十一月十五日栃木県氏家在狭間田に開かれたる聖書研究会に於て述べし講演の草稿。 聖書は来世の希望と恐怖とを背景として読まなければ了わ解からない、聖書を単に道徳の書と見て其言こと辞ばは意味を為さない、聖書は旧約と新約とに分れて神の約束の書である、而して神の約束は主として来世に係わる約束である、聖書は約束附きの奨励である、慰藉である、警告である、人はイエスの山上の垂訓を称して﹁人類の有する最高道徳﹂と云うも、然し是れとても亦また来世の約束を離れたる道徳ではない、永遠の来世を背景として見るにあらざれば垂訓の高さと深さとを明確に看取することは出来ない。 ﹁心の貧しき者は福さいわいなり﹂、是れ奨励である又教訓である、﹁天国は即ち其人の有なれば也﹂、是れ約束である、現世に於ける貧ひんは来世に於ける富とみを以て報いらるべしとのことである。 哀かなしむ者は福さいわいなり、其故如何? 将まさに現われんとする天国に於て其人は安なぐ慰さめを得べければ也とのことである。 柔和なる者は福さいわいなり、其人はキリストが再び世に臨きたり給う時に彼と共に地を嗣ぐことを得べければ也とのことである、地も亦神の有ものである、是れ今日の如くに永久に神の敵に委ゆだねらるべき者ではない、神は其子を以て人類を審さ判ばき給う時に地を不信者の手より奪とり還かえして之を己を愛する者に与え給うとの事である、絶大の慰安を伝うる言こと辞ばである。 饑うえ渇かわく如く義を慕う者は福さいわいなり、其故如何? 其人の饑渇は充分に癒さるべければ也とのことである、而して是れ現この世よに於て在るべきことでない事は明である、義を慕う者は単に自おの己れにのみ之を獲えんとするのではない、万人の斉ひとしく之に与からんことを欲するのである、義を慕う者は義の国を望むのである、而して斯かる国の斯この世よに於て無きことは言わずして明かである、義の国は義の君が再び世に臨きたり給う時に現わる、﹁我等は其の約束に因りて新しき天と新しき地を望み待まてり義その中に在り﹂とある︵彼ペテ得ロ後書三章十三節︶、而して斯かる新天地の現わるる時に、義を慕う者の饑渇は充分に癒さるべしとのことである。 矜あわ恤れみある者は福さいわいなり、其故如何? 其人は矜あわ恤れみを得べければ也、何い時つ? 神イエスキリストをもて人の隠かく微れたることを鞫さばき給わん日に於てである、其日に於て我等は人を議するが如くに議せられ、人を量るが如くに量らるるのである、其日に於て矜あわ恤れみある者は矜恤を以て審さ判ばかれ、残酷無慈悲なる者は容赦なく審判かるるのである、﹁我等に負おい債めある者を我等が免ゆるす如く我等の負おい債めを免し給え﹂、恐るべき審さば判きの日に於て矜あわ恤れみある者は矜恤を以て鞫さばかるべしとの事である。 心の清き者は福さいわいなり、何故なればと云えば其人は神を見ることを得べければなりとある、何処でかと云うに、勿論現この世よではない、﹁我等今︵現世に於て︶鏡をもて見る如く昏おぼ然ろなり、然れど彼の時︵キリストの国の顕あらわれん時︶には面かおを対あわせて相見ん、我れ今知ること全からず、然れど彼の時には我れ知らるる如く我れ知らん﹂とパウロは曰うた︵哥コリ林ン多ト前書十三の十二︶、清き人は其の時に神を見ることが出来るのである、多分万物の造つく主りぬしなる霊の神を見るのではあるまい、其の栄の光かが輝やきその質の真か像たなる人なるキリストイエスを見るのであろう、而して彼を見る者は聖ち父ちを見るのであれば、心の清き者︵彼に心を清められし者︶は天に挙げられしが如くに再また地に臨きたり給う聖子を見て聖父を拝し奉るのであろう︵行伝一章十一節︶。 