自分のゲーム人生とは一体なんだったのであろうか。
最近,そんなことをふと思うようになった。迫り来る敵を腕に抱えたライフルで撃ち殺し,ときには軍勢を率いて,幾多の敵国を滅ぼす。そんなゲームばかりを遊んできた。
ときにはネットを介し,世界の強敵達としのぎを削り,﹁F○ck﹂だとか﹁Su○k﹂だとかいう罵声を浴びながら,苛烈な勝負の世界に身を置いてきた。
とあるゲームに至っては,﹁天下に敵なし!﹂……そう思える時期さえあった。確かにあった。
―――しかし,齢30を越えようかという頃から,集中力の衰えが隠せなくなった。﹁時間がない﹂を言い訳に,そうした自身の﹁ゲーマーとしての衰え﹂から目を背けずにはいられなかった。自分から﹁ゲーム﹂を取ってしまったら,いったい何が残るだろう。四半世紀を費やした私のゲーマーとしての時間には,いったいなんの意味があったのか? そんなことを考えずにはいられない日々が続いた。
そんな折り,いつのまにか4Gamer編集部内に結成されていた﹁ラブプラス推進委員会﹂の隊長TeTが,﹁TAITAIさんはそんな野蛮なゲームばっかり遊んでるから駄目なんスよ。これからはラブ&ピース! つまりラブプラスの時代ッス!﹂と声を掛けてきた。
彼曰く,そんな荒みきった今の筆者の心にこそ,このゲームは最適なのだという。……え,そうなの?
﹁間違いないッス!﹂
﹁だからぜひ遊んでみるべきッス!﹂
﹁ついでに何か記事も書いてくれッス!﹂
﹁あ,ちなみに必ず本名プレイでよろしくッス!﹂
![画像集#002のサムネイル/常識的に寧々さんなのは間違いないけど,あえて冷静に「ラブプラス」について本気出して考えてみた](/games/094/G009426/20090916021/TN/002.jpg) |
というわけで,今回は,編集部内でも妙な盛り上がりを見せている,﹁ラブプラス﹂を取り上げたい。
ゲームの内容については,先日掲載した記事を参照してほしいが,今回の記事では,﹁発売からネットを賑わせているラブプラスとは,いったいどう捉えられるべき作品なのか﹂を,
1.美少女ゲームの歴史から見たラブプラス
2.コミュニケーションゲームとして見たラブプラス
3.ビジネス/消費モデルから見たラブプラス
という,主に三つの視点から考察してみよう。
巷では﹁凛子可愛い﹂﹁寧々さん可愛い﹂﹁いやいや,やっぱり愛花でしょ﹂といった,やや感情的な︵恋愛ゲームだからそれでいいのだけど︶評価が目立つ本作だが,ここでは,ラブプラスが“ゲームとしてどういう立ち位置”であるのか。それを複数の視点から客観的に分析してみたいと考えた次第だ。
“新機軸コミュケーションゲーム”と謳われる本作。しかし筆者は,ラブプラスというゲームに美少女ゲームの源流,もっと大げさに言えば,コンピュータゲームの古典的な方法論を見たような気がする。
以下,取り留めないの散文調の文章で申し訳ないのだが,どうか最後までお付き合い願えればと思う。
![画像集#003のサムネイル/常識的に寧々さんなのは間違いないけど,あえて冷静に「ラブプラス」について本気出して考えてみた](/games/094/G009426/20090916021/TN/003.jpg) 高嶺愛花︵CV‥早見沙織︶
主人公と同学年で,テニス部のチームメイト。文武両道の優等生で,箱入りのお嬢様。周りから注目される半面,近寄りがたい雰囲気から少し距離を置かれている |
![画像集#004のサムネイル/常識的に寧々さんなのは間違いないけど,あえて冷静に「ラブプラス」について本気出して考えてみた](/games/094/G009426/20090916021/TN/004.jpg) 小早川凛子︵CV‥丹下 桜︶
主人公の下級生で,同じ図書委員。本と音楽が好きで,一人でいるのを好む性格。他人とかかわろうとしないのには,何か理由がありそうだが…… |
![画像集#005のサムネイル/常識的に寧々さんなのは間違いないけど,あえて冷静に「ラブプラス」について本気出して考えてみた](/games/094/G009426/20090916021/TN/005.jpg) 姉ヶ崎寧々(CV:皆口裕子) 主人公の上級生で,バイト先のファミレスでも先輩。容姿・性格ともに大人びているせいか,周りから過剰に頼られてしまうのが悩み |
ラブプラスは本当に“新機軸”なのか?
