一
秋の初はじめの空は一片の雲もなく晴はれて、佳いい景けし色きである。青わか年もの二人は日光の直射を松の大木の蔭によけて、山芝の上に寝転んで、一人は遠く相模灘を眺め、一人は読書している。場所は伊豆と相模の国境にある某なにがし温泉である。 渓たに流がわの音が遠く聞ゆるけれど、二人の耳には入らない。甲ひとりの心は書しょ中ちゅうに奪われ、乙ひとりは何事か深く思おも考いに沈んでいる。 暫しば時らくすると、甲ひとりは書ほ籍んを草の上に投げ出して、伸のびをして、大おお欠あくびをして、 ﹁最も早う宿へ帰ろうか。﹂ ﹁うん﹂と応こたえたぎり、乙ひとりは見向きもしない。すると甲ひとりは巻煙草を出して、 ﹁オイ君、燐寸を借せ。﹂ ﹁うん﹂と出してやる、そして自分も煙草を出して、甲ふた乙りと共も、のどかに喫す煙いだした。 ﹁君はどう思う、縁とは何ぞやと言われたら?﹂ と思おも考いに沈んでいた乙ひとりが静かに問うた。 ﹁左そ様うサね、僕は忘れて了った。……何とか言ったッけ。﹂と甲ひとりは書ほ籍んを拾い上げて、何なに気げなく答える。 乙ひとりは其それを横目で見て、 ﹁まさか水力電気論の中うちには説明してあるまいよ。﹂ ﹁無いとも限らん。﹂ ﹁あるなら、その内捜して置いてくれ給え。﹂ ﹁よろしい。﹂ 甲ふた乙りは無言で煙草を喫っている。甲ひとりは書ほ籍んを拈ひね繰くって故わ意ざと何か捜している風を見せていたが、 ﹁有ったよ。﹂ ﹁ふん。﹂ ﹁真ほん実とに有ったよ。﹂ ﹁教えてくれ給え。﹂ ﹁実はやッと思い出したのだ。円とは……何だッたけナ……円とは無限に多数なる正多角形とか何とか言ッたッけ。﹂と、真面目である。 ﹁馬鹿!﹂ ﹁何なんで?﹂ ﹁大馬鹿!﹂ ﹁君よりは少しばかり多りこ智うな積りでいたが。﹂ ﹁僕の聞いたのは其その円じゃアないんだ。縁だ。﹂ ﹁だから円だろう。﹂ ﹁イヤこれは僕が悪かった、君に向って発すべき問ではなかったかも知れない。まア静かに聞き給え、僕の問うたのは……﹂ ﹁最も活動する自然力を支配する人間は最も冷静だから安心し給え。﹂ ﹁豪えらいよ。﹂ ﹁勿論! そこで君のいう所のエンとは?﹂ ﹁帰ろうじゃアないか。帰か宿えって夕飯の時、ゆるゆる論ずる事にしよう。﹂ ﹁サア帰ろう!﹂と甲ひとりは水力電気論を懐ふと中ころに押おしこんだ。 かくて仲善き甲ふた乙りの青わか年ものは、名ばかり公園の丘を下りて温泉宿へ帰る。日は西に傾いて渓たにの東の山々は目ま映ばゆきばかり輝いている。まだ炎あ熱ついので甲ふた乙りは閉口しながら渓たに流がわに沿うた道を上う流えの方へのぼると、右側の箱根細工を売る店先に一人の男が往来を背にして腰をかけ、品物を手にして店の女主人の談は話なしているのを見た。見て行き過ぎると、甲ひとりが、 ﹁今あの店にいたのは大友君じゃアなかッたか?﹂ ﹁僕も、そんな気がした。﹂ ﹁後姿が似ていた、確かに大友だ。﹂ ﹁大友なら宿は大東館だ﹂ ﹁何故?﹂ ﹁僕が大東館を撰んだのは大友君からはなしを聞いたのだもの。﹂ ﹁それは面白い。﹂ ﹁きっと面白い。﹂ と話しながら石の門を入ると、庭樹の間から見える縁先に十四五の少おと女めが立っていて、甲ふた乙りの姿を見るや、 ﹁神崎様! 朝田様! 一寸来て御覧なさいよ。面白い物がありますから。早く来て御覧なさいよ!﹂と叫ぶ。 ﹁また蛇が蛙を呑むのじゃアありませんか。﹂と﹁水力電気論﹂を懐にして神崎乙彦が笑いながら庭樹を右に左に避よけて縁先の方へ廻る。少おと女めの室へやの隣とな室りが二人の室なのである。朝田は玄関口へ廻る。 ﹁ほら妙なものでしょう。