これは、いま、大日本帝国の自存自衛のため、内地から遠く離れて、お働きになっている人たちに対して、お留る守すの事は全く御安心下さい、という朗報にもなりはせぬかと思って、愚かな作者が、どもりながら物語るささやかな一挿話である。大おお隅すみ忠太郎君は、私と大学が同期で、けれども私のように不名誉な落第などはせずに、さっさと卒業して、東京の或る雑誌社に勤めた。人間には、いろいろの癖くせがある。大隅君には、学生時代から少し威張りたがる癖があった。けれども、それは決して大隅君の本心からのものではなかった。ほんの外観に於ける習癖に過ぎない。気の弱い、情に溺おぼれ易やすい、好紳士に限って、とかく、太くたくましいステッキを振りまわして歩きたがるのと同断である。大隅君は、野蛮な人ではない。厳父は朝鮮の、某大学の教授である。ハイカラな家庭のようである。大隅君は独ひとり息むす子こであるから、ずいぶん可愛がられて、十年ほど前にお母さんが死んで、それからは厳父は、何事も大隅君の気のままにさせていた様子で、謂いわば、おっとりと育てられて来た人であって、大学時代にも、天ビロ鵞ー絨ドの襟えりの外がい套とうなどを着て、その物腰も決して粗野ではなかったが、どうも、学生間の評判は悪かった。妙に博識ぶって、威張るというのである。けれども、私から見れば、そんな陰口は、必ずしも当を得ているとは思えなかった。大隅君は、不勉強な私たちに較くらべて、事実、大いに博識だったのである。博識の人が、おのれの知識を機会ある毎に、のこりなく開かい陳ちんするというのは、極めて自然の事で、少しも怪あやしむに及ばぬ筈はずであるが、世の中は、おかしなもので、自己の知っている事の十分の一以上を発表すると、その発表者を物知りぶるといって非難する。ぶるのではない。事実、知っているから、発表するのだ。それも大いに遠慮しながら発表しているのだ。本当は、その五倍も六倍も深く知っているのだ。けれども人は、その十分の一以上の発表に対しては、必ず顔をしかめる。大隅君だって遠慮しているのだ。私たち不勉強の学生たちを気の毒に思い、彼の知識の全部を公開する事は慎しみ、わずかに十分の三、あるいは四、五、六くらいのところまで開陳して、あとの大部分の知識は胸中深く蔵して在るつもりでいたのだろうけれども、それでも、どうも、周囲の学生たちは閉口した。いきおい、大隅君は孤独であった。大学を卒業して雑誌社に勤務するようになってからも同じ事で、大隅君は皆に敬遠せられ、意地の悪い二、三の同僚は、大隅君の博識を全く無視して、ほとんど筋肉労働に類した仕事などを押しつける始末なので、大隅君は憤然、職を辞した。大隅君は昔から、決して悪い人ではなかった。ただ頗すこぶる見識の高い人であった。人の無礼な嘲笑に対して、堪忍出来なかった。いつでも人に、無条件で敬服せられていなければすまないようであった。けれどもこの世の中の人たちは、そんなに容易に敬服などするものでない。大隅君は転々と職を変えた。
ああ、もう東京はいやだ、殺風景すぎる、僕は北ペキ京ンに行きたい、世界で一ばん古い都だ、あの都こそ、僕の性格に適しているのだ、なぜといえば、――と、れいの該がい博はくの知識の十分の七くらいを縷る々ると私に陳述して、そうして間もなく飄ひょ然うぜんと渡支した。その頃、内地に於いて、彼と交際を続けていた者は、私と、それから二、三の学友だけで、いずれも大隅君から、彼の理解者として選ばれたこの世で最も気の弱い男たちであった。私はその時も、彼の渡支に就ついての論説に一も二もなく賛成した。けれども心配そうに、口ごもりながら、﹁行ってもすぐ帰って来るのでは意味がない、それから、どんな事があっても阿あへ片んだけは吸わないように。﹂という下へ手たな忠告を試みた。彼は、ふんと笑って、いや有難う、と言った。大隅君が渡支して五年目、すなわち今年の四月中旬、突然、彼から次のような電報が来た。
○まるオクツタ﹂ユイノウタノム﹂ケツコンシキノシタクセヨ﹂アスペキンタツ﹂オオスミチユウタロウ
同時に電報為かわ替せで百円送られて来たのである。
彼が渡支してから、もう五年。けれども、その五年のあいだに、彼と私とは、しばしば音信を交していた。彼の音信に依よれば、古都北京は、まさしく彼の性格にぴったり合った様子で、すぐさま北京の或る大会社に勤め、彼の全能力をあますところなく発揮して東亜永遠の平和確立のため活躍しているという事で、私は彼のそのような誇らしげの音信に接する度たび毎ごとに、いよいよ彼に対する尊敬の念をあらたにせざるを得なかったわけであったが、私には故郷の老母のような愚かな親心みたいなものもあって、彼の大抱負を聞いて喜ぶと共に、また一面に於いては、ハラハラして、とにかくまあ、三日坊主ではなく、飽あかずに気長にやって下さい、からだには充分に気をつけて、阿片などは絶対に試みないように、というひどく興きょ醒うざめの現実的の心配ばかり彼に言ってやるので、彼も面白くなくなったか、私への便りも次第に少くなって来た。昨年の春であったか、私は山田勇吉君の訪問を受けた。
