高見順 ︻たかみ・じゅん︼ 小説家。本名、高間芳雄。明治40年1月30日〜昭和40年8月17日。福井県三国町に生まれる。福井県知事、阪本�ソ之助の私生児であった。昭和2年、東京帝大英文科に入学。﹁左翼芸術﹂などに作品を発表し、プロレタリア文学の一翼を担う作家として活動する。昭和8年、治安維持法違反の疑いで検挙されるが、転向を表明し、半年後に釈放される。昭和10年、独自の饒舌体を用いた﹁故旧忘れ得べき﹂を発表し、文壇から注目される。昭和14年、﹁如何なる星の下に﹂を発表し、﹁かつて高見順の時代があった﹂と評されるほどの賞讃を浴びた。戦後は昭和という動乱の時代を活写した大作﹁激流﹂︵昭和34︶、﹁いやな感じ﹂︵昭和35︶などを発表。晩年には日本近代文学館の建設に尽力した。昭和40年8月17日、食道癌により死去。享年58歳。代表作は﹁故旧忘れ得べき﹂、﹁如何なる星の下に﹂、﹁いやな感じ﹂、﹁死の淵より﹂、﹁昭和文学盛衰史﹂など。 ︹リンク︺ 高見順@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 高見順@文学者掃苔録図書館 高見順@近現代日本文学史年表 著作目録 *制作未定* 回想録 私は一度しか高見さんの怒った顔をみなかったけれど、時々怒声を発するという。 ﹁何でこんなに気をつかうんだという自己嫌悪に陥ると腹立たしくなってね﹂高見さんはそんな風にいった。 死んだ十返肇さんが新橋狸小路のバア小夜で高見さんの一喝をくらったが、その怒り顔がたった一度みた事件? である。 婦人画報にいた矢口純がたしか一緒だった。 高見さんが怒った原因は、 ﹁――大体高見順は……。﹂と十返さんが呼びつけにしたことである。 夜も更けて高見さんは少し疲れて機嫌のわるくなる頃だったのかも知れない。 ﹁――高見順は……﹂の次がいけなかったらしい。高見さんの触れられたくないことだったのだと思う。 私も矢口純も酔っていてつぶさには聞いていなかった。 ﹁何だ十返! 君は丹羽文雄のことを面と向って丹羽はと呼びつけにすることが出来るのか! 僕と丹羽とは同年代の友人だ。何故呼びつけにするのだ! 評論の中ならかまわないが相対した時は些かの礼をわきまえろ!﹂ 十返さんが沈黙し頭を下げて小夜を出ていった。勿論悪意ある呼びつけではない。だからといって高見さんの怒りを子供染みているとは思えない。虫のいどころのよしあしは別として当然の怒りだった。 秋山庄太郎﹁高見さんと私﹂ 昭和45年6月 朝日に連載小説を書いておられたころ、高見さんが来社されるという連絡があると、編集局長室や学芸部では大あわてで鉛筆立てをどこかへしまいこんでいた。鋭くとがった鉛筆が何十本もザクザクと突っ立っているのを見ると、恐怖感に襲われるという性質のノイローゼだとのことだった。ぼくも新聞社にいるくせにあれはきらいだったので、その繊細な気持はよくわかった。高見さん、池島信平さんらとNHKで何やらの座談会をした折り、ぼくがそのころよく通っていた銀座のエレガンスというバーに高見さんの昔なじみのホステスがいて﹁一度お目にかかりたいわ。連れてきて﹂と頼まれていた。その話をすると﹁あああれか、久しぶりに会いたいな、行きましょう﹂ということで案内したことがある。“あばずれの純情”といったたちの女だったが高見さんの前ではひどくはにかんで全く別人のように変る女というものの姿を見た。大勢のパーティなどでも高見さんほど水ぎわだって颯爽としたひとを見たことがない。