宇野浩二 ︻うの・こうじ︼ 小説家。本名、宇野格次郎。明治24年7月26日〜昭和36年9月21日。福岡県福岡市南湊町に生まれる。明治43年、早稲田大学英文科に入学。明治45年より、同人誌に習作を発表しはじめる。大正8年に発表した﹁蔵の中﹂、﹁苦の世界﹂により新進作家としての地歩を確立。ユーモアとペーソスを交えた、饒舌体の作品を多く発表した。昭和2年、妻と愛人との板挟みなどから精神異常に陥り、入院。昭和8年に﹁枯れ木のある風景﹂で復帰後は、作風を一変させ、﹁器用貧乏﹂︵昭和13︶や﹁思ひ川﹂︵昭和23︶など、無飾の文体で冷厳に現実を見つめる作風となった。また、その文学へのひたむきな情熱から︿文学の鬼﹀と呼ばれる。晩年は、広津和郎とともに松川事件被告の救援運動に参加し、﹁世にも不思議な物語﹂︵昭和28︶などを発表した。昭和36年9月21日、死去。享年70歳。代表作は﹁蔵の中﹂、﹁山恋ひ﹂、﹁子の来歴﹂、﹁器用貧乏﹂、﹁思ひ川﹂など。 ︹リンク︺ 宇野浩二@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 宇野浩二@文学者掃苔録図書館 宇野浩二@近現代日本文学史年表 著作目録 *制作未定* 回想録 ところで、右のシラフのはなしの内容は何であったか。宇野さんはいつどこでも文学しか語らない。すなわち、われわれは主としてフランス文学を……ここでまちがえてはいけない。なまいきな青書生のわたしが論じたのではない。フランス文学を語って倦むことを知らなかったのは、じつに宇野さんのほうであった。宇野さんは論客が論ずるように唾をとばさない。あたかも恋をささやくように、ひそひそと、綿綿と語る。そして、わたしはときにその意見にしたがい、またときにこれに逆らう。それで結構はなしになった。︵中略︶翻訳があるかぎりでは、宇野さんは好んで西欧の文学をあさっていた。耽読ということばがあてはまる。それはほとんど翻訳本の活字に憑かれたもののようにさえ見えた。訳文の未熟も生硬も、誤訳ですら、これをいとわない。あまいものがなくては我慢できないひとが駄菓子屋の飴玉までしゃぶるおもむきであった。 石川淳﹁宇野浩二﹂ 昭和36年9月 銀座が出たついでにもうひとつ。ブラ〳〵、それも果しなく饒舌りながら︵これはお互ひだが︶歩きながら彼はこつちの事などは無頓着に、目についた明るいシヨーウインドとを片つ端から覗き込む、満面に笑を湛へて﹁これ、これ﹂と言つて指したりする、そして後からその﹁これ、これ﹂と言うに至つた説明がある。あゝして物をよく観てゐるだけに、彼は自分の持物にはなかなか注意して、金の出たいゝ物を買ふ様だ。靴にしても帽子にしてもその他についても、殊に下駄はステキなものを買ひ込むでゐる。が彼は決してそれを大切さうにしない、飄々とした形に帽子を冠る、書生の様にステツキを振回す。下駄を引ずつて歩く、些ともおさまつたところがない、さうかといつてダラシがないのでは勿論ない、気取らないのだ。︵中略︶ 何かの雑誌に宇野君が蒲団の中で原稿を書くことが載せてあつたが、まつたく感心するほどよく寝ころんでゐる人だ、それも三伏の暑さにめげす寝てゐるのだから驚く、側には朱塗の三味線が、時としては着てゐる蒲団の上に置かれてある、彼は三味線もひけるし唄もやるさうだ、惜しい哉僕はまだ不幸にして聞いたことがない。蒲団の中で書いた原稿だとはとても思はれないきれいな文字を書く、僕も雑誌編輯などといふ職業をしてかなりたくさんの人々の原稿を取扱つてゐるが、彼のそれほどきれいな原稿はあまり類例を見ない。 大木雄三﹁足音が大きいやうだ﹂ 大正9年2月 ﹃小説家にはどうしておなりになつたのです﹄ ﹃これより仕方が無かつたのでしよう。この仕事だけが一つ残つてたのですね。