古ふる谷やと俊し男をは、椽えん側がはに据すゑてある長椅子に長くなツて、兩りやうの腕で頭を抱かゝへながら熟じつと瞳ひとみを据すゑて考込むでゐた。體からだのあいた日曜ではあるが、今日のやうに降ツては何どうすることも出來ぬ。好すきな讀書にも飽あいて了しまツた。と謂いツて泥ぬか濘るみの中をぶらついても始まらない。で此かうして何なんといふことは無く庭を眺めたり、また何なんといふことはなく考込むでボンヤリしてゐた。此の二三日絲いとのやうな小こさ雨めがひツきりなしに降續いて、濕しつ氣きは骨の髓ずゐまでも浸しん潤じゆんしたかと思はれるばかりだ、柱も疊も惡く濕しつ氣けて、觸さはるとべと〳〵する。加それ之に空氣がじめ〳〵して嫌いやに生なま温ぬるいといふものだから、大たい概がいの者は氣が腐くさる。
﹁嫌な天氣だな。﹂と俊男は、奈い何かにも倦うんじきツた躰ていで、吻ほツと嘆ため息いきする。﹁そりや此こ樣んな不快を與へるのは自然の威力で、また權利でもあるかも知れん。けれども此こ樣んな氣候にも耐えてゐなければならんといふ人間は意い久く地ぢ無なしだ。要するに人間といふ奴やつは、雨を防ふせぐ傘を作こしらへる智ち慧ゑはあるが、雨を降らさぬやうにするだけの力がないんだ。充つまらん動物さ、ふう。﹂と鼻の先に皺しわを寄せて神經的の薄うす笑わらひをした。
何しろ退たい屈くつで仕しか方たが無い。そこで少し體を起して廣くもない庭を見して見る。庭の植うゑ込こみは雜ざつ然ぜんとして是これと目に付つく程の物も無い。それでゐて青葉が繁しげりに繁しげツてゐる故せいか庭が薄暗い。其の薄暗い中に、紅べにや黄の夏草の花がポツ〳〵見える。地べたは青く黒ずむだ苔こけにぬら〳〵してゐた………眼の前の柱を見ると、蛞なめ蝓くぢの這はツた跡あとが銀の線のやうに薄うツすりと光ツてゐた。何を見ても沈しづむだ光くわ彩うさいである。それで妙に氣が頽くづれて些ちつとも氣が引ひツ立たぬ處へ寂しんとした家うちの裡なかから、ギコ〳〵、バイヲリンを引ひツ擦こする響が起る。
﹁また始めやがツた。﹂と俊男は眉まゆの間に幾いく筋すぢとなく皺しわを寄せて舌した打うちする。切しきりに燥いら々〳〵して來た氣き味みで、奧の方を見て眼を爛きらつかせたが、それでも耐こらえて、體を斜なゝめに兩足をブラり椽えんの板に落してゐた。
俊男は今こと年し三十になる。某ぼう私しり立つだ大いが學くの倫りん理りを擔たん任にんしてゐるが、講義の眞ま面じ目めで親切である割わりに生徒の受うけが好よくない。自じた躰い心に錘おもりがくツついてゐるか、言ことばにしろ態度にしろ、嫌いやに沈むでハキ〳〵せぬ。加それ之に妙にねち〳〵した小こ意い地ぢの惡い點があツて、些ちつと傲ごう慢まんな點もあらうといふものだから、何い時つも空を向いて歩いてゐる學がく生せい等らには嫌はれる筈だ。性質も沈むでゐるが、顏もくすむでゐる、輪りん廓くわくの大きい割に顏に些ちつともゆとりが無く頬ほゝはけてゐる、鼻は尖とがツてゐる、口は妙に引締ツて顎あごは思切つて大きい。理き合めは粗あらいのに、皮膚の色が黄ばんで黒い――何どち方らかと謂へば營えい養やう不ふり良やうといふ色だ。迫せまツた眉には何なんとなく悲ひあ哀いの色が潛ひそむでゐるが、眼には何ど處ことなく人ひと懷なつ慕こい點とこがある。謂いはゞ矛むじ盾ゆんのある顏立だ。恐らく其の性質にも、他人には解わからぬ一種の矛盾があるのではあるまいか。
