何某署の幾つかの刑事部屋では、その時殆んど総ての刑事たちが、みんな善良さうな顔をそろへてゐた。不断ならばちよつと好い気持のしない表情の持主でも、全市が大混乱のなかにあつて、大自然の暴威の前に一様に慄へあがつてゐた時なので、人間の本能がもつてゐるどんな勝手な真似でもが、共存的な好いところと一つになつて極度に拡大されてゐた時なので――勿論人間の悪い智慧や好い智慧や、深刻な心理がみんな閉塞してしまつて、尤も手近な感情ばかりが働いてゐたから、普通の犯罪が犯罪らしくも見えなかつたゞらうし、たとひそれが犯罪であつたにしても、群衆心理に支配された種類のものであつたから、それがちよつと普通一般のことのやうに思はれた。犯罪を捜す目に映る総てのものが、また顕微鏡か何かで見るやうに異常に拡大されてゐたので、人道上許しておけない残虐が、この際仕方のないことの様に思へたり、貴重な人命が自分さへ其の災厄にかゝらなければ、何の値打もないものゝやうに感ぜられたりした。感覚にふれる総てのものが、何一つ不断の状態におかれてはゐなかつた。地上の有らゆるものが、残らず歪んでゐるやうに見えた。倒壊したもの、焼かれたものが、総て空に向つてけし飛ばされ若しくは墜落しないで、地面にくつついてゐるのが、まだしも多少の安定を与へてゐるくらゐのものであつた。 刑事たちは、その時ひどく一般から恐怖されてゐる鮮人の行動や、錯さく誤ごから来た残虐などについて各自の見聴きしたことを話し合つてゐた。頻繁に警察へ舞ひこんで来る報告も報告も、その元を捜索してみると、何の根拠も事実もないことが確められるばかりであつた。彼等は各自にそんな事実を話しあつて賑やかに興じ合つてゐた。 すると其の時、ボーイが一人やつて来て、署長室へみんなに来てくれと云ふ命令を伝へた。部屋に集つてゐた八九人の刑事たちは、何事か起つたのかと思つて、何か手帳に書きつけてゐたものや、丼を食べてゐたものや、地震や火事の当時の騒ぎの話に夢中になつてゐたものゝなかから、重おも立だつた四五人のものが急いで出て行つた。彼等の或るものは、粗末な紺絣の単衣に股引をはいてゐたが、或るものは汚きたない詰襟の夏服に巻ゲートルなぞを捲きつけ、或るものはまたちやんとしたアルパカの上衣に白のズボンといつた、会社の勤つと人めにんらしい風ふうをしてゐた。 署長は四十ばかりの、肉づきの好いハイカラ風の上品な男であつたが、この二三日の不規則な仕事と過度の勤労とで、疲労の色が見みえた。型にはまつた不断の仕事とちがつて、色々な乱雑な事件や困難な問題が突発的に来るので、体の閑な割りに、あわたゞしい気分の浪費が多かつた。 ぞろ〳〵と部屋へ入つて看ると、署長と差向ひに卓子に就いてゐる一人の老紳士があつた。五十を少し出たかと思はれる、色いろ沢つやのいゝ人の好ささうな人物で、質素な鼠色の古ぼけた無地の背広に、ソフトカラを着けてゐたが、胡麻塩の頭の髪が、禿げない質とみえて、長く伸びてゐた。刑事達は何か重大事件の捜索だらうなどゝ、緊張した気分で署長の顔色を伺つたのであつたが、その用件で署長と密談でもしてゐるらしいこの老紳士の誰であるかゞ、一層好奇心を唆そそつた。 ﹁他のものは何うしたかね。みんな出てゐるかね。