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P・V・アンネンコフに捧ささげる
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客はもうとうに散ってしまった。時計が零れい時じは半んを打った。部屋の中に残ったのは、主人と、セルゲイ・ニコラーエヴィチと、ヴラジーミル・ペトローヴィチだけである。
主人は呼よび鈴りんを鳴らして、夜食の残りを下げるように命じた。
﹁じゃ、そう決りましたね﹂と主人は、一層ふかぶかと肘ひじ掛かけ椅い子すに身を沈めて、葉はま巻きに火をつけながら言った。――﹁めいめい、自分の初はつ恋こいの話をするのですよ。では、まずあなたから、セルゲイ・ニコラーエヴィチ﹂
セルゲイ・ニコラーエヴィチというのは、まるまると肥ふとった男で、ぽってりした金きん髪ぱつ・色白の顔をしていたが、まず主人の顔をちらと眺ながめると、眼めを天てん井じょうの方へ上げた。
﹁僕ぼくには初恋というものがありませんでしたよ﹂と、彼かれはやがての果てに言った。――﹁いきなり第二の恋から始めたんです﹂
﹁それはまた、どうしてね?﹂
﹁しごく簡単ですよ。僕は十八の年に初めて、あるとても可かわ愛いらしいお嬢じょうさんのあとを追い回しました。ところが、その追いまわし方というのが、こんなこと僕にはさっぱり新しくも珍めずらしくもない、といった風だったのですよ。ちょうど、あとになっていろんな女を口く説どいた時と、まるっきり同じだったわけです。実を言うと、僕が最初にして最後の恋をしたのは、六つの頃で、相手は自分の乳ばあ母やでしたが、――なにぶんこれは大おお昔むかしのことです。二人の間にあったことの細こまかしい点は、僕の記きお憶くから消えうせていますし、またよしんば覚えているにしたところで、そんなことを、誰だれが面おも白しろがるでしょう?﹂
﹁すると、どうしたもんですかな?﹂と、主人が言い出した。――﹁わたしの初恋にしたところで、大して面白いことはないのですからね。わたしは、現在の妻、アンナ・イヴァーノヴナと知合いになるまで、誰ひとり恋した覚えはないんですし――しかも我々のことは、万事すらすらと運んだのです。それぞれ父親から縁えん談だんをもち出されると、我々は見る見るお互たがいどうし好きになって、一足とびに結けっ婚こんしてしまったというわけ。わたしの話は、ほんの二ふた言ことで済んでしまいますよ。いや皆みなさん、白状しますとね、わたしが初恋の問題をもち出したのは――むしろあなた方がたに期待していたのですよ、お二人とも、老人とは言えないけれど、さりとてお若いとも言えない独身者ですからな。どうです、あなたは何か面白い話をして下さるでしょうな、ヴラジーミル・ペトローヴィチ?﹂
﹁わたしの初恋は、全くのところ、あまり世間なみの部類には入らないものなんですが﹂と、やや言いよどみながらヴラジーミル・ペトローヴィチは答えた。これは四十がらみの、黒くろ髪かみに白を交えた男である。
﹁やあ!﹂と、主人もセルゲイ・ニコラーエヴィチも異いく口どう同お音んに。――﹁なおさら結構……話して下さい﹂
﹁お安い御ごよ用うです……が、困りましたな。話すのはやめにしましょう。わたしは話が不ふ得え手てなほうですから、無むみ味かん乾そ燥うなあっけない話になるか、それともだらしない調子はずれな話になるか、そのどっちかです。もし宜よろしかったら、思い浮うかぶだけのことをすっかり手帳に書いて、読んでお聞かせしようじゃありませんか﹂
友人たちは初め承知しなかったが、結局ヴラジーミル・ペトローヴィチは自説を押おし通とおした。二週間ののち、彼らが再び寄り合った時、ウラジーミル・ペトローヴィチは、その約やく束そくを果した。
彼の手帳には、次のようなことが書いてあった。――
一
その頃ころわたしは十六歳さいだった。一八三三年の夏のことである。 わたしはモスクワの、両親のもとに住んでいた。彼らの借り入れた別べっ荘そうが、カルーガ関門のほとり、ネスクーチヌィ公園の前にあったのである。――わたしは大学の入学準備をしていたが、勉強といってもろくにせず、ゆっくり構えていた。 誰だれ一ひと人りわたしの自由を束そく縛ばくするものはなかった。わたしはしたい放題に振ふる舞まっていたが、とりわけ最後の家庭教師と別れてからはなおさらだった。その教師はフランス人で、自分がまるで﹁爆ばく弾だんみたいに﹂︵コム・ユヌ・ボンブ︶ロシアへ落下したという考えに、いても立ってもいられず、物もの凄すごい表情を顔に浮べながら、幾いく日にちも幾日もぶっとおしに、ベッドの中でごろごろしていたものである。父のわたしに対する態度は、いわば冷れい淡たんな優やさしさにすぎなかったし、母は母で、わたしのほかに子供がないにもかかわらず、ほとんどわたしを構ってくれなかった。ほかの心配事で母は手いっぱいだったのである。わたしの父はまだ若くて、すこぶる美男子だったが、財産を目当てに母と結婚した。母の方が十年も年うえだった。わたしの母親は、気の毒な生活をしていた。しょっちゅう興奮したり、焼やき餅もちをやいたり、ぷりぷりしたりしていたのだが――ただし父の面前でやったわけではない。母はひどく父をこわがっていたし、父は父で、きびしい、冷たい、よそよそしい態度を崩くずさなかった。……わたしは、あれほど乙おつに気どり澄すました、うぬぼれの強い、独ひとりよがりの男を、いまだかつて見たことがない。 その別荘で過した最初の二、三週間のことを、わたしは決して忘れないだろう。すばらしい天気が続いていた。我々が市内から引っ越したのは五月九日で、ちょうど聖ニコライの日であった。わたしの散さん歩ぽは――ときには別荘の庭、ときにはネスクーチヌィ公園、またあるときは関門の外まで足を伸のばすといった風で、いつも何か本を一いっ冊さつ――たとえばカイダノーフの万ばん国こく史しつ通うなど――を持って出るのだったが、それをめくってみることはめったになく、とてもたくさん空そらで覚えていた詩を、高らかに朗読する方が多かった。血潮は体内でたぎりたち、胸はうずき――いや思い出しても、むずむずするほど甘あまたるく、滑こっ稽けいなほどだ。わたしは絶えず何ものかを心待ちにし、絶えず何ものかにびくびくし、見るもの聞くものに心を躍おどらし、全身これ待機の姿勢にあった。空想が生き生きと目ざめて、いつもいつも同じ幻まぼろしのまわりを素すば早やく駆かけめぐる有あり様さまは、朝焼けの空に燕つばめの群れが、鐘しょ楼うろうをめぐって飛ぶ姿に似ていた。わたしは物思いに沈しずんだり、ふさぎ込こんだり、ときには涙なみださえ流した。しかし、こうして響ひびき高い詩句や、あるいは夕ゆう暮ぐれの美しい眺ながめによって、あるいは涙が、あるいは哀あい愁しゅうがそそられるにしても、その涙や哀愁のすきから、さながら春の小おぐ草さのように、若々しい湧わきあがる生の悦よろこばしい感情が、にじみ出すのであった。 わたしには一頭の乗馬があった。わたしはそれに自分で鞍くらをおいて、ただ一人どこか遠乗りに出かけたものだった。馬をギャロップで走らせて、さも自分をトーナメントに出場した中世の騎き士しのように想像したり――ああ、わたしの耳に吹ふきつける風のなんと朗ほがらかだったことよ! ――あるいは顔を大空へ振向けて、その輝かしい光こう明みょうと紺こん碧ぺきの色を、あけひろげた魂たましいの底まで深く吸い込んだりした。 いま思い返してみると、女の姿とか、女の愛の面おも影かげとかいうものは、ほとんど一度も、はっきりとした形をとって心に浮んだことはなかった。しかも、わたしの考えることのすべて、わたしの感じることのすべてには、何かしら新しいもの、言うに言われぬ甘かん美びなもの、いわば女性的なもの……に対する、半ば無意識な、はじらいがちの予感が、潜ひそんでいたのだった。 この予感、この期待は、わたしの骨の髄ずいまでしみわたって、わたしはそれを呼吸し、またそれは血の一いっ滴てき々いっ々てきに宿って、わたしの血管を走りめぐるのだったが……実は間もなく実現される運命にあったのである。 我々の別荘は、円柱の並んだ木造の地じぬ主しや屋し敷きと、さらに二ふた棟むねの平べったい傍はな屋れから成っていた。左手の傍屋は、安ものの壁かべ紙がみを作る小ちっぽけな工場になっている。……わたしは二に、三さん遍べんそこをのぞきに行ったが、油じみた上うわっ張ぱりを着て、頬ほおのこけた顔をした、もじゃもじゃ髪がみの痩やせた男の子が十人ほど、四角な印いん刷さつ台だい木ぎを締しめつける木の梃て子こへ、しょっちゅうとびついて、そんな風に自分たちの虚ひよ弱わい体の重みでもって、壁紙のまだらな色模様を捺おし出しているのだった。右がわの傍屋は空あいていて、貸家になっていた。ある日――五月九日から三週間ほどたった日のこと――この傍屋の窓におりていた鎧よろ戸いどがあいて、女の顔がちらほらしたのは――どこかの家族が越して来たものと見えた。忘れもしない、その日の夕食のとき、母は侍じぼ僕くが頭しらに向って、隣となりへ引っ越して来たのは誰かと尋たずねたが、公こう爵しゃ夫くふ人じんザセーキナという苗みょ字うじを耳にすると、まんざら敬意のないでもない調子で、まず﹁まあ! 公爵夫人……﹂と言ったが、やがてこう付け足した、――﹁きっとどこかの貧びん乏ぼう貴きぞ族くだろうよ﹂ ﹁三台の辻つじ馬ばし車ゃで越していらっしゃいました﹂と、うやうやしく皿さらを差出しながら、侍僕頭がしたり顔に、――﹁自家用の車はお持ちでありませんし、家具もごくお粗そま末つで﹂ ﹁そう﹂と、母は答えた。――﹁でもまあ、ましですよ﹂ 父が冷やかな一いち瞥べつを母にくれたので、母は黙だまってしまった。 全くザセーキナ公爵夫人は、裕ゆう福ふくな婦人でありようはずがなかった。彼かの女じょの借りた傍屋は、いかにも古びて手てぜ狭まで、おまけに天てん井じょうの低い家なので、いくらか小こが金ねを持った連中なら、とても住む気にはならないからである。――とはいえ、わたしはその時、そんなことは気にもとめずに聞き流した。公爵などという肩かた書がきは、ほとんどなんの作用もわたしに及およぼさなかった。わたしは少し前に、シルレルの﹃群ぐん盗とう﹄を読んだところだったのである。二
わたしは毎日、夕方になると、鉄てっ砲ぽうを持ってうちの庭をぶらついて、鴉からすの番人をするのが習慣だった。――この油断のない、貪どん欲よくで悪わる賢がしこい鳥に対して、わたしはずっと前から憎ぞう悪おをいだいていたのである。さて今しがた話に出た日も、わたしはやはり庭へ出て行って――並なみ木きみ道ちという並木道をむなしく歩き回ったあげく︵鴉はわたしをちゃんと知っていて、ただ遠くの方できれぎれに鳴くばかりだった︶、ふと低い垣かき根ねに近づいた。それは、右手の傍はな屋れの向うへ延びて、その家に属している細い帯のような庭と、うちの領分との境を成しているのだった。わたしは、うなだれて歩いていた。すると不意に、がやがやと人声がした。わたしはひょいと垣根ごしに眺ながめて――化石したようになってしまった。……奇妙な光景がわたしの眼に映ったのである。 わたしからほんの五、六歩離はなれた所――青々したエゾ苺いちごの茂しげみに囲まれた空あき地ちに、すらりと背の高い少女が、縞しまの入ったバラ色の服を着て、白いプラトークを頭にかぶって立っていた。そのまわりには四人の青年がぎっしり寄り合って、そして少女は順ぐりに青年たちのおでこを、小さな灰色の花の束たばで叩たたいているのだった。その花の名をわたしは知らないけれど子供たちには馴なじ染みの深い花である。それは小さな袋の形をした花で、それで何か堅かたいものを叩くと、ぽんぽんはじけ返るのであった。青年たちはさも嬉うれしそうに、てんでにおでこを差出す。一方少女の身振りには︵わたしは横合いから見ていたのだが︶、実になんとも言えず魅みわ惑くて的きな、高たか飛びし車ゃな、愛あい撫ぶするような、あざ笑うような、しかも可かわ愛いらしい様子があったので、わたしは驚おどろきと嬉しさのあまり、あやうく声を立てんばかりになって、自分もあの天てん女にょのような指で、おでこをはじいてもらえさえしたら、その場で世界じゅうのものを投げ出してもかまわないと、そんな気がした。鉄砲は草の上へすべり落ち、わたしは何もかも忘れて、そのすらりとした体つきや、ほっそりした頸くびの根や、奇きれ麗いな両手や、白いプラトークの下からのぞいているやや乱れた淡あわ色いろの金きん髪ぱつや、その半ば眠ねむった利口そうな眼めもとや、その睫まつ毛げや、その下にある艶つややかな頬ほおなどを、むさぼるように見つめていた。…… ﹁君、おい君ったら﹂と、不意にわたしのそばで、誰だれかの声がした。――﹁よそのお嬢じょうさんを、そんな風に見つめてもいいものかい?﹂ わたしは、ぎょっと顫ふるえあがって、茫ぼう然ぜんとしてしまった。……すぐそばの、垣根の向うに、黒い髪かみを短く刈かりこんだ見知らぬ男が立っていて、皮肉な眼つきでわたしをじろじろ見ていた。ちょうどその瞬しゅ間んかん、少女もわたしを振ふり向むいた。……わたしが、くりくりとよく動く活気づいたその顔に、大きな灰色の眼を見てとったのも束つかの間ま――その顔全体が、いきなりぶるぶる顫えて、笑い出して、白い歯なみがきらめいて、眉まゆ毛げがさも面おも白しろそうに釣つりあがった。……わたしはさっと赤面すると、地べたの鉄砲を引っつかんで、よく徹とおる、しかし意地の悪くない高笑いに追われながら、一いち目もく散さんに自分の部屋へ逃にげ込こんで、ベッドにころがり込むと、両手で顔を隠かくした。心臓は今にも割れそうに踊おどっていた。わたしはひどく恥はずかしく、またひどく愉ゆか快いだった。わたしはまだ身に覚えのないほどの興奮を感じた。 ひと休みすると、わたしは髪を撫なでつけ、服を払はらって、お茶を飲みに下りて行った。うら若い娘むすめの面影は、眼の前にちらついて、動どう悸きはもう落着いていたけれど、胸が何か快く締しめつけられる思いだった。 ﹁どうかしたのか?﹂と、不意に父が訊きいた。――﹁鴉を仕し留とめたのかい?﹂ わたしはすっかり父に話してしまおうかと思ったけれど、じっとこらえて、にやりと独ひとり笑わらいをしただけだった。寝ねじ支た度くをしながらわたしは、どういうつもりだか知らないが、三さん遍べんほど片足でくるくる回って、髪にポマードを塗ぬりたくって横になるなり、まるで死人のように、ぐっすり朝まで眠った。夜明け方にちょっと目をさまして、頭をもたげ、感きわまってあたりをぐるぐる見回したが――それなりまた寝ね入いってしまった。三
﹃なんとかして、あの人たちと知合いになりたいものだが?﹄というのが、あくる朝わたしが目をさますが早いか、まず頭に浮んだ考えだった。わたしはお茶の前に庭へ出てみたが、例の垣かき根ねへはあまり近寄らず、誰だれの姿も見かけなかった。お茶が済むと、わたしは二に、三さん遍べん、別べっ荘そうの前の通りを行ったり来たりして――遠目に窓をのぞいてみた。……カーテンの陰かげに、あの人の顔が見えたような気がしたので、わたしはあわてて、さっさと前を行き過ぎた。﹃だが、どうしても知合いにならなくちゃ﹄と、わたしは、ネスクーチヌィ公園の前に拡ひろがっている砂原を、めちゃめちゃに歩き回りながら考えた。﹃しかし、どうしたらいいかな? そこが問題だ﹄わたしは、昨日ひょいと出会った時のことを、ごく細かな点まで一々思い浮べてみた。どうしたわけだか、とりわけはっきり思い浮ぶのは、彼かの女じょがわたしに浴びせたあの笑い声だった。……とはいえ、わたしがしきりに気をもんで、いろんな計画を立てているうちに、運命はちゃんとお膳ぜん立だてをしてくれたのである。 わたしのいない間に、母は新しい隣りん人じんから、灰色の紙にしたためた手紙を受取っていた。しかもそれを封ふうじた黒茶色の封ふう蝋ろうときたら、郵便局の通知状か安やす葡ぶど萄うし酒ゅの栓せんにしか使わないような代しろ物ものだった。その手紙は、いかにも無学らしい文章に加えるに汚きたならしい筆ひっ跡せきをもって書いてあって、要するに公こう爵しゃ夫くふ人じんがわたしの母に庇ひ護ごしてもらいたい旨むねを願い出たものだった。つまり、公爵夫人の言葉によると、わたしの母は二、三の重要な人物と相そう識しきの間あい柄だがらであるが、今や夫人はすこぶる重大な訴そし訟ょうを起していて、彼女自身の運命もまたその子女の運命も、かかってそれら人物の手中にあるというのである。﹃率そつ事ながらわたしこと﹄と、書いてあった、――﹃叔女として同じ叔女たるあなた様にお手紙まいらせ候そうろう。この期会にめぐまされ候こと、まことに嬉ばしき限りにて﹄しかじかといった調子で、終りに彼女は母にむかって、訪問をお許し願いたいと申出ていた。わたしが外から帰ってみると、母は御ごき機げん嫌な斜なめのていだった。父が不在なので、誰と相談しようにも相手がなかったのだ。いやしくも﹃叔女﹄であり、おまけに公爵夫人ともあろう人に、返事をしないわけにはゆかず、ではどう返事をするかという段になると――母は途とほ方うに暮くれざるを得なかった。返事をフランス語で書くのは、場はずれのような気がするし、さりとてロシア語の綴つづりにかけては母は不ふ得え手てだったし――自分でもそれを知っていたので、みすみす恥はじをさらしたくなかったのである。 母はわたしが帰って来たのを喜んで、顔を見るなり、これから公爵夫人のところへ行って、口こう頭とうをもって、わたしの母は力の及およぶ限りいつ何なん時どきでも奥おく様さまのお役に立ちたいと存じている旨むねを述べ、十二時過ぎに御ごこ光うら来いをお待ちすると伝えるように言いつけた。自分のひそかな念願が、思いもかけず早さっ速そくかなうことになったので、わたしは嬉うれしくもあれば空そら恐おそろしくもあった。とはいえわたしは、自分をとらえている当とう惑わくを表にあらわさず――まず自分の部屋へ引取って、新しいネクタイと小さなフロックコートを着けることにした。家にいる時は、まだわたしは短い上着を着て、折おり襟えりのカラーをしていたのだが、実はそれが厭いやでならなかったのである。四
傍はな屋れの、狭せまくるしい薄うすぎたない控ひかえ室しつへ、わたしが押おさえても止らぬ武者ぶるいに総身を震ふるわせながら入って行くと、そこでわたしを迎むかえたのは、白しら髪があたまの老ろう僕ぼくだった。銅あか色がねいろのすすけた顔に、豚ぶたのような無愛想な小さい眼めをしておまけに額からこめかみへかけて畳たたまれている皺しわの深いことといったら、わたしが生れてこの方かた見たこともないほどだった。彼は食い荒された鰊にしんの背骨を一ひとつ皿さらに載のせていたが、奥おくの間まへ通ずるドアを後ろ足で閉めながら、突とっ拍ぴょ子うしもない声でいきなり、 ﹁なんの御用で?﹂と言った。 ﹁ザセーキナ公こう爵しゃ夫くふ人じんはおいででしょうか?﹂と、わたしはきいた。 ﹁ヴォニファーチイ!﹂と、ドアの向うから、がらがらした女の声が呼んだ。 老僕が無言でわたしに背を向けた途とた端んに、お仕し着きせのひどくすり切れた背中が丸見えになって、そこに赤さびの出た定じょ紋うも入んいりのボタンが、ぽつんと一つ残っているのが目についたが、彼はそのまま皿を床ゆかへ置くと、奥へ引ひっ込こんでしまった。 ﹁警察へ行って来たかい?﹂と、同じ女の声がまたした。老僕が何やらぼそぼそ言うと、――﹁ええ?……誰だれか来たって?﹂と、訊きき返して、﹁となりの坊ぼっちゃんかい? じゃ、お通しおし﹂ ﹁どうぞ客間へお通りなすって﹂と、老僕はまたわたしの前に現われて、皿を床から持ち上げながら言った。わたしは身みじ仕ま舞いを正して、﹃客間﹄なるものへ入って行った。 いざ入ってみるとそこは、あまり小こぎ奇れ麗いとも言えぬ手狭な一間で、貧びん乏ぼうくさい家具の並ならべ方かたも、まるで急場しのぎにやってのけたといった様子だった。窓ぎわの、片かた肘ひじの折れた肘ひじ掛かけ椅い子すに坐すわっているのは、年としの頃ころ五十ほどの、髪かみをむき出しにした器量のわるい婦人で、着古した緑色の服を着て、まだら色の毛糸の襟えり巻まきを首に巻いていた。彼かの女じょの小さな黒い眼は、いきなり吸い着くように私の顔にそそがれた。 わたしはそばへ歩み寄って、一礼した。 ﹁失礼ですが、ザセーキナ公爵夫人でいらっしゃいますか?﹂ ﹁ええ、わたしがザセーキナ公爵夫人です。あなたはVさんの御子息でいらっしゃるの?﹂ ﹁そのとおりです。わたしは母の使いで参りました﹂ ﹁さあ、お掛けなさいな。ヴォニファーチイ! わたしの鍵かぎはどこ、お前見なかったかい?﹂ わたしはザセーキナ夫人に、その手紙に対する母の返事を伝えた。彼女はそれを聞きながら、太い赤い指で窓がまちを軽く叩たたいていたが、わたしが口上を終ると、もう一いっ遍ぺんわたしをじっと見つめた。 ﹁大層結構です、ぜひ伺うかがいましょう﹂と、やがて彼女は言った。――﹁でも、あなたはまだほんとにお若いのね! お幾いくつですの、失礼ですけれど?﹂ ﹁十六です﹂とわたしは、思わず口ごもりながら答えた。 公爵夫人はポケットを探さぐって、何やらいっぱい書き込んだ油じみた着付を取出すと、つい鼻先まで持っていって、その検分にかかった。 ﹁結構な年頃だこと﹂と、彼女は、椅子の上で身をねじ曲げたり、もぞもぞしたりしながら、不意に言い出した。――﹁どうぞあなた、お気楽になさいましな。宅では万事無造作ですから﹂ ﹃どうも無造作すぎるな﹄とわたしは、思わず湧わき上がる嫌けん悪おの情をもって彼女のぶざまな様子をじろじろ眺ながめながら、心の中で考えた。 と、その瞬間、客間のもう一つのドアがいきなりぱっと開いて、敷しき居いの上に姿を現わしたのは、昨日庭で見かけたあの娘むすめだった。彼女は片手を上げたが、その顔にはちらりと薄うす笑わらいが浮んだ。 ﹁これがうちの娘です﹂と、公爵夫人は、肘で娘をさして言った。――﹁ジーノチカ、お隣となりのVさんの御子息だよ。お名前はなんておっしゃるの、失礼ですが?﹂ ﹁ヴラジーミルです﹂と、わたしは立ち上がって、興奮のあまり舌をもつらせながら答えた。 ﹁で御父称は?﹂ ﹁ペトローヴィチです﹂ ﹁まあ! わたしの知合いに警察署長をしている方がありましたが、その人もやっぱりヴラジーミル・ペトローヴィチでしたっけ。ヴォニファーチイ! 鍵は捜さがさなくってもいいよ。ちゃんとわたしのポケットにあったから﹂ 少女は心もち眼を細めて、首をやや傾かしげたまま、相変らずにやにやしながら、わたしを見つめていた。 ﹁あたしもう、ムッシュー・ヴォルデマールにはお目にかかったわ﹂と、彼女は口をきった。︵その銀の鈴すずを振ふるような声の響ひびきは、何かこう甘かん美びな冷たい感じをなして、わたしの背筋を走った︶――﹁ねえ、あなたをそう呼んでもいいでしょう?﹂ ﹁ええ、そりゃもう﹂と、わたしは、ますます舌をもつらせた。 ﹁そりゃ、どこでなの?﹂と、公爵夫人が訊いた。 公こう爵しゃ令くれ嬢いじょうは、母の問いには答えずに、 ﹁あなた今、お忙いそがしくって?﹂と、彼女は、わたしから眼を放さずに言った。 ﹁いいえ、ちっとも﹂ ﹁じゃ、毛糸をほどくお手伝いをして下さらないこと? こっちへいらっしゃいな、あたしの部屋へ﹂ 彼女はわたしに、こっくりうなずいて見せると、さっさと客間を出て行った。わたしはあとに従った。 我々の入った部屋は、家具も幾分はましで、その並べ方も、前の部屋より趣しゅ味みがあった。もっともその瞬しゅ間んかん、わたしはほとんど何ひとつ目に留める余よゆ裕うがなかった。わたしは、まるで夢ゆめの中にでもいるように身を運びながら、何やら馬ば鹿か々ば々かしいほど緊きん張ちょうした幸福感を、骨の髄ずいまで感じるのだった。 公爵令嬢は腰こしを下ろして、紅あかい毛糸の束たばを箱はこから出すと、向いの椅子をわたしにさしてみせて、一生けんめい結び目を解きほぐしてから、それをわたしの両手に掛けた。