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校正に手が出しにくい理由の一つとして、間違いを拾いきれる自信がない、ということがあげられる。そうでなくとも、文字を間違いを拾うには訓練が必要と思われているようでもある。そんな懸念をなくす、または減らす為に、一つ機械を使った校正の方法を紹介したい。
スキャナーとOCRソフトを紹介した際にコメントしたが、手入力とOCR入力には以下のような特徴がある。
OCR
利点としては
・誤認識はあるけれど、間違いが一定なので、一括変換で修正可能︵同一底本、同一シリーズをスキャン、OCRしておいて一括変換で他のファイルも修正してゆくとさらに楽になる︶
・てにをは、の間違い、漢字の送り仮名の間違い、漢字/仮名の開きの間違いがかなり少ない
・とにかく早い︵スキャン、OCR後、手直しするだけなら20-30Kのファイルが一時間程度で作成できる︶
欠点としては
・OCRかけっぱなしだと、とにかく文字の間違いが多い
・見た目が似ている漢字を間違える‥これは、間違えやすい漢字のリストを参照すれば改善できるかな?
手入力
利点としては
・機材いらず
・とりあえずどんな底本でも可能
・読む楽しみがある?
欠点としては
・てにをは、漢字/仮名の開きのレベルで間違う‥入力後に詳細な突き合わせ読みが必要
・間違いが一定しないので一括変換でも間違いを拾いきれない
・時間がかかる
この二種の作製法の双方の利点を生かせるやり方を以下に紹介する。
題材は、長谷川時雨﹁旧聞日本橋 02町の構成﹂。私が手入力で入力したもの。比較するファイルは、電子文藝館から貰って来る。ここのファイルは間違いの種類からOCR入力と思われる。底本は、挿入されて図版の説明から、同じ岩波文庫だと思われる。ルビの半角括弧を︽︾に直したものを使う。相違点チェッカー︵http://www.hyuki.com/aozora/diff.cgi︶でこの二つのファイルを比較してみる。矢印の前が青空文庫公開ファイルで、後が電子文藝館のファイル。少し長くなるが、出力結果は以下の通り。
ーーーーーーーーー
凡例
訂正‥ ▲誤記→訂正▼
削除‥ ▲余分→▼
挿入‥ ▲→挿入▼
一応はじめに町の構成を説いておく。
日本橋通りの本町︽ほんちょう︾の角からと、石町︽こくちょう︾から曲るのと、二本の大通りが浅草橋へむかって通っている。現今︽いま︾は電車線路のあるもとの石町通りが街︽まち︾の本線になっているが、以前︽もと︾は反対だった。鉄道馬車時代の線路は両方にあって、浅草へむかって行きの線路は、本町、大伝馬︽おおでんま︾町、通旅籠︽とおりはたご︾町、通油︽とおりあぶら︾町、通塩︽とおりしお︾町とつらなった問屋筋の多い街の方にあって、街の位は最上位であった。それがいまいう幹線で、浅草から帰りの線路を持つ街の名は浅草橋の方から数えて、馬喰︽ばくろ︾町、小伝馬︽こでんま︾町、鉄砲町、石町と、新開の大通りで街の品位はずっと低く、徳川時代の伝馬町の大牢の跡も原っぱで残っていた。其処︽そこ︾には、弘法大師▲︽こうぼうだいし︾→▼と円光大師▲︽えんこうだいし︾→▼と日蓮祖師▲︽にちれんそし︾→▼と鬼子母神▲︽きしぼじん︾→▼との四つのお堂があり、憲兵屋敷は牢屋敷裏門をそのまま用いていた。小伝馬町三丁目、通油町と通旅籠町の間をつらぬいてたてに大門︽おおもん︾通がある。
▲ →▼そこで、アンポンタンと親からなづけられていた、あたしというものが生れた日本橋通油町というのは、たった一町だけで、大門通りの角から緑橋の角までの一角、その大通りの両側が背中にした裏町の、片側ずつがその名を名告︽なの︾っていた。私は厳密にいえば、小伝馬町三丁目と、通油町との間の小路の、油町側にぞくした角から一軒目の、一番地で生れたのだ。小路には、よく、瓢箪新道︽ひょうたんじんみち︾とか、おすわ新道とか、三光横町とか、特種な名のついているものだが、私の生れたところは北新道、またはうまや新道とよばれていて、伝馬町大牢御用の馬屋が向側小伝馬町側にあった。この道筋だけが五町通して、本町石町から緑河岸︽みどりがし︾まで両側の大通りと平行していた。
面白くもない場所吟味はやめよう。以下、私の記憶のままで、年月など、幾分前後したりするかも知れないが▲――→──▼
しかし、アンポンタンの生活がはじまったのも、かなり成長してからの眼界も、結局この街の周囲だけにしか過ぎない。で、最も多く出てくる街の基点に大丸︽だいまる︾という名詞がある。これは丁度▲|→▼現今︽いま︾三越呉服店を指さすように、その当時の日本橋文化、繁昌地︽はんじ▲ょ→よ▼うち︾中心点であったからでもあるが、通油町の向う側の角、大門通りを仲にはさんで四ツ辻に、毅然︽きぜん︾と聳︽そび︾えていた大土蔵造りの有名な呉服店だった。ある時、大伝馬町四丁目大丸呉服店所在地の地名が、通旅籠町と改名されたおり大丸に長年勤めていた忠実な権助︽ごんすけ︾が、主家の大事と町札を書直して罪せられたという、大騒動があったというほどその店は、町のシンボルになっていた。
▲→ ▼
問屋町の裏側はしもたやで、というより殆︽ほとん︾ど塀▲︽へい︾→▼と奥蔵︽おくぐら︾のつづき、ところどころ各家の非常口の、小さい出入口がある。女たちがそっと外出︽そとで︾をする時とか、内密︽ないしょ︾の人の訪れるところとなっている。だからとても淋▲︽さび︾→▼しい。私の家は右隣りが糸問屋の近与の奥蔵、左側は通りぬけの露路で、背中は庭の塀の外に井戸があり、露路を背にした大門通り向きの幾軒かの家の、雇人たちのかなり広くとった共同便所があり、それを越して表通りの足袋問屋と裏合せになっていた。左横の大門通り側には四軒の金物問屋▲――→──▼店は細かいが問屋である、この辺は、鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春と、元禄▲︽げんろく︾→▼の昔▲|→▼其角︽きかく︾がよんだ句にもある、金物問屋が角並︽かどなみ︾にある、大門通りのめぬきの場処である▲――→──▼その他に、利久という蕎麦屋︽そばや︾、べっこう屋の二軒が変った商売で、その家の角にほんとに小さな店の、ごく繁昌する、近所で重宝︽ちょうほう︾な荒物屋があった。小さな店にあふれるほど品が積んであった。
