尾崎放哉
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尾崎 放哉︵おざき ほうさい、本名: 尾崎 秀雄︵おざき ひでお︶、1885年︵明治18年︶1月20日 - 1926年︵大正15年︶4月7日︶は、日本の俳人。種田山頭火らとならぶ自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人である。
目次 |
略年譜
●1885年 ●1月20日 - 現在の鳥取県邑美郡吉方町︵現在の鳥取市吉方町︶に鳥取県士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男として生まれる。翌年一家は法美郡立川町︵現在の鳥取市立川町︶へ転居 ●1899年 - この頃より俳句を作りはじめる。 ●1902年 - 鳥取県立第一中学校︵現・鳥取県立鳥取西高等学校︶卒業。第一高等学校︵一高︶文科に入学。 ●1905年 - 東京帝国大学入学。いとこの沢芳衞に求婚、親類の反対のため断念。 ●1909年 - 東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。通信社に入社。 ●1911年 - 東洋生命保険株式会社に就職。契約課に所属。 ●1913年 - 契約係長となる。 ●1914年 - 東洋生命保険大阪支店次長として赴任。 ●1915年 - 東京本社に帰任する。﹁層雲﹂に寄稿。 ●1921年 - 契約課課長を罷免される。この年の暮れ頃東洋生命保険を退職する。 ●1922年 - 新創設の朝鮮火災海上保険に支配人として朝鮮に赴任。 ●1923年 - ﹁層雲﹂への寄稿を再開する。罷免される。満州に赴き再起を期すも肋膜炎悪化のため入院、手記﹁無量寿仏﹂を妻に口述筆記させる。一燈園に暮らす。 ●1924年 ●3月 - 知恩院塔頭常称院の寺男となる。 ●6月 - 知恩院塔頭常称院から須磨寺大師堂へ入る。 ●1925年 ●5月 - 福井県小浜常高寺の寺男となる。 ●7月 - 常高寺を去る。 ●8月 - 荻原井泉水の紹介で小豆島霊場第五十八番札所西光寺奥の院南郷庵に入る。 ●1926年 ●4月7日 - 南郷庵に死す。死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル。戒名大空放哉居士。作家論
季語を含めない自由律俳句の代表的俳人として種田山頭火と並び称される。旅を続けて句を詠んだ動の山頭火に対し、放哉の作風は静のなかに無常観と諧謔性、そして洒脱味に裏打ちされた俳句を作った。性格は偏向的であり、自身が東京帝国大学法学部を出ていながら、他の法学部卒業生を嫌うという矛盾的性格を持ち、また酒を飲むとよく暴れ、周囲を困らせたという。唯一の句集として、死後、荻原井泉水編﹃大空︹たいくう︺﹄︵春秋社、1926年6月︶が刊行された。
代表句
有名な句を以下に挙げる。
- 咳をしても一人
- 墓のうらに廻る
- 足のうら洗えば白くなる
- 肉がやせてくる太い骨である
- いれものがない両手でうける
- 考えごとをしている田螺が歩いている
- こんなよい月を一人で見て寝る
- 一人の道が暮れて来た
- 春の山のうしろから烟が出だした(辞世)
参考文献
- 村上護 『放哉評伝』 春陽堂 2002年