﹂と少女の指さす方を見ても別に何も見当らない。神崎はきょろきょろしながら、 ﹁春子さん、何なん物にも無いじアありませんか。﹂ ﹁ほら其処に妙な物が。……貴あな様たお眼が悪いのねエ﹂ ﹁どれです。﹂ ﹁百さる日すべ紅りの根に丸い石があるでしょう。﹂ ﹁あれが如ど何うしたのです。﹂ ﹁妙でしょう。﹂ ﹁何故でしょう。﹂といいながら新工学士神崎は石を拾って不思議そうに眺める。朝田はこの時既に座敷から廻って縁先に来た。 ﹁オイ朝田、春子さんがこの石を妙だろうと言うが君は何と思う。﹂ ﹁頗すこぶる妙と思うねエ﹂ ﹁ね朝田様さん、妙でしょう。﹂と少おと女めはにこにこ。 ﹁そうですとも、大いに妙です。神崎工学士、君は昨ゆう夕べ酔払って春子様さんをつかまえてお得意の講義をしていたが忘れたか。﹂ ﹁ねエ朝田様! その時、神崎様が巻た煙ば草この灰を掌にのせて、この灰が貴女には妙と見えませんかと聞くから、私は何でもないというと、だから貴女は駄目だ、凡およそ宇宙の物、森羅万象、妙ならざるはなく、石も木もこの灰とても面白からざるはなし、それを左そ様う思わないのは科学の神に帰依しないのだからだ、とか何とか、難むず事かしい事をべらべら何い時つまでも言うんですもの。私、眠くなって了しまったわ、だからアーメンと言ったら、貴あな下た怒っちゃったじゃアありませんか。ねエ朝田様さん。﹂ ﹁そうですとも、だからその石は頗る妙、大いに面白しと言うんですねエ。﹂ ﹁神崎様、昨夕の敵かた打きうちよ!﹂ ﹁たしかに打たれました。けれど春子様、朝田は何時も静しず粛かで酒も何にも呑まないで、少しも理窟を申しませんからお互に幸しあ福わせですよ。﹂ ﹁否いいえ、お二人とも随分理窟ばかり言うわ。毎晩毎晩、酔っては討論会を初めますわ!﹂ 甲ふた乙りは噴ふき飯だして、申し合したように湯ゆか衣たに着かえて浴ゆど場のに逃げだして了しまった。 少おと女めは神崎の捨てた石を拾って、百さる日すべ紅りの樹に倚りかかって、西の山の端に沈む夕日を眺めながら小声で唱歌をうたっている。 又また少おと女めの室へやでは父と思おぼしき品格よき四十二三の紳士が、この宿の若主人を相手に囲碁に夢中で、石事件の騒ぎなどは一切知らないでパチパチやって御ご座ざる。そして神崎、朝田の二人が浴ゆど室のへ行くと間もなく十八九の愛嬌のある娘が囲碁の室へやに来て、 ﹁家に兄いさん、小田原の姉ねえ様さんが参りました。﹂と淑しとやかに通ずる。これを聞いて若主人は顔を上げて、やや不安の色で。 ﹁よろしい、今ゆく。﹂ ﹁急用なら中止しましょう﹂と紳士は一寸手を休める。 ﹁何なに関かまいません、急用という程の事じゃアないんです。﹂と若主人は直ぐ盤を見つめて、石を下しつつ、 ﹁今の妹の姉にお正というのがいたのを御存じでしょう。﹂ ﹁そうでした、覚えています。可愛らしい佳いい娘さんでした。﹂と紳士も打ちながら答える。 ﹁そのお正しょうがこの春国府津へ嫁かたずいたのです。﹂ ﹁それはお目出度い。﹂ ﹁ところが余りお目出度くないんでしてな。﹂ ﹁それは又?﹂ ﹁どういうものか折合が善くありませんで。﹂ ﹁それは善くない。﹂ ﹁それで今日来たのも、又何か持上ったのでしょう。﹂ ﹁それでは早く行く方が可よい。……﹂ ﹁なに、どうせ二晩三晩は宿とま泊るのですから急がないでも可いいのです。﹂と平気で盤に向っているので、紳しん士しもその気になり何いつ時しかお正しょうの問題は忘れて了っている。 浴ゆど室のでは神崎、朝田の二人が、今夜の討論会は大友が加わるので一倍、春子さんを驚かすだろうと語り合って楽しんで居る。二
