堀辰雄 ︻ほり・たつお︼ 小説家。明治37年12月28日〜昭和28年5月28日。東京麹町区平河町に生まれる。大正14年、東京帝大国文科に入学。翌年、中野重治らと同人雑誌﹁驢馬﹂を創刊し、詩や翻訳などを発表する。昭和5年、私淑していた芥川龍之介の自殺、自身の恋愛体験などを素材とした﹁聖家族﹂を発表し、新進作家としての地歩を確立。透徹した知性と清新な抒情あふれる作品を多く発表した。また、昭和8年に詩雑誌﹁四季﹂を創刊し、立原道造や中村真一郎、福永武彦など、若い世代と親しく交流した。昭和10年、婚約者・矢野綾子の病気療養のため富士見高原療養所にともに滞在したが、5ヵ月後に綾子は死去。この体験から﹁風立ちぬ﹂︵昭和11〜13︶が生まれた。昭和20年から28年の8年間はほとんど病床生活を送る。昭和28年5月28日、肺結核により死去。享年48歳。代表作は﹁聖家族﹂、﹁美しい村﹂、﹁風立ちぬ﹂、﹁かげろふの日記﹂、﹁菜穂子﹂など。 ︹リンク︺ 堀辰雄@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 堀辰雄@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説・小品 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 翻訳 ‥ 発表年順 回想録 夕方、町へ出て食事をすまし、古本屋を見てまわることもあった。堀さんがルイズ・ラベの小型の詩集を見つけて、ひどくよろこんだのも、このときだ。堀さんは実にたのしそうに古本の棚のすみずみまでさがした。すでに堀さんは病気だったけれども、ちっとも神経質ではなかった。自分の病気を、おとなしい家畜か何かのように飼いならしていた。むろん身体に無理なことは避けていたが、夜も九時ごろまで町をぶらつき、気がむくと喫茶店のテーブルでゆっくりグラスの白葡萄酒を味わったりした。堀さんはしずかに生活を愛している。いかにも堀さんらしいやり方で、ゆたかに生活をたのしんでいる。つくづくぼくは、そう思ったものだ。何となく自由で、屈託がなかった。新鮮な、のびのびした感情の解放があった。変にとらわれたり、ストイックに固くむきになるところは、みじんも感じられなかった。ひたむきな情熱でなく、深い大きな心で、しっとりすべてをつつんでいた。ぼくはそのような堀さんの日常に深い印象を受けた。 大山定一﹁京都における堀さんの思い出﹂ 昭和32年2月 堀さんは一ばん奥の四畳半の病室に寝たきりである。わたしは一間廊下の椅子にすわって、主として夫人とお喋りした。夫人と話すのだが、自然に堀さんの興味をもちそうな話題を選んで話すように努めた。コクトオの映画の話や、中野重治の話や、﹁近代文学﹂の話などをした。堀さんは寝たきりだが、顔には意外にやつれが見えなかった。どちらかといえば明るい顔付きだった。この春から続いていた喀血が、この頃とまったということで、この分で進めばまた少しは起きられるようになるかも知れないとわたしは勝手な希望を心に抱いた。しかし、書庫に本を入れてそこの廊下まで出て眺められるようになるのが楽しみだが、いま廊下に出ることさえまだできないという話をきいて、よほど衰弱がひどいらしいことを知った。︵中略︶ 枕もとに﹁茂吉全集﹂が一冊あるのをみて、読書されるのかとたずねると、まあ一日に二時間くらい読むとの答えだった。﹁本だけが楽しみなのよ﹂と夫人が説明した。そうして堀さんが枕もとから何か薬のようなものを取ってしきりに口に入れているのをみて、夫人はまた﹁余り飲まない方がいいわよ﹂と注意した。﹁お客さんがみえると、気持悪いだろうといって咳どめの薬を飲むんですよ﹂と夫人はわたしに説明した。堀さんはいつも、こうした細かい気くばりをしているんだなとわたしは思った。夫人の話をきいていると、家の人たちに対してもつねにそうした細かい気づかいをしていたわっている堀さんの、いかにも堀さんらしい性格が感じられた。 佐々木基一﹁最後の訪問﹂ 昭和28年8月 ついこの間も葬式のあとで、友人の一人が冗談まぎれに、堀辰雄は一たい何軒本屋をつぶして来ただろうかと言っていた。