小島信夫 ︻こじま・のぶお︼ 小説家。大正4年2月28日〜平成18年10月26日。岐阜県稲葉郡加納町に生まれる。昭和16年に東京帝大英文科を卒業後、徴兵を受け、暗号兵として中国各地を転戦する。戦後、高校の英語教師として教鞭をとる傍ら、執筆活動を開始。﹁小銃﹂︵昭和28︶により文壇の注目を浴び、占領下の日本の劣等意識を巧みに描いた﹁アメリカン・スクール﹂︵昭和29︶により新進作家としての地歩を確立した。以後も、独特のユーモア・寓意性をもった作品を多く発表し、戦後的状況の中で崩壊していく家庭を描いた﹁抱擁家族﹂︵昭和40︶は、戦後文学を代表する傑作として特に高い評価を得た。また、12年をかけた大作﹁別れる理由﹂︵昭和57︶以降は方法的実験に意欲的に取り組み、前衛的な作品を多く発表した。平成18年10月26日、肺炎により死去。享年91歳。代表作は﹁アメリカン・スクール﹂、﹁抱擁家族﹂、﹁別れる理由﹂、﹁私の作家評伝﹂、﹁うるわしき日々﹂など。 ︹リンク︺ 小島信夫@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 小島信夫@近現代日本文学史年表 著作目録 *制作未定* 回想録 小島先生は私たちアメリカ文学研究者にとっては大先輩である。戦後いち早くサローヤンを読まれ、その新しさの持つ意味を紹介されたのは先生であり、また創作の合間にも、アメリカ文学について数多くのエッセイを書かれているからである。先生のエッセイのすべてに索引をつけるとすれば、さながらアメリカ文学史のようにアメリカ作家が並ぶのではないかと思われる。そればかりでなく、アメリカ文学会のために役員を務めたり何度か講演やシンポジウムの司会を引受けてくださるなど、ずい分貢献されているのである。 アメリカ文学のなかで、先生がとくに関心をもたれているのは現代小説のようであるが、専門の学者も顔負けするほど、数多くの作品を読んでいられる。もちろん先生は作家の立場で読まれるので、研究書よりは作品を重視される。翻訳がなければ原書で読まれることはいうまでもない。ソール・ベローの﹃ハーツォグ﹄が出て間もない頃、先生はたちまち読まれてしまい、途中までしか読んでいなかった私は恥しい思いをしたことがある。一昨年の夏休みにはI・B・シンガーの作品を全部読まれたと言っておられたが、とにかく、アメリカ文学についても驚くべき読書家である。 井上謙治﹁小島先生とアメリカ文学﹂ 昭和60年7月 私はときどき、ジャーナリズムに流布されている作家のイメイジというものは、まるっきり間違っているのではないか、と思うことがある。たとえば、小島信夫といえば、文学の話しかしない人で、物事の処理などなにもできない人だ、というような通説が流れているようだが、私の知っている小島さんは、決してそんな頼りない人間ではないのである。 数年前に、朝日新聞の読書委員会で、一年間小島さんと御一緒したことがある。︵中略︶まとめ役は、もちろん最年長の小島さんであった。どの本を選ぶか、誰が書評を書くかということを決めなければならないのだが、その決めかたが小島さんはきわめて公正で、説得力があった。文学の内部で意見がまとまると、小島さんがスポークスマンになって、他の委員と新聞社側のデスクに、選定の結果を告げる。それがまた、有無をいわせない重味があって、はたで見ていてもほれぼれすることが多かった。それはあたかも、主任教授が所管学科について教授会で発言する、とでもいったおもむきであった。 これは要するに、小島さんに常識と指導力があるということである。非常識と甘ったれが売りものの文壇作家のなかでは、このような小島さんの持味は異質だといってよい。 江藤淳﹁私の知っている小島さん﹂ 昭和46年7月 もうひとつ小島さんが赦さないのは、文学をなにかの道具につかおうとしている人間の不正確さである。