彼は今別に悲しいとも考へてゐない。然さうかと謂いつて勿論嬉しいといふやうなことも思ツて居らぬ。たゞ一種淋しいといふ感に強く壓おし付つけられて、妄むやみと氣が滅め入いるのであツた。
﹁何な故ぜ家は此かうなんだらうと、索さく寞ばくといふよりは、これぢや寧むしろ荒くわ凉うりやうと謂いツた方が適當だからな。﹂と呟つぶやき、不ふ圖とまた奧を覗のぞいて、燥いらツた聲で、﹁喧やかましい! おい、止よさんか。其そ樣んなもの………﹂と喚わめく。
返事は無くツて、バイヲリンの音ねがバツタリ止む。
俊男はまた頽ぐつ默たり考込むだ。絲のやうな雨が瓦を滑すべツて雫しづくとなり、霤あまおちに落ちて微かすかに響くのが、何かこツそり囁さゝやくやうに耳に入る。
少しば時らくすると、
﹁貴あな方た、何を其そ樣んなに考込むでゐらツしやるの。﹂
此かう呼掛けて、ひよツくり俊男の前に突ツ立ツたのは妻さいの近ちか子こで。
俊とし男をはヂロリ妻の顏を見て、﹁別に何も考へてゐやしないさ。﹂
﹁でも何なんだか妙な顏をしてゐらツしやいますのね。﹂
﹁そりや頭が重いからさ。ところへ上じや手うずでもないバイヲリンをギコ〳〵彈やられるんだから耐たまらんね。﹂
近子は些ちよいと嫌な顏をして、﹁それでも貴あな方た、何どうかすると彈やれツて有おつ仰しやることがあるぢやありませんか。﹂
﹁そりや機嫌の好よい時のことさ。﹂と輕かろく眞ま面じ目めにいふ。
﹁まア。﹂と近子は呆あきれて見せて、﹁隨ずゐ分ぶん勝かつ手てなんでございますね。﹂
﹁當あた然りまへさ。恐らく近頃の人間で勝手でない者はありやしない。﹂
﹁然さうでせうか。﹂と空そら恍とぼけたやうにいふ。
﹁然さうさ。お前だツて俺おれの大だい嫌きらひなことを悦よろこんで行やツてゐることがあるぢやないか。現げんに俺おれが思しさ索くに耽ふけツてゐる時にバイヲリンを彈ひいたりなんかして………﹂
﹁それは濟すみませんでしたのね。私わたしはまた此こ樣んな天氣で氣が欝うつ々〳〵して爲しや樣うが無かツたもんですから、それで。﹂と何か氣きお怯それのする躰ていで悸おど々〳〵しながらいふ。
﹁然さうかね。併しかし然う一々天氣にかこつけられちや、天氣も好いい面つらの皮といふもんさ。﹂と苦にが笑わらひして、﹁だが幾ら梅つ雨ゆだからツて、此かう毎日々々降られたんぢや遣やり切きれんね。今日は日曜だから、お前と一緒しよに何ど處こへか出掛けやうと思ツてゐたんだが、これぢや仍やつ且ぱり家うちで睨にら合みあひをしてゐるしかないな。﹂
﹁私と一緒に? ま、巧うまいことを有おつ仰しやるのね。﹂と眼に嘲あざむ色を見せる。
﹁何な故ぜ?………俺おれだツて其そ樣んなに非ひに人んじ情やうに出來てゐる人間ぢやないぞ。偶た時まには妻さいの機嫌を取ツて置く必要もある位のことは知ツてゐる。﹂
﹁何どうですか。隨分道だう具ぐあつかひされてゐるんですからね。﹂