上背があり洋服でも和服でも無雑作な粋とハイカラがあって、その端麗な男っぷりには男だって見とれるのだから女どもが惚れやがるのも無理はねえなと思った。 荒垣秀雄﹁病床の高見さんと語って﹂ 昭和45年10月 旅さきでは夜ねるのが遅くなるものだが、高見さんはどこへ行っても、朝早く起きて街の中を歩きまわっていた。その街のたたずまいや、すれちがう人の表情を心の中にたたみこんでしまう。ものを書く人にとっては当然のことではあるが、そばにいる私は生活のにおいの敏感さに、自分のなまけ心に鞭打たれるような気がした。 九州旅行で佐賀に行ったとき、朝の市場から買いこんできた鯨の軟骨の干物や、わけのわからない干物をテーブルの上に広げて、楽しそうにひとつひとつを吟味していた。 一夜、佐賀の田舎芸者が座敷によばれた。生活に疲れた表情を無理にはしゃいでおおいかくし、中年の美しくもない顔に下手な厚化粧をして、一生懸命に三味線をひいたり唄ったりした。それはお世辞にも洗練されたものではなかったが、高見さんは楽しそうに座興にのっていた。しかしその目つきは、そういう女からも人生のひだをかぎとろうとする鋭さがあった。 さりげなく触れ合うどんな人からも、人生の何かを吸収せずにはいられない熱気があった。今から思えば、限られた命を精一杯に燃やして、一瞬一瞬を生きぬいたのだ。 石垣綾子﹁旅先きの高見さん﹂ 昭和45年4月 ﹁こうなったら、もうヤケだ﹂ 高見さんはよくいった。 ヤケではないが、破れかぶれの居直りを高見さんはよくやった。︵中略︶ 高見さんの居直りのダンディズムがはばかるところなく示されたのは、高見さん自身の死に関してだった。 ある人間にとっては、たとえいかに早期発見といはれようと、癌手術のための入院は、八割方の死と感じられるだろう。実際にまた、そうでもある。 その入院前夜、﹁こんなものは、昔の召集入隊みたいなもんだ。当節の流行りだよ﹂といって入院歓迎会を銀座でやる人間がどこにいるだろうか。 どんな顔で出席してよいかわからぬまま会に出て、しきりに談笑している高見さんを眺めながら “ああ、この人はもう死ぬ覚悟でいる” と僕は思った。 石原慎太郎﹁居直りの男伊達﹂ 昭和46年2月 高見さんは、ひと仕事終ると、とたんに呑みたくなるらしく、文芸春秋の徳田雅彦君、私、新潮の田辺孝治君、共同通信の小塙学君、婦人画報社の矢口純君︵現在はサン・アド取締役企画部長︶などのところへ電話をかけて﹁召集﹂し、その何人か都合のついた連中が集まって、呑みあかすのであった。 大抵、銀座の﹁田岡﹂という小料理屋か、有楽町の﹁慶楽﹂という支那料理屋からはじまり、﹁ラモール﹂﹁エスポアール﹂﹁葡萄屋﹂﹁コロネット﹂等のどれか、またはその数軒を廻り、十一時を過ぎると、﹁腹がへった﹂と言い出し、﹁磯村﹂ヘビフテキをたべに行ったり、﹁レンガ亭﹂ヘトンカツをたべに行ったりした。時にはうなぎもたべた。 六尺豊かの大男だけに、けんたん家で︵そのくせ身体は丈夫という方ではなかった︶、すぐ、﹁腹がへった﹂という。︵中略︶﹁磯村﹂でビフテキをたべたのに、それからまた、渋谷の﹁とん平﹂へ行って、カツ丼をたべることもあった。これにはただただあきれた。呆れたような顔をすると、 ﹁そんな顔、すんなよ。こいつ、ひとがもの食うと、いやな顔しやがる﹂と、おどけて言った。 巌谷大四﹁高見さんの思い出﹂ 昭和46年2月 話のなかで彼は言った。﹁こないだ平野謙とも話したことだが、できれば共産党員として死にたい。だが共産党員として死にたいということだけでよくよくとして生きている人間がある。徳永直なんかその典型的なものだ。