そこまでする間じゅう、彼女はいっさい無言のまま、何かさも面おも白しろくてたまらないといった風の緩かん慢まんな身振りで、相変らずの明るい狡ずるそうな薄笑いを、やや少しひらいた唇くちびるに浮べていた。彼女は毛糸を、折り曲げたカルタ札ふだに巻きはじめたが、そのうち不意に、ぱっと素すば早やく私の顔を、なんとも言えない晴れやかな眼まな差ざしで射たので、わたしは思わず顔を伏ふせてしまった。彼女の眼は、たいていは軽く細目になっているのだったが、それが時たまいっぱいに見開かれると――顔つきがすっかり変ってしまって、まるでその面おも輪わに光がみなぎりあふれるように見えた。 ﹁ねえ、昨日あたしのしたこと、どうお思いになって、ムッシュー・ヴォルデマール?﹂と、しばらくしてから彼女が訊いた。――﹁きっとあなたは、けしからん女だとお思いになったでしょうね?﹂ ﹁いいえ、僕ぼく……お嬢さん……僕は何にもその……とんでもない……﹂わたしの答えは、しどろもどろだった。 ﹁ね、いいこと﹂と、彼女は切って返した。――﹁あなたはまだ、あたしという女を御存じないけれど、あたし、とっても妙みょうな女なのよ。あたしはね、いつも本当のことだけ言ってもらいたいの。さっき伺うと、あなたは十六だそうですけれど、あたしは二十一なんですものね。あたしの方が年上でしょう、だからあなたは、あたしにいつも本当のことばかり言わなけりゃいけないのよ……そして、あたしの言うことをきかなくてはね﹂と、彼女は言い足して、――﹁さ、あたしの顔をまっすぐ見てちょうだい。なぜ見ないの?﹂ わたしはますます、あがってしまったが、とにかく眼を上げて、彼女の顔を見た。彼女はにっと笑ったが、それはさっきのとは違ちがって、好意のある微びし笑ょうだった。 ﹁あたしの顔を見てちょうだい﹂と、彼女は、優やさしく声を落しながら言った。――﹁そうされても、あたし厭いやじゃないの。……あたし、あなたの顔が気に入ったわ。あなたとは、仲なか好よしになれそうな気がするのよ。でもあたしは、あなたのお気に召めしまして?﹂と、抜ぬけ目めなく彼女は言い足した。 ﹁お嬢さん……﹂と、わたしは言いかけた。…… ﹁まず第一、あたしをジナイーダさんと呼んでちょうだい。それから第二に――子供のくせに――︵と言って、彼女は言い直した︶――青年のくせに――感じたとおりをまっすぐに言わないなんて、いけないことだわ。それは大人のすることよ。どう、あたしあなたのお気に召して?﹂ 彼女がわたしを相手に、こんなに打解けて話してくれることは、わたしにとって実に嬉うれしいことだったけれど、とは言えわたしも、少し腹が立った。わたしは、そうそう子供と見てもらいますまいという意気ごみで、できるだけ磊らい落らくな、しかも鹿しか爪つめらしい顔つきになって、こう言ってやった。――﹁もちろん、とても気に入りましたよ、ジナイーダさん、僕は、それを隠そうとは思いません﹂ 彼女は、ゆっくり句切りながら頭を振って、――﹁あなたは家庭教師がついているの?﹂と、だし抜けに尋たずねた。 ﹁いいえ、僕にはもうとっくに家庭教師なんかいません﹂ それは嘘うそだった。例のフランス人と生き別れをしてから、まだ一ひと月つきにもならないのである。 ﹁へえ! それでわかったわ――あなた、もうすっかり大人ねえ﹂ 彼女は軽くわたしの指をはじいて、――﹁手をまっすぐにしてらっしゃい!﹂――そう言って彼女は、せっせと糸いと球だまを巻きだした。 しばらく彼女が眼を上げないのに乗じて、わたしは彼女をつくづく眺め始めたが、それも初めは盗ぬすみ見みだったものが、やがてだんだん大だい胆たんになっていった。彼女の顔は、昨日より一層魅みり力ょくが増して見えた。目鼻だちが何から何まで、実にほっそりと磨みがかれて、じつに聡そう明めいで実に可かわ愛いらしかった。彼女は、白い巻まき揚あげカーテンを下ろした窓に、背を向けて坐っていた。日ざしは、そのカーテンを通して射さし入って、柔やわらかな光を、彼女のふさふさした金色の髪や、その清らかな首筋や、流れ下る肩かたの曲線や、優しい安らかな胸のあたりに、ふりそそいでいた。――わたしはじっと彼女を眺めているうちに、彼女がなんとも言えず大切で、親愛なものに思えてきたのだ! わたしは、もうずっと前から彼女を知っていて、彼女と知合いになるまでは、何ひとつ知りもせず、生きた甲か斐いもなかったような気がした。……彼女はもうだいぶ着古した地味な色合いの服を着て、エプロンを掛けていた。わたしは、その服やエプロンの襞ひだを一つ一つ、いそいそと撫なでたいような気持がした。彼女の靴くつの先が、その服の下からのぞいている。わたしはできることなら、うやうやしくその靴にぬかずきたいとさえ思った。﹃とうとう俺おれは、こうして彼女の前に坐っているんだ﹄と、わたしは思った――﹃俺は彼女と知合いになったのだ……なんという幸福だろう、ああ!﹄わたしはすんでのことで、喜び勇んで椅子からとび下りそうになったが、おいしいおやつにありついた赤あかん坊ぼうみたいに、足をちょいとばたつかせるだけで我がま慢んした。 わたしは、水の中の魚のようにいい気持で、一生この部屋から出て行きたくない、この場から動きたくないと思った。 彼女の目まぶ蓋たがそっと上がって、またもやその明るい眼がわたしの前に優しく輝かがやき出したかと思うと、またしても彼女はにっとあざけるように笑った。 ﹁なんであたしを見つめてらっしゃるの﹂と、彼女はゆっくり言って、指を立ててわたしをおどかした。 わたしは赤くなった。……﹃この人はなんでもわかるんだ、なんでも見えるんだ﹄という考えがわたしの頭をかすめた。﹃全く、どうしてこの人に、何もかもわからないはずがあろう、何もかも見えないはずがあろう!﹄ 不意に隣の部屋で、何か物にぶつかる音がして――サーベルが鳴り出した。 ﹁ジーナや﹂と、客間で公爵夫人が呼んだ。――﹁ベロヴゾーロフさんが、お前に猫ねこの子を持ってきて下すったよ﹂ ﹁猫の子!﹂と、ジナイーダは叫さけぶと、ぱっと椅子から立ち上がって、毛糸の毬まりをわたしの膝ひざへほうり出したまま、部屋から駆かけ出して行った。 わたしも立ち上がって、毛糸の束と毬とを窓がまちに載せると、そこを出て客間へ入ったが、途端に呆あっ気けにとられて棒立ちになった。部屋の真ん中には縞しまの入った小猫が、可愛い足をひろげて仰あお向むきになっていた。ジナイーダはその前に膝をついて、そっと猫の顔を持ちあげていた。公爵夫人の横には、窓と窓の間の壁かべをほとんど全部ふさいで、薄色の髪の毛を渦うずまかせた立派な青年の立っているのが、逆光線の中に、だんだんはっきり見えてきた。軽けい騎きへ兵いの士官で、血色のいい紅あかい顔をして、眼が飛び出している。 ﹁なんて滑こっ稽けいなんでしょう!﹂と、ジナイーダは何度も言って、﹁眼だって灰色でなくて、緑色だし、それに耳だってなんて大きいんでしょう! ありがとう、ベロヴゾーロフさん! あなたとても親切ねえ!﹂ その軽騎兵は、昨日見かけた青年たちの一人であることにわたしは気づいたが、にっこり笑って一礼する拍ひょ子うしに、拍はく車しゃを打合せて、サーベルの釣つり輪わをがちゃりと鳴らした。 ﹁昨日あなたは、縞の子猫で大きな耳をしているのが欲ほしいと仰おおせでありましたから……このとおり、手に入れたのであります。男子の一言――でありますから﹂と言って、また一礼した。 子猫はかぼそい鳴き声を立てると、床ゆかを嗅かぎ始めた。 ﹁おなかがすいてるのね!﹂と、ジナイーダは叫んで、――﹁ヴォニファーチイ、ソーニャ! 牛乳を持って来て﹂ 小間使は、古ぼけた黄色い服に、色のさめたネッカチーフを首に巻いて、牛乳の小皿を手に入ってくると、その皿を子猫の前に置いた。子猫はぴくりと身震いして、眼を細め、ぴちゃぴちゃなめだした。 ﹁まあ、バラ色の小ちっちゃな舌﹂と、ジナイーダは、頭が床に届かんばかりに身をかがめ、横合いから猫の鼻の下をのぞきこみながら、そう指して摘きした。 子猫はおなかがくちくなると、すまし返って前足をかわるがわる動かしながら、喉のどを鳴らし始めた。ジナイーダは立ち上がって、小間使の方を振向くと、平気な声で、﹁あっちへ持っておいで﹂と言った。 ﹁子猫の褒ほう美びに――お手を﹂と、軽騎兵は、にやりと笑うと、新調の軍服にきっちり締め上げられた逞たくましい全身を、ぐいと反り返らせた。 ﹁両方よ﹂と、ジナイーダは答えて、彼に両手を差さし伸のべた。軽騎兵がキスしている間、彼女は肩越しにわたしを見ていた。 わたしは一ひとところにじっと立ったまま――いったい笑ったものか、何か言ったものか、それともこのまま黙だまっていたものか、それがわからなかった。すると突とつ然ぜん、控え室のあけっぱなしのドア越ごしに、うちの下男のフョードルの姿が眼に映った。わたしに何かを合図している。わたしは何なに気げなく出て行った。 ﹁なんだい!﹂と、わたしは訊いた。 ﹁お母様がお呼びするようにおっしゃいましたんで﹂と、彼はひそひそ声で、――﹁あなた様が返事を持ってお帰りにならないので、大層お腹立ちでございますよ﹂ ﹁でも僕、そんなに長なが居いしたかい?﹂ ﹁一時間の余になります﹂ ﹁一時間の余!﹂と、思わずわたしは鸚おう鵡むが返えしに言って、客間へ引返すと、お辞じ儀ぎしたり足ずりしたりし始めた。 ﹁どこへいらっしゃるの?﹂と公爵令嬢が、軽騎兵の後ろから顔をのぞかせて聞いた。 ﹁僕、うちへ帰らなくちゃならないのです。じゃ、こう申しましょうか﹂と、老夫人に向って言い添そえた。――﹁一時過ぎにお見えになりますって﹂ ﹁そうね、そう申上げて下さい、坊ちゃん﹂ 公爵夫人があわただしく煙たば草こ入いれを出して、うるさい音を立てて嗅ぎ始めたので、わたしはぎょっとしたほどだった。――﹁そう申上げて下さい﹂と、彼女は、うるんだ眼でまばたきして、ふんふん唸うなりながら繰くり返かえした。 わたしはもう一遍お辞儀をすると、くるりと回れ右をして部屋を出たが、照れくさい感じが背中を這はっていた。後ろから見られていることがわかっている時、ごく若い人が感じるあれである。 ﹁よくって、ムッシュー・ヴォルデマール、また遊びにいらっしゃいね﹂と、ジナイーダは叫ぶと、また大声で笑い出した。 なぜあの人は笑ってばかりいるんだろう? と、わたしは、帰るみちみち考えた。お伴ともにはフョードルが、一ひと言こともわたしに話しかけずに、不服らしい様子で後ろからついてくる。母はわたしを叱しかりつけて、あの公爵夫人なんかの所で何をいつまでしていたんだろうと、呆あきれ返っていた。わたしは何とも答えずに、自分の部屋へ引っ込んだ。すると突然ひどく悲しくなった。……わたしは泣くまいと懸けん命めいになった。……あの軽騎兵がねたましかったのである。五
公こう爵しゃ夫くふ人じんは約やく束そく通どおり母を訪ねて来たが、母の気に入らなかった。わたしは二人の会見の場に居あわさなかったけれど夕食の時母が父に物語った言葉によると、あのザセーキナという公爵夫人は、どうもひファどム・くトレ俗・ヴっュルぽゲいー女ルらしく思われる。あの夫人は、どうぞ自分のためにセルギイ公爵に運動してくれとしつこくせがんで、ほとほと母をうんざりさせた。あの夫人はしょっちゅう何かしら訴そし訟ょうや事件を起こしていて――それも卑ド・しヴィいレー金ン・銭ザフ問エー題ル・ダルジャンなのだから――てっきりとんでもない食わせ者に違ちがいない、といった散々の評判だった。それでいながら母は、あの夫人を娘むすめさんと一いっ緒しょに明日の夕食に招いた、と言い足した︵この﹃娘さんと一緒﹄という言葉を耳にすると、わたしは鼻を皿さらの中へ突つっ込こまんばかりにした︶――とにかくあの夫人は隣となりどうしではあり、名のある人でもあるから、というのが理由だった。 これに対して父は母に、今やっとあの奥おくさんがどういう人かを思い出したと告げた。それによると父は若い頃ころ、今は亡ないザセーキン公爵を知っていた。立派な教育はあったけれど、薄うすっぺらな下らん男で、パリに長らく行っていたため、﹃パパリリジっャ児ン﹄と呼ばれていた。彼かれは大層金持だったが、カルタで全財産をすってしまい――どういうわけだか、まあ金が目当てだったらしくも思えるが――とは言え選びさえすれば、もっといい相手はあったのに︵と父は言い足して、冷たい微びし笑ょうを漏もらした︶――どこかの下役人の娘と結けっ婚こんして、その結婚ののち、投機に手を出して、今度は完全に破産してしまった。 ﹁どうぞあの夫人が、お金を貸してくれなどと言い出さなけりゃいいが﹂と、母はすかさず言った。 ﹁それも大いにあり得うることだね﹂と、父は平然として言った。――﹁あの奥さん、フランス語を話すかね?﹂ ﹁それが成っていないの﹂ ﹁ふん。まあ、そんなことはどうでもいい。君は今、あの人の娘さんも招待したとか言ったね。誰だれかが言っていたっけが、とても可かわ愛いらしい、教育のある娘だそうじゃないか﹂ ﹁へえ! じゃその娘さん、お母さんに似なかったわけですのね﹂ ﹁父親にもね﹂と、父は応じて、――﹁あの男は教育こそあったが、しかし頭がなかったよ﹂ 母はほっと溜ため息いきをついて、考え込んでしまった。父も黙だまってしまった。わたしはこの会話の間じゅう、ひどく照れくさかった。―― 夕食が済すむと、わたしは庭へ出て行ったが、鉄てっ砲ぽうは持たなかった。わたしは、﹃ザセーキン家の庭﹄へは近寄るまいと心に誓ちかったつもりだったが、うち勝ちがたい力に引かされて、ふらふらその方へ足が向いて――しかもそれが、無む駄だではなかった。わたしが垣かき根ねのそばまで行くか行かないうちに、ジナイーダの姿が眼に入ったのだ。今度は彼かの女じょ一人だった。両手で小さな本をささえて、ゆっくり小こみ径ちを歩いていた。向うはわたしに気づかなかった。 わたしはあやうくやり過ごしそうになったが、はっと気がついて、咳せき払ばらいをした。 彼女は振ふり向むいたが、立ち止りもしないで、まるい麦わら帽ぼう子しについている幅はばの広い水色のリボンを、片手で払はらいのけると、ちらとわたしに眼めをそそぎ、軽くほほえんだなり、またもや眼を本へ落してしまった。 わたしは庇ひさしのついた帽子を脱ぬいで、しばらくその場で迷っていたが、やがて重い物思いに沈しずみながら、そこを離はなれた。――﹃あクの・ひスとュにイと・っジてュ、・わプたーしルは・なエんルだろう?﹂とわたしは、︵どうした風の吹ふきまわしか︶フランス語で考えた。 聞き覚おぼえのある足音が、後ろで響ひびいた。振返ってみると――こっちへ、例の速い軽快な足どりでやってくるのは、父だった。 ﹁あれが公爵令れい嬢じょうかね?﹂と、父が尋たずねた。 ﹁お嬢じょうさんです﹂ ﹁はて、お前あの人を知ってるのかい?﹂ ﹁けさ公爵夫人の所で会ったんです﹂ 父は立ち止ったが、急に踵かかとでくるりと回ると、とって返して行った。そして、垣根越しにジナイーダと肩かたを並ならべる辺まで行くと、父は丁てい寧ねいに彼女に会えし釈ゃくをした。彼女も会釈を返したが、幾いく分ぶんびっくりしたような色を顔に浮べて、本を下へおろした。父の後ろ姿を見送っている彼女の様子が、わたしには見えた。わたしの父の服ふく装そうはいつも、とてもりゅうとして、独特の味があって、しかもさっぱりしたものだった。けれどこの時ほど父の姿がわたしに、すらりと格かっ好こうよく見えたこともなかったし、その灰色の帽子が、こころもち薄くなりかけた捲まき毛げの上に、すっきり合って見えたこともなかった。 わたしはジナイーダの方へ行こうとしたが、彼女はわたしには眼もくれず、また本を上へあげると、向うへ行ってしまった。六
その晩いっぱいとあくる朝の間じゅう、わたしはなんだか鬱うつ々うつと沈しずみ込こんだ気持で過した。忘れもしない、わたしは勉強しようと思って、カイダノーフを読み始めたが――結局この有名な教科書のぱらりと組んだ行やページが、眼めの前にちらちらするばかりで、なんにもならなかった。十じっ遍ぺんも立て続けにわたしは、﹃ユリウス・ケーザルは武勇世にすぐれ﹄という文句を読み下したが――何ひとつ頭に入らないので、本を投げ出してしまった。夕飯の前になると、わたしはまたポマードを塗ぬりたくって、またもやフロックコートとネクタイを着けた。 ﹁そりゃ、どういうつもりなの?﹂と、母が尋たずねた。――﹁お前はまだ大学生じゃないんですよ。それに、試験だって受かるかどうかわかりもしないのにさ。あの短い上着だって、まだついこのあいだ縫ぬわせたばかりじゃないか? 勿もっ体たいないですよ!﹂ ﹁お客様が来るので﹂とわたしは、ほとんど必死になってささやいた。 ﹁馬ば鹿かをお言い! あれがお客様なものですか!﹂ 降参するよりほかはなかった。わたしはフロックを短い上着に着き替かえたが、ネクタイは取らなかった。 公こう爵しゃ夫くふ人じんは娘むすめを連れて、夕食の三十分前にやって来た。老婦人は、すでにわたしにはお馴なじ染みの例の緑色の服の上に黄色いショールを引っかけ、火のような色のリボン飾かざりのついた旧式の室しつ内ない帽ぼうをかぶっていた。彼かの女じょはたちまち手形の話をやり出して、溜ため息いきをついたり、自分の貧びん乏ぼうを訴うったえたり、﹃おねだり﹄を始めたりするのだったが、礼れい儀ぎも作法もさっぱりお構いなしで、相変らず騒そう々ぞうしく嗅かぎ煙たば草こを嗅いだり、椅い子すの上で気まま勝手に身をねじ曲げたり、もぞもぞしたりしていた。自分が公爵夫人だなどということは、てんで念頭に浮んでも来こないらしい。 それに引替えジナイーダは、すこぶるツンと、ほとんど傲ごう慢まんなほどに構えて、あっぱれ公爵令れい嬢じょうであった。その顔には、冷やかな、ぴくりともしない尊大な表情が表われていたので――わたしにはまるで別人のように見え、あの眼まな差ざしもあの微びし笑ょうも、てんで見当らなかったけれど、それでいてこの新しい姿になっても、わたしにはやはり素す晴ばらしいお嬢さんと思われた。着ているのは、ふわりとした薄うすい紗しゃの服で、淡うす青あおい唐から草くさ模もよ様うがついていた。髪かみはイギリス風に、長い房ふさをなして両の頬ほおに垂たれかかっていた。この髪かたちが、彼女の顔の冷やかな表情に、しっくり合っていた。 父は食事の間、彼女の横に席を占しめて、もちまえの優美で落着きはらった慇いん懃ぎんさで、隣りん席せきの令嬢のお相手をつとめていた。父は時おり彼女の顔をちらりと眺ながめやる――彼女の方でも、時たま父を見返す。その彼女の顔つきが、じつに不思議な、ほとんど敵意をふくんだものだった。二人はフランス語で話し合っていたが、わたしは今でも思い出す、ジナイーダの発音の奇きれ麗いさに、びっくりしたものである。公爵夫人は食事の間も、例によってちっとも遠えん慮りょせずに、さかんに食べては、料理を褒ほめそやした。母は、いかにもこの相手が荷にや厄っか介いらしく、なんだか滅め入いったような気乗りのしない調子で、しぶしぶ受け答えをしていた。父は時たま、かすかに眉まゆの根をひそめた。ジナイーダもやはり、母の気に入らなかった。 ﹁なんだか高こう慢まんちきな娘だこと﹂と、母はあくる日そう言った。――﹁よく考えてみるがいいわ――何を高慢ぶることがあるんだろう――あアヴんェなクグ・リサゼ・ッミトーみヌた・いドな・顔グをリしゼてッさト!﹂ ﹁君は確か、パグリリのゼ下ッ町ト娘を見たことがないはずだが﹂と、父はチクリと刺さした。 ﹁ええ、ありがたいことにね!﹂ ﹁もちろん、ありがたいことには違ちがいないが……だが、それでどうしてあれらのことを、とやかく言えるのかね?﹂ わたしの方へは、ジナイーダはてんで注意を向けずじまいだった。食事が済むと間もなく、公爵夫人は別れの挨あい拶さつをし始めた。 ﹁どうぞ今後とも、よろしくお力ちか添らぞえのほどを、奥おく様さまにも旦だん那なさ様まにもお願いしますよ﹂と、彼女は、歌うように声を引っぱりながら母と父に言った。――﹁仕方ありませんわ! いい時もありましたけれど、返らぬ昔でしてねえ。これでももとは――奥方様と立てられたものですけど﹂と彼女は、いやな笑い声を立てて言い添えて、――﹁背に腹は、とやら申しましてねえ﹂ 父はうやうやしく夫人に一礼すると、控ひかえ室しつのドアまで腕うでを貸して送って行った。わたしは、つんつるてんの短い上着を着たまま、じっとそこに突つっ立たって、死しけ刑いを言い渡わたされた囚しゅ人うじんよろしくのていで床ゆかを見つめていた。ジナイーダの冷たい態度を見て、すっかり悄しょ気げてしまったのである。ところが、ああなんという驚おどろきだったろう。彼女はわたしの前を通り過ぎる時、例の優やさしい表情を眼に浮うかべて、わたしにこうささやいたのだ、――﹁今夜八時に、うちへいらっしゃいね、よくって、きっとよ……﹂わたしはあまりの思いがけなさに、両手をひろげたが――それなり彼女は、白いスカーフをふわりと頭にかけると、さっさと向うへ行ってしまった。七