彼ほど自分の作品を単行本にして出す際に意匠を凝らした男は、少なくもわが国には見あたらず、それが今では色とりどりの限定版︵﹃聖家族﹄の再刊本などは実に八十部という少部数を刷ったにすぎない――︶の稀覯本として、愛読者の手に愛蔵されているわけだが、それを出した四、五軒の本屋はみんなつぶれて、今では片影をもとどめない、そのへんの事情を指したものである。もちろん、そうした本屋がつぶれたのは、さらさら堀辰雄の責任ではなく、消滅すべき乃至は自滅すべきそれぞれの理由があってのことだったが、事ひとたび本屋のことではなしに、師弟の関係となると、しかし問題は簡単ではなくなるだろう。長いとも言えぬその生涯に、彼は少なくも二人の弟子に先立たれている。立原道造と野村英夫がそれである。堀辰雄ははたして、彼らを殺したのだろうか。それとも、彼ら自身がみずからの責任において、堀辰雄の硬さに傷ついて、若い血を流したのだろうか。そこは甚だデリケートな問題だ。 神西清﹁静かな強さ﹂ 昭和28年8月 萩原朔太郎さんの在世の頃の或る夜であった。場所は銀座であったか新宿であったかも忘れてしまったし、萩原さんをかこんで誰がいたかも記憶にないが、話題がたまたま、そこに居合さなかった堀辰雄のことになった時、萩原さんはさも感に堪えたように、そして、意外なことにびっくりしたような表情で、﹁堀君にも思いの他烈しいところがあるのだね。﹂と言われた。 話はこうであった。堀辰雄が愛読していたリルケの﹃マルテの手記﹄の一部を、試みに訳して﹁四季﹂であったと思うが、発表したのであった。ところが、それをとりあげて或るドイツ語学者が、誤訳を指摘した一文を他の雑誌に発表したのである。︵中略︶ 彼はこれを読んで、何と感じたのか、急にたちあがって、その雑誌をぴりぴりと引き裂き、屑かごにほうりこんでしまったのである。引き合いに出して、甚だ相すまないが、たとえば、三好達治の場合なら、こうした仕草があったとしても、それ程、意外ではなかったであろうし、萩原さんもあれ程、びっくりしなかったであろう。いや、意外に思うのは、ひとり萩原さんばかりではないであろう。現に、私の許を訪ねてくる若い人達の中には、心の底から堀辰雄の文学に傾倒し切っているような人が多いが、そうした人達が描きあげている堀辰雄の世界のどこにも、こうした挿話を容れる椅子は用意されていないように思われる。 神保光太郎﹁ひとつの挿話﹂ 昭和28年8月 いつ頃であったか、わたしが立原︵道造︶といっしょに神保町へ出かけた。二人ともどうしてかかなりうらぶれた心をもって駿河台の坂を下ってゆくと、明治大学のコンクリートの垣のそばで、立原がつと立止った。引廻しを着てへしゃげた帽子をかぶったあまり人相のよくない男と一言二言口をきいたのち、きまりわるそうな笑を浮べて、先に待ってるわたしに追いついてきた。﹁だれだい、あれは﹂﹁堀辰雄先生じゃないか﹂わたしはその前に一度やはり立原といっしょに堀さんに会ったことがある。そのときの印象は、オカッパにベレをかぶっていたらしく、わたしは堀さんを改造社版﹃不器用な天使﹄の口絵写真そのままのダンディだと思っていたのである。ところがその日は顎に不精ヒゲをまで伸ばしていた。わたしの顔におどろきをみとめたらしく立原は説明してくれた。 ﹁今日の堀さんは鋭い目をしていた。あのひとの目はいつもやさしいんだが、時々こわくて体じゅうを刺しとおすような鋭さにかわる。今日はこわい方の目だったから、人相がかわってしまったんだ﹂ 杉浦明平﹁堀辰雄﹂ 昭和29年 娯楽というようなことでも、堀には、﹁驢馬﹂の田舎者風ななかで、ちがったところがあった。ロオラースケートというようなことも彼はやるらしかった。わたしは、ある晩堀に連れられて、浅草かどこかのロオラースケート場を見に行ったことがある。庶民的、ミーちゃんハーちゃん的、アセチレンガス的、ロオトレック風なものと、健康な娯楽との入りまじったような光景で、わたしには珍らしかった。彼の机の上に、小さい地球儀がのっていて、地球儀について彼が話したこともあった。