伊東静雄 ︻いとう・しずお︼ 詩人。明治39年12月10日〜昭和28年3月12日。長崎県諫早市に生まれる。昭和4年、京都帝大国文科卒業後、大阪府立住吉中学校教諭となる。以後、終生教職を離れず、詩人生活と教員生活を区分した。昭和8年、雑誌﹁コギト﹂へ詩の発表をはじめ、保田与重郎、萩原朔太郎らから賞賛を受ける。昭和10年、処女詩集﹁わがひとに与ふる哀歌﹂を刊行。形而上学的骨格を持った、硬質な言葉で心の痛手をうたった。昭和15年、第二詩集﹁夏花﹂を刊行。深い沈潜とゆたかな観照の世界に向かい、その詩業の頂点を示す。昭和16年、堀辰雄を中心とする詩雑誌﹁四季﹂に同人として参加。戦前は文語詩が中心だったが、戦後に発表された詩集﹁反響﹂︵昭和22︶においては、口語で平明な作風へ転換した。昭和28年3月12日、肺結核により死去。享年46歳。代表作は﹁わがひとに与ふる哀歌﹂、﹁夏花﹂、﹁春のいそぎ﹂、﹁反響﹂など。 ︹リンク︺ 伊東静雄@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 伊東静雄@文学者掃苔録図書館 著作目録 詩 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 伊東さんはぼくが中学校の四年生のとき、たま〳〵、その中学校に、赴任してきた。そして、しきたりどおりに、朝礼のとき、全校生徒をまえにして、いちだん高い壇のうえで、紹介の礼がおこなわれた。 まず校長先生が壇のうえにあがつて、それこそ円満らしい、まんまるい、にこ〳〵した顔で﹃こんど来てくださつた先生は、京都帝大の国文科を出てこられた秀才で、なか〳〵深い研究をし、すぐれた教養を身につけていられる。はじめのうちは、いろ〳〵なれない点もあるだろうけれど、いちにちも早く先生にしたしみ、おしえをよくきいて、しつかり勉強するように……﹄と、たしかに、いつもより力のこもつた、しんせつな、紹介のことばをのべた。それから、したにひかえていた伊東さんを呼びあげ、肩をならべて立つてから、さきに、壇からおりた。すると、伊東さんは、なにか、とつぜん、かんだかいこえで、さけんだ。生徒たちは耳をそばだてて聞こうとした。が、なんだか、のどにからんでどもつたみたいな、へんにかんだかい、あんまりみじかいことばだつたので、ほとんど、わからなかつた。しかも伊東さんは、したのほうの生徒たちは見ずに、うえのほうの空を、まるきり怒つたみたいな眼つきで、じつと見あげている。顔はまつさおになつている。よわそうな、小さな、やせた体をしているのに、かみの毛ほ、もじや〳〵と、ながくて、ひたいのうえにまで、たれかゝつている。生徒たちは、つぎのことばを待つた。が、伊東さんはやがて、ひたいのかみの毛をぐいと、あらつぽく、かきあげるようにすると、まつかな顔になつて、そのまゝ、そゝくさと、壇からおりてしまつた。 幾百人もの生徒たちが整列しているひろい運動場は、しばらくのあいだ、しーんと、みように、しずかになつた。 池澤茂﹁詩人とサラリーマン﹂ 昭和28年7月 ﹃ねえ、きみ、大衆食堂なんかへゆくと、庶民のあいだにまざりこんで、どこといつて目立つたとこはないが、よくふとつた、なんとなく陽気な、ゆたかな感じのする男がいるだろう。見ていると、カツレツだの、ミンチだの、ビフテキだの、サシミだのと、あぶらつこい料理を、つぎからつぎへ、たいらげてゆく。酒ものむ。とき〴〵女もからかう。あんなのをつまり大阪的というんだろうが、じつに、ゆかいだなあ﹄と伊東さんは、ぼくをさそつて散歩に連れだすと、しきりに、そんな話しをした。﹃萩原さんなんか、風流とか風雅は、つまり、四畳半の純日本的な座敷で、花をいけ、お茶をたしなむことだ、と言つていたが、なるほど、文学、ことに日本文学の究極は、そういうところにあるのだろうが、ぼくはやつぱり、ビフテキやカツレツのほうに、よけい心をひかれるなあ。金もどし〳〵もうける。名誉も平然として受けいれる。りつぱな衣服をとゝのえ、大きなやしきに住み、すぐれた家具調度をあつめる。しかも人なかでは、ちつとも目立たず、ごくあたりまえな顔をして、あつかましく、悠然と、ゆたかな享楽をたのしむ。いゝなあ! みすぼらしい服装をして、まずしい家に住んで、しかも、それをいゝことのように思つているなんて、じつに、ばかげたことだよ﹄ 池澤茂、同上 私たちは、栗山理一もその一人であつたが、詩集﹁わがひとに与ふる哀歌﹂の中でことに、﹁曠野の歌﹂や﹁わがひとに与ふる哀歌﹂の諸篇を愛誦した。崇高清新で若々しい抒情の息吹きが、切なく私たちの胸を満たした。セガンチニの描いた﹁アルプスの真昼﹂に、遠く雪の連嶺がそびえ、羊飼ひの木によつていこふ牧場の絵を見ながら、伊東さんはこれらの詩篇のイメージを語つてくれた。伊東さんの詩情は哀歌につきてゐたと思ふ。私たちに歌つてきかせてくれた朗吟の調べには、哀歌の情熱と切なさが惻々として流れてゐた。自作の一語一句をもまちがへずに伊東さんはいつも整然と朗吟するのだつた。その的確さにも私はひそかに驚嘆した。朗吟のことで思ひ出すが、伊東さんと酒を飲んでゐると、一時よく萩原朔太郎さんの﹁晩秋﹂の﹁汽車は高架を走り行き思ひは陽ざしの影をさまよふ………﹂を操り返し歌つた。その熱つぽさをおびたバスの哀歌の調べに、私たちは詩人の悲しみをそれぞれの心々に思つてきいてゐた。酔つてくると、その朗吟は義太夫もどきになつたりして、私たちは涙を感じながら腹をかかへて笑ひこけた。大阪の道頓堀に近い酒家の夜であつた。 池田勉﹁伊東静雄さんのことども﹂ 昭和28年7月 中学校の校庭の長いコンクリート塀に沿つた道を、ぺしやんこの中折帽子を無雑作に被り、それでも服はハイカラな霜降の背広を着て、煙草を常の様にふかして、何か考へごとをする様に帰つて行く、背の低い先生の姿をよく見かけたものである。それが伊東先生で、国語の先生だといふ事を誰が云ふともなく聞き知つた。 又名が﹁乞食﹂愛称﹁こつちやん﹂なる事も知つた。その通り先生は小さな体で、頭髪は何時も油をつけずざんばら髪で、髭が濃くて何処かヴァガボンドの風貌があつた。 又先生は偉いのだといふ者もあつた。帝大を出てゐるといふ事だつた。 然し私は先生の担任ではなかつたので、直接先生に教を受ける事はなかつた。︵中略︶ これは後年私の友達から聞いたのだが、先生は然し怒ると怖いといふ話だつた。一度など教壇の上から机の上へ飛び上つて、机の上をぴよんぴよんと渡つて、生徒の頭を擲つたといふ話をきいた。その頃先生は不眠症で何時迄も寝られなく、その様な時は夜遅くても、長い事風呂に入ると寝られるといふ事だとも言つて居た。又学校の小使に、当直の先生で誰が一番胆力があるかと聞くと、﹁伊東先生は物音がすると木刀を持つて飛び出して行つた﹂といふ話をしてゐたさうで、体に似合はぬ胆力のある先生だと、滑稽な気がして笑つた。︵中略︶ 後年私と知合ふ様になつてから﹁生徒に文学の話したくなる事がありますが、学校では文学の話しない様にしてゐます﹂と言つてられた様に学校では詩人の様なふりは少しもされなかつた。 石森拓雄﹁伊東先生の思ひ出﹂ 昭和28年7月 伊東さんと知り合つたのは、昭和九年の、たしか夏だつたと思ふ。当時堺に住んでゐた栗山理一の宅でであつた。その頃は池田勉も住吉区に住み、まだ広島の大学にゐた蓮田善明も来合はせ、われわれ同人四人との最初の出会であつた。