与謝野晶子 ︻よさの・あきこ︼ 歌人、詩人。本名、与謝野しよう︵旧姓、鳳︶。明治11年12月7日〜昭和17年5月29日。大阪府堺市に生まれる。堺女学校補習科を卒業後、家業の菓子商を手伝うかたわら、独学で古典を勉強する。明治33年より、詩歌雑誌﹁明星﹂に短歌を発表しはじめる。同年、与謝野寛と熱烈な恋に落ち、家を捨てて上京。秋に結婚する。明治34年、歌集﹁みだれ髪﹂を刊行。女流による初めての画期的な歌集で、その鮮烈な自我の昂揚と、多彩な美の乱舞は大きな反響を呼んだ。明治37年、日露戦争に際して、長詩﹁君死にたまふこと勿れ﹂を発表。反戦的な内容で、文壇に論争を巻き起こした。明治末には源氏物語全巻の現代語訳に着手し、明治45年から大正2年にかけて刊行。大正時代からは、婦人・教育問題を中心に、評論活動も活発に行った。昭和17年5月29日、狭心症と尿毒症を併発し、死去。享年63歳。代表作は﹁みだれ髪﹂、﹁恋衣﹂、﹁舞姫﹂、﹁太陽と薔薇﹂、﹁白桜集﹂など。 ︹リンク︺ 与謝野晶子@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 与謝野晶子@文学者掃苔録図書館 著作目録 短歌・詩 ‥ 発表年順 古典現代語訳 ‥ 発表年順 小説 ‥ 発表年順 童話 ‥ 発表年順 美文・戯曲 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 さて女学校を卒業された後の晶子先生の御日常はどんな御様子であつたらうか。先生はいつもお店に坐つて御用の合間には本を読んでゐられた。その読書力の旺盛なこと、速いこと、記憶力の強いことは驚嘆に値するものであつた。或時御令妹に﹁歌を作るのに、古歌を暗誦して置くと、大変都合がいいから二人でこれを暗誦しませう﹂と仰言つて新古今集を出され、忽ちに全部を暗記してしまはれたのに、驚かれた話もある。高山樗牛の美学などもすでに読んで居られたので、同級の娘さん達の空虚な会話などをお聞きになると物足りなくお思ひになつたらしく、﹁あの人達はあんなつまらぬ話をして﹂と眉をおひそめになるのが例であつた。 父君や兄君が本を沢山蔵して居られたのを片端から御覧にもなつたが、又お家が富裕で比較的金銭に御自由であつた為、先生御自身も実によく新刊書を、後から後からお求めになつて、それを疾風のやうな早さで読破なさつたさうである。 岩野喜久代﹁堺時代の晶子先生﹂ 昭和17年6月 その頃先生は日本髪に結つて居られた。毎月何回と髪結が廻つて来て、みづみづしく鬢をふくらませて結ふ。色はあの通りお白いしおぐしは漆黒であつたので、よくお顔にうつつて大変お美くしかつた。それが結婚された後はお忙しさもお忙しいし、また度度髭結を呼ぶと云ふ御状態でもなかつたので、あまりおかまひにならなかつたところ、故寛先生が、﹁堺に居た時のやうな美くしい髪をも一度結つて見せて呉れ﹂とおせがみになつたとやら伺つた。 先生は口数の少い謙遜な方でいらしたが、その中でよく軽い上品な冗談を仰言つた。これは御家族も御弟子の方もよく存じ上げてゐることだが、堺時代にも、時時一同に腹を抱へさせるやうなことを仰言つた。その中に﹁短本庵﹂と云ふのがある。堺のお家に離座敷があつて、当時弟さんの勉強室になつてゐた。その入口の柱に先生が﹁短本庵﹂と云ふ標札をおかけになつて、そのわきに﹁これを逆に読むべからず﹂と書かれた。さう書いてあるので、部屋に来る人が皆さかさまに読んでしまふ。﹁何だらう。ああ、あんぽんたん。﹂冷かされた弟さんは、大らかな御性質と見え、それを外しもせず、暫くそのままにして置かれたさうで、その話も今はなつかしい思ひ出になつてしまつた。 岩野喜久代、同上 非常に若若しい方で、初対面の時の自分の驚きが、今も猶ほほゑましく思ひ出されるのである。丁度残暑のきびしい九月初めであつた。息をひそめて固くなつて、私はこの世紀の天才詩人の出現を、先生のお宅のヴェランダの椅子に倚つてお待ち申上げて居た。 