樋口一葉 ︻ひぐち・いちよう︼ 小説家、歌人。本名、樋口奈津。明治5年5月2日︵旧暦3月25日︶〜明治29年11月23日。東京府第二大区小一区内幸町に生まれる。出生当時、樋口家は中産階級だったが、父・則義が事業に失敗し、多くの負債を残して明治22年に死去。生活は窮乏をきわめた。明治24年、新聞小説記者であった半井桃水の指導をうけ小説を書くようになり、翌年、処女作﹁闇桜﹂を発表。﹁うもれ木﹂︵明治26︶によって世評高まり、島崎藤村など、雑誌﹁文学界﹂の青年作家たちとの交流がはじまる。晩年には﹁にごりえ﹂︵明治28︶など、明治の下層社会を描いた佳作を多く発表し、特に、吉原遊郭近くに住む少年少女の初恋を描いた﹁たけくらべ﹂︵明治28〜29︶は森鴎外らに絶賛された。明治29年11月23日、結核により死去。享年24歳。小説の他に、生前未発表の日記にも高い文学性が認められる。代表作は﹁大つごもり﹂、﹁たけくらべ﹂、﹁にごりえ﹂、﹁十三夜﹂、﹁一葉日記﹂など。 ︹リンク︺ 樋口一葉@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 樋口一葉@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説 ‥ 発表年順 日記 ‥ 執筆年順 日記︵雑記、感想・聞書︶ ‥ 執筆年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 私が、はじめて一葉さんに逢ったのは、十七歳の折で、日記によく出て来る西村の家にいた時でした。西村釧之助の弟の小三郎が私の家の養子にまいりましたので西村とは親戚筋に当るわけです。 西村家は茨城県真壁郡長讃村の出身で、以前に旗本の稲葉家に一葉さんのお母さんといっしょに仕えた仲間であり、一葉さんの父母が媒酌人であったので、親戚以上の付合いをしていました。一葉さんは小石川の表町で、文房具屋を営んでいた西村のところへ、よくお金を借りに見えたのです。たぶん、お母さんのお古でしょうか、こまかい縞柄の着物をきて、外に赤い色彩のものは少しも身につけていませんでした。私は明治十年生れですから、そのとき一葉さんは二十二歳になります。 のちになってから私に﹁乙女心を知らなかった﹂と述懐されましたが若い女の細腕で生きてゆこうとした一葉さんには、ほんとに青春時代というものがなかったのです。 髪の毛は薄く、赤ちゃけていたのは、今思えば体質が弱い上に、栄養が十分でなかったためでしょう。その髪を、銀杏返しに結っておりました。また、俯向き加減につつましくしていただけで伝えられるような猫背ではありません。 大へん色が白く、眼元にぱらぱらとそばかすがあり、目だたぬ程度の化粧でした。ひとえ瞼で、近眼のせいかキラキラと朝露のような瞳でした。今、考えても歯並みは思いだせませんが口許がしまって小さく、一葉さんから受ける感じは、かしこい都会風に気のきいた人でしたが、決して、色っぽさはありませんでした。妹の邦子さんとくらべて陰気で小柄でしたが、ほんとうに高い教養を身につけた美しい人であったと思います。 穴沢清次郎﹁一葉さん﹂ 昭和28年9月 一葉さんが初め萩の舎へ入門した当時には、何しろ強度の近眼ですから、こゞんで自分の膝ばかり見てをりました。私どもは近眼といふことを存じませんから、田中さんなどは今度お弟子入りした樋口夏子さんていふ人はまゝつ子みたいな人ねと申しましたくらゐで話もしないで小さくなつてをりました。よほど近くへ寄らなければ、誰だかもわからない、ひどい近眼でございました。歌がるたなどを取る時には、かるたに噛みつくやうに眼を近づけてをりますから、樋口さんの頭が邪魔になつて、私どもは取りにくうございました。それで、あんたの頭でかるたが見えないから眼鏡かけてちやうだいよと申しましたけれども、厭だといつて、どうしても、眼鏡をかけないのでございます。 