煩︽うる︾さくはあるが、もすこし近所の具合を言っておきたい。荒物屋の向っ角▲――→──▼あたしの家の筋向いに横っぱらを見せている、三立社という運送店の店蔵は、元禄四年の地震にも残った蔵だときいていた。左横に翼がついていて木の戸があった。内には縄や筵︽こも︾が入れられてあったが、そのまた向う角が、立派な土蔵づくりの八百屋、後には冬は焼芋屋になり、夏には氷屋になった。その店の焼芋はすばらしく大きかったので、遠くからも買いに来た。他処︽ほか︾では見られないことは、この家、この店土蔵だけの住居で二階が住家︽すみか︾であり、小さな物干場へは窓から潜︽くぐ︾り出していた。芋屋の並びはほとんど金物問屋ばかり、火鉢ばかりの店もあれば金︽かな︾だらいや手水鉢︽ちょうずばち︾が主な店もあり、襖︽ふすま︾の引手︽ひきて︾やその他細かいものの上等品ばかりの店もあり、笹屋という刃物ばかりのとても大きな問屋もあった。銅、鉄物問屋はいうに及ばない。
大門通りも大丸からさきの方は、長谷川町、富沢町と大呉服問屋、太物︽ふともの︾問屋が門並︽かどなみ︾だが、ここらにも西陣の帯地や、褂地︽うちかけじ︾などを扱う大店︽おおだな︾がある。
荒物やの正面向う角が両替屋で、奇麗な暖簾︽のれん︾がかかっていて、黒ぬりの▲※﹇#﹁銀行﹂を表す﹁地図記号﹂の中に丸→︽編輯室注▼、▲屋号を示す記号、22-8﹈→小さい分銅様の繪︾▼こういう看板に金字で両替と書いたのが下げてあった。そこの家はいつも格子がすっかりはまっていて、黒い前掛けをかけた、真中︽まんなか︾から分けた散髪の旦那︽だんな︾と、赤い手柄の細君▲→︽さいくん︾▼がいる奇麗な小さな角店だった。その隣りが酒屋の物置と酒屋の店蔵で、そのさきが煙草︽タバコ︾問屋、煙管︽キセル︾の羅宇︽ラオ︾問屋、つづいて大丸へむかった角店の仏具屋の庭の塀と店蔵だった。
あたしの家の真向こうに▲――→──▼三立社の尻▲︽しり︾→▼にこの辺にはあるまじいほどささやかな、小さな小屋で首を振りながら、終日︽いちにち︾塩せんべを焼いているお婆さんがあった。その隣家︽となり︾はこんもりした植込みのある▲――→──▼泉水などもある庭をもった二階家で、丁度そこの塀を二塀ばかりきりとって神田上水の井戸があるのを、塩せんべ屋のお婆さんが井戸番をしているようなかたちだった。あたしの家の裏の井戸は玉川上水だった。
その二階家は﹁炭勘﹂という名の▲――→──▼炭屋勘兵衛とでもいったのだろう。鼈甲細工屋︽べっこうざいくや︾のになっていたが、黒い三巾︽みすじ︾の垂れ暖簾︽のれん︾に▲※﹇#山のかたちの下に炭、屋号を示す記号、23-4﹈︽→﹁▼いりやまずみ▲→﹂︽編輯室注‥山なりの図様の下に﹁炭﹂字▼︾の白ぬきのれんが、鼈甲屋とは思わせない入口だった。尤︽もっと︾もそこは青柳という会席料理︽おちゃや︾だったのだそうで、炭勘はその後︽うしろ︾から前へ進入したのだ。お茶屋があったからというわけではなかろうが、その隣りに阪東三弥吉という女の踊りの師匠がいた。その側︽そば︾に、私の父の俥︽くるま︾をうけもって、他▲︽ほか︾→▼に曳子︽ひきこ︾を大勢おいていた俥宿▲︽くるまやど︾→▼があった。
なんで細かく此処▲︽ここ︾→▼まで書いたかというに、前にも言ったように、私の家のならびは、窓ひとつもない、塀と土蔵裏と、荷蔵︽にぐら︾ばかりつづいているその向う側であるからで、俥宿までの町並は二間半たらずだが、そこからぐっと倍も広がっている。それが、何故▲︽なぜ︾→▼かというと、三誠社という馬車︽うまぐるま︾を扱う大きな運送店があって、その前身が、伝馬町の大牢の、咎人︽とがにん︾の引廻しの馬舎︽うまや︾だったというのだ。町巾︽まちはば︾が其処▲︽そこ︾→▼だけ広がっているのが妙に嫌な気持ちにさせる。俥宿と馬舎との間の地処にかこいをして草を植え、植木棚をつくり、小さな祠︽ほこら︾を祭って、毎朝表通りの店から散歩にくる老旦那▲︽ろうだんな︾→▼もあった。
アンポンタンが三ツか四ツの時、額︽ひたい︾の上へ三日月形の前髪の毛をおいた。それまでは中剃▲︽なかぞ︾→▼り▲︵→︽▼頭の真ン中へ小さく穴をあけて剃っていること▲︶→︾▼をあけたおかっぱで、ヂヂッ毛とおやっこさんをつけていた▲︵→︽▼ヂヂッ毛は頸▲︽→<▼えり▲︾→>▼のボンノクボに少々ばかり剃▲︽→<▼そり▲︾→>▼残してある愛敬毛▲︽→<▼あいきょう▲け︾→げ>▼、おやっこさんは耳の前のところに剃り残したこれも愛敬毛▲︶→︾▼。そのほかは青く剃りあげていたのへ、小さいお椀▲︽わん︾→▼を伏せて恰好▲︽かっこう︾→▼のよい三日月形を剃り残したのだ。その時向うのせんべやのお婆さんが、剃刃▲→︽かみそり︾▼をあてるのに動かないようにと、おせんべにするふかしたしん粉︽こ︾をもって来てくれて、あたしの祖母が、狆︽ちん︾を拵︽こし︾らえて紅▲︽べに︾→▼で色どってくれた。それに味をしめて、さかゆきをするたんびに、おせんべやの店へとりにゆくと、首振り婆さんは、私の家の門の桜の木の上へ出そめた三日月を指さして、
﹁のん、のん、此処▲︽ここ︾→▼にも、あすこにも。﹂
と、あたしの頭を指で押して、空をも指さすのだった。
お婆さんの息子は車力︽しゃりき︾だった。あたしは鹿︽か︾の子▲︽こ︾→▼絞▲︽しぼ︾→▼りの紐︽ひも︾を首の後▲︽うしろ︾→▼でチョキンと結んで、緋金巾︽ひかなきん︾の腹がけ▲︵→︽▼金巾は珍らしかったものと見える▲︶→︾▼、祖母︽おばあ︾さんのお古▲︽ふる︾→▼の、絽▲︽ろ︾→▼の小紋の、袖の紋のところを背にしたちゃんちゃんこを着せられて、てもなくでく人形のおつくりである。
