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石川 一(1886-1912)
明治19年2月20日ー明治45年4月13日 27歳 (啄木居士) 
函館市・立待岬・共同墓地



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 明治45年4月15日、土岐善麿の生家・浅草松清町の等光寺で、与謝野鉄幹のいう「貴公子の如き寛濶をも、いたずらっ兒のやうな茶気をも、品の好い反抗心をも持った」啄木の葬儀が行われた。3月に母が逝き、この13日朝9時30分、小石川久堅町の貧困と哀しみの家で、父一禎、妻節子、友人若山牧水に看取られ、肺結核に斃れた啄木には、何事の光も見えることはなかっただろう。翌年5月には2人の愛児をのこし、妻節子も同じ病によって28歳の若さで逝くこととなるのだから。

 立待岬に至るこの坂道は、函館市共同墓地を分断して岬の空に消えている。眼下に広がる目覚めぬ市街地、穏やかな晩夏の早朝、大森浜の防波堤に小波は時を刻み、鴎が舞う。金田一京助とともに啄木を支えた函館の人・宮崎郁雨によって建てられた、夫妻と愛児、両親の眠る「啄木一族墓」は坂道を上り詰めた場所で眺めている。たった4ヶ月しか滞在しなかったにもかかわらず「死ぬ時は函館に行って死ぬ」と懐かしんだ街を。岬をめざす旅人を。

「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ」