萩原朔太郎 ︻はぎわら・さくたろう︼ 詩人。明治19年11月1日〜昭和17年5月11日。群馬県東群馬郡前橋北曲輪町に生まれる。明治39年、前橋中学校を卒業後、複数の高校で入学、退学を繰り返す。大正2年、雑誌に詩を発表するようになり、北原白秋、室生犀星らと親しく交際する。大正6年、第一詩集﹁月に吠える﹂を刊行。その病的で特異な感覚表現を持った作風は大きな反響を呼び、新進詩人としての地位を確立。第二詩集﹁青猫﹂︵大正12︶により、近代人の心性を表現する口語自由詩を確立した。後期には文語体を用いるようになり、﹁純情小曲集﹂︵大正14︶、﹁氷島﹂︵昭和9︶など、激しい怒りと絶望に満ちた詠嘆的な表現世界を展開した。また、﹁新しき欲情﹂︵大正11︶などのアフォリズム集や、﹁詩の原理﹂︵昭和3︶などの評論も多く発表した。昭和17年5月11日、肺炎により死去。享年56歳。代表作は﹁月に吠える﹂、﹁青猫﹂、﹁純情小曲集﹂、﹁氷島﹂、﹁詩の原理﹂など。 ︹リンク︺ 萩原朔太郎@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 萩原朔太郎@文学者掃苔録図書館 著作目録 詩 ‥ 発表年順 *詩以外の著作目録は準備中です* ◆萩原朔太郎@青空文庫 ◆萩原朔太郎@近現代日本文学史年表 回想録 萩原さんを思ふと、またたくうちに灰皿に盛り上る﹁朝日﹂の吸殻の山が眼に浮んで来る。それが実に気忙しく、機関銃のやうに矢継早に喫み捨てられるのだ。それを見てゐるだけで、こつちも釣り込まれるのか、せかせかと忙しくなつて来る。 萩原さんは、酔ふと必らずお得意の手品が始まるのだ。その手品が、どうも甚だまづくて、いつも先に種が判つて了ふ。と、萩原さんは、眼を細くして子供のやうにはにかみながら、こんな筈ではなかつたが、と、幾度でも成功するまで繰り返すのだ。始めに種が判つた手品には興味はないからみんな飽きて了ふ。ところが、みんなが無関心になればなるほど、萩原さんの手品はいよいよ白熱化して来るのである。 萩原さんは、いつも宿命のやうな寂しさから脱れやうとして、あの気忙しさに溺れてゐられたやうな気がする。しかも寂しさはいつも先廻りをして、萩原さんの行手に立ちふさがつてゐたのだ。 岩佐東一郎﹁故人の印象﹂ 昭和17年7月 とかく印銘は初めてのときのが一番強い。いま記憶に浮んで来るのはやはり新しい頃のであるか、それは、一両度だつたが、たまの夜出のかへり、新宿の駅のガードで見かけた彼である。既に酔ひよろめいて、鈍つた酔眼の彼である。髪の毛も乱れ、その額の毛の乱れも彼らしい。そして老ひてはそれが少くなつてるからなほ目立つ。老ひて酔ひて、夜の地下道をゆく彼は、やはり晩年の書きものに現はれてゐる。彼の姿を具体化してゐる。彼ほどむき出しに、かくものが客に現はれてゐる人を私はみない。つまり彼が正直で純粋である証拠だ。久しくあはずにゐて、そうした彼にふと行きあふと、冥府から兄貴でも迎へたような気がした。余りのまなければいいがなあといつも思つた。室生君は酔つても危つかしい気がしないが、それはあのがつしりした身体つきのせいもあるが、萩原君のはあの小柄なきやしやさだし、壊れやしないかと思はせる危さだつたからだ。この危さは併し萩原君その人、その芸術の特色をなすものだから仕方がないことだ。 恩地孝四郎﹁顔﹂ 昭和17年8月 その時分、私が森鴎外博士を訪ねたをり、博士は突然﹃君は萩原朔太郎君を知つてますか﹄と切り出された。﹃あの﹁月に吠える﹂といふ詩集は面白いですな﹄と語られたことから詩壇人の作品評などになり、私が﹃あれは作者の実感を表したものだと思ひます。少しもウソがありません﹄といふと、博士も相槌を打たれ、﹃さうです。あれはほんとのものです。﹄と快く諾かれた。ついでに三木︵露風︶氏の詩をどうお思ひですかと訊ねると博士は﹃すこし邪魔になるものがある﹄と率直に語られた。