芸術論覚え書

中原中也
















 尤も、注意すべきは、詩人Aと詩人Bと比べた場合に、Bの方が間抜けだからAよりも一層詩人だとはいへぬ。何故ならBの方はAの方より名辞以前の世界も少なければ又名辞以後の世界も少ないのかも知れぬ。之を一人々々に就て云へば、10の名辞以前に対して9の名辞を与へ持つてゐる時と8の名辞以前に対して8の名辞を持つてゐる時では無論後の場合の方が間が抜けてはゐないが而も前の場合の方が豊富であるといふことになる。


 

 従つて、「面白い故に面白い」ことだけが芸術家に芸術の素材を提供する。恰も「これは為になる、故に大切である」ことが生活家に生活の素材を供する如く。


 かくて古来真摯な芸術家が、謂はば伝説的怪物の如き印象を遺して逝つたことは示唆深きことである。



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宿宿
 
 生活が拙いといふことは、断じて芸術が拙いといふことではない。

 

 故に、芸術家たる芸術家が、芸術作用を営みつつある時間内にある限りに於て、芸術家はひとに敵対的ではなく、天使に近い。

 使()

 芸術家が、学校にゆくことは、寧ろ利益ではない。

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一、生命の豊かさ熾烈さだけが芸術にとつて重要なので感情の豊かさ熾烈さが重要なのではない。寧ろ感情の熾烈は作品を小主観的にするに過ぎない。詩に就いて云へば幻影イメッジも語義も感情を生発ママせしめる性質のものではないところにもつてきて感情はそれらを無益に引き摺り廻し、イメッジをも語義をも結局不分明にしてしまふ。
 

 ()宿宿


便


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 扨語感は、非常に大切だ。云つてみれば、ポンプに於てバルヴは非常に大切だ。所でその柄が折れてゐたら、ポンプは汲めぬ。それよ、作品観賞に際して抽象的視点(例へば「語感」の如き)を与へて、その点よりみるといふことは意義がない。――彼女の鼻は美しい。口は醜い。睫毛は美しい。額は醜い。それから頬は……生え際は……耳は云々。さてそれで彼女はいつたい美人なのかどんなのか、分りはしないと同様に、「此の詩の脚韻駆使は云々。頭韻駆使は云々。措辞法は云々。」なぞといふとも批評とはならぬ。そんな批評も偶にはあれだがそんな批評しか出来ない詩人や批評家がゐるから御注意。



 


()()()() ()()鹿

 つまり、物質的傾向のある所には批評精神はない。東洋が神秘的だなぞといふのはあまりに無邪気な言辞に過ぎぬ。「物質的」に「精神的」は圧へられてゐるので、精神はスキマからチヨツピリ呟くから神秘的に見えたりするけれど、もともと東洋で精神は未だ優遇されたことはない。


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一、精神といふものは、その根拠を自然の暗黒心域の中に持つてゐる。
 近代人中の極くもう愚劣な、へ理窟屋共が全然人造的なものを作りたいと企図したりする。彼は彼を生んだのが自分でないことも忘れてゐるやうなものだ。
 ところで精神が客観性を有するわけは、精神がその根拠を自然の中に有するからのことだ。
 而して思考上の紛糾といふものは精神自体の中にその原因を有するのではない。精神の表現過程の中に偶然的雑物が飛込むことにその原因はあるのだ。

 色々の解釈があるのではない。数々の解釈が多少とも夫々の偶然性に支配されるといふだけのことだ。


 而して、芸術論が屡々余りに空言に終ること多い理由は、芸術家でない人に芸術的制作を可能ならしめんとする意向を知つてか知らないでかひそめてゐることそれである。
 芸術といふものは、幾度もいふ通り名辞以前の現識領域の、豊富性に依拠する。乃ちそれは人為的に増減出来るものではない。

 宿




一、芸術家よ、君が君の興味以外のことに煩はされざらんことを。
 

 




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 が、私は伝統主義者であるのでも、ないのでもない。私は伝統から学べる限り学びたいのに過ぎない。

 (尤も、右の如き誤解は、当今では珍しいことではない。蓋し熟読といふことはどういふことかも思ひも到らぬ連中といふものは多いものである。)






  
   2003151125
稿



shiro
2018425

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