江口渙も近頃はそうではないのか。おれにはそんなことはできない。 ――だからといって、君のところにはいるというわけにはゆかないしねえ﹂ かれはつづけてこう言った。 ﹁おれは分派はよくないと思っていた。君たちのことにも反対だった。だが近頃は、やっぱりやむをえないんじゃないかと思うようになった。これはおれ個人の意見が変ったということだけではなくて世間一般の考え方が変っていることだと思う﹂ かれの言葉には死と不断の格闘をつづけているものの重味があった。 ﹁若い頃信じたマルクス主義の正しさを疑うことはできない。だがそれだけでは何かたりないものがあるような気がする。そうかといって、赤岩栄のように、現世の救済はマルクス主義、魂の救済はキリスト教といって割り切るわけにもゆかない﹂ 私は答える言葉を知らなかった。死に直面し、生と死の深みを凝視し、探究しつづけている一人の文学者に、人は何を言うことができよう。 内野壮児﹁高見順をいたむ﹂ 昭和40年9月 高見さんの思い出を語るのにその容貌の描写からはじめるのは当を得ていないかもしれません。とりわけ、話の対象が女性ではなくて、男性なのですから。しかし、やはり次のことを指摘しておかないわけにはまいりません。驚くほど美しい、それと同時に温和な――私は善良なと申し上げたいのですが――容貌をした、背の高い、均整のとれた一団員をひと目見たとき、私たちの誰しもが、はっとしたほどの好印象を受けたということです。あれから何年も経った後においてさえ、私はソヴェート作家同盟でのレセプションで高見順さんにお会いしたことのある作家同盟の多くの活動家たちから、﹁最初の代表団でわが国を訪れられた、あの背の高い、美貌の作家はどうしていらっしゃいますか?﹂という質問をしばしば受けたものでした。これらの人たちは高見さんのお名前は失念していましたが、あの驚くほどの美貌と上品な容姿はしっかりと記憶にとどめていたのです。 エム・リヴォーヴァ/箕浦達二訳﹁高見順さんの思い出﹂ 昭和46年6月 昭和三十三年夏、私はパリでソ連帰りの高見さんといっしょになった。そのころおられた大仏次郎氏と三人で、パリの共産党機関紙﹁ユマニテ﹂の編集部を訪れる事になった。先方の編集局次長や党員作家などという人たちが出て来て、いろいろ歓待してくれた。終戦直後、ユマニティ紙が連載小説にユーゴーの﹁レ・ミゼラブル﹂をアンコールした話から、フランス共産党がいかにフランスの作家たちを評価しているかということに話が移った。 それによると、党が公式にエステメートする作家は、ユーゴー、バルザック、スタンダール、ゾラなどだという事だった。私たちは、つぎつぎと作家の名をあげて行った。それに対する彼等の回答はまた明快なものであった。 ﹁モッパサンは?﹂ 高見さんが聞いた。 ﹁ノン。なぜなら、そのイデオロギイは小市民的だから﹂ ﹁しかし、“パリ人の日曜日”なんか、いいもんじゃないですか﹂ すると、そのうちの一人が、眉をすくめて、こういった。 ﹁あれは、私も愛惜している。だが、そっと、ひとりでね……﹂ この答えを聞いた時の高見さんの笑顔は、私には忘れられない。 扇谷正造﹁三つの風景﹂ 昭和45年6月 ﹁群像﹂に在籍中、私は高見順氏には随分多くの原稿を書いてもらったが、原稿はすべて夫人の清書を経てから渡された。高見氏は二百字詰原稿用紙に鉛筆で枡目を無視して他人には判読不能の文字を書く。それを夫人がインクで清書し、高見氏がそれに目を通してから渡される。夫人の清書を経ずに渡されたのは﹃生命の樹﹄と﹃死の淵より﹄のノートだけだったと思う。