室生犀星 ︻むろう・さいせい︼ 詩人、小説家。本名、室生照道。明治22年8月1日〜昭和37年3月26日。石川県金沢市裏千日町に生まれる。元加賀藩士と、その女中との私生児であり、生後すぐ他人に預けられた。12歳から職に就き、その中で文学に目ざめる。明治43年に上京し、以後数年間、喰いつめては帰郷と上京を繰り返す、放蕩、無頼の生活を送った。大正7年、﹁愛の詩集﹂、﹁抒情小曲集﹂を刊行。まったく新しい表現による真率な抒情詩として、詩壇に衝撃を与えた。翌年、﹁幼年時代﹂より小説家としての活動も開始。初期は詩的抒情を生かした作風だったが、やがて﹁あにいもうと﹂︵昭和9︶など、悪漢たちの活躍する野性的リアリズムへと転じた。晩年も創作意欲は衰えず、前衛小説﹁蜜のあはれ﹂︵昭和34︶などを発表した。昭和37年3月、肺癌により死去。享年72歳。代表作は﹁抒情小曲集﹂、﹁あにいもうと﹂、﹁杏つ子﹂、﹁かげろふの日記遺文﹂、﹁蜜のあはれ﹂など。 ︹リンク︺ 室生犀星@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 室生犀星@文学者掃苔録図書館 室生犀星@近現代日本文学史年表 著作目録 *制作未定* 回想録 先生は御自分は御自分の生立ちが不遇であられた為もあつて、他人の不遇に同情する侠気を多分に持つていられた。それは全く他に見せるものではなくて、そうなさらなければ気のすまぬものを御自分の内に持つていられたのだと思う。ある出版社で詩の全集を出すことになつた時、某という詩人の詩がそれに入つていなかつたのを、先生が不満とされて、その人の詩を入れないなら、自分も全集に入らないと明言され、その為にその詩人の詩が全集に加えられたということを先生御自身からきいた。その時にも先生は、 ﹁全集というものには出来るだけ多くの人を逃がさないようにすべきです﹂ ときつぱり言われた。 ﹁この人を入れないのはどうかな﹂ぐらいの注意は言えても、自分の作品を全集に入れないとまではなかなか突つ張れないものである。先生の侠骨とはそう云うものであつた。 円地文子﹁軽井沢での縁﹂ 昭和39年5月 室生さんは原稿を書くのが、どちらかといえば早いほうだった。いつも締切日までには――あるいはその前に――必ず書き上げてくれたので、雑誌記者にとっては信頼のできるありがたい作家だった。 その頃田端には芥川竜之介がいて、その遅筆ぶりは記者泣かせだったが、後にここに住みついた久保田万太郎が一枚加わって、記者泣かせの両雄だった。ある日、私が久保田万太郎のところへ原稿の催促に行ったとき、﹁今日芥川君が原稿が書けないので散歩に出かけたところ、途中で室生君に会ったので、君のほうはどうだと聞いたら、もう書き上げてしまったと、のうのうとした顔をしているので、室生君は実にうらやましいなあと、芥川君はつくづく嘆息していた﹂と聞かされた。たしかに室生さんの原稿は締切日前に受け取っていて、もう印刷所に回してある時分に、この両雄はまだ二、三枚しか書けていなかったのだ。 木佐木勝﹁雑誌記者最初の仕事﹂ 昭和39年3月 清く静かに住む事にかけては室生君は名人の一人だ。自分達から見ると室生君の家庭には馬鹿に美しい微妙な秩序がある。蘭のやうな静けさがある。あの空気で仕事をするのだと思ふ。竹の葉が二三片綺麗な古い陶器の陰でさや〳〵と鳴る。手水鉢の子酌に仲秋と六朝風に書いてある。室生君は金沢の人だ。色のよい九谷焼を沢山持つてゐる。駒鳥のやうに優しい眼をして、古い陶器で茶をすゝる。水と木の葉の匂ひを楽しむやうに。室生君には自分達なぞには見えない平明単純なものゝ中に、はつきりと形の美や静かな色彩を捕へる清純な眼がある。