具体的な考察に入る前にあらためて説明しておくが,ラブプラスは,女の子との恋人関係を体験できるというコミュニケーションゲーム。通常のいわゆる恋愛ゲームが﹁恋人になるまで﹂を描いているのに対して,﹁恋人になったあと﹂に力点が置かれているのが大きな特徴だ。
加えて,現実の季節や時間と連動してゲーム内の環境︵選択できるデートスポットなど︶が変化,イベントなどが発生していくRTC︵リアルタイムクロック︶システム,タッチペンや音声入力を駆使したコミュニケーションシステムなどを搭載。ラブプラスは,既存の﹁美少女ゲーム﹂の文脈に捕らわれない,新しい手法に果敢にチャレンジしている作品である。
本作がどんなゲームであるか。それについての詳しい話はここでは避けたいが,ゲームシステムという観点から端的に言ってしまえば,本作は﹁シーマン﹂︵1999︶や﹁nintendogs﹂︵2004︶などといった,バーチャルコミュニケーションゲームというジャンルに属する作品である。
コミュケーションをする対象が,変な生き物や動物から女の子に変わったと言えば分かりやすいだろうか。プレイヤーは,画面に出てくる女の子達に対して,さまざまなアクションを行い,それに対するリアクションを楽しむというのが基本的なゲームデザインになっている。
より正確に言えば,本作は,上記のようなコミュニケーションゲームの文法と,古くから続く恋愛シミュレーションゲームの文法をうまい具合に掛け合わせた作品……という感じであるが,ともかく何が言いたいかというと,ゲームシステムという点だけを見れば,ラブプラスのそれは以前から存在したものの延長線上にあり,まったく目新しいものというわけではないだろうということだ。
だとすると,ラブプラスは“新機軸のゲーム”ではないのだろうか?
否。ここが本作の面白いところなのだが,ラブプラスという作品は,間違いなく新機軸と言える内容に仕上がっている。その理由はこれから説明したいが,コミュニケーションゲームの枠組みで﹁恋愛﹂を扱っているという一点だけからみても,間違いなく“新機軸”で“エポックメイク”だと言えるのだ。
1.美少女ゲームの歴史から見たラブプラス
近年の美少女ゲームの流れをおさらいしてみる
さて,ラブプラスを評価するにあたっては,何よりもまず近年の美少女ゲームの流れを押さえておかなければならないだろう。本作がゲームシステム的にはシーマンなどの流れをくむと先に述べたが,マーケットという視点で見れば,やはり美少女ゲームという分野に属するのは間違いないからだ。
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美少女ゲーム市場の本格的な立ち上がりは,今更あらためて指摘するまでもなく,ラブプラスを開発したKONAMIの﹁ときめきメモリアル﹂︵1994︶やエルフのアダルトゲーム﹁同級生﹂︵1992︶に端を発しているといわれる。
この時代の恋愛シミュレーションゲームは,その言葉どおり,疑似一人称視点でゲーム中のキャラクター達との恋愛に至るまでの体験を楽しむというもので,当時のゲーム市場と,その後に拡大していくオタク産業に大きな影響を与えた作品群として知られる。
それこそ,﹁サクラ大戦﹂︵1996︶といったメジャーな大作タイトルも,こうしたギャルゲー的要素を多分に受け継いだ作品の一つだったといえよう。
この“恋愛シミュレーションゲーム”の文脈,すなわちときめきメモリアルや同級生の文脈は,その後しばらくの恋愛ゲームのお手本となった。要するに,意中の女の子の好みや行動様式を把握して﹁攻略﹂していくという,とても“ゲーム的なアプローチ”が,当時の美少女ゲームの流儀だったのだ。
