宮本百合子 ︻みやもと・ゆりこ︼ 小説家。本名、宮本ユリ︵旧姓、中条︶。明治32年2月1日〜昭和26年1月21日。東京市小石川区原町に生まれる。大正5年、17歳の時に﹁貧しき人々の群﹂を発表、天才少女とうたわれる。大正7年に父とともに渡米、ニューヨークで荒木茂と結婚したが5年後に離婚。この体験を基に﹁伸子﹂︵大正13〜15︶を執筆し、離婚によって新しい人生を目指す女性を描いた。昭和2年、ソ連に遊学し、昭和5年に帰国。直ちに日本プロレタリア作家同盟に加盟し、翌年には非合法の日本共産党に入党した。昭和7年、日本共産党党員、宮本顕治と結婚。戦中は投獄・執筆禁止に遭いながらも非転向を貫いた。戦後も精力的な活動を展開し、終戦直後の体験を描いた﹁播州平野﹂︵昭和21〜22︶や、ソ連遊学時代を描いた大作﹁道標﹂︵昭和22〜25︶など、多くの作品を発表した。昭和26年1月21日、急性敗血症により死去。享年51歳。代表作は﹁貧しき人々の群﹂、﹁伸子﹂、﹁杉垣﹂、﹁道標﹂、﹁播州平野﹂など。 ︹リンク︺ 宮本百合子@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 宮本百合子@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説 ‥ 発表年順 ソヴェト紀行 ‥ 発表年順 評論︵文学︶ ‥ 発表年順 評論︵婦人問題︶ ‥ 発表年順 評論︵文化・社会︶ ‥ 発表年順 感想・小品 ‥ 発表年順 遺稿・覚え書 ‥ 執筆年順 習作︵創作︶ ‥ 執筆年順 習作︵感想・小品︶ ‥ 執筆年順 書簡 ‥ 執筆年順 日記 ‥ 執筆年順 回想録 宮本、湯浅両君のモスクワ生活を、今私は映画の一こまのように思い出す。二人の女性がホテルの一室でテーブルに向い合つて、真中には電気スタンドを置き、室の壁には大きな世界地図がかけられていた。そしてこの二人の女性にはソヴエートの全生活を批判的に見ようとする意気込がみられた。湯浅君はロシヤ語に精通した人であり、宮本君は鋭い批評眼を持つてソヴエートの建設状態を観察しようとしていた。私達はこの二人の日本の女性のいとなんでいる共同生活を訪ねてはよくお茶の御馳走になつた。その頃の百合子君の態度は非常に直覚的で弾力性のあるものであつた。そして、この態度はあの人達の接したソヴエートのあらゆる方面の人々に好感を持たれたようだつた。宮本君がモスクワへ来て一週間目に、モスクワに第二回目の﹁日本の夕﹂という会が、﹁ゲルゼンの家﹂で催された。宮本君はこの会で簡単な講演をしているが、この晩には日本の着物に、大きな帯をして演壇に立つたら、聴衆は一勢に﹁カ〓ーヤ、トールスタヤ!﹂︵なんという肥つちよだろう!︶とさゝやき合つたのを私は今なつかしく思出す。先日宮本顕治君のお母さんが語つた言葉の中に﹁百合子さんの腰がもう少し細うならんものかネ﹂と云つたことに連想して私は今何か涙腺を刺戟させられるものを感ずる。 秋田雨雀﹁年長者の見た宮本百合子﹂ 昭和26年4月 正月に会つたときには、からだもだいぶよくなつたといつて、いままでよりもずつと元気で、若々しくて、これからの大きな仕事を前にしての創造的精神があふれているように見うけられた。編集委員会などで百合子さんと会つて、百合子さんの口から、平和についてのつよい発言をきかないときはないのだが、正月最後に会つたとき、百合子さんはほとんどなじるような調子で、文学者の平和についての発言がもつともつとつよくなければならないと、くりかえしくりかえし強調された。