他人の窺ひ知れぬ独自の優美な光りでものを見ては捕へる。言葉もはつきりとして、容貌にも何処か大樹の花のやうな優しさと、新らしい典雅な風致がある。室生君には確かに沢山の樗の花や大きい泰山木の純白な花に似てゐるところがある。その匂ひ響きがある。芸術も一流の織匠のやうに的確で、静粛な世界の花園を設計してゐる感じがする。室生君には純日本といゝたいくらいの天稟がある。昔の淡々とか乙由とかいふ人は加賀にゐたかどうかよく知らないが、何処か芭蕉系の風韻を持つてゐる所が似てゐる。 佐藤惣之助﹁大樹の花・室生君﹂ 大正9年7月 室生君は朴訥な人である。――これは誰にでも一目で解ることだ。が、私はその上、あのびくびくした乃至へり下つたやうな室生君が、あれでなかなか剛直なところがあるに相違ない気がする。この観察は、何かの事件からではない、彼の表情によつてゞある。彼のあの頬骨、肩つき、それに小さくつぶらな目つき。あれが喧嘩早かつたといふ少年時代の同君の名残であらう。就中、目つきが、どうかすると、例へば半分恐れ半分激してゐる野獣――熊などがあんな目をすることがあるだらうかと思へるやうな、深い不思議な、よほどパッショネートなところが覗き出て居る。性的にも霊的にも。――彼は単純に見えて、あれで案外複雑かも知れない。あの単純明澄は下の方に沈澱物のある上澄ではないか知ら。だと、一層面白いのだ――彼は今より深くより大きくなるわけだ。 さうさう、アンリ・ルッソオといふ画家が、人も作も、よほど室生君に似て居やしないかな? 佐藤春夫﹁淋しく、静かに、冷く、重く、然も楽し﹂ 大正9年7月 室生さんがよくよく毛嫌いしたのは︵これは室生さんに限らず大抵の人が嫌いなのだが︶、平素の態度にどこか冷笑的な雰囲気をもっている人、物識りぶった所謂気障な人、俗にいうぐうたらな人間等で、そういう類いの人達に対してはまるで仇敵でもあるように嫌がつた。殊にそんな人達から聊かでも自尊心を傷つけられるようなことがあると、実に執念深く憎悪をむきだしに現わし、やや偏執狂的な性癖さえ露骨に見せて、その後でも私達がうっかりその人の名前など口にすると唾でも吐きかけそうな口調で罵詈したものである。 室生さんは人に対する好き嫌いが烈しかった。しかもそれを包もうとせずはっきりおもてに現わした。嫌いな人とは頑固に口も利こうとしなかった。しかしひとの面倒はよく見た。それも実に根気よくつづけた。あとで人伝てに聞いておどろいたこともしばしばある。元来室生さんは仲々世話好きで、見かけによらずこまめなところがあった。幼い頃から苦労してきたので、おのずからこういう単純とも複雑とも両様にとれる性格をもつようになったのだと思うが、とにかく室生さんという人は私にとって何んともいえない気安く信頼のもてるひとで、久しく会わないでいても毎日会ってるような親近感を抱かせているひとであった。 多田不二﹁室生さんという人﹂ 昭和39年3月 さっき室生さんは癇癪持でないと書いたが、その室生さんが一度物すごい癇癪を起した時のことを今思い出したのでちょっと記してみよう。それはたしか大正十一年のことだったとおもうが、たまたま田端の室生さんのお宅へ、芥川竜之介さん、福士幸次郎さん、それに私が訪ね合せなにか雑談していたのであったが、どんな話のはずみだったか、福士さんが例のひょうひょうとした口調で﹁そりゃア室生君、豹太郎なんて妙な名前を付けるから早死したんだよ﹂といったところが、室生さんは突然真青になって、やにわに火鉢から鉄瓶を掴んで立ちあがり庭石めがけてそれを叩きつけ、恐ろしい見幕で福士さんを睨めつけ﹁君帰ってくれ﹂と怒鳴りつけた。