菊池寛 ︻きくち・かん︼ 小説家、劇作家。本名、菊池寛︵ひろし︶。明治21年12月26日〜昭和23年3月6日。香川県高松市に生まれる。大正3年、京大英文科在学中に芥川龍之介らに勧誘され、第三次﹁新思潮﹂の同人となる。大正6年頃から本格的に執筆活動を開始し、大正7年に発表した﹁無名作家の日記﹂、﹁忠直卿行状記﹂によって文壇的地位を確立。芸術至上主義に対して、実生活の尊重と文学の社会化を主張し、﹁真珠夫人﹂︵大正9︶など、中上流階級の家庭を舞台とした通俗小説も多く執筆した。また、大正12年に雑誌﹁文芸春秋﹂創刊、大正15年に文芸家協会設立、昭和10年に芥川賞、直木賞設立など、編集出版や社会的活動においても目覚ましい成果を示し、文学の普及と発展に大きな功績を残した。昭和23年3月6日、狭心症により死去。享年59歳。代表作は﹁父帰る﹂、﹁無名作家の日記﹂、﹁忠直卿行状記﹂、﹁恩讐の彼方に﹂、﹁真珠夫人﹂など。 ︹リンク︺ 菊池寛@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 菊池寛@文学者掃苔録図書館 著作目録 *準備中* ◆菊池寛@青空文庫 ◆菊池寛@近現代日本文学史年表 回想録 自分は菊池寛と一しょにいて、気づまりを感じた事は一度もない。と同時に退屈した覚えも皆無である。菊池となら一日ぶら〳〵していても、飽きるような事はなかろうと思う。︵尤も菊池は飽きるかも知れないが、︶それと云うのは、菊池と一しょにいると、何時も兄貴と一しょにいるような心もちがする。こっちの善い所は勿論了解してくれるし、よしんば悪い所を出しても同情してくれそうな心もちがする。又実際、過去の記憶に照して見ても、そうでなかった事は一度もない。唯、この弟たるべき自分が、時々向うの好意にもたれかゝって、あるまじき勝手な熱を吹く事もあるが、それさえ自分に云わせると、兄貴らしい気がすればこそである。 この兄貴らしい心もちは、勿論一部は菊池の学殖が然︵しから︶しめる所にも相違ない。彼のカルテュアは多方面で、しかもそれ〴〵に理解が行き届いている。が、菊池が兄貴らしい心もちを起させるのは、主として彼の人間の出来上っている結果だろうと思う。ではその人間とはどんなものだと云うと、一口に説明する事は困難だが、苦労人と云う語の持っている一切の俗気を洗ってしまえば、正に菊池は立派な苦労人である。その証拠には自分の如く平生好んで悪辣な弁舌を弄する人間でも、菊池と或問題を論じ合うと、その議論に勝った時でさえ、どうもこっちの云い分に空疎な所があるような気がして、一向勝ち映えのある心もちになれない。ましてこっちが負けた時は、ものゝ分った伯父さんに重々御尤な意見をされたような、甚憫然な心もちになる。いずれにしてもその原因は、思想なり感情なりの上で、自分よりも菊池の方が、余計苦労をしているからだろうと思う。 芥川龍之介﹁兄貴のような心持﹂ 大正8年1月 ﹁どうしたんだい。今日は顔が大変綺麗だな﹂ ﹁さうか。多分三四日前に床屋へ行つた時に顔を洗つたせいだらう。﹂ ﹁それぢや平生︵ふだん︶は洗はないんかい。﹂ ﹁さうだな。歯は磨くけど顔は洗はないな。﹂ ﹁お湯へ行つた時でも洗はないんかい。﹂ ﹁拭くだけは拭くが洗はないな。それに風呂も十月からまだ三度しか入らないよ。﹂ かう云つて菊池は平気で澄してゐる。菊池の不精は内々承知してゐたが、これには私も一寸面喰らつた。唯に面喰つただけではない。こんなに風呂に入らないでは、さぞかしシヤツや肌襦袢が早く汚れる事だらうと思つて、あのおとなしい妻君に大いに同情した。︵中略︶処が菊池はそんなに風呂に入らずにゐても少しも臭くない。その上、別段垢が溜つてゐるとも見えない。