︵中略︶ 高見氏ははた目には夫人に対してちよっと暴君のようなところがあった。気が弱くて断りきれなかった原稿をあとで断ったりするような悪い役はすべて夫人がしていたし、何かに対するいら立ちや腹立ちを夫人に当り散らすことが高見氏の精神の健康法のようであった。食道癌を最初手術したとき、千葉の病院の看護婦たちが、入院中の高見氏があまりにも夫人に当り散らすので、あのように嫌っている夫人が看病していたのでは病気によくないから帰っていただこうと相談していた、ということがわかって、高見氏はじめ、高見家のことをよく知っている人たちが大笑いした、ということがあった。夫人はいつも高見氏の癇癪をボクシングのサンドバッグのように受けていた。しかし、その場面に出くわしても、私は夫人を気の毒とも、高見氏をひどいとも感じたことはなかった。それがなにか自然だったからだ。 大久保房男﹁﹃生命の樹﹄の主人公の妻﹂ 昭和46年10月 それから何年かたって、私は東京で暮すようになり、下村さんと同人雑誌を出す相談をした。同人の顔ぶれは下村さんが選んだが、まず第一にあげたのは高見さんの名だった。下村さんと私は、高見さんの勤め先きのコロンビアレコード会社へ訪ねて行った。 高見さんは照れたようなしぐさをして、ニヤリと笑ってみせたりして、自分の鋭さを意識してやわらげて表現するようなところがあったが、そのときもそんなしぐさをした。 ﹁いつまでも、こんなことをしていては、しようがないと思っているんだがね﹂ と、勤めのことを言ったりした。 それも軽妙な言いかたで、 ﹁何しろねえ、私の仕事といったら、お嬢ちゃんがオシッコと言えば、抱っこしてトイレへ連れて行ってやるのが仕事なんだからねえ。﹂ と、首をすくめてみせた。それは童謡をレコードに吹きこむ子供のことを言っていたのだが、高見さんはそんなふうに深刻ぶらず軽い自虐的な言いかたをした。 大谷藤子﹁若い日の高見さん﹂ 昭和45年8月 戦争が一段落すると、報道班員は全部ラングーンに集結して共同生活を始めたが、高見氏は仲間よりもむしろビルマ人との付き会いが多く、進んで映画の審査や演劇の指導を引き受けたり、ビルマの作家たちと接触をはかって、ビルマ文化の向上発展に尽力した。高見氏が近代文学館建設運動に文字通り献身的であったことは周知の通りだが、ビルマの文化運動にも献身的な情熱をそそいでいた。 そうした関係からであろう、高見氏はビルマ人に対して人一倍親身な愛情を抱いていたようで、終戦後も絶えずビルマのことを気にかけ、ビルマの文化人と交流をつづけたり、ビルマの留学生の相談相手になっていたという。 ラングーンでの高見氏には、ビルマ酒に酔っぱらって深いみぞに落ち、ビルマではビルマ語でいわねば相済まぬとビルマ語で救助を求めようとしたが、そのビルマ語がわからず、せめてもビルマの通用語でと、英語で助けを叫んだ話など、ほほえましいエピソードが少なくないが、ここでは紙面の関係で割愛するほかない。 倉島竹二郎﹁ビルマの葉巻き﹂ 昭和40年9月 それは今から二十五、六年昔のことだ。田舎の高等学校を出て、東京の大学に入って間もないころであった。 ある日の午後、僕は友人とふたり銀座の表通りを歩いていた。人通りは少なかった。 ふと前方の路上に立っているひとを見た。コロンバンの前あたりだったろう。長身の着流し、それが僕がはじめて見た高見さんであった。 というより、それは僕がはじめて見た文士というものの姿であった。今でも鮮かに思い出されるのは、そういう印象が強く僕の心をうったからだ。﹁これが文士というものか﹂と。 