朝日の読書委員会で、あるとき哲学専攻の某氏が、大逆事件のことを書いたある女流作家の伝記小説を絶讃し、これを是非とり上げるべきだと、力説したことがあった。その発言が終ったとたんに、小島さんはあたかも怒り心頭に発したという風情で、 ﹁あなたは、これが本当にそんなにいいと思ってるんですか。冗談じゃありませんよ。こんな書きかたでスカスカ書いて、これでいったい小説ですか﹂ と吐いて捨てるようにいった。断っておくが、朝日の読書委員会というのはきわめてお上品なところで、こんな思い切ったもののいいかたをする人は、小島さんのほかにはいないのである。みんなあっけにとられているうちに、その伝記小説が没になったことは、つけ加えるまでもない。小島さんの公正さというのは、なアなアではないのである。そして小島さんの常識とは、激しい怒りとあやうい平衡を保っている常識である。 江藤淳、同上 柔和な顔をいつも示していられた彼も文学の世界では、実に厳しい言い方をされるのに驚いたことが多い。ある作家がお会いしたいということなので、その話をそれとなくすると﹁その方には興味ありません﹂とニベもない返事が返ってきて驚いたことがあるし、作家の評価に関しては﹁あの人の作品には関心がありません﹂などと厳しい言葉が多く、恐ろしい気さえしたものだ。 大庭みな子﹁ついに掴みきれなかった人﹂ 平成19年1月 英語教師の仕事の一つに、入試問題の作製がある。その段どりを詳しく書くわけにはいかないが、ともかく何人かの教師が数日にわたってやる共同作業である。小島さんは、例年のこの仕事についても、じつに厳格であった。設問一つ作るについても、その問題自体の適、不適はもとより、語学的にも正確な判断を、各教員の異った意見を整理しつつ、決定していかなければならない。︵中略︶ふだんは一国一城の主で、授業ぶりも点検されずにいるわれわれの、英文の読み手としての実力が、そういうときに露呈される。小島さんはあたかも教師の教師であるかのごとく、明快に事を決していかれた。 小島教授を主任とした、われわれ明治大学工学部英語科教員の集りを、﹁小島学校﹂と呼ぶ人もあった。たしかにそれは、学校のなかの学校かもしれないが、私にはむしろ colony︵精神の共同体︶とでも呼びたいような懐しさがある。﹁やたらに英語なんか使うもんじゃないよ﹂と、小島さんには叱られそうであるが、とにかくそれは今後も﹁コジマ・コロニィ﹂でありつづけるものと思っている。 浜本武雄﹁コジマ・コロニィ﹂ 昭和60年7月 ﹃プレーンソング﹄のあとすぐに短篇の﹃夢のあと﹄を書き、それからすぐにまた構えがすごく緩くてエッセイのような小説を書いたのだが、それは﹁群像﹂の藤岡さんから﹁まだこういうものは載せない方がいい﹂と言われ︵中略︶、そのまた次のも藤岡さんから載せられないと言われた。一つ目はともかく二つ目の方は私は納得できなかったので言い合いになり、 ﹁じゃあ、小島さんに読んでもらって決めることにしてくれ。﹂ という話になって、小島さんに送られた。︵中略︶ 小島さんはまず、単刀直入に載せない方がいいという意見を言った。それでどこがよくないかという話になったのだが、 ﹁途中からえんえんと三人の会話がつづくよねえ。保坂さんはそこをおもしろいと思って、ここを読んでほしいと思って書いたと思うんですけど、作者がねえ、会話にインしているんですよ。 わかりますか? インするのインです。 インランのイン。インプのイン。インプカンプなんて言い方があって、みだらな女のことを言うときに使いますよ。 サンズイにノのようなチョンを書いて、カタカナのツに似たチョンチョンを書いて、王様の王にも似ている壬申の乱の壬を書く﹃淫﹄ですよ。 わからなければあとで辞書を引いてください。