嘉村礒多 ︻かむら・いそた︼ 小説家。明治30年12月15日〜昭和8年11月30日。山口県吉敷郡仁保村に生まれる。少年時代から劣等感が強く、後の彼の文学にも大きな影響を与えることになる。青年時代、親鸞の教えに深い感化を受ける。大正8年、将来作家として立つ覚悟を決め、水守亀之助の指導を受ける。大正14年、妻子を捨て、小川ちとせと東京に駆け落ち。翌年、雑誌﹁不同調﹂の記者となり葛西善蔵の知遇を得る。昭和3年に発表した﹁業苦﹂、﹁崖の下﹂で文壇の注目を浴び、昭和7年、﹁途上﹂により作家としての地歩を確立。その作品のほとんどは私小説であるが、自己のもつ醜悪な面を悉く告白し尽くそうというスタイルを持ち、﹁私小説の極北﹂と評される。特に、自らの浅ましい出世欲を大胆に告白した﹁神前結婚﹂︵昭和8︶が有名。昭和8年11月30日、結核性腹膜炎により死去。享年35歳。代表作は﹁業苦﹂、﹁崖の下﹂、﹁途上﹂、﹁神前結婚﹂、﹁父の家﹂など。 ︹リンク︺ 嘉村礒多@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 著作目録 小説 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 もう九年前のことであるが、私は思ひがけないことから手紙をもらつて嘉村氏を訪問した。そのとき嘉村氏は﹁大いに書くよりほかはありません。大いに書きませう、大いに書きませう﹂と言つて私を励ましてくれた。しかしそれから後しばらくは会ふ機会もなくて、私は嘉村氏のことを忘れてゐた。︵中略︶ところが今年の早春、私がわけのわからない熱病で入院してゐたとき、嘉村氏はわざわざ私の病気見舞ひに来られ、そのときは可成り調子よく話をされた。私が坐蒲団をとりに廊下へ出て行かうとすると、嘉村さんは私を抱きとめ﹁それはいけません、あなた、それはいけません。そんなことされては、あなたそれは毒です。さあ早く横になつてゐなくてはいけません﹂といふ工合ひに必死になつて私をいたはらうとされた。不本意ながら私は嘉村さんのいふ通りにして横になつて応接した。そのとき嘉村さんは葛西善蔵の湖畔手記や建長寺の池のことについて感動的な話をして行かれた。それが嘉村氏に会つた最後である。 井伏鱒二﹁嘉村さんの事﹂ 昭和9年1月 何れにしても、嘉村礒多は、先きの葉書の文句で分る通り、芸術第一主義︵主義といふと改まつて聞えるが︶の作家であつた。人としての嘉村は、私が最初に彼の作の優れてゐる事を文壇に紹介したやうな立場になつたので、私は余所行きでない人間嘉村は彼の作品を通してだけしか知らないが、上辺は非常に謙遜な人で、主義めかしい事や、理論めかしい事は、筆にも口にも現さなかつたが、心の中は可なり強情な、激しい気持の、自我的な人であつたに違ひない。何故なら、﹁その瓦斯会社には、妻の咲子が自分との結婚前に醜関係を結んでゐた、︵中略︶一度掴み合の組討までやつたことのある、峰が勤めてゐたのだ。︵中略︶咲子の体内に注入されたあの︵中略︶忌々しい男のどす黒い血が流れてゐると思ふと、︵中略︶気の毒な妻を蹴つたり踏んだり﹂する彼であり、﹁鬼魅にくるはされて変形した代物かなぞのやうにふらふらと踵を宙に浮かせてカツ子︵註、後の愛人︶を襲ふや否や難なく彼女の人間らしい必死の抗争を打倒して咒法を行うた︵中略︶喪神してゐるやうな彼女の息を吹き返さぬ間にと東京へ浚へて来た﹂彼、︵﹃生別離﹄の主人公︶であるからだ。 