下宿屋も知人の処も喰ひ詰めて仕舞つて他に何一つ金になる商売は出来ず、これになるよりほかに仕方が無かつたのですね。その当時広津はもう作家として立つて居て金が入つて居ました。それを見るし旁︵たゞ︶その時分評判の小説も読んでみましたがこんなものなら自分にも書けると思ひましたね。︵中略︶﹄ ﹃小説でもつて何を書こうとなさつてるのです﹄ ﹃これは――あの虫にこういろ〳〵変な触覚を持つてる奴があるでしよう。︵頭の先へ細長い指を出し、その真似をして︶あれですよ。小説家は人間にあれを持つてる奴なんですね。これを生れ付きに持つた奴は何が何といつてもこの触覚を振り回さずには置かないのですよ。あなただつてそうでしょう。何かこう変な触覚があつてその為めあなたのような絵を描かずには置かないのですよ。うふふ﹄ 岡本一平﹁寝床の上の作家﹂ 大正13年8月 宇野さんは“速達魔”と名づけたいほど速達をよこすひとであった。ひと月ほど私の訪問が途切れると、きまって手紙か葉書が速達便で届く。格別の用事があるわけでなく、今月号の誰それの小説は読んだが、さっぱり感心しないが感想を聞かせてほしい、とか、○月号の○○誌の○○の小説が載っているはずで入手してほしい、とか、○○の編集者がきたが執筆はことわった、とか、そして末尾に、こういうことがちょっと書きたいが、と添えられ、呼び出しのようでもあり、そうでもないような文面である。はじめのうちはそのたびに出向いたものだが、会ってみると、文学談がしたいだけのようであり、しかしそうではありながら要するに執筆予約なのだ。 宇野さんの文学談は確かに面白い。作家や作品に対する見識は独特のものであり、辛辣な批評をとぼけた語り口で繰りひろげられるのは聞き飽きない。しかし長話すぎる上に、コンタンがわかりだすと、そのうちにこちらも横着になって、速達が二つ三つたまったところで腰を上げるようになった。 木村徳三﹁文芸編集者 その跫音﹂ 昭和57年6月 私の知人関係では宇野浩二氏をお喋りの王座にすゑなければならない。相手に喋る隙を与へず自分ひとりのべつ幕なしに喋りまくるのである。恐らく黙つてゐるのが気づまりで、沈黙が恰も心中にうごめく醜悪な怪獣であるかのやうに不快であるのかも知れない。 宇野さんは喋るといふより言葉に憑かれたといふ感じである。ひとこと喋る。すると宇野さんの頭の中には忽ちその言葉をめぐつてひどく虚無的な嵐が吹きはじめるものらしい。慌てふためいてまた喋る。また虚無的な苦痛を重ねる。とまるところもなく喋りつづけてしまふらしい。非常に疲れるだらうと思ふのである。聞いてゐる私の方がひどく疲れてしまふのだ。 宇野さんは人に会ふのが嫌ひらしい。こんなに神経を使つて喋り、喋つて虚無感を深めるのでは、人に会ふのが苦痛なのは極めて当然だと思ふのである。 坂口安吾﹁お喋り競争﹂ 昭和11年12月 先生は前々から長唄は唄だから吉住派の研精会︵?︶が本流で、その他の諸派はぜんぶ邪道だといっぱしの見識を口にされていたし、︵私はこの道には門外漢だから間違っているかも知れない︶﹃夢見る部屋﹄その他の諸作で主人公が三味線を爪びきながら小唄、端唄を口ずさむところを描いていられるので、私は先生の長唄はよほどお上手なものと思いこんでいた。 しかし先生がひとたび見台に向って正坐して唄い出されると――先生のことなら、何によらず一も二もなく無条件で礼讃してしまう私も、これだけは﹁大へんなことになった﹂と逃げだしたくなった。 先生はまるで音痴なのだ。私も相当の音痴で、その点では決してひけのとらないほうだが、先生のはちょっとひどすぎた。真似の出来ない、すっかり音階のはずれた不思議な半音が先生の口を衝いて出てくるのだ。伴奏の三味線などてんで問題にされないで、不思議な音階を先生は発し続けられるのである。