豹太郎さんというのはその年二歳で亡くなった室生さんの長男で、福士さんのなにげない戯れ言も室生さんの傷心に対しては余りにも無慙な放言であったようである。黙然と立ったままの室生さんに一生懸命弁解している福士さんを残し、芥川さんに無言で促された私は一緒に室生さんのお宅を出て、芥川さんも私も連れ立ったまま一言もものを言わず田端駅の近くで軽く会釈して別れてしまったが、そのあとしばらくは古い木彫面のようなかたい表情の室生さんの顔と、人の良い福士さんの困惑しきった蒼白な顔とが私の脳裏にこびりついて離れなかった。 多田不二、同上 私の父は金沢で先生と同じ町に生まれた、いわゆる幼友達であつた。父が書きのこしたもののなかに、ときどき犀星先生のことがでてくる。それによると、先生は養家の雨宝院の賽銭のなかから勝手に﹃少年世界﹄や﹃ハガキ文学﹄を買つてきて、それを父の家にあずけて二人で読んでいた、ということである。そしてこれらに短文を投書し始めたが、みんな没になつてしまうので、すつかり絶望した犀星少年は、雑誌の挿絵の模写に熱中して、将来絵描きになると誓つていた。﹃少年世界﹄の口絵に入つていた三宅克巳の水彩画に心をうばわれた少年たちであつた。しかし、そういう犀星少年は孤独な、喧嘩早い厄介者で、雨宝院の門前の広場を通る子供たちは駆け足で通り抜けたという。高等小学校を退学するときも、そういう調子であつた。左手にナイフを突き通したのも、始業の鐘の鳴つたのに気付かず、教壇で切腹の真似をしていたのを受持の訓導にみつかり、もう一度始めからやつてみよ、といわれたからの始末であつた、という。負けん気の、傷つき易い少年であつたであろう。犀星先生の筆は喧嘩の場面では必ず足が速くなり、その畳みかけてゆく勢いに破綻がない。野犬の土性骨というものだろうか。 田辺徹﹁犀星先生のこと﹂ 昭和41年2月 私の知つている室生さんは、戦争中から以後の、だから老年期の室生さんである。 街を夜おそくまで飲んで歩いたりしなくなつた、厳格な規則的生活のなかに自分を閉じこめていた室生さんである。 軽井沢の別荘の小さな庭が、あまり奇麗に掃除されていて、枝折戸のところから、どこへ足を踏み入れていいのか判らなくて、最初の時は、立ちすくんでしまつた。飛石が洗つたように塵ひとつないので、仕方なく苔のうえに靴で踏みこむと、座敷から見ていた室生さんは慌てて、石の上を渡つてこいと注意した。 それから離屋の縁に腰かけて、私が煙草をのみはじめると、いきなり室生さんは足袋はだしのまま庭へ飛びおりて、たしか鑵詰の空鑵か何かを私に突きつけて、それに灰を落せと命じた。 私にとつてと、犀星先生にとつてとは、庭という観念が全然、別のもので、そうして先生にとつては私は全く目の離せない、とんでもない野蛮なうつけものだつたのだろう。 私にとつては、室生家訪問は、だから、一挙手一投足に至るまで気にしなければならない、ひどく気骨の折れる仕事で、そうした私の気持を知つていた朝子嬢は、﹁お父さま﹂の留守の時に限つて、私を呼んで風呂に入れたり、食事を御馳走してくれたりした。 とにかく戦争末期の室生さんは、神経が露出しているようで、向い合つている間じゆう、こちらは緊張のしずめだつた。 中村真一郎﹁室生さんと私﹂ 昭和41年11月 晩年の室生犀星氏は、孤独の陰が濃かつた。 仕事の過労か相次ぐ来客の疲れだろうか。それとも何か他の原因があるのだろうか等と、思いめぐらせては案じていたのだつた。 来客と談笑中にも、猫に御飯を食べさせながらも、ふつと漂う寂しい影を見逃せにはできなかつた。 亡くなる二年ぐらい前に室生家で秘書の役をする若い娘さんが来たが、その前後に室生さんの影は一段と濃くなつた。