﹁驢馬﹂の中では、西沢隆二だけが、朝くらいうちに兄弟で小金井に花見に行くとか、タアーッと諏訪へ氷すべりに行くということがあるだけで、あとは皆もっさりしていたから、西沢のとはちがった堀の都会風は、われわれにはそれがすでに慰めであるような趣きであった。 中野重治﹁ふたしかな記憶﹂ 昭和28年7月 吉田 絵の好みは。 丸岡 ルノアールなど、いろいろ変わっているでしょう。 中野 強烈な絵がだいぶ好きだったこともある。 丸岡 旅行がむりだったのにグレコのために遠いところまで行きましたね。 中野 銀座でかれにばったり会ってお茶を飲んだら、かれはちょうど倉敷から帰ってきたところで、やはりむちゃなやつだと思ったけれども、いきなりグレコの大きな絵を広げた。かれはしゃべっているところからは文学青年ということがわかるというような話し方はちっともしなかったけれども、そのときはもういきなりテーブルの上に広げてグレコのことを言っていた。 吉田 その雰囲気ですが、﹁曠野﹂だったか、出来上ったものには近江の国の描写がほとんどないのに、それの匂いを出すために、わざわざ琵琶湖のそばに行って何日か暮す。ああいう準備は芥川の今昔物にはないですね。 中村 ゆっくりはいるというところが強い。芥川さんは非常に早くはいる。それにかなり批判的だった。ぼくなんか何度もしかられたけれども、たとえば本の読み方でも、きみは早く読むからだめだ、一冊の本を一月ぐらいかかって読め、芥川さんは早くしか本が読めなかった、こう言われました。 中野重治・中村真一郎・丸岡明・吉田精一﹁堀辰雄の人と文学﹂ 昭和36年3月 ところで芥川は堀との間に素質の共通性を認めて親近感を抱いていたが、堀の方も青春の初期に身近に接した芥川を敬愛することは、ほとんど父に対するごとくであり、その崇拝に近い敬愛は、芥川の死後も堀自身の晩年に至るまで変るところがなかった。彼はある時、私に向って﹁ぼくは芥川さんの亡くなった歳をとうに過ぎてしまったが、それでも芥川さんがいつまでも年上に感じられる﹂と述懐したことがある。また、芥川の死の直後の、全集編纂の実務︵校正など︶によって、漢字の使い方を覚えたから、芥川さんに直かに教わったも同然だと云い、﹁この字は芥川さんはこう書く﹂と、いちいち芥川を範例として、私の原稿をチェックしてくれた。︵中略︶ 堀は理想の人物――自分もまたその生涯を模した生活をしたいと思っていた作家――である芥川が、青春の初期に、自分の目のまえで顛覆するのを見て、激しい衝撃を受けた。そして﹁ぼくは芥川さんと正反対なやり方をしようと決心して、生きてきたんだ﹂と、ある時、堀自身が私に向って告白したのだったが、彼は師の挫折から正反対な生き方によって生きのびようという教訓を得たのだった。 中村真一郎﹁ある文学的系譜﹂ 昭和54年5月 堀辰雄といふ男は、不思議に一種の雰囲気をもつた男である。彼の側で話をしてゐると、いつも何かの草花や乾麦のやうな匂ひがする。彼が香水をつけてゐるのではない。人物の性格から来る匂ひなのだ。数人の人が集つても、彼が一人座に居るだけで、特殊の集会的アトモスフィアが構成される。彼はいつでも中心人物である。そのくせ何もしやべるのではない。いつも座の片隅に坐つて、ニヤニヤ笑ひながら人の話を聞いてるだけだ。それで中心人物になるのだから、これは人徳の致すところと見る外はない。単に座談の集合ばかりでなく、同人雑誌の集合などでも、彼はまた奇態に編輯の中枢人物になるのである。現にこの﹃四季﹄などもさうであるが、彼が中心部にゐて編輯すると、不思議に顔ぶれの揃つた好い雑誌ができるのである。それは単に彼が友人運にめぐまれてゐるといふだけではなく、やはり他を惹きつける人徳の牽引力があるからだらう。 彼は非常に聡明な男である。頭脳の明晰といふことと物解りの好いといふことでは、﹃四季﹄同人中でも彼に及ぶものはなからう。彼は一切議論をしないが、彼の前では、実際議論する必要がないといふ感じがする。それほどよく解ってくれてゐるからである。しかしこの聡明さが、文学上では却つて彼を害毒し、作品を臆病なものにしてしまつてゐる。