和やわ平らぎを求むる者は福さいわいなり、其故如何となれば其人は神の子と称えらるべければ也、﹁神の子と称へらるる﹂とは神の子たる特権に与かる事である、﹁其の名を信ぜし者には権ちからを賜いて之を神の子と為せり﹂とある其事である︵約ヨハ翰ネ伝一章十二節︶、単に神の子たるの名称を賜わる事ではない、実質的に神の子と為る事である、即ち潔められたる霊に復活体を着せられて光の子として神の前に立つ事である、而して此事たる現世に於て行なさるる事に非ずしてキリストが再び現われ給う時に来世に於て成る事であるは言わずして明かである、平和を愛し、輿論に反して之を唱道するの報むく賞いは斯くも遠大無窮である。 義ただしき事のために責めらるる者は福さいわいなり、其故如何となれば、心の貧しき者と同じく天国は其人の有ものなれば也、現この世よに在りては義のために責められ、来つぎ世のよに在りては義のために誉めらる、単ただに普通一般の義のために責めらるるに止まらず、更に進んで天国と其義のために責めらる、即ちキリストの福音のために此世と教会とに迫せ害めらる、栄光此上なしである、我等もし彼と共に死なば彼と共に生くべし、我等もし彼と共に忍ばば彼と共に王たるべし︵提テ摩モ太テ後書二章十一、十二節︶、キリストと共に棘いばらの冕かんむりを冠かむらしめられて信者は彼と共に義の冕を戴くの特権に与かるのである。 ﹁我がために人汝等を詬のの※し﹇#﹁言+卒﹂、U+8AB6、50-5﹈り又迫せ害め偽わりて様々の悪あし言きことを言わん其時汝等は福なり、喜べ、躍り喜べ、天に於て汝等の報むく賞い多ければ也、そは汝等より前さきの予言者をも斯く迫せ害めたれば也﹂と教えられた、天国は万事に於て此世の正反対である、此世に於て崇めらるる者は彼世に於て辱はずかしめらる、此世に於て迫害らるる者は彼世に於て賞ほ誉めらる、﹁或人は嬉あざ笑けりをうけ、鞭打れ、縲なわ絏めと囹ひと圄やの苦を受け、石にて撃うたれ、鋸にてひかれ、火にて焚やかれ、刃にて殺され、棉羊と山羊の皮を衣て経あるき、窮とも乏しくして難なや苦みくるしめり、世は彼等を置くに堪えず、彼等は曠あら野のと山と地の洞と穴とに周さま流よいたり﹂とある︵希ヘブ伯ラ来イ書十一章三十六―三十八節︶、是れ初代の信者の多数の実験せし所であって、キリストを明白に証あか明しして、今日と雖も稍や々や之に類する困厄の信者の身に及ばざるを得ないのである、而かも信者は悲まないのである、信仰の先導者なるイエスは其の前に置かれたる喜よろ楽こびに因りてその恥をも厭わず十字架の苦くる難しみを忍び給うた︵同十二章二節︶、信者は希のぞ望みなくして苦しむのではない、彼も亦﹁其前に置かれたる喜よろ楽こびに因りてその恥を厭わない﹂のである、神は彼等のために善き京みや城こを備え給うたのである、而して彼等は其褒美を得んとて標めあ準てに向いて進むのである︵黙示録七章九節以下を見よ︶。 如かく斯のごとくに来世を背景として読みて主イエスの是等の言こと辞ばに深き貴き意味が露われて来るのである、主は我等が明日あるを知るが如くに明白に来世あるを知り給いしが故に、彼の口より斯かる言辞が流れ出たのである、是れ﹁我れ未だ生を知らず焉いずくんぞ死を知らん﹂と言う人の言ではない、能よく死と死後の事とを知り給いし神の子の言である、彼はアルバであり又オメガである、始はじめであり又終おわりである、今あり昔あり後ある全能者である︵黙示録一章八節︶、故に陰よ府みと死との鑰かぎ︵秘密︶を握り今ある所の事︵今世の事︶と後ある所の事︵来世の事︶とを知り給う︵同十八、十九節︶、而して斯かる全能者の眼より見て今世に於て貧しき者は却て福なる者である、柔和なる者︵蹂ふみ躪つけらるる者の意︶は却て地の所有者となる、神を見るの特権あり、清き者は此特権に与かるを得云々、言こと辞ばは至て簡短である、然れども未来永劫を透視する全能者の言辞として無上に貴くある、故に単に垂訓として読むべき者ではない、予言として玩味すべき者である。 