宇野浩二﹁嘉村礒多﹂ 昭和9年7月 ︵註、文中の﹁︵中略︶﹂は原文のママ︶ 彼が師事した葛西の作品は、人間もさうであつたが、何処か余裕があり恍︵とぼ︶けたところがあつたので、嘉村の芸術よりも葛西のそれの方が大きかつたと云はれた所以であらうか。嘉村の作品は、人間もさうであるが、恍けた味どころか余り余裕がなさ過ぎた為めに読者に息苦しい感じを与へた。︵嘉村はそれを指して﹁どうも人生的に過ぎて、ともすると等閑にしがちなり﹂と云つたのであらうか。︶併し、それが嘉村の作品の長所でもあるのだらうが、この二作家の人と作品とに可なり親しんだ私には、嘉村がもう少し健康にめぐまれ、葛西のやうに酒でも嗜み、親しい友達がもう少し沢山あれば、嘉村はもつと長生きしもう少し大様な作品を作つたであらうが、と惜しまれてならぬのである。 宇野浩二、同上 嘉村さんの宿痾については予てから知つてゐたが、つい御無沙汰をしてゐるうちに、つい一ト月程前もはやそれが﹁時期の問題だ﹂と聞かされた。 それに続いて、﹁今御見舞に行つては却つていけない。何しろ絶対安静の病人が起上つて紋付に着かえて出て来るのだから。﹂といはれるに及んで、今更乍ら、とりかへしのつかぬことになつたと思つた。 取りあへず私は見舞状を出した。︵私は、氏の病状の重大さを表してはいけないので、自分の気持の切迫したことを示すのに随分苦心した。︶すると奥さんらしい手跡で丁寧な返事が来た。それには、今一寸病気で身の自由がきかないが、いづれ春にでもなつたら一しょに我々の道にいそしまう、といふ風に、まるで用事で一寸旅行して来る人の挨拶みたいなことが書いてあつた。 やがて突然、朔日に逝去の通知を受取つた。私は期待してゐた様な、それでも少し早すぎる様な気持だつた。私はとりあへず御宅へ出かけた。 御骨は丁度火葬場へ行つた留守だつた。そこにはただ少数の近親の方々の心尽しの御題目が如何にも自然に流れてゐた。部屋の一隅には手沢にまみれた机が一つあつて、その上に原稿整理棚がチョコンと積重ねてあつた。恐らく嘉村さんは、一寸あの世へ旅行して来て、又帰つたらここへ坐るのだらう。 私は何だかゐたたまらないで、煙草一本も吸ひ尽さないうちにそこを辞した。 河上徹太郎﹁嘉村さんの死に遭つて﹂ 昭和9年1月 嘉村君と親しく話し合つたのはたつた二度だけだつたが、面識以前、彼とは知らず彼に会つた事がある。一昨年の秋頃だつたか、よく覚えないが﹁近代生活﹂の座談会に行つた時、玄関で、しまひまで遂に苦手であつた彼の鄭重な挨拶をうけた。僕は色の黒い書生さんだと思つた。その夜河上徹太郎に会ふ用事があり、電話を掛けると、何時に牛込の何番にもう一つぺん電話をかけてくれ、そこにゐるからとの事で、僕は牛込の何番だなと念を押し、電話を切つた。嘉村君は室の隅でむかうを向いて机の上でせつせと何か書いてゐた。時間をみはからひ、中座して、電話口に立つて受話機を取りあげた時、はじめて牛込の何番にかけるのだつたかと気がついた。無論番号は全く忘れてゐた。乱暴に受話機をひつかけ、困つた思ひ入れでたゝずんでゐると、室の隅から﹁番号はそこに書いて御座います﹂と声をかけられた。ずゐ分機転の利く書生さんだと恐縮した。だいぶ後になつてからあれは嘉村君だと聞いて、屹度日記に書かれたらうと思つた。 小林秀雄﹁嘉村君のこと﹂ 昭和9年1月 その次会つたのは、江川書房の江川君と彼の﹁途上﹂を出版させて貰ひたい旨頼みに行つた時だ。彼はこの頃英語を勉強してゐると、チェホフの﹁ブラック・モンク﹂をみせ、英訳の英語はやすいと言ふが、余程単語を引かぬといけません、と鉛筆で克明に単語を書きこんだ豆手帳を、机の上でパラパラやつてみせた。