も少し彼が馬鹿であつて、我武者羅に強く物を言つてくれたら好いと思ふ。 堀君は生粋の江戸ッ子であり、典型的の都会人である。そして此処に、彼のあらゆる洗煉された趣味が出発してゐる。彼には野性人のラフな属性が殆んどない。そしてこれがまた文学上の欠点でもあり、またそのレファインされた文学の特色でもある。彼の文学は、丁度彼の人物と同じやうに、体臭からくる香水︵乾麦や高原植物︶の匂ひを感じさせる。それが好きな読者にとつては、一寸たまらない魅力だらう。 萩原朔太郎﹁堀辰雄﹂ 昭和2年8月 中学時代の堀君は、大柄で、みずみずしい感じのする少年だった。ゆたかな両頬に、いつもしずかな明るい微笑を湛えていたが、笑うと、大きなえくぼの出来るのが、ひどく印象的だった。 そのころ、ぼくらはみんな、野暮な黒の小倉服を着ていた。しかし、堀君はお母さんの心づくしの別仕立のへルの服を一着に及んでいた。煙の立つような濃紺色の服をまとった堀君の風貌は、水際立った美少年ぶりで、蛮カラな学友たちの間では異様に目立つ存在だった。ある蛮友は、堀君に﹁お嬢さん﹂というニックネームを奉った。︵中略︶ 小説を書出す前の一時期、堀君は学業の余暇にもっぱら詩を作り、ジャムやコクトオの詩を翻訳した。それは芥川さんが、抒情詩は若い時でないと書けない、先ず小説よりも詩を書くこと、海外の作家は一冊の詩集を出して、それから散文の世界へ入って行く傾向がある、これがまともな行き方だと言った。堀君は自己の天分にしたがって、素直にこの教訓を実践したのだと思う。 そのころの挿話の一つ。 堀君は下宿に閉じこもって、新しい詩が一篇出来上ると、さっそくそれを持って小梅の自宅へいって両親に見せる。するとお母さんがにこにこしながら﹁辰ちゃん、原稿料をあげましょうね﹂といって、一円札を一枚くれるというのである。 それらの小遣いで、彼は気前よく友人達に御馳走をし、映画館へつれていったりした。ぼくらは彼のこういう奉仕の精神を大いに徳としたものである。 平木二六﹁若き日の堀辰雄﹂ 昭和29年7月 堀は若い時分から身だしなみのいい男だった。暑い夏のさかりでも決して肌をむきだしに見せるということがなく、いつもきちんと身じまいをしていた。 ある初夏の絹糸のような雨がふる日、ぶらりと新小梅の家を訪ねると、これから一緒に風呂に行かないかと言う。二人ともゆかたがけ、蛇の目の相合傘で、言問橋のたもとにある銭湯に出掛けた。 裸になったのを見ると、堀はなかなか毛深いたちで、顔と同じようにからだも色白だった。そしてぼくの印象にのこったのは彼の胸廓なのだ。それは鳩胸でもなく、扁平というのでもなく、みぞおちのところが普通人よりもひどくへこんでゐるのである。 ぼくも蒲柳の質という点では人後に落ちなかったから、一緒に風呂に入っていても気易かったのだろう。 ﹁おたがいにこんなからだでは、いつ夭折するか知れないね﹂ と、堀は器用にジレットを使いながら、シャボンの泡の中で笑った。 平木二六﹁ある日ある時﹂ 昭和32年2月 回想の中で、堀さんはいつも若く、にこやかに微笑していられる。文学的な影響というものは、恐らくは徐々に、半ば無意識のうちに浸透するものだろうが、堀さんのあの人間的な温かみはすぐさま僕等を捉えて離さなかった。都会的に洗練された趣味、愉しげな軽やかな座談、しかもお喋りというのではなく、正確に、言葉を愉しむように、そして間々の沈黙さえもが意味を持つように、交された会話、時々の皮肉めいた軽口、若い者に対する友達のような口の利きかた︵堀さんは僕等に決して自分のことを﹁先生﹂とは呼ばせなかった。そういうしかつめらしいことは嫌いだった。だから多恵子夫人が、わざわざ悪戯っぽく﹁うちの先生が﹂などと口にされると、困ったようなにが笑いを見せられたものだ︶、一度も機嫌が悪いとか、怒ったとかいう表情を示されたことはなく、にこやかな微笑が絶え間なく流れていた。堀さんが幸福な人だったろうという印象は、単純にそこから来ている。一人の作家の、作家としての内面の苦しみを、さまぎまの資料によって研究し、露わに曝き出すことよりも、僕にはそう信じていることの方が愉しい。