その頃の文壇の先輩は詩に対して何の鑑賞力も、否、注意さへもしてゐないなかに、流石この先覚は的確に詩を見てをられる、と感嘆したものであつたが、また博士が一方にドクトルであることにおいて萩原君の病理的実感の真率なことが、はつきりわかるのだらうとも感じた。 川路柳虹﹁萩原朔太郎の詩の世界﹂ 昭和23年4月 萩原朔太郎はスノビズムを弾劾したばかりではない。あらゆるビジネスを、小説家や詩人の仕事すらも糾弾してはゞからなかつた。彼の考へによると、絶えず勉強して毎日何枚か書くところの小説家や毎日机に向つて詩を書くといふごとき人物は、そのビジネス的な心がけからして既に本質的な詩人ではないとした。従つて生涯にたつた一度、一篇の善い詩を書くために、生涯を浪費する、そのやうな精神の贅沢さを彼は強要した。それはいかにも山嶺の空気に似て、凡傭な生活者の堪え得るところではないに違ひない。しかし彼の逞しい精神は、生涯この弾劾を繰り返し、さうした天才者に望むところの浪漫的要求を停止することがなかつた。 阪本越郎﹁萩原氏のエッセイについて﹂ 昭和17年8月 私は大森の馬込部落の丘陵と森を、師萩原氏と逍遥する。雑木林の一径を行く。 ﹁この小路を、囁きの小路といふんだ、宇野千代がつけた名だ、落葉の音か、それとも尾崎士郎の囁きか、どつちかだらう。﹂ 私は道ばたの秋の千草を、摘んで行く、忽ちかなり大きな花束となる。十字路に出る。師萩原氏は、たもとから一枚の銀貨をとり出す。異国一シルリング貨である。それをはげしい勢で地面にいきなりたゝきつける。 ﹁あ、君、表が出た。室生のとこへ行かう。君を紹介しやう。堀辰雄も、よくあそびに行つてゐるよ。﹂ ○ 市ヶ谷観音境内の、荒寥とした二階建の寓居、美しい妹さんと二人暮し。 ウヰスキーに一、二滴のコカインチンキ、それを私にすゝめる。 ﹁僕は今、これなしに生きてゐられないんだ。ボオドレエルの、詩か恋か、阿片か死かの境地がよく判る。﹂ 士官学校の喇叭の練習の響がきこへて来る。 ﹁詩が、いや詩壇が無力なのは、伝統力がないからだ、師弟の関係が、礼節が、明らかでないからだ。僕には先生がなし。僕には弟子がない、とこれが僕の性格だ。﹂ 鈴木政輝﹁師 萩原朔太郎﹂ 昭和17年8月 第一詩集﹁月に吠える﹂は詩の革命であつた。言葉そのものに詩が具像化する第一の道は近代日本に於ては此の詩集によつて拓かれた。その点ボオドレエルの﹁悪の華﹂の場合と似てゐる。この両詩人はよく互に聯想されて論ぜられるやうであるが、私はこの比較を好まぬ。今述べた点を除いては一切が甚しく相違するので、もともと比較することが無理なのである。﹁月に吠える﹂一巻が其後の詩人に与へた影響は実に大きく、言葉といふものの取扱について、人は気のつかないうちにも自然と詩の正しさに導かれた。あの詩集の出たのは大正五六年頃と思ふが、その前と後との一般詩人の詩の傾向を微細に検討する者があつたら、この一事が明瞭となるであらう。この詩人の日本語に対する語感は、深く日本語の本質と淵源とにとどいてゐた。この詩人無くして日本の詩は有り得なかつた。 高村光太郎﹁希代の純粋詩人﹂ 昭和17年9月 萩原さんを知らない人は非常にハイカラな五分の隙もないスマートな風姿を想像するだらうが、私の知る限りでは萩原さんは割合に服装には無頓着でかなり野暮つたいところもあつたやうな気がする。しかも写真で見るやうな瀟洒な洋服姿の萩原さんよりも和服姿の萩原さんが私の印象には多く残つてゐる。最後に去年帝国ホテルで会つた時も、あの建物にやゝ縁遠い縞物の和服姿の着流しであつたし又大阪放送局のスタジオで会つた時もやはりさうだつたが、どうもすつきり身についてるといふ感じがしなかつた。それで思ひ出すのは前に書いた湯島の旅館に来て居られた時、いつも足袋のコハゼをかけないので、見かねて女中がよく嵌めてあげたものだが、それは当時私達の一つ話になつてゐた。