山田勇吉君という人は、そのころ丸の内の或ある保険会社に勤めていたようである。やはり私たちと大学が同期であって、誰よりも気が弱く、私たちはいつもこの人の煙草ばかりを吸っていた。そうしてこの人は、大隅君の博識に無条件に心しん服ぷくし、何かと大隅君の身のまわりの世話を焼いていた。大隅君の厳父には、私は未だお目にかかった事は無いが、美事な薬やか鑵んあ頭たまでいらっしゃるそうで、独り息子の忠太郎君もまた素直に厳父の先例に従い、大学を出た頃から、そろそろ前額部が禿はげはじめた。男子が年と共に前額部の禿げ上るのは当り前の事で、少しも異とするに及ばぬけれど、大隅君のは、他の学友に較べて目立って進しん捗ちょくが早かった。そうしてそれが、やがて大隅君のあの鬱然たる風格の要因にさえなった様子であったが、思いやりの深い山田勇吉君は、或る時、見かねて、松葉を束たばにしてそれでもって禿げた部分をつついて刺しげ戟きすると毛髪が再生して来るそうです、と真顔で進言して、かえって大隅君にぎょろりと睨にらまれた事があった。
﹁大隅さんのお嫁さんが見つかりました。﹂と山田君は久しぶりに私の寓ぐう居きょを訪れて、頗すこぶる緊張しておっしゃるのである。
﹁大丈夫ですか。大隅君は、あれで、なかなかむずかしいのですよ。﹂大隅君は大学の美学科を卒業したのである。美人に対しても鑑賞眼がきびしいのである。
﹁写真を、北京へ送ってやったのです。すると、大隅さんから、是非、という御返事がまいりました。﹂山田君は、内ポケットをさぐって、その大隅君からの返事を取出し、﹁いや、これはお見せ出来ません。大隅さんに悪いような気がします。少し感傷的な、あまい事なども書かれてありますから。まあ、御推察を願います。﹂
﹁それは、よかった。まとめてやったら、どうですか。﹂
﹁僕ひとりでは駄目です。あなたにも御助力ねがいたい。きょうこれから先方へ、申込みに行こうと思っているのですが、あなたのところに大隅さんの最近の写真がありませんか。先方に見せなければいけません。﹂
﹁最近は、大隅君からあまり便りがないのですが、三年ほど前に北京から送って寄こした写真なら、一、二枚あったと思います。﹂
はるかに紫しき禁んじ城ょうを眺めている横顔の写真。碧へき雲うん寺じを背景にして支那服を着て立っている写真。私はその二枚を山田君に手渡した。
﹁これはいい。髪の毛も、濃くなったようですね。﹂山田君は、何よりも先に、その箇所に目をそそいで言った。
﹁でも、光線の加減で、そんなに濃く写ったのかも知れませんよ。﹂私には、自信が無かった。
﹁いや、そんな事はない。このごろ、いい薬が発明されたそうですからね。イタリヤ製の、いい薬があるそうです。北京で彼は、そのイタリヤ製をひそかに用いたのかも知れない。﹂
うまく、まとまった様子であった。すべて、山田君のお骨折のおかげであろう。しかるに、昨年の秋、山田君から手紙が来て、小生は呼吸器をわるくしたので、これから一箇年、故郷に於いて静養して来るつもりだ、ついては大隅氏の縁談は貴君にたのむより他ほかは無い、先方の御住所は左記のとおりであるから、よろしく聯れん絡らくせよ、という事であった。臆病な私には、人の結婚の世話など、おそろしくてたまらなかった。けれども、大隅君には友人も少いし、いまはもう私が引受けなければ、せっかくの縁談もふいになってしまうにきまっているし、とにかく私は北京の大隅君に手紙を出した。
拝啓。山田君は病気で故郷へ帰った。貴兄の縁談は小生が引継がなければならなくなった。しかるに小生は、君もご存じのとおり、人の世話など出来るがらの男ではない。素すか寒んぴ貧んのその日暮しだ。役に立ちやしないんだ。けれども、小生と雖いえども、貴兄の幸福な結婚を望んでいる事に於いては人後に落ちないつもりだ。なんでも言いつけてくれ給え。小生は不精だから、人の事に就いて自動的には働かないが、言いつけられた限りの事は、やってもよい。末筆ながら、おからだを大事にして、阿片などには見向きもせぬように、とまたしても要いらざる忠告を一言つけ加えた。私のその時の手紙が、大隅君の気にいらなかったのかも知れない。