堀さんの書かれたものは必ずしも明るくはないが、堀さんという人は、病いがちの一生を通じて明るく愉しい人であったと、幸福な生涯を送られたと、そう信じたく思う。 福永武彦﹁別れの歌﹂ 昭和28年6,7月 魂の孤独と病気の苦しみの中で、 ﹁こんなに苦しむくらいならもうなんとか死なして貰いたいな﹂とつぶやいた時、その苦痛に引きずられるように﹁一しょに死にましょう﹂と言う私の顔を見上げて、 ﹁僕が自殺をしたら、僕の今までの作品はみんな僕と一しょに死んでしまうだろう。……わかるか? 僕の努力はみんなむなしくなってしまうのだよ﹂と言ったその一言、私はそれから長い間そのことばかり考えてくらしていました。 そんなことがあったあとで、辰雄は、 ﹁人間の苦しみには限界があって、その極限が死なのだ﹂という文句を読み、たぶんそれはリルケの言葉だったように思いますが、﹁死が来るまでは苦しみには耐えられるというわけだな﹂などと、急に気持が軽くなったかのように明るく言うのでした。その言葉は辰雄にとって大きな救いだったようです。病気の苦しみを読書によって紛らわし、その中から生きる言葉を捜していたのです。 私はその頃から静かに昔をなつかしんでいる辰雄を感じていました。それは驢馬の時代のことだったり、室生さんの楽しいお茶の間だったり、一高時代の寮の話だったりしました。辰雄は概して楽しい思い出ばかり私に話してくれたようです。思い出したくない思い出にぶつかったのか、突然、 ﹁青春を回顧することはいやなものだね。ただ生意気だったことなど思うと不愉快になるよ﹂と怒ったように言う辰雄にびっくりしたりしたことを思い出します。 堀多恵子︵註、辰雄の妻︶﹁晩年の辰雄﹂ 昭和34年3月 堀 お母さんのことは、お母さんが震災で亡くなったときのことなんていうのは、やはりあんまりあの人としては口にして言いたくないことなんだろうと思うんです。 中村 でしょうね、それは。 堀 そういう悲惨な話というのはいっさいしない人でしたけれども、大震災のあとお母さんの遺体をさがして父と三日三晩、夜は提灯をつけて歩いた話を聞いたことがあります。 中村 堀さん自身も、関東大震災のとき隅田川で死にそびれたということを言って、それで非常に印象強かったのは、﹁人間一遍死にそこなわないと一人前にならないよ﹂と僕に非常に強い口調で言った。日ごろの堀さんの文学ではそういうことが生に出てこない。つまり堀さんの作品の中の人物がそんなことを口にするというのは、想像もつかないし、おかしいわけです。だけども、それは本音で言ったんで、非常に僕にびっくりした印象を与えたんですよ。 堀多恵子・中村真一郎﹁思い出すことなど﹂ 昭和52年7月 堀辰雄はいつも軽井沢の僕の家をたづねる前には、通りの垣根から庭の中をすかして見て、きつと、通りから一応娘の名前を呼ぶことにしてゐた。 ﹁あ、さ、ちやん、あ、さ、ちやん。﹂ と呼ぶあとさの発音状態に、純粋な東京弁のあをやや長めに引き、さをみじかく言ふ呼びやうは、田舎者の僕には発音のうつくしさが、それを聞くたびにことあたらしく感じられた。堀は家にはいつて来ても、ちよつと僕に頭を下げてあいさつをするだけで、すぐ十歳くらゐになつた娘の方に行つた。堀は他人にあいさつをするときに、おうやうに鳥渡頭を軽く下げるだけで、あれでいいのか知らとおもふくらゐ、かるがると頭を下げてゐた。頭を下げるといふより反つて上向きにして見せるといふかんたんな挨拶ぶりであつた。彼はいつも僕と話をしてゐる時間よりも、娘や家内とはなしてゐる方の時間が長く、僕が茶の間なぞに出てゆくと、は、は、としたしさうに笑つてやはりコドモと家内とであそんでゐた。そして何時の間にか帰つて行つた。 片山ひろ子を好いてゐた堀は、片山ひろ子さんの名をいつも平仮名でかいてゐる時のやうに、か、た、や、ま、さんと呼び、かとたとの間にみじかいあまつたれた時間を置いて、呼んでゐた。多恵子夫人をよぶのにたあえこ、たあ、え、こと妙にふくらんだ声で呼ぶのとおなじ呼びやうだつた。 室生犀星﹁詩人・堀辰雄﹂ 昭和28年9月 堀辰雄は私生活の事は一さい口にしない人であった。