▲ ――→──▼ある時▲︵→︽▼妹でも出来た時かも知れない▲︶→︾▼、理髪店︽かみゆいどこ︾ではじめて剃ってもらった時、私ははじめじぶくったが、あたしを抱いていた女中が大層機嫌がよかったので、しまいにはあたしまで悦▲︽よろこ︾→▼んで膝の上で跳▲︽は︾→▼ねた。職人はたぶん女中の頸︽えり︾をおまけに剃ってやっていたのであろうが、あたしがあんまり跳︽はね︾るので、女中にもなんしょで、ひょいと、あたしのお奴︽やっこ︾を片っぽとってしまった。あたしはなおさらよろこんだ。機嫌のよい女中におぶさって帰ってくると、すぐおせんべやの首振りお婆さんに見せにいった。ただ笑って、よ▲こ→▼ろ▲→こ▼んで指で毛のないあとを押し示した。
﹁あらまあ、お供︽とも︾さんが片っぽおちて▲――→──▼﹂
お婆さんは歯のない口を一ぱいにあいて笑った。だが、この人は直︽じ︾きなくなって、おせんべやは荷車の置場に、屋根と柱だけが残されるようになった。竹であんだ干籠︽ほしかご︾に、丸いおせんべの原形が干してあったのも、その傍︽かたわら︾にあたしの着物を張った張板︽はりいた︾がたてかけてあったのも、その廻りを飛んでいた黄色の蝶と、飛び去ってしまった。
角の芋屋がまだ八百屋のころ、お其︽その︾という小娘が店番をしていた。ちいさい時、神田から出た火事で此処▲︽ここ︾→▼らは一嘗︽ひとなめ︾になって、みんな本所︽ほんじょ︾へ逃げた時、お其は大溝︽おおどぶ︾におちて泣き叫んでいたのをあたしの父が助けあげて、抱▲︽かか︾→▼えて逃げたので助かったといって、私の赤ン坊の時分からよく合手︽あいて︾をして遊ばせてくれた。だが、先方︽さき︾も正直な小娘である。店番をしている時、無銭︽ただ︾でとっていったら泥棒とどなれと教えこまれていた。あたしはまた、お金というものがある事を知らず、品物は買うものだということをちっとも知らなかった。他人︽ひと︾のものも、自分のものも、所有ということを知らず、いやならばとらず、好きならばとって▲も→▼よいと、弁︽わきま︾えなく考えていたと見え、ばかに大胆で、げじけし▲﹇#﹁げじけし﹂に傍点﹈→▼をおさえて見ていたが、急に口へもってゆこうとして厳しく叱られたりしたというが、その時も、お其︽その︾の店の赤いものに目がついて、しゃがんで二つ三つとった。お其はだまって見ていたが▲――→──▼たんばほおずきが幾個︽いくつ︾破られて捨られてもだまって見ていたが、そのまま帰りかけると、大きな声で、
▲→ ▼﹁盗棒︽どろぼう︾、盗棒、盗棒▲――→──▼﹂
と喚︽わめ︾きだした。もとより、あたしもお其にかせいして、盗棒とどなった。
▲ →▼諸方︽ほうぼう︾から人が出て来たが盗棒はいなかった。するとお其はあたしに指さして、
﹁盗棒!﹂
と言った。幼心︽おさなごころ︾にはずかしさと、ほこらしさで、あたしもはにかみながら、
﹁盗棒!﹂
とおうむがえしに言った。みんなが笑った。あたしの祖母がお▲褄→棲▼︽つま︾をとって来て、巾着︽きんちゃく︾からお金を払い、お其にもやった。八百屋の親たちはしきりにおじぎをした。
おせんべやの首振婆さんが私を抱えて帰った。お其も遊びについて来た。
間もなくべったら市︽いち︾の日が来て、昼間から赤い巾︽きれ︾をかけた小さな屋台店がならんだ。こんどはお其があたしの後について、肩上げをつまんで離れずにいた。祖母や女中が目を離すと、コチョコチョと人ごみにまぎれ込んで、屋台のものをつまむので、そのたびにお其はハラハラしたのだろう大きな声で祖母をよんだ。祖母はニコニコして後からお鳥目︽ちょもく︾を払って歩いて来た。
お其のうちは八百屋をやめて焼芋屋になった。店の大半、表へまで芋俵が積まれ、親父︽おやじ︾さんは三つ並べた四斗樽のあきで、ゴロゴロゴロゴロ、泥水の中の薩摩芋▲︽さつまいも︾→▼を棒で掻廻︽かきま︾わした。大きな、素張▲︽すば︾→▼らしく美事な焼芋で、質のよい品を売ったので大▲|→▼繁昌▲︽はんじょう︾→▼だった。三ツの大釜▲︽おお→▼が▲ま︾が→▼間に合わないといった。近所が大店ばかりのところへ、遠くからまで買いにくるので、いつも人だかりがしていた。一軒のお茶受けにも、店の権助︽ごんすけ︾さんが、籠▲︽かご︾→▼をもって来たり、大岡持ちをもってくるので、一釜位では一人の注文にも間にあわなかった。忙しい忙しいとお其はいって、鼻の横を黒くしていた。で私の遊び合手▲︽あいて︾→▼は、私︽あたし︾をも釜前▲︽かままえ︾→▼につれていった。冬などは、藁▲︽わら︾→▼の上にすわって、遠火︽とおび︾に暖められていると非常に御機嫌になって、芋屋の子になってしまいたかった。だが、困ったことに家の構造が、角の土蔵なので、煙のはけばに弱らされていた。住居にしている二階の上︽あが︾り口▲︽ぐち︾→▼へまっすぐに煙筒︽えんとつ︾をつけて、窓から外へ出すようにしてあった。だから、二階の梯子︽はしご︾はとりはらわれて、あたしたちの暖︽あた︾っている頭の上を、猿梯子︽さるばしご︾をかけて登ってゆく、物干場は、一度窓から出て、他家︽よそ︾の屋根に乗り、そして自分の家の大屋根にゆく仕かけだった。
﹁売れすぎて損をするって。﹂
とお其は告げて、あたしの父を笑わせていた。父の晩酌のお膳︽ぜん︾の前に座るのを、あたしより前︽さき︾にもった特権だとこの小娘は信じて疑わなかった。
お其が私を紹介した買物のはじめは、角の荒物店だった。足許︽あしもと︾の箒︽ほうき︾だの、頭の上からさがって来ているものを掻▲︽か︾→▼きわけて、一間たらずの土間の隅につれてゆくと、並んでいる箱の硝子蓋︽ガラスぶた︾をとって中の駄菓子をとれと教えた。当︽あて︾ものをさせて、水絵▲︽みずえ︾――→──▼濡▲︽ぬ︾→▼らしてはると、西洋画風の蝶や花が、刺青︽ほりもの︾のように腕や手の甲につくのを買わせた。で、彼女は一生懸命にお銭︽ぜぜ︾の必用▲︽ひつよう︾→▼と、物品購買のことを説ききかせて、こういう細長い、まん中に穴のあいているのが天保銭︽てんぽうせん︾で、それに丸いので穴のあいてるのを一つつけると、赤く光った一銭銅貨とおんなじだと、繰︽くり︾かえしていった。でも、あたしにはあんまり必要がなかった。それよりも、お其の紹介で友達になった子たちが、自分の家︽うち︾の裏庭でとった、蝸牛︽まいまいつぶろ︾を焼いてたべさせたりするのを、気味がわるくてもよろこんだ。