手帳の頁の色が赤や青やみんな変つてゐた。︵中略︶ その次会つたのは八月、彼は今日出海を鎌倉にたづね、すぐ隣りにゐた僕の処へ来てくれた。みんなで海に行つたが、彼は泳がず望遠鏡で僕達の遊ぶのを見てゐた。 夜、今の家で三人で御飯をたべた。彼は風呂から上り、猿又一つで団扇を使ひながら、ひとの家でこんなに寛ぐのは初めてですよ、と言つた。彼もビールをのみ、遅くまで愉快に話した。帰りたくない様子だつた。今と僕とがしきりに泊つて行けとすゝめると、彼はひどく考へ込んで了ひ、やがて立ち上ると、両手を帯の間に入れ、首を傾けて畳を見詰めてゐたが、﹁いや帰りませう、帰つた方がいゝ﹂と天井の方を向いて言ふと、坐つて丁寧にお辞儀をした。 今と二人で停車場まで送つた。改札口で見た彼の姿がおしまひだ。 小林秀雄、同上 嘉村さんは、実に熱心そうに舞台を見ていましたが、しばらくたつと、急に注意がほかに散ったらしく、その上顔色が少し悪くなってきて、わきにいるわたくしまでが、少し落ちつきを失ったくらい、目に見えて妙なぐあいになってきました。舞台では、演劇が進行中だったのですが、嘉村さんは、急にそそくさと立って﹁お先に……深田︵久弥︶さんによろしく、﹂と小声でいったまま、大急ぎで出て行きました。それが嘉村さんの声を聞いた最後なのですが、その時、わたくしは――嘉村さんが腹のぐあいを悪くして出て行かれたのだということを、かなりはっきりと、……ある事情で悟ったのです。︵暗い客席に、ふいに臭気がただよったのだ。︶背を丸めて、走るように出て行く嘉村さんの後姿をことばもなく見送りながら、不吉なようですが、わたくしは、暗い、そして笑いきれないような凄まじいものの手を感じ、芝居をそっちのけにして考えこんだことを、はっきりと覚えています。なぜ、不吉な感じがしたのかはわかりません。あるいはすでに、病魔が嘉村さんの中にくい入りつつあって、一しょに飲んだビールが崇ったのかもしれません。 中島健蔵﹁嘉村礒多のこと﹂ 昭和9年6月 嘉村さんは、五尺一寸くらいの背丈で、細い銀縁の眼鏡をかけていた。近眼の度は、たしか十八度だ、といっていた。いつ逢っても気味のわるいほど黄土色の顔色をしていて、生色といった影は微塵もなかった。寒い風の日など、さらに顔色はわるく、薄い唇は、あせた紫色でひからびていた。 よく咳をしては、袂からハンカチを出し、いそいで口もとにあてがい、その咳をおおうようにするのだった。そのハンカチはまた、いつも薄汚れていた。 誰と応対するときでも腰がひくく、いえば鞠躬如としたものごしで、階級の差のある従者といった態度でもあった。しかし、それは嘉村さんの処世術のうえの一つの方便で、芯は倨傲といったものをもって、ささえられていた。徳田︵秋声︶先生も、﹁きみ、嘉村というひとは、バカ丁寧なひとだね。ああ丁寧だと気味がわるいね﹂と、いわれたことがあった。 楢崎勤﹁嘉村さんのこと﹂ 昭和30年7月 嘉村さん夫妻は、中村︵武羅夫︶さんの東京の家の留守番をしていた。それはまた、世をしのぶひとの侘びしさそのものでもあった。ちとせ夫人は昼日中でも灯火のほしいような薄暗い部屋で縫物をしていた。それは、ひとにたのまれた仕立物であった。このひとが、嘉村さんの幾篇かの小説に登場してくる女主人公で、山口で教師をしていて、嘉村さんといっしょに東京に出てきたひとなのだった。小柄で、細面の、色白の、言葉つきのはきはきした、美しい人であった。陰性の嘉村さんとは、およそ対蹠的にみえる、明かるいひとであった。