箱根細工の店では大友が種々の談はな話しの末、やっとお正の事に及んで ﹁それじゃア此この二月に嫁入したのだね、随分遅い方だね。﹂ ﹁まア遅いほうでしょうね。貴あな下たは何時ごろお正しょうさんを御存知で御座います?﹂ ﹁左そ様うサ、お正さんが二十位の時だろう、四年前の事だ、だからお正しょうさんは二十四の春嫁かたずいたというものだ。﹂ ﹁全く左そ様うで御座います。﹂と女じょ主しゅ人じんは言って、急に声をひそめて、﹁処ところが可哀そうに余り面白く行かないとか大だいぶん紛ごた糾ごたがあるようで御座います。お正さんは二十四でも未まだ若い盛で御座いますが、旦那は五十幾いく歳つとかで、二度目だそうで御座いますから無理も御座いませんよ。﹂ 大友は心に頗る驚いたが別に顔色も変ず、﹁それは気の毒だ﹂と言いさま直ぐ起ち上って、﹁大きにお邪魔をした﹂とばかり、店を出た。 大友の心にはこの二三年前ぜん来らい、どうか此世に於て今一度、お正さんに会いたいものだという一念が蟠わだかまっていたのである、この女のことを思うと、悲しい、懐しい情おも感いに堪え得ないことがある。そして此この情おも想いに耽る時は人間の浅間しサから我知らず脱れ出ずるような心持になる。あたかも野辺にさすらいて秋の月のさやかに照るをしみじみと眺め入る心持と或は似通えるか。さりとて矢も楯もたまらずお正の許に飛んで行くような激越の情は起らないのであった。 ただ会いたい。この世で今一度会いたい。縁あらば、せめて一度此世で会いたい。とのみ大友は思いつづけていた。何なんぞその心根の哀しさや。会い度たくば幾いく度たびにても逢あえる、又た逢える筈の情縁あらば如こ斯んな哀しい情おも緒いは起らぬものである。別れたる、離れたる親子、兄弟、夫婦、朋友、恋人の仲あい間だの、逢いたき情おもいとは全ま然るで異ちがっている、﹁縁あらばこの世で今一度会いたい﹂との願いの深い哀しみは常に大友の心に潜んでいたのである。 或夜大友は二三の友と会食して酒のやや廻った時、斯ういう事を言ったことがある﹁僕の知っている女でお正さんというのがあるが、容きり貌ょうは十人並で、ただ愛嬌のある女というに過すぎないけれど、如何にも柔和な、どちらかと言えば今少しはハキハキしてもと思わるる程の性分で何ど処こまでも正直な、同おも情いやりの深そうな娘である。肉づきまでがふっくりして、温かそうに思われたが、若し、僕に女かか房あを世話してくれる者があるなら彼あん様なのが欲しいものだ﹂ それならば大友はお正さんに恋い焦がれていたかというと、全まっ然たく、左そ様うでない。ただ大友がその時、一寸左そ様う思っただけである。 四年前、やはり秋の初であった。大友がこの温泉場に来て大東館に宿ったのは。 避暑の客が大方帰ったので居残りの者は我儘放題、女中の手もすいたので或ある夕ゆうべ、大友は宿の娘のお正しょうを占領して飲んでいたが、初めは戯談のほれたはれた問題が、次第に本物になって、大友は遂にその時から三年前の失恋談をはじめた。女中なら﹁御馳走様﹂位でお止やめになるところが、お正は本気で聞いている、大友は無論真剣に話している。 ﹁それほどまでに二人が艱難辛苦してやッと結婚して、一緒になったかと思うと間もなく、ポカンと僕を捨てて逃げ出して了ったのです﹂ ﹁まア痛ひどいこと! それで貴あな下たはどうなさいました。﹂とお正の眼は最も早う潤んでいる。 ﹁女に捨てられる男は意気地なしだとの、今では、人の噂も理わ会かりますが、その時の僕は左さまで世にすれていなかったのです。ただ夢中です、身も世もあられぬ悲かな嘆しさを堪え忍びながら如い何かにもして前もとの通りに為したいと、恥も外聞もかまわず、出来るだけのことをしたものです。