私が団子坂の家から牛込の小川町の方へ引移りました時に、樋口さんが遊びに来ました。私が戸外を見てをりますと、ズツと遠い安藤坂がよく見えまして、通る人がよくわかりましたから、夏ちやん、来てご覧なさいよ、安藤坂を通る人が見えるわよと申しますと、いやだね、私が近眼だものだから、あんな嘘をいつて……といつて、どうしても信じませんでした。それから田中さんが月夜の晩に樋口さんと一緒に歩きましたら、あぶないから手を引いてくれといつたさうでございます。あんた、をかしいね、闇の晩には無事に歩いてからに、月夜の晩に手を引いてくれなんて変ぢやないか。だつて、月夜だと、なまじ何か少しは見えるから、かへつて水ツ溜りに落ちたりしてあぶないよと申しましたさうで、あとでみんなで大笑ひをいたしたこともございます。︵中略︶ 樋口さんの病気は一時よくなりまして、あゝよかつたと思つてをりますと、明治二十九年の八月ごろからまたわるくなりまして、十一月の二十三日にとうとう亡くなられました。臨終の時には相憎私はをりませんでしたけれども、妹さんに、枕の向きをかへたいから向きかへらせてくれといつて、妹さんが向きかへらせると、それつきり呼吸が絶えたのださうでございます。︵中略︶ お葬式は淋しうございました。私などは残念でございましたけれども、お返しが出来ないからといふので、家の方が御会葬をみんなお断りしてしまひました。萩の舎の舎中でも、参つたのは特に親しい田中さんと私だけでございました。 伊東夏子﹁わが友樋口一葉のこと﹂ 昭和16年9月 私の考へでは、一葉さんは進んで人の処へ出掛けて行つて華々しく推回すといふやうな、派手な遣方の人ではありませんでした。周囲の人を自分の処へ引寄せて、取回しよくして、種々な世間の話や文学上の話などを聞くといふ方が、其性質でもあり又そこに興が湧いてくると云ふやうでした。実際この方が一葉さんにとつては自然のやうに感ぜられます。 それに今日とは時勢も違ひ、一体に落ついた派手々々しい事を好まない人でしたから、外見︵みえ︶を飾らないで侘びしい寂しい裡に風雅な暮しをしてゐられたといふ風でした。そこで種々な人が訪ねて行き、又集りもしたことは一葉さんの一生から考へてみて非常に面白い事と思ひます。 正岡︵子規︶さんが病床にあつて静に身体を横へてゐられる処へ、種々の人が集つて種々の話を持つて行つたとは、やや趣が違つてゐますが、兎に角一葉さんが多くの客を引受けて自分の家に面白い世界を作られた事は女らしくもあり又興味のある事と思ひます。 一体、物を感じ又それを享け入れる力に富んでゐた人ですから、西洋の学問はしないまでも、馬場君、戸川君、平田君、上田君、それから眉山君なぞから話を聞いて開発した事は随分多かつたらうと思ひます。あゝいふ作物を段々出して行かれる事になつたのは世の辛酸を嘗められたその経歴とその天稟とでありませうが、しかしそれに刺戟を与へて、いゝ方へ導いて行つた事に於ては其処へ集つて来た人々――その当時の進歩した考を持つた人々の力が余程あると思ひます。 島崎藤村﹁一葉女史と其周囲﹂ 明治41年11月 或日曜の午後社も学校も休なので家内中打揃つて菓子を喰ひ茶を飲み、頗る賑かであつた時、遠慮がちな低声で誰やら音訪ふ者がありました、執次に出た妹に伴はれて玄関からしづ〳〵と上つて来たのが、樋口夏子さん、恰ど時候も今頃で袷を着て居られましたが縞がらと言ひ色合と言ひ、非常に年寄めいて帯も夫に適当な好み、頭の銀杏返しも余り濃くない地毛ばかりで小さく根下りに結つた上、飾といふものが更にないから大層淋しく見ました、孰らかと言へば低い身であるのに少しく背をかゞめ色艶の好くない顔に出来るだけの愛嬌を作つて、静粛に進み入り、三指で畏つてろく〳〵顔を上ず、肩で二つ三つ呼吸をして低音ながら明晰した言葉使ひ、