返事が無かった。少からず気になっていたが、私は人の身の上に就いて自動的に世話を焼くのは、どうも億おっ劫くうで出来ないたちなので、そのままにして置いた。ところへ、突然、れいの電報と電報為替である。命令を受けたのである。こんどは私も働かなければならなかった。私は、かねて山田君から教えられていた先方のお家へ、速達の葉書を発した。ただいま友人、大隅忠太郎君から、結ゆい納のうならびに華かし燭ょくの典の次第に就き電報を以もって至急の依頼を受けましたが、ただちに貴門を訪れ御相談申上げたく、ついては御都合よろしき日時、ならびに貴門に至る道筋の略図などをお示し下さらば幸こう甚じんに存じます、と私も異様に緊張して書き送ってやったのである。先方の宛あて名なは、小坂吉之助氏というのであった。翌あくる日、眼光鋭く、気品の高い老紳士が私の陋ろう屋おくを訪れた。
﹁小坂です。﹂
﹁これは。﹂と私は大いに驚き、﹁僕のほうからお伺うかがいしなければならなかったのに。いや。どうも。これは。さあ。まあ。どうぞ。﹂
小坂氏は部屋へあがって、汚い畳にぴたりと両手をつき、にこりともせず、厳粛な挨拶をした。
﹁大隅君から、こんな電報がまいりましてね、﹂私は、いまは、もう、なんでもぶちまけて相談するより他は無いと思った。﹁○まるオクッタとありますが、この○まるというのは、百円の事です。これを結納金として、あなたのほうへ、差上げよという意味らしいのですが、何せどうも突然の事で、何が何やら。﹂
﹁ごもっともでございます。山田さんが郷里へお帰りになりましたので、私共も心細く存じておりましたところ、昨年の暮に、大隅さんから直接、私どものほうへお便りがございまして、いろいろ都合もあるから、式は来年の四月まで待ってもらいたいという事で、私共もそれを信じて今まで待っておりましたようなわけでございます。﹂信じて、という言葉が、へんに強く私の耳に響いた。
﹁そうですか。それはさぞ、御心配だったでしょう。でも、大隅君だって、決して無責任な男じゃございませんから。﹂
﹁はい。存じております。山田さんもそれは保証していらっしゃいました。﹂
﹁僕だって保証いたします。﹂
その、あてにならない保証人は、その翌々日、結納の品々を白木の台に載せて、小坂氏の家へ、おとどけしなければならなくなったのである。
正午に、おいで下さるように、という小坂氏のお言葉であった。大隅君には、他に友人も無いようだ。私が結納を、おとどけしなければなるまい。その前日、新宿の百貨店へ行って結納のおきまりの品々一式を買い求め、帰りに本屋へ立寄って礼法全書を覗のぞいて、結納の礼式、口上などを調べて、さて、当日は袴はかまをはき、紋もん附つき羽はお織りと白足た袋びは風呂敷に包んで持って家を出た。小坂家の玄関に於いて颯さっと羽織を着換え、紺こん足袋をすらりと脱ぎ捨て白足袋をきちんと履はいて水みず際ぎわ立だったお使者振りを示そうという魂こん胆たんであったが、これは完全に失敗した。省線は五反田で降りて、それから小坂氏の書いて下さった略図をたよりに、十丁ほど歩いて、ようやく小坂氏の標札を見つけた。想像していたより三倍以上も大きい邸宅であった。かなり暑い日だった。私は汗を拭い、ちょっと威容を正して門をくぐり、猛犬はいないかと四方八方に気をくばりながら玄関の呼鈴を押した。女中さんがあらわれて、どうぞ、と言う。私は玄関にはいる。見ると、玄関の式台には紋服を着た小坂吉之助氏が、扇せん子すを膝ひざに立てて厳然と正座していた。
﹁いや。ちょっと。﹂私はわけのわからぬ言葉を発して、携帯の風呂敷包を下げた駄ば箱この上に置き、素早くほどいて紋附羽織を取出し、着て来た黒い羽織と着換えたところまでは、まずまず大たい過かなかったのであるが、それからが、いけなかった。立ったまま、紺足袋を脱いで、白足袋にはき換えようとしたのだが、足が汗ばんでいるので、するりとはいらぬ。うむ、とりきんで足袋を引っぱったら、私はからだの重心を失い、醜くよろめいた。
﹁あ。これは。﹂と私はやはり意味のわからぬ事を言い、卑屈に笑って、式台の端に腰をおろし、大あぐらの形になって、撫なでたり引っぱったり、さまざまに白足袋をなだめさすり、少しずつ少しずつ足にかぶせて、額ひたいににじみ出る汗をハンケチで拭いてはまたも無言で足袋にとりかかり、周囲が真暗な気持で、いまはもうやけくそになり、いっそ素足で式台に上りこみ、大声上げて笑おうかとさえ思った。けれども、私の傍には厳然と、いささかも威儀を崩さず小坂氏が控ひかえているのだ。五分、十分、私は足袋と悪戦苦闘を続けた。やっと両方履はき了おえた。