きっかり八時に、わたしはフロックコートを一着におよび、頭の髪かみを小高く盛もり上げて、公こう爵しゃ夫くふ人じんの住すみ家かなる傍はな屋れへ入って行った。例の老ろう僕ぼくが、無愛想な眼めでわたしをじろりと見ると、しぶしぶ腰こし掛かけから尻しりをもたげた。 客間には陽気な人声が聞えていた。わたしはそのドアをあけると、あっとばかり後ろへすさった。部屋のまん中には、椅い子すの上に公爵令れい嬢じょうが突つっ立たち上がって、男の帽ぼう子しを眼の前に捧ささげている。椅子のまわりには、五人の男がひしめき合っている。彼らは我がちに帽子の中へ手を突っ込もうとするのだが、令嬢はそれを上へ上へと持ち上げて、力いっぱい揺ゆすぶっていた。わたしの姿を認めると、彼かの女じょは大きな声で、﹁待ってよ、待ってよ! 新しいお客様だわ、あの人にも札ふだをあげなくちゃ﹂と言うなり、ひらりと椅子から飛び下りて、わたしのフロックの袖そでの折返しをつかまえると、――﹁さあ、いらっしゃいってば﹂と言った。――﹁何をぼんやり立ってるの? 皆さメシんュー、御ごし紹ょう介かいいたしますわ。この方はムッシュー・ヴォルデマール、お隣となりの坊ぼっちゃんです。それからこちらは﹂と彼女は、わたしに向って順ぐりに客を指さしながら、付け加えた。﹁マレーフスキイ伯はく爵しゃく、お医者のルーシンさん、詩人のマイダーノフさん、退職大たい尉いのニルマーツキイさん、それから軽けい騎きへ兵いのベロヴゾーロフさん、この方にはもうお会いになったわね、どうぞ皆さん、仲よくなすってね﹂ わたしはすっかりあがってしまって、誰だれにもお辞じ儀ぎをせずにいたほどだった。医者のルーシンというのが、あのとき庭でわたしに小っぴどく恥はじをかかした例の浅黒い男であることはわかったが、あとはみんな初対面だった。 ﹁伯爵!﹂と、ジナイーダはあとを続けた。――﹁ムッシュー・ヴォルデマールにも札を書いて上げてちょうだい﹂ ﹁それは不公平ですな﹂と、心もちポーランドなまりのある言葉つきで、伯爵は反対した。これは頗すこぶる美びぼ貌うの、凝こった身なりをした栗くり色いろの髪かみの男で、表情に富んだ鳶とび色いろの目と、細い小ぢんまりした白い鼻をもち、小ちっぽけな口の上に、ちょび髭ひげを生はやしている。――﹁この人、罰ばっ金きんごっこの仲間に入らなかったんですからねえ﹂ ﹁不公平だ﹂と、ベロヴゾーロフと、もう一人別の男が相あい槌づちを打った。あとの方の男は、退職大尉と呼ばれた人物で、年は四十がらみ、みっともないほどのアバタ面づらで、アラビア人みたいに髪の毛が縮れて、猫ねこ背ぜで、がに股またで、肩けん章しょうのない軍服を着て、胸のボタンをはずしている。 ﹁札を書いて上げなさいってば﹂と、令嬢は繰くり返かえした。――﹁そりゃなんの暴動なの? ムッシュー・ヴォルデマールは初めて一いっ緒しょになったんだから、今日はこの人特とく別べつ扱あつかいよ。ぶつぶつ言わないで、書いてちょうだい、あたしそうしたいんだから﹂ 伯爵は肩をすくめたが、素すな直おに一礼すると、宝石入りの指輪で飾かざりたてた白い手にペンをとりあげ、小さな紙切れを裂さき取って、それに書き始めた。 ﹁ではせめてヴォルデマール氏に、ことの次第を説明して上げてもいいでしょう﹂と、嘲あざけるような声でルーシンが言い出した。――﹁さもないと、すっかりまごついておられるようですからな。実はね、君、我々は罰金ごっこをしているんだが、令嬢が罰金を払はらうことになったので、幸運のくじを引当てた人は、令嬢のお手にキスする権利を得うるわけなんです。わかったですか、僕ぼくの言ったことが?﹂ わたしはちらりと彼かれの顔を見たばかりで、相変らず茫ぼう然ぜん自じし失つのていで突っ立っていたが、その間に令嬢はまた椅子の上に飛び乗ると、またもや帽子を揺すぶり始めた。みんなが手を伸のばしたので――わたしもそれに従った。 ﹁マイダーノフさん﹂と令嬢は、背の高い青年に向って言った。これは痩やせこけた顔に、小さな眼をしょぼつかせて、黒い髪の毛をおそろしく長く伸ばした男である。――﹁あなたは詩人なんですから、気前のいいとこを発揮して、あなたの札をムッシュー・ヴォルデマールに譲ゆずって上げるべきだわ。するとこの方のチャンスは二つになって、一つじゃなくなるんですもの﹂ がマイダーノフは、首を横に振ふって、長ちょ髪うはつをさっと揺り上げた。わたしは一番あとから手を帽子の中へ入れて、つかんで、さて札をひろげてみたが……ああ! 途とた端んにふらふらっとしてしまった。見よ、その札には、﹃キス﹄と書いてあるではないか! ﹁キス!﹂と、わたしは思わず大声を上げた。 ﹁ブラヴォー! この人に当ったわ﹂と、令嬢がすかさず引取って――﹁まあ嬉うれしい!﹂――そして椅子を下りると、なんともいえず晴れやかな甘あまい顔つきで、じっとわたしの眼をのぞきこんだので、わたしの心臓はワッとばかり踊おどり立った。 ﹁あなたは嬉しくって?﹂と、彼女はわたしに訊きいた。 ﹁僕?……﹂うまく舌が回らなかった。 ﹁その札は僕に売ってくれたまえ﹂と、突とつ然ぜんわたしの耳のすぐ上で、ベロヴゾーロフのがらがらした声がした。――﹁百ルーブル出すぜ﹂ わたしが軽騎兵への返事に、非常な憤ふん慨がいの一いち瞥べつをくれたので、ジナイーダは手をたたくし、ルーシンは﹁でかした!﹂と絶ぜっ叫きょうする騒さわぎだった。 ﹁それはそうと﹂と、ルーシンは続けた。――﹁わたしは式部官として、すべてが規定通り行われるよう宰さい領りょうせねばなりません。ムッシュー・ヴォルデマール、片かた膝ひざをおつきなさい。そういう決りになっているのです﹂ ジナイーダはわたしの前に立つと、わたしを一層よく見ようとするかのように首を少し横にかしげ、いとも荘そう重ちょうに片手を差さし伸のべた。わたしは眼の中が暗くなった。片膝をつこうとしたが、べったり両膝ついてしまって、おそろしく不器用に唇くちびるをジナイーダの指に触ふれたので、むこうの爪つめで自分の鼻さきに、かるい引っかき疵きずをこしらえてしまったほどだった。 ﹁よろしい!﹂とルーシンは叫さけんで、わたしを助け起した。 罰金ごっこは続いていった。ジナイーダはわたしを自分のそばの席に着かせた。手を変え品を変え、実にいろんな罰金を彼女は思いついたものである! そのうちに彼女は、﹃立像﹄をやって見せることになったが――すると彼女は自分の台座に、醜ぶお男とこのニルマーツキイを選び出して、うつ伏ぶせに寝ねるように命じたばかりか、顔を胸へたくし込こませさえしたものである。笑い声は小やみもなしに続いた。 四角四面の地じぬ主し屋敷に生おい立って、一人ぼっちの生き真ま面じ目めな教育を受けてきた少年のわたしは、こうしたらんちき騒ぎや、ほとんど狂きょ暴うぼうともいうべき無ぶえ遠んり慮ょな浮かれ気分や、見ず知らずの連中との臍へその緒お切って初めての交際やのお陰かげで、たちまち頭がカーッとなった。わたしは酒でも飲んだように手もなく酔よっぱらってしまった。わたしがほかの誰だれよりも大きな声で、笑ったり喋しゃべったりし始めたので、隣の部屋にいた老夫人までが、わざわざわたしを見に出てきたほどだった。夫人は、相談ごとのために呼び寄せたイヴェールスキイ門あたりの小役人と、何やら話し込んでいたのである。しかしわたしは、すっかりもう幸福感に酔いしれていたので、誰が冷笑しようが誰が白い眼でにらもうが、下げ世せ話わに言うとおり、どこ吹ふく風で、一文の価値も認めなかった。 ジナイーダは相変らず、わたしをひいきにして、寸時もそばから離はなさなかった。ある罰金に当った時、わたしは彼女と並ならんで、ひとつ絹のプラトークにくるまる羽目になったことがある。つまりわたしは、自分の秘密を彼女に打明けなければならないのであった。忘れもしない。わたしたち二人の頭が、突然もやもやした、半はん透とう明めいの匂におやかな靄もやに包まれたかと思うと、その靄の中で、近々と柔やわらかに彼女の眼が光って、ひらたい唇が熱っぽく息づき、歯がだんだん見えてきて、ほつれ毛が焼けつくようにわたしの頬ほおをくすぐった。わたしは黙だまっていた。彼女は神しん秘ぴめいた狡ずるそうな微びし笑ょうを浮うかべていたが、やがて、﹁ね、どうしたの?﹂とささやいた。わたしは赤くなって、ふふと笑っただけで、顔をそむけ、じっと息を殺していた。 罰金ごっこに飽あきると、――こんどは縄なわまわしが始まった。ああ! わたしがついポカンとして、鬼おにになった彼女から、したたかピシャリと指をぶたれたとき、なんという法ほう悦えつをわたしは感じたことだろう! そのあとで、わざとわたしがポカンとした振りをしていると、彼女はわたしをじらそうとして、差伸べた両手に触れようともしないのだった! 我々がその晩のうちにやったことは、まだまだそれだけではなかった! ピアノも弾ひけば、歌もうたい、踊おどりもおどれば、ジプシーの群れの真ま似ねもした。ニルマーツキイは熊くまの縫ぬいぐるみを着せられて、塩の入った水を飲まされた。マレーフスキイ伯爵は、トランプの手品を次から次へと披ひろ露うしたが、あげくの果てにカードをよく切ってから、札を四人に配る時、切札を全部わが手に収めてしまったので、ルーシンは﹃僭せん越えつながら祝辞を述べる﹄ことになった。マイダーノフは自作の﹃人殺し﹄という長詩の一節を朗読したが、︵それはロマンティシズムの全ぜん盛せい期きに取材してあった︶、彼はこの作品を、黒い表紙に血色の題字で、出版するつもりだと言っていた。イヴェールスキイ門からやって来た小役人の膝から、こっそり帽子を取ってきて、その身みの代しろ金きんとしてカザーク踊りをおどらせたり、老僕ヴォニファーチイに女の室内帽をかぶせたり、――そうかと思うと、公爵令嬢が男の帽子をかぶったり……とても一々数えきれない。ただベロヴゾーロフだけは、眉みけ間んに八の字を寄せて腹立たしげな様子で、だんだん隅すみっこへ引っ込みがちになった。……時たま彼の眼は、さっと血ばしって、満面に朱しゅをそそぎ、今にもみんなに躍りかかって、わたしたちを木こっ端ぱみじんに八方へ投げ飛ばしそうな剣けん幕まくを見せたが、令嬢がちらりと彼を見て、指を立てておどかすと、彼はまたこそこそ隅っこへ引き下がるのだった。 しまいに、さすがのわたしたちも精も根こんも尽き果ててしまった。公爵夫人は、御自身の言い草を借りると、そんなことには一向平気な性しょ分うぶんで――どんなに騒がれようがビクともしないたちだったが――それでもやはり疲ひろ労うを覚えて、ちょっと一休み横になると言い出した。夜の十一時過ぎに夜食が出て、古いひからびたチーズの切きれっ端ぱしと、ハムを刻み込こんだ妙みょうに冷たい肉にく饅まん頭じゅうとだけだったが、それがわたしには、どんなパイよりもおいしく思われた。葡ぶど萄うし酒ゅは一ひと壜びんきりで、それも怪あやしげな、頸くびのところがふくれ返ったどす黒い代しろ物もので、中身はプーンと桃もも色いろのペンキの臭においがした。もっとも、誰一人それは飲まなかった。 疲労と幸福感とでへとへとになって、わたしは傍はな屋れから表へ出た。別れにのぞんで、ジナイーダはぎゅっとわたしの手を握にぎりしめ、またもや謎なぞめいた微笑を浮べた。 夜気がしっとりと重く、わたしの火ほ照てった顔へ匂においを吹きつけるのだった。どうやら雷らい雨うが来そうな模様で、黒い雨雲が湧わきだして空を這はい、しきりにそのもやもやした輪りん郭かくを変えていた。そよ風が暗い木こだ立ちの中でざわざわと身みぶ震るいして、どこか地平のはるかな彼かな方たでは、まるで独ひとり言ごとのように、雷かみなりが腹立たしげな鈍にぶい声でぶつぶつ言っていた。 裏口からこっそり、わたしは自分の部屋へもぐり込んだ。守もり役やくの爺じいやが、床ゆかべたで眠ねむっていたので、わたしはそれをまたぎ越こさなければならなかった。爺やは目をさまして、わたしを見るなり、母がまたぞろわたしに腹を立てて、またも迎むかえに人を出そうとしたが、父が止めたのだ、と報告した。︵わたしは寝ねど床こに入る前には、必ず母にお休みを言い、祝福してもらうことにしていた︶が、こうなってはもう仕方がない! わたしは爺やに、自分で着き替かえをして寝るからいい、と言って――蝋ろう燭そくを吹き消した。だがわたしは、着替えもしなければ、横になりもしなかった。 わたしはちょっと椅子に掛けたが、それなり魔まほ法うにでもかかったように、長いこと坐すわったままでいた。その間に感じたことは、実に目新しい、実に甘かん美びなものだった。……わたしはほんの少しあたりへ眼を配りながら、じっと身じろぎもせずに坐って、ゆっくりと息をついていた。そしてただ時々、声を立てずに思い出し笑いをしたり、そうかと思うと、﹃俺おれは恋こいしているのだ、これがそれなのだ、これが恋なのだ﹄という想念に突つき当って、胸の底がひやりとするのだった。ジナイーダの顔が眼の前の闇やみの中を静かに漂ただよっていた――漂ってはいたが、漂い去りはしなかった。その唇は相変らず謎めいた微笑を浮べ、眼は少し横合いから物問いたげに、考え深そうに、優やさしげにわたしを見まもっていた……あの別れた瞬しゅ間んかんとそっくりそのままの眼まな差ざしだった。やがてとうとうわたしは立ち上がって、爪つま先さきだちでベッドに歩み寄り、着替えもせずに、そっと頭を枕まくらにのせた。激はげしい動作によって、身うちに充みち満ちているものを驚おどろかしはせぬかと、それが心配でならなかったように……。 わたしは横になったが、眼もつぶらずにいた。まもなくわたしは、何かしら微かすかな照返しが、わたしのいる部屋の中へ、絶えず射さしては消え射しては消えするのに気がついた。……わたしは身をもたげて、窓をながめた。神秘めいてぼんやり白んでいるガラスの上に、窓の桟さんがくっきりと描えがき出されている。雷雨だな――とわたしは思った。確かに雷雨には違ちがいなかったが、とても遠方を通っているので、雷鳴も聞えないほどだった。ただ、光の鈍い、長々と尾おを引いた、枝えだに分れたような稲いな妻ずまが、空にひらめいているだけで、それもひらめくというよりはむしろ死にかけている鳥の翼つばさのように、ぴくぴく震ふるえているのだった。わたしは起き上がって、窓のそばへ行き、朝までそこに立ち尽つくした。……稲妻はほんの束つかの間まもやまなかった。俗にいう雀の夜――つまり夏げし至ご頃ろの短か夜である。わたしは、ひっそり静まった砂原や、ネスクーチヌィ公園の黒々とした森もり陰かげや、鈍く稲妻がひらめくたびにやはり震えるように見える遠い家々の黄いろっぽい正面やを、じっと見つめていた。……見つめたまま――眼を離すことができなかった。そのひっそりした稲妻、その遠えん慮りょがちのひらめきが、同じくわたしの身うちにもひらめいている無言のひそやかな衝しょ動うどうに、ちょうど相応ずるもののように思われた。夜が明け始めた。朝焼けがそこここに真しん紅くのまだらを散らした。日の出が近づくにつれて、稲妻はだんだん淡あわく、短くなっていった。そのわななきはいよいよ間まど遠おになって、ついに、はっきり明けはなれた一日の、もの皆みなの夢ゆめをさます疑いもない光にひたされて消えてしまった。 わたしの胸の中でも、やはり稲妻は消えてしまった。わたしは非常な疲つかれと静けさを感じたが……ジナイーダの面おも影かげは相変らず飛びめぐって、わたしの魂たましいの上に凱かい歌がを奏していた。ただしその面影も、いつかひとりでに安らいできたように見えた。さながら白鳥が、沼ぬまの草むらから飛び立ったように、その面影もまた、それを取巻いているさまざまな醜みにくい物陰から、離れ去ったもののようだった。そしてわたしはうとうと寝入りながら、これを名な残ごりにもう一いっ遍ぺん、信頼をこめた崇すう拝はいの念をもって、その面影にひしとばかりとりすがった。…… おお、めざまされた魂の、つつましい情感よ、その優しい響ひびきよ、そのめでたさと静もりよ。恋の初めての感動の、とろけるばかりの悦よろこびよ。――汝いましらはそも、今いずこ、今いずこ?八
あくる朝、わたしがお茶に下りてゆくと、母はわたしを叱しかったけれど――思ったほどのことはなく、ゆうべどんな風にして過したかを、わたしに話をさせた。わたしは言葉少なに応答しながら、細かな点はどしどしはぶいて、全体として大いに無むじ邪ゃ気きな感じを与あたえるようにつとめた。 ﹁とにかくあの人たちは、まコムと・イもル・なフ連ォ中ーじゃありません﹂と、母は釘くぎをさした。――﹁だからお前も、あんなところへ出入りする代りに、ちゃんと勉強して、試験の準備をするんですよ﹂ わたしの勉強に対する母の配はい慮りょが、わずかこの数語に尽つきていることは、わたしも心得ているから、別に口答えをする必要はないと思った。ところがお茶が済すむと、父はわたしと腕うでを組んで、一いっ緒しょに庭へ出て行きながら、わたしがザセーキン家で見たことを、逐ちく一いちわたしに物語らせた。 父はわたしに、奇きみ妙ょうな影えい響きょ力うりょくを持っていたし、そう言えば、互たがいの関係にしたところで、やはり奇妙なものだった。父はわたしの教育のことには、ほとんど風ふう馬ばぎ牛ゅうだったが、さりとてわたしを馬ば鹿かにするような真ま似ねは、ついぞしたことがない。父はわたしの自由を尊重していたばかりか、更さらに進んで、ちょっと妙な言い方だが、わたしに対して慇いん懃ぎんでさえあった。……ただし、近くへは寄せつけてくれないのである。わたしは父を愛し、父に見とれて、これこそ男性というものの典型だと思っていた。だから、実際の話が、わたしはもっと強く強く、父になついたはずなのだが、ただ父の手が私を押おしのけているような感じが、しょっちゅうあって、それが邪じゃ魔まになったのだ! その代り、父さえその気になれば、ほとんど一いっ瞬しゅんにして、ただの一ひと言こと、ただの一動きでもって、父に対する無限の信頼感を、わたしの胸に呼びさますことができた。わたしは心をあけひろげて、まるで相手が聡そう明めいな友達か、親切な先生でもあるように、父とおしゃべりを始めるのだが……やがてまた不意に、父はわたしをほうり出してしまう。――またしてもその手がわたしを押しのける。いかにも愛想のいい、もの柔やわらかな手つきだが、とにかく押しのけるのである。 父も時には、浮うき浮うきした気分になることがあって、そうなると私を相手に、まるで子供のように、ふざけたり、はねたりするのをいとわなかった︵父は、激はげしい肉体の運動なら、なんでも好きだった︶。一度――あとにも先にも唯ただの一度きりだが! ――父がとても優やさしくわたしを可かわ愛いがってくれて、そのため危あやうくわたしが泣き出しそうになったことがある。……しかし、その浮き浮きした気分も、優しさも、すぐまた跡あとかたもなく消えて、――現に二人の間に起った事こと柄がらから、何かしら今後の期待を引出すなどということは、とてもできない相談だった。まあ何もかも、夢ゆめで見たようなものだったのだ。よくわたしは、父の賢かしこそうな、美しい、澄すみきった顔を、じっと見ているうちに……胸がどきどきしてきて、身も心も父の方へ吸い寄せられるような気がした。……すると父は、そういう私の気持に感づきでもしたようにひょいと通りすがりに私の頬ほおをかるく叩たたいて、――それなり向うへ行ってしまうか、何か仕事をやり出すか、さもなければ、いきなり頭から足の先まで、凍こおりついたように冷たくなってしまう。その冷たくなりようときたら、ほかの人には見られない父独特のもので、それを見せられると私はたちまち縮み上がって、やはり寒々とした気持になるのだった。 ごく稀まれに、父は発ほっ作さて的きにわたしに好意を示しはしたが、それは決して、口にこそ出さないが一目でそれと察せられる私の哀あい願がんによって、ひき起されたものではない。それは、いつも決って、不意に起るのだった。あとになって、父の性格をいろいろ考えてみたあげく、わたしの達した結論は、父としては私や家庭生活なんぞを、顧かえりみるひまがなかったということである。父は、ある別のものを愛していて、その別のもので、すっかり堪たん能のうしていたのである。 ﹃取れるだけ自分の手でつかめ。人の手にあやつられるな。自分が自分みずからのものであること――人生の妙みょ趣うしゅはつまりそこだよ﹄と、ある時父はわたしに語った。また別の時、わたしは若き民主主義者として、父の面前で、とうとうと自由を論じ始めたことがある︵父はその日は、わたしの当時の言い方でいうと﹁優し﹂かった。そんな時には、どんな話を持ち出そうと勝手だった︶。 ﹁自由か﹂と、父は引取って、﹁だがね、人間に自由を与えてくれるものは何か。お前それを知っているかね?﹂ ﹁なんです?﹂ ﹁意志だよ、自分自身の意志だよ。これは、権力までも与えてくれる。自由よりもっと貴とうとい権力をね。欲ほっする――ということができたら、自由にもなれるし、上に立つこともできるのだ﹂ 父は、何よりもまず、そして何にも増して、生活することを欲した。そして実際、生活したのだ。……ひょっとすると父は、自分が人生の﹁妙趣﹂をあまり永く享きょ楽うらくできないことを予感していたのかもしれない。四十二で死んだのである。 わたしは、ザセーキン家を訪問した時の一部始終を、詳くわしく父に話して聞かせた。父はベンチに腰こし掛かけて、鞭むちの先で砂に何やら書きながら、半ばは注意ぶかく、半ばは放心のていで、わたしの話を聴きいていた。父は時々笑い声を立てて、一種こう晴れやかな、面おも白しろそうな眼めつきで私の顔をちらりと見たり、ちょっとした質問やまぜっ返しで、わたしを焚たきつけたりした。初めのうちは私は、ジナイーダの名前をさえ口にする勇気が出なかったが、やがて我がま慢んがならなくなって、しきりに彼かの女じょのことを褒ほめちぎりだした。父は相変らず笑い続けていたが、そのうちにふと考え込んだかと思うと伸のびをして、立ち上がった。 わたしは、父が家から出しなに、馬に鞍くらを置くように命じたのを思い出した。父の馬術はなかなか大したもので、レーリ氏などよりずっと早くから、どんな荒あら馬うまをも馴ならすのに妙を得ていた。 ﹁僕ぼくも一緒に行っていい、パパ?﹂と、わたしは父に訊きいた。 ﹁いいや﹂と父は答えた。その顔には、例の素そっ気けない愛想のいい表情が浮うかんだ。――﹁乗りたけりゃ、一人でお行き。そして、わたしは行かないからって、別べっ当とうにそう言っとくれ﹂ 父はわたしに背を向け、足ばやに立ち去った。わたしが見送っていると、父の姿は門の外へ消えた。垣かき根ねに沿って、帽ぼう子しの動いて行くのが見える。父はザセーキン家へ入って行った。 父は、一時間以上はそこにいなかったが、それからすぐさま町へ出かけ、夕方やっと帰って来た。 夕食のあとで、今度は私がザセーキン家へ行った。客間に入ってみると、老ろう公こう爵しゃ夫くふ人じんきりしかいなかった。わたしの姿を見た夫人は、室内帽子をかぶった頭を、編あみ針ばりの先で掻かくと、いきなりわたしに向って、請せい願がん書しょを一通清書してもらえまいかと問いかけた。 ﹁おやすい御ごよ用うですとも﹂と、わたしは答えて、椅い子すの端はしに腰を下ろした。 ﹁ただね、字をなるべく大きくお願いしますよ﹂と公爵夫人は、べったり書き汚よごした紙を一枚わたしながら言った。――﹁で、今日じゅうにやって下さらなくて、坊ぼっちゃん?﹂ ﹁やりますとも、今日じゅうに﹂ 隣となりの部屋のドアがほんのちょっぴり開いて、その隙すき間まに、ジナイーダの顔が現われた。――蒼あおざめた、もの思わしげな顔つきをして、髪かみは無造作に後ろへはね返してある。大きな冷やかな両眼で、わたしをじっと見ると、またそっとドアを閉めた。 ﹁ジーナ、これ、ジーナや!﹂と、老夫人が呼んだ。ジナイーダは返事をしなかった。わたしは老夫人の請願書を持って帰って、一晩じゅうそれにかかりきりだった。九
