井上靖 ︻いのうえ・やすし︼ 小説家。明治40年5月6日〜平成3年1月29日。北海道旭川市に生まれる。昭和5年、九州帝大に入学し、後に京都帝大哲学科に移る。懸賞小説でたびたび賞金を稼いだが、学業は怠け、卒業は29歳だった。昭和11年、毎日新聞社に入社。以後、15年にわたって記者を続けたが、昭和24年、﹁猟銃﹂、﹁闘牛﹂により文壇に登場。卓越したストーリーテリングで、一躍新進作家としての地歩を確立。以後、旺盛な執筆活動を開始し、﹁氷壁﹂︵昭和31︶など、新聞小説で多くの読者を獲得した。また、﹁天平の甍﹂︵昭和32︶や﹁敦煌﹂︵昭和34︶など、中国大陸を舞台とする歴史小説によっても高い評価を得る。中国とは交流も深く、昭和61年、北京大学名誉教授となった。晩年も創作意欲は衰えず、﹁孔子﹂︵昭和62〜平1︶などを発表した。平成3年1月29日、死去。享年83歳。代表作は﹁猟銃﹂、﹁氷壁﹂、﹁天平の甍﹂、﹁敦煌﹂、﹁本覚坊遺文﹂など。 ︹リンク︺ 井上靖@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 井上靖@文学者掃苔録図書館 井上靖@近現代日本文学史年表 著作目録 *制作未定* 回想録 控室で手術の話をうかがったが、氏は手術はほとんど苦しくはなかったように語っておられた。私は自分がたびたび手術を受けてきたから知っているが、井上氏のように﹁苦しくはなかった﹂と今でも言えはしない。︵中略︶そんな強靭な意志力があればこそ、年とられても中国へ﹁孔子﹂の取材にたびたび行かれ、術後の病室で原稿を書きつづけられたのであろう。 ﹁消燈時間のあとも、私だけ灯をつけていたようです﹂ と井上氏は語られ、私は癌の術後で体力も弱っておられたろうに、夜、原稿用紙と向きあっておられる姿が眼にうかび、強い方だと思わざるをえなかった。 遠藤周作﹁強靭な意志力﹂ 平成3年4月 以前、文豪酒徒番付というものが雑誌﹁酒﹂にあった。そして、氏は常に横綱であった。私は冒頭に記した訳柄から、また私も酒が好きであったから、いささか羨ましく、井上氏は人格者であるから必要以上に選考委員の編集者に買われて横綱になられているのではないかと妄想したこともある。 ところが近年、軽井沢で中華料理を御馳走になり、そのあとみんなで井上氏のお宅にお邪魔した。そこで一同飲みはじめたわけだが、井上氏はいくら飲まれてもいささかも乱れない。 あまつさえ真向法という屈伸運動を披露され、それを見ると氏の体はまことに柔軟で、若い私たちが真似をしてみても、その半分も体が曲らないのであった。翌日は体の節々が痛んだ。 北杜夫﹁人生の達人﹂ 昭和54年1月 井上靖の作品を最初見せられた時には実のところどう評価していいのか聊か戸迷しないでもなかつた。しかし、何はともあれ第一に面白い。理窟なく面白いには相違ない。この点だけで外の詮議もう沢山といふ程に面白かつた。小説の面白さといふものを大ぶん暫く忘れようとしてゐる我国でそれを久しぶりに思ひ出させるに足るものに思へた。近年、小説の面白さの復興に志して制作してゐるかに思はれる林房雄の諸作にも劣らず面白かつた。ところで小説の面白さとは何か、一朝一夕には論じ尽せない問題である。とはいへ結論として、面白いのは面白くないよりはよく、一度面白いばかりでなく読む度に面白さが新ならば更によい。井上の作品の面白さの種類は何であらうとも、それが面白い事は作者にとつてマイナスでない事だけは確実であらう。しかし井上の作品が大衆小説か芸術小説かといふ疑念が起るのも多分はこの面白すぎるほどの面白さのせいなのであらう。ところが自分はそんな俗論的区別などは速かに撤廃さるべきと思つてゐる。面白くないのが純芸術的作品といふやうな通念はわかりにくい評論程すぐれてゐると考へるやうな迷信であらう。 佐藤春夫﹁新しき意匠家 井上靖﹂ 昭和25年3月 氏の定評は人あたりのいい紳士ということになっている。