慇懃な挨拶も勿論遊ばせ尽し、昔の御殿女中がお使者に来たやうな有様で、万に一つも生意気と思はれますまいか、何うしたら女らしく見るかと、夫のみ心を砕かれるやうでありました、私を始め弟妹も、殆んど口を酢ツぱくして、坐蒲団を勧めたが、とう〳〵夫も敷ず仕舞、二時間ばかり対話した為不行儀な我々は膝も足も折さうに覚えました、是程苦しい思をして、二時間も対座しながら、用談らしい用談もなく立帰つた夏子さんは、数日の後野々宮女史を介して私に申込まれた、自分は小説を書いて見たい、是非書かしてくれいといつて四五日の後夏子さんは、仕立ものゝ残を持て、私の宅へ参られました、私は親しく面会て、貴嬢のお望は野々宮さんから委細承知致しましたが、私は不賛成、男子ですら小説などを書く時は、さも〳〵道楽者のやうに世間から思はれる、況んや御婦人の身で種々の批難を受るのは随分苦しい事であらう、且つ貴嬢の体質も余り強い方とは認めぬ、願はくは他の方面に、職業をお求めなさいと、言葉を尽して諫めましたが、何分針仕事位では母と妹を充分に養う事も出来ぬ、如何なる批評も甘受するから、是非といふ事でありました。左程までのお望ならば、先づ試みにお書なさい、其の上で紅葉さん外諸大家にもお紹介しませう、但しお互ひ独身であれば世間の疑惑を避ける為成るべく手紙で済む事は手紙で言てお寄しなさいと申述て置きました。 十日余経て短篇小説を持参されましたが、誠に見事な筆跡で色紙短冊に出たらばと思ふものが、十行の罫紙の中にさら〳〵と認められて、文章も結構でしたが少し結構過て新聞や雑誌には如何かと思はれました、其の上趣向が宜しくないので、私は私だけの考へを述ました、夏子さんは大層喜んで、更に一週間ばかりの後、書直して来られたのが﹁闇桜﹂と題し武蔵野の第一号に記載した小説であります。 半井桃水﹁一葉女史﹂ 明治40年6月 それから、少し後になつて、僕は或る日一葉女史に、﹃何か新しいお作の御趣向が立ちましたか﹄と聞くと、女史は﹃面白い女があるので、﹁放れ駒﹂といふのを書かうと思つて居ります﹄と低い落着いた声で答へた。一葉女史は自分の作物に就ては得意らしいとか、熱中したとかいふ様子を決して、人に見せない人であつた。戸川秋骨が﹃われから﹄の中の奥方が宮の前で、物思ひに沈むところを賞めたところが、一葉さんは下を向いて、微笑を含んで、﹃彼所が肝腎なところです﹄と低い声で云つた。﹃滅多に自分の作のことを云はない人が、彼れだけに云つたのだから、彼所は大に得意なのだらう﹄と云ったことがある。女史自身が自分の作物に就て何か云つたことがその外にあつたか何うか、吾々は少しも記憶して居ない位である。 馬場孤蝶﹁﹁にごりえ﹂の作者﹂ 昭和17年11月 小石川の安藤坂を牛天神の方からあがらうとするその坂の右側に、磨き上げられた黒塗りに金の御定紋入りの人力車がずらりと並ぶ日があります。それが中島歌子先生の﹃萩の舎﹄歌塾の稽古日でした。明治二十年代のことですが、私達はこの塾で一葉樋口夏子さんを﹃お夏さん﹄と呼んで親しんでをりました。今でもお夏さんと呼ばないとあの面影が出てまゐりません。十八でこの塾に私が入りましたときお夏さんは二十五で、中島先生の第一の高弟としてよく代稽古をされ、源氏物語などを初めいろ〳〵な古典の講義をしてくださつたものでした。 ﹃たゞ今の言葉で申上げれば、まあかうでもございませうか。﹄ お夏さんがその講義を始められるときは、澄んだ声でかういふまへおきをつけられるのが習ひでした。薄い髪の前髪を小さく取つた意気な銀杏返しを、いつもきれいに梳きつけて、鼻筋の通つた瓜実顔に白粉気はありませんが、女のたしなみでございますね、口紅をちよつとさしてをられました。両手を袖口にすつぽり引つ込めてその手を胸元できちんとかき合せ、いくらか前かゞみに坐つてをられる――それが講義のときのお夏さんのきまつた姿でした。