﹁そりや無むろ論ん道具よ。女に道具以上の價か値ちがあツて耐たまるものか。だがさ、早い話が、お前は大事な着物を虫むし干ぼしにして樟しや腦うなうまで入れて藏しまツて置くだらう。俺おれがお前を連れて出やうといふのは、其の虫干の意味に過ぎないのさ。解わかツたかね。﹂と無意味な眼めづ遣かひで妻つまの顏を見てニヤリとする。
近子は輕くお叩じ頭ぎをして、﹁何どうも御親切に有難うございます。﹂と叮てい嚀ねいに謂いツたかと思ふと、﹁ですが、其そ樣んなにおひやらないで下さいまし。幾ら道具でも蟲がありますからね。﹂
﹁おい〳〵、何を其そ樣んなに膨ふくれるんだ。誰もおひやりはしないよ。﹂
﹁だツて貴あな方た、此の雨を見掛けて、見みえ透すくやうなことを有おつ仰しやるんですもの。ま、然さうでせう、貴あな方たと御ごい一つし緒よになツてから、もう三年にもなりますけれども、何い時つの日曜に散歩でも仕して見ないかと有おつ仰しやツたことがあツて? 何い時つだツて家うちにばかり引込むで他ひとを虐いびツてばかりゐらツしやるのぢやありませんか。﹂
全く然さうでないとも謂いはれぬので、俊とし男をは默ツて、ニヤ〳〵してゐたが、ふいと、﹁そりや人には氣きま紛ぐれといふものがあるさ。﹂
﹁ぢや、氣きま紛ぐれで私わたくしを虫むし干ぼしになさるんですか。﹂
﹁然さうさ、氣きま紛ぐれでもなけア、俺おれにはお前を虫干にして遣やる同情さへありやしない。正直なところがな。﹂と思おも切ひきツていふ。感情が昂たかまツて來たのか、瞼まぶたのあたりにぽツと紅べにをさす。
﹁其そ樣んなに私わたしが憎にくいんですか。憎いなら憎いやうに………﹂と嚇かつとした躰ていで、突ツかゝり氣ぎ味みになると、
﹁いや、誰も憎いとは謂いはんよ。憎いんなら誰に遠ゑん慮りよも義理もあるもんか、とツくに追おン出だして了しまふさ。俺おれのは憎いんでもないければ﹇#﹁ないければ﹂はママ﹈可かあ愛いいといふんでもない………たゞしツくり性しやうが合はんといふだけのことなんだ。趣しゆ味みも一いつ致ちしなければ理想も違ふし、第一人生觀が違ふ………、おツと、またお前の嫌いやな難むづかしい話になツて來た。此こ樣んなことは、あたら口くちに風かぜといふやつなのさ。﹂
﹁ぢや、すツぱりとお暇ひまを下すツたら可いいでせう。﹂
﹁そりや偶た時まには然さう思はんでも無いな。併しかしお前は俺には用ようのある人間だ。﹂
﹁用なんか、下げぢ婢よで結構間に合ひますわ。﹂
﹁大きに御ごも尤つともだ。だが下げぢ婢よは下げぢ婢よ、妻さいは妻さいさ。下げぢ婢よで用が足りる位なら、世間の男は誰だツてうるさい妻さいなんか持ちはしない。﹂
又かと思ふと氣持が惡くなつて胸が悶もだ々〳〵する。でも近ちか子こは熟じつと耐こらえて、
﹁然さう有おつ仰しやれば、女だツて仍やつ且ぱり然さうでございませうよ。出來る事なら獨ひとりでゐた方が幾ら氣きら樂くだか知れやしません。﹂と冷ひやゝかにいふ。
﹁然さうよ、奴どれ隷いよりは自由民の方が好よいからな。﹂
﹁然さうですとも。﹂
﹁其そんなら何な故ぜ、お前は俺おれのやうな所をつ天とを擇えらんだんだ。﹂
﹁誰も貴あな方たを擇びはしませんよ。﹂と謂いツて、少し顏を赧あかめ、口くち籠ごもツてゐて、﹁貴あな方たの方で、私をお擇びなすツたのぢやありませんか。﹂
﹁然さうだツたかな。﹂と空そらツ恍とぼけるやうに、ちらと空を仰あほぎながら、﹁とすりや、そりや俺おれがお前を擇えらんだのぢやない、俺の若い血がお前に惚ほれたんだらう。﹂
﹁それは何どつ方ちだツて可ようございますけれども、私は何も自分から進むで貴あな方たと御一緒になツたのぢやございませんから、何どうぞ其のお積つもりでね。﹂
﹁可いいさ、俺おれもそりや何どつ方ちだツて可いいさ。雖けれ然ども是これだけは自じは白くして置く。俺はお前の肉にくを吟ぎん味みしたが、心は吟ぎん味みしなかツた。ところで肉と肉とが接觸したら、其の渇かつ望ばうが充みたされて、お前に向ツて更に他たの望のぞみを持つやうになツた。而するとお前は中々此の望を遂とげさせて呉れるやうな女ぢやない、で段だん々〳〵飽いて來るやうになツたんだ。お前も間まし尺やくに合はんと思ツてゐるだらうが、俺おれも充つまらんさ。或意味からいふと葬はふむられてゐるやうなものなんだからね。何しろ此の家うちの淋しいことは何どうだ。幾ら人にん數ずが少ないと謂いツて、書生もゐる下げぢ婢よもゐる、それで滅めつ多たと笑聲さへ聞えぬといふのだから、恰まるで冬の野のツ原ぱらのやうな光景だ。﹂
﹁其それは誰たれの故せいなのでございませう。﹂
﹁誰の故せいかな。﹂
﹁私わたしは貴あな方たに無理にお願をしてバイヲリンの稽けい古こまでして、家庭を賑にぎやかにしやうと心掛けてゐるやうな譯ぢやございませんか。﹂
﹁其のバイヲリンがまた俺の耳みゝ觸ざわりになるんだ。あいにくな。﹂
﹁それぢや爲しか方たが無いぢやありませんか。﹂
﹁眞まつ個たく爲しか方たが無いのさ。﹂
﹁ぢや何どうしたら可いいのでございませう。﹂
﹁解わからんね。要するにお前の顏は紅あかい、俺の顏は青い。それだから何どうにも爲しや樣うのないことになつてゐる。﹂
爲しや樣うがあらうが有るまいが、それは私わたしの知ツたことぢやない! といふやうな顏をして、近ちか子こはぷうと膨ふくれてゐた。そして軈やがて所をつ天との傍そばを離れて、椽えん側がはを彼あつ方ち此こつ方ちと歩き始めた。俊とし男をはまた俊男で、素知らぬ顏で降ふり濺そゝぐ雨に煙る庭の木こだ立ちを眺めてゐた。
此の突つツ放ぱなすやうな仕打をされたので、近子は些ちつと拍ひや子うし抜ぬけのした氣味であつたが、何なんと思つたのか、また徐そろ々〳〵所をつ天との傍へ寄ツて、﹁貴あな方たは、何なんかてえと家うちが淋しい淋しいツて有おつ仰しやいますけれども、そりや家に病身の人がゐりや、自しぜ然ん陰いん氣きになりもしますわ。﹂
別に深い意味で謂いツたのでは無かツたが、俊男は何んだか自分に當あて付つけられたやうに思はれて、グツと癪しやくに障さわツた。