たしかに接近しても遠望しても氏ほどそういう定評を感じさせる人もすくないと思うが、しかしこのこと自体、氏の変り者であることのすさまじさを表わしているようにも思える。氏の経歴をみれば、二十代いっぱいは放浪者ではなかったかと思える。すくなくとも世間なみに定着した暮らしをしようという衝動をもたなかったかのように窺える。 氏には﹁しろばんば﹂や﹁あすなろ物語﹂﹁夏草冬濤﹂といった声価の高い自伝風の小説があるが、しかし自家の医業をつぐべく四高の理科に入ったあと、それを断念して学籍をもちつつ一種の放浪をつづけている時代、または二十九歳でやっと大学を出てしかもぶらぶらしている時期までをふくめたこのひとに、世間的定着を嫌いつづけているなにごとかを感ずるのだが、そのことは私などは遥かに想像するしかない。ともかくも大阪の毎日新聞社の記者に化︵な︶って出てきた――世間に定着する姿を示した――ときの氏は、私など、氏と当時交友のあった誰にきいても、柔和そのものの紳士だった。柔和さを鎧︵よろ︶わねばならないよほどの精神をその中に押しこんでいることは、氏に触れたときの幾瞬間かの気配で察することができた。 司馬遼太郎﹁雑感のような﹂ 昭和49年12月 井上靖君の芥川賞を得られた﹁猟銃﹂を活字になる以前に読んだ人は幾人かはしらないが、わたくしはそのうちの一人である。しかも、つづけて初稿と第二稿とを読んだ。︵中略︶ その﹁猟銃﹂のなま原稿は、原稿用紙にきれいにペンで書かれていた。字画正しいのは今でもそうだが、とにかく一画一画きちんとした字で、百枚からの原稿が書いてある。その行儀のよい書体、それと文体。これをみて、この人はどんなところでどうして育ったのだろうと思った。︵中略︶ はじめの﹁猟銃﹂を読んで、わたくしの小意見をのべた。ほんの僅かの風俗上の好みについてだけだった。そうして原稿用紙の﹁猟銃﹂を返した。 すると、今でもはっきりおぼえている。すぐさま一日おいて、また﹁猟銃﹂をもってきて﹁こうしました﹂という。その原稿が全くの新原稿なのである。また百枚からのものを、初めから書き改めてあるのである。おどろくどころかあきれてしまって、あんたこれで体は平気ですか、ときくと、まあ平気です、こうしないと気がすまないんです、という返事。 竹中郁﹁﹁きりん﹂のころ﹂ 昭和37年3月 井上さんは日本ペンクラブ会長をはじめ文壇的な仕事も広くこなし、長老的な存在だった。日中文化交流にも精力的に役割を果していた。一見すると、文学外の仕事にも適性があったように思えるが、井上さんは、現実の役割を責任感から引きうけておられたのであって、決してそれが好きだったのではない。すくなくとも私が井上さんと話をしていて感じるのは、文学にすべてを賭けた人という印象だった。次男の井上卓也氏が﹁うちのおやじはひどいんですよ、ぼくが慶応を卒業するとき、お前、どこの大学を出るんだ、と訊くんですからね﹂と述懐していたが、日常生活も忘れはてて文学に熱中していた井上靖を、これほど鮮かに照らしだす言葉はない。 辻邦生﹁空気のヴェールを見た日﹂ 平成3年4月 事実当時井上靖は新聞社にはいっていて、なかなか社の空気にとけこまず、先輩たちからどうも眼にさわる人間だと思われていたようである。それは彼がどうしても新聞社の空気にとけこまず、心を許すところがなかったからのことだろう。彼の存在は先輩の眼にふれ、その心をいらだたせるのである。しかし誰一人として彼にそのことについて注意を出来るものがいなかったという。ある会のあった夜、会が終って学芸部の先輩で歌もつくるひとと二人で神社の境内を通り抜けようとしたとき、その先輩が突然井上靖にぶんなぐりかかってきた。井上靖はその自分の上におちてきた腕をとって背負投で神社の石畳の上に先輩の身体をたたきつけた。するとその身体はその石畳の上に完全にのびてしまってしばらく立つことが出来なかったという。 