わたしの﹁情熱﹂は、その日から始まった。忘れもしない、――その時わたしは、初めて就職した人が感じるはずの、あの一種の気持と同じものを味わった。つまりわたしは、もはやただの子供でも少年でもなくて、恋こいする人になったのだ。今わたしは、その日からわたしの情熱が始まったと言ったが、も一つその上に、わたしの悩なやみもその日から始まったと、言い添そえてもいいだろう。 ジナイーダがいないと、わたしは気が滅め入いった。何ひとつ頭に浮うかんでこず、何ごとも手につかなかった。わたしは何日もぶっつづけに、明けても暮れても、しきりに彼かの女じょのことを思っていた。わたしは気が滅入った……とはいえ、彼女がいる時でも、別に気が楽になったわけではない。わたしは嫉しっ妬としたり、自分の小ちっぽけさ加減に愛想をつかしたり、馬ば鹿かみたいにすねてみたり、馬鹿みたいに平へいつくばったり、――そのくせ、どうにもならない引力で彼女の方へ引きつけられて、彼女の居間の敷居をまたぐ都つ度ど、わたしは思わず知らず、幸福のおののきに総そう身みが震ふるえるのだった。ジナイーダはすぐさま、わたしが彼女に恋していることを見み抜ぬいたし、わたしの方でも、別にそれを匿かくそうとも思わなかった。彼女は、わたしの情熱を面おも白しろがって、わたしをからかったり、甘あまやかしたり、いじめたりした。いったい、他人のために、その最大の喜びや、その底知れぬ悲しみの、唯ゆい一いつ無む二にの源泉になったり、またはそれらの、絶対至上にして無責任な原因になったりするのは、快いものであるが、全く私は、ジナイーダの手にかかったが最後、まるでぐにゃぐにゃな蝋ろうみたいなものだったのだ。 とはいえ、何もわたしだけが、彼女に恋していたわけではなかった。彼女の家にやってくる男という男は、みんな彼女にのぼせあがっていたし、彼女の方では、それをみんな鎖くさりにつないで、自分の足もとに飼かっていたわけなのだ。そうした男たちの胸に、あるいは希望を、あるいは不安を呼びおこしたり、こっちの気の向きよう一つで、彼らをきりきり舞まいさせたりするのが︵それを彼女は、人間のぶつけ合い、と呼んでいた︶、彼女には面白くてならなかったのである。しかも男たちの方では、それに抗こう議ぎを申し立てるどころか、喜んで彼女の言いなりになっていたのだ。溌はつ剌らつとして美しい彼女という人間のなかには、狡ずるさと暢のん気きさ、技ぎこ巧うと素そぼ朴く、おとなしさとやんちゃさ、といったようなものが、一種特別な魅みり力ょくある混り合いをしていた。彼女の言うことなすこと、彼女の身ぶり物ごしのはしはしにも、微びみ妙ょうな、ふわふわした魅力が漂ただよって、その隅すみ々ずみにまで、他人には真ま似ねのできぬ、ぴちぴちした力が溢あふれていた。彼女の顔つきも、しょっちゅう変って、やはりぴちぴちしていた。それはほとんど同時に、冷笑を表わしもすれば、物思いを表わしもし、情熱の表情にもなるのであった。まるで晴れた風のある日の雲の陰かげのように、軽いすばしこい色とりどりの情感が、絶えず彼女の眼めや唇くちびるのほとりに、ちらついているのだった。 彼女にとって、自分の崇すう拝はい者しゃは誰だれもかれも、みんな入用な人物だった。ベロヴゾーロフは、彼女から時によっては、﹃わたしの猛もう獣じゅうさん﹄と呼ばれたり、時によっては簡単に、﹃わたしの﹄と呼ばれたりしていたが、彼女のためとあらば火の中へも飛び込こみかねない男である。自分の頭の働きにも自信はなし、ほかにこれといった取とり柄えもないとあきらめている彼かれは、しょっちゅう彼女に結けっ婚こんを申込んで、ほかの男の言うことは、要するに空から念ねん仏ぶつに過ぎないと、ほのめかすのであった。 マイダーノフは、彼女の魂たましいのなかにある詩的な素質のお相手をつとめていた。ほとんどすべての文士の多分に漏もれず、彼もかなり冷たい人間だったが、それでいて自分がジナイーダを崇拝しているものと、遮しゃ二に無む二に相手に思い込ませようとしていたのみか、どうやら自分でも、そう思い込もうとしているらしかった。無むじ尽んぞ蔵うともいうべき詩句に、彼女への讃さん美びの情を託たくしては、それを、どこかしら不自然でもあれば真しん剣けんでもある感かん激げきをもって、彼女に朗読して聞かせる。彼女の方では、この男に共鳴する面もあり、いささかおひゃらかし気味でもあった。あまりこの男を信用していない彼女は、彼の真情の吐と露ろもいい加減聞き飽あきると、プーキシンを朗読させるのだった。それは、彼女の言い草に従えば、空気を清めるためだった。 次にルーシンは、皮肉屋で、露ろこ骨つな毒どく舌ぜつをふるう医者だが、彼女というものを一番よく見ており、また誰より深く彼女を愛してもいながら、そのくせ陰でも面前でも、彼女の悪口ばかり言っていた。彼女は、この男を尊敬してはいたものの、さりとて決して容よう赦しゃはせず、時々、一種特別な、さも小気味よげな満足の面おも持もちで、彼だってやはり自分の手中にあるのだということを、彼に感づかせるように仕向けるのだった。 ﹁わたし、コケットなのよ。人情なんかないわ。まあ、役者向きの水みず性しょうなんだわ﹂と、彼女はある日、わたしのいる前で、彼に言ったことがある。――﹁あ、いいことがある! さ、手を出しなさい。ピンを突つっ刺さしてあげるから。するとあなたは、この坊ぼっちゃんの手前恥はずかしいでしょうし、それに痛くもあるでしょう。でもね、あなたは笑って見せてちょうだい。いいこと、君くん子しさん﹂ ルーシンは赤くなって、顔をそむけ、唇をかみしめたが、結局その手を差出した。彼女がピンを突っ刺すと、まさしく彼は笑い出した。……彼女も声を立てて笑いながら、そのピンをかなり深く刺しこんで、むなしくあちこち外そらそうとする彼の眼を、じっと覗のぞき込むのだった。…… ジナイーダとマレーフスキイ伯はく爵しゃくの関係が、一番わたしにはわかりにくかった。なかなか美男子で、如じょ才さいなく頭のはたらく男なのだが、しかし、ほんの十六歳さいの少年にすぎないわたしでさえ、この男には何かしら油断のならぬ、うさん臭くさいところがあるような気がした。しかもジナイーダが、それに気づいていないのが、わたしは不思議でならなかった。ひょっとすると彼女は、そのうさん臭さに気づいていながら、別にそれが厭いやでなかったのかもしれない。なにしろ教育も変則なら、つきあいや習慣も風変りだし、しょっちゅう母親はそばにいるし、家の内情は貧びん乏ぼうで乱脈だし、かてて加えて、若い娘むすめの身で気まま勝手はしたい放題、それに、ぐるりの連中より一段も二段も上だという意識もあるし――というわけで、そうした一いっ切さい合がっ財さいがあわさって、彼女のうちに、一種こう人を小馬鹿にしたような無むと頓んじ着ゃくさや投げやりな態度を、養ったのである。何事がもちあがろうが――よしんばヴォニファーチイが入って来て﹁砂糖がきれました﹂と言ごん上じょうに及およぼうが、何か忌いまわしい世間の陰口が耳に入ろうが、客の中で喧けん嘩かが始まろうが――彼女はただ、豊かな捲まき髪げを一ひと振ふりして、﹁くだらない﹂と言うだけで、けろりとしていた。 お陰でわたしは、全身の血がカッと燃え立つような思いをすることが、よくあった。たとえばマレーフスキイが、まるで狐きつねみたいに狡そうに肩を揺ゆすりながら、彼女のそばへ寄って行って、彼女の掛けている椅い子すの背に、伊だ達てな格かっ好こうをしてもたれかかり、さも得意げな、追つい従しょうたらたらの薄うす笑わらいを浮うかべながら、彼女の耳に何かささやきだす。すると彼女は、両手を胸に組んで、まじまじと彼を見つめながら、やがて自分も微笑を浮べ、首を振ったりするのである。 ﹁あなたは、どこが好よくて、マレーフスキイさんなんかを家へ入れるのです?﹂と、ある時わたしは彼女に訊きいてみた。 ﹁だって、あの人の髭ひげ、すてきじゃなくて!﹂と、彼女は答えた。――﹁でもそんなこと、あなたの知ったことじゃないわ﹂ また別の時、彼女はわたしに、こう言ったことがあった。 ﹁わたしがあの人を愛してると、あなた思っているのじゃない? 違ちがうわ。わたし、こっちで上から見下ろさなくちゃならないような人は、好きになれないの。わたしの欲ほしいのは、向うでこっちを征せい服ふくしてくれるような人。……でもね、そんな人にぶつかりっこはないわ、ありがたいことにね! わたし、誰の手にもひっかかりはしないわ、イイーだ﹂ ﹁すると、決して恋をしないというわけですね﹂ ﹁じゃ、あなたをどうするの? わたし、あなたを愛していなくって?﹂そう言うと彼女は、手てぶ袋くろの先で、わたしの鼻をたたいた。 全くジナイーダは、さんざんわたしを慰なぐさみ物ものにした。三週間の間、わたしは毎日彼女に会っていたが、その間に彼女がわたしに向ってやらなかったことは、何一つ、全く何一つなかった、と言っていいほどだ! 彼女の方でわたしの家へ来ることは、あまりなかったが、それはわたしにとって痛事ではなかった。うちへ来ると、彼女はたちまち、令れい嬢じょう――つまり公こう爵しゃく令嬢に、早変りしてしまうし、こっちでも彼女を敬遠していた。わたしは、母に見破られるのが怖こわかったのだ。母はジナイーダに頗すこぶる悪意をいだいて、まるで仇かたきのようにわたしたちを見張っていた。父の方は、大して怖くなかった。父は、わたしには気がつかない様子だったし、彼女ともあまり話をしなかったが、いざ話す時には、何か特別に気の利きいた、もっともらしい話しぶりをしていた。 わたしは、勉強も読書もやめてしまった。郊こう外がい散歩や乗馬までも、やめてしまった。まるで足に糸をつけられたカブト虫みたいに、わたしはなつかしい傍はな屋れのまわりを、絶えずぐるぐる回っていた。いいと言われれば、いつまでだってそこにいたはずだが……そうはいかなかった。母の小こご言ともうるさいし、時には当のジナイーダから、追っ立てを食う始末だった。するとわたしは、自分の部屋へ引っこもるか、それとも庭のいちばん端まで行って、石造りの高い温室の崩くずれ残りへよじ登って、道路に面した壁かべから両足をぶらさげ、何時間も坐すわったなりで、一心に眺ながめに眺めるのだったが、そのくせ何ひとつ目に入らなかった。わたしのそばには、埃ほこりをかぶったイラクサの上を、ものうげに白い蝶ちょ々うちょうが飛びかわしていた。元気な雀すずめが一いち羽わ、少し先の、半ば割れた赤あか煉れん瓦がの上に止って、絶えず全身をくるくる回し、尾おをひろげて、癇かんにさわる鳴き声を立てていた。相変らず疑ぐりぶかい鴉からすの群むれが、すっかり葉の落ちた白しら樺かばの高い高いてっぺんに止って、思い出したようにカアカア鳴いていた。太陽と風が、そのまばらな枝えだの間に、静かにたわむれていた。ドン修道院の鐘かねの音ねが、時おり、穏おだやかに陰いん気きに響ひびいてきた。――わたしはじっと坐って、見つめたり聞き入ったりしているうちに、何かしら名状しがたい感じで、胸がいっぱいになるのだった。その中には、悲しみも、喜びも、未来の予感も、希望も、生の恐おそれも、何から何までが含ふくまれていた。けれど当時のわたしは、そんなものは何一つわかりもせず、また、自分の中に沸ふつ々ふつとたぎっているすべてのもののうち、どの一つだって、それと名ざすだけの力はなかったろう。いや、いっそ、その一切をあげて、ただ一つの名――ジナイーダという名でもって、呼んだかもしれない。 ところがジナイーダは、猫ねこが鼠ねずみをおもちゃにするように、相変らずわたしを弄もてあそんでいた。急にじゃれついてきて、わたしを興奮させたり、うっとりさせたかと思うと、こんどは手の裏を返すように、わたしを突つっぱなして、彼女に近寄ることも、その顔を眺めることも、できないような羽目に落してしまう。 忘れもしないが、彼女が二、三日ぶっ続けに、とても冷たい態度をわたしに見せたことがある。わたしはすっかり怖おじ気けづいて、こそこそ彼女たちの傍はな屋れへ這はいこんでは、なるべく老夫人のそばに、くっついているようにしたものである。しかも折りも折り、夫人はひどく怒おこりっぽくなっていて、がなり散らしてばかりいたのだ。というのは、何か手形の件がうまくゆかないので、もう二度も、区の署長さんと掛け合ったところだったのである。 ある日、わたしが庭へ出て、例の垣かき根ねのそばを通りかかると、ジナイーダの姿が目にとまった。彼女は両手をわきについて、草の上に坐ったまま、身じろぎもせずにいる。わたしが、そっと遠ざかろうとすると、彼女はいきなり首を上げてさも命令するような合図をした。わたしは、その場に立ちすくんだ。どういうつもりなのか、一度では呑のみこめなかったのだ。彼女は、もう一いっ遍ぺん合図をした。わたしは、すぐさま垣根を飛びこえて、いそいそと彼女のそばへ駆かけ寄った。ところが彼女は、目でわたしを制して、彼女から二歩ほどのところにある小こみ径ちを、指さして見せた。どうしたらいいのかわからず、当とう惑わくして、わたしは小径の縁ふちにひざまずいた。見ると彼女の顔は真まっ蒼さおで、なんとも言えず痛ましい悲ひあ哀いと、深い疲つかれの色が、目鼻だちのくまぐまに刻まれているので、わたしは心臓が締しめつけられるような気がして、思わずこう口走った。﹁どうかしたのですか?﹂ ジナイーダは片手を伸のばして、何か草の葉をむしると、歯で噛かんで、ぽいと向うへ投げた。 ﹁あなた、わたしがとても好き?﹂と、やがての果てに、彼女は訊きいた。――﹁そう?﹂ わたしは、なんとも答えなかった。いまさら、なんの返事をすることがあろう。 ﹁そう﹂と、彼女はなおもわたしを見つめながら、繰くり返かえした。――﹁そりゃ、そうだわね。まるで同じ眼めだもの﹂そう言い足して、じっと考えこみ、両手で顔を隠かくした。やがて、﹁わたし、何もかも厭になった﹂とささやくように言った。――﹁いっそ、世界の涯はてへ行ってしまいたい。こんなこと、こらえきれないわ、とてもやってゆけないわ。……それに、行ゆく末すえはどうなるんだろう! ……ああ、つらい。……ほんとに、つらい!﹂ ﹁なぜですか?﹂と、わたしは、おずおず尋たずねた。 ジナイーダは返事をせずに、ただ肩かたをすくめただけだった。わたしは膝ひざをついたまま、すっかり悄しょ気げかえって、彼女を見まもっていた。彼女の一言一句は、鋭するどくわたしの胸に突き刺さった。わたしはその瞬しゅ間んかん、もし彼女の悲しみが消えるものなら、喜んで命を投げ出しもしたろう。わたしは、彼女を見つめているうちに、なぜそう辛つらいのか合がて点んがゆかぬながらも、それでいて、彼女がにわかに堪たえがたい悲哀の発ほっ作さに襲おそわれて、庭へ出てきて、ばったり地面に倒たおれた有あり様さまを、まざまざと心に描えがいていた。――あたりは青々と、光に満ちていた。風は木々の葉なみをそよがせ、時おり木きい苺ちごの長い枝えだを、ジナイーダの頭上で揺ゆすっていた。どこかで鳩はとが、ふくみ声で鳴き、蜜みつ蜂ばちはうなりながら、まばらな草の上を低く飛びかっていた。上には空が、優やさしく青みわたっているが、でもわたしは、なんとも言えずわびしかった。…… ﹁何か、詩を読んでちょうだい﹂と、ジナイーダは小声で言って、片かた肘ひじをついた。――﹁わたし、あなたが詩を読むところが好きなの。あなたのは、まるで歌うみたいだけれど、それで結構よ、若々しくっていいわ。あの、﹃グルジヤの丘の上﹄を読んで。――でも、まずお座りなさいな﹂ わたしは腰を下ろして、﹃グルジヤの丘の上﹄︵訳注 プーシキンがカフカーズをさまよいながら、遠い恋人を思って作った抒情詩。その大意は、﹁グルジヤの丘の上、夜露かかり、アラグヴァの流れ、わが前にざわめく。われはわびしく楽しく、わが悲しみは明るし。わが悲しみは、ただひとり君の姿にみたされて……このわびごころ、何ものの乱し騒がすものもなし。かくて胸は、またも燃え、恋いわたる……愛さでやまぬ胸なれば。﹂︶を朗読した。 ﹁≪愛さでやまぬ胸なれば≫﹂とジナイーダは繰返した。――﹁そこが、詩のいいところなのね。つまり、この世にないことを、言ってくれる。しかも、実際あるものより立派なばかりでなく、ずっと真実に近いことをまで、言ってくれるのだもの。……愛さでやまぬ胸なれば――ほんとに、しまいと思っても、せずにはいられないんだわ!﹂彼女はまた黙だまり込こんだが、突とつ然ぜんぶるんと身を震ふるわして立ち上がって、﹁さ、行きましょう。お母さんのところに、マイダーノフが坐り込んでいるのよ。わたしにって、自分で作った叙じょ事じ詩しを持って来てくれたのに、ほっぽらかして来てしまったの。あの人も今いま頃ごろは、きっと悄気てるわ。……でも、仕方がないのよ! やがてあなただって、わかる時が来るわ……ただね、わたしのこと、怒おこらないでちょうだいね!﹂ ジナイーダは、せかせかとわたしの手を握にぎると、先に立って駆け出した。二人は傍はな屋れに帰った。マイダーノフは、やっと印刷になったばかりの自作の詩﹃人殺し﹄を朗読しだしたが、わたしはろくに聞いていなかった。彼は四しき脚ゃくの短ヤ長ン格ブを思いっきり声を引き引きがなり立てて、韻いんが入れかわり立ちかわり、まるで小こす鈴ずのような空うつろで騒そう々ぞうしい音を立てたけれど、わたしはじっとジナイーダの顔を見たまま、彼女がついさっき言った言葉の意味を、しきりに考えていた。 さらずば、見知らぬ恋がたきが にわかに君を 奪うばいゆきしや? と、いきなりマイダーノフが鼻声でわめいた時、わたしの眼とジナイーダの眼がぶつかった。彼女は伏ふし眼めになって、顔を赤らめた。彼女が赤くなったのを見ると、わたしはびっくりして、五体が冷えわたった。わたしは、もう前々から彼女のことで妬やいていたのだが、じっさい彼女が誰かに恋しているという考えは、やっとこの瞬間、わたしの頭にひらめいたのである。 ﹃さあ大変だ! 彼女は恋をしている!﹄十
わたしの本当の責せめ苦くは、その瞬しゅ間んかんから始まった。わたしは頭が痛くなるほど考えつめたり、思案を重ねたり、考え直したりしながら、勿もち論ろんできるだけこっそりと、執念ぶかくジナイーダを見張っていた。彼かの女じょに或ある変化が生じたことはもはや明白だった。彼女は一人で散歩に出かけて、長いこと歩き回っていた。時によると、客たちに顔を見せずに、何時間も自分の部屋に引っこもっていた。それまでは、ついぞなかったことである。わたしは突とつ然ぜん、ひどく目が見えだした。少なくも、見えだしたような気がした。 ﹃あいつじゃないかしら? それとも、いっそあいつかな?﹄ とわたしは、彼女の崇すう拝はい者しゃの一人からまた一人へ、せわしなく思いを馳はせながら、胸の中で自問するのだった。なかんずくマレーフスキイ伯はく爵しゃくは、︵もっとも、こんなことを認めるのは、ジナイーダのため心外の至りだったが︶ほかの誰だれよりも危険人物のように、ひそかにわたしは思っていた。 わたしの炯けい眼がんは、残念ながら自分の鼻の先までしか届かず、また折角のわたしの密計も、誰ひとり瞞だましおおせることはできなかったらしい。少なくともドクトル・ルーシンは、じきにわたしの腹を見み抜ぬいた。とはいえ彼かれだって、近ちか頃ごろは様子が変って、めっきり痩やせもしたし、相変らず笑い上じょ戸うごではあったものの、その笑い声は妙みょうに鈍にぶく、毒を含ふくんで、短くなったし、平生の軽い皮肉や、とってつけたような冷れい笑しょ癖うへきは、我にもない神経質ないらだちに変っていた。 ﹁ねえ君、なんだってそうしょっちゅう、ここへやって来るんです﹂と彼は、ある日ザセーキン家の客間で二人きりになった時、わたしに言った。︵令れい嬢じょうはまだ散歩から帰って来こなかったし、夫人のがみがみ声が中二階でしていた。小間使と喧けん嘩かしていたのだ︶――﹁若いうちにせっせと勉強しとかにゃならんのに、どうしたことです?﹂ ﹁僕ぼくが家で勉強してるかどうか、あなたにはわからないでしょう﹂とわたしは、いささか高たか飛びし車ゃに言い返したが、たじたじの気味もないことはなかった。 ﹁何が勉強なものですか? そんなこと、君の頭にありはしませんよ。だがまあ、これ以上何も言いますまい……君の年頃では、まあ無理もないからな。ただし君の見当は、大いに狂くるっているですよ。この家がどういう家か、それが君には見えんのですか?﹂ ﹁なんのことだか、わかりませんね﹂と、わたしは空とぼけた。 ﹁わからないって? そりゃますますいかん。僕は義務として、一いち言ごん君に注意します。我々甲こう羅らをへた独身ものは、ここへ来ても、さしつかえない。なんのことがあるものですか? 我々は鍛たん錬れんができてるからびくともしないです。ところが君は、まだ皮ひ膚ふが弱い。ここの空気は、君には毒ですよ――ほんとですとも、うっかりすると伝でん染せんしますぞ?﹂ ﹁どうしてです?﹂ ﹁どうもこうもあったものですか。いったい君は、いま健康ですか? 果してノーマルな状態にありますか? 君がいま感じていることは、君のためになりますか、いいことですか?﹂ ﹁でも、僕が何を感じてるというんです?﹂と、わたしは言ったが、心の中では、なるほど医者の言う通りだと思った。 ﹁いやいや、君は若い、まだ若い﹂と医者は、さもこの二つの言葉の中に、わたしに対する何かひどく侮ぶべ蔑つて的きな感じが籠こめてありでもするような、そんな言いぶりで言葉を続けた。――﹁ごまかそうたって駄だ目めですよ。だってまだまだ、君の心にあることは、ちゃんと顔に出ているもの、ありがたいことにね。だがしかし、こんな話をしたって始まらない。第一この僕にしたって、こんな所へ来るはずはないんですよ、もしも……︵医者は歯をくいしばった︶……もしも、僕がこんな唐とう変へん木ぼくでなかったらね。ただ一つ、僕が不思議でならんのは、君のような頭のいい人が、自分のすぐそばで起っていることに、どうして気がつかないんだろうな?﹂ ﹁でも、何が起っているんです﹂と、わたしは素早く相手を受けて、すっかり緊きん張ちょうした。 医者は、妙みょうに嘲あざけるような同情の色を浮うかべて、わたしをじろりと見た。 ﹁なるほど、僕も大したものだ﹂と彼は、ひとり言のように言った。――﹁頗すこぶるもって、この人の耳に入れとく必要のあることだて。……まあ要するに﹂と、そこで声を高めて、﹁もう一いっ遍ぺん言いますが、ここの雰ふん囲い気きは君にはよくない。君はここで、いい気持になっているが、油断大敵ですぞ! そりゃ温室のなかだって、やはりいい匂においはするが、そこで暮すわけにはゆかんですからね。ねえ! 悪いことは言わないから、またあのカイダーノフ先生に戻もどりたまえ﹂ 公爵夫人が入って来て、歯が痛いと医者にこぼしだした。やがてジナイーダが現われた。﹁そうそう﹂と、夫人は言い足した。――﹁ねえドクトル、この子を叱しかってやって下さいな。一いち日んちじゅう、氷水ばかり飲んでいるんですよ。それが、体にいいことでしょうかねえ、胸が弱いくせに﹂ ﹁なぜ、そんなことをなさるんです?﹂と、ルーシンが訊きいた。 ﹁やったら、どうなるとおっしゃるの?﹂ ﹁なんですって? 風か邪ぜを引いて、死ぬかもしれませんよ﹂ ﹁ほんと? まさか? でも、かまやしない――それが当然だわ!﹂ ﹁おやおや!﹂と、医者はうなった。夫人は出て行った。 ﹁おやおや﹂と、ジナイーダは口くち真ま似ねをして、﹁生きることが、そんなに面おも白しろいかしら? ぐるりを見回して御ごら覧んなさい。……どう、よくって? それともあなたは、わたしがそれさえわからない、感の鈍にぶい女だと思ってらっしゃるの? わたしは、氷水を飲むといい気持なの。だのにあなたはこんな人生が、束つかのまの満足のために危険を冒おかしてはならないほど大事なものだと、真まが顔おでわたしに説教なさるおつもりね。――わたし、もう幸福なんかどうでもいいの﹂ ﹁つまり、その﹂と、ルーシンが皮肉った。――﹁気まぐれと自分勝手。……この二語にあなたは尽きるんですな。あなたという人は、全部この二語のうちにありますよ﹂ ジナイーダは、神経質に笑い出した。 ﹁証文の出しおくれよ、ドクトル先生。案外、目が利きかないのねえ。だいぶ手おくれだわ。眼鏡でも、おかけになったら? わたし今、気まぐれどころじゃないの。あなた方をからかったり、自分を笑いものにしたり……そんなこと、何が面白いものですか! 自分勝手だとおっしゃるけれど……ね、ヴォルデマールさん﹂と、そこで突然ジナイーダは方角を変えて、小さな足をトンと鳴らした。――﹁そんな憂ゆう鬱うつな顔をしないでよ。わたし、人に同情されることなんか大だい嫌きらい﹂ 彼女は足早に出て行った。 ﹁君には毒だ。全く毒だよ、ここの空気は、ねえ君﹂と、またルーシンはわたしに言った。十一