﹂ ﹁それで駄目なんですか。﹂ ﹁無論です。﹂ ﹁まア、﹂とお正しょうは眼に涙を一ぱい含ませている。 ﹁僕が夢中になるだけ、先むこ方うは益ます々ます冷て了しまう。終しまいには僕を見るもイヤだという風になったのです。﹂そして大友は種々と詳こま細かい談はな話しをして、自分がどれほどその女から侮辱せられたかを語った。そして彼自身も今更想い起して感慨に堪えぬ様さまであった。 ﹁さぞ憎らしかッたでしょうねエ、﹂ ﹁否いいえ、憎らしいとその時思うことが出来るなら左さまで苦しくは無いのです。ただ悲かな嘆しかったのです。﹂ お正しょうの両頬には何い時つしか涙が静かに流れている。 ﹁今は如何なに思っておいでです﹂とお正しょうは声をふるわして聞いた。 ﹁今ですか、今でも憎いとは思っていません。けれどもね、お正しょうさん僕が若し彼あ様んな不幸に会わなかったら、今の僕では無かったろうと思うと、残念で堪らないのです。今日が日まで三年ばかりで大事の月日が、殆ほとんど煙のように過たって了いました。僕の心は壊れて了ったのですからねエ﹂と大友は眼を瞬たいた。お正しょうははんけちを眼にあてて頭かしらを垂れて了った。 ﹁まア可いいサ、酒でも飲みましょう﹂と大友は酌しゃくを促がして、黙って飲んでいると、隣室に居おる川村という富かね豪もちの子むす息こが、酔った勢いで、散歩に出かけようと誘うので、大友はお正しょうを連れ、川村は女中三人ばかりを引率して宿を出た。川村の組は勝手にふざけ散らして先へ行く、大友とお正しょうは相並んで静かに歩む、夜よは冷々として既に膚寒く覚ゆる程の季節ゆえ、渓たに流がわに沿う町はひっそりとして客らしき者の影さえ見えず、月は冴えに冴えて岩に激する流れは雪のようである。 大友とお正しょうは何いつ時しか寄添うて歩みながらも言葉一ツ交さないでいたが、川村の連中が遠く離れて森の彼方で声がする頃になると、 ﹁真ほん実とに貴あな下たはお可哀そうですねエ﹂と、突然お正しょうは頭かしらを垂れたまま言った。 ﹁お正しょうさん、お正さん?﹂ ﹁ハイ﹂とお正しょうは顔を上げた。雙そう眼がん涙を含める蒼ざめた顔を月はまともに照らす。 ﹁僕はね、若し彼あの女おんながお正しょうさんのように柔やさ和しい人であったら、こんな不幸な男にはならなかったと思います。﹂ ﹁そんな事は、﹂とお正はうつむいた、そして二人は人家から離れた、礫いしの多い凸凹道を、静かに歩んでいる。 ﹁否いいえ、僕は真ほん実とに左そ様う思います、何な故ぜ彼女がお正しょうさんと同じ人で無かったかと思います。﹂ お正しょうは、そっと大友の顔を見上げた。大友は月影に霞む流れの末を見つめていた。 それから二人は暫しば時らく無言で歩いていると先へ行った川村の連中が、がやがやと騒ぎながら帰って来たので、一緒に連れ立って宿に帰った。其後三四日大友は滞留していたけれどお正しょうには最早、彼あの事に就いては一言も言わず、お給仕ごとに楽しく四方山の話をして、大友は帰京したのである。 爾じら来い、四年、大友の恋の傷は癒え、恋人の姿は彼の心から消え去せて了ったけれども、お正しょうには如ど何うかして今一度、縁あらば会いたいものだと願っていたのである。 そして来て見ると、兼ねて期したる事とは言え、さてお正しょうは既にいないので、大いに失望した上に、お正しょうの身の上の不幸を箱根細工の店で聞かされたので、不快に堪えず、流れを泝さかのぼって渓たにの奥まで一人で散歩して見たが少しも面白くない、気は塞ふさぐ一方であるから、宿に帰って、少し夕飯には時刻が早いが、酒を命じた。三