また其の頃萩原さんは口付の巻煙草を愛用してたがいつのまにか吸口をくちや〳〵に噛み切つて煙草の三分の一も吸はないうちに吸口が無くなり、次々と煙草をとりかへ唇の周りにいつぱい紙屑をこびりつけたまゝ盛んに詩論をやつたものである。こんなところにも萩原さんのせつかちで神経質なしかも無頓着な人柄の一端が窺へるやうな気がする。 多田不二﹁萩原さんの思ひ出二三﹂ 昭和17年8月 このお宅︵註、室生犀星宅︶では萩原朔太郎氏にもはじめてお目にかかつている。 あたかもその日は、夕方近くになり、私も朔太郎さんと共に夕飯を御馳走になつたが、朔太郎先生のメシを食う図というものは、天下逸品だつた。まさしく壮観であり、めちやくちやだつた。 メシツブをポロポロとタタミの上にこぼし、自分の和服の膝の上はむろん、お膳の上にもところかまわず子供のようにこぼす。︵中略︶ 室生犀星は親友朔太郎の壮絶なメシツブのこぼしかたを見て嘆き、 ﹁なんというこつちや。この人はまあ。いくつになつても、めしをこぼして……﹂と軽蔑のような、感嘆のような声を発した。 彼はそういいながら、朔太郎の前のタタミに手をのばし、メシツブを小まめに拾つた。 それでも朔太郎は、ニコニコしながら、談論風発し、メシツブなどてんで問題にせず、ハシも動かした。顔はおだやかだが、意気正に天をつくばかり。 その時はもう大学生だつたと思うが、私はびつくり仰天した。こういう人種にはいまだかつて会つたことがなかつたので、﹁詩人とはなるほどえらいものだ﹂とひどく感服した。 津村秀夫﹁大森馬込時代﹂ 昭和39年8月 たしかその集りの帰途のことだつたと記憶するが、私は数人の友人たちと一緒に萩原さんのお供をして酒場へ行つた。酔ふ程に萩原さんはいろいろよく話されたが、私は黙つてそれを聞いてゐるだけで、なるベく萩原さんの方を見ないやうにしてゐた。それといふのも萩原さんの小説家嫌ひの理由が、小説家はいつも他人をぢろぢろ観察してゐるので気味が悪いといふのであつたことを知つてゐたからである。 私はかつて一度も萩原さんを特に観察したことはない。それでも何度か会でお逢ひしてゐるうちに、萩原さんが大そう物を食べることの下手な人だといふことを知つた。ナイフやフォークをうまく使へないので、容易に皿の肉を切ることが出来ないらしかつた。あるとき萩原さんは、まだよく切れてゐない肉にかじりつき、口からその肉をぶらさげながら、ナイフやフォークを宙に使つて切り落さうとしてゐられたが、知らない人がそれを見たら、この大詩人のことをまるで白痴かなんぞのやうに思つたかも知れない。さういへば萩原さんは、家庭で食事をする時には、いつも涎掛のようなものを掛けてゐられたといふことである。 中谷孝雄﹁萩原さんのこと﹂ 昭和52年2月 僕は十八九の時から外国文学を学ぶことを志ざしたので、それがために日本の文学語で書いたものには全然中学の国語読本以上には更に教養がなかつた。藤村、上田敏の影響も少しもなかつた。日本語で書いた詩に興味を初めて覚えたのは萩原朔太郎のであつた。全く子供らしい希望であつたが、十八頃から三十三位まで非常に詩が好きで詩を作つてはいた。それは覚束ない英語で書いたり、仏語で書いたりして努力したが、皆すててしまつた。三十三位になつてからようやく萩原流の語法とリズムで書き出した。 僕は萩原から出発した。単に語法を学んだばかりでなく、その詩的態度も奉戴していた。 萩原さんを読んだのは外国に住んでいたときで特に萩原朔太郎という偉大な詩人が日本にいるという感じが強く印象を残した。他にも偉い詩人がいたのであつたろうが、偶然のことに幸い萩原さんにぶつかつた。友人福原が﹃月に吠える﹄をくれたので幸福の初めになつた。詩は﹁これだ﹂と思つた。 