しかし,1996年に発売されたアダルトゲーム﹁雫﹂︵しずく︶の登場を境にして,その状況に変化が現れる。近年の日本のサブカルチャーを分析した﹁動物化するポストモダン﹂の著者である批評家の東 浩紀氏の言葉を借りれば,
このことは、﹁雫﹂の登場が、本来はコミュニケーション志向メディアだった美少女ゲームを、コンテンツ志向メディアとして消費されるように、消費の規則そのものを変えてしまったことを意味している︵﹁ゲーム的リアリズムの誕生〜動物化するポストモダン2﹂講談社現代新書,2007年,p203より引用︶。
とのことで,つまりは雫を一つの契機として,いわゆる美少女ゲームは,“ゲームとして本来あるべき特性”を徐々に失っていき,“物語メディア”としての性質を強めていったのだという。
まぁ簡単に言ってしまえば,いわゆるノベル系のゲームが幅を効かせ,またそれが進化していった結果,美少女ゲームという分野に限っては,﹁これってゲームじゃなくね?﹂という方向性に傾いてしまったという話だ。
さらに東氏は,著書のなかで,近年の︵人気を博した︶美少女ゲームには,シナリオ的な分岐さえほとんどなく,選択肢やマルチエンディングなどといった,辛うじて﹁ゲームらしさ﹂を保っていたタガさえ外れていると指摘している。東氏曰く,﹁近年話題になった﹃ひぐらしの鳴く頃に﹄などには、もはや選択肢すら存在しない﹂というわけだ。
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さて,美少女ゲームというジャンルがそのような“物語メディア”としての進化に邁進したがゆえに,ゲームシステム的な進化には重点が置かれず,キャラクターや世界感といった部分の進化/先鋭化が進んでいった。
厳しい言い方をすれば,美少女ゲームというものは,ゲームとしてはここ何年も進化して来なかったとさえ言えるかもしれない︵一方で,﹁アイドルマスター﹂のような,3DCGを駆使してインタラクション性を高めた作品も存在しているが,この点についてはまた別の機会に触れたい︶。
どうしてそういう方向に傾いたのか。それについては,オタク市場の動向を含めた長い話になるので今回は省くが,まぁゲーム史という視点で美少女ゲームを見てみると,そういう流れがあるということだ。
こういう話をすると,あらためて﹁ゲームって何?﹂という話になってしまうけれど,ゲームというメディアの特性の一つをあげるならば,小説や映画などといった単一の物語を一方的に伝えるメディアに対し,プレイヤーが介入できる余地,すなわちインタラクティブ性を︵本来は︶備えている点が挙げられる。
上記でも引用させてもらった﹁ゲーム的リアリズムの誕生﹂で言われるところの“コミュニケーション志向メディア”であることが,ゲーム︵もっと広義に言うならば,コンピュータ処理を使ったメディア︶の大きな特性であるわけだ。
これらの美少女ゲームの歴史,ゲームの定義を踏まえたうえで,ラブプラスという作品はどう位置づけされるゲームなのだろうか。端的に言えば,上記のような現在の美少女ゲームのありようにアンチテーゼを投げかける作品であることは疑いない。
ラブプラスが内包するときメモ的な文脈もそうだが,ゲームの特徴であったコミュニケーション性,少し古い言葉で言えば,インタラクティブ性を徹底的に重視した設計思想は,ある意味において古典的で,美少女ゲームが“ゲームとしてあるため”の原点回帰を企図した作品とさえ言えるからだ。
ラブプラスという作品が,歴史に残る作品となり得るかどうかは,現時点では正直まだ分からない。しかし,上記で説明したような美少女ゲームの歴史/あり方を再び根底から変えてしまう可能性を持つという点で,ラブプラスは,エポックメイク︵になり得る︶と言って差し支えのないタイトルなのである。