少量の酒で楽しくなり、朔太郎の﹁帰郷﹂の詩や、後に﹁わがひとに与ふる哀歌﹂に載つた自作の詩を朗読したりした。自作の詩の方は忘れたが、﹁帰郷﹂の方は、その最後の部分の﹁汽車は曠野を走り行き…………﹂のあたりの詩句とリズムが、大層鮮明に今でも蘇つてくる。そしてその口を衝いて出てくる文学論は、すべて私の驚きであつた。私は伊東さんから文学者の厳しい生き方を教へられ、人生における﹁誠実﹂の尊さを教へられた。︵中略︶ 後年、われわれ四人が国文学雑誌﹁文芸文化﹂の刊行を発意したのも、伊東さんとわれわれとのかつての日の結縁が、一つの有力な動因となつてゐることは、他の諸君も同様に自認するところだらうと思ふ。伊東さんは、われわれにとつて発光体であつた。私は、たとひ数行の短文でも、伊東さんの眼を意識しないでは書けなくなつた。その批評は、痛いほど正確に応へた。伊東さんの存在が、私に勇気を与へつづけてきた。 清水文雄﹁挽歌﹂ 昭和28年7月 その頃から御臨終の時まで、お姉さま、弟さま、そして奥さま達がお傍に附ききりで、看とられてゐたわけですが、時々皆さんが、若しや、と思はれることあつて、枕もとに集られ、お顔を覗くやうにして見守られたりせられると、その度に先生は そんなにされると今にも自分が死ぬやうぢやないですか、まだ死なないから、皆もつと楽しくしようぢやないですか。 などと微笑しながら言はれたりされたさうであります。 三月十二日。早朝から一時間置き位に、オートン、或はオートンとビタカンファの混合注射。十二時半、前々日の十日以後二度目の輸血。四十�t、けれどこの時は、十日の時のやうに明るい反応は得られなかつたとのことです。輸血後、間もなく熟睡にはいられました。そして一時半にお目覚。発汗甚しく、苦痛も烈し。たゞちにオートン四�t注射。又、酸素吸入。その後もオートン・ビタカンファ混合注射数回。 さうして、午後六時半に、オートン・ビタカンファ混合の、最後の注射をなさいました。その時も、先生は確かに目覚められて、 これけ何の注射ですか? と、はつきりお尋ねになられたのださうであります。少くとも、この時までは、明晰にお意識を保つてゐられたやうです。それから後は、永かつたご苦痛も殆んど全く絶えたご様子のまゝ、ずつと安眠状態にはいつてしまはれました。 そして、午後七時十分頃、ご自身で正しく仰臥せられ、お胸の上に静かに合掌なさつたさうです。それは、まことに穏やかに、美しいご姿勢の臨終であられたよしでありました。 谷口卓男稿、林冨士馬記﹁ノート﹂ 昭和28年7月 戦争がすんで復員したわたしは戦闘帽と軍服のまま住吉中学校まで出かけて伊東静雄にあつた。彼は戦闘帽や軍服をはなはだ不愉快がつた。彼は大東亜戦争をものすごく憎んでゐて、戦争がすんでほつとしたと言つた。わたしは﹁春のいそぎ﹂のころの伊東静雄を思つてゐたので、一寸あつけにとられた。 わたしは戦争中ウルトラ右翼だつた連中が忽ち左翼化してゐることを少し非難したが、伊東静雄は、人民としてそれが当然だといつた。世の中が左翼化すれば左翼化し、右翼化すれば右翼化するのが当然ですよ、それが良いのですよと言つた。 ﹁文芸文化﹂の蓮田善明の自殺のことが話に出たが、蓮田が徹底抗戦を部隊長に進言していれられず、部隊長を射殺して後自殺したことを、彼はひどく厭がつてゐた。ひとりで死にゃいいのにといふのが彼の意見だつた。 終戦といふものは、伊東静雄の上にも大きく影響してゐた。﹁春のいそぎ﹂のころしきりに彼の口にのぼり、彼を内らから鼓舞してゐた保田與重郎のことも余り口の端に上らなくなつてゐた。彼は何か彼の過去に背を向け、解放感をたのしんでゐるやうに見えた。彼は大へんおだやかになつてゐるやうだつた。 