西脇順三郎﹁MASTER 萩原と僕﹂ 昭和12年2月 父には、妙なくせがたくさんあったが、なかでもとてもおかしいくせは、右の細長い人さし指と中指の先で、ひょい、ひょいと、通りがかりにかならず、決った場所にさわってみるくせだった。 無意識のようでいて、とても神経質に念入りにさわり、酔うとますますひどくなってくるので、見ていても気になりおかしかった。それに鼻のあたりをくんくんいわせるくせも、酔うとひどくて、冬の夜など、遅く酔って帰って、寒そうに咳をしたり、くんくんいって帽子掛の壁を、ひょい、ひょいとさわり、ついでにお手洗の壁までわざわざさわりに行く。それから中廊下を歩くのだが、茶の間の前はちっともさわらないで、階段の曲り角の居間の最後の襖まで来ると何回でも激しくていねいにさわるのだった。 そして階段をちょっと上ったところで、また右側の壁を瞬間的にひょい、ひょいとさわってからでないと、けっして二階に行かないのである。が眠ったような顔で寒い寒いと口ぐせにいいながら、ふわふわと、階段の上の方まで行くと、またせかせかとひき返してきて、今さわった所をもう一度全部の指先で、さあっとそうざらいするように、さすりつけたり、ひょいと指先でふれてみるだけで、気がすんだように上って行くのだった。が、しつこく何度でもわざわざ降りてきては、さわり直しをする時など、いつまでたっても二階に上って行けなかった。 そんな時は、父に何かがのりうつってでもいるようで、ちょっと気持が悪くもあったし、こっけいでもあった。 萩原葉子﹁父のくせ﹂ 昭和34年11月 父はとても臆病で、自分の書いたものを悪口などいわれるとかなり気にして、幾日も家にこもったきりでそのたびに、すっかりやつれが目立つのだった。こんなに父をいじめる人はずいぶんひどいと、私は思わずにいられなかった。 家にぜんぜん知らない方が見える時など、父はかなりの怯えかたをするが、わかってしまえば、とてもあけすけに明るく応対した。 父は話をする時、早口でことばがもつれたりして、ちょっと舌足らずの感じで話すが、飲むとすこしゆっくりになってくる。そしていつも伏目で相手の顔を見ないが、何かの拍子に不意に顔をあげて、おどろくほど大きな目で一瞬相手を見て、すぐまた目をそらしてしまうのが父のくせだった。 萩原葉子、同上 学生時代、兄はマンドリンを外人に習つて随分熱心に弾いてゐた。小さな自分の書斎で食事の時間も忘れて熱中してゐた。だんだんと上達して、やがて数人の熱心な御弟子さんもつくやうになつた。兄は称してそれをゴンドラ倶楽部と言つてゐた。発表会も度々開いた。ゴンドラ倶楽部とは、その狭い書斎︵兄の書斎は庭の一隅にあつた物置小屋を改造した大変狭い室であつた︶から、せせこましいゴンドラの内部を連想したためであらうし、又、そこが母屋からは下駄を履いて行かなければならない離れた場所に周囲と絶縁して建つてゐた様は、兄の幻想的な趣味には何となく、ベニスに浮ぶゴンドラを思はしめたためでもあらう。事実、兄は私にさう話してくれたやうにも憶えてゐる。︵中略︶ その頃の兄は、仲々気取りやで、服装なども甚だ凝つたものを着用してゐた。トルコ帽を被り、臙脂の幅広、仏蘭西風蝶型ネクタイを結んだ兄の伊達姿は、当時、前橋のやうな田舎では、随分人目を引いたやうであつた。御自慢のネクタイ等は、自身、態々呉服屋まで出向いて気に入つた羽二重を買つて来て、その結び方を頻りと工夫してゐた程である。 星野みね﹁兄とマンドリン﹂ 昭和26年5月 詩人のエッセンスのやうな萩原君の人柄は、昔からさうだつたが、近年ことに、何事も窮屈になつて行くこの世に、生き難きを嘆き、在り難きをかこつてゐるやうに見えて、僕には気の毒で仕方がなかつた。繁雑な時間と空間の交叉するポイントを継ぎ合せて成立してゐる実際生活のこんぐらがりが、君には非常に厭はしく、また難儀らしかつた。 会合なぞの場合にも、定められた日の定められた時刻に、定められた場所へ出席するといふ事自体が、君には可成りな困難だつたらしい。