﹂署長は入つて来た刑事たちの顔を、興奮した目色でづらりと見わたしながら言つた。 ﹁いや、大概ゐる筈です。﹂刑事の一人が答へた。 ﹁それぢや御苦労だが、成るべく多くの人に実物を見てもらつたうへで、出動してもらひたいことがあるのでね。﹂署長は言つた。 後ろの方にゐた一人が、急いで刑事溜の別の部屋にゐた仲間を呼びに行つたが、やがて又五六人の人達があわたゞしい表情で入つて来た。 ﹁処で、こゝにゐられるのは理学博士の××さんだがね、今私があつちで昼飯をやつてゐるところへわざ〳〵面会に来て下すつたのは――実物について説明せんとわからんが、何しろこんな恐ろしいものが、○○大学の草原におちてゐたさうで……。﹂署長はさう言つて、卓子の真中におかれた一つの不思議な物体に目を移した。 ﹁ほう﹂と刑事たちの或るものは、不思議さうに近よつてその物体に見入つた。 不思議といつても、別にさう不思議な形をしてゐるものではなかつたが、たゞそれが包んであつたぼろ綿のうへに、そつとおかれてあるうへに、何か巧妙な仕掛がしてあるらしいので、きつと危険な代物だらうといふ漠ばく然ぜんとした概念を与へるので、皆は気味わるさうに、それを覗くのであつた。 物体はビール瓶よりも一ト廻り太いくらゐの長さ一尺二三寸ほどの筒形のものであつた。ちよつと見ると、硝子か何かで造つたものゝやうに、つや〳〵した光沢をもつてゐて、黝黒色をもつてゐたが、それが鉄の種類であることは明らかであつた。どちらが頭あたまかわからないが、一方に洗面場の水みづ口ぐち﹇#ルビの﹁みづぐち﹂は底本では﹁みずぐち﹂﹈の螺旋の把手のやうな、そして其よりも大きなものがついてゐて、その下部の脇の方に、真鍮製の小さい口がついてゐた。その螺旋と反対の、底よりか少し上の方に赤いレツテルが貼られてあつた。 ﹁ほう、何だか不思議なものですな。﹂ ﹁一体これは何に使用するものだらうな。﹇#﹁ものだらうな。﹂は底本では﹁ものだらうな﹂﹈﹂ 刑事たちは口々に呟いた。 すると署長は少し反りかへつて、 ﹁誰かこんなものを、何処かで見たことはないかね。﹂と訊いた。 ﹁さあ。﹂前の方にゐたアルパカの背広をつけた一人が、首を傾げながら考かんがへてゐたが、一同を﹇#﹁一同を﹂は底本では﹁一同は﹂﹈振返つて、 ﹁誰か知つてゐるかね。﹇#﹁知つてゐるかね。﹂は底本では﹁知つてゐるかね﹂﹈﹂と訊いてみた。 ﹁何だか、何処かで一度くらゐ見たやうな気もするがな。﹂誰かゞ言つた。 ﹁いや、貴方がたがこれを知つてゐる気遣ひはない筈ですがね。﹇#﹁ない筈ですがね。﹂は底本では﹁ない筈ですがね、﹂﹈﹂××博士は近眼鏡をちよつと直しながら、﹁それこそ大変だ﹂といつた風で、微笑を浮べてゐた。 ﹁こんな物が、不断にそこいらに転がつてゐた日には、それこそ大事件だからね。﹂署長も笑ひながら、 ﹁××さんが、今○○大学のなかを通つて来られる際に、誰かゞこれを見つけて、騒いでゐたんださうだがね、これが有名な独逸のテツペレンから盛んに投げた爆弾ださうだよ。ちよつと見ると、何でもないやうなものだが、実に恐るべきもんぢやないか。﹂ ﹁ほう、これがね。﹂ ﹁独逸の飛行船から投げたと云ふ爆弾は、これですか。﹂刑事の一人はいくらか詰らなさうに博士に尋ねた。 ﹁さうですとも、これがテツペレンから投下されると、忽ち爆発する仕掛になつてゐるので、このためにロンドンやパリイの市民は何のくらゐ脅かされたか知れない。何しろ百八十回も襲撃したのですからな。迚も今度の地震の比ぢやありませんよ。仕合せなことにはロンドン市民は地下鉄道と云ふ安全な逃場をもつてゐましたから、まあ其の割には被害は少なかつたのですが、我々はさう云ふ時のことをも今から十分考かう慮りよに入れておかなければならんのですよ。今度の地震にしたところでさうですよ。今少し科学者の言ふことに耳を傾けて、市民が地震の性質を十分理解してゐたら、あんなにまで周章てなくとも、もつと落おち着ついて防火に努つとめることもできたらうし、また不断から用意して、適当な設備もできた筈ですからね。﹂博士は興奮した口調で言ふのであつた。 ﹁いや、我々も常にいつか一度は大きな地震が来はしないかと、そんな気もしてゐたのですがな、こればかりは何うも完全な防備もできないので、みんなが平気でゐれば、自分たちも其の気になつて、うか〳〵と暮してゐたやうな訳でしてね。﹂人の好い署長は弁解でもするやうに言つた。 ﹁誰でもさうなんですよ。﹂東北弁の若い刑事が笑顔で答へて、﹁実際いつ来るか判りもしないものに、始終びく〳〵ものでゐたのでは、人間は一日も生きて行かれませんからね。今日の進歩した科学の力で、何とかこれを予知することができたら、大変に助かると思ひますね。あれがせめて朝のうちにでも知れたら、被害の程度も余程少なくて済んだでせうがね。﹂ 博士も苦笑をたゞへて﹇#﹁たゞへて﹂はママ﹈ゐた。 ﹁僕は地震学の方は判りませんがね、従来の経験で、ベリオヂカリーに……例へば六十年に一度とか、三十年目に一度とか来るものだと云ふ大凡のことだけは判つてゐるのだ。しかし其れ以上は今の科学の力では明確なことは判らんらしい。今度なぞも確かに地球の変動期に際してゐるのだらうが、それが経過すれば、また幾十年のあひだ﹇#﹁あひだ﹂は底本では﹁あいだ﹂﹈先づ大きな地震はないものとみて可い訳だね。﹂博士は親しみのある口調で言ふのであつた。 ﹁それで何うです、この爆弾の御説明をどうかもう一度。﹂署長はまた本題を取りあげて、﹁何しろこんなものが、そこいらにごろ〳〵してゐるなどは、物騒千万だ。﹂ ﹁よろしい。僕がこの代物の大凡の智識だけお授けしませう。﹂博士はさう言つて、そつと両手でそのつる〳〵した重い筒を両手に取りあげながら、 ﹁僕はこの爆弾については、相当研究したこともあるので……勿論元来が独逸で作られたものですが、これはこゝにも書いてあるとほりアメリカ製でね、ウヱルドン会社の製造に係るものです。こいつはフアイヤガンと云ふんで……さあ何と訳したらいゝかね、火銃とでもいふかね、つまり火の鉄砲だ。﹇#﹁鉄砲だ。﹂は底本では﹁鉄砲だ﹂﹈﹂博士は軽い皮肉なやうな調子で、 ﹁今もちよつと署長さんにお話したのですがね、この危険物の使ひ方がこゝに英語で簡短に示されてをりますが﹇#﹁をりますが﹂は底本では﹁おりますが﹂﹈、それは Keep this end up. Open valve fully. Aim at base of fire といふので、つまり此のレツテルの方を上へ向けろ、弁を十分開ひらけ、火の底を覘へといふことになるんですから、これをかういふ風に上へ向けて、こゝのところを十分に捻つて、火の基といふのは、ちよつと可笑しいが、目的物を覘つて投下せよといふ事と解してよからう。