そのひとが、こんなに突然亡くなつたということがぼくにはどうしても思いきれないのだ その足でかけつけて百合子さんの死に顔を見た。生きているときから白かつた顔が、ほんのりと紫いろをおびながら、みがかれた陶器のように白く、うつくしく、じつと目をつむつている。この目はもうまばたかず、この口から、もう平和についての強い発言をきくことができないのだと思うと、たまらなかつた。玄関でいつしよになつた原泉さんが、百合子さんの枕もとで、全身をうちふるわせて号泣した。原さんのはげしい気象がそのまま涙と声になつてほとばしりでたような号泣が、いまもぼくの胸に鳴りひびいている。告別式の最後の顕治さんの挨拶をきいているうちに、ぼくも泣きさけびそうになるのをやつとおさえた。 岡本潤﹁一九五一年一月二十一日夜﹂ 昭和26年4月 宮本さんが保釈中の執筆禁止の時期であった。訪ねたのは駒込林町の中条邸でなく、︵宮本さんは戦前中条百合子であった、︶上落合の小さな家だった。宮本さんは、検挙されて取調べ中に受けた拷問のひどさ、むごさを、他のひとの例をもまじえて、語り続けた。白くてまん円い鏡餅のような顔はさすがにやつれが目立ったが、張りのある声がきれいだった。生粋の東京の山の手言葉が、語られる無惨な話の内容とは不似合いに感じられた。左翼の女闘士というイメージは、度の強い眼鏡の奥の視線を相手の目にピタと当てて外らさない鋭さにうかがわれるくらいで、むしろ生れ育ちのよい聡明な婦人という印象が強かった。いわゆる女史にありがちな男まさりの荒さの要素がなく、豊かな女性らしさ︵女っぽさでなく︶が感じられて、私はむしろ不思議な気がした。 それからしばらくして日比谷公会堂の新響の公演で見かけたことがあった。会釈しただけで、ほとんど話を交わさなかったが、そのときも、宮本さんの姿は――淡色の口紅を薄くひいた小さい唇に微笑をうかべ、無地の地味な着物を太り肉︵じし︶の身体にゆったりと着て、定期会員席に腰かけている姿は、どう見ても知的な仕事に携わっている良家の夫人のたたずまいだった。 木村徳三﹁文芸編集者 その跫音﹂ 昭和57年6月 戦争前の暗い或る時代ぼくは、時々彼女をひやかして︵?︶笑わせていた。時代には何だか、あゝいう必要があつた。彼女は、よくユウモアを理解し、ユウモアを好んだ、大きな声を立てゝ笑つた。ぼくの発禁詩集﹁百万人の哄笑﹂ができた時に、彼女は、たくさんほめたてがみをくれた。この一連の詩は、ぼくは終戦後、よみかえしてがつかりし、彼女もあの当時、おだてたものだろうと確認した。 ぽくのねている部屋から出て五、六歩ゆくと、畑と谷一つこえて、凸版印刷志村工場の高い建物が見える。ぼくは、昨年の春散歩を試みていた頃、それを谷の中腹まで行つて眺めたことがある。ぼくは、それをよく眼に描くことができる。宮本さんが、その前で、ドスンとつまずいてころんだという音といつしよに、何度でも描く。ぼくの転居通知の返事に呉れたハガキに、そのドスンとつまずいた物語がしてあつた。 サカイトクゾー﹁放送を聞いていて﹂ 昭和26年4月 菊富士ホテルで逢つたときからとその少しあと、徳永直、黒鳥伝治、武田麟太郎、田辺耕一郎、長谷川進と、それに百合子さんと私が加はつて関西の文学講演会へ行つた頃まで、百合子さんはソヴェート帰りらしい短い断髪で、ふじ絹のワイシャツの襟をつめた服装であつた。が、顕治さんが非合法の生活に入り、合法的な私たちの生活も何かと非合法の面を帯びてきたときから、百合子さんは髪をのばし、着物になつた。このやうな些細な問題は、女らしいことだが、当時のプロレタリア文化運動で、工場の人たち、バスの人たちに逢ふのに、洋服姿はまだ特殊に目立つ点も考慮され、運動の非合法化ととも一層、一般的な服装へ移つたといふ事情は、今日では気づかれない一つの事柄であらう。