﹁さあ、どうぞ。﹂小坂氏は何事も無かったような落ちついた御態度で私を奥の座敷に案内した。小坂氏の夫人は既に御他界の様子で、何もかも小坂氏おひとりで処置なさっているらしかった。
私は足袋のために、もうへとへとであった。それでも、持参の結納の品々を白木の台に載せて差し出し、
﹁このたびは、まことに、――﹂と礼法全書で習いおぼえた口上を述べ、﹁幾久しゅうお願い申上げます。﹂と、どうやら無事に言い納めた時に、三十歳を少し越えたくらいの美しい人があらわれ、しとやかに一礼して、
﹁はじめてお目にかかります。正子の姉でございます。﹂
﹁は、幾久しゅうお願い申上げます。﹂と私は少しまごついてお辞儀した。つづいて、またひとり、三十ちょっと前くらいの美しい人があらわれ、これもやはり、姉でございます、という御挨拶をなさるのである。四方八方に、幾久しゅう、幾久しゅうとばかり言うのも、まがぬけているような気がして、こんどは、
﹁末永くお願い申します。﹂と言った。とたんに今度は、いよいよ令嬢の出現だ。緑いろの着物を着て、はにかんで挨拶した。私は、その時はじめて、その正子さんにお目にかかったわけである。ひどく若い。そうして美人だ。私は友人の幸福を思って微笑した。
﹁や、おめでとう。﹂いまに親友の細君になるひとだ。私は少し親しげな、ぞんざいな言葉を遣つかって、﹁よろしく願います。﹂
姉さんたちは、いろいろと御ごち馳そ走うを運んで来る。上の姉さんには、五つくらいの男の子がまつわり附いている。下の姉さんには、三つくらいの女の子が、よちよち附いて歩いている。
﹁さ、ひとつ。﹂小坂氏は私にビイルをついでくれた。﹁あいにくどうも、お相手を申上げる者がいないので。――私も若い時には、大酒を飲んだものですが、いまはもう、さっぱり駄目になりました。﹂笑って、そうして、美事に禿げて光っているおつむを、つるりと撫でた。
﹁失礼ですが、おいくつで?﹂
﹁九でございます。﹂
﹁五十?﹂
﹁いいえ、六十九で。﹂
﹁それは、お達者です。先日はじめてお目にかかった時から、そう思っていたのですが、御士族でいらっしゃるのではございませんか?﹂
﹁おそれいります。会津の藩士でございます。﹂
﹁剣術なども、お幼ちいい頃から?﹂
﹁いいえ、﹂上の姉さんは静かに笑って、私にビイルをすすめ、﹁父にはなんにも出来やしません。おじいさまは槍やりの、――﹂と言いかけて、自慢話になるのを避けるみたいに口ごもった。
﹁槍。﹂私は緊張した。私は人の富や名声に対しては嘗かつて畏敬の念を抱いた事は無いが、どういうわけか武術の達人に対してだけは、非常に緊張するのである。自分が人一倍、非力の懦だじ弱ゃく者ものであるせいかも知れない。私は小坂氏一族に対して、ひそかに尊敬をあらたにしたのである。油断はならぬ。調子に乗って馬鹿な事を言って、無礼者! などと呶ど鳴なられてもつまらない。なにせ相手は槍の名人の子孫である。私は、めっきり口数を少くした。
﹁さ、どうぞ。おいしいものは、何もございませんが、どうぞ、お箸はしをおつけになって下さい。﹂小坂氏は、しきりにすすめる。﹁それ、お酌しゃくをせんかい。しっかり、ひとつ召し上って下さい。さ、どうぞ、しっかり。﹂しっかり飲め、と言うのである。男らしく、しっかりした態度で飲め、という叱しっ咤たの意味にも聞える。会津の国の方言なのかも知れないが、どうも私には気味わるく思われた。私は、しっかり飲んだ。どうも話題が無い。槍の名人の子孫に対して私は極度に用心し、かじかんでしまったのである。
﹁あのお写真は、﹂部屋の長なげ押しに、四十歳くらいの背広を着た紳士の写真がかけられていたのである。﹁どなたです。﹂まずい質問だったかな? と内心ひやひやしていた。
﹁あら、﹂上の姉さんは、顔をあからめた。﹁きょうは、はずして置けばよかったのに。こんなおめでたい席に。﹂
﹁まあ、いい。﹂小坂氏は、ふり向いてその写真をちらと見て、﹁長女の婿むこでございます。﹂
﹁おなくなりに?﹂きっとそうだと思いながらも、そうあらわに質問して、これはいかんと狼ろう狽ばいした。
﹁ええ、でも、﹂上の姉さんは伏目になって、﹁決してお気になさらないで下さい。﹂言いかたが少し変であった。﹁そりゃもう、皆さまが、もったいないほど、――﹂口ごもった。
﹁兄さんがいらっしゃったら、きょうは、どんなにお喜びだったでしょうね。﹂下の姉さんが、上の姉さんの背後から美しい笑顔をのぞかせて言った。﹁あいにく、私のところも、出張中で。﹂
﹁御出張?﹂私は全くぼんやりしていた。