三味線をひく芸者は先生の唄に合せるのに四苦八苦だ。︵中略︶ 私は五秒でも十秒でも早く、先生の長唄の終るのを願った。ところが、これが実に長いのだ。長唄などという長いものを、どうして作ったのだろうと、先生の初期の作品の表現を借りれば、私は天を仰いで、恨んだことだ。 高島正﹁宇野浩二先生の思い出﹂ 昭和38年9月 宇野さんの“今回はナシ”という言葉は、それから殆ど毎回、先ず出る例でした。復活第二回目の芥川賞になった、井上靖氏の﹃闘牛﹄は、新委員と元の委員との対立もなく、全員一致で推薦と言われたものですが、これも、宇野さんは渋り渋り仕方がなしに皆に同じたものでした。 字野さんは、何某の作が当選しかけると、﹁大負けに負けて、点を甘くして、強いて、しいて同情して﹂と言われ、大方は“未熟”“アキタリナイ”“イマダシ”と一言で片付けられ、素気ない風情でした。宇野さんはいつでも“今回はナシ”で、非情な否定的な立場で、委員会に臨んで、妥協はしない、キツイ感じでした。どの作を見ても採れない、未熟といわれるのは、それは、宇野さんの仕事の裏付けがあって出る言葉で、キツイものでした。海千山千の却を経たような目からは、乳くさい大方の文学少年︵まだ青年でもない少年︶の習作などは、採れないのは当然でしょうが、それにしても、一徹非情で、大した自信だなと私は見ました。︵中略︶ 芥川賞の銓衡会では、いつも消極的で、じっとして、しずかですが、妙に存在が確かでした。いかめしい容赦しない六ヵしい風采は、たとえて言えば、候補者にとっては、閻魔大王みたような存在とも言えましょうか。また、苦虫をみたような、“今回はナシ”と言われる極り文句も、実は何とも言えない愛嬌があって、やはり千両役者だと、私は見ましたが。 滝井孝作﹁芥川賞と宇野浩二﹂ 昭和38年9月 今でもさうだが、彼は其の頃から年よりは大分老けて見えた赤黒い皮膚をして、頭髪は薄く、其の癖アブラハム・リンカーンみたいに揉上げだけをばかに長く伸ばして、もう口髯を蓄へて居た。最初の間は何だか怖さうな男だと思つて居たが、案外挙動はおとなしくつて、﹃あたし、頭が痛い﹄とか、﹃あたし、何だかこわい。﹄とか云つた風の、少し甘たれた、女性的な物の云ひ方をするのが際立つて耳についた。一晩泊つて、翌日僕は彼等と一緒に鎌倉から江の島へ遊びに出かけたが、浩二は途中で気分が悪くなつたと云つて、一人で帰つてしまつた事を覚えて居る。︵中略︶ 大正八年は浩二の当り歳であつた。一躍して文壇へ出ると、昔は彗星とか、鬼才とか云はれたものだが、浩二に至つてモンスタアなる言葉が代用される様になつた。だが我々からみれば此のモンスタアの正体はそんなに奇怪な物ではない。驚嘆すべき畏懼すべき何物でもない代りに、又決して軽蔑したり、不真面目だと云つてけなし去つたりすべき物でもない。彼は案外素直な、気の弱い、センチイメンタルな男である。而して彼の其の素直さ、気の弱さが、もつと端的に作品の上に現れる様になる事を望んで置く。 谷崎精二﹁モンスタアの正体?﹂ 大正9年2月 病気以前の宇野は陽気で、快活で、才気換発だったが、病後の宇野はすっかり陰気で、無口な人間になり、二人で会っても一向話がはずまなかった。若い頃殆ど毎日の様に行ったり来たりしていたのが、めったに会わない様になった。晩年、宇野は殊に出不精になった様だ。︵中略︶ 話は前後するが宇野が病気になった頃、一度長い手紙をもらった事がある。原稿紙数枚をつらねた長文だった。︵私は昔から人の手紙を取って置く習慣がないので、この手紙もなくしてしまった。︶ ﹁トルストイに︵ゴッド・オンリイ・ノウス︶と云う短篇がある。貧しい農夫が盗みをした疑いで捕えられて警察の留置場へ入れられる。本人は全く身に覚えのない事である。