ドアを開けて先生が入つていらした。藍色に白く大きな模様を染めぬいた絹紅梅の浴衣を、素肌の上にゆつたりと着こなし、素足に召したスリツパが隠れるほど、裾を長く引いて居られた。無雑作に金茶色の半巾帯をむすんで、極めて自然に、少しの気取つた所もつくつた所もおありにならないのだが、私は完全に圧倒されてしまつた。 率直に云つて見れば、先生からは世間普通の女人の感じを受けなかつた。一般婦人の持つしみつたれた女くささが少しも先生にはおありにならなかつた。丁度、新派の女形が女に紛して舞台に現はれたのを見るやうな感じであつた。女自身が持つ美でありながら、どうしても女優さんには表現の出来ないうつくしさを、河合武雄や、花柳章太郎は、心憎い迄に出してゐたが、先生はそれを持つていらした。 岩野喜久代﹁師としての与謝野晶子先生﹂ 昭和17年8月 夫人が寛先生に対してお怒りになつたと言ふ私の知つてゐるたつた一度の出来ごとは、この中六番町のお住まひの時でして、それは、金と金沙子の二種の二枚折の屏風に百首宛歌をお書きになつて頒布して、これが寛先生の洋行費の一部になつたやうに記憶してゐますが、寛先生が、世間の気に入るやうな歌ばかり書くと被仰つたので、芸術のことにまで干渉なさるのですかと言つて、非常なお腹立ちだつたさうです。すべてを投げ出して寛先生のために生きてゐるのを理解してくれないのかと言ふお気持もあつたでせう。それと、寛先生のお歌の真価はむしろ後生に待たなければならないやうに、世俗に理解され難いのに反し、夫人の歌の生前既にもてはやされてゐた原因は、やはり夫人の方が普通の人にも分かりいい点が多かつたからで、夫人としては世に媚びるのでも何でもなく、素直なお人となりから出て来るものが光つてゐたのを、俳句で言へば蕪村や子規の作品のなかにある佳さが同時に悪さであるやうな、男性特有の臭気の刺激に欠けてゐると言つて、寛先生がお咎めになつては、あたかも、文殊師利や舎利弗が龍女を批難するやうな非礼だつたのではありますまいか。 江南文三﹁与謝野夫人のおもひで﹂ 昭和17年7月 之は晩年に限つた事ではなく、既に七八歳の頃から纏つた文学書に親しまれた先生ではあるが晩年は殊に読書力の旺盛を認めない訳には行かない。先生のこのやうな制作力の陰には不断の読書の力のあつた事を見逃してはいけない。 トルストイ全集、ドストイエフスキー全集を改めて通読されたのは十二三年前と記憶する。ロシア文学につづいて仏蘭西文学、而して外国の小説は殆んど読破されたといつていい。最近御病人の心なぐさみとして傍の者が自分も楽しめるやうな大衆的なものをおよみしてゐたけれど、無抵抗主義の先生は又それを温和しく聞いていらしつたけれど、とにかく御健康の時は多く外国ものをおよみになつていらしつた。普通の女がお饒舌りをしなくつてはゐられないやうに先生は読まなくては被在られなかつた。ここでも私達は、良い習慣の有りがたさを想はせられる。 創作や、特別のお書き物の有る時の外はお食事がすめば読書、お客様がお帰りになれば読書、夜のお床では午前の一時二時に及んでも、しかも朝は非常に早起きで、お宅に在つても旅に出ても私は未だ先生のお寝坊をあんまり見ききした事がない。 近江満子﹁晩年の与謝野晶子先生﹂ 昭和17年9月 御性質のもう一面に無頓着と云ふ所が挙げられる。まづ先生に接した程の人は誰れしも気のつく、例の煙草の灰の事である。左手に敷島をくわへられたまんま、ぐつと静思をつづけ居られる事がままある。灰は無遠慮に胸、膝を汚す。しかも先生は一向無頓着である。あれ程潔癖の先生が、とここにも矛盾を感じるのである。 服飾類の流行についても殆んど無頓着で御自分のお好きな配色をおつむりの中で創作しては出入りの染物屋にお命じになる。時には之が五十何歳の召すものかしらと危ぶまれる程の大胆な柄、配色であつても、それをひとたび先生がお召しになると、ちやんとその着物を征服しておしまひになる。