﹁フム、其それぢや何なんだな、お前は俺おれが此の家を陰氣にしてゐるといふんだね。﹂と冷靜に謂いツて、さて急に激げき越えつした語調となる。﹁成なる程ほど一いつ家かの中うちに、體の弱い陰氣な人間がゐたら、他はたの者は面白くないに定きまツてゐる。だが、虚きよ弱じやくなのも陰いん欝うつなのも天てん性せいなら仕方がないぢやないか。人間の體質や性質といふものが、然さうヲイソレと直されるものぢやない。俺おれの虚弱なのと陰鬱なのとは性うま得れつきで、今更自分の力でも、また他ひとの力でも何どうすることも出來やしない。例たとへばお前の頬ほツぺたの紅あかいを引ひツ剥ぺがして、青くすることの出來ないやうな。﹂と細こまかに手先を顫ふるはせながら躍やつ起きとなツて叫ぶ。
﹁ま、貴あな方たも大たい概がいにしときなさいよ。私は貴あな方たの體の虚弱なことや氣きむ難づかしいことを惡いとも何なんとも謂いツたのぢやありません。ただ貴あな方たが家うちが淋しくツて不愉快だと仰おつ有しやツたから、それは誰の故せいでもない、貴あな方た御自身の體が惡いからと謂いツたまでのことなんです。男らしくもない、弱い者いぢめも好いい加かげ減んになさるものですよ。﹂とブツ〳〵いふ。其の態度が奈い何かにも冷ひやゝかで、謂いふこともキチンと條でう理りが立ツてゐる。
俊男は其の怜さかしい頭が氣に適くはぬ。また見たところ柔にう和わらしいのにも似ず、案あん外ぐわい理りく屈つツぽいのと根こん性じやうツ骨ぽねの太いのが憎にくい。で、ギロリ、其の横顏を睨にらめ付けて、﹁然さうか。それぢやお前は、俺おれは馬鹿でお前が怜れい悧りだといふんだね。宜よろしい、弱い者いぢめといふんなら、俺おれは、ま、馬鹿になツてねるとしやう。俺おれの方が怜れい悧りになると、お前は涙といふ武器で俺を苦しめるんだからな。雖けれ然ども近ちか、斷ことはツて置くが、陰いん欝うつなのは俺の性分で、書しよを讀むのと考へるのが俺の生命だ。丁度お前が浮うき世よの榮えい華ぐわに憬あこがれてゐるやうに、俺は智識慾に渇かつしてゐる………だから社交も嫌いやなら、芝居見物も嫌さ。家を賑にぎやかにしろといふのは、何なにも人を寄せてキヤツ〳〵と謂いツてゐろといふのぢやない。お互たがひの間なかに暖あつたかい點とこがあツて欲しいといふことなんだ………が、俺おれの家では、お前も獨ひとりなら、俺も獨ひとりだ。お互に頑固に孤獨を守ツてゐるのだから、從したがツてお互に冷ひやツこい。いや、これも自然の結果なら仕方が無い。﹂
﹁何な故ぜお互に獨ひとりになツてゐなければならないのでせう。﹂
﹁色が違ふからさ。お前は紅あかい、俺は青い。﹂
﹁それぢや何どつ方ちがえらいのでせう。﹂
﹁そりや何どつ方ちだか解わからんな。何どつ方ちでも自分の色の方にした方がえらいのだらう。﹂
﹁恰まるで喧けん嘩くわをしてゐるやうなものですのね。﹂
﹁無論然さうさ、夫婦といふものは、喧嘩をしながら子供を作こさへて行くといふに過ぎんものなんだ。﹂
﹁では私わた等したちは何どうしたのでせう、喧嘩はしますけれども、子供は出來ないぢやありませんか。﹂
﹁恐らく體力が平均しないからだらう。お前からいふと、俺おれが虚きよ弱じやくだからと謂いひたからうが、俺からいふとお前が強きや壯うさう過すぎると謂いひたいね。併しかし他ひと一いち倍ばい喧けん嘩くわをするから可いいぢやないか。夫婦の資格は充分だ………他人なら此こ樣んなに衝しよ突うとつしちや一日も一緒にゐられたものぢやない。﹂