其他山上の垂訓の全部が確実なる来世存在を背景として述べられたる主イエスの言辞である、而して此背景に照らし見て小事は決して小事ではない、其兄弟を怒る者は︵神の︶審さば判きに干あずかり、又其兄弟を愚者よと称いう者は集議︵天使の前に開かるる天の審判︶に干り、又狂しれ人ものよという者は地獄の火に干るべしとある︵馬マタ太イ伝五章二十二節︶即ち﹁我れ汝等に告げん、すべて人の言う所の虚しき言は審さば判きの日に之を訴えざるを得じ﹂とある主イエスの言の実現を見るべしとのことである︵同十二章三十六節︶、姦淫の恐るべきも亦之がためである、﹁若し汝の眼汝を罪に陥おとさば抉ぬき出いだして之を棄すてよ、そは五体の一を失うは全身を地獄に投入れらるるよりは勝ればなり﹂とある︵同五章二十九節︶、又施ほど済こしは隠れて為すべきである、右の手の為すことを左の手に知らしむべからずである、然れば隠れたるに鑒みたまう神は天使と天の万軍との前に顕あら明わに報い給うべしとのことである︵同六章四節︶、即ち﹁隠れて現われざる者なく、蔵つつみて知れず露われ出ざる者なし﹂とのことである︵路ル加カ伝八章十七節︶、今世は隠微の世である、明暗混沌の世である、之に反して来世は顕明の世である、善悪判明の世である、故に今世に隠れて来世に顕われよとの教おし訓えである。 殊に山上の垂訓最後の結論たる是れ来世に関わる一大説教である。
我を呼びて主よ主よと言う者尽ことごとく天国に入るに非ず、之に入る者は唯我天に在います父の旨に遵したがう者のみ、其日我に語りて主よ主よ我等主の名に託よりて教え主の名に託りて鬼を逐い、主の名に託りて多くの異こと能なるわざを為ししに非ずやと云う者多からん、其時我れ彼等に告げて言わん、我れ嘗かつて汝等を知らず、悪を為す者よ我を離れ去れと、是故に凡て我が此言を聴きて之を行う者は磐いわの上に家を建し智かし人こきひとに譬えられん、雨降り、大水出で、風吹きて其家を撞うちたれども倒れざりき、そは磐をその基いし礎ずえと為したれば也、之に反し凡て我がこの言を聴きて之を行わざる者は砂の上に家を建し愚おろ人かなるひとに譬えられん、雨降り大水出で、風吹きて其家に当りたれば終に倒れてその傾たお覆れ大なりき。
若しキリストが説かれし純道徳と称えらるる山上の垂訓が
彼(イエス)はヤコブの家を窮 なく支配すべく又その国終ること有 ざるべし
とある言は確かにメシヤ的即ち来世的の言である(一章三十三節)、神の言葉として是は勿論追従の言葉ではない、又比喩的に解釈せらるべきものではない、何時か事実となりて現わるべき言葉である、然るに同三章五節、六節に於てルカは預言者イザヤの言を引いて曰うて居る、曰く
人の子己の栄光をもて諸 の聖使 を率い来る時、彼れ其栄光の位に坐し、万国の民をその前に集め、羊を牧 う者の綿羊と山羊とを別つが如く彼等を別ち云々、
と馬太伝二十五章にあることが路加伝の此所にも簡短に記されてあるのである、未来の大審判を背景として読みて此一節も亦深き意味を我等の心に持来すのである。其他「人情的福音書」、「婦人の為にせる福音書」と称えらるる路加伝が来世と其
路加伝に依る山上の垂訓。六章二十節以下二十六節まで、馬太伝のそれよりも更らに簡潔にして一層来世的である。
隠れたるものにして顕われざるは無しとの強き教訓。十二章二節より五節まで、明白に来世的である。
キリストの再臨に関する警告二つ。同十二章三十五節以下四十八節まで。序ついでに﹁小き群よ懼おそるる勿なかれ﹂との慰安に富める三十二節、三十三節に注意せよ。
人は悔改めずば皆な尽く亡ぶべしとの警告。十三章一節より五節まで。
救わるる者は少なき乎との質問に答えて。同十三章二十二節より三十節まで。
天国への招待。十四章十五節―二十四節。
天国実現の状況。十七章二十節―三十七節。
財貨委託の比喩。十九章十一節―二十七節。
復活者の状態。二十章三十四節―三十八節。
エルサレムと世界の最後。終末に関する大説教である、二十一章七節より三十六節まで。