この話はいまも彼の名前が出るとよく友人たちの間で話される話の一つである。彼が学校時代から柔道の名手であるのでいかにもこの話は彼の身にぴったりよりそうている話のように思える。実際またそうなのである。しかしこの話はやはり彼が柔道四段の大将級の人間だとはいえ、その柔道をこのような形でつかったのは、このときただ一回きりで、彼の心は決して大衆的な英雄道の上にはないという言葉をつけて話されるときさらに彼の身にぴったりよりそうといえるだろう。 野間宏﹁﹃氷壁﹄の人﹂ 昭和32年2月 出世作﹁猟銃﹂を佐藤春夫に見てもらったことは、年譜にも出ているが、これは全くの偶然だった。ちょうどそのころ佐藤春夫の﹁風流永露集﹂が出ることになっていた。担当が若手の社員だったが、佐藤春夫の小説も読んでおらず重みも知らぬコワイもの知らずで、調子のいいその青年が、簡単に、﹁佐藤さんに読んでもらってあげますよ﹂と鞄の中の原稿を預かって、さっさと佐藤春夫の所に持参したのが機縁となったのである。 あとで井上さんが、八十五点の評価をしてもらったと、ひそかに話していたが、﹁いい点もらいましたね﹂と答えたのを覚えている。 芥川賞の決定の夜は、出版局の部長と副部長の連絡懇親会のようなものが会議室で行われ、酒も出ていた。その途中、井上さんに電話があった。やがて席に戻ったが無言だったので、﹁芥川賞に決ったんでしょ?﹂と促すと、小声でそうだとやっと返事した。私はその由を出版局次長の尾崎昇︵尾崎士郎の兄︶に報告したところ、﹁おめでたい祝いに、歌を一つ﹂と所望した。井上さんは尻込みするかと思ったら、さっと立上がって、 ﹁では、かねて習い覚えました炭坑節をやります﹂ と歌った。井上さんの歌を初めて聞いたが、なかなか上出来であった。先に記した日本橋の友人の料亭で覚えたもののようである。 野村尚吾﹁新聞記者時代の井上さん﹂ 昭和48年6月 先生の小説には歴史上の人物が多いので、ある時、先生に聞いてみた。 ﹁歴史上の人物には、史料が少なかったり、異説が多いでしょうから、資料の考証が大変でしょう﹂と申しあげると、先生は、 ﹁歴史の事実の考証は、歴史学者がおやりになるからそれでいいのであって、私は作家として、事件の事実的経過よりも真実を重視します。利休が自刃する直前、独りで茶会を催し、その時正客としては誰かを選んだ。利休は師匠の紹鴎を招いたに違いないと思って私はそう書きました。事実はそうでなかったかもしれない。しかし、真実としては、利休が死ぬ直前には必ず、師匠と二人で茶を飲んだと私は思うのです。 孔子の伝記といっても、いろいろ事実と違うことがあるかも知れませんが、一つの場面で、孔子だったら必ずこうしたであろうという真実を理解できたら、そのように書くのです。作家の真実というものでしょうね﹂ 樋口隆康﹁作家の真実﹂ 平成3年4月 井上さんが毎日新聞に入社して、﹁サンデー毎日﹂の部員になってすぐ、私たちはこれは大変こわい奴が入って来たわいと思った。井上さんの耳がくちゃくちゃになっているのを発見したからである。﹁あいつは強いぞ、耳があんなになっているところを見ると四段か五段くらいになっているかも知れんぞ﹂と噂しあったものである。そして私は常に井上さんの耳に圧倒され通しであった。︵中略︶ 井上さんが、片方の手を、︵右手だったか左手だったかは忘れたが︶ポケットに突込んで、少し前こごみになって、編集局に入って来る姿は、ちょっとした雰囲気だった。ゆっくりした足どりで、何か考え込んでいるような、むっつりした顔をして、横目でちょいと私を見て挨拶してゆく恰好は、新聞記者のタイプとは少し違ったものが感ぜられた。大分あとになって、井上さんから詩を見せられた時、ああやっぱりこの人は詩人だったかと、それから急に井上さんと親しくなったような気がする。 丸野不二男﹁井上さんの耳﹂ 昭和36年5月 雨音だけが聞こえるホテルでの夜、ひとまわり、みんなの独唱やら合唱がすんだころ、沼中の同級生だった詩人、某氏が近作の詩を朗読した。 