﹁ええ、もう、長いんですの。私の事も子供の事も、ちっとも心配していない様子で、ただ、お庭の植木の事ばっかり言って寄こします。﹂上の姉さんと一緒に、笑った。
﹁あれは、庭木が好きだから。﹂小坂氏は苦笑して、﹁どうぞ、ビイルを、しっかり。﹂
私はただ、ビイルをしっかり飲むばかりである。なんという迂うか濶つな男だ。戦死と出征であったのに。
その日、小坂氏と相談して結婚の日取をきめた。暦を調べて仏滅だの大安だのと騒ぐ必要は無かった。四月二十九日。これ以上の佳日は無い筈である。場所は、小坂氏のお宅の近くの或る支那料理屋。その料理屋には、神前挙式場も設備せられてある由で、とにかく、そのほうの交渉はいっさい小坂氏にお任せする事にした。また媒ばい妁しゃ人くにんは、大学で私たちに東洋美術史を教え、大隅君の就職の世話などもして下さった瀬川先生がよろしくはないか、という私の口ごもりながらの提案を、小坂氏一族は、気軽に受けいれてくれた。
﹁瀬川さんだったら、大隅君にも不服は無い筈です。けれども瀬川さんは、なかなか気むずかしいお方ですから、引受けて下さるかどうか、とにかく、きょうこれから私が先生のお宅へお伺うかがいして、懇願してみましょう。﹂
大きい失敗の無いうちに引上げるのが賢明である。思慮分別の深い結納のお使者は、ひどく酔いました、これは、ひどく酔いました、と言いながら、紋附羽織と白足袋をまた風呂敷に包んで持って、どうやら無事に、会津藩士の邸宅から脱れ出ることが出来たのである。けれども、私の役目は、まだすまぬ。
私は五反田駅前の公衆電話で、瀬川さんの御都合を伺った。先生は、昨年の春、同じ学部の若い教授と意見の衝突があって、忍ぶべからざる侮辱を受けたとかの理由を以もって大学の講壇から去り、いまは牛うし込ごめの御自宅で、それこそ晴耕雨読とでもいうべき悠ゆう々ゆう自じて適きの生活をなさっているのだ。私は頗すこぶる不勉強な大学生ではあったが、けれどもこの瀬川先生の飾らぬ御人格にはひそかに深く敬服していたところがあったので、この先生の講義にだけは努めて出席するようにしていたし、研究室にも二、三度顔を出して突飛な愚問を呈出して、先生をめんくらわせた事もあって、その後、私の小さい著作集をお送りして、鈍骨もなお自重すべし、石に矢の立つ例も有これ之あり候そう云ろう々うんぬん、という激励のお言葉を賜り、先生はどんなに私を頭の悪い駄目な男と思っているのか、その短いお便りに依よって更にはっきりわかったような気がして、有難く思うと共に、また深刻に苦笑したものであった。けれども、私は先生からそのように駄目な男と思われて、かえって気が楽なのである。瀬川先生ほどの人物に、見込みのある男と思われては、かえって大いに窮屈でかなわないのではあるまいか。私は、どうせ、駄目な男と思われているのだから、先生に対して少しも気取る必要は無い。かえって私は、勝手気ままに振舞えるのである。その日、私は久しぶりで先生のお宅へお伺いして、大隅君の縁談を報告し、ついては一つ先生に媒妁の労をとっていただきたいという事を頗る無遠慮な口調でお願いした。先生は、そっぽを向いて、暫しばらく黙って考えて居られたが、やがて、しぶしぶ首しゅ肯こうせられた。私は、ほっとした。もう大丈夫。
﹁ありがとうございます。何せ、お嫁さんのおじいさんは、槍の名人だそうですからね、大隅君だって油断は出来ません。そこのところを先生から大隅君に、よく注意してやったほうがいいと思います。あいつは、どうも、のんき過ぎますから。﹂
﹁それは心配ないだろう。武家の娘は、かえって男を敬うやまうものだ。﹂先生は、真面目である。﹁それよりも、どうだろう。大隅の頭はだいぶ禿げ上っていたようだが。﹂やっぱり、その事が先生にとっても、まず第一に気がかりになる様子であった。まことに、海よりも深きは師の恩である。私は、ほろりとした。
﹁たぶん、大丈夫だろうと思います。北京から送られて来た写真を見ましたが、あれ以上進捗していないようです。なんでも、いまは、イタリヤ製のいい薬があるそうですし、それに先方の小坂吉之助氏だって、ずいぶん見事な、――﹂
﹁それは、としとってから禿げるのは当りまえの事だが。﹂先生は、浮かぬ顔をしてそう言った。先生も、ずいぶん見事に禿げておられた。
数日後、大隅忠太郎君は折おり鞄かばん一つかかえて、三鷹の私の陋ろう屋おくの玄関に、のっそりと現われた。お嫁さんを迎えに、はるばる北京からやって来たのだ。日焼けした精せい悍かんな顔になっていた。生活の苦労にもまれて来た顔である。それは仕方の無い事だ。誰だって、いつまでも上品な坊ちゃんではおられない。頭髪は、以前より少し濃くなったくらいであった。瀬川先生もこれで全く御安心なさるだろう、と私は思った。