この子供仲間は、男の子も女の子もみんな顔色がわるかった。どの子も大きな眼をして痩▲︽や︾→▼せていた。小僧さんかお附きの女中がいるので、それらの眼をしのんで、こっそり集▲︽あつま︾→▼るのを、どんなに楽しみにしていたか知れない。だから裏から裏と歩いた。村田▲――→──▼有名な化粧品問屋▲――→──▼の裏を歩くと、鬢附︽びんつ︾け油を練▲︽ね︾→▼る香︽にお︾いで臭く、そこにいる蝸牛︽まいまいつぶろ︾もくさいと言った。鍛冶七︽かじしち︾▲――→──▼鍛冶もしていた鉄問屋▲――→──▼の裏には、猫婆︽ねこばばあ︾がいるということなど、いつの間にか大人▲︽おとな︾→▼よりよく知ってしまった。
猫婆さんは真暗な吹鞘場︽ふいごば︾に▲――→──▼その家︽うち︾も大かた鍛冶屋ででもあったのであろう。大溝︽おおどぶ︾が邪魔をして通り抜けられない露路奥︽ろじおく︾になっていたので、そんな家のあることも、そんなお婆さんの生︽いき︾ていることも、ほんとに幾人しかしりはしなかった。ただ猫だけが知っていて、宿無し猫が無数に集ってきていた。いつもお婆さんの廻りは猫ばかりなので、猫ぎらいなあたしは、お婆さんの顔の輪格︽りんかく︾もはっきり見知らなかった。
﹁まだ生てるよ、顔だけあったもの。﹂
なぞと、覗▲︽のぞ︾→▼いてきては子供たちはいった。
▲→︵改行︶︹鞴祭︽ふいごまつり︾図・割愛︺ 江戸市中の鍛冶職は、毎年十一月八日、ふいご祭と称し、何れも、屋上より、蜜柑を小供等に投げ与へ、赤飯を焚き、職を休み、親族等を招き、大に祝ふなり。小伝馬上町の如きは、此職業多かりし故、近所もなかなか賑ふなり。︵改行︶ ︵改行︶ ▼土のお団子︽だんご︾などをこしらえている時に、坊ちゃんの一人が目附▲︽めっ︾→▼けだされて、連れかえられようものなら、その子は家︽うち︾へかえるのを牢獄▲︽ろうごく︾→▼にでもおくられるように号泣した。残されるものもみんなさびしかった。なぜなら、帰ればその子におしおきが待っているからである。なぜ表へ出て、あんな子たちとお遊びなさいました▲――→──▼とそれはまた、各自︽めいめい︾の身の上ででもあるからなので▲――→──▼
あたしもよく引き摺▲︽ず︾→▼ってゆかれて、お灸︽きゅう︾を据えられたり蔵の縁▲︽えん︾→▼の下に投︽ほう︾りこまれたりした。そうした窮屈な育てられかたをするのはお店︽たな︾の坊ちゃん嬢ちゃんがたで、自由な町の子も多くあった。それがどんなに羨︽うらや︾ましかったろう。そしてその多くの町の子たちが遊びの指導者でもあったのだが、彼らはよく裏切りもした。あたしの祖母が、あたしの遊びに抜けだしたのを厳探中︽げんたんちゅう︾、その子たちの仲間の一人にお小遣いをくれると、あたしは直▲︽す︾→▼ぐにつかまえられた。逃げでもすると、その子たちは追っかけ追い廻して、意地悪くとらえて祖母に突き出した。何▲︽な︾→▼にがそんなに遊んではいけないのだろう? 遊んでいけないのより、許可︽おゆるし︾をうけず外へ出るから、それがいけない、では許可をうければゆるしたか?▲ →▼なんの、
﹁いけません、おとなしくお家︽うち︾でお遊びなさい。﹂
である。時たま家中の御機嫌のよい時外へ出して遊ばせてもらう。鬼ごっこ、子をとろ子とろ、雛︽ひな︾一丁おくれ、釜鬼︽かまおに︾、ここは何処▲︽どこ︾→▼の細道▲︽ほそみち︾→▼じゃ、かごめかごめ、瓢箪▲︽ひょうたん︾→▼ぼっくりこ▲――→──▼そんなことをして遊ぶ。
子▲︽こ︾→▼を奪︽と︾ろ子▲︽こ︾→▼とろは、親になったものの帯につらなって大勢の子がいる。人とり鬼になったものが、どうにかして末の、尻尾▲︽しっぽ︾→▼の方の子をとろうとするのである。親になったものは、両手をひろげてふせぐ、鬼は、あっちこっちと、両側を狙︽ねら︾って、長い列が右往左往すると、虚を狙って成功する▲――→──▼その時分、人▲|→▼浚︽さら︾いが多くあって、あたしの従兄︽いとこ︾も夕方さらわれていったのを、父が木刀をもって駈︽か︾けていって、神田弁慶橋▲︽かんだべんけいばし︾→▼で取りかえしたという話もあるので、そんな遊びもしたのであろう。夕方になると子供を外に出しておくのを危険とした。そんな事で、外出もやかましくいったのかも知れないが▲――→──▼
釜鬼は、塀や壁を後にして、土に半輪︽はんわ︾を描き、鬼が輪の中に番をしていて、みんな下駄を片っぽずつ奥の方へ並べておく。それをチンチンモガモガをしながら、輪の中へ取りにゆくのである。大挙して突進すると鬼が誰をつかまえようかと狼狽︽あわて︾る、それが附目︽つけめ︾なのである。下駄が一ツ二ツ残ると、それからが駈引︽かけひ︾きで面白く興じるのだ。
▲――→︵改行︶︹子供の喧嘩図・割愛︺ 爰︽ここ︾に掲げる小供の喧嘩は、右の方、小伝馬町・亀井町・小伝馬上町、左の方は通油丁・旅籠町・田所町・新大坂丁の小供等にて、何れも争の原因は二、三の小供等の喧嘩より、自然加勢も出来、其双方より投る小石にて、一時は往来も止る程の事もありし。︵改行︶ ︵改行︶ ──▼瓢箪ぼっくりこ▲――→──▼つながってしゃがんで、両方に体を揺︽ゆす︾って歩みを進めて、あとの後︽あと︾の千次郎と、唱▲︽うた︾→▼いながらよぶと、一番▲|→▼後▲︽うしろ︾→▼の子が、ヘエ▲イ→ィ▼と返事をして出てくる。問答がすむと、その子がこんどは先頭になるのだ。
雛▲︽ひな︾→▼一丁おくれは、ずらりと子供を並べておいて、売手が一人、買手が一人、節をつけて唄い問答する▲――→──▼
▲﹇#ここから2字下げ﹈→ ▼
▲→ ▼ひな一丁おくれ、
▲→ ▼どの雛目つけた。
▲→ ▼この雛目つけた、いくらにまけた。
▲→ ▼三両にまけた、なんで飯︽まんま︾くわす?
▲→ ▼赤のまんまくわしょ。
▲→ ▼魚︽さかな︾をやるか?