初めてその娘さんの話を私に聞かせる時、いつも坐つている仕事机の後ろの棚を開けながら、 ﹁葉ちやん、良いもの見せようか?﹂と、言つて二、三枚の写真を取り出した。 私は、その写真を見てもそこに映つている若い娘さんと、何の関係なのか咄嗟に分らなかつた。私が、不審そうな顔をしていると、自分の鼻の辺りを指して、 ﹁ほくの恋人だよ﹂と、言うのである。その時いたずらつぽい表情が走り、 ﹁どうだね? 美しい娘だろう!﹂楽しそうだつた。傍らで朝子さんが、このごろ銀座をデートしているのよ、でも何も話すことがないので困つてしまうんですつてと、言う。 私は、その時室生さんの寂しい影の原因をそこにあるのだと、解釈したのである。いま室生さんにはすべてのものが備わつている。名誉も名声も財産もある。だが若さだけはどうすることも出来ない、その孤独感なのだろうと、思つた。 萩原葉子﹁﹃黒髪の書﹄のこと﹂ 昭和42年8月 僕が彼を知つてからも、彼は随分と悲惨な生活をしたものだつた。彼が養父の死没に依つて、幾干かの遺産を得るまでの十年間と云ふものは、饑飢と、隠忍と、失望とに塗りかためられた生活をしてゐたものだ。今思つて見ても、僕には能く彼が、あの暗黒と苦痛とに堪え得て来たものだとおもふ。 僕が最初彼を知つた頃、彼は或米屋の二階に間借りをしてゐたが、其の頃彼は僕に逢ふ毎に、何時も﹁俺は米屋の二階にゐながら、碌々飯も食へないのだ﹂と云ふのを口癖にしてゐた。また或時彼は、友人のゐた宿の者から、一匹の小猫を貰つて来て飼育してゐたことがある。其の頃彼は下宿屋にゐたのだが、依然として貧窮無比な彼は、此の時も矢張り間借りをした上に自炊してゐたのだ。そして、彼は日頃想像し憧憬してゐた、異国の女が身に纏つてゐる天鵞絨の感触にも比すべき猫の毛並を好む一念から、敢えて自分の食欲を節してまで、それを寵愛して措かなかつたものだ。ところで彼は、或日また一日の食糧を取ることも出来なくなつたので、例に依り小猫を居間に残した儘、二三日友人知己の間を寄食し回つてゐた。其の中忘れるともなく忘れてゐた小猫を思ひだしたので、急ぎ帰つて来て見ると、敢無くも其の時もう小猫は、室の一隅に餓死してゐるのだ。僕が丁度彼のところへ行き合したのは、彼が膝にした其の小猫を双手に抱きしめて、歔欷嗚咽してゐるところだつた。 藤沢清造﹁彼に云ひたいこと﹂ 大正9年7月 また彼は、爾く饑餓に追はれながらも、一日両度は入浴することと、自分の居間を装飾することを忘れなかつた。今彼が入浴する場合に就いて云へば、既に一日三度の食欲も十分に充たせない窮迫時代のことにしてみれば、無論一日両度はおろか、唯の一度の入浴料にも困るが慣はしだつた。すると彼は、さう云ふ時には、一部の雑誌や書籍はまだしも、甚だしい時には、穿き古しの足袋を屑屋へ売却してまでも、尚入浴しなければ措かなかつたものだ。 また彼は、前記小猫餓死事件当時の如く、例へば、終日一食を節しても、尚且つ自分の室内を装飾することを怠らなかつた。彼は好んで、友人の手になる絵画を壁間に掛け、彫刻を机上に置いて、それを愛賞し、珍蔵して止まなかつたものだ。そして、彼は古物商から発見購求して来た花瓶へ、草花を挿すことに努めたものだ、これもまた購求することの出来ない時は、彼は屡々谷中の墓地へ出掛て行つて、其処の墓前に手向けられてある草花を窃取して来て、それを生けて朝夕親接し愛惜したものだ。 藤沢清造、同上 室生家には女客が多かつた。作家や編集者ばかりでなく、自作の詩を携えた女流詩人のタマゴや、愛読者の女子学生まで、時間のゆるす限り殆んど面会に応じていられたようである。