その晩、ザセーキン家には常連が集まった。わたしもその中にいた。 話がマイダーノフの例の詩のことになると、ジナイーダはしんからそれを褒ほめちぎった。 ﹁でも、よくって?﹂と、彼かの女じょはマイダーノフに言った。――﹁もし、わたしが詩人だったら、もっとほかのテーマでゆくわ。こんなこと、馬ば鹿かげた話かもしれないけれど、でもわたし時々、妙みょうな考えが頭に浮うかぶのよ。ことに夜明け方、空がバラ色や灰色になってくる頃ころ、眠ねむれずにいるような時にね。わたしなら、そうねえ……。こんなこと言って、あなた方がた笑わないこと?﹂ ﹁いいや、とんでもない!﹂と、わたしたちは異いく口どう同お音んに叫さけんだ。 ﹁わたしならね﹂と彼女は、両手を胸に組んで、眼めをわきの方へそそぎながら、言葉を続けた。――﹁若い娘むすめが大おお勢ぜい、夜中に、大きな舟ふねに乗って――静かな河に浮んでいるところ、それを書くわ。月が冴さえている。そして娘たちは、みんな白い着物を着て、白い花の冠かんむりをかぶって、歌っているの。そうね、何か聖歌のようなものを﹂ ﹁わかります、わかります。それから?﹂と、思わせぶりな空想的な調子で、マイダーノフが言った。 ﹁すると不意に――岸の上に、ざわめきや、高笑いや、松たい明まつや、手てだ太い鼓こがあらわれるの。……それは、バッカスの巫み女こが群むれをなして、歌ったり叫んだりして走ってくるのよ。まあ、この光景を写すのは、あなたにお任せするわ、詩人さん。……ただわたしの注文は、松明は真っ赤で、しかももうもうと煙けむりをふいていること。それから、巫女たちの眼が、花の冠の陰かげでキラキラ光って、花の冠は黒っぽくしたいわ。虎とらの皮や、杯さかずきも、忘れないでちょうだい。――それに金きんだわ、金をどっさりね﹂ ﹁その金は、いったいどこに使うのです?﹂と、マイダーノフは、平べったい髪かみの毛けを後ろへ払はらいながら、鼻の穴をひろげて訊きいた。 ﹁どこにですって? 肩かたにも、腕うでにも、足にも、どこもかしこもよ。古代の女は、くるぶしに金の輪をはめていたというじゃありませんか。そこで巫女たちは舟の娘たちを呼ぶの。娘たちの歌ごえが、ぱったりやまる。――もう聖歌どころじゃありませんものね。でも娘たちは、そのままじっと身じろぎもしないの。河の流れに押おされて、舟はだんだん岸へ寄って来ます。すると突とつ然ぜん一人の娘が、そっと立ち上がるのよ。……ここのところは、よく描びょ写うしゃしなければいけないわ。月の光を浴びて、その娘が静かに立ち上がるところや、ほかの友達がびっくりする有様をね。……で、その娘が舟ばたをまたぐと、巫女たちはワッとそれを取りかこんで、真っ暗な夜よや闇みの中へ、さらって行ってしまうの。……ここは、煙が渦うずを巻いて、何もかもごっちゃになってしまうところを書くのよ。聞えるのは、巫女たちのキャッキャッいう声ばかり。そして、その娘の花の冠が、ぽつんと岸に残っているの﹂ ジナイーダは口をつぐんだ。︵﹃ああ! 彼女は恋こいに落ちたのだ﹄と、わたしはまた考えた︶ ﹁それだけですか?﹂と、マイダーノフが訊いた。 ﹁それだけよ﹂と、彼女は答えた。 ﹁それだと、大がかりな、叙じょ事じ詩しのテーマにはなりかねますな﹂と、さも勿もっ体たいらしく彼かれは指して摘きした。――﹁しかし、叙じょ情じょ詩うしの材料として、あなたのイデーを頂くとしましょう﹂ ﹁ロマンティクなものですか?﹂と、マレーフスキイが訊いた。 ﹁もちろん、ロマンティクなものです。バイロン風のね﹂ ﹁が、僕ぼくに言わせると、ユーゴーはバイロンよりもいいですね﹂と、若い伯はく爵しゃくは何なに気げなく口ばしった。――﹁面おも白しろい点でも上です﹂ ﹁ユーゴーは第一流の作家です﹂と、マイダーノフは答えた。――﹁で、僕の友人のトンコシェーエフも、自作のイスパニア物語﹃エル・トロバドール﹄のなかで……﹂ ﹁ああ、それ、あの疑ぎも問ん符ふが逆立ちしている本なのね?﹂とジナイーダが遮さえぎった。 ﹁そうです。イスパニアでは、ああ書くことになっているんですよ。そこで僕の言いかけたのは、トンコシェーエフが……﹂ ﹁おやおや! またあなた方の、古典主義だ浪ろう漫まん主義だという議論が、始まるのね﹂と、またもやジナイーダは彼を遮った。―― ﹁それより、何かして遊ばない?……﹂ ﹁罰ばっ金きんごっこですか?﹂と、ルーシンが受けた。 ﹁いやだわ、罰金ごっこは退たい屈くつよ。比べごっこがいいわ﹂︵この遊びは、ジナイーダが自分で考え出したものだった。何か一つ物を決めておいて、みんなでそれに似た何か別のものを考える。いちばんうまい比ひか較くを考えついたものが、褒ほう美びをもらうのである︶ 彼女は窓へ歩み寄った。日は沈しずんだばかりだった。空には、はるか高く、細長い赤い雲が幾いく筋すじも浮んでいた。 ﹁あの雲は何に似ていて?﹂と、ジナイーダは訊いて、わたしたちの答えを待たずに、自分で、 ﹁わたし、あの雲は、クレオパトラがアントニーを迎えに行ったとき、その金きん塗ぬりの船に張ってあった緋ひい色ろの帆ほに似ていると思うわ。ねえ、マイダーノフさん、あなたこの間、その話をして下すったわね?﹂ わたしたちはみんな、﹃ハムレット﹄の中のポローニアスよろしく、いかにもあの雲はその帆に似ている、これ以上うまい比較は誰だれにも見つかるまい、と決めてしまった。 ﹁でもその時、アントニーは幾つだったのかしら?﹂と、ジナイーダが訊いた。 ﹁そりゃ、きっと青年だったに違ちがいないですよ﹂と、マレーフスキイが口を入れた。 ﹁そう、若かったですな﹂と、自信たっぷりでマイダーノフが裏書きした。 ﹁失礼ですが﹂と、ルーシンが大きな声を出した。――﹁もう四十を越こしていましたよ﹂ ﹁四十を越して﹂とジナイーダは、すばやく一いち瞥べつを彼にくれて、鸚おう鵡むが返えしに言った。 わたしは、まもなく家に帰った。 ﹃彼女は恋に落ちた﹄と、我ともなく、わたしの唇くちびるはささやいた。……﹃だが、いったい誰に?﹄十二
日がたつにつれて、ジナイーダは、いよいよますます奇きみ妙ょうな、えたいの知れない娘むすめになっていった。ある日、わたしが彼かの女じょの部屋へ入って行くと、彼女は籐とう椅い子すにかけて、頭をぎゅっと、テーブルのとがった縁ふちに押おしつけていた。はっと彼女は身を起したが……見れば顔じゅうべったり、涙なみだにぬれていた。 ﹁まあ、あなただったの?﹂と、彼女は薄はく情じょうな薄うす笑わらいを浮うかべて言った。――﹁こっちへいらっしゃい﹂ わたしがそばへ行くと、彼女は片手をわたしの頭にのせて、いきなり髪かみの毛けをつかむと、ぎりぎり捻ねじ回し始めた。 ﹁痛い……﹂と、やがてわたしは音ねをあげた。 ﹁おや! 痛いって! じゃ、わたしは痛くないの? 痛くないって言うの?﹂と、彼女は鸚おう鵡むが返えしに言った。 ﹁あら!﹂彼女は、わたしの頭から、ほんの一ふさ、髪の毛をむしり取ったのに気がつくと、いきなり大声をあげた。――﹁大変なことをしてしまったわ! 許してね、ヴォルデマールさん!﹂ 彼女は、むしり取った髪の毛を丁てい寧ねいにそろえると、自分の指に巻きつけて、小ちっちゃな輪に編あんだ。 ﹁わたし、あなたの髪の毛をロケットに入れて、いつも身につけているわね﹂そう言った彼女の眼めには、相変らず涙が光っていた。――﹁それで少しは、あなたの気も慰なぐさむかもしれないわ。……じゃ、今日はこれでね﹂ わたしが家に帰ってみると、不愉快なことが待ち構えていた。母が父を相手に言い合いをしていたのである。母が何やらしきりに父をなじると、父の方は例の調子で、冷やかで慇いん懃ぎんな沈ちん黙もくをまもっていたが、まもなく外へ出て行った。わたしには、母が何をまくし立てていたのか、聞えなかったし、それに、そんな心のゆとりもありはしなかった。ただ一つ覚えているのは、言い合いが済すんだあとで母がわたしを居間へ呼びつけて、わたしがしげしげと公こう爵しゃ夫くふ人じんのところに出入りすることについて、大いに不満の意を表し、あユれヌは・どフんァなム卑・しカいパこーとブもルし・かドね・なトいゥ女ーだと、罵ののしったことである。わたしは母のそばへ寄って、身をかがめてその手にキスすると︵これは会話を打切ろうと思う時の、わたしの常じょ套うとう手段だった︶、そのまま自分の部屋へ戻もどった。 ジナイーダの涙で、わたしはすっかり動転してしまった。わたしは、いったいどう考えたらいいものか途とほ方うに暮れて、こっちが泣き出さんばかりだった。年こそ十六になっていたけれど、わたしはまだほんの赤あかん坊ぼうだったのである。もうマレーフスキイのことなどは、念頭になかった。ただしベロヴゾーロフは、日増しにだんだん殺気だっていって、この油断のならない伯爵を、まるで狼おおかみが羊をねらうような目つきで睨にらんでいたが、わたしときたらもう、何事も、誰だれの事も、てんで考えなかった。わたしは、ただぼんやりと空想にふけって、人目のない寂さびしい場所ばかり求めていた。とりわけ気に入ったのは、あの崩くずれ落ちた温室だった。わたしはよく、そこの高い塀へいへよじ登って、腰こしを下ろし、いつまでもじっと坐すわっていた。その自分の姿が、いかにも不幸で孤こど独くで侘わびしげな一個の若者といった格かっ好こうなので、しまいには、我と我が身がいじらしくなってくるのだった。そして、そうした悲ひあ哀いに満ちた感覚が、なんとも言えず嬉うれしかったのだ。わたしはそれに夢むち中ゅうになっていたのだ! …… さて、ある日、わたしは塀の上に坐って、遥はるかかなたに眺ながめ入りながら、鐘かねの響ひびきに耳をすましていたが……その時不意に、何ものか、わたしの身をかすめて過ぎたものがあった。そよ風かと思えば、そよ風でもない。さりとて、身みぶ震るいでもなく、いわばそれは何かの息い吹ぶきか、それとも誰かが近づいてくる気配とでも言うか、そんな感じであった。……わたしは視線を落した。すぐ下の道を、軽かろやかな灰色がかった服を着て、バラ色のパラソルを肩かたにして、急ぎ足でジナイーダが歩いていた。彼女はわたしに気がつくと、立ち止って、麦むぎ藁わら帽ぼう子しの縁を押し上げ、ビロウドのような眼でわたしを見上げた。 ﹁そんな高いところで、何をしてるの?﹂彼女はなんだか異様な微びし笑ょうを浮べて訊きいた。﹁そうそう﹂と、すぐまた言葉を続けて、﹁あなたはいつも、わたしを愛しているとおっしゃるわね。――そんならここまで、この道まで、飛び下りてごらんなさい。もし、本当にわたしを愛しているのなら﹂ ジナイーダが、終りまで言い切らぬうちに、わたしは後ろから誰かに小こ突づかれでもしたように、早くも下へ身をおどらしていた。塀の高さは三、四メートルほどあった。わたしは両足が地面に届いた拍ひょ子うしに、はずみがあんまり強すぎたので、体を支えきれなかった。わたしはどさりと倒たおれて、一瞬間、気が遠くなった。やがて我に返ったわたしは、眼をあけないのに、すぐそばにジナイーダのいることがわかった。 ﹁可かわ愛いいわたしの坊ぼうや﹂と彼女は、わたしの上にかがみ込みながら言っていた。その声には千々に乱れた情愛の響きがあった。――﹁どうしてあんたは、こんなことができたの、どうしてわたしの言うことなんか、きく気になったの。……わたしだって、こんなに愛してるのに。……さ、お起き﹂ 彼女の胸は、わたしの胸のすぐそばで息づき、その両手は、わたしの頭を撫なでていた。すると、突とつ然ぜん――その時なんということが、わたしの身に起ったのだろう! 彼女の柔やわらかなすがすがしい唇くちびるが、わたしの顔じゅうを、キスでおおい始めたのだ。……やがては、わたしの唇にも触ふれたのだ。……だが、そこでジナイーダは、わたしの顔の表情からして、相変らず眼を上げずにはいるものの、もうわたしが意識を取とり戻もどしたことを察したものと見えて、素すば早やく身を起すと、こう言い放った。―― ﹁さ、起きるのよ、向う見ずなお茶目さん。こんな埃ほこりの中に、いつまで寝ねているつもり?﹂ わたしは起き上がった。 ﹁パラソルを取ってちょうだい﹂と、ジナイーダは言って、――﹁まあわたし、あんな所へ放ほうり出してしまったわ。だめ、そんなにわたしの顔を見ちゃ。……なんてお馬ば鹿かさんなの、あなたは? どこか怪け我がしなかったこと? イラクサに刺さされて、ちくちくしやしなくって? そう言っているのよ、わたしの顔を見ちゃいけないって。……まあ、この人ったら、なんにもわからないんだわ、返事ひとつしやしない﹂と彼女は、ひとり言のように言い添そえた。――﹁早くうちへお帰りなさい。ヴォルデマールさん。そして、奇きれ麗いにしなさい。わたしのあとから、のこのこついて来たりしたら、承知しないわよ。そんなことをしたら、もう二度と再び……﹂ 彼女は、終りまで言いきらずに、さっさと向うへ行ってしまい、わたしは道に坐りこんだ。……足がいうことをきかないのだ。イラクサに刺された手がひりついて、背中はずきずきするし、頭はくらくらしていた。でも、その時わたしが味わったような至福の感じは、わたしの生しょ涯うがいにもはや二度と再び繰くり返かえされなかった。それは甘かん美びな苦痛をなして、わたしの五体に宿っていたが、やがて法ほう悦えつはついに堰せきを切って、わたしは踊おどり上がったり、わめき立てたりした。全く、わたしはまだほんの赤ん坊だったのだ。十三
その日は一いち日んちじゅう、わたしは堪たまらないほど浮うき浮うきと誇ほこらかな気持だった。のみならず、ジナイーダのキスの感かん触しょくも、顔一面にありありと残っていたので、わたしは興奮に身みぶ震るいしながら彼女の言葉を一つ一つ思い浮べたり、自分の思いがけない幸福を、胸の底で愛めでいつくしんだりしていた。それで、現にそうした新しい感覚の源をなした当の彼かの女じょに会うのが、むしろ怖おそろしくなって、できることなら会いたくない、と思ったほどであった。もうこの上、何ひとつ運命から求めてはいけない、今こそ﹃思いっきり、心ゆくまで最後の息をついて、そのまま死んでしまえばいいのだ﹄と、そんな気持がした。 そのむくいは、てきめんで、あくる日わたしは傍はな屋れへ出かける道々、ひどい当とう惑わくを感じた。それは、自分こそ秘密を守れますぞと、他人に見せつけたがっている人間に通有の、控ひかえ目めな磊らい落らくの仮面などでは、とても匿かくしおおせるものではなかった。ジナイーダはいささかの心の乱れも見せず、すこぶる無造作にわたしを迎えたが、ただ指を一本立てて脅おどかす真ま似ねをして、どこか青あざはできなかったかと訊きいた。わたしの折角の控え目な磊落さも、ものものしい態度も、その瞬しゅ間んかんに消しとんでしまったばかりか、それと一いっ緒しょに、うじうじした当惑の感じもなくなった。勿もち論ろんわたしは、何も特別なことを期待していたわけではないが、とにかくジナイーダの落着きはらった態度にぶつかって、まるで頭から冷水を浴びせかけられたような体ていたらくだった。自分は、この人の目から見ればほんの赤あかん坊ぼうなのだ――と、わたしはしみじみ思い知って、ひどく辛つらい気持がしてきたのだ! ジナイーダは部屋のなかを行ったり来たりしていたが、わたしの顔を見るたびごとに、素すば早やい微びし笑ょうを浮べてみせた。とはいえ、彼女の思いがどこか遠くにあることは、わたしにはありありと見て取られた。…… ﹃いっそ、自分の方から、昨日の話を持ち出してみようか﹄と、わたしは考えた。――﹃あんなに急いで、いったいどこへ行ったのか、それを訊いて、すっかり泥どろを吐はかせてしまおうか。……﹄とは思ったものの、わたしはただ片手を振ふっただけで、隅すみの方に腰こしを下ろした。 ベロヴゾーロフが入って来た。彼が来たので、わたしは嬉うれしかった。 ﹁実は、あなたの御ごよ用うに立つようなおとなしい馬が、まだ見つかりませんでね﹂と彼かれは、つっけんどんな声で言った。――﹁フライタークのやつが、きっと一頭だけ受けあったと言うのですが、どうも信用できません。危ないものですよ﹂ ﹁なぜ危ないなんて、お思いになるの﹂と、ジナイーダは訊いた。――﹁伺うかがいたいもんだわ﹂ ﹁なぜですって? だってあなたは、馬の心得がないじゃないですか。ひょっとして、どんなことがもちあがるか、わかりませんからねえ! だがそれにしても、急に馬に乗ろうなんて、えらい気まぐれを起されたものですねえ﹂ ﹁ふふ、それはわたしの勝手よ、親愛なる猛もう獣じゅうさん。そんなわけでしたら、わたし、ピョートル・ヴァシーリエヴィチにお願いするわ。……﹂︵わたしの父は、ピョートル・ヴァシーリエヴィチという名だった。わたしは、彼女が父の名をさも気軽に、楽々と口にするのにびっくりした。まるで父ならば、いつでも彼女の御用命に応ずるように、響ひびいたからである︶ ﹁おやおや﹂と、ベロヴゾーロフがやり返した。――﹁あなたは、あの人と一緒に遠乗りなさるおつもりでしたか﹂ ﹁あの人とだろうと、ほかの人とだろうと、あなたの知ったことじゃなくてよ。ただ、あなたとではないことは、はっきりしているわ﹂ ﹁僕ぼくとではない﹂と、ベロヴゾーロフは鸚おう鵡むが返えしに――﹁どうぞ御ごず随い意いに。まあいいです。とにかく馬は、手に入れて差上げますよ﹂ ﹁でも、よくって、牛みたいなのろくさしたのだったら、願い下げよ。よく申上げときますけど、わたしはギャロップで飛ばしたいのよ﹂ ﹁ギャロップも結構でしょう。……でもそれは、マレーフスキイとですか? え、誰だれとなんですか?﹂ ﹁おや、あの人とじゃいけなくって、軍人さん? まあ安心してちょうだい﹂と、彼女は言い添そえた。――﹁あんまり目に角かどを立てないでね。あなたとも一緒に行くつもりよ。あなただって知ってるでしょう、――マレーフスキイなんて、今じゃわたしにゃ、ぴ、ぴーだわ!﹂そう言って、彼女はかぶりを振った。 ﹁そんなことをおっしゃるのは、僕の気休めのためですね﹂と、ベロヴゾーロフはふてくさった。 ジナイーダは眼めを細めた。 ﹁そんなことが気休めになるの? おやまあ、あきれた軍人さんだこと!﹂と、彼女はやがての果てに、ほかの言葉が見当らないような調子で、そう言った。――﹁で、ヴォルデマールさん、あなた、わたしたちと一緒にいらっしゃる?﹂ ﹁僕は苦手なんです……大おお勢ぜいの人前へ出るのは……﹂とわたしは、眼を上げずにつぶやいた。 ﹁あなたは、差テー向タ・いテートの方がいいのね?……いいわ。自由な者には自由を、救われた者には……天国を与えよだわ﹂と彼女は、ほっと溜ため息いきをついて言った。――﹁よくって、ベロヴゾーロフさん、一ひと肌はだ脱ぬいでちょうだいね。わたし馬は、明日要いるんですから﹂ ﹁でもね、お金はどこから入るの?﹂と、公こう爵しゃ夫くふ人じんが、口を入れた。 ジナイーダは眉まゆをしかめた。 ﹁お母様に出して頂こうとは言やしないわ。ベロヴゾーロフさんが一時立たて替かえて下さるわよ﹂ ﹁立て替えて下さる、立て替えて……﹂と、公爵夫人はぼそぼそ言ったが、突とつ然ぜん、声を限りにわめき立てた。――﹁ドゥニャーシカや!﹂ ﹁ママ、呼よび鈴りんがあげてあるじゃないの﹂と、令れい嬢じょうが注意した。 ﹁ドゥニャーシカや!﹂と、老夫人はまたどなった。 ベロヴゾーロフは別れを告げた。わたしも一緒に帰った。ジナイーダは、わたしを引留めなかった。十四
あくる朝、わたしは早く起きて、庭の木で杖つえを一本作ると、城門の外へ出て行った。ちょっと散歩をして、うさ晴らしをしてやれ、と思ったのである。からりと晴れた日で、日ざしは明るかったが、暑いほどではなかった。快いさわやかな風が、地上をさまよって、あらゆるものをそよがせながら、しかもざわつかせるほどではなく、適度にさやさやと戯たわむれていた。わたしは長いこと、山や森を歩き回った。わたしは自分を、幸福だと思っていたわけではない。現に家を出た時も、思うさま憂ゆう愁しゅうにひたりに行くつもりだったのである。――ところがやがて、青春や、ほがらかな天気や、さわやかな空気や、さっさと歩く快さや、茂しげった草の上にひとり身を横たえる酔よい心ごこ地ちや――そうしたものの方が勝ちを占めてしまった。あの忘れられぬ言葉のふしぶしや、あのキスの雨の思い出が、またもやわたしの胸にこみあげて来た。とにかくジナイーダは、わたしの思い切った勇ゆう敢かんな振ふる舞まいを正当に認めずにはいられないのだ――と、そう思うと愉ゆか快いだった。…… ﹃あの人の目には、ほかのやつらの方が、立派に見えるのだ﹄と、わたしは考えた。――﹃なあに、かまうもんか! その代り、やつらはただ、やりますと言うだけだが、僕ぼくは、見事やってのけたんだからな! それにあの人のためなら、まだまだどえらいことをやって見せられるんだからな﹄ いろんな空想が、働き始めた。わたしは、自分が彼かの女じょを敵の手中から救い出す有あり様さまや、血まみれになった自分が彼女を牢ろう屋やから奪うばい出す光景や、そしてとうとう彼女の足もとで死ぬ場面を、次々に心に描えがき出した。わたしは、うちの客間にかかっている絵を思い出した。それは、マレク・アデルがマティルダを奪い去るところだったが、――ちょうどその途とた端んに、まだらな大きなキツツキが現われて、ほっそりした白しら樺かばの幹をせかせかと登り始めたので、すっかりそのほうに気を取られてしまった。キツツキが幹の陰かげから、心配そうな顔を右に左にのぞかせる格かっ好こうは、コントラバスの首の陰から楽師が首をのぞかせる様子にそっくりだった。 それからわたしは、﹃白き雪にはあらねども﹄を歌い出したが、それがやがて、その頃ころはやっていた﹃そよ風ふけば、われ君を待つ﹄という歌かよ謡うにかわり、しばらくするとわたしは大声で、ホミャコーフの悲劇のなかの、星に呼びかけるエルマークの言葉を朗読し出した。そうかと思うとまた、多情多感な一編の詩を作ろうと野心を起して、全編の結句になるべき一行をさえ思いついた。それは、﹃おお、ジナイーダ! ジナイーダ!﹄という句だったが、結局ものにならなかった。 そうこうするうちに、そろそろ昼飯の時刻になった。わたしは谷間へ下りて行った。細い砂の小道が、谷間をうねって、町へみちびいていた。わたしは、その小道を歩き出した。……ふと、何なん匹びきか馬の蹄ひづめの音が、後ろから鈍にぶく響ひびいてきた。わたしは振返ると、思わず立ち止って、ひさしのついた帽ぼう子しをぬいだ。父とジナイーダの姿を、みとめたからである。二人は並ならんで馬を歩ませていた。父は何やらしきりに彼女に話しかけながら、胴どう体たいをすっかり彼女の方へ傾かたむけ、片手を馬の首についていた。父は微びし笑ょうを浮うかべていた。ジナイーダは、きっと眼めを伏ふせ、唇くちびるを噛かみしめて、黙だまって父の言葉に耳を傾けていた。わたしがまず目にしたのは、この二人だけだったが、やがてすぐその後を追って、谷の曲り角から、ベロヴゾーロフの姿がぬっと現われた。外がい套とうのついた軽けい騎きへ兵いの軍服を着て、泡あわをふいた黒馬に乗っている。駿しゅ馬んめは首を振り振り、鼻息を立てて、踊おどりはねている。乗り手は、手たづ綱なを引いたり、拍はく車しゃを当てたり、大おお騒さわぎだ。わたしは、わきへよけた。父は手綱を引いて、ジナイーダから身を離はなし、彼女は静かに父を見上げた。――そのまま二人は、駆かけ去ってしまった。……ベロヴゾーロフは、サーベルをがちゃつかせて、まっしぐらにそのあとを追った。 ﹃あいつ、蝦えびみたいに赤くなってる﹄と、わたしは心に思った。――﹃それにひきかえ、なぜ彼女はあんなに青いんだろう? 朝いっぱい馬を乗りまわしたくせに――青い顔をしているとは?﹄ わたしは歩みを二倍ほども早めて、やっと昼飯のまにあった。父はもう服を改め、顔を洗ったあとのさっぱりした気きし色ょくで、母の肘ひじ掛かけ椅い子すのそばに腰こしを下ろして、持ち前のなだらかな響きのいい声で、﹃討ジュ論ルナ新ル・聞デ・デパ﹄の雑ざつ録ろく欄らんを読んでやっていた。母の方は、あまり身を入れずに聞いていて、わたしの姿を見ると、一いち日んちどこへ雲くも隠がくれしていたのかと尋たずねた。かてて加えて、どこの馬の骨だか知れないような相手と、わけのわからない場所をうろつくのは、だい嫌きらいだよと言い足した。でも僕は、一人で散歩していたのですよ――と、わたしは答えようとしたが、ふと父の顔をうかがうと、なぜか黙ってしまった。十五