何か颯爽とした印象があった反面、いくらか、薄汚たない、無頼な感じも、後に残った。僕がはじめて見た文士が高見さんだったのは全く偶然のことだったが、しかし、それ以後どの作家の姿をみても﹁これが文士か﹂と思ったことは、二度となかった。 黒田三郎﹁悲しみの虹﹂ 昭和40年10月 ちょうど十年前の八月はじめ、私は高見順と二人で大阪へ行った。高校生のための夏期講座というのが大阪朝日新聞社で開かれ、彼と私は講師として招かれたのである。壇に登った彼は﹁日本の辞書は、愛︵アイ︶からはじまり、女︵ヲンナ︶に終る﹂と述べて講演の枕とした。大いにユーモアを播いたつもりで、彼みずからはニヤリと笑ったが、数百人の高校生は一こうに笑わない。そのはずである。現在の日本の辞書では、愛︵アイ︶からはじまりはするが、女はオンナであってヲンナではなく、したがって末尾に置かれた字ではない。 その夜、二人で道頓堀を歩いているとき﹁愛にはじまり、腕力︵ワンリョク︶に終るんだねえ﹂と、彼は感慨深げにつぶやいた。ヲンナがオンナになり、﹁秋の日のヴィオロンのためいき﹂がビオロンとなる戦後のカナ使いを、全くやりきれないと考え、なにか腕力めいた圧力が日本の国語にのしかかっている、と彼は感じたのであろう。高見順は小説作家というよりは詩人であった。 末松満﹁高見順と東大新聞のこと﹂ 昭和40年9月 一高に入って最初の文甲一ノ一という四十人のクラスの中に彼も私もいた。その一年間での彼の鮮明な印象は教室攪拌役としてのそれである。そのほうになると実は私自身もあまり人のことはいえない弱昧もあるが、彼のはとにかく水ぎわだっていた。一高の一年生というのは今の駒場の一年生に恐らくいくつも輪をかけて、何もかも楽しくてたまらないヤンチャ坊主の集団である。教室などでもなかなかおとなしくばかりはしていない。特に若い先生の時間をえらんでさわぐという悪癖あるいは悦楽に耽った。︵中略︶ 先生が黒板にドンドン式を書いてゆかれて、たちまち黒板に空所がなくなると、先生はそれを消してまた新しいのを書こうとされる。﹁まだ消さないで下さあい﹂と奇声が入って、これで人のよい先生は進行を二、三分停止されるというわけである。一度などは相談の結果黒板ふきをかくしてしまったこともある。黒板ふきはどこだと先生が躍起になられる、途端にワーッとときの声である。それも度重なると先生のほうも心得たもので、黒板ふきがないからこの上に書きますとばかり、式の書いてある上にまた次の式を書き出される。それでは筆記ができないとまじめな数人が文句を言い出す。高見が本領を発揮するのはこういう時で、ツカツカと自席から出てゆくと﹁黒板ふきはどこだ、どこだ﹂と真剣な顔でそこらをさがしまわる。﹁小使ーい、黒板ふきを持ってこーい﹂と居もしない相手にどなったりもする。教室中大笑い、先生もあっけにとられて見ておられる。あげくのはてに﹁あ、こんな所にあった﹂とか言いながら、自分のかくしておいたところから持って来るという寸法である。 朱牟田夏雄﹁高見順の思い出﹂ 昭和41年1月 ﹁故旧忘れ得べき﹂が、芥川賞候補になると、作家に専念するために、君はすぐにコロンビア・レコードをやめた。その日から君は、髪をのばしはじめ、背広を和服の着流しに改めた。以後、太平洋戦争がはじまって、君が報道班員の服を着るまで、私は君の背広姿を見てゐない。君は昨日までのサラリーマン姿から、とたんに作家らしい姿に変つた。これも外部に対して、そとから作家と見られたいためばかりではなく︵それも、無論、あつたにはちがひないが︶、君自身の内部に、自分が今日からは職業的作家であることを、自覚させるための外面の変身だつたにちがいない。 ﹁人民文庫﹂の勉強会で、君と私とは、そのほかの同人たちと一しよに淀橋署に検挙され、一夜を留置場ですごしたが、そのことを、戦後、君は、ほかの連中のやうに、それが旧支配階級の思想的弾圧のあらはれ︵事実は、そうであつたかも知れないが︶であつたやうにものものしく、誇張して、その履歴を飾つてゐない。君がまづい演技者ではなかつたことを、そのことでも見ることができる。敗戦直後の思想的に解放されたかのやうに見えた一時期のなかでは、多くのひとが、そして、こんなひとがと意外に思えるようなひとが、戦時中いかに自分が警察や、軍部に迫害されたかを、とくとくとのべたてるなかで、君はそれをしていない。そのことは、君がすぐれた演技者であつたことのまちがいのなさを証明している。 田村泰次郎﹁完璧な近代作家﹂ 昭和40年10月 アナキズム陣営から離れて以後、わたしは何か一つ文学団体をつくろうと考えていたので、雑誌﹁アクション﹂以来知り会いだった三好十郎と語らい、左翼芸術同盟という文学団体を創立した。そしてこの創立総会が神田青雲堂でもたれたのがその年の二月であるが、東京帝大生の西本喬、明石鉄也、新田潤らとともに、高見順もこの同盟に参加したのである。 このとき同盟員となった高見順と新田潤について一つのエピソードが残っている。まだ二人とも学生だったので、本名を出すのがまずかったのか、同盟の事務所になっていたわたしの家へくる途中、どういうペン・ネームがよかろうかと相談し合ったらしい。そしておたがいにいろいろと頭をひねった揚句、高間芳雄が﹁高見順﹂としたのに調子を会わせるかのごとく、半田祐一は﹁新田潤﹂とし、二人で仲よく﹁ジュン﹂を分けあったという話である。人間が仮名を使う場合、完全に自分のと無縁の名前を使うよりは、故郷のどっかの村の名前をとるとか、あるいは恋人の姓の一部をもじるという場合の方が多いといわれているが、ここでも﹁順﹂と﹁潤﹂は別として、頭の姓の方は﹁高間﹂が﹁高見﹂となっており、﹁半田﹂が﹁新田﹂となっている点から考えると、非常に変な話だが、もし二人が何か犯罪をおかし、警察をたぶらかすためにこういう名前を使ったとすれば、忽ちそのシッポを掴まれてしまうほど、やはり正直だったわけである。 壺井繁治﹁回想の高見順﹂ 昭和45年8月 二、三日後に、高見さんから電話がかかってきた。 ﹁あしたパリをたちますが、どうしても原稿が書けなくて……パリでは、何もできませんね、僕は……﹂ そのお声が、ご病気ではないかと思うほど弱々しかった。 高見さんの旅は、フランス人と直接の交渉を持ったり、仕事をしたりする性質のものではなかった。だが滞在が長びくにつれて、パリという街の性格を次第に深く感じとって、初めは漠然としていた圧迫感が、遂には耐えられないほどのものになったのであろう。 ﹁パリは本当に優美な街だけれど、その奥にあるもの、骨組みというか……それはひどく厳しくて、人を寄せつけないものがありますね。高慢で、人を見下しているような……だから表面はこんなに美しいのかしれないが……﹂ 最後にお会いした時、高見さんはこのような意味のことを語られた。“参った”という言葉を使われたのを、十年以上たった今も私は忘れていない。わずか一ヵ月余りの滞在で、ここまでパリの性格をとらえる感覚の持ち主であった。 角田房子﹁パリの高見さん﹂ 昭和46年2月 高間の恋愛の仕方は、友人などに気取られないように、一人でこっそりとやるといったたちではない。