2.コミュニケーションゲームとして見たラブプラス
ラブプラスの持つゲームデザイン上の革新性
美少女ゲームの歴史から見た場合の本作の立ち位置は分かった。それでは,今度はラブプラスという作品をシステム面からひもといてみよう。
繰り返しになるが,本作は,いわゆるコミュニケーションゲームと呼ばれるジャンルに属する作品である。ゲームシステム的には,既存の作品が作り上げた仕組みからは大きく逸脱していないことも,先に説明したとおりだ。しかし,これもまた繰り返しになるが,
それでもなおラブプラスは新機軸のゲームだと言えるのである。
それはなぜか? を考える際のキーワードは“不自然さ”である。というのも,シーマン然りnintendogs然り,あるいは﹁どこでもいっしょ﹂︵1999︶などもそうであったけれど,この手のコミュニケーションゲームのゲームデザインというのは,“不自然さ”との戦いでもあったのである。
至極当たり前の話だが,コミュニケーションゲームは,コミュケーションそのものが楽しくなければ成立しない。プレイヤーの言葉やアクションに対して,ゲーム上のキャラクターが意味不明の,あるいは納得がいかない反応をしたら,それは面白いゲームになり得るだろうか?
限られた処理能力とデータ容量の中で,いかにプレイヤーに不自然さを感じさせずに楽しませられるか。従来のコミュニケーションゲームは,その一点に苦心してきたわけだ。
そしてぶっちゃけてしまうと,プレイヤーとの高度のやり取りを“技術のみ”で自然な形で行うのは,現在︵もちろん当時も︶の技術力では不可能であったりする。人工知能︵※注︶の研究はそこまで進んでいないし,ましてそれは娯楽として応用できるレベルではないからだ。
※注‥コミュニケーションゲームで使われているアプローチは,﹁人工知能﹂というよりはいわゆる﹁人工無脳﹂的なアプローチが主流だ。人工無脳とは,入力されたテキスト/音声を内部のデータベースとマッチングさせて,最もそれらしい応答を返しているだけの仕組みのこと。実際にはラブプラスもこのモデルであると思われる。
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ではどうしたかというと,これも当たり前といえば当たり前なのだが,ゲームデザイナー達はゲームデザインにその解決を求めた。不自然な反応をしても面白い“形”,それが許容される“設定”を考えて,ゲーム全体をまとめ上げたのだ。
例えば,シーマンは当時の音声技術の未成熟さをプレイヤーに悟らせないために,﹁気難しい﹂という性格付け︵気分次第で反応するような雰囲気を持たせてある︶がなされていたし,どこでもいっしょに登場する井上トロも,その語彙の乏しさを隠すために,おとぼけキャラとして愛嬌を振りまいた。nintendogsの犬についても,言わずもがなだろう。
可愛いトロが﹁分からないニャ﹂と言えば,プレイヤーは﹁まぁそうか﹂と思うし,子犬がとんちんかんなリアクションをしても,プレイヤーは﹁子犬だから仕方ない﹂と感じる。これはシンプルだけど,非常に巧妙なやり方だ。
ともあれ,技術的/容量的な制約を,ゲームの設定やプレイヤー側の接し方によって悟らせないようにするデザイン︵まさにゲームデザイン!︶が,従来のコミュニケーションゲームの流儀であり,方法論だったわけだ。
しかしそれが恋愛ゲームとなると,かなり事情が異なる。なぜなら恋愛とは,人間がある意味最もセンシティブになるテーマだからである。子犬なら許される意味不明のリアクションも,人間……それも恋人ともなれば,たちまち許されないものとしてプレイヤーに受け取られてしまう。恋愛というのは,誤魔化しがとても効きづらいテーマなのだ。