▲→ ▼鯛魚︽たいとと︾くわしょ。
▲→ ▼小骨がたあつ、
▲→ ▼噛▲︽か︾→▼んでくわしょ▲……→””▼
▲﹇#ここで字下げ終わり﹈→ ▼
▲︵改行︶→▼ ここは何処▲︽どこ︾→▼の細道じゃも唄▲︽→▼う▲た︾う→▼のだ。二人の鬼が手を組んで門をつくり袖を垂▲︽た︾→▼れている。袖の後︽うしろ︾に一人の子が隠されている。訪ねてくるものが、まず唄って、鬼がこたえる。
▲﹇#ここから2字下げ﹈→ ▼
▲→ ▼ここは何処の細道じゃ▲〳〵→ 細道じゃ▼
▲→ ▼天神様▲︽てんじんさま︾→▼の細道じゃ▲〳〵→ 細道じゃ▼
▲→ ▼ちっと通してくださんせ▲〳〵→ くださんせ▼
▲→ ▼御用のないもな通されぬ▲〳〵→ 通されぬ▼
▲→ ▼天神様へ願かけに▲〳〵→ 願かけに▼
▲→ ▼通りゃんせ、通りゃんせ。行きはよいよい、帰りはこわい▲――→──▼
▲﹇#ここで字下げ終わり﹈→ ▼
▲︵改行︶→▼ 袖があがる、訪ねるものは通ってゆく。こんどは隠された子をつれてくぐりぬけるのに鬼どもはいやというほどなぐろうとする。そうさせまいと走りぬけるのだ。
ーーーーーーーーーー
ルビの有無や▲――→──▼がうるさいが、オリジナルの相違点チェッカーは訂正、削除、挿入が色分けされていて、割と見やすい。注目するところは、
よ▲こ→▼ろ▲→こ▼んで指で
底本を確認すると﹁よろこんで﹂。青空文庫公開のテキストでは、﹁よころんで﹂なのだが、﹁よろこんで﹂に直す必要がある。このような﹁てにをは﹂や、文字の打ち間違いが、結構簡単に見つかる。私の校正履歴作成では、
○よころんで指で毛のないあとを→よろこんで指で毛のないあとを︻よころんで︼
のように履歴を作成し、ファイルを修正している。他にも
○好きならばとってもよいと→好きならばとってよいと︻も、トル︼
が見つかる。
ちなみに、OCR入力かな、と思った個所は
あたしの祖母がお▲褄→棲▼︽つま︾をとって来て
﹁褄→棲﹂はOCRで結構間違う漢字。
もう一つ、長谷川時雨﹁旧聞日本橋 03蕎麦屋の利久﹂も調べてみよう。
○車屋がすぐに引返︽ひっかえ︾してきて→車屋がすぐ引返︽ひっかえ︾してきて︻すぐに︼
○あたしの父の許嫁︽いいなずけ︾となった→あたしの父の許婚︽いいなずけ︾となった︻嫁︼
といった間違いが見つかる。
もっとも、電子文藝館のファイルも、﹁▲褄→棲▼﹂以外にも、
﹁02町の構成﹂
繁昌地︽はんじ▲ょ→よ▼うち︾中心点で
ヘエ▲イ→ィ▼と
﹁03蕎麦屋の利久﹂
▲忰→伜▼
反︽▲そ→ソ▼︾り身な
裲▲褂→掛▼︽かいどり︾で
▲二→ニ▼ツに仕切って
利久はお▲媼︽→▼ばあ▲︾→▼さんが
キュ▲ッ→ツ▼と締めて
二▲ツ→つ▼
と間違いらしきものがみられる。底本が明示していないので、はっきりとはしない。︵﹁▲二→ニ▼ツ﹂はどんな底本でも間違いだとは思うが︶
この方法の利点は、
・じっくりと読まなくても校正できる。︵上記の作業で本文を読む事はしていない。相違点チェッカーで間違いかなと思うところを確認しただけ︶
・すべての間違いを直したかどうか、を容易に確認できる。直したテキストをもう一度相違点チェッカーにかければよい。︵通常の校正で﹁もう一度確認﹂となったら、もう一度全て読まなければいけない︶
といったところか。
もちろん、比較する為のファイルが必要になるが、それもかなりいい加減なOCR出力ファイルで充分であることを次に示す。
懐かしくも私の最初の校正作品である泉鏡花﹁絵本の春﹂を取り上げる。底本をスキャンし、OCRで出力後、改行等の段落、﹁1→――﹂などの簡単な直しだけを行う。スキャンを含めて30分くらいで比較用のファイルは用意出来る。さて、このファイルと公開されているファイルを相違点チェッカーで比較してみよう。校正した時には、3回は突き合わせ読みをしたはずなのだが。
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もとの邸町︽やしきまち︾の、荒果てた土塀が今もそのままになっている。……雪が消えて、まだ間もない、乾いたばかりの――山国で――石のごつごつした狭い小路が、霞みながら一条︽ひとすじ︾煙のように、ぼっと黄昏︽たそが︾れて行︽ゆ︾く。
弥生︽やよい︾の末から、ちっとずつの遅速はあっても、花は一時︽い▲っ→つ▼とき︾に咲くので、その一ならびの塀の内に、桃、紅梅、椿︽つばき︾も桜も、あるいは満開に、あるいは初々しい花に、色香を装っている。石垣の草には、蕗︽ふき︾の▲薹→蔓▼︽とう︾も萌︽も︾えていよう。特に桃の花を真先︽ま▲っ→つ▼さき︾に挙げたのは、むかしこの一廓は桃の組といった組屋敷▲→︽へ り︾▼だった、と聞くからである。その樹の名木も、まだそっちこちに残っていて麗︽うららか︾に咲いたのが……こう目に見えるようで、それがまたいかにも寂しい。
二条ばかりも重▲︽かさな︾→▼って、美しい婦▲︽おんな︾→▼の虐▲︽しいた︾→▼げられた――旧藩の頃にはどこでもあり来▲︽きた︾→▼りだが――伝説があるからで。
通道︽とおりみち︾というでもなし、花はこの近処︽きんじ▲ょ→よ▼︾に名所さえあるから、わざとこんな裏小路を捜︽さぐ︾るものはない。日中︽ひなか︾もほとんど人通りはない。妙齢︽としごろ︾の娘でも見えようものなら、白昼といえども、それは崩れた土塀から影を顕︽あら︾わしたと、人を驚かすであろう。
その癖、妙な事は、いま頃の日の暮方は、その名所の山へ、絡繹︽らくえき▲→ん ▼︾として、花▲→︽り︾▼見、遊山に出掛けるのが、この前通りの、優しい大川の小橋を渡って、ぞろぞろと帰って来る、男は膚脱︽はだぬ︾ぎになって、手をぐたりとのめり、女が媚︽なまめ︾かしい友染︽ゆうぜん︾の▲褄→棲▼端折︽つまばし▲ょ→よ▼り︾で、▲啣→御▼楊枝︽くわえようじ︾をした酔払︽よ▲っ→つ▼ぱらい︾まじりの、浮かれ浮かれた人数が、前後に揃って、この小路をぞろぞろ通るように思われる……まだその上に、小橋を渡る▲跫→遣▼音︽あしおと︾が、左右の土塀へ、そこを▲蹈→踏▼︽ふ︾むように、とろとろと響いて、しかもそれが手に取るように聞こえるのである。
――このお話をすると、いまでも私は、まざまざとその景色が目に浮▲ぶ→む▼。――