﹂ そして博士はその螺旋をひねりかけた手を、遽かに引込めて、 ﹁とにかく危険物ですからね。間違つてこいつを捻つたら大変なことになりますよ。だぶ〳〵して﹇#﹁だぶ〳〵して﹂は底本では﹁だぶ〴〵﹂﹈ゐるのは猛烈な爆発性をもつた薬品ですからね。﹂ ﹁ちよつと伺つておきたいのですが、そこを捻つたら何ういふことになりますか。﹂背広服が訊いた。 ﹁いや、それこそ大変なことになりますよ。何しろテツペレンの飛行船……御存じか知りませんが、独逸のテツペレン氏の発明にかゝるものですが、その飛行船からこれを投下するのですけれど、この爆弾ではこいつをひねつて投下することになつてゐるので、すると三千度の熱度でもつて、猛火を噴出さうといふ、世にも恐るべき代物ですからね。三千度といふ熱度に逢つちや敵ひません。ごらんにもなつたでせうが、今度の猛火で、到るところ硝子が飴のやうに熔解してゐるでせう。あれは二千度といふ高熱であゝいふ風にだら〳〵熔けてしまふので、三千度と言つたら、全く非常な高熱です。それが三百メートル拡がるといふんですからな。いや実じつ際さい拡がるんです。だから、これを少しでも強く捻れば、この辺は忽ち一面の火の海となつてしまふ訳で。﹂博士は緊張した口調で熱心に言ふのであつた。 ﹁ほう、三百メートル。そいつは大変だ。この際そんな危険物をもつて歩く奴がゐては、それこそ東京は文字通りの全滅だ。﹂署長は少し蒼くなりながら、不安さうにその危険物を眺めてゐた。 博士は尚も説明してゐる自分自身が、てつきり腑におちてこないところのあるのに気づいたといふ風で、繰返しその使用方法を読んでゐたが、 ﹁ところがですよ、こいつは真物の独逸製の爆弾とは、いくらか違ふ点もあるんで、こゝにある Aim at fire といふのは、火のある処を目ざして投下せよといふことに解釈した方が適当かも知れませんな。するとテツペレンで使つたものと、いくらか性質がちがふものと見ていゝ訳ですが、それにしても大変ですよ。﹂ ﹁するとそれ自身は発火しませんのですかね。﹂背広服の刑事がまた尋ねた。 ﹁いや、何しろフアイヤガンと銘打つてあるんですから、それ自身爆発することは確実ですよ。﹂博士は眼鏡の底から目縁の痙ひき攣つたやうな﹇#﹁痙攣たやうな﹂はママ﹈目を光らせながら、その若い刑事の顔を見たが、またそのレツテルに目を移しながら、首をひねつてゐた。 ﹁成程。﹂博士は暫らくすると、会心の笑を口髯の下に浮べながら、 ﹁いや解りましたよ。何しろ文章がひどく簡単ですからな。解釈の仕様によつて、色々に考へられるが、発火させて覘へといふのが、間違ひのないところだ。さうだ。その方が一層適切だ。﹂ さうして博士はその下の数行の文句を、口早に読み下した。
For gasoline, oil, electric and other incipient fires will not deteriorate freeze or harm any material.