つまりいくら入らずにゐても垢が溜らないので益々入らなくなるのかも知れない。 江口渙﹁人格に垢が溜らぬ﹂ 大正8年1月 私の知つてゐる範囲では、菊池の嫌なものは女と酔つ払ひとである。酔つ払ひはまあ誰しも嫌ひではあるが、女に対しては菊池は嫌ひと云ふよりも全然興味がないらしい。殊にコケツテイツシユの女が嫌である。女の美醜に対する鑑賞眼は無論発達してゐるが、その鑑賞眼は何時も美醜を判断する以上に働かない。カツフヱなどへ行つてもウエトレスが寄つて来てちやほやされるのは余程迷惑らしい。それが好んで迷惑らしく振舞ふのではない。ちやほやされる事に少しの興味もないのである。菊池が銀座の千匹屋を特に好むのはつまりウエトレスが何時も整然としたビジネスライクな態度を持つて客に対する点にあるのだ。由来菊池の小説に色つぽい処や、センシユアスな処が微塵もないのも、矢張その性格から来た自然の結果である。 江口渙、同上 身体の肥大なものは神経質でないと一般に言ふが、さすがに近代人である菊池君は、あの偉体に似合はず、あれで中々の神経質だ。表面にはあらはさないが、人の気持や思惑などを大変気にもするやうだし、自分に対する世評などにも決して放胆無頓着ではない、寧ろ敏感である。一見その風貌の示す如く豪放闊達で、而も如何なる些細なことにでも、中々関心するやうだ。只だ彼は僕などゝ違つて、一寸もそんなことのない悄気たりくよ〳〵したりすることなく、少しでも自分に不利なるものに対しては、一寸の猶予もなく、勇敢に卒直に、真正面から堂々と戦ふものは戦ひ、自家防護をするものは防護して、どん〳〵自分を押し進めて行くところに、菊池君の菊池君たる面目があるが、実際そんなことに対しては、彼は寧ろ敏感過ぎる位い敏感で、且つ神経質である。所謂才人肌の才人ではないだらうが、近代的の真の大才であると思ふ。 加能作次郎﹁印象二三﹂ 大正13年4月 私は音楽を聞くと、立身したいと発奮してゐた少年の立志時代の気待を、必ず思ひ出す。音楽と菊池寛は、妙な取合せだが、菊池氏は私にそのやうな効果がある。菊池氏のことを考へたり菊池氏に会ふと、何時も、これではならぬと、碌々としてゐる自分を恥ぢ、発奮する。一つには、三四年来に受けた限りない恩恵を、無駄にしてしまつてゐるかのやうに心が責められるからである。︵中略︶ 四年前、私が二十二三で、同人雑誌に小説を一二出しただけで、菊池氏と数へる程しか会つてゐない頃、私は三四ヶ月ぶりで、恐る恐る菊池氏を富坂の家に訪ねた。私に一寸した結婚の話があつて、生活に困るらしいので、翻訳の口でも紹介してもらはうと思つたのである。しかし、それも断はられる覚悟で行った。ところが、私が一言二言云ひ出すと、菊池氏は﹁うん。﹂と大きくうなづいて、僕が洋行中はこの家を君に只で貸してやる、そして月々五十円補助してやる、当座の費用は出してやる、小説の書いたのがあれば直ぐ持つて来い紹介してやる、洋行中は君の原稿の世話を芥川か誰かに頼んで置いてやる、なぞと、菊池氏が立てつづけに云ひ出したので、私は寧ろ阿然としてしまつた。その返礼として、洋行中の用事を少しすればいいのであつた。私の結婚の話は直ぐおぢやんになつたが、菊池氏は嘗て一度も、その成行を訊ねはしなかつた。これは、私が受けてゐる恩恵の一例である。 川端康成﹁若い者を甘やかせる﹂ 大正13年4月 主人は新婚当時も晩年も終始一貫して、人の世話をするのは好きでしたけれど、自分の世話をされるのが大嫌いなほうでした。 たしか、新婚間もないことでしたが、今度は眼鏡でなくつて、あまり袴が変なので、私は主人につい無断でセルの袴を買いました。すると﹃そんな贅沢なことはしなくてもいゝ﹄と叱られましたので、着物でも何んでもあまり差し出がましいことをしないのがいゝのだと、私には段々、主人の気持が呑み込めるようになりました。