その坐つた膝がひたりと薄かつたのが今も眼の前にあります。 教場は十二畳のお座敷でした。色とり〴〵の座布団の上につゝましやかにお夏さんの講義を聴いてゐる門下生は殆どが表に待つ俥の主で、名門の姫君令嬢達ばかりです。ですからそのきらびやかなことゝいへば、ほんたうに一幅の美人図を見るやうでした。紫の矢筈や黄八丈、お召、糸織など、その頃としては立派なお身なりで、さういふお衣裳が毎週土曜の稽古日毎に変るのです。︵中略︶ 当時﹃文学界﹄や﹃読書新聞﹄などに、﹃わかれ霜﹄﹃五月雨﹄﹃暁月夜﹄﹃雪の日﹄﹃琴の音﹄などを発表して、文名は次第にあがつてをりましたが、原稿料の方はなか〳〵思ふやうに入らず、代稽古として受けられる月二円の報酬が、お母さんとお妹のお邦さんとの御一家の大切な定収入となつてゐたやうでした。 ﹃小説を大変面白く拝見いたしました。﹄と申しますと、﹃およし遊ばせよ。﹄﹃おからかひになつちやいけませんよ。﹄などゝ恥しさうにされます。その頃は世の中全体が今より言葉はずつと丁寧でしたが、お夏さんは殊に礼儀正しい言葉づかひの人でした。何ごとにもつゝしみ深く遠慮深い、けれども内にはなみ〳〵でないしつかりしたものを持つて、御自分の信念を主張なされるときはいかにもはき〳〵した口調になられる――お夏さんはさういつた人でした。 疋田達子﹁樋口一葉﹂ 昭和22年5月 随分苦しい生活を致したので、それを考へると可哀相な思に堪えません。もう少し生活に苦しませなかつたら、如彼夭折︵二十五歳没︶も致さなかつたでせうし最つとまだ暢びてゆけましたらうにと真に可哀相に存じます。店に荒物を並べて売りましたので、根津からまだ夜明前――真暗な内に家を出て、神田の田町まで買出しに行つて、帰つて来る頃は既う午前十時にもなる、といふ様な事をよく致したさうです。さうして疲れた身体で又考へたり筆を執つたり致したのでございます。 元来幼少の頃から楽な生活ではありませんでしたが父が歿し、さて男の兄弟が頼みにならなかつたのですから気の毒なものです。終ひには身体を大層悪くしまして、﹁どうも不いけ可ない、不いけ可ない﹂ と始終申してをりました。︵中略︶ 夏ちやんは又実によく泣く人でした。何かといふと﹁私悠かう思ふ﹂とか﹁何どう思ふ﹂とか言つてはよく泣きました。あんな勝気な人でゐながらそれはよく泣くのです。ひどく張のある人が却つてひどく泣く様ですね。︵中略︶ 随分思ひ切つてゐましたね。往来でも、此の人をモデルにしたいと思ふと、何処までも其の人に尾ついて行つた事は度々あるさうです。元来自分の周囲の人――塾の婦人たちをもよくモデルにしました。注意して見ると直ぐ分るのです。﹁ハヽアあの方を描いたな﹂と思つてゐると、﹁私あの人を描いちまつたのよ、見て下さい﹂などゝ自分でも申しました。︵中略︶ 男との交際は沢山ありましたが、まあ皮肉評をする方が多くて、恋ラブに落ちた事は遂に無かつた様です。半井桃水さんとはよく往来がありました。そして半井半井とよく噂が口に上りました。私此間の晩に行つたら半井さんが臥ねてゐたとか何どうとかで、私蒲団を最う一枚懸けてやつたとか何うとか、そんな事をずん〳〵話すのです。﹁貴方そんな事を滅多に話すものぢやありません。人に何とか言はれますよ﹂と申した事でしたが、誰にでも半井さんの噂をずん〳〵するものですから果して評判に上りました。︵中略︶ 歿する折の語を申してお終ひに致しませう。﹁私が死んでもナニ裏の豆腐屋のお爺さんが死んだも同じ事だから別に騒がない方がよい﹂と申したさうです。語の裡に却つて抱負が見えてをりますので、この心が作に努つとめ力めさせた所以でございませう。 三宅花圃﹁女文豪が活躍の面影﹂ 明治41年7月
明治12年頃 明治20年2月 明治29年2月
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