﹁かういふ事も、書いてあるが、これはまあさして重要ではなささうだ。何しろ爆弾には違ひないのだ。﹂
﹁アメリカあたりで、さういふものを一体何うして売るですかな。麗々しく会社の名まで記してからに。﹂署長は髯をひねりながら、不安の色を目に浮べてゐた。
﹁さあ、そこが我々日本人の頭脳では、ちよつと想像のつかない点ですがね。いづれ其は民間の会社で、秘密に売つてゐるものと見んければならんが……勿論学術上研究の自由は、迚も我々の想像に及ばないところがあるので、使用法さへ知つてゐれば、危険のないこともわかつてゐる訳だが、多分不逞の鮮人が、秘密に買ひ取つたものでせうよ。いづれにしても今はそんな詮索をしてゐる場合ぢやない、一つ皆さんで厳しく捜索していたゞいて……まさか是を使用してはゐまいが、事によると火の手がかう大きくなつたのも、これの効果かも知れませんから、何をおいてもこれだけは厳重に取調べていたゞかんと困りますよ。とにかく是は危険物ですよ。取調べる価値は十分ありますよ。でなくて是が何でせう。﹂
﹁いや、早速捜索させますが、そんな猛烈な爆発性をもつてゐるものだとすると、それを何う処置していゝか、それもちよつと伺つておいた方がよささうです。﹂
﹁これを捻りさへしなければ、何のこともありませんがね、まあそこいらに置いておくのも危険ですから、このまま不忍池の真中へでももつて行つて深く沈めて口を開けておくですよ。﹂
﹁そんな事でよければ……。﹂
﹁大丈夫ですよ。一週間もすれば気がぬけてしまひますからな。間違つて爆発したところが、水のなかです。﹂
﹁ははあ。﹂署長はやつと安心したやうに笑つた。
﹁まあ、テツペレンの真物ぢやなささうだから、あれほどに危険はないかも知れないけれど、とにかく危険は危険ですから、一刻も早く出来るだけ手をまはして、取除いた方が安心といふものです。﹂
﹁全くですよ。﹂
﹁たとひ彼等がそれを使用しないにしても、落して歩かれては大変ですからな。﹂
刑事たちは余り好い気持がしなかつた。たとひそれがテツペレンの爆弾でないにしても、この無ぶ気き味な代物がそれに類似した危険物であることは、この場合博士の説明を煩はすまでもなかつた。
彼等は緊張した、﹇#﹁緊張した、﹂は底本では﹁緊張した。﹂﹈しかし何処か雲をつかむやうな、淡い空虚を感じながら、とにかく持場々々へ出動しなければならなかつた。或るものは捲ゲートルを締め直し、或るものは水筒に薬缶の湯をつぎはじめた。窓ぶかい窓硝子に、午後の一時頃の熱い日が照つて、その外のひばや何かの植込に、避難民の汚い洗濯ものが、哀れぶかくかゝつてゐた。町はごたすた返してゐた。みんな元気がなささうな、ぼんやりした顔をしてゐた。
﹁何だかをかしいね。﹂背広服の刑事が、カンカンの埃を払ひながら言ひだした。
﹁爆弾にしては、少し堅かたすぎるやうに思ふが、爆発さすべき性質のものなら、あの真鍮の口から三千度の火熱なぞ吹く筈はないんだがな。﹂
するとゴム足袋をはきかけてゐた一人がそれに応じた。
﹁さうさ、己も何だかをかしいと思ふんだがね、学者の言ふことだから、間違はなからう。﹂
﹁それにしても怪しいな。いくらアメリカだつて、そんな危険物に会社の名をかいたレツテルを貼つて売出すのは変だな。単に博士の想像に止まるんぢやないかな。何しろこの際のことだからね。常はいくら頭脳の冷静な人間でも、かうなつてみると、たゞの人間だからね。﹂
﹁ほんとうだね。﹂
﹁博士だつて、そこらの八百屋の親おや爺ぢだつて、何しろ避難民は一体に玄米の握飯を食つてゐるんだからね。博士の権威も何にもあつたもんぢやない。僕たちにしたところで、皆なと一つの人間だといふことを、今度くらゐ痛切に感じたことはないからね。﹂