ところで、いま言った古小路は、私の家から▲十→+▼町余りも離れていて、縁で視︽なが︾めても、二階▲か→いたぷきみまわたてつ▼ら▲→な鰺▼伸▲上っ→聾▼ても、それに…▲…→.‥▼地方の事だから、板葺▲︽いたぶき︾→▼屋根へ上って▲※﹇#﹁目+句﹂、第4水準2-81-91﹈︽みまわ︾し→鯉▼ても、実は建連▲︽たてつらな︾→▼った賑▲︽にぎやか︾→▼な町家▲︽まちや︾→▼に隔てられて、その方角には、橋はもとよりの事、川の流▲︽ながれ︾→▼も見えないし、小路などは、たとい見えても、松杉の立木一本にもかくれてしまう。……第一見えそうな位置でもないのに――いま言った黄昏︽たそがれ︾になる頃は、いつも、窓にも縁にも一杯の、川向うの山ばかりか、我が家の町も、門︽かど︾も、欄干︽てすり︾も、襖︽ふすま︾も、居る畳も、ああああ我が影も、朦▲朧→瀧▼︽もうろう︾と見えなくな▲→ひとすじしずかそうかい▼って、国中、町中にただ一条▲︽ひとすじ︾→▼、その桃の古小路ばかりが、漫々として波の静▲︽しずか︾→▼な蒼海▲︽そうかい︾→▼に、船脚を曳︽ひ︾いたように見える。見えつつ、面白そうな花見がえりが、ぞろぞろ橋を渡る▲跫→楚▼音が、約束通り、とととと、どど、ごろごろと、且つ乱れてそこへ響く。……幽︽かすか︾に人声▲――→-▼女らしいのも、ほほほ、と聞こえると、緋桃︽ひもも︾がぱッと色に乱れて、夕暮の桜もはらはらと散りかかる。……
直▲接︽じか︾→撰▼に、そぞろにそこへ▲行︽ゆ︾→律▼き、小路へ入ると、寂しがって、気味を悪がって、▲誰︽たれ︾→識▼も通らぬ、更に人影はないのであった。
気勢︽けはい︾はしつつ、……橋を渡る音も、隔︽へだた︾って、聞こえはしない。▲……→▼
桃も桜も、真紅▲︽まっか︾→▼な椿も、濃い霞に包まれた、朧▲︽おぼろ︾→▼も暗いほどの土塀の一処▲︽ひとところ︾→▼に、石垣を▲攀→肇▼上▲︽よじのぼ︾→▼るかと附着︽く▲ッ→ ▼つ︾いて、……つつじ、藤にはまだ早い、――荒庭の中を覗︽のぞ︾いている――▲絣→緋▼︽かすり︾の筒袖を着た、頭の円い小柄な小僧の十余りなのが▲ぽ→ぼ▼つんと見える。
そいつは、……私だ。
夢中で▲ぽ→ぼ▼かんとしているから、もう、とっぷり日が暮れて塀越の花の梢︽こずえ︾に、▲朧→鹿▼月︽お▲ぼ→ぽ▼ろづき︾のやや斜︽ななめ︾なのが、湯上りのように、薄くほんのりとして覗︽のぞ︾くのも、そいつは知らないらしい。
ちょうど吹倒れた雨戸を一枚、拾って立掛けたような破れた木戸が、裂︽きれ︾めだらけに閉︽とざ︾してある。そこを覗いているのだが、枝ごし葉ごしの月が、ぼうとなどった白紙︽しらかみ︾で、木戸の肩に、﹁貸本﹂と、かなで染めた、それがほのかに読まれる――紙が樹の隈︽くま︾を分けた月の影なら、字もただ花と▲莟→苔▼︽つ▲ぼ→ぽ▼み︾を持った、桃の一枝︽ひとえだ︾であろうも知れないのである。
そこへ……小路の奥の、森の覆︽おお︾っ▲た→★▼中から、葉をざわざわと鳴らすばかり、脊の高い、色の真白︽ま▲っ→つ▼しろ︾な、大柄な婦︽おんな︾が、横町の湯の帰途︽▲か→む▼えり︾と見える、……化粧道具と、手拭︽てぬぐい︾を絞ったのを手にして、陽気はこれだし、のぼせもした、……微酔︽ほろよい︾もそのままで、ふらふらと花をみまわしつつ近づいた。
巣から落ちた木菟︽みみずく︾の雛︽ひよ︾ッ子のような小僧に対して、一種の大なる化鳥︽けち▲ょ→よ▼う︾である。大女の、わけて櫛巻︽くしまき︾に無雑作に引束︽ひ▲っ→つ▼たば︾ねた黒髪の房々とした濡色と、色の白さは目覚▲ま→▼しい。
﹁おやおや……新坊。﹂
小僧はやっぱり夢中でいた。
﹁おい、新坊。﹂
と、手拭で頬辺︽ほ▲っ→つ▼ぺた︾を、つるりと撫︽な︾でる。
﹁あッ。﹂
▲→ ▼と、肝を消して、
﹁まあ、小母︽おば︾さん。﹂
ベソを掻︽か︾いて、顔を見て、
﹁御免なさい。御免なさい。父︽おと▲っ→つ▼︾さんに言っては可厭︽いや︾だよ。﹂
と、あわれみを乞いつつ言った。
不気味に凄▲︽すご︾→▼い、魔の小路だというのに、婦▲︽おんな︾→▼が一人で、湯帰りの捷径▲︽ちかみち︾→▼を怪▲︽あやし︾→▼んでは不可▲︽→▼い▲けな︾い→▼。……実はこの小母さんだから通ったのである。
つい、︵乙︶の字なりに畝︽うね︾った小路の、大川へ出口の小さな二階家に、独身で住︽すま︾って、門︽かど︾に周易の看板を出している、小母さんが既に魔に近い。婦︽おんな︾でト▲筮→笠▼︽うらない︾をするのが怪しいのではない。小僧は、もの心ついた四つ五つ時分から、親たちに聞いて知っている。大女の小母さんは、娘の時に一度死んで、通夜の三日の真夜中に蘇生︽よみがえ︾った。その時分から酒を飲んだから酔って転寝︽うたたね︾でもした気でいたろう。力はあるし、棺桶︽かんおけ︾をめりめりと鳴らした。それが高島田だったというからなお稀有▲︽けぶ︾→▼である。地獄も見て来たよ――極楽は、お手のものだ、とト▲筮︽うらない︾→笛▼ごときは掌▲︽たなごころ︾→▼である。且つ寺子屋仕込みで、本が読める。五経、文選▲︽もんぜん︾→▼すらすらで、書がまた好▲︽よ︾→▼い。一度▲|→▼冥途︽めいど︾を▲※﹇#﹁彳+淌のつくり﹂、第3水準1-84-33﹈※﹇#﹁彳+羊﹂、第3水準1-84-32﹈→禰祥▼︽さまよ︾ってからは、仏教に親︽したし︾んで参禅もしたと聞く。――小母さんは寺子屋時代から、小僧の父親とは手習傍輩︽てならいほうばい︾で、そう毎々でもないが、時々は往来︽ゆきき︾をする。何ぞの用で、小僧も使いに遣︽や︾られて、煎餅︽せん▲べ→ぺ▼い︾も貰︽もら︾えば、小母さんの易をト▲︽み︾→▼る七星▲→︽みんら ︾▼を刺繍︽しし▲ゅ→ゆ▼う︾した黒い幕を張った部屋も知っている、その往戻︽ゆきもど︾りから、フトこのかくれた小路をも覚えたのであった。
この魔のような小母さんが、出口に控えているから、怪︽あやし︾い可恐︽おそろし︾いものが顕︽あら︾われようとも、それが、小母さんのお▲夥→移▼間︽なかま︾の気がするために、何となく心易︽こころやす︾くって、いつの間にか、小児︽こども︾の癖に、場所柄を、さして▲憚→揮▼︽は▲ば→ぱ▼か︾らないでいたのである。が、学校をなまけて、不思議な木戸に、﹁かしほん﹂の庭を覗くのを、父親の傍輩に見つかったのは、天狗︽てんぐ︾に逢︽あ︾ったほど可恐しい。
﹁内へお寄り。……さあ、一緒に。﹂
優しく背︽せな︾を押したのだけれども、小僧には襟首を▲抓→孤▼︽つま︾んで引立てられる気がして、手足をすくめて、宙を歩行︽ある︾いた。