﹂ 私はその説明の変なところのしつこさに少し腹が立ちつつも︵だいたい公衆電話なので車の音がうるさくて聞き取りづらかった︶あまりの小島信夫ぶりに感動した。 保坂和志﹁忘れがたい言葉﹂ 平成19年1月 当時の彼は都立の高校の教師だったが、さらに夜学の教師もしていた。昼と夜の勤務の場所と時間の都合で、よく吉行の家に、夕方立ち寄り夕食などを共にしていたらしい。ある時、吉行が私に言った ﹁いやー、小島にはダマされた。あいつ如何にも貧しき英語教師という感じだろ? それで飯でも食ってゆけ、ということになったんだけれど、この間、用があって行ってみたら、アイツの家、石塀の大邸宅﹂ 吉行は笑いながら言ったのだから、決して悪意ではないのだが、小島にしてみたら、外界は彼の思うような状況ではなかったかもしれないが、小島自身もまた、外の世界の人が思うような存在では、なかったのである。 三浦朱門﹁﹁第三の新人﹂の長老﹂ 平成19年1月 リビングルームにまだ目ぼしい家具はなく、小島さんは六畳敷のグリーンの絨氈を買って来てまん中に敷き、その上に鉄板焼の道具を持ち込み、野菜や肉を盛った皿を絨毯の上に並べ、ま新しいモダンな部屋に脂の煙を上げながら、絨毯の上にあぐらをかいて、酒を飲み、小説の話をした。 ﹁何でも聞け﹂ と小島さんは言った。︵どこからでも打ち込んでこいという感じだった︶。 しかし私は日本の現代小説のことなど何も知らなかったので、調子を合わせながら食べたり飲んだりしていることの方が多かった。 ﹁詩よりは小説の方がいい。詩で書けることは小説の中にみんな入る。詩で書けないことも小説では書ける。それに今は何といっても小説の方がきびしい。詩は仲間うちでやっているようなところがあって、喧嘩するにしろ、ゆるし合うにしろ、世間とあまり関係ないところがあるが、小説は雑誌も多いし、批評家もウノメタカノメで、ちっとも気が抜けない。新人の小説を選ぶ場合だって、いろいろ問題がないことはないが、それは主として見方の違いで、だいたい公正なもんですよ﹂ 三浦清宏﹁﹁自分﹂を書け﹂ 昭和60年7月 小島さんはなんでも本気になってしまう人である。こうと思ったら、それを言わずにいられない人である。それでいて、小島さんのまわりにはいつも青年が集まっている。中にはすでに名をなしていて、きみもかつてはそういう青年の一人だったのかと、驚かされるような人がいる。それにまた小島さんは面倒みがいいのである。これから推して考えても、学校で学生を教えるときも、教授と学生との関係としてではなく、ついおなじレベルに立っての論議になったりするだろう。本気とはそういうことである。本来面倒みのいい人が、だれには面倒みが悪いということはないだろう。おそらく、そうした学生たちもいつかは名をなして、しみじみ小島さんを想いだすことがあるだろう。 森敦﹁小島さんのこと﹂ 昭和60年7月 とにかく、みなよく飲んだ。小島さんなどは、いちいち瓶を下げて来るのは面倒くさいから、カメで買って来て、据えて置こうかとさえ言った。そんな調子だから、語り明かして電車がなくなり、泊まって行くものが多かった。むろん、小島さんもよく泊まって行った。それで分かったのだが、小島さんにはひとと頗る違ったところがあった。いったん眠ると起きるまで、すこしもからだを動かさないのである。鼾もかかないのである。ぼくなどは朝起きてみると、枕も飛ばして一回転し、足のあったところに頭を置いていることもある。自分の鼾で目を覚ますこともある。それでいて、眠ってからまで責任が持てるかなんて言っているほうだから、小島さんの寝相のよさには驚かずにいられず、やっぱり若くて、健康なんだなとつくづく思った。 森敦、同上 人附き合いのよさということでは、“サービス魔”を自称していた吉行淳之介が、定評がある。しかし、これとは別の意味でトコトンまで附き合いのいいのは小島信夫である。われわれの間で﹁おウ、よしよしの小島さん﹂というのが彼の通り名になっていた。