この期間から顕治さんの獄中生活に入つたのちまで、百合子さんの生活ぶりは、平易に、と心がけられたやうにおもふ。 佐多稲子﹁百合子さんについて﹂ 昭和26年3月 百合子さんが作家同盟に入られて、そして、つぎの年だつたと思いますが、顕治さんと結婚されました。その時のことを思い出話しいたしますと、百合子さんと顕治さんが結婚することになつた。﹁ねえ、よかつたと思うでしよう﹂というようなことをわたくしにいわれたことを覚えております。その百合子さんが結婚生活わずか二ヶ月で、顕治さんは非合法の生活に入らなければならなかつた。百合子さんと顕治さんとの住居は駒込の道坂のいまの林町のお家の近所にあつて二階家の小さな家でありました。そこにわたくしは一度、百合子さんと一緒におもてから帰つていつたことがありましたが、家に顕治さんがいられて、百合子さんが、﹁たゞいま﹂といつて帰つていかれましたが、その声のはずんでいた、その若い声がいまも耳に残つております。その生活がわずか二ヵ月で閉じられなければならなかつた。そして、わたくしたちの運動そのものが、合法、非合法の面をもつていつたわけであります。 佐多稲子﹁ナツプ時代の百合子さん﹂ 昭和26年4月 しかし、直接絵画についての文章は少なかつたとは云え、彼女は、美術の正しい理解者であつたことは、その滞欧生活の記録からも知られる。︵中略︶ 彼女は、生活的リアルという意味で、コルヴイツツの版画やその現代の後継者の一人であるベルギー生れの人民画家マズレールの版画集などもたずさえて帰つた。数年前、文連の芸術委員会の折、近代絵画の複製を多く並べた時があつて、それを熱心に見ている百合子さんに、 ﹁宮本さんは、現代画家ではボナールなんか案外好きではないんですか?﹂と質したことがある。裕福な生活も知らないではない百合子さんには、フランス上流の幸福を丸出ししているボナールの絵に何等かの共感があるのではないかと私は密かに考えたからである。ところが百合子さんは、ひどく渋面して、 ﹁違うわよ。だつて、ボナールの絵には人間が失われているんですもの。セザンヌならまだいゝけれど――﹂と答えられた。 私は、自分自身、今でもボナールを捨てきれぬものがあるので、その折は、ハッとしたことを思い出す。 百合子さんは、この言葉でもわかるように、絵の中でも、素朴なもの人間的なもの生活的なものを愛された。世間によくある事大主義が嫌いで、著名なものでも、空疎な権威を嫌つた。 須山計一﹁絵のわかる作家﹂ 昭和26年3月 二月十三日は百合子さんの誕生日である。亡くなられてはいたけれどこの日稲子さんと一しよに林町へゆくと、あとから見えた佐藤さち子さんが、手提げの中から﹁思い出﹂の原稿をとり出しながら、私の顔をみて、ちよつといたずらつ子のような笑顔をして、 ﹁わたしは百合子さんに叱られたことを書いたの﹂と小声で云つた。 ﹁あなたも叱られたの﹂ ﹁あら、私ほど叱られた女はないわよ。ほら、叱られてあなたのところへいつて泣いたら、そのことをまた叱られたじやないの。あれを書いたのよ﹂ それを聞くと私は何となく﹁叱られ同志﹂というようなことを思つてうれしくなつた。私は叱られの先輩かもしれぬ。そう云えば一昨年あたりだつたか、百合子さんにひどく叱られて私のところへ泣きにきた人があつた。私を﹁叱られ先輩﹂とみたらしく、これは壺井さんでなくちやあ分つてもらえないと云つて、その人は泣いてうつたえたが、はき出してしまうとほつとした顔で笑いながら帰つていつた。︵中略︶ 百合子さんの枕辺でもつとも泣いていたものは叱られたものたちだつたかもしれぬ。