﹁おめでとう。﹂と私が笑いながら言ったら、
﹁やあ、このたびは御苦労。﹂と北京の新郎は大きく出た。
﹁どてらに着換えたら?﹂
﹁うむ、拝借しよう。﹂新郎はネクタイをほどきながら、﹁ついでに君、新しいパンツが無いか。﹂いつのまにやら豪放な風格をさえ習得していた。ちっとも悪びれずに言うその態度は、かえって男らしく、たのもしく見えた。
私たちはやがて、そろって銭湯に出かけた。よいお天気だった。大隅君は青空を見上げて、
﹁しかし、東京は、のんきだな。﹂
﹁そうかね。﹂
﹁のんきだ。北京は、こんなもんじゃないぜ。﹂私は東京の人全部を代表して叱しかられている形だった。けれども、旅行者にとってはのんきそうに見えながらも、帝都の人たちはすべて懸命の努力で生きているのだという事を、この北京の客に説明してやろうかしらと、ふと思った。
﹁緊張の足りないところもあるだろうねえ。﹂私は思っている事と反対の事を言ってしまった。私は議論を好まないたちの男である。
﹁ある。﹂大隅君は昂然と言った。
銭湯から帰って、早めの夕食をたべた。お酒も出た。
﹁酒だってあるし、﹂大隅君は、酒を飲みながら、叱るような口調で私に言うのである。﹁お料理だって、こんなにたくさん出来るじゃないか。君たちはめぐまれ過ぎているんだ。﹂
大隅君が北京から、やって来るというので、家の者が、四、五日前から、野菜やさかなを少しずつ買い集め貯蔵して置いたのだ。交番へ行って応急米の手続きもして置いたのだ。お酒は、その朝、世田谷の姉のところへ行って配給の酒をゆずってもらって来たのだ。けれども、そんな実情を打明けたら、客は居心地の悪い思いをする。大隅君は、結婚式の日まで一週間、私の家に滞在する事になっているのだ。私は、大隅君に叱られても黙って笑っていた。大隅君は五年振りで東京へ来て、謂いわば興奮をしているのだろう。このたびの結婚の事に就ついては少しも言わず、ひたすら世界の大勢に就き演説のような口調で、さまざま私を教え諭さとすのであった。ああ、けれども人は、その知識の十分の一以上を開陳するものではない。東京に住む俗な友人は、北京の人の諤がく々がくたる時事解説を神妙らしく拝聴しながら、少しく閉口していたのも事実であった。私は新聞に発表せられている事をそのとおりに信じ、それ以上の事は知ろうとも思わない極めて平凡な国民なのである。けれども、また大隅君にとっては、この五年振りで逢った東京の友人が、相変らず迂う愚ぐな、のほほん顔をしているのを見て、いたたままらぬ技ぎよ癢うでも感ずるのであろうか、さかんに私たちの生活態度をののしるのだ。
﹁疲れたろう。寝ないか。﹂私は大隅君の土みや産げば話なしのちょっと、とぎれた時にそう言った。
﹁ああ、寝よう。夕刊を枕ちん頭とうに置いてくれ。﹂
翌あくる朝、私は九時頃に起きた。たいてい私は八時前に起床するのだが、大隅君のお相手をして少し朝寝坊したのだ。大隅君は、なかなか起きない。十時頃、私は私の蒲ふと団んだけさきに畳たたむ事にした。大隅君は、私のどたばた働く姿を寝ながら横目で見て、
﹁君は、めっきり尻の軽い男になったな。﹂と言って、また蒲団を頭からかぶった。
その日は、私が大隅君を小坂氏のお宅へ案内する事になっていた。大隅君と小坂氏の令嬢とは、まだいちども逢あっていないのである。互いの家系と写真と、それから中に立った山田勇吉君の証言だけにたよって、取りきめられた縁である。何せ北京と、東京である。大隅君だって、いそがしいからだである。見合いだけのために、ちょっと東京へやって来るというわけにも行かなかったようである。きょうはじめて、相逢うのだ。人生の、最も大事な日といっていいかも知れない。けれども大隅君は、どういうものか泰たい然ぜんたるものであった。十一時頃、やっとお目ざめになり、新聞ないかあと言い、寝床に腹はら這ばいになりながら、ひとしきり朝刊の検閲をして、それから縁側に出て支那の煙草をくゆらす。
﹁鬚ひげを、剃そらないか。﹂私は朝から何かと気をもんでいたのだ。
﹁そんな必要も無いだろう。﹂奇妙に大きく出る。私のこせこせした心境を軽蔑しているようにも見える。
﹁きょうは、でも、小坂さんの家へ行くんだろう?﹂
﹁うむ、行って見ようか。﹂
行って見ようかも無いもんだ。御自分の嫁さんと逢うんじゃないか。
﹁なかなかの美人のようだぜ。﹂私は、大隅君がも少し無邪気にはしゃいでくれてもいいと思った。﹁君が見ないさきに僕が拝見するのは失礼だと思ったから、ほんのちらと瞥べっ見けんしたばかりだが、でも、桜の花のような印象を受けた。﹂