﹁待てよ。さう言へば己はどこかであれを見たやうな気がする。先さつ刻き﹇#ルビの﹁さつき﹂は底本では﹁さき﹂﹈からさう思つて見てゐたんだがやつと今思ひ出したぞ。﹂火鉢の側で皮包のなかから食べさしておいた握飯を取出して食べてゐた、白い詰襟の若い刑事が茶を呑みながら言ひだした。
一同はその方へ視線を送つた。
﹁どこで。﹂
﹁たしか石崎さんとこで見たぞ。あすこの請願巡査のとこに備へつけてあるのは、たしかにあれだ。何でも最新式の消火器だとかいふ話だつたがね、どうも似てゐるよ。﹂
﹁いよ〳〵怪しくなつて来たぞ。誰か行つてそつとそれを借りて来る訳に行かんかね。﹂
﹁よし行つてこよう。﹂白の詰襟はさう言つて立ちあがつた。そして出口にあつた自転車を一つ曳出して、走りだした。
﹁どうもね、僕は英語は知らんけれど、何だか博士の説明ぶりが可笑しいと思ふよ。﹂
﹁さうさ、己も変だとは思つたが、見たことがないからな。﹂
﹁三千度の熱もあやしいぞ。﹂
﹁三百メートル四方火の海だなんて、真物のテツペレンだつてまさかそんな爆弾は投げやしまい。﹂
﹁とにかく石崎のものを見れば分るさ。﹂
そんな話をしてゐるところへ、白の詰襟によつてその正しやうのものが持来された。
﹁これだ〳〵。﹂彼はさう言つて、新聞紙にくるんで来たのを出して見せた。
みんなは其の周囲を取りまいた。
﹁何だ、ひどく脅かしたもんだね。いくら博士でもこれは知らなかつたんだね。﹂
﹁何しろ余程あわてゝゐるね、語学の力だつてまるで成つてやしないぢやないか。火の基をねらへと言つたろ、基をねらふ筈だ、消火器だもの。﹂
或るものは苦笑した。或るものは笑ひだした。又或るものはそれを捻くりながら、連りに感心してゐた。
とにかく署長の前へ持つてゆくことに、皆なは一致した。
博士はちよつと帽子をもつて、椅子を立ちかけてゐるところであつたが、入つて来た二三人の胡散くさい顔を見ると、ちよつとたぢろぐやうな風ふうで、不安さうに彼等を見たが、詰襟が両手にもつてゐるフアイヤガンを見ると、遽かに驚異の目を光らした。署長も目を見張つた。
﹁これと同じものが、外にもあるんですがね。﹂
﹁ほう、どこに……。﹂署長が言つた。
﹁石崎さんのところにこれを備へつけておくですよ。多分何かの間違ですが、これなれば格別危険な品物ぢやありませんよ。﹂詰襟は笑ひながら、それを卓子のうへで並べて見せた。
﹁勿論もうお分りになつたでせうが……実際我々もさうかと思ひましたよ。何しろこの際のことですから。﹂背広は二人の顔を見比べた。
博士は直ちに頷いた。
﹁成程、それで判りましたよ。こんな消火器が来てゐるといふことは、大分前に耳にしましたよ。﹂
﹁消火器か。それぢやまるで……。﹂署長も笑ひもせず、少し慍つたやうな表情をした。
﹁たしかに消火器に違ひありません。何しろこの周りに集つて、鮮人が今こゝへこれを落して逃げたと言ふものがあつたものですから、そいつは大変だといふので、急いで御報告に及んだやうなことで……いやそれでこの文句がよく判る。説明者の僕自身が、どうも色眼鏡をかけてみてゐたから。﹂
﹁こんな時は、誰でも悪い方へ〳〵と解釈したがるもんですからね。﹂背広は気の毒さうに言つた。
﹁何しろお互ひに助かつたといふもんですよ。でないと、私の威信にも係ることになりますからな。﹂署長は少し苦い微笑をたゞへて﹇#﹁たゞへて﹂はママ﹈ゐた。
﹁いや何うも飛んだ粗忽で……。﹂
博士はさう言つて、腰を屈めるやうにして、そこ〳〵に出て行つた。
後で三人は感心したやうに笑つてゐた。
﹁それにしても博士は博士だ、牽こぢ強つけにしても説明ぶりが振つてゐるぢやありませんか。﹂
﹁さう〳〵、我々ですら釣込まれてしまつたからね。﹂署長は苦笑した。
︵大正12年11月﹁中央公論﹂︶