紫といふ色は最後迄お愛しになつて御臨終の〓布団、敷布団、は総ていく種かの紫で掩はれてゐた。 近江満子、同上 始めて鳳晶子と名乗る文学好きの女が堺に居るといふことを知つたのは、大阪で発行されてゐた﹃よしあしくさ﹄の支部を私達の発起で堺に設ける事になつた時、率先して堺支会に入会したからであつた。その名は明治三十二年新年号の同誌に鳳小舟の名で発表されてゐる。そして同年の二月号に矢張鳳小舟の名で﹁春月﹂といふ詩が載つた。これ乃ち晶子さんの執筆が活字になつてわれ〳〵の眼に映つた最初である。時に晶子さんは二十二歳であつた。 それ以前に晶子さんは歌を作つてゐたかも知れないが、恐らく旧派歌人の仲間に過ぎなかつたであらう。堺といふ土地はその頃まるで眠つてゐるやうな街で、保守的で旧習を重んじ、茶道、花道、謡曲などが行はれ、一方には義太夫、舞踊琴三味線などの遊芸が各家庭によろこばれ、商家などでは寧ろ文芸は忌避されてゐた。たゞそれでも漢学、国文の知名の人も二三は居て、多少指導はしてゐたから、晶子さんもそれらの人に就て、手ほどき位はしてもらつたかも知れないが、女学校を出てから十年近くの間、つまり堺に文芸の団体ができるまでは、専ら独学自修にいそしんでゐたと視るのが妥当であらう。 河井酔茗﹁晶子さんの堺時代﹂ 昭和17年7月 私どもは、晶子さんには、もう殆ど晩年に時々お目にかゝつただけで、若い時分は見てをりません。けれど、名前だけは割合早くから知つて居ました。尠くとも﹃明星﹄二号以下の晶子さんの作品は見てをります。いはゆる鳳︵オホトリ︶晶子時代なんですが、名前が異風だつたし、それに当時窪田空穂さんすら、小松原春子なんといふ名前にかくれて居られた直後で、相当男で女名に隠れてをつた人がありますので鳳晶子︵ほうしょうし︶などと間違へて訓み、暫らく男の筆名だと、思つてをりました。後に鳳晶子と訓むんだといふことをわかつて来た訳です。しかし、いかにも才気煥発した女らしさといふものが隠れずに現れて来たものですから、だん〳〵女だといふことが納得出来たのです。そのうち、晶子さんが東京へはしつて行かれたといふやうなことで、その点に疑問はなくなつたわけです。 釈迢空﹁早期の与謝野夫人﹂ 昭和17年7月 晶子さんは若い時から超凡を以て自ら持してゐた。﹁そんなことは凡下の人間の考へることで﹂といふやうな言葉は幾度聞かされたか解らない。時には自分を慰める言葉として、時には他人を嘲る言葉として、平凡人として平凡な生活や心情に甘んじてゐるのでは生き甲斐を感ずることができないのが晶子さんであつた。それ故女の日常生活、就中いかに経済的に生活すべきかといふやうな新聞雑誌の記事に対しては、折々軽蔑の情を隠されなかつた。しかしさういふことに全く無関心であるといふ訳ではなく、女の生活の全部が、或は中心が其処にあるやうに説かれるのを苦々しく思つたからであつた。ある時さういふ方面を力説するある婦人雑誌の話が出た時、﹁そんなことは女の生活の小さい一部分に過ぎないぢやありませんか﹂と言はれたのを明瞭に覚えてゐる。自分には他にもつと大きな使命がある。さういふ気負ひを常に失はれなかつたやうに思ふ。特に物質的に恵まれなかつた時代にそれが著しかつたやうに思ふ。晩年比較的自由な生活をされるやうになつても、この点は大して変化しなかつたらうと思ふ。 茅野蕭々﹁思ふまま―与謝野夫人について―﹂ 昭和17年9月 然るに﹁冬柏﹂が出るやうになつてからは事情は全く一変した。機関が出来た以上は毎月何か発表しなければならないのであるが、その必要もあつて吟行が俄に盛んになつた。殆ど毎月の様に旅行に出られる。しかも漸く老境に入られた作者は、生きてゐる間に一首でも多く作つて置きたい意志が動いてゐたと私には思はれるが、その歌数も俄然として増大した。私が勝手に想像する処では、日本の短歌は恐らくは作者を以て終るのではないか、今後後継者が期待出来ないとすれば、日本文学の為めに一首でも多く作つて後世に残す必要があるといふ優れた作者としての自覚が一つ、も一つは脳溢血の気配が濃厚に感ぜられる処からも生きてゐる間にといふ緊迫した促しもあつたであらうか。