富士正晴﹁伊東静雄のこと﹂ 昭和28年7月 二人で歩き廻つて文学のことなど喋つて見ても、意見は一向に一致しなかつた。わたしは伊東静雄の意見がチカチカしてやり切れなかつたし、伊東静雄はわたしが何を言つてみても平然としているのがひどく腹立たしかつたらしい。 ﹁あなたは、一度も顔が赤くなつたことがないですね。詩人はパーツと顔を赤らめなくては本当の詩人じやないですよ﹂と彼は言つた。そして、保田與重郎の顔がパーツと赤くなる美しさ、含羞についてわたしに説明して聞かせたが、わたしの顔はてんから伊東静雄の註文するように赤くはならないのだつた。彼にいわすと、詩人は錯乱しなくてはならず、キヨトキヨトおちつかぬ面持ちでヒステリーを起さねばならないのだつたが、わたしの考えるところでは詩人は錯乱してはならず、ヒステリーなど起してはならぬのだつたから、何か一言いつても喰いちがつた。しかし、彼は六、七才もわたしより年長であり、頭も良かつたから、多分彼がしやべりまくり、わたしが平然をよそおうて相手にならず、それが又、彼に腹を立てさせたというような事だつたのだろう。このころを思うと、丸で音楽が造型美術とけんかしているという感じがする。 富士正晴﹁伊東静雄との交友﹂ 昭和28年11月 私がはじめて伊東静雄氏にあつたのは、たしか昭和十四年の七月、大阪心斎橋筋の丸善と同じ並びの少し南に寄つたドンバルの二階で、日本歌人の大阪歌会のあつた時であつた。 それより前、伊東氏と同じ学校につとめてゐた画家のO君が日本歌人の同人であり、又、伊東氏やO君に学校で教はつた生徒のS君が日本歌人の会員となつてゐたので、このS君から伊東氏やO君の噂をよく聞いたものである。それによると生徒間では伊東氏をコジキ、O君をイウレイと渾名してゐたやうである。O君のイウレイは言ひ当てて甚だ妙を得てゐたから、伊東氏の場合もさぞかし類ひ稀なるよきコジキぶりならんかと想像してゐたのであつた。︵中略︶ ドンバルの歌会に私を訪ねて来てくれた伊東氏はコジキでなかつた。土用前の炎暑の日とて、皆一様に上着を脱いで、甚だだらしのない恰好をしながら、半ばうつけたやうな有様で、一向意気のあがらぬ歌会であつたが、そこへ入つて来た伊東氏は隆︵りゅう︶としてゐた。黒い越後上布の上に絽の黒羽織を着、絽か仙台平か忘れたけれど袴まで付けて、黒い夏足袋もちやんとはいてゐた。この黒づくめの装束に対して、頭の新しいパナマ帽と足もとの草履の白が印象的であつた。どうしてコジキどころか、その日心斎橋筋では、伊東氏ほどに威儀を正した盛装の紳士はつひぞ一人も見なかつた。 前川佐美雄﹁伊東静雄を憶ふ﹂ 昭和28年7月 その会か、伊東先生が上京された為の記念の会か、私は忘れてしまひましたが、これらの私達の仲間が、爐の前に坐られた伊東先生を囲んで、一夜を談笑し合つたことを思ひ出します。私にはこれが伊東先生にお逢ひした初めてでした。 その時の伊東先生は和服でした。青みがかつた格子のセルを着てをられました。帯は京染の渋い艶のある角帯を腰低くしめられてゐました。初めはなんてこわい人なんだらうと思つて、その時、一番年若だつた私は一人で固くなつて、伊東先生の一言一言を聞きもらすまいと、先生の表情だけを見詰めてをりました。そのうちに洒の酔で、皆さんが賑かになつてきました。私は伊東先生の顔が、黒子︵ほくろ︶だけに見えて来てしまひました。 後日に聞いたのですが、伊東先生は顔の黒子を大変気になすつて、戦後か戦中かは存じませんが、焼き落してしまはれたのださうですが、その日の私は、私の顔に何故黒子がないのか悲しんだ程です。黒子のない為に、私は伊東さんのやうな詩人になれないのではないかと、本当に一生懸命考へたことが懐かしく思ひ出せます。 