三四年前に一度、こんな事があつた、﹃文芸汎論詩集賞﹄の銓衡会が、銀座の京花で行はれたことがあつた。行つて見ると審査員も岩佐、城両君もみんな集つてゐるが、萩原君だけがまだ見えてゐない。 ――﹁萩原君は?﹂と訊ねると、 ――﹁今夜はお見えになりません。昨晩おいでになつて下さつたんです。これです。﹂と言ひながら、困つたらしい、申わけのなささうなま顔になつて、岩佐君が差出す一枚の半紙を受取つて見ると、それには紙一ぱいに、大きな太い鉛筆の走り書きで神経質に、﹁雪の中を出かけて来て見たが、会合は明晩だと判つた。明日もう一度出直すのはいやだから、これこれの詩集を推薦して帰る﹂との意味がしたためてあつた。 堀口大学﹁追悼記﹂ 昭和17年8月 そこの書斎の薄暗がりの中で、萩原さんは午前中から午すぎまでを、梟のように瞑想に耽り、原稿を書いていた。二時か三時ごろになると階段をおりて階下の茶の間や応接間をうろつき、加速度的にソワソワと落ち付きを失い、揚句、フラリと消えるように、またはソソクサと追い立てられるように街へ出かけていつた。なにか特別の事情のないかぎり、それは判で押したように毎日のことだつたらしい。 街へ出た萩原さんは、たいてい、渋谷か新宿といつたところをうろついて酒を呑んでいた。こうした日課がいつごろから始つたかは、それこそ家族の方達にきいてみないと判らない。僕ひとりの想像では、むかしからそうした傾向はあつたにしろ、それが恒例になつたのは、たぶん奥さんと別れてからだろうと思われる。僕が萩原さんと親しくし始めた昭和九年ごろ、氏はもう独身でおられ、従つてこの夕暮からの放浪ももう充分に板についていた。ジキル博士が夜はハイド氏となつたように、萩原朔太郎も地球の明暗を自分の生活の中に鮮かに使い分けていた。 丸山薫﹁晩年の萩原さん﹂ 昭和26年7月 歩き方――これがまたひどく変つていた。トウ・ダンスのように、天から糸で吊つたように、爪先立つて前に傾いて歩く、その姿勢が妙に孤独めいていて、悪いようだが、可笑しみさえ加わつていて、まるで人生に失望し、世間から突き離された人間が、虚脱の道をトボトボと辿る姿を連想させた。しかもその姿が、繁華街を横切るとなると一変した。病的な恐怖のためにまったく理性も判断も失い、自動車と電車の洪水の中に、ひたすら同行者の背や袂にしがみついて大騒ぎをした。 そうした奇妙な癖や挙動が、あの上品で鋭利な風貌にプラスして、一種異状な印象を人に与えるところに、萩原さんの詩人としての得も、社会人としての悲劇も胚胎した。事実天晴れアフォリズムの中での良識家も、世上ではいつぱしの挙動不審者であり、立派な被害妄想家であり、事ごとにトンチンカンなドン・キホーテでしかなかつたようだ。﹁あんなもの、文学でもやつていなけりや、大馬鹿野郎だ﹂と、或る婚礼に招れた席上で、いわゆる地方名士とかゆう俗物達が囁いていたと、夫子御自身が笑いながら話された。尤もそのような揶揄や無理解は文壇や詩壇の中ですら、のべつに萩原さんをとり巻いていた。 丸山薫、同上 萩原さんは場末のあやしげな酒場が好きで、つまらぬ奴らの集つてゐる決して上品でないその雰囲気で、実はご自身そんな周囲に不似合なのはいつかう意識にない如く、或はそんな半意識を反つてあざ笑つてゐられる風でかなり、泥酔に近い位、酩酊に耽つてゐられた。ご承知の如く、そんな酒場にはどこにもつまらぬ女たちがゐて毎晩陽気に平凡なことにもはしやいで見せ、安ものの音楽が騒がしい中で、蓮つ葉な口をきいて見せる。それが元来、萩原さんには、どういふものか、私どもに比べていふと、ずつとたいへん本質的に気に入つてゐるらしい様子であつた。考へてみると、そこには一種の哀愁があつた。