﹁君は、女には、あまいからな。﹂
私は面白くなかった。そんなに気乗りがしないのなら、なぜ、はるばる北京からやって来たのだ、と開き直って聞き糺ただしたかったが、私も意気地の無い男である。ぎりぎりのところまでは、気まずい衝突を避けるのである。
﹁立派な家庭だぜ。﹂私には、そう言うのが精一ぱいの事であった。君にはもったいないくらいだ、とは言えなかった。私は言い争いは好まない。﹁縁談などの時には、たいてい自分の地位やら財産やらをほのめかしたがるものらしいが、小坂のお父さんは、そんな事は一言もおっしゃらなかった。ただ、君を信じる、と言っていた。﹂
﹁武士だからな。﹂大隅君は軽く受うけ流ながした。﹁それだから、僕だって、わざわざ北京から出かけて来たんだ。そうでもなくっちゃあ、――﹂言うことが大きい。﹁何しろ名誉の家だからな。﹂
﹁名誉の家?﹂
﹁長女の婿は三、四年前に北支で戦死、家族はいま小坂の家に住んでいる筈だ。次女の婿は、これは小坂の養子らしいが、早くから出征していまは南方に活躍中とか聞いていたが、君は知らなかったのかい?﹂
﹁そうかあ。﹂私は恥ずかしかった。すすめられるままに、ただ阿あほ呆うのように、しっかりビイルを飲んで、そうして長なげ押しの写真を見て、無礼極まる質問を発して、そうして意気揚々と引上げて来た私の日本一の間抜けた姿を思い、頬が赤くなり、耳が赤くなり、胃い腑ふまで赤くなるような気持であった。
﹁一ばん大事のことじゃないか。どうしてそれを知らせてくれなかったんだ。僕は大恥をかいたよ。﹂
﹁どうだって、いいさ。﹂
﹁よかないよ。大事なことだ。﹂あからさまに憤怒の口調になっていた。喧けん嘩かになってもいいと思った。﹁山田君も山田君だ。そんな大事なことを一言も僕に教えてくれなかったというのは不親切だ。僕は、こんどの世話はごめんこうむる。僕はもう小坂さんの家へは顔出しできない。君がきょう行くんだったら、ひとりで行けよ。僕はもう、いやだ。﹂
ひとは、恥ずかしくて身の置きどころの無くなった思いの時には、こんな無茶な怒りかたをするものである。
私たちは、おそい朝ごはんを、気まずい思いで食べた。とにかく私は、きょうは小坂氏の家へ行かぬつもりだ。恥ずかしくて、行けたものでない。縁談がぶちこわれたってかまわぬ。勝手にしろ、という八つ当りの気持だった。
﹁君が、ひとりで行ったらいいだろう。僕には他に用事もあるんだ。﹂私は、いかにも用事ありげに、そそくさと外出した。
けれども、行くところは無い。ふと思いついた。一つ牛込の瀬川さんを訪れて、私の愚痴を聞いてもらおうかと思った。
さいわい先生は御在宅であった。私は大隅君の上京を報告して、
﹁どうも、あいつは、いけません。結婚に感激を持っていません。てんで問題にしていないんです。ただもう、やたらに天下国家ばかり論じて、そうして私を叱るのです。﹂
﹁そんな事はあるまい。﹂先生は落ちついている。﹁てれているんだろう。大隅君は、うれしい時に限って、不機嫌な顔をする男なんだ。悪い癖だが、無くて七癖というから、まあ大目に見てやるんだね。﹂まことに師の恩は山よりも高い。﹁時にどうだ、頭のほうは。﹂そればかりを気にして居られる。
﹁大丈夫です。現状維持というところです。﹂
﹁それは、大慶のいたりだ。﹂しんから、ほっとなされた御様子であった。﹁それではもう、何も恐れる事は無い。私も大威張りで媒妁できる。何せ相手のお嬢さんは、ひどく若くて綺きれ麗いだそうだから、実は心配していたのだ。﹂
﹁まったく。﹂と私は意気込んで、﹁あいつには、もったいないくらいのお嫁さんです。だいいち家庭が立派だ。相当の実業家らしいのですが、財産やら地位やらを一言も広告しないばかりか、名誉の家だって事さえ素振りにあらわさず、つつましく涼しく笑って暮しているのですからね。あんな家庭は、めったにあるもんじゃない。﹂
﹁名誉の家?﹂
私は名誉の家の所ゆえ以んを語り、重ねてまた大隅君の無感動の態度を非難した。
﹁きょうはじめてお嫁さんと逢うんだというのに、十一時頃まで悠ゆう々ゆうと朝寝坊しているんですからね。ぶん殴なぐってやりたいくらいだ。﹂