大友は、﹁用があるなら呼ぶから。﹂と女中をしりぞけて独酌で種々の事を考えながら淋しく飲んでいると宿の娘が﹁これをお客様が﹂と差出したのは封うわ紙づつみのない手紙である、大友は不審に思い、開き見ると、
前略我等両人当所に於て君を待つこと久しとは申兼候え共、本日御投宿と聞いて愉快に堪えず、女中に命じて膳部を弊室 に御運搬の上、大いに語り度く願い候
神崎
朝田
大友様
とあるので、驚いた。何時ごろから来ているのだと聞くと、娘は一週間ばかり前からという。直ぐ次の返事を書いて持たしてやった。
お手紙を見て驚喜 仕候、両君の室 は隣室の客を驚かす恐れあり、小生の室は御覧の如く独立の離島に候間、徹宵 快談するもさまたげず、是非此方 へ御出向き下され度く待 ち上候
すると二人がやって来た。
﹁君は何処を遍へめ歴ぐって此こ処こへ来た?﹂と朝田が座に着くや着かぬに聞く、
﹁イヤ、何処も遍歴らない、東京から直きに来た。﹂
﹁そこでこの夏は?﹂
﹁東京に居た。﹂
﹁何をして?﹂
﹁遊んで。﹂
﹁そいつは下らなかったな﹂
﹁全くサ、そして君等は如ど何うだ。﹂
﹁伊豆の温泉めぐりを為した。﹂
﹁面白ろい事が有ったか。﹂
﹁随分有った。然し同つ伴れ者が同伴者だからね。﹂と神崎の方を向く。神崎はただ﹁フフン﹂と笑ったばかり、盃をあげて、ちょっと中の模様を見て、ぐびり飲んだ。朝田もお構いなく、
﹁現に今日も、斯こうだ、僕が縁とは何ぞやとの問に何と答えたものだろうと聞くと、先生、この円と心得て﹂と畳の上に指先で○まるを書き、
﹁円の定義を平気な顔で暗誦したものだ、君、斯こういう先生と約一ヶ月半も僕は膳を並べて酒を呑んだのだから堪らない。﹂
﹁それはお互いサ﹂と神崎少しも驚かない。
﹁然し相かわらず議論は激しかったろう﹂と大友はにこにこして問うた。
﹁やったとも﹂と朝田、
﹁朝田の愚論は僕も少々聞き飽きた﹂と神崎の一言に朝田は﹁フフン﹂と笑ったばかり。これだから二人が喧嘩を為しないで一ヶ月以上も旅行が出来たのだと大友は思った。
三人とも愉快に談じ酒も相当に利いて十一時に及ぶと、朝田、神崎は自室に引上げた、大友は頭を冷す積りで外に出た。月は中天に昇っている。恰度前年お正しょうと共に散歩した晩と同じである。然し前年の場所へ行くは却って思出の種と避けて渓たにの上へのぼりながら、途々﹁縁﹂に就ついて朝田が説いた処を考えた、﹁縁﹂は実に﹁哀﹂であると沁み沁み感じた。
そして構かま造えの大きな農家らしき家の前に来ると、庭先で﹁左様なら﹂と挨拶して此こち方らへ来る女がある、その声が如い何かにもお正しょうに似ているように思われ、つい立ちどまって居おると、往来へ出て月の光を正まと面もに向うけた顔は確かにお正しょうである。
﹁お正しょうさん﹂大友は思わず叫んだ。
﹁大友さんでしょう、﹂と意外にもお正しょうは平気で傍へ来たので、
﹁貴女は僕が来て居るのを知っていたのですか﹂と驚いて問うた。
﹁も少し上の方へのぼりながらお話しましょうか。﹂とお正は小声にて言う。
﹁貴女さえかまわなければ。﹂
﹁私はちっとも、かまいませんの。﹂
それではと前年の如く寄添うて、渓たにをのぼる。
﹁真ほん実とに妙な御縁なのですよ、私は今日、身の上に就ついて兄に相談があるので、突だし然ぬけに参りますと、妹が小声で大友さんが来み宿えてるというのでしょう、……﹂
﹁それじゃア貴女は僕より一汽車後で来たのだ。﹂
﹁そうなの。それで今夜はごたごたして居るから明日お目にかかる積りでいましたの。﹂
