陽気な文学をといふ声がするが、では陽気とはいつたいどんなことなのだらう。誰しも陰気よりは陽気の方が凡そ好きなのに相違はないのに、﹁陽気な文学を﹂といふのが一つの文学上の提案となるためには少しくましな何事かであらねばならぬ。 ところでさういふ声をよく聴き分けてみると、何事でもない場合が大部分である。 今仮りに某が、興味を以て是々の文学書を読んだり、是々の作品を物したりして暮してゐるとして、其処へもつてきて﹁陽気な文学を﹂、なんて声がして来たらどんなものだらう。ともかく一応は﹁へえ?﹂と思ふに相違あるまい。扨その声をよく聴いてみる。と、何も文学の事を云ひはしないで、たゞ﹁陽気に﹂と云つてゐる。 と、さうなれば問題は簡単だ。文学といふ対象を持たない男が、なんとなく何事も陽気であらせたいと思つたので、そして偶々彼が文壇にてづるを持つてゐたので、﹃﹁文学を﹂陽気に﹄と云つたまでなのだ。もつと悪い場合を想像すれば、文学の雑文を書かうとして、何の文学に関するネタもない所から、どうも鬱々として、その揚句、﹁一体全体文学が陰気だぞ!﹂とばかり、昂奮してみせただけなのだ。 それなのに、かうした雑パクな云分といふものは、えてして散漫な現代の如き空気の中では一見よく響いたりするのだ。響くといふこともないけれども、何かしら本当に仕事してゐるものを却て一時的とはいへ吃驚させたりするのだ。何か、そんな男は新鮮な個性、新鮮な持論でも持つてゐるかに世間も感じたりするのだ。 かくて、長いことはない、四五年の寿命だが、高等学校の文芸部の我鬼大将であつたこと以外に如何なる文学的経歴をも有しない男が、雑文家だの、批評家だの、評論家だのといふ肩書の下に、世間といふ舞台をのし歩くのである。 文学に、親しんでゐるといふ、まことに文学者にとつて当然のことさへ出来てゐるならば、決して起らない筈の問題が、数々の問題の過半を占めてゐるといふやうなこともあるものであると、今更思ふ人も少くなくて欲しいことである。