﹁肥︽ふと︾っていても、湯ざめがするよ。――もう春だがなあ、夜はまだ寒い。﹂
と、納戸で被布︽ひふ︾を着て、朱の長煙管︽ながぎせる︾を片手に、
﹁新坊、――あんな処に、一人で何をしていた?……小母さんが易を立てて見てあげよう。二階へおいで。﹂
月、星を左右の幕に、祭壇を背にして、詩経、史記▲→︽ お ︾▼、二十一史、十三経▲|→▼注疏︽ち▲ゅ→ゆ▼うそ▲→へす▼︾なんど本▲→︽り︾▼箱がずらりと並んだ、手習机を前に、ずしりと一杯に、座蒲団︽ざぶとん︾に坐︽すわ︾って、蔽︽おい︾のかかった火桶を引寄せ、顔を見て、ふとった頬でニタニタと笑いながら、長閑︽のどか︾に煙草︽た▲ば→ぱ▼こ︾を吸ったあとで、円い肘︽ひじ︾を白くついて、あの天眼鏡というのを取って、ぴたりと額に当てられた時は、小僧は▲悚→棟▼然︽ぞ▲っ→つ▼︾として震上︽ふるいあが︾った。
大川の瀬がさっと聞こえて、片側町の、岸の松並木に風が渡った。
﹁……かし本。――ろくでもない事を覚えて、此奴︽こいつ︾めが。こんな変な場処まで捜しまわるようでは、あすこ、ここ、町の本屋をあら方あらしたに違いない。道理こそ、お父︽と▲っ→つ▼︾さんが大層な心配だ。……新坊、小母さんの膝︽ひざ︾の傍︽そ▲ば→ぱ▼︾へ。――気をはっきりとしないか。ええ、あんな裏土塀の壊れ木戸に、かしほんの貼札︽はりふだ︾だ。……そんなものがあるものかよ。いまも現に、小母さんが、おや、新坊、何をしている、としばらく熟︽じ▲っ→つ▼︾と視︽み︾ていたが、そんなはり紙は気︽け︾も影もなかったよ。――何だとえ?……昼間来て見ると何にもない。……日の暮から、夜へ掛けてよく見えると。――それ、それ、それ見な、これ、新坊。坊が立っていた、あの土塀の中は、もう家︽うち︾が壊れて草ばかりだ、誰も居ないんだ。荒庭に古い祠︽ほこら︾が一つだけ残っている……﹂
と言いかけて、ふと独︽ひとり︾で頷︽うなず︾いた。
﹁こいつ、学校で、勉強盛りに、親がわるいと言うのを聞かずに、夢中になって、余り凝る▲→さこわ▼から魔が魅▲︽さ︾→▼した。ある事だ。……枝の形、草の影でも、かし本の字に見える。新坊や、可恐▲︽こわ︾→▼い処だ、あすこは可恐い処だよ。――聞きな。▲――→lI▼おそろしくなって帰れなかったら、可︽よ︾い、可い、小母さんが、町の坂まで、この川土手を送ってやろう。
――旧藩の頃にな、あの組屋敷に、忠義がった侍が居てな、御主人の難病は、巳巳巳巳︽みみみみ︾、巳の年月の揃った若い女の生肝︽いきぎも︾で治ると言って、――よくある事さ。いずれ、主人の方から、内証で入費は出たろうが、金子︽かね︾にあかして、その頃の事だから、人買の手から、その年月の揃ったという若い女を手に入れた。あろう事か、▲俎→姐▼︽まないた︾はなかろうよ。雨戸に、その女を赤裸︽はだか︾で▲鎹︽→▼かすがい▲︾→まつしろ鍵▼で打ったとな。……これこれ、まあ、聞きな。……真白▲︽まっしろ︾→▼な腹をずぶずぶと刺いて開いた……待ちな、あの木戸に立掛けた戸は、その雨戸かも知れないよ。﹂
﹁▲う→・り▼、▲う→︾り▼、▲う→︸つ▼。﹂
小僧は息を引くのであった。
﹁酷▲︽むご︾→▼たらしい話をするとお思いでない。――聞きな。さてとよ……生肝を取って、▲壺︽つぼ︾→壼▼に入れて、組屋敷の陪臣▲︽ばいしん︾→▼は、行水、▲嗽︽うがい︾→噺▼に、身を潔▲︽きよ︾→▼め、麻上下▲︽あさがみしも︾→▼で、主人の邸へ持って行く。お傍医師▲︽そばいしゃ︾→▼が心得て、……これだけの薬だもの、念のため、生肝を、生︽し▲ょ→よ▼う︾のもので見せてからと、御前︽ごぜん︾で▲壺→壼▼を開けるとな。……血肝︽ちぎも︾と思った真赤︽ま▲っ→つ▼か︾なのが、糠袋︽ぬか▲ぶ→ぷ▼くろ︾よ、なあ。▲麝→虜▼香入︽じ▲ゃ→や▼こういり︾の匂袋ででもある事か――坊は知るまい、女の膚身︽はだみ︾を湯で磨く……気取ったのは鶯︽うぐいす︾のふんが入る、糠袋が、それでも、殊勝に、思わせぶりに、びしょびしょぶよぶよと濡れて出た。いずれ、身勝手な――病︽やまい︾のために、女の生肝を取ろうとするような殿様だもの……またものは、帰▲→︽へ り︾▼って、腹を割︽さ︾いた婦︽おんな︾の死体をあらためる隙︽ひま︾もなしに、やあ、血みどれになって、まだ動いていまする、とおのが手足を、ばたばたと遣りながら、お目通︽めどおり︾、庭前︽にわさき︾で斬︽き︾られたのさ。
いまの祠︽ほこら︾は……だけれど、その以前からあったというが、そのあとの邸だよ。もっとも、幾たびも代は替った。
――余りな話と思おう▲け→廿▼れど、昔ばかりではないのだよ。現に、小母さんが覚えた、……ここへ一昨年︽おととし︾越して来た当座▲、→▼――夏の、しらしらあけの事だ。――あの土塀の処に人だかりがあって、がやがや騒ぐので行ってみた。若い男が倒れていてな、……川向うの新地帰りで、――小母さんもちょっと見知っている、ちとたりないほどの色男なんだ――それが……医師︽いし▲ゃ→や▼︾も駆附けて、身体︽からだ︾を検︽しら︾べると、あんぐり開けた、口一杯に、紅絹︽もみ︾の糠袋……﹂
﹁…………﹂
﹁糠袋を頬張▲︽ほおば︾→▼って、それが咽喉▲︽のど︾→▼に詰▲︽つま︾→▼って、息が塞▲︽ふさが︾→▼って死んだのだ。どうやら手が届いて息を吹いたが。……あとで聞くと、月夜にこの小路へ入る、美しいお嬢さんの、湯▲上→帰▼りのあとをつけて、そして、何だよ、無理に、何、あの、何の真似だか知らないが、お嬢さんの舌をな。﹂
と、小母さんは白い顔して、ぺろりとその真紅︽ま▲っ→つ▼か︾な舌。
小僧は太い白蛇に、頭から舐︽な︾められた。
﹁その舌だと思ったのが、咽喉へつかえて気絶をしたんだ。……舌だと思ったのが、糠袋。﹂▲ →▼
とまた、ぺろりと見せた。
﹁厭︽いや︾だ、小母さん。﹂
﹁大丈夫、私がついているんだもの。﹂
﹁そうじゃない。……小母さん、僕もね、あすこで、きれいなお嬢さんに本を借りたの。﹂
﹁あ。﹂
▲→ ▼と円い膝に、揉︽も︾み込むばかり手を据えた。
﹁もう、見たかい。……ええ、高島田で、紫色の衣︽き︾ものを着た、美しい、気高い……十▲八→ハ▼九の。……ああ、悪戯︽いたずら︾をするよ。﹂
と言った。小母さんは、そのおばけを、魔を、鬼を、――ああ、悪戯をするよ、と独言︽ひとりごと︾して、その時はじめて真顔になった。