それから五、六日というもの、わたしはほとんどジナイーダに会わなかった。彼かの女じょは、体のぐあいが悪いと言っていたが、それでも傍はな屋れの常連が入れ代り立ち代り、彼かれらのいわゆる﹃当直﹄にやってくるのは、一向さしつかえなかった。ただ一人例外はマイダーノフで、彼は感かん激げきする機会がなくなると、たちまち気落ちがして、悄しょ気げか返えってしまった。ベロヴゾーロフは、軍服のボタンをきちんとかけて、真っ赤な顔をして、不ふき機げ嫌んに隅すみの方に坐すわっていた。マレーフスキイ伯はく爵しゃくの華きゃ奢しゃな顔には、なんだか不気味な微びし笑ょうが、絶えず漂ただよっていた。彼は今や、まさしくジナイーダの寵ちょ愛うあいを失ったので、老夫人に取入ろうと格別の勉べん励れいぶりを示し、貸馬車で夫人のお供ともをして、総そう督とくの所へ出かけさえした。もっとも、この遠えん征せいは失敗に終ったのみならず、マレーフスキイは厭いやな目にまであわされた。総督は逆さか手てをとって、彼がいつぞや土木局の連中を相手にもちあげたさる醜しゅ聞うぶんを、わざわざ言い出したので、彼は弁明これ努めて、何なに分ぶんにもあの頃ころはまだ未経験だったので――と、かぶとを脱ぬがざるを得なかった。 ルーシンは、日に二度ぐらいやって来たけれど、長居はしなかった。わたしは、この間の言い合い以来、この男がいささか煙けむたくなったと同時に、しん底から彼に惹ひきつけられるような気持もしていた。彼はある日、わたしと一いっ緒しょにネスクーチヌィ公園へ散歩に出かけたが、その時はひどく親切で愛想がよく、いろんな草や花の名前や特性を教えてくれたりしていたが、やがて突とつ然ぜん、それこそ薮やぶから棒に――額をぴしゃりと叩たたいて、こう叫さけんだ。 ﹁ああ、俺おれは馬ば鹿かだよ。あの人のことを、ただのコケットだと思ってたのだからなあ? どうやらこの世の中には、自分を犠ぎせ牲いにすることが楽しいような連中も、あるものと見えるなあ﹂ ﹁それは、なんのことですか﹂と、わたしは訊きき返した。 ﹁いや、君には何も話したくないですよ﹂と、吐はき出すようにルーシンは答えた。 ジナイーダは、わたしを避さけていた。わたしの顔が見えると――これはわたし自身、いやでも気づかざるを得なかったのだが――彼女は厭な気持がするらしかった。彼女は無意識に、わたしから顔をそむけた……無意識にである。それがわたしには実に辛つらく、身を切られるような思いだった! しかし、どうにも仕方がないので、わたしはなるべく彼女の目に触ふれないようにして、ただ遠くから彼女を見張っていることにしたが、これまた、いつもうまくゆくとは限らなかった。彼女には相も変らず、何やら不可解なことが起りつつあった。すっかり面おも変がわりがして、何から何まで、まるで別人のようになってしまった。 なかでも、彼女に生じた変化が格別わたしの胸を打ったのは、ある暖かい、静かな日暮れのことであった。わたしは、枝えだをひろげた一ひと叢むらのニワトコの陰かげの、低いベンチに腰こし掛かけていた。わたしは、この場所が好きだった。ジナイーダの部屋の窓が、そこから見えたからである。わたしが坐すわっていると、頭の上の、すっかり暗くなった茂しげみの中で、小鳥が一いち羽わしきりにかさこそいわせていた。灰色の小こね猫こが、背中をまっすぐ伸のばして、そっと庭へ忍しのび込こんだ。すでに明るくはないけれど、まだ透すいて見える空気のなかを、先せん陣じんのカブト虫たちが、重々しい唸うなりを立てて飛んでいた。わたしは坐ったまま窓を眺ながめ、いつか開きはしまいかと待ち受けていた。果して、窓は開いて、ジナイーダが姿を見せた。白い服を着ていたが、彼女自身も、顔から肩かた、そして両手まで、真っ白なほど青ざめていた。彼女は長いこと、身じろぎもせずに、ひそめた眉まゆの下から、じっとまっすぐ前を、いつまでも見つめていた。そんな目つきをする彼女を、わたしはついぞ見たこともなかった。やがて彼女は、両手をかたくかたく握にぎりしめ、それをまず唇くちびるへ、それから額へ持っていったが――そこで、突然ぱっと指をひろげると、両の耳から髪かみの毛を払はらいのけ、さっと一ひと振ふり髪を振上げたかと思うと、何か決心がついたといったふうに、頭を上から下へ大きくうなずかせ、ぱたんと窓を閉めた。 三日ほどしてから、わたしは庭で彼女に出会った。わたしがわきへ避けようとすると、彼女の方で引止めた。 ﹁手を貸してちょうだい﹂と、彼女は、以前の情愛のこもった調子で言った。――﹁わたしたち、長いことおしゃべりをしなかったことね﹂ わたしは彼女の顔をうかがった。その眼は静かに光って、顔は、まるで靄もやをとおして見るように、ほほ笑えんでいた。 ﹁まだずっと、お加減が悪いのですか﹂と、わたしは尋たずねた。 ﹁いいえ、もうすっかりいいの﹂と彼女は答えて、小さな紅あかいバラを一輪摘つみ取った。――﹁すこし疲つかれているけれど、これもじきに直るわ﹂ ﹁で、また元通りのあなたになって下さるんですね?﹂と、わたしは訊いた。 ジナイーダは、バラを顔へ近づけた。すると、あざやかな花びらの照返しが、彼女の頬ほおを染そめたように思われた。 ﹁ほんとに、わたし変ったかしら?﹂と、彼女は訊き返した。 ﹁ええ、変りました﹂と、わたしは小声で答えた。 ﹁わたし、あなたに冷たくしたわ――それは自分でもわかっているの﹂と、ジナイーダは言い始めた。――﹁けれど、あなたがそれを気にすることなんか、なかったのよ。……わたし、外に仕方がなかったんだもの。……でも、こんな話をしても始まらないわ!﹂ ﹁あなたは、僕ぼくがあなたを愛するのが厭なんです――それなんです!﹂と、わたしは思わずカッとなって、陰いん気きな調子で叫んだ。 ﹁いいえ、愛してちょうだい。けれど、前のようにではなしにね﹂ ﹁というと?﹂ ﹁お友達になりましょうね――それがいいのよ!﹂ジナイーダは、わたしにバラの花を嗅かがせて、――﹁ね、よくって、わたしあなたよりずっと年上なんだから――叔お母ばさんにだってなれるはずよ、ほんとに。また、叔母さんでないまでも、姉さんになら立派になれるわ。そこであなたは……﹂ ﹁僕は、どうせ赤あかん坊ぼうですよ﹂と、わたしは遮さえぎった。 ﹁ええ、そう、赤ちゃんね。けれど、可かわ愛いらしい、おとなしい、利口な子だから、わたし大好きなのよ。ああ、そうそう、こうしたらいいわ。わたし、今日からあなたを、わたしのお小こし姓ょうに取立ててあげるわ。そこで、お小姓というものは、御ごし主ゅじ人んのそばを離はなれてはいけないということを、忘れてはいけませんよ。さ、これが、あなたの新しい位のしるし﹂と、彼女は言い足して、わたしの短い上着のボタンに、バラの花を挿さしてくれた。――﹁わたしの御寵愛のしるしよ﹂ ﹁僕は前には、もっと別の寵愛を受けていましたよ﹂と、わたしは口をとがらした。 ﹁まあ!﹂と、ジナイーダは言って、横合いからわたしの顔をちらりと見た。――﹁この人の覚えのいいこと! いいわ、今だってかまやしないわ。……﹂ そう言って、わたしの方へ身をかがめると、わたしの顔に、清らかな静かなキスを、一つしてくれた。 わたしはそういう彼女の顔を、ほんのちらりと見上げただけだが、彼女はくるりとそっぽを向いて、﹁あとからついて来るのよ、お小姓さん﹂と言い捨てると、さっさと傍はな屋れの方へ歩き出した。 わたしは、続いて歩き出したが、心の中で絶えず疑いまどっていた。﹃いったい﹄と、わたしは考えるのだった、――﹃このしとやかな、思しり慮ょぶかい娘むすめが、これまでわたしの知っていたあのジナイーダなのかしら?﹄思いなしか、彼女の歩きつきまでが、前よりも静かになったような気がした。その姿もおしなべて、一層立派になって、すらりとしてきたような気がした。…… そして、我ながらいじらしいことだが、わたしの胸の恋れん情じょうは、なんという新しい力をもって、燃え立ったことだろう!十六
夕食のあとで、また常連が傍はな屋れに集まって、令れい嬢じょうもその席へ出てきた。わたしにとって終生わすれがたいあの最初の晩のように、そこには全員が、一人も欠けずにそろっていた。ニルマーツキイまでが、のこのこやって来ていた。マイダーノフは、その晩イの一番にやって来たが、つまり新作の詩を持参に及およんだわけだった。またもや罰ばっ金きんごっこが始まったけれど、もう以前のような突とっ飛ぴな振ふる舞まいも、悪ふざけも、馬ばか鹿さ騒わぎもなくて、――ジプシーめいた要素は消えうせていた。 ジナイーダが、わたしたちの一座を、新しい気分のものに切り替かえたのだ。わたしは小こし姓ょうの役目がら、彼かの女じょのそばに席を占しめた。そうこうするうちに、やがて彼女は罰金に当った人が自分のみた夢ゆめの話をすることを提案したけれど、これはうまくゆかなかった。さっぱり面おも白しろくもない夢だったり︵たとえばベロヴゾーロフは、愛馬にフナを食わせたが、その馬の首が木になっていた――という夢を見た︶、あるいは不自然な、わざとでっちあげた夢だったりした。マイダーノフは、一編の小説をもって、我々をもてなした。そこには、アーチ形の古めかしい墓ぼけ穴つが出てきたり、竪たて琴ごとを抱だいた天使が現われたり、物を言う花だの、はるかに漂ただよってくる楽がくの音ねだの、たいした道具だてだった。ジナイーダは、終りまで話させなかった。 ﹁一いっ旦たんもう、作り話になったからには﹂と、彼女は言った。――﹁こんどはみんな、何か話をすることにしましょう。自分で考えた話でなくちゃ駄だ目めよ﹂ さて、まず第一に話をする番にあたったのは、またもベロヴゾーロフだった。 若い軽けい騎きへ兵いは閉口して、 ﹁僕ぼくは、話なんか考え出せませんよ!﹂と、わめいた。 ﹁また、そんなつまらないことを!﹂と、ジナイーダは引取って、――﹁じゃ、たとえば、あなたがお嫁よめさんをもらったと考えてみるのよ。そこであなたが、お嫁さんと一いっ緒しょにどんな風に暮くらすか、それを話してみるといいわ。あなたなら、お嫁さんを閉じ込こめてしまうでしょうね?﹂ ﹁閉じ込めるです﹂ ﹁で、ご自分も一緒にいるんでしょうね?﹂ ﹁自分も、必ず一緒にいます﹂ ﹁結構だわ。でももし、お嫁さんがそれに飽あきて、あなたを裏切るようなことをしたら?﹂ ﹁殺してしまうです﹂ ﹁でも、お嫁さんが逃にげだしたら?﹂ ﹁追っかけて捕つかまえて、やはり殺してしまうです﹂ ﹁そう。でもね、かりにこのわたしが、あなたのお嫁さんだったとしたら、どうなすって?﹂ ベロヴゾーロフは、ちょっと絶句してから、 ﹁そしたら、僕は自殺します……﹂ ジナイーダは笑い出した。 ﹁どうもあなたの歌は、ぽつんと切れてしまうわねえ﹂ 二番目の罰金は、ジナイーダに当った。彼女は、眼めを天てん井じょうへ上げて考え込んだ。 ﹁じゃ、いいこと﹂と、彼女はやがて話し出した。――﹁私の考え出した話なのよ。……まず、立派な御ごて殿んを想像してちょうだい。夏の夜で、すばらしい舞ぶと踏うか会いがあるの。その舞踏会は、若い女王のお催もよおしなのよ。どこもかしこも、金きんや、大理石や、水すい晶しょうや、絹や、灯とも火しびや、ダイヤモンドや、花や、お香こうや、あらんかぎりの贅ぜい沢たくなもので、いっぱいなの﹂ ﹁あなたは、贅沢がお好きですか?﹂と、ルーシンが遮さえぎった。 ﹁贅沢って、奇きれ麗いですものね﹂と、彼女は答えた。――﹁わたしなんでも奇麗なのが好き﹂ ﹁立派なものよりもですか﹂と、彼が訊きいた。 ﹁なんだか、ひねくった言いようね。よくわからないわ。まあ、邪じゃ魔ましないでちょうだい。とにかく、すばらしい舞踏会なの。お客も大おお勢ぜいいて、それがみんな若くて、立派で、勇ゆう敢かんで、みんな夢むち中ゅうで女王様に恋こいしているの﹂ ﹁客の中に、女性はいないのですか?﹂と、マレーフスキイが訊いた。 ﹁いないの。でも、ちょっと待って――やっぱり、いるわ﹂ ﹁みんな不器量なんですね?﹂ ﹁すばらしい美人ぞろい。でもね、男はみんな、女王に恋してるの。女王は背が高くて、すらりといい姿で、真っ黒な髪かみのうえに、小さな金きんの王おう冠かんを載のせているの﹂ わたしは、ジナイーダをちらと見た。と、その瞬しゅ間んかん、彼女は我々みんなよりも、ずっと高貴な存在に思われ、その白い額からも、じっと動かない眉まゆからも、なんとも言えない明るい知ち恵えや威いり力ょくが、匂におってくるような気がして、わたしは思わず、﹃あなたこそ、その女王だ!﹄と、心に叫さけんだほどだった。 ﹁みんな、女王様のまわりに、ひしめき合ってね﹂と、ジナイーダは話を続けた。――﹁あらん限りのお追つい従しょうを奉たてまつるの﹂ ﹁ほう。女王様は、お追従が好きなんですね?﹂と、ルーシンが聞きとがめた。 ﹁やりきれないわね、この人は! まぜっ返してばかりいて。……お追従の嫌きらいな人が、どこの世界にあって?﹂ ﹁もう一つだけ、最後に伺うかがいたいですが﹂と、マレーフスキイが口を出した。――﹁その女王には、夫があるのですか﹂ ﹁わたし、そんなこと考えもしなかったわ。いいえ、夫なんて要いるもんですか﹂ ﹁そうですとも﹂と、マレーフスキイは相あい槌づちを打った。――﹁夫なんて、要るものですか﹂ ﹁静かシラにンス!﹂とフランス語のからっ下ぺ手たなマイダーノフが、フランス語で叫んだ。 ﹁あメりルがシとう﹂と、ジナイーダは彼かれに酬むくいて、――﹁さて女王は、そんなお追従に耳をかしたり、音楽を聴きいたりしているけれど、その実お客の誰だれ一人にだって、目もくれないの。六つの大窓が、上から下まで、天井から床ゆかまで、すっかりあけ放たれて、その外には、大きな星くずをちりばめた暗い夜空や、大きな木々の茂しげった暗い庭があります。女王は、その庭に見入っているの。そこには、木こだ立ちのそばに噴ふん水すいがあって、闇やみの中でも白しら々じらと、長く長く、まるで幻まぼろしのように見えています。女王の耳には、人声や音楽の合間々々に、静かな水音が聞えるのです。女王は、闇に見入りながら、こんなことを考えるの――皆みなさん、あなた方はみんな、貴とうとい生れで、賢かしこくて、お金持です。あなた方は、わたしを取巻いて、わたしの一言一句を重んじて、わたしの足もとで死ぬ覚かく悟ごでいらっしゃる。つまりわたしは、あなた方の生死を、わたしの手に握にぎっているわけです。……ところが、あの噴水のそばには、あのさわさわと鳴る水のそばには、わたしの愛する人、わたしの生死をその手に握っている人が、たたずんで、わたしを待っているのよ。その人は、おごった衣いし裳ょうも着ていないし、宝石もつけてはいず、誰もその名を知る人はありません。けれど、その人はわたしを待ち受けているし、また、わたしがきっと行くものと信じきっています。――ええ、わたしは行きますとも。一旦わたしが、その人のところへ行って、一緒になろうと思ったら最後、わたしを引留めるほどの力は、この世のどこにもありはしない。そこでわたしは、あの人と一緒に、あの庭の暗がりへ、木立のそよぐもとへ、噴水のさわさわ鳴る陰かげへ、姿を消してしまうの……とね﹂ ジナイーダは口をつぐんだ。 ﹁それは作り話ですか﹂と、マレーフスキイが鎌かまをかけた。 ジナイーダは、見向きもしなかった。 ﹁だが諸君、いったいどんなものでしょうな﹂と、出だし抜ぬけにルーシンが言い出した。――﹁かりにもし、我々もそのお客さんの中にいて、しかもその噴水のほとりの仕合せ者のことを知っているとしたら、我々は果して、どうするだろうか﹂ ﹁待って、ちょっと待って﹂と、ジナイーダが遮った。――﹁あなた方が一人々々どうなさるか、わたし自分で言ってみるわ。あなたはね、ベロヴゾーロフさん、その人に決けっ闘とうを申込むわね。マイダーノフさん、あなたは、その人に当てつけた諷ふう刺し詩しを書くわ。……でも、そうじゃないわ――あなたは諷刺詩が書けないから、バルビエ風の短長格の長詩でも作って、その力作を﹃テレグラフ﹄誌に発表なさるわ。それから、ニルマーツキイさん、あなたはその人から、お金を借り出すわ……じゃない、あべこべにお金を貸して、利息を取るわね。ところで、あなたは、ドクトル……﹂彼女は言いよどんだ。﹁そうねえ、あなたのことはわからないわ、どうなさるか﹂ ﹁僕は侍じ医いの役目として﹂と、ルーシンは答えた。――﹁その女王を諌いさめますな。お客どころでない非常時に、舞踏会なんか催さないようにね。……﹂ ﹁なるほど、おっしゃるとおりかもしれないわね。ところで伯はく爵しゃく、あなたは?……﹂ ﹁わたしは?﹂と、例の不気味な微びし笑ょうを浮べて、マレーフスキイが鸚おう鵡むが返えしに言った。 ﹁あなたなら、毒の入ったお菓子を、その人にすすめるわね﹂ マレーフスキイの顔は、かすかに引きつって、一瞬間ユダヤ人のような表情を帯びたが、すぐ高笑いにまぎらしてしまった。 ﹁さてそこで、ヴォルデマールさん、あなたはどうするかと言うと……﹂と、ジナイーダは続けたが、――﹁でも、もうたくさんだわ。何かほかのことをして遊びましょう﹂ ﹁ヴォルデマール君は、お小姓の資格で、女王様が庭へ駆かけ出す時、その裳もす裾そを捧ほう持じするでしょうな﹂と、毒々しい口調でマレーフスキイが一いっ矢しをむくいた。 わたしはカッとなった。しかしジナイーダは、素すば早やくわたしの肩かたに手を置くと、半ば身を起しながら、やや顫ふるえを帯びた声で、こう言い放った。 ﹁わたし、無礼な口をきく権利なんか、差上げた覚えはございません、伯爵。ですから、このまま御ごた退いせ席きを願います﹂そう言って、ドアをさして見せた。 ﹁とんだことです。お嬢じょうさん﹂と、マレーフスキイはつぶやいて、真っ青になってしまった。 ﹁令嬢の言われるとおりだ﹂と、ベロヴゾーロフはわめいて、やはり立ち上がった。 ﹁わたしは、誓ちかって言いますが、こんなこととは思いもかけなかったのです﹂と、マレーフスキイが続けた。――﹁わたしの言葉には、別にこれといったことも、ないようですし……第一、お気を悪くさせようなどという考えは、毛頭なかったのです。……許して下さい﹂ ジナイーダは、冷たい一いち瞥べつを彼に投げると、冷やかな薄うす笑わらいを漏もらした。 ﹁じゃ、いいわ、いらしても﹂と彼女は、無造作に手を一ひと振ふりして言った。――﹁わたしもヴォルデマールさんも、つまらない向むかっ腹ぱらを立てたものだわ。あなたは、皮肉を言うのが楽しみなのね……たんとおっしゃるがいいわ﹂ ﹁許して下さい﹂と、もう一いっ遍ぺんマレーフスキイは繰くり返かえした。 一方わたしは、今しがたのジナイーダの手の振りようを思い浮うかべながら、本当の女王様でも、あれ以上の威いげ厳んをもって、無礼者にドアをさして見せることはできまいと、改めてまた心に思った。 この小さな一幕のあったあとは、罰金ごっこも長続きしなかった。みんないささか気きづ詰まりになってきたが、それは当のその一幕のためというより、もっと別の、あまりはっきりしないが何かしら重苦しい、ある感情のためであった。誰もそのことを口に出しこそしなかったけれど、みんなそれぞれ、自分の胸にも仲間の胸にも、そんな感情がわだかまっていることを意識していたのだ。やがて、マイダーノフが自作の詩を朗読すると、マレーフスキイは大げさな熱ねっ狂きょうぶりでもって褒ほめそやした。 ﹁こんどは先生、善良に見られたがってるんですな﹂と、ルーシンがわたしに耳打ちした。 わたしたちは、まもなく散会した。ジナイーダは急に物思いに沈しずんでしまうし、公爵夫人は頭痛がすると言いによこすし、ニルマーツキイはリューマチが痛むと言い出す――といった始末だったからである。 わたしは、長いこと寝ねつかれなかった。ジナイーダのした話で、激はげしく心を打たれたのだ。 ﹃ほんとにあの話には、何か暗示があるのだろうか?﹄と、わたしは自分に尋たずねた。――﹃そしていったい誰を、そして何事を、彼女は仄ほのめかそうとしたのだろうか? それにしても、暗示すべき事がちゃんとあるとすれば……思い切って言い出すことが、できるものかしら? いやいや、そんなはずはない﹄ わたしは、火ほ照てった頬ほおを代る代る枕まくらへ当て変えながら、そうささやいた。……とはいえわたしは、さっきあの話をした時のジナイーダの顔の表情を思い出し……それから、ネスクーチヌィ公園でルーシンが思わず発したあの叫び声や、彼女のわたしに対する態度が急に変ったことまでも思い出して――すっかり訳がわからなくなるのだった。﹁その男は誰か?﹂これだけの言葉が、闇のなかにくっきりと印されて、わたしの眼めの前に立っていた。まるでそれは、低い不吉な雲が頭上に垂たれこめたみたいな気持で、わたしはその重圧をひしひしと感じながら、それが爆ばく発はつする時を、今か今かと待ち構えていた。近ちか頃ごろになってわたしは、いろんなことに慣れもしたし、ことにザセーキン家では、やっとこさいろんなことを見せつけられた。彼らのふしだらさや、あぶら蝋ろう燭そくの燃えさし、欠けたナイフやフォーク、陰いん気きくさいヴォニファーチイ、尾お羽はうち枯からした小間使たち、当の公爵夫人の立居振舞い――そんな奇きか怪い千万な暮しぶりなんかには、もうビクともしなくなっていた。……だが、今ジナイーダの身に漠ばく然ぜんと感じられる或あること、――それには何としても馴な染じむことができなかった。……﹁男たらし﹂と、わたしの母はいつぞや彼女のことを罵ののしった。その﹁男たらし﹂である彼女が、わたしの偶ぐう像ぞうであり、わたしの神とあがめる存在なのだ! その悪あく罵ばが、わたしの胸を焼き焦こがした。わたしはそれから逃のがれようと、枕に顔を埋うめた。わたしは無むし性ょうに腹が立ったが、同時にまた、噴水のほとりのあの仕合せ者になれさえしたら、どんなことでも承知してみせるどんな犠ぎせ牲いでも払はらってみせる、と思った。…… 体じゅうの血が燃えたぎった。﹃庭……噴水……﹄と、わたしは思った。……﹃よし、ひとつ庭へ出てみよう﹄わたしは手早く服を着けて、家から抜け出した。 闇の夜で、木々はかすかにそよいでいた。空からは、静かな冷気が下りてきて、野菜ばたけからは、茴うい香きょうの香かおりが漂ってきた。わたしは、何本かの並なみ木きみ道ちをすっかり歩いてしまった。自分の軽い足音が、わたしを当とう惑わくさせもすれば、励はげましてもくれた。わたしは時々立ち止って、何ものかを待ち受けながら、自分の心臓が早はや鐘がねのように高鳴るのに耳をすました。やがての果てに、わたしは垣かき根ねのそばへ行って細い棒ぐいに倚よりかかった。と不意に――あるいは、そら耳だったろうか――わたしからつい五、六歩のところを、さっと女の姿がひらめいて過ぎた。……わたしは、闇のなかへひたと眼をこらし、息をひそめた。これは何だろう? 聞えたのは、誰かの足音だったろうか、――それとも自分の心臓の高鳴りだったろうか?﹁誰だ、そこにいるのは?﹂と、わたしは言ったが、舌がもつれて、ほとんど聞き取れない声だった。また何か物音がした。あれは何だろう? 押おし殺した笑い声か?……それとも、そよぐ木の葉か?……それとも、耳のすぐそばで漏もらされた溜ため息いきか? わたしは、こわくなった。……﹁誰だ、そこにいるのは?﹂と、わたしは声を低めて、また言った。 空気は、ほんの一瞬間、さっと流れた。空には、一筋、火のような筋がきらめいた。星が流れたのだ。 ﹃ジナイーダ?﹄と、わたしは訊こうとしたが、音はわたしの唇くちびるで空むなしく消えた。そして突とつ然ぜん、あたりのものみな、深い沈ちん黙もくに沈んでしまった。真夜中にはよくあることである。……木陰のコオロギまでが鳴りをひそめて――ただどこかの窓が、かたりといっただけだった。わたしは、帰ろうとしては佇たたずみ、帰ろうとしては佇みしていたが、やがて自分の部屋へ、自分の冷えはてた寝ねど床こへ帰った。わたしは、異常な興奮を感じていた。さながら逢あい引びきに出かけて行って、結局ひとりぼっちで、他人の幸福のそばを指をくわえて通ったような。十七