勿論以上を以て尽きない、全福音書を通じて直接間接に来世を語る言葉は到る所に看出さる、而して是は単に非猶太的なる路加伝に就て言うたに過ぎない、新約聖書全体が同じ思想を以て充みち溢あふれて居る、即ち知る聖書は来世の実現を背景として読むべき書なることを、来世抜きの聖書は味なき意義なき書となるのである、﹁我等主の懼るべきを知るが故に人に勧む﹂とパウロは言うて居る︵哥林多後五の十一︶、﹁懼おそるべき﹂とは此場合に於ては確かに終おわ末りの審判の懼るべきを指して言うたのである︵十節を見よ︶、慕うべくして又懼るべき来世を前に控えて聖書殊に新約聖書は書かれたのである、故に読む者も亦同じ希望と恐怖とを以て読まなければならない、然らざれば聖書は其意味を読者に通じないのである。
然るに今い時まの聖書研究は如何? 今時の聖書研究は大抵は来世抜きの研究である、所いわ謂ゆる現代人が嫌う者にして来世問題の如きはない、殊に来世に於ける神の裁判と聞ては彼等が忌み嫌って止まざる所である、故に彼等は聖書を解釈するに方て成るべく之れを倫理的に解釈せんとする、来世に関する聖書の記事は之れを心スピ霊リチ化ュアライズせんとする、﹁心の貧しき者は福さいわいなり、天国は即ち其人の有ものなれば也﹂とあれば、天国とは人の心の福なる状態であると云う、人類の審判に関わるイエスの大説教︵馬太伝二十四章・馬マル可コ伝十三章・路加伝二十一章︶は是猶太思想の遺物なりと称して、之を以てイエスの熱心を賞揚すると同時に彼の思想の未だ猶太思想の旧套を脱卻する能わざりしを憐む、彼等は神の愛を説く、其怒を言わない、﹁それ神の震いか怒りは不義をもて真理を抑うる人々に向って天より顕わる﹂とのパウロの言の如きは彼等の受う納けざる所である︵羅馬書一章十八節︶、斯して彼等は―是等の現代人等は―浅く民の傷を癒して平やす康きなき所に平やす康しや平す康しと言うのである、彼等は自ら神の寵児なりと信じ、来世の裁判の如きは決して彼等に臨まざることと信ずるのである、然し乍ら基クリ督スチ者ャンとは素々是等現代人の如き者ではなかった、彼等は神の愛を知る前に多く神を懼れたる者である、﹁活ける神の手に陥るは恐るべき事なり﹂とは彼等共通の信念であった、彼等がイエスを救主として仰いだのは此世の救主、即ち社会の改良者、家庭の清洗者、思想の高上者として仰いだのではない。殊に来らんとする神の震いか怒りの日に於ける彼等の仲保者又救出者として仰いだのである、﹁千世経し磐よ我を匿せよ﹂との信者の叫さけびは殊に審さば判きの日に於て発せらるべきものである、而して此観念が強くありしが故に彼等の説教に力があったのである。方つか伯さペリクス其妻デルシラと共に一日パウロを召してキリストを信ずるの道を聴く、時に
パウロ公義と※[#「てへん+墫のつくり」、U+6499、58-11]節と[#「※[#「てへん+墫のつくり」、U+6499、58-11]節と」は底本では「樽節と」]来らんとする審判とを論ぜしかばペリクス懼れて答えけるは汝姑 く退け、我れ便時 を得ば再び汝を召さん、
とある︵行伝二十四章二十四節以下︶、而して今い時まの説教師、其新神学者高等批評家、其政治的監督牧師伝道師等に無き者は方伯等を懼れしむるに足るの来らんとする審判に就ての説教である、彼等は忠君を説く、愛国を説く、社交を説く、慈善を説く、廓清を説く、人類の進歩を説く、世界の平和を説く、然れども来らんとする審判を説かない、彼等は聖書聖書と云うと雖も聖書を説くに非ずして、聖書を使うて自己の主張を説くのである、願くば余も亦彼等の一人として存のこることなく、神の道を混みださず真理を顕わし明かに聖書の示す所を説かんことを、即ち余の説く所の明に来世的ならんことを、主の懼るべきを知り、活ける神の手に陥るの懼るべきを知り、迷信を以て嘲けらるるに拘わらず、今日と云う今日、大胆に、明白に、主の和らぎの福音を説かんことを︵哥林多後書五章十八節以下︶。