そこへ妻が面会に来て、﹃お前さん、早く白状すれば罪が軽くなるから一日も早く白状なさい﹄とすすめる。女房までもおれを疑っているか。おれの無罪を信じてくれるのは神様だけだ、となげくと云う筋である。僕は今、女房にも、母親にも、多くの友人にも気違いだと思われている。唯一人、君をたよる。君だけは僕が気違いでない事を信じ、保証してくれ﹂と云った、極めて悲痛な文面だった事を覚えている。 谷崎精二﹁宇野浩二と私﹂ 昭和38年9月 昭和の初め頃だったと思うが、後から思えば、それは宇野さんが精神に異状をきたしていた時分のことである。私は父︵註、徳田秋声︶から、こんな話を聞いたことがあった。 或日、宇野さんが訪ねてみえ、小さな風呂敷包を持って、父の書斎に入ってくると、入口のところに、ぴったりと行儀正しく坐って、﹁昔の大名は蒔絵の御虎子︵おまる︶で便をとったそうです﹂とだけ云うと、すっと立ち上って、そのまま出ていってしまった、と云うのである。 父は、﹁宇野はおかしいよ﹂と云って、私に、その時のことを話していた。 その時分、宇野さんは、小さな風呂敷包を小脇に抱えて、――多分その中には原稿用紙と万年筆が包まれていたと思うが、﹃仮装人物﹄の中の水ぎわの家の玄関を開け、﹁部屋がありますか﹂と云っただけで、さっさと出て行ってしまったりもしていた。精神に異状をきたしても、小説のことが念頭を離れず、執筆道具を携えて、町を彷徨い歩いていたようだ。 徳田一穂﹁森川町の宇野さん﹂ 昭和37年6月 家庭に於ける宇野を謹厳なる主人公と云つたが、実は謹厳を通り過して―― 一種の暴君だ。然しどうも僕にはそれが愛矯に見えて仕方がない。何故かと云つて彼の暴威は、彼の細君のみに対して振はれるので、それも朝から晩迄のべつ幕なしに叱り飛ばしてゐるのだ。例へば自分の封筒を使つたと云つては叱り、出先に鼻紙が用意してなかつたと云つては叱り、お茶の入れ方がぬるいと云つては叱り、妻君のする事なす事の悉が気に入らないやうに見える。それがあまり極端なので、妻君にとつても、彼自身にとつても、また第三者にとつても愛橋にもなる訳だが、あれが本心からの憎しみで怒るのなら彼の妻君たるものは、一日も我慢は出来ないであらう。こんな事があつた。或る日僕が遊びに行つた時に、尤もその日は朝から妻君に対して御機嫌が悪かつたらしいが、彼は僕に到来ものゝ蜜柑を御馳走しやうと思つて妻君に﹁おい、蜜柑〳〵﹂と怒鳴るのだが、彼の語調が余り荒々しいので、妻君また何か叱られてゐると思ひ込んで、おど〳〵してゐる為、蜜柑〳〵と云つてゐるのか、いかん〳〵と聞えるらしい。それで妻君彼の意を察し兼ねて躊躇してゐると、彼は堪りかねて、それだ〳〵と云つて蜜柑を指したので、妻君始めて解り、﹁貴郎があまりがみ〳〵被仰るから蜜柑がいかん〳〵と聞えるんですよ、だから何が不可ないのかさつぱり解らなかつたんです﹂と云つて三人共大笑ひをした事があつたが、結局宇野は妻君に対しては、確に大供の我儘一つぱいのだだつ子に違ひがない。 永瀬義郎﹁文傑おとまりの肩﹂ 大正13年8月 さて、この桜木町時代に、宇野君の行動に変調を来し始めた。最初これは変だぞと気がついたのは、各デパートから自宅払いの品物が次から次と届いて、絹子夫人をあわてさせた事である。品物を買った宇野自身は、ケロリと忘れている状態なので、絹子夫人は品物を返しに百貨店へ行き、以後宇野が買物に来ても、自宅払いにしない様に頼んだ程である。︵中略︶そこで斎藤茂吉博士に診て貰ったところ、やはり精神に異状を来しているから、仕事をさせずに、ぶらぶら遊ばせて置いて様子を見てみようと言うことになった。宇野君自身では、身体の調子が少々悪いぐらいにしか思っていないので、依頼の原稿はぼつぼつ書いていた。︵中略︶静かな温泉場へでも連れて行けば、病気のためにもいいだろうと、箱根の強羅へ母親と僕と一緒に彼を連れ出した。