﹁喧嘩をしちゃいかん。どうも、同じクラスの者は大学を出てからも、仲の良いくせにつまらないところで張合って喧嘩をしたがる傾向がある。大隅君は、てれているんだよ。大隅君だって、小坂さんの御家庭を尊敬しているさ。君以上かも知れない。だから、なおさら、てれているんだよ。大隅君は、もう、いいとしだし、頭髪もそろそろ薄くなっているし、てれくさくって、どうしていいかわからない気持なんだろう。そこを察してやらなければいけない。﹂まことに、弟で子しを知ること師に如しかずであると思った。﹁表現がまずいんだよ。どうしていいかわからなくなって、天下国家を論じて君を叱ってみたり、また十一時まで朝寝坊してみたり、さまざま工夫しているのだろうが、どうも、あれは昔から、感覚がいいくせに、表現のまずい男だった。いたわってやれよ。君ひとりをたのみにしているんだ。君は、やいているんだろう。﹂
ぎゃふんと参った。
私は帰途、新宿の酒の店、二、三軒に立寄り、夜おそく帰宅した。大隅君は、もう寝ていた。
﹁小坂さんとこへ行って来たか。﹂
﹁行って来た。﹂
﹁いい家庭だろう?﹂
﹁いい家庭だ。﹂
﹁ありがたく思え。﹂
﹁思う。﹂
﹁あんまり威張るな。あすは瀬川先生のとこへ御挨拶に行け。仰げば尊しわが師の恩、という歌を忘れるな。﹂
四月二十九日に、目黒の支那料理屋で大隅君の結婚式が行われた。その料理屋に於いて、この佳よき日一日に挙行せられた結婚式は、三百組を越えたという。大隅君には、礼服が無かった。けれども、かれは豪ごう放ほう磊らい落らくを装い、かまわんかまわんと言って背広服で料理屋に乗込んだものの、玄関でも、また廊下でも、逢うひと逢うひと、ことごとく礼服である。さすがに大隅君も心細くなった様子で、おい、この家でモオニングか何か貸してくれないものかね、と怒ったような口調で私に言った。そんなら、もっと早くから言えば何か方法もあったのに、いまさら、そんな事を言い出しても無理だとは思ったが、とにかく私は控室から料理屋の帳場に電話をかけた。そうして、やはり断られた。貸かし衣いし裳ょうの用意も無い事はないのだが、それも一週間ほど前から申込んでいただかないと困るのです、という返事であった。大隅君は、いよいよふくれた。いかにも、﹁おまえがわるいんだ。﹂と言わぬばかりの非難の目つきで私を睨にらむのである。結婚式は午後五時の予定である。もう三十分しか余裕が無い。私は万策尽きた気持で、襖ふすまをへだてた小坂家の控室に顔を出した。
﹁ちょっと手違いがありまして、大隅君のモオニングが間に合わなくなりまして。﹂私は、少し嘘うそを言った。
﹁はあ、﹂小坂吉之助氏は平気である。﹁よろしゅうございます。こちらで、なんとか致しましょう。おい、﹂と二番目の姉さんを小声で呼んで、﹁お前のところに、モオニングがあったろう。電話をかけて直ぐ持って来させるように。﹂
﹁いやよ。﹂言下に拒否した。顔を少し赤くして、くつくつ笑っている。﹁お留守のあいだは、いやよ。﹂
﹁なんだ、﹂小坂氏はちょっとまごついて、﹁何を言うのです。他人に貸すわけじゃあるまいし。﹂
﹁お父さん、﹂と上の姉さんも笑いながら、﹁そりゃ当り前よ。お父さんには、わからない。お帰りの日までは、どんなに親しい人にだって手をふれさせずに、なんでも、そっくりそのままにして置かなければ。﹂
﹁ばかな事を。﹂小坂氏は、複雑に笑った。
﹁ばかじゃないわ。﹂そう呟つぶやいて一瞬、上の姉さんは堪えがたいくらい厳粛な顔をした。すぐにまた笑い出して、﹁うちのモオニングを貸してあげましょう。少しナフタリン臭くなっているかも知れませんけど、ね、﹂と私のほうに向き直って言って、﹁うちのひとには、もう、なんにも要いらないのです。モオニングが、こんな晴れの日にお役に立ったら、うちのひとだって、よろこぶ事でございましょう。ゆるして下さるそうです。﹂爽さわやかに笑っている。
﹁は、いや。﹂私は意味不明の事を言った。
廊下を出たら、大隅君がズボンに両手を突込んで仏頂面してうろうろしていた。私は大隅君の背中をどんと叩いて、
﹁君は仕合せものだぞ。上の姉さんが君に、家宝のモオニングを貸して下さるそうだ。﹂
家宝の意味が、大隅君にも、すぐわかったようである。
﹁あ、そう。﹂とれいの鷹おう揚ようぶった態度で首うな肯ずいたが、さすがに、感かん佩ぱいしたものがあった様子であった。
﹁下の姉さんは、貸さなかったが、わかるかい? 下の姉さんも、偉いね。上の姉さんより、もっと偉いかも知れない。わかるかい?﹂
﹁わかるさ。﹂傲ごう然ぜんと言うのである。瀬川先生の説に拠ると、大隅君は感覚がすばらしくよいくせに、表現のひどくまずい男だそうだが、私もいまは全くそのお説に同感であった。
けれども、やがて、上の姉さんが諏すわ訪ほっ法しょ性うの御おん兜かぶとの如くうやうやしく家宝のモオニングを捧げ持って私たちの控室にはいって来た時には、大隅君の表現もまんざらでなかった。かれは涙を流しながら笑っていた。