それは、少年の昔から一度、たった一度でいいからソビエトへいってみたい。その未知の国の黒い土を踏んでみたいという願望――幼い日からじっと抱きしめていた純粋な、その貴重な夢が現実のものとなった喜びと感動を、素直に昇華させた詩であった。 その人を仮りにP氏としておく。P氏が薄いプリントに綴られた自作の朗読を終えた途端、井上氏の頬を、ゆっくりと二筋の涙がつたわり落ちてきた。そして突然、井上氏は﹁お前が文壇に出ればよかったんだ。ほんとうは、お前が文壇に出るべきだったんだ﹂と叫んで、赤くなった眼頭を右の拳でグイグイと押しながら、声をつまらせて、また叫んだ。﹁――しかし、な、お前が文壇に出ても、俺が出ても同じなんだ。な、そうだろう﹂ うつくしい涙だった。詩人と詩人の純な魂がぶつかり合い、何十年もの長い間、友情という太い一本の線につながれた男と男の心情が結晶して溢れた涙――それは井上氏と親しくさせていただいた十年間に、このたくましい作家、このすぐれた詩人がはじめてみせた意外な涙だった。 森田正治﹁井上靖氏の涙﹂ 昭和38年6月 ﹁小説を書く以外、もう私には別段何も面白いことはないようである﹂と、十三年前、昭和二十四年に氏は書いた。五十五歳になった今日において、やはり同じことを書くだろう。そのあいだに、氏の境遇には大きな変転があった。その翌年二月、芥川賞を受賞してから、流行作家の座に居坐るまで、まことに他に例を見ないめざましさだ。多くの作家は、流行作家になると途端に、あの男はやはり文学より生活の方が面白いのだなといった雰囲気を、どことなく身辺に漾わせるものである。では、彼等の生活とは何か、と覗きみる人があったとしたら、おそらく索漠とした風景以外にそこには見出だすことがないだろう。井上氏も人並に流行作家としての生活を送っているが、バーへ行き、ゴルフをやり、旅行をするなどということを、かくべつ面白いと思ってやっているのではなさそうである。それが流行作家の生活の型であるなら、自分ひとり異を立てるより、それに従って置いた方が、生活の無用な摩擦を起さないし、気やすいということであるらしい。 山本健吉﹁井上靖﹂ 昭和37年8月 或る時期、井上さんの肩にリュックサックがなく、両手をポケットに突っ込んで、闇市の雑踏の中でも、妙に沈んだ様子で歩いておられた。﹁どうかなさったんですか﹂とお聞きすると、﹁山崎君、僕はもう駄目だよ、君が詩のような小説だと云ってくれたあの﹃猟銃﹄が、文芸誌に掲載されなかった、今度こそはと思っていたが、もう僕の小説は駄目だ﹂とおっしゃったので、驚きのあまり、言葉が継げなかった。 殆んど毎朝五時に起きて、新聞記者という激しい仕事を持ちながらも、出社する前に小説を書いて来られる井上さんの小説に対する情熱と姿勢に搏たれ、四百字詰原稿用紙に崩さずきちんとした字体で書かれていた作品も読ませていただいただけに、私は容易に信じられなかった。︵中略︶あとは言葉もなく闇市の中を歩いたが、柔道で鍛えられた肩幅の広く、胸板の厚い井上さんが、妙にぼそりとして見えた。新聞社独特のざわついた編集局の中で、常にもの静かで毅然としたお姿も、この時期ばかりは心なしか侘しげであった。 だが、暫くすると、またリュックサックを背負った井上さんの姿が見かけられるようになった。ああ、井上さんは午前五時に起きて、作家として世に出るまで四千枚の原稿を書きためねばならぬと、自らに課した目標に向って、ペンを執っておられるのだと思うと、粛然とした気持になった。 二年後、井上さんが改稿を重ねられた﹃猟銃﹄は﹁文学界﹂に掲載され、﹃闘牛﹄とともに芥川賞候補となり、井上さんは文壇に出られたのだった。 山崎豊子﹁リュックサック﹂ 平成3年4月
昭和6年9月 昭和30年 昭和63年1月
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