小田原で下車して、タクシーを探している間に、宇野君の姿が見えなくなった。これは大変だと、僕は人力車の溜りへ行って、﹁今、誰かもみあげの長い客を乗せなかったか?﹂ときいてみると﹁そのお客さんなら、私が今しがた料理屋へ案内したばかりです。何んでも、死ぬ程腹がへってたまらないと言ってました﹂と言うので、僕は直ぐその車に乗って料亭へ行き、宇野君の通された二階の部屋へ上がった。するとその座敷に宇野君が、床の間に生けてあった薔薇の花びらを毟り取って口いっぱい、ほおばっている。その餓鬼の姿を目のあたり見て、唖然として僕は其処へ立ちすくんでしまった。 永瀬義郎﹁文学の鬼にも女難があった﹂ 昭和37年5月 宇野浩二という人は誰か一人としか話しない。五人なり十人なりで集まって、めいめいそれぞれ他の九人に向って話すというやり方、あれがこの人には生得できなかったのかも知れぬと思う。これは、そういう場面に出会した人があれば説として成り立たない。自分一人の経験から、主張することはできぬが今のところ私はそう思っている。あの人は、ほかの人には眼もくれないで、誰か一人だけ相手を見つけてきてその人間と話しこむ。これは、大ぜい人のいる時には、相手にえらばれた方で迷惑のようなところへ追いこまれてしまう。私としていえば、私ははじめて宇野浩二に会ったときにそういう目に会ってまごついたことだった。︵中略︶ 低い声は決して高くならない。話は決してとぎれない。話がおもしろおかしいところへ来ても、落ちのようなところへ来ても、声が高くならないで却って低くなるくらいになる。その間、宇野浩二は一度も眼を上げない。ちらっと見ることはあるが、そのまますぐ伏目にしてしまう。︵中略︶話はまことに面白く、しかし私はいささかたじろぐ思いをした。これは、私だけが初めての顔で、一座のなかでぎこちなくなるのを救おうとして気を使ってくれたのかも知れなかったが、何しろ初めてであり、一種きゅうくつな、顔を持ってこられるため忍術をかけられて縛られているような時の経過を感じないではいられなかった。 中野重治﹁顔を持ってくる人﹂ 昭和37年7月 彼の虫嫌ひな事は評判なものだ。何か乗気になつて喋つてゐる間に、ふと彼が黙り込む。そんな時に気がついて見ると、それはそれはちつぽけな虫が、障子の桟などを這つてゐる。近眼の彼がよくこんな虫が見えるな、と思ふ程に、彼はよく虫に気がつき、それに慴える。彼と一緒に歩いてゐる時など、態と地面を見ながら立止つて見せると、ぎよつとしながら、﹃君、なあに?﹄と云ふ。蛇がゐたんぢやないかと直ぐ思ふのださうである。 いつだつたか、上野の山から、上野停車場の横手に降りる細い道を降りかけた時に、僕が何の気なしに、ステツキで道端の草を叩いたのだ。そしたら側に歩いてゐた彼が、﹃あれつ!﹄と魂消た叫び声を揚げて、一目散に駈け出した。それにはこつちが吃驚した程だつた。彼に追ひついて、﹃どうしたのだ?﹄と訊いたら、﹃君が草を叩いたので、蛇でもゐたのかと思つたのだ。ああ、恐かつた!﹄と彼はほつと吐息をしながら云つた。こんな事が始終ある。 広津和郎﹁人の好い古狐の感じ﹂ 大正9年2月 三年程前に、僕はその頃本郷西片町にあつた彼の家に同居してゐた。僕は徹夜して翻訳をしてゐた。すると夜中に、かなり烈しい地震があつた。僕は柱にもたれて、もう少し烈しくなつたら、雨戸を開けようと思つてゐると、側に眠つてゐた彼が不図眼をさまして、﹃君、なあに?﹄とおづおづ訊いた。﹃地震だよ﹄と僕が答へると、彼は﹃こはあ! こはあ!﹄と震へ声で言つて、蒲団をかぶつて、手足を屈めて、身体をまん丸くして、縮み上つてしまつた。……その時の彼の顔は未だに忘れられない。﹃何かにおそはれてゐる男!﹄そんな気がして、彼のために心が痛んだ程だつた。