むしろさらけ出し過ぎるほどさらけ出し、周りにわいわい騒がせながら派手にやるといったふうである。だから高間のこの二度目の恋も、私たちのいいおかずになった。 お面のような顔をした女の子――この名前も今まるで思い出せない――の方でも、直ぐに高間が好きになった。この女の子は家を飛び出してこんな所に身をかくしていたとかで、間もなくそれが家にわかって、帰ることになった。女の子が帰る前の晩であった。 お別れだといってみんなで飲んでいるうちに、またしても高間はいきなりワーンとあたりかまわない大声で泣き出してしまったのである。 ﹁おれは×ちゃんと別れられない!﹂ すると、お面のような顔をした女の子も高間に取りすがり、同じようにワーンと泣き出した。 ﹁わたしも高間さんと別れたら死んじまう!﹂ 二人ともまったく手離しの泣き方で、今思い出してみても、私は何かなつかしいおかしさがこみ上げて来る。 高間芳雄が高見順となったのは、この前後のことだと思う。 新田潤﹁高見順の高間芳雄時代﹂ 昭和40年10月 先生が﹃激流﹄を書いておられた頃だから、昭和三十八年頃のはずだが、何かの会のあと、新宿で先生を囲んで四、五人で飲んだことがある。先生はわれわれのような若い者と飲む時にも、こまかく気をつかって下さるので、こちらが恐縮してしまうのだが、その時は先生にしては非常に早いピッチで盃をあけられ、つぎつぎに梯子をするという結果になった。四、五人いた仲間はいつの間にか脱落し、最後は先生とわたしと二人だけになり、時間もとっくに一時をすぎてしまったのだが、先生はまるで何かに憑かれたように、たしかまだあのバーは開いているはずだなどと呟きながら、それからそれへとまわりつづける。あまり御馳走になりつづけて気がとがめるので、一軒の店でわたしが勘定を持とうとしたところ、﹁君は酒飲みの礼儀を知らんのか﹂と睨みつけられた。先生のあんなにこわい顔を見たのは、あとにも先にもあの時だけである。しかし、それよりもわたしがおどろいたのは、梯子酒をしてまわる時の先生のスピードの早さである。この場合のスピードとは、酒を飲むテンポの早さではなく、一軒の店から他へ移る時の歩き方だ。あの長身で大股に次の店めざしてどんどん歩くので、小柄なわたしはほとんど走るようにしてあとについて行かねばならず、ずいぶん息が切れたものだった。 原卓也﹁高見先生の思い出﹂ 昭和45年4月 奥さんは、表情一つ変えず、私を手招きした。医師の姿は、もはやなかった。奥さんは、水をふくませた綿のようなもので、高見さんの口元を拭いていた。私にも、拭けという。私は、いわれる通りにした。高見さんの顔は、やせ細ってはいたけれど、苦しみの影はなかった。かすかに無念さが残っていた。 ﹁ほら、ほら﹂ 高見さんのおでこに手をのせて、奥さんが口走った。奥さんは、私の手を引きよせて、高見さんのおでこの上にのせた。 ﹁パパが、まだ暖かい。暖かいでしょう。ほら、生きているみたいでしょう﹂ たしかに、私の手に伝わってくる暖かさは、まだ高見さんの生命を感じさせた。しかし私は、もはや言葉を発することが出来ない。 ﹁がんばった。よくがんばったわね、パパ﹂ 奥さんは、高見さんに話しかけている。奥さんの顔にも、安らぎしかみえなかった。病室には、ほかに誰がいたのか、さっぱりおぼえていない。ただ、死の病床としては、明るかった。 松本真﹁臨終の日﹂ 昭和46年10月
大正13年頃 昭和10年11月 昭和37年8月
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