女人の美についての先生の好みは、作品に鮮やかに示されているが、すべての女ひとに、どこかしらましなところを探し出し、いつぱしの魅力をそなえた女に思わせて下さるような心遣いであつたから、先生を訪ねる女客は、それぞれの思いで自足していたのであろうと思う。 ﹁こんなじいさんは、せめて床屋にでも行つてきれいにしていなくては若い子はつきあつてくれんでしようが﹂と、まじめな顔で云われて、まめに散髪にも行かれた。身につける物にも心をくばられていた先生は、写真で見る若い頃よりも、男の年輪を刻んだ当時の方が明らかに魅力ある風貌に思えた。先生は、男性についてもよく容貌を話題にされて、﹁あの人は美しいから﹂というような云いかたをされた。美しい人として先生の口に上つたのは、文壇では志賀直哉、高見順、伊藤整、三島由紀夫などの名だつた。 松本道子﹁思い出抄﹂ 昭和41年8月 室生さんはまだ三十五六歳だつたと思うが、じつにおちついた無口の人で、寒い日に手焙りをはさんで対座しても、客の顔をみずに、庭の方をみながら話した。そのころから室生さんは原稿料がおくれると、文句をいうので、私はなるべく早く届けるようにした。 私の友人が﹃あら野﹄というかなり部厚い俳句雑誌を出していた。薄謝を出せるから、是非室生さんに散文を書いてもらいたいと頼んできたので、私はその仲介を引きうけた。室生さんはこころよく書いてくれたが、薄謝がおくれると、室生さんは私に怒つてきた。私はあわてて友人を訪ね、早く届けるようにせき立てた。詩の原稿料が安いと、もつとあげろと私にいつたこともある。 こういうことは、他の雑誌社とも、時々ごたごたがあつたようであるが、それは室生さんが、金銭にきたないためでなく、いつも無口で、大変きちようめんな性格であつたからだ。いつか私は能楽の中から王朝ものを書くようにすすめて、私の所蔵の能楽の本を郵送した。小包の中で書物のカバーの、僅かな端がこわれた。室生さんはそれを非常に気にして、私にいいわけをしていた。このきちようめんな性格が、室生さんに内攻して、作品の骨組になつているのではないか。 三上秀吉﹁立琴をかきならす女人群﹂ 昭和40年4月 意固地で、我執的で、喧嘩早くて、妙に人を毛嫌ひする、明らかに粗暴に類する性格が、一面、典雅で、落付いて、よく磨きのかゝつたやうな、純日本風とも云ふべき趣味と巧みに一致してゐるのが室生の性質の特点かと思ふ︵彼は熱心な陶器の愛玩家である、︶もつともこれは室生君だけでない、北国の人に共通な緻密で、手固い典型的なカラクテールかとも思はれる。が同時に室生にはおそろしく性欲的なところがある。あの皮膚の固さうな、何度かに親しみ難いいかつい表情を充した、鼻の高い、口の大きい顔が既にそれを語つてゐるやうに、その身体全体から来る感じや、話し振りや、動作やが一種妙に肉感的で、一寸自分には想像の出来ないやうな特殊の感覚で充されてゐるやうに思へる、無論それは南国的な、放埓で開け放しな、例へば同じ詩人でも北原氏のそれのやうなものでは全然ない、一種手固い、寒帯性の乾いた巌の表面を見るやうなそれである。私は未だ曾て室生君ほどに﹁性﹂の匂ひの勝つた、一切が﹁性﹂から産み出されたやうな人――作家を知らない、どうかすると室生の芸術そのもの迄が一種変態性欲の特殊の現はれではないかと思はれるやうなことさへある、これは少し極端だが、兎に角彼の作品からこの﹁性欲﹂の要素を切り離したらどんなものが残るか︵おそらく無邪気で、純粋な子供の芸術のやうなものが出来るだらう︶は一寸疑問である。 百田宗治﹁変態性欲の現はれ﹂ 大正9年7月
大正8,9年頃 昭和10年 昭和33年頃
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