つまり小島と附き合っていると誰でもが﹁おウよしよし﹂と母親にアヤされている駄々っ子のような存在に、心ならずもさせられてしまうのである。無論これは小島が、われわれの間で一番おとなであり、老獪なシタタカなものを持っているということでもあるが、それと同時に小島には何か母性に通じる優しさが、たしかにそなわっているからである。 安岡章太郎﹁﹁抱擁家族﹂の頃﹂ 昭和46年6月 それはともかく、無事に宴席も終わり、ホテルの寝室に戻って畳に床を並べて寝たのだが、眠りにつく前に二、三十分、私は小島さんの背や腰を揉んでさしあげた。畳の席がお体にこたえたのかもしれない。九十一という年齢にもかかわらず、いかにも頑丈で肉付きのよい体躯は、私が常々畏敬してやまない強靭な知力の隠喩のように思えた。 かつてはジョギングを、それが無理になってからはウォーキングを日課とし、起床時には腰の8の字運動を欠かさず、そうやって体力の増強と維持を計られてきた小島さんは、同時に作家としての深い問題意識に支えられた旺盛な好奇心と幅広い読書によって知力を絶えず蓄えつづけ、それを自家薬籠中の物として自在に使いこなされていたのだ。大学の研究室や教員室でも、暇さえあれば、それも物凄いスピードでページを繰りながら読書をされていたという噂を聞いたことがある。 山崎勉﹁小島さんの電話﹂ 平成19年1月 小島信夫と対談しているとき、彼を何と呼んだらよいか、僕は長いあいだ迷い、定めかねた。﹁小島さん﹂﹁小島氏﹂﹁小島﹂、といろいろ変えてみたが、結局﹁小島さん﹂に落着いて、これが最も自然のような気持になっている。彼は落着きはらって大人の風貌であるが、よく見れば若々しい顔つきで、またよく見れば落着きはらった隙間から若々しさのシッポがぶらりぶらりと下っている。 そのために、僕より八つか九つ年上の人の呼び方が﹁小島さん﹂に落着くまでに、長い時間かかった。そのことといわゆる文壇に出たのが同じ頃だったので、どうも同級生の気分が脱けなかったためでもある。︵中略︶ 僕が呼び名に迷ったように、彼も年下の連中とどうつき合うべきか迷ったようだ。安岡章太郎や僕などが勝手なことを言っていると、彼はいつもニコニコ笑い、おうようにうなずきながら、 ﹁なるほど、なるほど、そうですか、そうですか﹂と受け応えしていた。しかし、時折彼は僕たちに、 ﹁君たちが、僕の生徒になっていた場合のことを考えてみることがあるよ﹂ などと言うことを忘れなかった。彼は長い間高校の教師をしており、年齢の差からいってまかりまちがえば彼の生徒になりかねなかったわけだ。したがって、彼の﹁なるほど、なるほど、そうですか﹂という言い方は、﹁おお、よしよし﹂というアヤシ言葉にも通じるところがあったのである。 吉行淳之介﹁小島信夫のこと﹂ 昭和36年1月 昭和三十年一月中旬のある夜、小島信夫の受賞︵註、芥川賞︶を知ったので、とりあえず彼の家へ行ってみた。当時、彼は中野に住んでおり、市ヶ谷からはタクシーで一走りだった。その家はいつもと同じ様子で、二階に通されたが、小島信夫は当惑したような憮然としたような顔のまま座っていた。小一時間なんとなくそうしていたが、誰も訪れてこず、電話もかかってこず、私も浮ぬ気分になって帰ることにした。当時の受賞の夜は、だいたいこんなものだった。ただ、当選作の担当編集者からの電話もなかったのは、﹁芥川賞くらいで祝いの電話をするのは、はしたない﹂という見識によるものだろうか。そういえば、私は清瀬病院入院中に受賞したが、やはりその夜は電話一つかかってこなかった。今とは大きな違いである。 吉行淳之介﹁小島信夫その風貌﹂ 昭和60年7月
昭和13年4月 昭和47年10月 平成5年12月
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