牧野径太郎﹁悼み﹂ 昭和28年7月 先生の正面に腰を下ろした私に、いきなり先生は、 ﹁牧野君は妻があるかね﹂と聞くのです。私は軽く頷きました。一年前に妻を貰つたばかりでしたのですから……さう言はうとも思ひました。すると先生は真剣なお顔で…… ﹁ぢや君、あれをするのにね、君はどの位の時間を要する。﹂ 私は何んて答へてよいのか、ためらつてしまひました。ためらつたと言ふより戸惑つてしまつたのです。職員室の中で、多くの先生達が、珍しさうに私達を見てゐるのです。併し、先生はそんなことはまるで頓着なささうに、真面目な表情でした。私は、﹁はい、三十分位﹂とお答へしようと思つて居りますと、先生は、 ﹁詩は呼吸が大切だ……あの時の呼吸の時のやうに、相手︵読者といふ意味だらうと思ひますが︶の気を良くしてから、長く押して押して…………﹂ その時の先生のお顔に黒子があつたかなかつたか、私は気がつきませんでした。黒澄んだ真剣なお顔だけが大きく私を覆つてしまつたものですから………もう、この時のことも思ひ出になつてしまつたのです。私はこれから、小さな少い先生との思ひ出を昨日の出来ごととして胸に、こころに抱いて生きてゆかねばならなくなつてしまひました。 牧野径太郎、同上 伊東氏に面晤したのは、たゞの一度であつた。徴兵検査で国へかへつた折、氏のお宅を訪ねて、二三時間も話を伺つたであらうか。その対話の記憶は悉く失はれたが、当時の私にとつて、いかに軍隊生活が恐怖にみちた固定観念であつたかの証拠として、氏が、上官の室へ飯をさゝげて入るとき﹁入ります﹂と云つて礼儀正しく入つてゆく新兵のよさについて話されたのを、拙著﹁花ざかりの森﹂の跋文に引いたのでもわかる。これを読んだ氏は、﹁へんなことをおぼえてゐてくれたものだ﹂と苦笑されたさうである。もつと実のある話を沢山氏の口からきいてゐる筈なのが、私の耳が稚なくて、熟してゐなかつたのである。 戦後、私は決定的に詩から遠ざかつた。小説家として、かのシモンズの、﹁およそ小量の詩才ほど作家を毒するものはない﹂︵ドオデエ論︶といふ訓誡が、日ましに身にしみて来たからである。戦後、伊東静雄氏も病が篤くなられた由で、沈黙を続けられた。気にかかりながら御見舞の機をも得ないうちに、訃に接して、痛恨やる方もない。 氏は純潔で、孤独で、わが少年期の師表であつた。しかし今、氏の作品を読み返してみると、その徹底的な孤独に対して、文字どほり騒壇の人となつた自分を恥ぢるのみである。 三島由紀夫﹁伊東静雄氏を悼む﹂ 昭和28年7月 顔のどこやらに、大きいイボだか、黒子︵ほくろ︶だかがあつた。ちよつと三好達治のやうな表情をする。私はかういふ自恥といふことを知つてゐるやうな表情をする男は、一面に何か不敵なものを蔵してゐる男で、どうかしたら思ひきつて倣顔無礼のことも平気で行へる種類の人物だと思つた。 一言でいふと、かれはたいへん苦労人らしい風貌を︵精神的にも︶蓄へてゐるやうに見える。これはしかしかれにとつて決して後天的なものではないだらう。さういふ人間らしい艶と光りとをかれは備へてゐるし生れながらにいい骨董品のやうな底びかりのしたものを持つてゐる。そしてかれはこのコクのある何者かをやはり詩の上にも示してゐる。それはしかし、さういふものを自分は持つてゐるぞといふことを知つての上のことか、或はさういふことには少しも吾不関でいろいろ骨を折つてゐるのか――そのへんのところが私にはわからない。これはむしろ短刀直入に本人に向かつて質問しなければならぬところかもしれぬ。 百田宗治﹁古い﹁伊東静雄論﹂﹂ 昭和28年7月
大正15年 昭和13年頃 昭和22年9月
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