かれる求道講話を思うにつけ広い講堂での講演はそもいかにと聴衆の一人になって待つと、夫人が壇上に現れた、お化粧はいつものように念入り綺麗によそおってそれこそ丹花の唇、これは天与の大きなまるい眼をじっと見張って、 ﹁……人間はじぶんを生涯かけて自分自らクリエートしてゆくもので……そのクリエート……﹂ ここで人間の精神形成の要を説かんとして意あまって言葉足らぬ哀しみに眼はますます大きくつぶらに――しばらくじつと壇上に立ったまま……いくらか娯楽気分で集まったその日の聴衆はクリエートの連発に中毒した顔でつまンなそうである、けれども壇上に泰然自若と立ったまま、一語も軽くは発せず心に湧き出ずる真実の言葉を待つごとく夫人はいつまでも黙して立っている。その姿のいかに天真爛漫にしかし精神的重量感のある逞しい童女であったろう。 文芸講演といえは才気や機知を弄して大向うをどつと笑わせたりしない限りうまくゆかないものと思い込んでいたわたくしは、いまかの子夫人のその精神貴族の悠然とした態度に頭がさがり自らの俗物根性が腹が立って口惜しくてならなかった。 吉屋信子﹁逞しき童女﹂ 昭和36年
跡見女学校時代 昭和初年頃 昭和7年3月
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