恋愛ゲームであれば,愛の言葉には愛の言葉で返してほしいわけで,そうじゃないとプレイヤーは没入感を得られない。﹁愛している﹂と言って,もし晩ご飯の話が返って来たら……100年の恋も冷めるというものだろう︵現実にはそういうケースもあるだろうが,ゲームでそんな思いをしたい人はいないだろう︶。
そういう観点で見ると,ラブプラスは,そうしたコミュニケーションゲームの聖域︵もっとも扱いづらいという意味で︶に果敢︵むしろ暴挙とさえ言えたかも︶に踏み込んでおり,またそれをそれなりに上手くまとめ上げたという点で,非常に希有な作品なのである。
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![画像集#035のサムネイル/常識的に寧々さんなのは間違いないけど,あえて冷静に「ラブプラス」について本気出して考えてみた](/games/094/G009426/20090916021/TN/035.jpg) |
3.ビジネス/消費モデルから見たラブプラス
ラブプラスは美少女ゲームのあり方を変える作品か?
上記の説明では,ラブプラスというゲームは,従来から続く美少女ゲームとコミュニケーションゲーム,その双方の流れを汲んだ作品でありながらも,それぞれの流儀を打ち破る,かなり異端的な作品であることがお分かりかと思う。また,だからこそ,本作は“新機軸”の名に恥じない希有な作品だと言い切れるわけだ。
しかしながら,ラブプラスのさらに凄いところは,本作の新規性がそれだけに留まらないところかもしれない。それこそゲームという枠を越えた視点,近年のオタク市場の動向,いわゆるオタクの消費行動という切り口から見てみても,本作は,とても興味深い作品である。
なぜならラブプラスは,キャラクターの個性や世界感といったものを売り物にする,従来型のオタクビジネス︵コンテンツビジネス︶の方向性からは,やや外れた作品のように思えるからだ。
近年のオタクビジネス,いわゆるアニメや美少女ゲーム,ライトノベルなどといった分野が,とりわけ特殊な世界感や物語,キャラクター性といった部分に着目し,また近頃のオタク層が,そうしたキャラクターとそれを取り巻く物語性を消費の対象にしていた……というのは,よく指摘されることであると思う。
話を美少女ゲームに限ってみても,従来のやり方というのは,そうしたキャラクターや物語を消費するという行動モデルをベースに,ある程度マス︵美少女ゲーム自体はニッチではあるが︶に向けた﹁定形化﹂と,それをパッケージングするという売り方が主力であった。例えば,
文武両道清純派
メガネッ娘
無口/クール
スポーツ少女
ツンデレの不良/お嬢様
妹/下級生
色っぽい上級生
などというような,個性豊かなキャラクターがバランス良く配置されているゲームをよく見かけたことだろう。
これは,さまざまなプレイヤーの好みに対応するという意味で有効だったし,ゲームのボリュームを底上げするという意味でもとても便利なやり方だった。だからこそ,ときめきメモリアル以降の王道的なスタイルになり得たわけだ。
しかしここ数年,インターネット環境の急速な発展などにも相まって,ユーザーの好みが細分化/先鋭化してきていると言われる。これは何もゲームに限った話ではないと思うが,そうした環境のなかで,“新しいキャラクターのあり方”が見え始めているのも確かだ。
例えば,ニコニコ動画で大ブレイクした﹁初音ミク﹂などは,公式の設定がほとんど存在しないという“無個性キャラクター”の代表例だ。デザインや年齢,性別などといった“大枠の設定”は存在するものの,そのほかの細かい性格付けや設定は,すべてユーザー側に委ねてしまおうというやりかたである。