私は今でも現︽うつつ︾ながら不思議に思う。昼は見えない。逢魔︽おうま▲→へ ▼︾が時▲→︽り ︾▼からは朧︽おぼろ︾にもあらずして解︽わか︾る。が、夜の裏木戸は小児心︽こどもごころ︾にも遠慮される。……かし本の紙ばかり、三日五日続けて見て立つと、その美しいお嬢さんが、他所︽よそ︾から帰ったらしく、背︽せな︾へ来て、手をとって、荒れた寂しい庭を誘って、その祠︽ほこら︾の扉を開けて、燈明の影に、絵で知った鎧︽よろい︾びつのような一具の中から、一冊の草双紙▲→︽へ ︾▼を。……
﹁――絵解︽えとき︾をしてあげますか……︵註。草双紙を、幼いものに見せて、母また姉などの、話して聞かせるのを絵解と言った。︶――読めますか、仮名ばかり。﹂
﹁はい、読めます。﹂
﹁いい、お児︽▲こ→りし▼︾ね。﹂
きつね格子に、その半身、やがて、▲※﹇#﹁藹﹂の﹁言﹂に代えて﹁月﹂、第3水準1-91-26﹈︽ろう︾→繭▼たけた顔が覗▲︽のぞ︾→▼いて、見送って消えた。
その草双紙である。一冊は、夢中で我が家の、階子段︽はしごだん︾を、父に見せまいと、駆上る時に、――帰ったかと、声がかかって、ハッと思う、……懐中︽ふところ︾に、どうしたか失︽う︾せて見えなくなった。ただ、内へ帰るのを待兼ねて、大通りの露店の灯影︽ともしび︾に、歩行︽ある︾きながら、ちらちらと見た、絵と、かながきの処は、――ここで小母さんの話した、――後のでない、前の巳巳巳の話であった。
私は今でも、不思議に思う。そして面影も、姿も、川も、たそがれに油を敷いたように目に映る。……
大正…年…月の中旬、大雨▲︽たいう︾→▼の日の午▲︽うま︾→▼の時頃から、その大川に洪水した。――水が軟▲︽やわらか︾→▼に綺麗で、流︽ながれ︾が優しく、瀬も荒れないというので、――昔の人の心であろう――名の上へ女をつけて呼んだ川には、不思議である。
明治七年七月七日、大雨の降続いたその七日七晩めに、町のもう一つの大河が可恐︽おそろし︾い洪水した。七の数が累︽かさ︾なって、人死︽ひとじに︾も▲夥→霧▼多︽お▲び→ぴ▼ただ︾しかった。伝説じみるが事実である。が、その時さえこの川は、常夏︽とこなつ▲→ん ▼︾の花▲→︽ら ︾▼に紅︽べに︾の口を漱︽そそ︾がせ、柳の影は黒髪を解かしたのであったに――
もっとも、話の中の川堤︽かわづつみ︾の松並木が、やがて柳になって、町の目貫︽めぬ▲き→ぎ ん ▼︾へ続▲→︽▼く▲→ ︾く▼処に、木造の大橋があったのを、この年、石に架︽かけ︾かえた。工事七分という処で、橋杭︽はしぐい︾が鼻の穴のようになったため水を驚かしたのであろうも知れない。
僥倖▲︽さいわい︾→▼に、白昼の出水だったから、男女に死人はない。二階家はそのままで、辛うじて凌▲︽しの︾→▼いだが、平屋はほとんど濁流の瀬に洗われた。
若い時から、諸所を漂泊︽さすら︾った果︽はて︾に、その頃、やっと落着いて、川の裏小路に二階▲|→▼借︽がり︾した小僧の叔母︽お▲ば→ぱ▼︾にあたる年寄︽としより︾がある。
水の出盛った二時半頃、裏▲|→▼向︽むき︾の二階の肱掛窓︽ひじかけまど︾を開けて、立ちもやらず、坐りもあえず、あの峰へ、と山に向って、膝︽ひざ︾を宙に水を見ると、肱の下なる、▲廂→廟▼屋根︽ひさしやね︾の屋根板は、鱗︽うろこ︾のように戦︽おのの︾いて、――北国の習慣︽ならわし︾に、圧︽おし︾にのせた石の数々はわずかに水を出た磧︽かわら︾であった。
つい目の前を、ああ、島田▲髷→髭▼︽しまだまげ︾が流れる……緋鹿子︽ひがのこ︾の切︽きれ︾が解けて浮いて、トちらりと見たのは、一条︽ひとすじ︾の真赤︽ま▲っ→つ▼か︾な蛇。手箱ほど部の重︽かさな︾った、表紙に彩色絵︽さいしきえ︾の草紙を巻いて――鼓の転がるように流れたのが、たちまち、紅︽べに︾の雫︽しずく︾を挙げて、その並木の松の、就中︽なかんずく︾、山より高い、二▲三→一二▼尺水を出た幹を、ひらひらと昇って、声するばかり、水に咽︽むせ︾んだ葉に隠れた。――瞬く間である。――
そこら、屋敷小路の、荒廃離落した低い崩土塀︽くずれど▲べ→ぺ▼い︾には、おおよそ何百年来、いかばかりの蛇が巣くっていたろう。▲蝮→腹▼︽まむし︾が多くて、水に浸った軒々では、その害を被ったものが少くない。
高台の職人の屈▲竟︽くっきょう︾→寛▼なのが、二人ずれ、翌日、水の引際を、炎天の下に、大川▲|→▼添▲︽ぞい︾→▼を見物して、流︽ながれ︾の末一里▲|→▼有余︽あまり︾、海へ出て、暑さに泳いだ豪傑がある。
荒海の磯端▲︽いそばた︾→▼で、肩を合わせて一息した時、息苦しいほど蒸暑いのに、颯▲︽ざあ︾→▼と風の通る音がし▲→ぞついきれなかすき▼て、思わず脊筋も▲悚→棟▼然▲︽ぞっ︾→▼とした。……振返ると、白浜一面、早や乾いた蒸気▲︽いきれ︾→▼の裡▲︽なか︾→▼に、透▲︽すき︾→▼なく打った細い杭︽く▲い→し▼︾と見るばかり、幾百条とも知れない、おなじような蛇が、おなじような状︽さま︾して、おなじように、揃って一尺ほどずつ、砂の中から鎌首を▲擡→擾▼︽もた︾げて、一斉に空を仰いだのであった。その畝︽うね︾る時、歯か、鱗か、▲コツ→や加り▼、コツ、コツ、▲→力紗▼カタ▲カ→竹▼タ▲カタ→▼と鳴って響いた。――洪水に巻かれて落ちつつ、はじめて柔▲︽やわらか︾→▼い地を知って、砂を穿▲︽うが︾→▼って活▲︽い︾→▼きたのであろう。
きゃッ、と云うと、島が真中▲︽まんな→▼か▲︾か→▼ら裂けたように、二人の身体▲︽からだ︾→▼は、浜へも返さず、浪打際▲︽なみうちぎわ︾→▼をただ礫︽つ▲ぶ→な▼て︾のように左右へ飛んで、裸身︽はだ▲か→あ▼︾で逃げた。
﹇#地から1字上げ﹈大正十五︵一九二六︶年一月
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となって、
○色の白さは目覚ましい→色の白さは目覚しい︻ま、トル︼
○湯上りのあとをつけて→湯帰りのあとをつけて︻上︼
のような間違いが見つかる。
結論として、作り方の違うファイルが二種あれば、それらを比較することで、かなり容易に校正が出来る、ということだ。もっとも、この方法だけで大丈夫、とはいかないと思う。普通に突き合わせ読みや素読みをする必要はある。しかし、気分はかなり楽になると思う。
校正漏れ
和辻哲郎
霊的本能主義
縦書き読み、85%部分
「力ーライル」→カーライル