何れにもせよ、毎月発表せられる歌数は作者に於て特に多く一度に百も二百もしかもべた組みで出されたのでは、それがいくら佳作傑作揃ひであらうと、読む者の苦労は並大抵ではない。﹁冬柏﹂を毎号初めから終りまで読んだら忽ち神経衰弱になるだらうと専ら噂された位の歌数が毎月発表せられ、その中でも作者の分は質に於てはもとよりであるが、その数に於ても断然他を抜いてゐた。自分から他を推測するのはおだやかでないが、余程の暇でも無い限り之を難詰する勇気は私には無かつた。熱心な門人数十氏の外、毎月作られた之等の作を悉く読んで心の糧とし得た人が何人あつたであらうか私は疑ふのである。即ち結果から之を見る時は、歌人晶子は﹁冬柏﹂の発行を機として俄に作る所を増し、その最後の十年は前三十年に数倍する量が作られ、その内容も愈々精緻を極め恰もみがかれた璧のやうな感じを与へるものになつたが、その反面に於ては作者を世間から隔離してしまつたのである。単行本の歌集もそれつきり遂に出すじまひになつてしまつた。 平野万里﹁晶子女史の短歌﹂ 昭和17年9月 健康であつた間、毎年何回か友人達と旅行をして歩くのを唯一の楽しみとして居た母にとつて、旅行の出来ない苦痛は人の想像以上であつたらうが、容態の悪い時には旅行に来て居る様なことを口走つたり又或る時は全く錯覚を起して居る様なこともあつた。見舞の方々に近く網代へ行くから一緒に行かうと誘つて見たりして私に叱られる様なこともあつた。あまり旅行がしたさうなので昨年の夏は最も近い所を探し主治医と相談して寝台自動車で上野原の依水荘に移し荘主の好意に依つて寝た儘とは云へ母も避暑をしたことになつたが、これは家族としては大変な冒険であつた。又母はそれ程の贅沢とも感じなかつたであらうが、自動車の不便な時勢となり私達から見れば随分困難なことではあつたが、無事二ヶ月後には荻窪に帰れたのは何よりの幸せであつたと思つて居る。小仏峠を過ぎて九十九折に差しかゝつてから母が吐瀉して一同が心配した話や、末妹の藤子が母を見舞に上野原へ行つて居る留守に家が火事で焼け私がそれを母の心配せぬ様に怖る〳〵報告したこと、さては不随の方の左の耳が痛いと云ひ出し、確に虫が飛び込んだと母が主張するので多分神経のせいだらうと思ひながら耳鼻科の医者に急行して貰つたら母の云ふ通り大きな夏の虫が飛び込んで居たことなど、いろ〳〵なことが此の旅行丈けでも思ひ出される。 与謝野秀﹁晩年の母﹂ 昭和17年7月 千駄ヶ谷時代の母で思ひ出すのは、兄が六七歳、私が四五歳頃のこと、年に一度母が貧乏な中から﹁クリスマス﹂に贈物をして呉れたことである。私共が寝て居る間に枕もとに杉の枝を立て、今から思へば質素ながら玩具や菓子を吊しで置いて呉れた。菓子と云つても当時のことであるから金米糠か氷砂糖で、差づめ今なら﹁キヤラメル﹂と云ふところであらう。神保町と駿河台下の間、﹁十銭均一﹂﹁十五銭均一﹂と云ふ店があつて、相当後年迄母の買物と云へば大概そこに決つて居たから、玩具も勿論そこのものであつたらう。此の間神田で本を探して居たら、名こそ代つたが今でも此の店が残つて居るのを見て若かつた頃の母を追想した。唱歌などを歌つたことの滅多にない母も此の時代は私共にうたを歌つて呉れたこともあつた。それが今日でも歌はれて居る婦人従軍歌の節であつて、言葉は自ら作つた童謡のやうなものであつたが、事変後婦人従軍歌が盛に歌はれるやうになつてから、﹁ラヂオ﹂などで聞く度に幼かりし日を思ひ出し母は覚えて居るであらうかなどと思つたが、問ひ質すこともない中に、幽明境を異にすることゝなつて仕舞つた。もつとも母の記憶力は比類のないもので、聞くまでもなかつたであらうが。 与謝野秀﹁追憶記﹂ 昭和17年9月
大正4年頃 昭和の初め頃 昭和10年頃
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