あのように風采を構わない人でも、人から注意されることが嫌いだつたと見えて、夜など家へ帰りますと ﹃××君はあまり世話を焼くからいやだ﹄ と言うことをはつきり申しておりました。多分どこかのボタンがはずれているか、ネクタイがまがつているとかして、親切な方が、注意して下さつたことが、ずぼらなあの人の神経を刺戟したのでしよう。ですから自然とわたしたちも放任主義にならざるを得ない状態にさせられてしまいました。よく、お客さまの前で、単衣の着物を裏がえしに着てシヤア〳〵煙草を喫つているのを、ハラ〳〵して見ていたこともありますけれど、他人に注意されて、いやにプン〳〵しているのを知つてますので、わざと知らんふりをしたものでした。 菊池包子﹁わが夫菊池寛を語る﹂ 昭和23年5月 将棋の話になりますが、これは又好きで好きで、﹁三度のめしを一度﹂にしてもいゝほど好きでした。学生の時には二段だつたそうですが、今はどの位の段になつていたのでしようか。とにかく、将棋でおつき合いの方は、二十歳位の時から一等最初に来られた木村さんをはじめ升田さん、塚田さん、梶さん、土居さん、死ぬ一日か二日前に指した倉島さん、萩原さんなど沢山のお友達を持つて居りました。 この話はいつ頃のことか忘れましたが、ある日お友達と将棋を指して居りました。私は口やすめにと思ひ海苔巻の花あられを出して台所へもどり、しばらくすると、応接間で笑ひ声がしますので、あとで、﹃何かおありだつたのですか﹄ときゝますと、主人が、花あられと将棋の駒を間違えて口へ入れたまではいゝのですが、さあ決戦となつて駒が一つ足りない。自分の口に入れたのをまさか将棋の駒だと思はないからあたりをグル〳〵探して、結局、口にしやぶつていたのは、将棋の駒だつたと言うような、落し話みたいな話もありました。相手がない日は応接間で何をしているのかと、傍へ寄つてみると、古今の名局を一人で指している姿が、今でも眼の前にちらついています。 菊池包子、同上 ﹃文芸﹄で今日の青年たちの生態についての座談会を開いた。出席メンバーは、良識の作家であり明治大学の教師でもあった岸田国士氏、左翼から右翼に転向した林房雄氏、そしてリベラリスト、ジャーナリストを代表する菊池寛氏の三人に決め、私は菊池氏の出席を乞うために、雑司ガ谷の菊池邸を初めて訪ねた。 応接間で待っていると、ドスドスと跫音がして、菊池氏が現われた。ずんぐりと小肥りの、眼鏡の奥の眼が小さい、敢えて言うならジャガイモみたいなひとであった。着物にだらしなく太い絞りのへこ帯を巻きつけて、素足である。ソファにドスンと腰をおろすとすぐ、風貌に不釣合な高い声で用件を訊いた。そしてほかの出席者の名前を質すまでもなく、呆気ないほどの即答で出席を応諾した。 私は、なるほど、評判の無頓着さというのはこれか、と目を丸くした。私と言葉を交わす間も絶えず燻らし続ける煙草の灰が、胸元や膝の上にボロボロ落ちる、落ちても払おうとしない。こちらがはらはらするほど平然と落しっ放しなのである。煙草はアメリカ煙草のキャメルだった。 ﹁迎え︵の車︶はいらないよ﹂ 無駄なことは一言もしゃべらない菊池氏だった。 木村徳三﹁文芸編集者 その跫音﹂ 昭和57年6月 全く菊池や僕たちの高等学校時代は、忘れる事の出来ない程出鱈目な、呑気な、又焦々した、愉快な生活をしたものだ。其時分彼は同性恋愛の熱心な宣伝者だつた。彼の言に依れば、同性恋愛こそは最も神聖な、最高なる恋愛の極致であり、其関係は最も進歩したる、最も文明的なるものであつた。此の見地に学問的背景を与へるため、彼は独逸のある六ヶ敷い研究を読んだり、同性恋愛に関する日本の古今の著書は、悉く渉猟し尽したりした。