そして今、叱られたことにさえ一種の親しさをもつて私たちは語つている。私は林米子さんに、 ﹁あなたは、叱られなかつた?﹂ と聞いた ﹁叱られましたよ。なんども﹂ そういう林さんも何となくにこにこしている。 壺井栄﹁一枚の写真から﹂ 昭和26年4月 やや甲高いが、しかし静かな声が、スピーカーを通じて、流れ出るのを人々は緊張して聞いていた。思想と情熱が堰を切つて、奔流するとでもいうのか、座談風な早口で、しかも強い、説得力をもつた話し振り、しばしば、口を衝いて出る辛辣な諷刺とユーモアが人々を心から笑わせた。︵中略︶ 宮本氏は、無節操な﹁高級な高級リベラリスト﹂たちが、また現在、いかに戦争と帝国主義のためのイデオロギーを流布しつつあるかについて容赦なく語つた。辰野隆、獅子文六、石川達三の座談会がある雑誌に掲載された。その中で、彼等が、﹁きけわだつみのこえ﹂は、今や悲劇ではなく喜劇であると語つて、戦歿学生への全国民の清潔で切実な哀傷、その底に、平和への偽らぬ願いをこめた人間的哀傷に対して、汚れた冗談まじりの冷笑を投げつけることによつて、ふたたびわだつみの悲劇を日本の数千万の若い男女にくりかえさせようと企む戦争放火者の手助けをしていることを、言葉鋭く非難された。 戦歿学生記念像を建てるところは何も東大に限つたものではないであろう。しかし、東大当局が、この像の建立を拒否した以上、東大に建ててもらいたい――右手で軽く卓を打つ動作に、犯し難い宮本氏の気魄が表現されていたが――そういう言葉で、宮本氏はその講演を結んだのであつた。 中田郁夫﹁十二月八日﹂ 昭和26年4月 明くる日、新宿から乗ったタクシで駒込へ急いだ私は、喪服で、手向けの花を三男に抱へさせてゐながら、百合子さんはまだ無事で、私の珍しい訪問を悦んで待ってくれてゐるやうな気がしてならなかった。暮れに﹃婦人公論﹄の企てで何年ぶりかで顔をあはせた時、またそのうち逢はう、彼女も成城の家へ泊まりがけに来よう、と約束してあったから。しかし彼女はいつもの二階に、小豆いろの着物に、細かい紅入りの友禅の羽織に蔽はれ、永久にものいはぬ人になって横はってゐた。そばに侍してゐられた令弟の国男さんの言葉によれば、風邪ではあったが別に熱もなくて前日まで校正などしてをり、夜半の急変の際も、それっきりになるとは御自分でも意識しなかったらしく、お家の方たちも意外であったとのこと故、一瞬の死であったと見える。かうした臨終は夫の亡くなった時から、私にはもっとも望ましい最期と思はれてゐたので、その点から百合子さんの刹那の死は羨やましい。たゞ直接的な死因は紫斑病といふのださうで、そのためか淡く化粧はされてゐたが、彼女の著しい特長であるひろい立派な額から、顔のあたりに紫っぽい翳が漂ひ、いくらか膨れ気味で、それでゐてどことなく硬ばったところがあり、やっぱり瞬間はずゐぶん苦しかったのであらう、と可哀さうでならなかった。枕頭の小机には夥しい著作集が積みたてられ、カーネーション、チューリップ、百合花などの花が色とりどりに飾られてゐて、抹香くさいものがみぢんないのも、百合子さんの死の床にはふさはしかった。 野上弥生子﹁宮本百合子さんを憶ふ﹂ 昭和26年3月 初めてお目にかかって、いきなり怒鳴られた。 団子坂に宮本百合子先生を訪ねたのは、宮本先生が亡くなられた日から考えて、二十六年の一月十九日である。﹁現代日本小説大系﹂の﹁野上弥生子・宮本百合子集﹂ができたので、著者への献本を十八日に野上先生に届け、翌日宮本先生に届けたのである。解説を書いたのは、荒正人氏であった。