︵中略︶ 嘉村さんの小説が、﹁新潮﹂﹁中央公論﹂﹁改造﹂﹁文芸春秋﹂といった、当時の大雑誌の創作欄に載るようになり、おしもおされぬ新進作家としての位置をもつようになってからも、嘉村さんは相変らず中村さんの家の留守番役をしていた。しかし、そのころから、嘉村さんの肉体は、ひどく蝕まれていたのだった。嘉村さんが寝ついたのは、昭和八年の春さきではなかったかとおもう。新潮社からほど近い、おなじ矢来町だったので、ひまをみては見舞いに出かたが、嘉村さんは誰にも逢いたがらず、その気持ちをくんでいる、ちとせ夫人も玄関先きで、そのおりおりの病状を伝えるだけであった。︵中略︶ 初冬の雲のふかい昼すぎ、ちとせ夫人が、新潮社の私のところにきて、﹁嘉村が、たったいま息を引きとりました﹂といった。︵中略︶成川医師の話では、嘉村さんの左右の肺は、すっかり侵されていて、いままで生きながらえていたのは、精神力だ、ということであった。 楢崎勤、同上 嘉村さんは私の﹁あひびき﹂といふ小品をたいへん好いてゐてくれました。さうして二度目にお会ひした時でしたか、それを私の前で言はれ﹁あれは事実のままではありませんか?﹂と、すこし微笑をされながら、私に訊かれました。そんな時、若し他の人の前だつたら、﹁いや、ただあの中に出てくる西洋館だけは実際あつたんだ﹂ぐらゐな返事をしたかも知れません。が、私は嘉村さんを前にして、ほとんど同時に二通りの返事を考へついて、どつちにしようかとすこし困つた顔をしてゐました。――どうもあれは何もかも嘉村さんのお考へなさるやうな事実のままぢやない、しかし自分の実際に感じなかつたことは何一つ書かなかつたつもりだ。もしあの廃屋だけを事実としたらそれ以外のものもみんな同じぐらゐに事実だと言ひたいし、それを虚構だとするとあの廃屋だつて同じやうな虚構だと言ひたいやうな気がする。――そんな風にどつちにしようかなと考へながら、私はわれにもなく何もかもつくりごとですと言つてしまつた。……しかし嘉村さんは、すぐ分かるやうな嘘をついた子供をでも見るやうに、私の方を御覧になつて、なごやかに微笑んで居られました。そこで、私もしまひには、微笑み出しました。 堀辰雄﹁嘉村さん﹂ 昭和9年7月 或る晩――それは何処を何う歩いた帰りがけだつたか、三四年前の寒い晩に、嘉村君とわたしは、吹きさらしの品川駅のプラツトホームに、肩をすぼめてしよんぼりと立つてゐたことがある。何をはなしてゐたか覚えはおぼろであるが、わたしたちは、しかし、何か切りと、とりとめもなく語り合つてゐて、そんなに夜が更けてゐるのに、未だ未だ帰らうともしないのであつた。わたしは、その時の、月に照らし出された光景が、はつきりと思ひ出されるのであるが、不図、今迄、漠然とした会話をとり交してゐたのに、嘉村君が突然身を震はせて、 ﹁ねえ、何も彼︵か︶もなく人生は斯んなに寂しくて何うなるものだらう……﹂ と亢奮の、切なさうな声を発した。﹁この寂しさを何とかして下さい。どうすることも出来ないこの寂しさを――﹂ と、まつたく悲痛といふより他はない不思議な調子で叫ぶと、力一杯わたしの手を握つた。――随分と異様な光景で、醒めたならば何んなに映るかも知れないようなものだが、その時もわたしは、そして後になつて秘かに思ひ出しても、いかにもそれがわれわれにとつての自然のことゝ、繰返されるより他はなく、わたしもまたその時、とても異様な声で、 ﹁誰かに何とかして貰はずには居られない、あゝ、あゝ……﹂ と唸つてゐたのである。