此点に於ては彼は恐らく日本で唯一の専門家であらう。彼はよく夕食の後などに、寄宿寮のスチームに足を暖め乍ら、そんな事にはまるで小供の僕たちを捉へて、諄々として其福音を説いた。︵中略︶ その彼も、去年細君を貰ふてから、立派に変節をして了つた。﹁父の模型﹂を見ても解るやうに、全く彼の家庭は円満で、他︵はた︶で見る目も羨ましい。今僕が彼の旧悪を露︵あば︶くと、彼は苦笑する以上に、憤慨するかも知れないけれど、僕は菊池の此の昔話が、彼の人格の汚点になるやうな事は、絶対に無かるべきを信ずるから、敢て天下に公表するのだ。同性恋愛で無理心中をさせれば、芥川にも随分その分子がある。亜米利加から帰りつゝある成瀬にも、より多くの分子がある。この二人に比較すれば、菊池は寧ろ此点の純真なる夢想家で、ロマンチシストたるに過ぎない。 久米正雄﹁同性恋愛の宣伝者﹂ 大正8年1月 私は文壇人は勿論、画家、音楽家を沢山知つてゐるが、菊池先生は芸苑中類を見ない天才だと思つてゐる。ところが先生に対する一般的な批判は常識人だとか、通俗作家だといふことである。確かに先生は常識人である。普通の常識人は誰かゞ常識だと決めたことを、無批判に受け容れて、それに従つてゐる人のことをいふ。此の常識人はなすこと、いふこと、考へること悉く常識の範囲を出ないものだ。先生はこのような枠から常にはみ出た存在である。先生を常識の範囲内で捕へる人があつたらお目にかゝりたい。先生は寧ろ常識を創造する人であつた。︵中略︶ 先生は我が国の文壇といふところが一種変態的な社会を形成してゐるのを看破して、社会的な小説、万人の読む小説を書いてみようと思ひ立つて以来、自分だけ楽しみ、満足する小説、或る少数の人々のみが理解する小説を意識的に放棄されたのである。 ﹁真珠夫人﹂を書き出してからといふものは、多くの新聞の読者をのみ相手にして書いたので、批評家や仲間の評判を全く念頭に置いてゐなかつた。斯うした先生の考へ方を一体俗だとか、通俗だとかいへるだろうか。口うるさい文壇で、寧ろ孤高を保つてゐるような顔をしてゐる方がどんなに気楽が知れぬのである。それよりも先生の万人の文学といふ志を貫く方がどんなに骨が折れるか知れぬのである。 今日出海﹁菊池先生の死﹂ 昭和23年4月 つまり六十年の生涯の間に、やるだけのことは十分にやつて来てゐるのだ。文学作品なども最初から完成してゐるし、その他の仕事にしても、決してソツがない。市会議員もやつたし、文芸春秋社の社長にしても、映画会社の社長にしても、とに角遺漏なくやつてのけた。たとへ今後何年間生きたところで、従来の仕事をなぞるか、或ひは長く生きたゞけを、たゞ従来の惰性でつゞけるだけで、成長とか、新しい発展とかゞありさうにも思へない。 とすれば、丁度六十歳くらゐで死ぬのが、死に時ではないかと思ふ。多くの人間は、それ以後の晩年を﹁生きること﹂は、なか〳〵ムツかしいのである。慾を言へばキリもないわけだが、丁度六十歳くらゐであんな工合に死なれるものなら、死んだ方が寧ろ幸福だと言ふべきである。 宮本武蔵の﹁我事に於て後悔せず﹂とふのが、菊池さんの座右銘であつたやうだし、菊池さんのやうな、過剰なものはちつとも持つてゐない真正の現実家としては、後悔といふやうなツマらない感情は、生涯知らなかつたゞらう。生涯の総決算たる死に於ても、おそらく後悔はなかつたゞらうし、後悔するやうな何事もなかつたゞらうと思ふ。羨むべき幸福な性格、幸福な生涯、幸福な最期と言はなければならないだらう。 中村武羅夫﹁幸福な死﹂ 昭和23年5月 菊池寛氏は普通に云つてその風姿に似合はずモダンな人のようであつた。 氏のまたモットーとする所も、楽しく世の中を渡り、人生を過さうとするようであつた。