宮本先生は、あるいは献本の前に、解説の部分の抜き刷りでも送ったのであったか、そのへんの経緯は憶えていないが、何冊かの献本分を持って伺い、初めてお目にかかったとたんに、 ﹁なんですか、これは﹂ と激しい声を浴びた。 宮本先生は、荒氏の解説を読んでおられて、 ﹁解説を書いた人、なんにもわかってはいないじゃないですか。白い壁を泥のついた手で撫でまわしているような文章で見当外れのことを書いているだけじゃないの。どういう人なの、この荒という人は。こんな不愉快な解説がありますか。失礼じゃありませんか﹂ 玄関の土間に立っている私に宮本先生は、すさまじい剣幕でそう言って、それから、 ﹁あなたに言っているわけじゃないけど﹂ と言った。 私は、そのような宮本先生にどう言えばいいのかわからず、ただ、﹁はあ﹂﹁はあ﹂と言うばかりであった。 古山高麗雄﹁野上弥生子先生と私﹂ 昭和63年3月 それはとにかく、信濃町のお宅をはじめて訪ねたときの印象で、その後ながく頭に残つているのは、宮本さんの座右の書棚に﹃中央公論﹄や﹃改造﹄が何冊かいかにも現行という風に突つ込まれてあるのを発見したときの気持だつた。左翼文献や左翼雑誌ばかり読みなれていたわたしが、そのとき一種の驚きをもつて感じた感銘をひと口でいつてみれば、︽ああ、中条さんはブルジヨア作家の出身だつたな︾。とあらためて思い知つたというに近い。 この気持を誤りなくつたえることはむづかしいかも知れない。第一、当時の左翼学生、学生あがりのプロレタリア文化運動従事者というものの観念が、わかる人にしかわかるまい。おなじ気持を、わたしは、﹃一九三四年度におけるブルジヨア文学の動向﹄が発表されたときにも、﹃ジイドとそのソヴエート旅行記﹄が発表されたときにも感じた。これらの論文は、当時、プロレタリア文学出身のなんびとにも企及しがたい彼女の視野の広さを示した。その後に読み返してみても、矢張りこれらの論文は当時の左翼文学者の一般水準をはるかに抜く彼女の炯眼をものがたるものだつたと思う。︽中条さんは、ブルジョア作家出身だつたな︾と思い知つたことは、プロレタリア文学の枠内しか見ていなかつた自分の狭さを思い知らされることだつた。 本多秋五﹁宮本さんの思い出﹂ 昭和26年4月 百合子さんの顔は、一口にいえば、千分の一秒もくるわぬ精巧で透徹した時計を思わせるものがあつた。一すじのみだれもないようにすきあげられた髪の毛、智恵で充満し、ぴかぴかひかつたひたい、正確な画工がただ一息にひいたようなまゆ、そしてあのはつきりした眼、丸味をもつていながら鋭角的な鼻、くつきりしたくちびる、其他耳でも、頬でもがことごとく明瞭でくるいや、ゆがみや、ぼやかしがなく、こういう整然として美くしい顔というものはめつたにあるものではない。もし私がこの顔を生きているうちに描いたとすれば、おそらくは、大いにてこずつただろうと思う。こういう顔はホルバインとか、フアンアイクとかいうような大画家の手にのみおえる顔であつたかもしれない。正直にいつて、私のような画家にとつてはデフオルマシヨンが絶対にできぬようなこういう顔はにが手だ、別のことばでいえば、百合子さんのまつすぐで、ひとすじで清潔でするどいその思想や感情や態度をそのまゝにあらわしている。この顔に対しては、うつかり冗談もいえないような気持の方が先にたつて、あぐらをかいて眺めるようなしたしみがわかないのだ。欠点や、きずがあまりにもなさすぎるその長い作家としての一生のうちに、エピソードらしい、エピソードをもたぬこの人は、ぼくのようにエピソードだけつくつて生きてきたような者には、歯がたゝぬという感じだ。 