その時分、僕が夜中に眼をさまして見ると、彼はそつと、まるで人に忍ぶやうにして、よく聖書と論語とを寝床の中で読んでゐた。僕は直ぐ眼をつぶつて知らん顔をしてゐたが、夜中にさうして人知れず論語や聖書を読んでゐる彼が、何となく好きだつた。――彼のためにどんなにでも弁解しよう、さう云ふ親しみを彼に対して覚えた。 広津和郎、同上 ﹁今論文を書いているんだ﹂と上機嫌に言った。 ﹁何の論文だ?﹂ ﹁医学上の論文だ。俺の思考力は俺の字を書く速力の三倍の速力をもって走っている。俺の頭には後から後から考えが湧いて来るんだが、手で書いていては間に合わない……﹂ 彼はそういうとともに、字を書かずにただポンポンと鉛筆で原稿用紙の上に点を打ち始めた。その点を打つ手の動きがだんだん加速度が加わって来て、妙に調子がつき、見るからに苛立たしそうであった。 ﹁よし、僕が代って書いてやろう﹂と私は言った。 ﹁そうか。君が書いてくれるか。それじゃ書いてくれ﹂そう言って宇野が立ち上ったので、私は彼の坐っていた跡に坐って鉛筆を取った。︵中略︶ ﹁好いか、書いたか﹂ ﹁ああ、書いた﹂と言ったが、私はただ原稿用紙の桝の中に彼がしたようにポンポンと点を叩いていただけであった。真面目に筆記してもどうなるものではない。 ﹁好いか、書いたな。……俺の祖父は悪者だった。……ああ、まだるっこいな。俺の思考力は俺の舌の速力の三倍だ。書いたな。……どうだ、素晴らしい医学上の発見だろう﹂ ﹁ああ、素晴らしい発見だ﹂ 彼は縁側からつかつかと私の側に寄って来て、私の顔をじっと見つめながら、 ﹁お前は証人に立つんだぞ。たとい俺に医学博士の学位を贈ると言っても、俺は文学者だからそんなものは受けない。好いな、その時は、広津、お前が証人に立つんだぞ﹂ ﹁ああ、好いとも﹂ 私はそう答えながらナサケない気持で彼の顔を見返した。彼の眼は動かず、彼の頬の筋肉も動かないのに、彼の口だけが勢い込んで動いている。――やっぱりそうか、と私はその時がっかりしながら心に呟いた。やれやれ、この長い間の道伴れもとうとう頭が狂ったのか。朝から贔屓目に、好い方へ好い方へと解釈して来たが、それは結局気休めに過ぎなかったのか。 広津和郎﹁あの時代﹂ 昭和25年1月 ある朝、逃れられない私用があつて、私は珍しく六時半に起きた、馬鹿にねむいな、早起きは三文の得があるとは一体どこの閑人が云ひ出した事なのであらうなどとひどく不横嫌で洗面所へ降りて行つた。と、しんとしたあたりにじやぶ〳〵と水の音を響かせて、かな盥に手拭を入れてゐる人がある。宇野氏である。ほゝ宇野氏もこんなに今日は早く起きてゐるな、氏もきつと早起きは三文の方でなく、終日不快だと云ふ方の人だらうなどと思ひながら、﹁お早う。﹂位で別れた。 が、三四日立つとお文さんと云ふ善行表彰の入りさうな模範女中が私に、﹁宇野さんて方は朝の早いお方ですよ。けさも妾は宇野さんの足音で目がさめました。﹂と云ふのだ。 ある日、やや親しくなつた気易さに、私は氏にどうしてそんなに早起きなのですかときいた。 ﹁……自分がして来た恥かしい事、不快な事、嫌な事、変な事を思ふと、もう私は床の中にゐたたまらない。で、飛び起きます。早起きをしたいのぢやないのですが、いろ〳〵の過去の気恥かしい事をひよいと思ふと、此辺︵背中を指し乍ら︶がむづむづして起きてしまふのですよ。﹂ 私はぐつと急所をつかれた。成程……と思ふ同感の詞さへ、しばらく口には出ない。ぢつと堅くなつてその詞を腹の中で反噬的にかんだりくだいたりするばかりであつた。 三宅周太郎﹁一二のこと﹂ 大正13年8月
大正7年頃 昭和8年頃 昭和35年頃
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