そのあくる日、わたしはジナイーダを、ほんのちらりと見ただけだった。彼かの女じょは公こう爵しゃ夫くふ人じんと一いっ緒しょに辻つじ馬ばし車ゃに乗って、どこかへ出かけるところであった。そのかわりわたしは、ルーシンに会った。もっとも彼かれは、ろくろくわたしに挨あい拶さつもしなかったが。それからまた、マレーフスキイにも出会った。若い伯はく爵しゃくは、にやにや作り笑いをしながら、さも親しげに話しかけた。傍はな屋れの常連の中で、どうしたわけかこの伯爵だけは、わたしの家にうまく取り入って、母のお気に入りだったのである。もっとも父は、この伯爵を毛けぎ嫌らいして、無礼なほどの丁重さであしらっていた。 ﹁おや、お小パー姓ジ君ュ﹂と、マレーフスキイは口を切った。――﹁お目にかかれて、じつに嬉うれしいです。あなたの美しい女王様は、何をしておられますか﹂ 彼のすがすがしい秀しゅ麗うれいな顔が、その瞬しゅ間んかんわたしには、虫むし酸ずが走るほど厭いやだったし、おまけに彼が、人を馬ば鹿かにしたようなふざけた眼めつきで、じっとわたしを見ているので、こっちは返事もしてやらなかった。 ﹁君はまだ、おこっているのですか﹂と、彼は続けた。――﹁つまらんことですよ。第一、君にお小こし姓ょうという名をつけたのは、僕ぼくじゃないんだし、それにまたお小姓というものは、まずもって女王様の付き物ですからねえ。だがしかし、失礼ながら一いち言ごん御ごち注ゅう意いしますが、どうも君は職務怠たい慢まんですな﹂ ﹁どうしてです?﹂ ﹁お小姓というものは、女王様のそばを離はなれてはいけないのですよ。お小姓は、女王様の一挙一動をみんな知っているべきだし、いっそ女王様の見張りをさえ勤めるべきものなんですよ﹂そこで声を低めて、彼は言い添そえた、――﹁昼も、夜もね﹂ ﹁それは、どういう意味です?﹂ ﹁どういう意味? 僕は、はっきり言っているはずですがね。昼も――夜も、ですよ。昼間はまあ、なんとかなるでしょう。日の目はあるし、人目もありますからね。ところが夜というやつは、とかく災わざわいの起りがちなものでね。まあ悪いことは言わないから、夜ぐうぐう寝ねてないで、一生けんめい大きな眼をあけて、見張りをするんですね。ほら、覚えているでしょう――庭、夜なか、噴ふん水すいのほとり――そういう場所で待ち伏ぶせるんですな。いまに君は、僕にありがとうを言うでしょうよ﹂ マレーフスキイは高笑いをして、くるりとわたしに背を向けた。彼はおそらく、自分の言ったことを、特に重大とも思っていなかったろう。何しろ彼は、人をかつぐ名人として通っていたし、仮かそ装うぶ舞とう踏か会いなどで、まんまといっぱいくわせる妙みょ技うぎを謳うたわれていたからである。これには、彼という人間全体にしみとおっている無意識な嘘うそつき癖ぐせが、あずかって大いに力があったのだ。……彼はただ、わたしをちょいとからかおうと思っただけのことだろうが、その一言一句は猛もう烈れつな毒となって、わたしの血けつ脈みゃくという血脈を走り回った。血がどっとばかり、頭へ押おしよせた。 ﹃ああ! そうだったのか!﹄と、わたしはひとりごちた。――﹃よし! するとつまり、僕がなんとなく庭へ惹ひかされていたのも、やはり意味のないことじゃなかったのだ! いやいや、そんなことがあるもんか!﹄と、わたしは大声でわめいて、握にぎりこぶしで胸をどんと叩たたいたが、そのくせ、何があってはならないのかという点になると、自分でも見当がつかなかったのである。 ﹃マレーフスキイ御自身、庭へ出馬なさるわけかな﹄と、わたしは考えた。︵彼がひょいと、口をすべらしたのかもしれない。そのくらいの鉄てつ面めん皮ぴさなら、ありあまっている彼のことだから︶――﹃それとも、誰だれかほかのやつが現われるかな。︵うちの庭の垣かき根ねは、とても低かったから、乗り越こえるにはなんの造ぞう作さもなかった︶――だがとにかく、僕に取っつかまったやつは、百年目だぞ! 誰にもせよ、僕にぶつからないように用心するがいい! 僕は、僕だって復ふく讐しゅうする力があることを、世間のやつらにも、裏切り者のあの女にも︵とわたしは、ずばりと彼女を裏切り者と呼んだ︶――思いしらせてやるぞ!﹄ わたしは、自分の部屋へ戻ると、デスクの引出しから、この間買ったばかりの、イギリス製のナイフを取出して、その切れ味をためしてみた。それから眉まゆの根を寄せて、一点に集中した冷やかな決意をもって、それをポケットに収めた。そんなことは、別に驚おどろくほどのことはないし、またこれが最初でもない――といった調子であった。わたしの心臓は、毒々しくたけり立って、石のようにコチコチになった。わたしは夜がふけるまで、眉をしかめたまま、唇くちびるをキッと噛かみしめて、絶えず部屋の中を行きつ戻もどりつしながら、熱しきったナイフをポケットのなかで握りしめ、何かしら凄すさまじい出来事にたいする心構えを、あらかじめ整えていた。この新しい、ついぞ味わったこともない感覚は、わたしを酔よわせたばかりか、陽気にさえしたので、肝かん心じんのジナイーダのことは、ほとんど考えに上らないほどだった。わたしの念頭には、絶えずこんな文句がちらついていた。 ――アレーコ、若いジプシー。――﹁どこへ行く、この色男め? そのまま寝ていろ……﹂それから、﹁まあ、あなた血だらけじゃないの! ……なんてことをしたの?﹂……﹁なんにも、しやしない!﹂︵訳注 プーシキンの叙事詩﹃流浪の民﹄より︶ なんという残ざん忍にんな微びし笑ょうを浮うかべながら、わたしはこの﹃なんにも﹄という句を、繰くり返かえしたことだろう! 父は家にいなかった。しかし、この間からほとんどしょっちゅう、内ない攻こうしたいらだちの状態でいる母は、わたしのただ事でない様子に目をつけて、夜食の時、わたしにこう言った。 ﹁何をお前、そうふくれ返っているんだね? まるでネズミが、ひきわり麦をねらってるみたいにさ﹂ わたしは返事の代りに、ほんのお付合いににやりと笑ってみせて、﹃この気持を、親が知ったらなあ!﹄と考えた。十一時が打った。わたしは自分の部屋へ引きとったが、服は脱ぬがずにいた。わたしは、真夜中を待っていた。やがて、十二時が打った。﹃さあ、潮時だ!﹄と、わたしは歯を食いしばりながらささやいて、上着のボタンを上まで掛け、御ごて丁いね寧いに両の袖そでをたくし上げて、庭へ出かけて行った。 わたしはあらかじめ、見張りの場所を決めていた。わたしたちの領分とザセーキン家の領分との地じざ境かいを成している垣根が、共同の塀へいにぶつかっている庭のはずれに、樅もみの木が一本、ぽつんと立っていた。その低く茂しげった枝の下に立っていれば、夜の闇やみがゆるす限りは、あたりで起ることの一いっ切さいが、よく見えるのだった。そこには、一筋の小道がうねっていて、それがいつも、へんに神秘めいてわたしには見えた。というのはその小道が、ちょうどその場所で人が乗り越えたらしい足あし跡あとの残っている垣根の下を、蛇へびのように這はい抜ぬけて、アカシアばかりでできている円い四あず阿まやへ、通じていたからである。わたしは樅の木へたどり着くと、その幹に倚よりかかって、見張りを始めた。 前の晩と同じく、静かな夜だった。しかし、空には雨雲が減って、灌かん木ぼくの茂みの形のみならず、背の高い草花の影かげまでが、一層はっきり浮んでいた。待ち構える身にとって、最初の幾いく瞬しゅ間んかんは辛つらかった。ほとんど恐おそろしいくらいだった。覚かく悟ごはすっかりできていたけれど、さてどういう行動に出たものか、それだけが心がかりだった。﹃どこへ行くのだ? 止れ! 白状しないと、殺しちまうぞ!﹄と、どなりつけてやろうか。それとも、ひと思いに斬きりつけてやろうか。……ちょっと音がしても、枝えだや葉がカサリと鳴っても、さやいでも、それが一々わたしには何か意味ありげに、ただ事でないように聞えた。……だんだん覚悟ができてきた。……わたしは上体を前へ乗り出した。……ところが、半時間たち、一時間たつうちに、わたしの血潮はしだいに静まり、冷めていった。こんなことをしたって無むだ駄ぼ骨ねだ、我ながらいささか滑こっ稽けいなくらいだ、これはてっきりマレーフスキイのやつがいっぱい食わしたのだ――という意識が、じりじりと胸の中へ忍しのび込こんで来た。わたしは待ち伏せの場所を離れて、庭をぐるり一回りしてみた。まるでわざとのように、ほんの葉ずれほどの音さえ、どこにもしなかった。何もかも、しんと静まり返って、うちの犬までが、木戸のそばに丸くなって眠ねむっていた。わたしは、温室の崩くずれ残りによじ登った。遠い野原が眼めの前にひらけ、この間ジナイーダに出会った時のことが思い出されて、わたしは物思いに沈しずみ始めた。…… わたしは、ぎくりとした。……どこかでギイと戸のあく音がして、それから小枝の折れる音が、かすかにしたような気がしたのだ。わたしは、ふた跳とびで崩れ残りから跳びおりると、――その場に立ちすくんでしまった。すばやい、軽かろやかな、それでいて用心ぶかい足音が、はっきりと庭の中に響ひびいていた。だんだんわたしの方へ近づいてくる。﹃さあ、来た。……いよいよやって来たぞ!﹄という考えが、わたしの心臓をかすめた。わたしは、引っつったようにナイフをポケットから抜き出すと、ぐいとそれを開いた。――何か赤い火花のようなものが、眼のなかでくるくる回りだし、恐ろしさと憎にくさとで、頭の毛がもずもずうごめいた。……足音は、まっすぐわたしの方へ進んで来る。わたしは、そろそろ腰こしを落して、足音に向って身構えた。……男の姿が現われた。……南なむ無さ三ん! それはわたしの父だった。 わたしは咄とっ嗟さに見分けがついた。父は全身すっぽり黒マントにくるまり、帽ぼう子しを目まぶ深かにおろしていたが、それでは包み匿かくせなかった。彼は爪つま先さき立だちで、そばを通り過ぎた。わたしには気がつかなかった。わたしは、何に身をかくしていたわけでもないけれど、地面に這はいつくばらんばかりに小さく縮こまっていたのである。嫉しっ妬とにかられて、人殺しの覚悟までしていたオセロは、突とつ如じょとして小学生に化してしまった。……思いもかけぬ父の出現に、わたしはびっくり仰ぎょ天うてんのあまり、彼がどこからやって来て、どこへ姿を消したのか、初めは気がつかなかったほどであった。わたしがやっと身を伸のばして、﹃なんだってお父さんは、よる夜中に庭なんぞ歩くんだろう﹄と考えたのは、再びあたりが、しんと静まり返った時であった。恐ろしさのあまり、わたしはナイフを草むらに落してしまったが、それを捜さがすどころではなかった。恥はずかしくてならなかったのだ。 わたしは一いっ遍ぺんに酔いがさめた。とはいえ、家へ戻もどる途とち中ゅうで、わたしはやはり、ニワトコの陰かげの例のベンチのそばへ行って、ジナイーダの寝しん室しつの小窓を見上げた。すこし反り返っている何枚かの窓ガラスは、夜空から落ちるかすかな光を受けて、ぼうっと青みを帯びていた。と不意に、その色が変り始めた。……内側から、――そう、わたしは見たのだ、この眼ではっきり見たのだ――白っぽい巻きカーテンが、そっと用心ぶかく下ろされて、窓がまちのところまで下りきってしまうと、そのままじっと動かなくなった。 ﹁これはいったい何事だろう?﹂と、いつのまにか自分の部屋に舞まい戻っていたわたしは、ほとんど無意識に、そう声に出して言った。――﹁夢ゆめなのか、偶ぐう然ぜんなのか、それとも……﹂ そこで突とつ然ぜんあたまに浮んだ或ある憶おく測そくは、あまりにも生々しく、あまりにも異様なものだったので、わたしはどだい受付ける勇気もなかった。十八
あくる朝わたしは、頭痛をおさえながら起き出した。ゆうべの興奮は消えていた。その代り、重くるしい疑ぎわ惑くと、まだ身に覚えたこともない――まるでわたしの中で何ものかが息を引き取ろうとしているような、一種異様なわびしさが、わだかまっていた。 ﹁なんだって君は、脳みそを半分抜ぬき取られた兎うさぎみたいな顔をしているのですね?﹂と、出会いがしらにルーシンが言った。 朝飯のとき、わたしは父の様子や母の顔色を、こっそり窺うかがった。父は、いつものとおり落着きはらっていたが、母は例によって、内心いらいらしていた。わたしは、父が時々出す癖くせで、打解けてわたしに話しかけはしまいかと心待ちにしていた。……けれど父は、つね日ひご頃ろの例の冷たいお愛想をすら、言ってはくれなかった。 ﹃すっかりジナイーダに話してしまおうか?﹄と、わたしは考えた。……﹃こうなったからには、どっちみち同じじゃないか――どうせ二人の間は、きれいにお仕し舞まいなんだもの﹄ わたしは彼かの女じょのところへ出かけて行ったが、肝かん心じんの話を切り出すどころか、雑談さえ思うようにできない始末だった。公こう爵しゃ夫くふ人じんの生みの息むす子こが、ペテルブルグから帰省して来たのである。幼年学校の生徒で、十二ぐらいの子だった。ジナイーダはこの弟を、早さっ速そくわたしの手にあずけた。 ﹁さあ、よくって﹂と、彼女は言った。――﹁わたしの可かわ愛いいヴォロージャ︵彼女がわたしを愛称で呼んだのは、これが初めてだった︶、あなたのいい仲間ができたわ。この子もやっぱり、ヴォロージャっていうのよ。どうぞ、可愛がってやってちょうだい。まだ野育ちだけれど、気だてはいいのよ。ネスクーチヌィ公園でも見せてやって、一いっ緒しょに散歩して、目をかけてやって下さいね。ね、いいでしょう、そうして下さるわね? あなたも、ほんとにいい人なんですもの!﹂ と言って、彼女が両手を優やさしくわたしの肩かたにかけたので、わたしはすっかりまごついてしまった。この少年が来たおかげで、わたしまでが子供に成り下がったわけである。わたしは黙だまって、幼年学校の生徒を眺ながめた。向うもやはり無言のままわたしを見つめた。ジナイーダは、ホホホと笑い出して、わたしたち二人を、どすんとぶつけ合わした。 ﹁さ、抱だき合うのよ、いい子だから!﹂ 我々は抱き合った。 ﹁どうです、庭を案内しましょうか?﹂と、わたしは幼年学校の生徒に訊きいた。 ﹁は、どうぞ﹂と彼かれは、いかにも幼年学校の生徒らしい、しゃがれ声で答えた。 ジナイーダはまた笑い出した。……そのひまにわたしは、彼女の顔にこれほど艶えん麗れいな紅あからみのさしたことは、ついぞなかったことに気がついた。 わたしは、幼年学校の生徒と一緒に出かけた。うちの庭には、古いブランコがあった。わたしは彼を細い板ぎれに坐すわらせて、揺ゆすぶってやり始めた。彼は、幅はばの広い金モールのついた、新調らしい厚地のラシャの制服を着て、身じろぎもせず坐ったまま、しっかり綱つなにつかまっていた。 ﹁襟えりのボタンでもはずしたらどうです?﹂と、わたしは言ってやった。 ﹁いいであります、慣れていますから﹂と彼は言って、咳せき払ばらいをした。 彼は姉さんに似ていた。とりわけ眼めがそっくりだった。わたしは、この少年の面めん倒どうを見てやるのが楽しくもあったけれど、同時にまた、相も変らぬうずくような侘わびしさが、そっとわたしの胸を噛かむのであった。﹃ああ、これでもう、僕ぼくはすっかり赤あかん坊ぼうだ﹄と、わたしは思った。――﹃ところが昨日は……﹄ わたしは、ゆうべナイフを落した場所を思い出したので、そこへ行って拾い上げた。幼年学校生は、それをねだり取って、ウドの太い茎くきを折ると、それで笛ふえを削けずりあげ、ぴゅうぴゅう吹ふき出した。オセロもやはり、ちょっと吹いてみた。 だがその代り、その夕方になると、この同じオセロが、ジナイーダの胸に抱かれて、どんなに泣いたことだろう! それは彼女が、庭の隅すみでオセロを見つけ出して、なぜそんなに悲しそうにしているのかと、尋たずねた時のことである。するとわたしの涙なみだが、おそろしい勢いでほとばしり出たので、彼女はびっくりしてしまった。 ﹁どうしたの? いったいどうしたの、ヴォロージャ?﹂と、ジナイーダは繰くり返かえしたが、わたしが返事もしないし泣きやみもしないのを見て、わたしのびしょ濡ぬれの頬ほおにキスしようとした。が、わたしは顔をそむけて、むせび泣きのひまから、こうささやいた。―― ﹁僕は、すっかり知っています。なぜあなたは、僕をおもちゃにしたんです?……なんのために、僕の愛が入り用だったんです?﹂ ﹁申し訳ないわ、ヴォロージャ……﹂と、ジナイーダは言った。――﹁ああ、ほんとに申し訳ないわ……﹂と続けて、両手をぎゅっと握にぎり合せた。――﹁わたしの中には、悪い、後ろ暗い、罪ぶかいものが、なんていっぱいあるんでしょう。……でも今はわたし、あなたをおもちゃになんかしていないわ、あなたを愛しているの、――それが、なぜ、どういうふうにかっていうことは、あなたには夢ゆめにも想像がつかないわ。……それはそうと、何をいったいあなたは知ってらっしゃるの?﹂ 何をわたしが彼女に言えたろう? 彼女はわたしの前に立って、じっとわたしを見つめていた。そしてわたしは、彼女に見つめられるが早いか、たちまち頭から足の先まで、すっかり彼女の俘とりこになってしまうのだ。……それから十五分すると、わたしはもう幼年学校生やジナイーダと、鬼おにごっこをしていた。わたしは泣かずに、笑っていたけれど、泣きはらした目まぶ蓋たは、笑うたんびに涙をこぼすのだった。わたしの首っ玉には、ネクタイの代りに、ジナイーダのリボンが結んであった。そしてわたしは、首しゅ尾びよく彼女の胴をつかまえるたびに、歓喜の叫さけびをあげるのだった。彼女はわたしを、思うままにあやつっていたのだ。十九
例の失敗におわった夜中の遠えん征せいから、一週間の間にわたしの経験したことを、詳くわしく話してみろと言われたら、わたしは頗すこぶる閉口するに違いない。それは、まるで熱病にでもかかったような異様な時期で、えたいの知れぬ混こん沌とんを成しており、この上もなく矛むじ盾ゅんした感情や、想念や、疑ぎわ惑くや、希望や、喜びや、悩なやみが、つむじ風のように渦うずまいていた。わたしは、自分の心の中を覗のぞいて見るのが怖こわかった。︵ただし、十六歳さいの少年にも、自分の心の中が覗きこめるものとすればだが︶何事にせよ、はっきり突つき止めるのが怖かった。わたしはただ、手っとり早く一日を晩まで暮くらそうと、あせっていた。その代り、夜はぐっすり眠ねむった。……子供っぽい無分別も、この際だいぶ役に立った。わたしは、自分が人から愛されているかどうか、知ろうともしなかったし、人から愛されていないと、はっきり自じに認んするのも厭いやだった。わたしは父を避さけていたが、ジナイーダを避けることは、わたしにはできなかった。……彼かの女じょの前へ出ると、まるで火に焼かれるような思いがするのだったが……わたしを燃やし熔とかしてゆくその火が、いったいどういう火かということを、別に突き止めたいとも思わなかったのは、ただそうして熔けて燃えてゆくのが、わたしにはなんとも言えずいい気持だったからである。わたしは刻々の印象に、身を任せっぱなしにした。そして自分に対して狡ずるく立ち回って、思い出から顔をそむけたり、前ぜん途とに予感されることに目をつぶったりした。……こうした責せめ苦くは、ほうっておいてもおそらく長くは続かなかったろうが……そこへ降ってわいた出来事が、まるで落らく雷らいのように一挙にすべてに落らく着ちゃくをつけ、わたしの道を切り換かえてくれたのである。 ある日のこと、かなり長い散歩から、昼飯に帰ってみると、驚おどろいたことには、わたしは一人きりで食事をしなければならぬことがわかった。父は外出しているし、母は気分が悪いから何も食べたくないと言って、寝しん室しつにとじこもっていたのだ。従じゅ僕うぼくたちの顔色から、わたしは何かしら変ったことが起きたなと察した。……従僕たちに問いただしてみる勇気は出なかったが、幸いわたしには、食堂係の若者でフィリップという仲なか好よしがいた。これは熱ねつ烈れつな詩の愛好者で、またギターの名人だ。――わたしは、この男に訊きいてみることにした。さて彼かれの話によると、父と母の間には、すざまじい一場が演ぜられたのだった。︵それは一ひと言こと残さず女中部屋へ筒つつ抜ぬけに聞えた。フランス語をだいぶ使っていたが、小間使のマーシャというのが、パリから来た裁さい縫ほう師しのところに五年もいたので、全部わかったのである︶母は父の不実を責め、隣となりの令れい嬢じょうとの交際をなじった。父は最初、なにかと弁解していたが、やがてカッとなって、しっぺ返しに、﹃どうやら奥おく様さまのお年のことで﹄むごい言葉を投げつけたので、母は泣き出してしまった。母はまた、公こう爵しゃ夫くふ人じんにやったとかいう手形のことを持ち出して、さんざん老夫人をこきおろし、ついでに令嬢の悪口まで並ならべたてたので、父はそこで何やら脅おどかし文句を叩たたきつけたそうだ。 ﹁こんな騒そう動どうになりましたのも﹂と、フィリップは言葉を続けた――﹁もとはと言えば、無名の手紙からでございます。誰だれが書いたものやら、それはわかりませんが、それさえなければ、こんな事こと柄がらが表おも沙てざ汰たになるわけは、少しもありませんですよ﹂ ﹁じゃ、やっぱり、何か事柄があったんだね﹂とわたしは、やっとのことで言ったが、その間まにわたしの手足は冷たくなり、胸のずっと奥の方で何かわななき出したものがあった。 フィリップは意味ありげに目配せして、﹁ありましたです。こういう事は、隠かくしおおせるものじゃございません。旦だん那なさ様まも今度という今度は、ずいぶん用心ぶかくやんなさいましたけれど、――やはりまあ早い話が、馬車を雇やとうとか何とか……とにかく人手なしでは済すまないわけでしてね﹂ わたしは、フィリップを下がらせると、ベッドの上にころがった。わたしは、咽むせび泣なきに泣きもしなかったし、絶望の俘とりこにもならなかった。また、そんな事がいったいいつ、どんな風に起ったのかと自問してみるでもなかった。どうして自分があらかじめ、もっとずっと前に察しがつかなかったものかと、それを不ふし審んに思うでもなかった。父を怨うらめしいとさえ思わなかった。……わたしの知った事実は、とうていわたしの力の及およばないことであった。この思いがけない発見は、わたしを押おしつぶしてしまったのである。……一いっ切さいは終りを告げた。わたしの心の花々は、一いち時どきに残らずもぎ取られて、わたしのまわりに散り敷いていた。――投げ散らされ、踏ふみにじられて。二十
あくる日になると母は、町へ引ひき揚あげると言い出した。その朝、父は母の寝しん室しつへ入って、長いこと二人きりでいた。父が何を言ったか、誰だれも聞いた者はないけれど、とにかく母はもう泣かなくなった。母は気持が落着いて、食事を命じたりしたが、とはいえやはり姿を見せず、決心を変えもしなかった。忘れもしない――わたしはその日は一いち日んちじゅう散歩ばかりしていた。もっとも庭へは足を入れず、傍はな屋れを一度だって振ふり向むきもしなかった。ところがその晩になって、わたしは驚おどろくべき出来事をこの眼めで見ることになった。父がマレーフスキイ伯はく爵しゃくの腕うでをとって、広間を横ぎって玄げん関かんの方へ連れ出し、従じゅ僕うぼくのいる前で、冷やかにこう言い渡したのである。―― ﹁二、三日まえ、ある家であなたは、ドアをさして見せられたことがありましたな、伯爵。ところで今わたしは、あなたと別に話し合いをしようとは思いませんが、恐きょ縮うしゅくながらこれだけは申上げておきます――もしあなたが、この上また宅へお見え下さるようなことがあったら、わたしはあなたを窓からほうり出しますよ。わたしには、あなたの筆ひっ跡せきが気にくわんのです﹂ 伯爵は頭を下げて、歯をくいしばると、小さくなって姿を消した。 モスクワへ引揚げる準備が始まった。アルバート街にわたしたちの家があったのである。おそらく父自身にしても、今ではもう別べっ荘そうに残っていたくはなかったろう。ただし、父は、この際になってまた一ひと悶もん着ちゃくもちあげないように、首しゅ尾びよく母を説きつけたらしかった。万事は穏おだやかに、ゆっくりと運んだ。母は公爵夫人にわざわざ人をやって、健康がすぐれぬため出発まえにお目にかかれず、まことに残念に思いますと挨あい拶さつさせた。わたしは狂きょ人うじんのように、ふらふら表を歩き回って、一刻も早くこんな騒さわぎがおしまいになってくれればいいと、そればかり待ち望んでいた。ただ一つだけ、わたしの念頭にこびりついて離はなれぬ想念があった。それは彼かの女じょが、あの若い娘むすめが――しかも、とにもかくにも公爵令れい嬢じょうともあろう人が、現にわたしの父が独ひとり身みでないことは承知でいながら、また、よしんばあのベロヴゾーロフにしろ誰にしろ、結けっ婚こんの相手にこと欠かない身でありながら、どうしてあんな思い切ったまねをしたのだろう――ということであった。いったい何をあてにしていたのだろう? みすみす自分の前ぜん途とを台なしにするのが、どうして怖おそろしくなかったのだろう? そうだ、とわたしは思った、――これが恋こいなのだ、これが情熱というものなのだ、これが身も心も捧ささげ尽つくすということなのだ。……そこでふと思い出されたのは、いつかルーシンの言ったことである――﹃自分を犠ぎせ牲いにすることを、快く感じる人もあるものだ﹄ ひょいとわたしは、傍はな屋れの窓の一つに、青白いものがぽつんと浮うかんでいるのを目にした。…… ﹃あれはジナイーダの顔じゃないかしら﹄と、わたしはふっと思ったが……果してそれは彼女の顔だった。わたしは、もう我がま慢んがならなかった。わたしは彼女に最後のいとまも言わずに、このまま別れてしまうに忍しのびなかった。わたしは折りをうかがって、傍屋へ出かけて行った。 客間にはいると、公爵夫人が例によって歯ぎれの悪い、だらしのない挨拶でわたしを迎えた。 ﹁どうしたことなの、坊ぼっちゃん、お宅がこんなに早く引揚げなさるなんて?﹂と夫人は、両方の鼻の穴へ嗅かぎ煙たば草こを詰つめ込こみながら言った。わたしはその顔を見て、ほっと胸が軽くなった。あのフィリップの言った手形という言葉が、ひどく気になっていたのである。ところが彼女は、そんなことは鵜うの毛けほども考えてはいない……少なくともわたしには、その時そんなふうに見えたのだ。ジナイーダが、隣となりの部屋から姿を現わした。黒い服を着て、髪かみを梳すきだして、青い顔をしている。彼女は無言のまま、わたしの手をとると、自分の部屋へ連れて行った。 ﹁あなたの声がしたので﹂と、彼女は口をきった。――﹁すぐ出て行ったのよ。あなたはこんなに簡単に、わたしたちを捨てて行けるのね、意地悪な子!