芸術家の任務は、役割はまた恐らくそれでいいのであらうと思ふ。氏の小説がモダンな若い女性に囃された所以であり、氏のあのちよつと似合はないと思はれるような恰好の中にさういつた気質があつたのである。氏はさういつた意味でやはり実業家でも何でもなく、芸術家だつたのである。 文芸春秋社が成功したのも普通の雑誌業者が成功したのとは違ふと思ふ。文壇に日の出の如き勢をもつて出て来た氏が楽々と無雑作に楽しく、氏の下に寄つて来たものを集めて成立したものであつたことは当時のことを知つてゐるものは知つてゐる筈である。氏の下に集つたものは才能あるものばかりとも云へなかつたが、氏は文壇さへも製造してゐた。︵これは氏の未だなくならなかつた本誌の前号あたりで私の偶然のべた所である︶ 氏は芸術家が死んでからあらわれるのでは困る、生きてゐる中に酬いられるのでなければ。といふような意見であつたと思ふが、氏の数年間の新聞記者時代を除いては――記者時代は火事だといつては勤勉に飛び出して行つた記者だつたといふようなことも聞いたが――その新聞記者時代はいざ知らず、氏のその後の全生涯は楽しく人生を送つた人であつたと思ふ。 堀木克三﹁菊池寛氏﹂ 昭和23年5月 むつつりして、無愛想みたいで、そのくせ率直な温い心を感ずるのが常であつた。 私の召集をかなしんで、何かに書いて下さつたのも、そういふ先生の心からだつたと思ふ。二度の出征に、二度とも盛大な送別会を開いて貰つた。そして無事に還つたことを心からよろこんで下さつた。 文芸春秋社のある頃は、行けばよく先生と将棋をした。はじめは金銀でいぢめられ、やつと飛車角、両香四枚落になり、それ以上進まなかつた。 一昨年、斉藤龍太郎が宇都宮で、映画館を作つた。そのこけら落しの日に、招かれて行き、先生、夢声と三人で差したのが、将棋の差しじまひになつた。そんな落将棋でも、先生は真剣で勝つとよろこばれたし、負けると﹁生意気だネ〳〵﹂と云つて、次を挑んだ。 その時、宇都宮で私は終戦後はじめてダンスホールに先生に連れて行かれた。草履ばきのダンサーがゐたが、結構先生は愉しげで、﹁僕はタンゴだけおどるんだよ﹂と云つて、﹁これあタンゴだろ﹂と曲目の念を押して出て行き、殆んど歩いてるみたいに静かにおどつていゐた。 宮田重雄﹁菊池先生の想出﹂ 昭和23年4月 私の訪問した菊池寛氏のお宅は、当時、小石川富坂上にあつた。昨年の十二月亡くなられた横光利一氏の家がちやうど菊池さんの崖下にあたり、菊池さんのお宅の横町には、伝通院へ行く電車が坂を上つて騒音を残してゐた。たしか三月ごろの春さきで、本郷台の若葉が眺められる二階の座敷で菊池さんに初めてお目にかゝつた印象は、背の低いずんぐりと肥えた、まるまつちい人の顔で、象のやうに細い眼が、金縁眼鏡に優しく冷静にかゞやいてゐた。そして口述して下さる声は細かつた。 菊池さんはそのころ読んだものとして、﹁都新聞﹂︵今の東京新聞の前身︶に連載してゐた無名の作者、中里介山氏の手腕を高く買つて、まだ誰の評判にもならなかつた﹁大菩薩峠﹂の傑れてゐることを力説された。﹁大菩薩峠﹂の主人公机龍之肋が上野の森で十何人かを相手にして剣を切りむすぶシラバの描写は、特にいいと激賞された。そのご何かで直木三十三氏も﹁大菩薩峠﹂を推賞し、だんだんと中里介山氏の声価は高まつたが、その端緒となつたものは、新潮に載つた菊池さんの推薦であつたのだから、菊池寛氏の小説についての批判力は偉力を極めたものだと思ふ。 牟川千里﹁菊池さんの慧眼﹂ 昭和23年5月
大正10年 昭和8年 昭和22年
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