ごみごみとして乱雑な安つぽくて陽気な、さういふ時間のさういふ場所、そんな所へどこからか流れてきて働いてゐる女たち、彼女たちの恋愛或は恋愛遊戯、そんなごたごたとした無秩序の賑やかな世界が、萩原さんにとつて一つの刺戟であつたといふより、もう少し深く、何か意味の深い暗示であつたに違ひない。いつもそんな場所で、萩原さんはたいへん上機嫌に見える様子で、貧しげな女給などを相手に、つまらぬ話題にも素直に調子をあはしてゐられた。 三好達治﹁萩原さんといふ人﹂ 昭和24年3月 いつも萩原さんは、小さな手帳を一冊、懐中にもつてゐられた。さうして短い鉛筆で、散歩の途中ででも、思ひつかれた感想や詩の一行を、こまめにそれに書きこまれた。手帳はまつ黒によごれてゐて、隅から隅まで、何だか無暗に書きこまれていた。あの気まぐれななげやりな人に、そんな丹念な一面もあつて、それが不思議に調和してゐた。とにかくあの人は、絶えず何かを考へてゐる。何のためといふこともなしに、何かを考へつづけてゐる、一箇独自な思想家だつた。読書の方は、さほど熱心といふ方でなく、秩序だつた勉強などは、性来不得手でてんで問題にされなかった。それでも気に入つた書物となると︵たとへばニーチェの訳書など︶これはまたあの人独自の読み方で、幾度もくりかへし熱心にいつも読んでゐられた。それは幾年にも亘つた様子で、根気のほども察せられたが、それよりも、その読み方にはいつも一種の気力があつて、折にふれ洩らされる感想にも、眼光紙背に徹した人の、非凡な共感から湧いて出る、率直なさうして意外な閃めきがつねにあつて、私など幾度か耳をそばだてたものだ。 三好達治、同上 人と交際することをあまり好まないところは私と似てゐるが、萩原のは見事に誰ともつきあはずに、全く親友といふものを持たないでよい人のやうである。実際、萩原の親友といふものは、北原白秋君ぐらゐでそれすら一向たよりをしない、それ故、いつたい萩原は何をしてゐるのだらうと人々が噂をし合つてゐて、よく私に問ふが私とても三四年会はないでゐると、まるきり彼の生活がわからない。何でもノートを十冊ばかり書きつめてゐることと、そしてやはり家にこもつてゐることを聞いた外は、何も便りがない――さうかと思ふと去年帝劇の音楽会でひよつこり出会はすと、れいの暗色のある顔を窮屈に笑はせて、けふは弟が一しよだからと、茶でも飲まうと考へてゐた私をすつぽかして帰つてしまつたりした。それがわざとらしいよりも、極めて自然にやつてのけるのである。何となく物を厭ふ風情と、いつも新しい感情とで、こつそりと書きためてゐるやうな彼を見るたびに、私はその十冊のノートの事をときどきこくめいに考へこんで、何かが、全く何かが書きためられてゐるにちがひないと、空恐ろしく、︵へいぜい黙つてゐる男が怒り出すと存外片意地なやうに︶思つてゐたのである。 室生犀星﹁萩原朔太郎論のその断片﹂ 昭和5年3月 彼が最近乃木坂倶楽部に滞在してゐたことがあつたが訪ねると留守で一時間ばかり待つてゐる間に、如何に此の男がものぐさい構はない無頓着な男であるかを熟々感じた。第一彼は脱いだ洋服をそのまま丸めて壁ぎはに片寄せ、その次ぎにはズボンを筍の皮のやうに剥ぎすて、第二番目に寝衣やオーワ゛や襯衣を又丸めて片寄せてあるのである。勿論寝台は今朝そこをぬけて出たままの脱殻であり机を中心として手紙や原稿紙、本や小包やウィスキイの瓶やお燗のガラス器や盃や煙草のカラや、カラをぬけ出た巻煙草などが一杯に散らばり、少しでも動いたら埃が裾風に立つといふ始末である。勿論、彼は自分の部屋の掃除をするやうな殊勝な男でなく、外套︵マント︶のボタンが五つあればその中の四つまで外れてゐる男である。彼は物ぐさい男であるといふことを自分で知つてゐるけれど、その物ぐささから脱けようとする気持のない人間である。 室生犀星、同上
明治42年 大正13年 昭和16年
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