﹂ ﹁僕ぼくは、お別れに来たんです、お嬢じょうさん﹂と、わたしは答えた。――﹁たぶん、もうお目にかかる時はないでしょう。お聞きおよびのことでしょうが、わたしたちは引揚げるのです﹂ ジナイーダは、じっとわたしを見つめた。 ﹁ええ、聞いたわ。来て下すってありがとう。もうお目にかかれないんじゃないかと思っていたのよ。わたしのこと、悪く思わないでね。時々あなたを、いじめたけれど、でもわたし、あなたの思ってらっしゃるほどの女でもないのよ﹂ 彼女はくるりと向うをむいて、窓にもたれた。 ﹁ほんとに、わたし、そんな女じゃないの。わたし知っててよ、あなたがわたしのことを、悪く思ってらっしゃることぐらい﹂ ﹁僕が?﹂ ﹁そう、あなたが……あなたがよ﹂ ﹁僕が?﹂と、わたしは悲しげに繰くり返かえした。そしてわたしの胸は、うち克かつことのできない名状すべからざる陶とう酔すいにいざなわれて、あやしく震ふるえ始めた。﹁この僕が? いいえ信じて下さい、ジナイーダ・アレクサンドロヴナ、あなたがたとえ、どんなことをなさろうと、たとえどんなに僕がいじめられたろうと、僕は一いっ生しょ涯うがいあなたを愛します、崇すう拝はいします﹂ 彼女はすばやくわたしの方へ向き直って、両手を大きくひろげると、わたしの頭を抱だきしめて、熱いキスをわたしに与あたえた。その長い長い別れのキスが、誰を心あてにしたものか、神ならぬ身の知るよしもなかったけれど、わたしはむさぼるように、その甘あまさを味わった。わたしはそれが、もはや二度と返らぬことを知っていたのだ。﹁さよなら、さよなら﹂と、わたしは繰返した。…… 彼女は、わたしを振ふりもぎって出て行った。わたしも外へ出た。外へ出ながら、自分の胸中を去来した感情を、わたしは筆に伝えるだけの力がない。わたしは、またいつかそれが繰返されることを望みはしなかった。とはいえ、もしついぞ一度もそのキスの味わいを知らなかったら、わたしは自分をよくよくの不仕合せ者と思ったことだろう。 わたしたち一家は、町へ引揚げた。わたしは、なかなか過去と縁えんを切ることができなかったし、そう手っとり早く勉強にかかることもできなかった。心の痛いた手でが癒いえるまでには相当の時間が要いったのである。とはいえ、父その人に対しては、わたしは少しも悪い感情を抱いだいていなかった。むしろ逆に、父はわたしの目に、一層大きな人物として映ずるふしもあったのである。……この矛むじ盾ゅんは、心理学者どもが、なんとでも勝手に解釈するがいいのだ。 ある日、わたしは並なみ木きみ道ちを歩いていると、ひょっくりルーシンにぶつかったので、とびあがるほど嬉うれしかった。わたしは彼かれのまっすぐな、飾かざり気けのない性質が好きだったし、かてて加えて、この久しぶりの面会が、わたしの胸に呼びさましてくれた追つい憶おくのおかげで、いやが上にも彼はなつかしい人物だったわけである。わたしは、その前へ飛んで行った。 ﹁よう、これは!﹂と、彼は言って、眉まゆの根を寄せた。――﹁なるほど、君だったんですね! まあちょいと、顔を見せて下さいよ。相変らずの黄いろい顔だが、さすがに眼めの中に、一ひと頃ころの無分別さだけはなくなりましたね。やっと愛あい玩がん用ようの小犬じゃなくて、一人前の男に見えますよ。いや結構、そこでどうです、勉強していますか?﹂ わたしは、溜ため息いきをついた。嘘うそをつくのはいやだったし、さりとて本音をはくのは恥はずかしかった。 ﹁なあに、いいですよ﹂と、ルーシンは言葉を続けた。――﹁びくびくすることはないです。肝かん心じんなのは、しゃんとした生活をして何事によらず夢むち中ゅうにならないことですよ。夢中になったところで、なんの役に立ちます? 波が打ちあげてくれるところは、ろくでもない場所に決ってますよ。人間というものは、たとえ岩の上に立っているにしても、やはり立つのは自分の両足ですからなあ。僕はこのとおり、どうも咳せきが出ていかんです。……ところでベロヴゾーロフは――あなた、何か噂うわさを聞きましたか?﹂ ﹁なんですか? 聞きませんが﹂ ﹁ゆくえ不明なんです。カフカーズへ行ったという話だが、君みたいな若い人には、全くいい教訓ですな。要するに、潮時を見て引揚げること、網あみを破って抜ぬけ出すことが、できないからですよ。君はどうやら、無事に逃にげ出したらしいが、また網に引っかからないように用心しなさいよ。じゃ、さようなら﹂ ﹃引っかかるもんか﹄と、わたしは思った。……﹃もう二度と再び、あの人には会わないんだ﹄ ところがわたしは、もう一度ジナイーダを見かける運命にあったのだ。二十一
父は毎日、馬に乗って外へ出かけた。彼かれは赤あか栗くり毛げの、すばらしいイギリス馬を持っていた。すらりと細長い首をして、よく伸のびた脚あしをして、疲つかれを知らぬ荒あら馬うまだった。その名を、﹁いエレなクトずリーまク﹂といって、父のほかには誰だれ一ひと人り、乗りこなす人はなかった。 ある日のこと、父は久方ぶりの上じょ機うき嫌げんで、わたしの部屋へ入ってきた。彼はこれから馬で出かけるところで、ちゃんと拍はく車しゃをつけていた。わたしは、一いっ緒しょに連れて行って下さいとせがんだ。 ﹁まあそれより、馬とびでもして遊んだらいいだろう﹂と、父は答えた。――﹁おまえの痩やせ馬うまじゃ、とてもついて来こられまいからな﹂ ﹁ついて行けますよ。僕も拍車をつけるから﹂ ﹁ふむ、まあいいだろう﹂ わたしたちは出発した。わたしの馬は、むく毛の若い黒馬で、脚も丈じょ夫うぶだし、悍かんも相当つよかった。もっとも、エレクトリークが早トロ足ットいっぱいに走り出すと、わたしの馬は全速力を出さなければならなかったが、とにかくわたしは食い下がって行った。わたしは、父ほどの乗り手を見たことがない。その馬上の姿は実に美しく、無造作に楽々と乗りこなしているところは、鞍くらの下の馬までが感じ入って、乗り手を誇ほこりとしているように見えた。わたしたちは、並なみ木きど通おりを片っぱしから乗り尽つくして、処おと女めが原はらもしばらく乗り回し、垣かき根ねも幾いくつか跳とび越こして︵初めは跳び越すのが怖こわかったけれど、父が臆おく病びょ者うものを軽けい蔑べつするので、やがてわたしも怖がらなくなった︶、モスクワ川を二度も渡わたった。それでわたしは、もうそろそろ帰るのだろうと思った。ましてや当の父が、わたしの馬の疲れたことに目をとめたからには、なおさらのことだった。ところが父は、いきなりわたしのそばから馬首を転じると、クリミア浅あさ瀬せからわきへそれて、河か岸しづたいにまっしぐらに飛ばし始めた。わたしは懸けん命めいにあとを追った。古丸太が山のように積み上げてある所までくると、父はひらりとエレクトリークからとび下りて、わたしにも下りるように命じた。そして、自分の馬の手たづ綱なをわたしにあずけると、しばらくその丸太積みのそばで待っているように言いつけて、自分は細い横町へ折れるなり、姿を消してしまった。 わたしは、二頭の馬を引っぱって、エレクトリークを叱しかりつけながら、河岸を行ったり来たりし始めた。エレクトリークは歩きながら、ひっきりなしに頭を振ふりもぎったり、胴どうぶるいをしたり、鼻を鳴らしたり、いなないたりした。わたしが立ち止まると、左右の蹄ひづめでかわるがわる土を掘ほったり、けたたましい声を立てて、わたしの痩せ馬の首ったまに噛かみついたりした。要するにまあ、甘あまやかされ放題の純ピュ血ール種・サンらしく振ふる舞まったわけである。父はなかなか戻もどって来なかった。川からは、いやに湿しめっぽい風が吹ふいてきた。ぬか雨が音もなく降り出して、さっきからわたしがさんざんそばをぶらついて、今ではもう飽あき飽あきしてしまった馬ば鹿かげた灰色の丸太の山に、べた一面ちっぽけな黒ずんだ点々をつけた。わたしは心細くなってきたが、父はやっぱり戻って来ない。フィンランド人のお巡まわりさんが一人、上から下までやはり灰色の服を着け、壺つぼみたいな格かっ好こうの、おそろしく大きな古くさい筒つつ形がた帽ぼう子しをかぶり、ほこ形の警棒を小こわ脇きにして、︵それにしても、なんだって巡じゅ査んさがモスクワ川の岸になんぞいるのだろう!︶わたしに近づいてきた。そして、婆ばあさんじみた皺しわだらけの顔をわたしに向けると、こう言った。―― ﹁あんた馬なんか連れてこんな所で、何してるんですね、ええ、坊ぼっちゃん? およこしなさい、持っていてあげるから﹂ わたしは返事をしなかった。彼は煙たば草こをねだった。この男からのがれたさに︵それにまた、待ち遠しさに耐たえかねもして︶、わたしは父の立ち去った方角へ五、六歩あるいた。それから、その横町をはずれまで行って、角を曲ると、はたと立ち止った。そこの往来を、ものの四十歩ほど行った先の所に、木造の小さな家のあけはなされた窓に向って、背中をこちらへ向けながら、父が立っていたのである。父は胸を窓がまちにもたせていた。家の中には、カーテンに半ば隠かくれながら、黒っぽい服を着た女が坐すわって、父と話をしている。この女が、ジナイーダだった。 わたしは立ちすくんでしまった。全くのところ、そんなことは思いもかけなかったのである。わたしのしかけた最初の動作は、逃にげ出すことだった。﹃父は振ふり返かえるかもしれない﹄と、わたしは考えた。――﹃そしたら、もう万事休すだ﹄……けれど、不思議な感情が――好こう奇きし心んよりも強く、嫉しっ妬となどよりまだ強く、恐きょ怖うふよりも強い感情が、わたしを引止めた。わたしは、じっと目をこらし始めた。一生けんめい聴きき耳みみを立てた。父は、しきりに何やら言い張っているらしかった。ジナイーダは、いっかな承知しない。その彼かの女じょの顔を、今なおわたしは目の前に見る思いがする。――悲しげな、真しん剣けんな、美しい顔で、そこには心からの献けん身しんと、嘆なげきと、愛と、一種異様な絶望との、なんとも言いようのない影かげがやどっていた。そうとでも言うほかには、わたしは言葉を考えつかない。彼女は、﹁ええ﹂とか﹁いいえ﹂とかいったたぐいの、短い言葉で受け答えしていて、眼めを上げずに、ただほほ笑えんでいた。――従順な、しかも頑かたくなな微びし笑ょうである。この微笑を見ただけでもわたしは、ああ、もとのジナイーダだなと思った。 父はひょいと肩かたをすくめて、帽子をかぶり直した。それはいつも決って父がいらいらし出したしるしであった。……それから﹁あヴなーた・はド思ヴいェ切ーら・なヴくーち・ゃセだパめレでーす・、ドそ・んセなッ無ト理な……﹂という父の声がした。ジナイーダは、きっと身を起して、片手をさし伸のべた。……その途とた端んに、わたしの見ている前で、あり得うべからざることが起った。父がいきなり、今まで長フロ上ッ着クの裾すその埃ほこりをはらっていた鞭むちを、さっと振上げたかと思うと――肘ひじまでむきだしになっていたあの白い腕うでを、ぴしりと打ちすえる音がしたのである。わたしは思わず叫さけび声ごえを立てようとして、あやうく自分を押おさえた。ジナイーダは、ぴくりと体を震ふるわしたが、無言のままちらと父を見ると、その腕をゆっくり唇くちびるへ当てがって、一筋真っ赤になった鞭のあとに接せっ吻ぷんした。父は、鞭をわきへほうりだして、あわてて玄げん関かんの段々を駆かけあがると、家の中へとび込こんだ。……ジナイーダは後ろを振返ると、さっと両手をひろげ、顔をのけぞらせて、やはり窓から消えてしまった。 驚おどろきのあまり気が遠くなって、おそろしい疑ぎわ惑くに胸を締しめつけられながら、わたしはもと来た方へ駆け出して、横町を走り抜ける拍ひょ子うしに、すんでのことでエレクトリークの手綱を離はなすところだったが、とにかく河岸へとって返した。あたまがこんぐらかって、全然まとまりがつかなかった。わたしは、冷静で自制力の強い父が、時々発ほっ作さて的きな狂きょ暴うぼうさを見せることは知っていたが、それにしても今しがた見た光景は、なんとしても合がて点んがゆかなかった。――とはいえ、わたしは同時にまた、このさき自分がどれほど生きるにせよ、ジナイーダのあの身の動き、あの眼まな差ざし、あの微笑を忘れることは、終生とてもできまい、――今まで見たこともないあの姿、思いがけなく今日わたしの眼に映ったあの姿は、永遠にわたしの記きお憶くに焼きつけられたのだ――とも感じた。わたしは、ぼんやり川に見入りながら、涙なみだのながれているのに気づかずにいた。﹃あのひとが、ぶたれるのだ﹄と、わたしは思った。﹃……ぶたれるのだ……ぴしり……ぴしり……﹄ ﹁おい、どうしたね、――馬をおよこし!﹂と、後ろで父の声がした。 わたしは、うわの空で手綱をわたした。父はひらりと、エレクトリークにまたがったが、凍こごえきった馬はいきなり後脚で突つっ立たって、一丈あまりも前へはねた。……だが父は、じきに馬をしずまらせた。ぐいと拍車を両の脇わき腹ばらへ入れて、握にぎりこぶしで首に一いち撃げきを加えたのである。…… ﹁ちえっ、鞭がない﹂と、父はつぶやいた。 わたしは、ついさっきの風を切る唸うなりと、その鞭がぴしりと鳴った音を思い出して、おもわず震え上がった。 ﹁どこへやったんですか?﹂と、しばらくしてからわたしは訊きいた。 父は答えずに、ずんずん前へ飛ばした。わたしは追いついた。どうしても父の顔が見たかったのだ。 ﹁わたしのいない間、退たい屈くつだったろうな、お前?﹂と父は、へんにもぐもぐした声で言った。 ﹁ええ、少しね。でも、一体どこへ鞭を落したんです?﹂と、わたしはまた訊いた。 ﹁落したのじゃない﹂と、父は言い放った。――﹁捨てたのさ﹂ 彼は急に考え込んで、うなだれた。……わたしはその時初めて、そして多分これを最後に、父のきびしい顔だちがどれほどの優やさしさと同情の思いを、表わすことができるかを見たのである。 父はまた馬を飛ばし出した。もうわたしは追いつけなかった。わたしは十五分ほど遅おくれて、家に帰りついた。 ﹃これが恋こいなのだ﹄とわたしは、その夜がふけてから、デスクの前に坐って、またもやひとりごちた。そのデスクの上には、すでにノートや参考書がそろそろ並ならび出していた。――﹃これが情熱というものなのだ!……ちょっと考えると、たとえ誰だれの手であろうと……よしんばどんな可かわ愛いらしい手であろうと、それでぴしりとやられたら、とても我がま慢んはなるまい、憤ふん慨がいせずにはいられまい! ところが、一いっ旦たん恋する身になると、どうやら平気でいられるものらしい。……それを俺おれは……それを俺は……今の今まで思い違ちがえて……﹄﹇#﹁……﹄﹂は底本では﹁……﹂﹂﹈ この一ひと月つきの間に、わたしは大層年をとってしまった。そして自分の恋も、それに伴ともなういろんな興奮や悩なやみも、いま新たに出現した未知の何ものかの前へ出すと、我ながらひどく小ちっぽけな、子供じみた、みすぼらしいものに見えた。とはいえ、その未知の何ものかの正体は、わたしにはほとんど推察することができなかった。それはただ、自分が一生けんめい薄うす闇やみの中で見きわめようと空むなしい努力をしている、見知らぬ、美しい、しかも物もの凄すごい顔のように、わたしをおびえさせるだけであった。 ちょうどその夜、わたしは奇きみ妙ょうな恐おそろしい夢ゆめをみた。わたしは、天てん井じょうの低い暗い部屋へ入って行くところだった。……と父が、鞭を手に仁にお王う立だちになって、足を踏ふみ鳴らしていた。隅すみの方には、ジナイーダが身を縮めていたが、その腕にではなしに、その額に、紅あかい一筋がついている。……そこへ、二人の後ろから、体じゅう血だらけのベロヴゾーロフが、むくむく起き上がって、青ざめた唇を開くと、忿ふん怒ぬにわななきながら、父を脅おどかすのだった。 ふた月すると、わたしは大学に入った。それから半年後に、父は︵脳のう溢いっ血けつのため︶ペテルブルグで亡なくなった。母やわたしを連れて、そこへ引移ったばかりのところだった。死ぬ二、三日前に、父はモスクワから一通の手紙を受取ったが、それを見て父は非常に興奮した。……彼は母のところへ行って、何やら頼たのみ込こんだ。そして聞くところによると、泣き出しさえしたそうである。あの、わたしの父がである! 発作の起る日の朝のこと、父はわたしに宛あてて、フランス語の手紙を書き始めていた。﹃わが息子よ﹄と、父は書いていた。――﹃女の愛を恐れよ。かの幸さちを、かの毒を恐れよ﹄…… 母は、父が亡くなったのち、かなりまとまった金額をモスクワへ送った。二十二
四年ほど過ぎた。わたしは大学を出たばかりで、何を始めたものか、どんな扉とびらをたたいたらいいのか、まだよくわからず、さし当ってぶらぶら遊んでいた。ある晩のこと、わたしは劇場で、マイダーノフに出会った。彼かれはめでたく妻帯して、役所に勤めていたが、わたしの目には少しの変化も見当らなかった。相変らず、要いりもせぬのに感かん激げきしたり、例によって、いきなり悄しょ気げかえったりした。 ﹁君は知ってるでしょうね﹂と、話のついでに彼は言った。――﹁ドーリスカヤ夫人が、ここに来ていることは﹂ ﹁ドーリスカヤ夫人というと?﹂ ﹁おや、君は忘れたんですか? もとのザセーキナ公こう爵しゃ令くれ嬢いじょうですよ。みんなでてんでに恋こいしていた……いや、君だってそうでしたね。覚えてるでしょう、あのネスクーチヌィ公園のそばの別べっ荘そうで、ね?﹂ ﹁あのひとが、ドーリスキイとやらの奥おくさんになったんですか?﹂ ﹁そう﹂ ﹁で、あの人がここに来てるんですか、この劇場に?﹂ ﹁いや、ペテルブルグに来てるんですよ。二、三日前にやって来たんです。外国へ発たつつもりらしい﹂ ﹁夫というのは、どんな人なんです?﹂と、わたしは尋たずねた。 ﹁なかなかいい男ですよ、財産もあるし。僕ぼくとはモスクワの役所の同どう僚りょうでしてね。あなたにもお察しがつくはずだが――例の一件以来……もちろんあれは、よく御ごそ存んじでしょうね……︵マイダーノフは、意味ありげににやりとして︶あの人は配はい偶ぐうを求めるのが、なかなか容易じゃなかったんです。いろいろ、あとを引く問題もありましたからね。……だが、あの人の才さい智ちをもってすれば、どんなことでも可能ですよ。まあひとつ行って御覧なさい。君の顔を見たら、とても喜ぶでしょうよ。あの人は、前よりもっと奇きれ麗いになりましたよ﹂ マイダーノフは、ジナイーダの宿所を教えてくれた。彼かの女じょはデムート館というホテルに泊とまっていたのである。昔むかしの思い出が、わたしの胸の中でうごめき始めた。……わたしは、あくる日すぐにも、かつての﹃想いパッびシとア﹄を訪ねようと心に誓ちかった。ところが、何かと用事ができて、一週間たち、二週間たってしまった。ようやくわたしが、デムート館へ出かけて、ドーリスカヤ夫人に面会を申し入れると、――彼女は四日前に死んだ、と聞かされた。産のための、ほとんどあっという間もない死に方だった。 わたしは、何かしら心臓へぐっと、突つき上げるものを感じた。わたしは彼女に会えたはずなのに、つい会わずにしまった、しかももう永久に会えないのだ……という想念――このにがにがしい想念が、ひしとわたしの心に食い入って、うちしりぞけることのできない呵かし責ゃくの鞭むちを、力いっぱいふるうのだった。﹃死んだ!﹄とわたしは、入口番の顔をぼんやり見つめながら、鸚おう鵡むが返えしに言った。そして、そっと往来へ出ると、どこへとて当てもなしに歩き出した。過去の一いっ切さいが、いちどきに浮うかび出て、わたしの眼めの前に立ち上がった。そうか、これがその解決だったのか! あの若々しい、燃えるような、きららかな生いの命ちが、わくわくと胸をおどらしながら、いっさんに突き進んで行った先は、つまりこれだったのか! わたしはそれを思いながら、あのなつかしい顔だちや、あのつぶらな眼や、あのふさふさと巻いた髪かみが、あの狭せまくるしい箱はこの中に納められて、じめじめした地下の闇やみのなかに眠ねむっているところを心に描えがいた。――それは、まだこうして生きているわたしから、そう遠くない場所なのだ。そしてひょっとすると、わたしの父のいる場所からは、ほんの五、六歩しかないかもしれないのだ。……わたしは、そんなことを考えながら、想像のつばさを張りきらせているうちに、ふと、 情け知らずな人の口から、わたしは聞いた、死の知らせを。 そしてわたしも、情け知らずな顔をして、耳を澄すました。
という詩の文句が、わたしの胸に響ひびいた。
ああ、青春よ! 青春よ! お前はどんなことにも、かかずらわない。お前はまるで、この宇宙のあらゆる財宝を、ひとり占じめにしているかのようだ。憂ゆう愁しゅうでさえ、お前にとっては慰なぐさめだ。悲ひあ哀いでさえ、お前には似つかわしい。お前は思い上がって傲ごう慢まんで、﹁われは、ひとり生きる――まあ見ているがいい!﹂などと言うけれど、その言葉のはしから、お前の日々はかけり去って、跡あとかたもなく帳じりもなく、消えていってしまうのだ。さながら、日なたの蝋ろうのように、雪のように。……ひょっとすると、お前の魅みり力ょくの秘密はつまるところ、一切を成しうることにあるのではなくて、一切を成しうると考えることができるところに、あるのかもしれない。ありあまる力を、ほかにどうにも使いようがないので、ただ風のまにまに吹ふき散らしてしまうところに、あるのかもしれない。我々の一人々々が、大まじめで自分を放ほう蕩とう者ものと思い込こんで、﹁ああ、もし無む駄だに時を浪ろう費ひさえしなかったら、えらいことができたのになあ!﹂と、立派な口をきく資格があるものと、大まじめで信じているところに、あるのかもしれない。
さて、わたしもそうだったのだ。……ほんの束つかの間またち現われたわたしの初はつ恋こいのまぼろしを、溜ため息いきの一ひと吐つき、うら悲しい感かん触しょくの一ひと息い吹ぶきをもって、見送るか見送らないかのあの頃ころは、わたしはなんという希望に満ちていただろう! 何を待ちもうけていたことだろう! なんという豊かな未来を、心に描いていたことだろう!
しかも、わたしの期待したことのなかで、いったい何が実現しただろうか? 今、わたしの人生に夕べの影かげがすでに射さし始めた時になってみると、あのみるみるうちに過ぎてしまった朝まだきの春の雷らい雨うの思い出ほどに、すがすがしくも懐なつかしいものが、ほかに何か残っているだろうか?
だがわたしは、いささか自分につらく当り過ぎているようだ。その頃――つまりあの無分別な青春の頃にも、わたしはあながち、わたしに呼びかける悲しげな声や、墓ぼけ穴つの中からつたわってくる荘そう厳ごんな物音に、耳をふさいでいたわけではない。忘れもしないが、ジナイーダの死を知った日から四、五日して、わたしは自分でどうしてもそうせずにはいられなくなって、わたしたちと一つ屋根の下に住んでいたある貧しい老ろう婆ばの、臨りん終じゅうに立ち会ったことがあった。ぼろに身を包み、こちこちの板の上に横たわり、袋ふくろを枕まく代らがわりにした老婆は、苦しみもがきながら息を引取った。彼女の一生は、その日その日の乏とぼしい暮しに、あくせく追われ通しで過ぎたのだ。喜びというものをついぞ知らず、幸福の甘あまい味わいも知らない彼女としては、まさに死をこそ、――そのもたらす自由を、そのもたらす憩いこいをこそ、喜び迎むかえるべきではなかったか? ところが、彼女の老おいさらばえた肉体がまだ保もっているうちは、その上に置かれた氷のように冷え果てた片手のもとで胸がまだ苦しげに波うっているうちは、まだその身から最後の力が抜ぬけきらないうちは、老婆はひっきりなしに十字を切り続けて、﹁主よ、わが罪を許させたまえ﹂とささやき続けるのであった。――そして、これを名な残ごりの意識のひらめきが、すっと消えると共に、彼女の眼の中でも、末まつ期ごの恐おそれやおびえの色が、やっと消えたのである。忘れもしない、そのとき、その貧しい老婆のいまわの床とこに付き添そいながら、わたしは思わずジナイーダの身になって、そら恐ろしくなってきた。そしてわたしは、ジナイーダのためにも、父のためにも、そしてまた、自分のためにも、しみじみ祈いのりたくなったのである。