まつやまふみお﹁百合子さんの顔﹂ 昭和26年4月 太平洋戦争開始の翌日の非転向者に対する一斉検挙の後、監獄に送られた作家はごく少数であつたが彼女はその一人であつた。そして、戦時中の監獄で昏睡状態におちいるような重病にかかるということは、監獄で重く病んだ経験のある人はみな実感をもつて理解しているだろうが、それは生命に対する最も非人間的な処置をうけることであり、﹁普通一般の人間﹂の社会での病気の場合、想像できない悲惨な取扱いをうけることを意味する。 事実、百合子は、昏睡状態におちいつた後、長時間誰一人附添いもなく死ぬものとして放置されていたのである。まだ強靭さの残つていた彼女の肉体の不思議なねばりが、辛じて二昼夜の昏睡から彼女を生きたものとしてさめさせたのである。彼女のこの熱射病の原因となつた巣鴨拘置所の夏を度々経験した私は、今でも夏になると、あの逃げ場のない暑熱地獄を考え、世間での﹁あつさ﹂ということが同列に語れないことを実感せずにはいられない。︵中略︶その上、女監は、行儀とかしつけとかをとくに小姑的にいうらしく、からだをくつろがすことも男の監獄以上にやかましいのである。心臓に弱点があり、脂肪体質で新陳代謝にも障害のある彼女にとつて、このような条件での﹁真夏﹂は、彼女に昏睡とともに諸種の内出血を起させ文字通り血と汗を流す夏となつたのである。 宮本顕治﹁百合子の場合﹂ 昭和26年4月 私が産れて初めて留置場へ入つた時、その房に誰か知らぬ肥つた中年の女の人が一人座つていた。私はまだいたつて心の幼稚な時だつた。郷里には貧乏な百姓の父母と幼ない弟妹があつて、私の仕送りを期待していた。私はこの期待を裏切るような事は何もしようと思つていたのではなかつた。留置場のつめたい壁に背中をつけて、目をつぶれば、自分が拘留されたことよりも、自分が警察の世話になつたと聞いて悲しむ父母や弟妹を思う方がつらくて、唯それを思う丈で、涙がこみ上げて来た。その時、 ﹁何をして来たの﹂ と、女の人は声をかけた。 ﹁私、何も悪い事をした覚えはありません。頼まれて謄写版の手つだいをした丈です﹂ 私はそんな返事をしたと思う。それが百合子さんと初めて話しをした時だつた。その時教えられたのは、 ﹁大を取つて小を捨てる﹂ と言う分別のしかたゞった。その分別はその時はその時なりの理解ですぎたが、それからのち、事ある毎に私の分別を助けてくれて、今も私の心の中に生きている。 山代巴﹁製図用具の感激﹂ 昭和26年4月 彼女は極めて女性的で、従つて女性的な欠点も多分に持つて生れてゐます。幼いときからそれがあつて、ときどきそれを出したが、その頃お父さんの弟で精吾さんといつてクリスチャンで、アメリカから帰つて肺がわるかつたか何かで林町の家にゐて間もなく死んだ。このひとがよく百合子を可愛がつたが、彼女がその叔父さんと夜一しょにねながら、女の子らしい告げ口などすると、黙つて、うんとお尻をつねつた。それが身にこたえて、どんなに精神の成長に薬になつたかしれない、といふことを何度かわたしに話してきかせたことがあります。わたしは自分自身じつに欠点の多い、どころか欠点のなかに真面目︵しんめんぼく︶のあるやうな人間で、わたし自身の精神の成長は百合子さんに負ふところが多大ですが、でも、そのわたしが百合子さんと一しょに暮した時代には、やはり精吾さんのやうな役目を勤めたことたびたびでした。わるいと思ふことは素直によくきくひとでした。素直な愛情を相手に持てるときはそれのできるひとでした。 湯浅芳子﹁生きて逢ひたかつた﹂ 昭和26年3月
大正8年 昭和6年 昭和25年春
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