従っていま何々の小説を書いているとか、お金がほしいとか、どこそこの令嬢が美人であるとか、こんな家を建てて住んで見ようとか、何処かに原稿を持ち込もうとか、家庭の様子がどうだとかいうことは口にしたことがなかった。だから友人とか先輩とかの行状、悪口、かげ口もしなかった。その心にも、他人を痛烈に憎むという気の荒立ちがなく、そういう人の行状を耳にすることを避けているふうがあった。歯医者の療治をうけると貧血を起すという堀は、自転車から転がり落ちた女の子の膝がしらの血を見て、たちまち顔色蒼然のあわれみを催おす人だった。手なんぞ見ても、小ぶとりの柔らかい指に、しとやかな肉つきをもっていた。この人は女の子だったのが間違って男の子に生まれたのではないかと、私はいつも同じ優しい瞬きを見せている堀を見て、そう思った。だから殆どの人が堀を好いていたのだ。お愛想がよいわけでもなく、いつも当り前の顔付で差し触りのないことを話している彼には、その無口をおぎなうために相手の方で機嫌とりのようなことを、話してしまうふうであった。こんな人は色魔なぞによくある型や人格なのだ、つまり、にたりにたりしながら相手の心を捉えるといふ行き方が、そのにたりにたりを除けば凡て堀の持っているフンイキであった。ところが彼は色魔どころか、大抵の女の人には優しく皆に好かれ、皆におなじように心を頒けている側の人だった。誰もこの堀の悪口をいった人を私はきいたことがなかった。 室生犀星﹁堀辰雄﹂ 昭和33年12月 中村光夫氏が書いて居られたが、氏が戦死した海軍予備学生の手紙を整理した時、そのほとんど全部が堀辰雄の愛読者なのに驚いた、ということである。ぼくもそういった一人だった。人生から断たれ、死に隣りあっていた軍隊生活のなかで、どんなにぼくは堀辰雄の文学を愛したことだろう。そこには現実を逃避している弱い者の感傷があったかもしれない。が、死がほとんど手に触れるような確実さで迫っている時、しかも生への願いが切なく燃えている時、その感傷は果して逃避という言葉で尽されるものかどうか。多くの予備学生が堀辰雄を愛読したことは予備学生たちの弱さを示すよりは、死の世界のなかに猶生を輝かしく支える強さが堀辰雄の文学にあったことを一層多く語っているように思われる。予備学生が堀辰雄の文学を愛したのは、それによって現実を逃避するためではなく、それによって現実に打克つため、死を前にしてその僅かな生命を一杯に生きるためであった。﹁われわれの生はわれわれの運命より以上のものであること﹂堀辰雄の文学が終始証しているこの思想ほど、軍隊生活のなかでぼくを慰め力づけたものはない。堀辰雄の世界は美しく純粋だけれども狭くて弱い、こういった俗説をぼくは少しも信じない。美しく純粋なものがどうして強くない筈があろうか。 矢内原伊作﹁晩年の堀さん﹂ 昭和28年8月 堀辰雄は散歩がすきで、病気がすこしいいと寒い日でもマフラと手袋をして、ステッキを手にして散歩に出る。一緒に歩いているとやはり病人らしく見え、ことにセキが出たりするとなおその感じがして、自分ではさわやかな空気をたのしんでいるらしいが、いたいたしい感じで、そっと後ろから手をまわしてかかえてやりたいような気持ちになる。何度か喀血して、その度にいつもまいっているが、少しよくなるとまた自分が病人であることを忘れる。そうした照ったり曇ったりの低空飛行を長いあいだつづけなければならない人だった。いつか喀血のあとまもなく成宗の家へ見舞いに行ったとき、菓子器からせんべいをとって半分にわって自分で食べてから﹁これはおいしい。おいしいせんべいだよ。たべてみない?﹂と言って手に残った半分を僕にくれたことがある。そんなとき、自分が病人であることや、手に恐らく結核菌がついているであろうことなどぜんぜん頭になく、せんべいがおいしかった、それがただうれしかったのだ。 山本武夫﹁いたわりとさびしさ﹂ 昭和32年2月
大正10年 昭和5年頃 昭和18年
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