初音ミクは,公式の設定が白紙だからこそ,ユーザーの側が自由に﹁自分の初音ミク像﹂を構築,表現することができた,それがヒットの要因なのではないか? と言われているのだ︵これは,開発元のクリプトン自身もそういう認識であると発表している︶。
ラブプラスを見ていると,本作は,こうした初音ミクとの類似点が多分に含まれている作品のように思える。もちろん,ラブプラスではキャラクターに固有の個性はあるが,それはあくまで﹁大枠﹂のものであり,細かい方向性をプレイヤー側に委ねてしまっている点は,“無個性キャラクター”に近いものではないだろうか? というのも,ネット上で溢れている﹁凛子可愛い!﹂という発言にしても,そこにあるのは共通の凛子像ではなく,あくまでも﹁それぞれにとっての凛子﹂であるに違いないからだ。
マーケティング用語では,﹁マス・マーケティングからOne to Oneマーケティングへ﹂なんて表現をされたりもするのだが,ラブプラスは,そうした時代の変化を敏感に捉えた作品の一つだと言えるのかもしれない。
荒削りだが,未知の可能性に溢れているラブプラス
ともあれ,まだまだ興味深い切り口がたくさんあるところだが,今回の考察はここまで。結論らしい結論が無くて申し訳ないのだが,少なくとも本作が,さまざまな示唆に富んだ“語るに足る作品”であることは伝えられたのではないかと思う。
![画像集#030のサムネイル/常識的に寧々さんなのは間違いないけど,あえて冷静に「ラブプラス」について本気出して考えてみた](/games/094/G009426/20090916021/TN/030.jpg) |
ただ,最後に軽く付け加えるならば,本作は,ビジネスという観点から見ても,非常に大きな可能性を感じるタイトルである。簡単に言うと,ダウンロードコンテンツなどといった,オンラインゲーム的なビジネスモデルとの相性が結構よさそうという話だ。
別に服が買えるとか,そんな話ではない……というか,これも話し出すと長くなるのだが,例えば,一週間ごとに時事ネタや季節ネタといった会話データの一部をダウンロードして逐次更新できる仕組みなどは,大きな可能性がある仕組みになるかもしれない。それこそ愛花や寧々さんと,﹁オリンピックは惜しかったよね﹂とか﹁あの映画を見に行きたい﹂みたいな話が出来たなら……,月数百円程度とかなら払っちゃうんじゃね? みたいな話である。
とはいえ,この手のサービスは,下手な開発よりも手間が掛かるものでもあるので,いろいろと難しいところもあるのだが,そうしたネットを利用したコンテンツの陳腐化対策,あるいは“点のパッケージビジネスモデル”から“線のサービス的ビジネスモデル”へ移り変わる可能性などなど,ラブプラスは,ビジネス的な今後の伸びしろにも期待できる作品なのではないか,と思えるのである。
それと,本作をプレイした感想を率直に述べておくと,ゲームとしては,正直まだまだ荒削りな部分が少なくない作品だと感じた。しかし,その荒削りさは“まだ見ぬ伸びしろ”に対して感じるものであり,現時点でラブプラスという作品を批判するものではないと強調しておきたい。﹁荒いながらも,プリミティブに面白い何か﹂を持っている作品という意味で,初代﹁モンスターハンター﹂をプレイした時の感覚にも似ているとすら思えた。
いずれにしても,ラブプラスが打ち出した方向性,ゲーム性の真価を本当の意味で評価するには,まだ時期尚早だろう。だからこそ,より洗練された続編にも期待したい。そして“終わらない日々の続き”が提示された暁には,あらためてラブプラスという作品の評価をしてみたいと思う。読者の皆さんにおいては,ぜひ自分自身でプレイしてみて,ラブプラスというゲームを評価してほしい。
ちなみに。私は凛子よりも寧々さんだろって思います。常識的に考えて。