近子は成なる程ほど然さうかとも思ツて、﹁ですけども、私わた等したちは何んだツて此こ樣んなに氣が合はないのでせう。﹂と心細いやうに染しみ々〴〵といふ。
﹁お互にスツかり缺あ點らをさらけ出して了しまツたからよ。加おま之けに體力の不平均といふのも重かさなる原因になツてゐる。自體女は生理上から謂いツて娼しや妓うぎになツてゐる力のあるものなんだ、お前は殊に然さうだ!﹂
近子は眥きれの長い眼を嶮けはしくして、﹁何なんでございますツて。﹂
﹁ふゝゝゝ。﹂と俊とし男をは快こゝろよげに笑出して、﹁腹が立ツたかね。﹂
﹁だツて其そ樣んな侮ぶじ辱よくをなさるんですもの。﹂
﹁侮辱ぢやない、こりや事實だ。尤もつとも女の眼から見たら男は馬鹿かも知れん。何ど樣んな男でも、丁度俺のやうに、弱い體でもツて一生懸命に働いて、強壯な女を養やしなツてゐるのだからな。﹂
﹁其の代かはり女にはお産といふ大だい難なんがあるぢやありませんか。﹂
﹁そりや女の驕けう慢まんな根こん性じやうに對する自然の制せい裁さいさ。ところで嬰あか兒んぼに乳を飮ませるのがえらいかといふに、犬の母だツて小犬を育てるのだから、これも自じま慢んにはならん。とすれば女は殆ど無能力な動物を以もつて甘あまンじなければならん。ところが大たい概がいの男は此の無能力者に蹂じう躙りんされ苦しめられてゐる………こりや寧むしろ宇宙間に最も滑こつ稽けいな現象と謂いはなければならんのだが、男が若い血の躁さわぐ時代には、本能の要求で女に引付けられる。此の引力が、やがて無能力者に絶大の權力を與へるやうなことになるのだから、女が威ゐ張ばりもすれば、ありもせぬ羽はねを伸のばさうとするやうになる。そこでさ、女は戀人として男に苦痛を與へると同時に歡くわ樂んらくを與へるけれども、妻としては所をつ天とに何なん等らの滿足も與へぬ、與へたとしても其それは交換的で、而しかも重い責任を擔になはせられやうといふものだから、大概の男は嬶かゝあの頭を撲なぐるのだ。簡明に謂いツたら、女といふやつは、男を離れて生存する資格のない分ぶん際ざいで、男に向ツて、男が女を離れて生存することが出來ないかのやうな態度を取ツてゐるのだ。現げんにお前だツて然さうぢやないか。俺おれが幾ら體が虚弱だからと謂いツて、お前といふ女は、女といふ男を離れて、而しかも妻つまとして立派に生存して行かれるか。ま、考へて見ろ、俺が死んだら何どうする? 其の癖くせお前は、俺の體が虚きよ弱じやくだとか、俺の性質が陰いん氣きだとか謂いツて、絶えず俺のことを罵ばた倒うしてゐる、罵倒しながら、俺おれに依ツて自じ己この存そん立りつを安全にしてゐるのだから、こりや狐よりも狡かう猾かつだ。何どうだ、お前はこれでも尚まだ、體の強壯なのを自慢として、俺を輕けい侮ぶする氣か。青い顏は、必ずしも紅い顏に壓あつ伏ぷくされるものぢやないぞ。﹂と言いひ訖をはツて、輕く肩を搖ゆすツて、快こゝろよげに冷せゝ笑らわらふ。
近ちか子こは唇くちびるを噛かみながら、さも忌いま々〳〵しさうに、さも心しん外ぐわいさうに、默ツて所をつ天との長なが談だん義ぎを聽いてゐたが、﹁ですから、貴あな方たはおえらいのでございますよ。﹂と打突けるやうに謂いツて、﹁それぢや、これからもう、家が淋しいの冷ひやゝかだのと有おつ仰しやらないで下さいまし。無能力な動物に何も出來やう筈がございませんわ。﹂