哀しいとか、佗しいなどゝいふことはわたしは文字を誌すにも控たいやうな言葉なのであるが、その時はそんな大きな声でまぢまぢと云ひ放つても、余外な神経も現れず、おそらく傍人の眼には滑稽に見えたであらうほど、大胆に哀しく、わたしはまつたくのしらふの眼で凝つと空を見あげてゐた。 牧野信一﹁痩身記﹂ 昭和10年4月 大正八九年頃のことだつたと思ふが、山口県の仁保村から私のところへ手紙を寄越す一人の青年があつた。几帳面な書き方で、文章に神経質なことは感じられるが、その代りデリカシーがあつていやな気はしなかつた。 文学青年らしいが、別に投書などをしてゐる様子もなかつた。私の方からもなるべく返事を書くことに努めた。彼の家庭の事情や何かゞ次第に判つて来て何となく同情するやうになつたからだつた。 それが後ちに作家となつた嘉村礒多なのである。 その頃、私の知つた限りでは、彼は地方の習慣として早くから結婚したらしい。それは親戚の娘であるが、相当ひどいつんぼであるとかで、家庭の事情からいつても夫婦間の愛情にしてもしつくり行つてゐない。彼はそれやこれやで憂鬱な生活を送つてゐるらしく、文学を愛好することによつて慰めてゐるやうだつた。︵中略︶ するうち嘉村は上京して訪ねて来た。もう二十二三にもなつてゐたが、坊主刈りで、顔のリンカクは栗のやうな形で、貧血性なのか色は蒼黒く沈んで冴えない。物腰や態度はいんぎんだが青年らしい活気が見られない。話はよくするが、近眼鏡越しに細い眼を光らせるばかりで一体に無表情。生真面目なばかりで面白味はない。しかし、信用は出来る感じなので私もいろ〳〵身の上話をきくにつけ、自分の意見も述べてやつた。 私は、﹁何といふ暗い陰気な男なのだらう﹂と、後で嘉村のことをつぶやいた。ちよつと薄気味悪く思はれる位なのだ。 水守亀之助﹁わが文壇紀行﹂ 昭和28年11月 一昨年の夏、中村武羅夫といふ名刺を持つた人が私の家へ来た。徳田秋声氏後援の色紙を受けとりに来たのである。上へあがつてもらふことにしてテーブルに向ひ合ふと、まだ私の知らない人だつたが、これは写真で見覚えのある嘉村礒多氏であるとすぐ分つた。私は向ふが自分の名前を用ひずに来たのであるから、こちらから訊き出すのも本人が困ることもあらうと思はれたので、私は黙つて色紙の集りの状況などを訊いてゐた。すると、氏の話は色紙から文学のこととなり、いろいろと私の方が質問を受ける立場に廻されてしまつた。そのうちに氏は、まことに申遅れてすまないが自分は嘉村と申すものでと、私に今まで黙つてゐたことを詫びて、機械といふ私の本を一冊欲しいと云つた。私は自分の本を人から請はれるとき、今までに喜びを感じたことが一度もなかつたが、このときは殊に気がすすまず、元気なく署名をした。嘉村礒多氏は私のものなどを好んでゐてくれる筈がないからである。しかし、私は氏の作品の愛読者で、氏の作や随筆が雑誌に出るとすぐ買ひ求めて読んでゐた。聞けば私より一つ上とのことである。 私は嘉村氏とあつたことは、その後もう一度あつた。それは氏の途上といふ限定版が出たときで、そのときは夜遅く私の家へ来られた。氏は前のときのやうに、来ると板の間へペたりと坐り、三度ほどお辞儀をつづけさまにするので、これに優る礼儀の仕方など出来得られるとも思へず、私も仕方なく却つて突き立つてゐなければならぬ羽目になつた。 横光利一﹁嘉村礒多氏のこと﹂ 昭和9年1月
大正10年 昭和4年7月
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