さて大友はお正しょうに会ったけれど、そして忘れ得ぬ前年の夜よと全まっ然たく同じな景色に包まれて同じように寄添うて歩きながらも、別に言うべき事がない。却ってお正は種々の事を話しかける。
﹁貴下いつかの晩も此こん様なでしたね。﹂
﹁貴下彼あの晩ばんのことを憶えていらっして?﹂
﹁憶えていますとも。﹂
﹁私はね、何もかも全すっ然かり憶えていて、貴下の被おっ仰しゃった事も皆な覚えていますの。﹂
﹁僕もそうです。そして今一度貴女に会いたいとばかり思っていました。今度も実はその積りで来たのです。無論何どっ家かへ嫁かたずいていて会える筈は無かろうとは思いましたが、それでも若しかと思いましてね……﹂
﹁私も今一度で可いいから是非お目にかかりたいと思いつづけては、彼あの晩ばんの事を思い出して何度泣いたか知れません、……ほんとにお嫁になど行かないで兄さんや姉さんを手伝った方が如ど何んなに可よかったか今では真ほん実とに後悔していますのよ。﹂
大友は初めてお正が自分を恋していたのを知った、そして自分がお正に会いたいと思うのと、お正が自分に会いたいと願うのとは意味が違うと感じた。自分はお正の恋人であるがお正は自分の恋人でない、ただ自分の恋に深い同情を寄せて泣いてくれた柔しサを恋したのだ。そして自分は恋を恋する人に過ぎないと知った。実に大友はお正の恋を知ると同時に自分のお正に対する情の意味を初めて自覚したのである。
暫時無言で二人は歩いていたが、大友は斯かく感じると、言い難き哀かな情しみが胸を衝いて来る。
﹁然しね、お正さん、貴女も一旦嫁いだからには惑わないで一生を送った方が可よろしいと僕は思います。凡すべて女の惑いからいろんな混雑や悲なげ嘆きが出て来るものです。現に僕の事でも彼あの女おんなが惑うたからでしょう……﹂
お正はうつ向いたまま無言。
﹁それで今夜は運よくお互に会うことが出来ましたが、最も早う二度とは会えませんから言います、貴女も身体も大切にして幾久しく無事でお暮しになるように……﹂
お正は袖を眼に当て、
﹁何故会えないのでしょうか。﹂
﹁会えないものと思った方が可いいだろうと思います。﹂
﹁それでは貴下は最早会いたいとは思っては下さらないのですか。﹂
﹁決して其そん様なことはありません。僕はこれまで彼あの女おんなに会いたいなど夢にも思わなくなりましたが、貴女には会いたいと思っていましたから……﹂
﹁それではお目にかかる事が出来る縁を待ちましょうね。﹂
﹁ほんとうに、そうです。貴女も今言ったように、くよくよ為しないで、身体を大事にお暮しなさい。﹂
﹁難あり有がとう御座います。﹂
夜の更くるを恐れて二人は後へ返し、渓たに流がわに渡せる小橋の袂まで帰って来ると、橋の向うから男なん女にょの連れが来る。そして橋の中程ですれちがった。男は三十五六の若紳士、女は庇ひさ髪しがみの二十二三としか見えざる若づくり、大友は一目見て非常に驚いた。
足早に橋を渡って、
﹁お正さんお正さん。彼あれです。彼あの女です!﹂
﹁まア、彼の人ですか!﹂とお正も吃びっ驚くりして見送る。
﹁如ど何うして又、こんな処で会ったろう。彼あ女れも必きっ定と僕と気が着ついたに違いない。お正さん僕は明日朝出た発ちますよ。﹂
﹁まア如ど何うして?﹂
﹁若し彼あ女れが大東館にでも宿泊っていたら、僕と白昼出でっ会くわすかも知れない、僕は見るのも嫌です。往来で会うかも知れません如こ斯んな狭い所ですから。﹂
﹁会っても知らん顔していれば可いいじゃア御ご座ざいませんか。﹂
﹁不愉快です。殊に今度貴女に会った場合、猶不快です。﹂
翌朝早はやく大友は大東館を立った。大友ばかりでなく神崎や朝田も一緒である。見送り人の中にはお正も春子さんもいた。