﹁フム、他ひとの言こと尻ばじりを攫つかまへて反はん抗こうするんだな。﹂
﹁いゝえ、反抗は致しません。女に反抗する力なんかあツて耐たまるものですか。﹂と澄すましきツて謂いツて、﹁時にもうお午ひるでございませうから、御飯をお喫あがりなすツては?………﹂
﹁俺おれは尚まだ喰ひたくない。﹂
﹁でも私わたくしはお腹が空すいて來たんですもの。﹂
﹁ぢやお前勝手に先に喫たべれば可いいぢやないか。﹂
﹁だツて、然さうは參りません。﹂
﹁妙なことをいふね。お前は何い時つもお午ひるをヌキにして、晩の御飯まで俺おれを待ツてゐる次しだ第いでもあるまい。﹂
﹁そりや然さうですけれども、家うちにゐらツしツて見れば、豈まさ夫かお先へ戴くことも出來ないぢやありませんか。加しか之もビフテキを燒かせてあるのですから、暖あつたかい間うちに召めし喫あがツて頂戴な。ね、貴あな方た。﹂と少し押へた調子でせつくやうにいふ。
﹁ビフテキが燒いてある?………ほ、それは結けつ構こうだね。お前は胃いの腑ふも強壯な筈だから、ウンと堪たん能のうするさ。俺は殘念ながら、知ツての通り、半はん熟じゆくの卵と牛乳で辛やつ而と露ろめ命いを繋つないでゐる弱虫だ。﹂と皮ひに肉くをいふ。
﹁ま、何ど處こまで根こん性じやうがねぢくれてゐるのでせう。﹂と思ひながら、近子は瞥ちらと白い眼を閃ひらめかせ、ブイと茶の間の方へ行ツて了しまツた。遂とう々〳〵むかツ腹ぱらを立てゝ了しまツたので。
俊男は苦い顏で其後を見送ツてゐて、﹁俺おれは何を此こ樣んなにプリ〳〵憤おこツてゐるんだ。何を?………自分ながら譯の解わからんことを謂いツたもんぢやないか。これも虚弱から來る生理的作用かな。﹂
と思ツて、また頽ぐつ然たり考込む。
薄暗いやうな空に午ド砲ンが籠こもツて響いた。
﹁成程お午ひるだ。﹂と呟つぶやき、﹁近ちかの腹の減へツたのが當前で、俺おれの方が病的なんだ。一體俺の體は何な故ぜ此こ樣んなに弱いのだらう。﹂
俊男の頭の中には今、自分が病身の爲に家庭に於ける種さま々〴〵なる出來事を思出した。思出すと其それが大たい概がい自分の病身といふに基きゐ因んしてゐる。
﹁俺は何な故ぜ此こ樣んなに體が弱いのだらう。﹂と倩つく々〴〵と歎たん息そくする。
﹁一體俺おれは何どうして何こ樣んなに意い固こ地ぢなんだらう。俺が惡く意固地だから、家が何い時つもごたすたしてゐる。成程俺は妻さいを虐いびり過ぎる………其そンなら妻が憎にくいのかといふに然さうでもない。豈まさ夫かに追おン出す氣も無いのだから確たしかに然さうでない。雖けれ然ども妻に對して一種の反抗心を持ツてゐるのは事實だ………此反抗心は弱者が強者に對する嫉しつ妬となんだから、勢いきほひ憎ぞう惡をの念が起る………所つま詮り俺おれは妻が憎いのでなくツて、妻の強壯な體を憎むでゐるのだ。﹂
俊とし男をは見るともなく自おのづと庭にはに蔓はびこツた叢くさむらに眼を移して力なささうに頽ぐつ然たりと倚い子すに凭もたれた。