﹃房ふさ、奥おく様さんの出る時何とか言つたかい。﹄と佐さや山まぎ銀んの之す助けは茶の間に入はひると直すぐ訊きいた。
﹃今け日ふは講習会から後ごと藤うさ様んへ一ちよ寸つと廻まはるから少すこし遅くなると被おつ仰しやいました。﹄
﹃飯めしを食くはせろ!﹄と銀之助は忌いま々〳〵しさうに言つて、白はく布ふの覆かけてある長方形の食卓の前にドツカと坐すはつた。
女中の房ふさは手早く燗かん瓶びんを銅どう壺こに入れ、食卓の布を除とつた。そして更さらに卓上の食くひ品ものを彼かし所こ此こ処ゝと置き直して心配さうに主人の様子をうかがつた。
銀之助は外ぐわ套いたうも脱がないで両りや臂うひぢを食卓に突いたまゝ眼めを閉とぢて居る。
﹃お衣め服しをお着きか更へになつてから召めし上あがつたら如いか何ゞで御ご座ざいます。﹄と房ふさは主人の窮屈さうな様子を見て、恐る〳〵言つた。御ごき気げ慊んを取る積つもりでもあつた。何な故ぜ主人が不ふき気げ慊んであるかも略ほゞ知つて居るので。
﹃面倒臭い此この儘まゝで食くふ、お燗かんは最も早う可いいだらう。﹄
房ふさは燗かん瓶びんを揚あげて直すぐ酌しやくをした。銀之助は会社から帰りに何ど処こかで飲んで来たと見え、此この時とき既すでにやゝ酔よつて居たのである。酔よへば蒼あを白じろくなる顔は益ます々〳〵蒼あを白じろく秀ひいでた眉まゆを寄せて口を一文字に結んだのを見ると房ふさは可こは恐いと思つた。
二三杯ぐい〳〵飲んでホツと嘆ため息いきをしたが、銀之助は如ど何う考かんがへて見ても忌いま々〳〵しくつて堪たまらない。今け日ふは平いつ時もより遅く故わ意ざと七時過ぎに帰か宅へつて見たが矢やは張り予想通り妻さいの元もと子こは帰つて居ない。これなら下宿屋に居るも同じことだと思ふ位くらゐなら未まだ辛しん棒ぼうも出来るが銀之助の腹の底には或ある物ものがある。
﹃何なん時じご頃ろに帰ると言つた。﹄
﹃何とも被おつ仰しやいませんでした。﹄と房ふさは言いひ悪にくさうに答へる。
後藤へ廻まはるなら廻まはると朝あさ自分が出る前にいくらでも言ふ時ひまがあるじやアないかと思ふと、銀之助は思はず
﹃人を馬鹿にして居やアがる。﹄と唸うなるやうに言つた。そして酒ばかりぐい〳〵呑のむので、房ふさは
﹃旦だん那なさ様ま何か召めし上あがりませんか、﹄と如ど何うかして気きげ慊んを取る積つもりで優しく言つた。
﹃見ろ、何が食へる。薄ら寒い秋の末すゑに熱い汁が一杯吸すへないなんて情なさけないことがあるものか。下宿屋だつて汁ぐらゐ吸はせる。﹄
銀之助の不平は最も早う二ふた月つき前からのことである。そして平い時つも此この不平を明あか白らさまに口へ出して言ふ時は﹃下宿屋だつて﹄を持もち出だす。決して腹の底の或ある物ものは出さない。
房ふさは﹃下宿屋﹄が出たので沈だま黙つて了しまつた。銀之助は急に起たち立あがつて。
﹃出て来る。﹄
﹃最も早う直ぢき奥おく様さんがお帰か宅へりになりませう。﹄と房ふさは驚いて止とめるやうに言つた。
﹃奥おく様さんの帰かへ宅るのを待たないでも可いいじやアないか。﹄
銀之助はむちやくちや腹ばらで酒ばかし呑のんで斯かうやつて居るのが、女房の帰かへるのを待つて居るやうな気がしたので急に外に飛び出したくなつたのである。
﹃外で何を勝手な真ま似ねをして居るか解わかりもしない女房のお帰かへ宅りを謹つゝしんでお待まち申まうす亭主じやアないぞ﹄といふのが銀之助の腹である。
﹃それはさうで御ご座ざいますが、最も早う直ぢきお帰りになりませうから。﹄と房ふさは飽あくまで止めやうとした。
﹃帰つたつて可いいじやアないか。乃お公れは出るから﹄と言ひ放つて、何か思ひ着いたと見え、急い速そいで二階に上あがつた。
火鉢には桜さく炭らずみが埋いかつて、小さな鉄てつ瓶びんからは湯気を吐いて居る。空気洋らん燈ぷが煌くわ々う〳〵と燿かゞやいて書棚の角かど々〳〵や、金文字入りの書ほんや、置時計や、水彩画の金きん縁ぶちや、籐とうのソハに敷しいてある白びや狐くこの銀ぎん毛まうなどに反射して部屋は綺きれ麗いで陽気である、銀之助はこれが好すきである。しかし今夜は此これ等らの光景も彼を誘いう引いんする力が少しもない。机の上に置いてある彼が不在中に来た封書や葉はが書きを手早く調べた。其その中うちに一通差さし出だし人にんの姓名の書いてない封書があつた。不審に思つて先まづ封を切つて見ると驚くまいことか彼が今の妻と結婚しない以前に関係のあつた静しづといふ女からの手紙である。
銀之助は静しづと結婚する積つもりであつたけれど教育が無いとか身分が卑いやしいとかいふ非難が親族や朋ほう友いうの間に起おこり、且かつ其その純潔すら疑うたがはれたので遂つひに何い時つとはなしに銀之助の方から別れて了しまつたのであつた。別れて今の妻さいと結婚して後のちは静しづの成なり行ゆきに就つき銀之助は全く知らなかつた。
ところが五年目に突然此この手紙、何事かと驚いて読み下くだすと其その意味は――お別れしてから種々の運め命に遇あつた末すゑ今は或ある男と夫婦同様になつて居る、然しかるに貴あな様たさまとの関係と同じく矢やは張り男の家で結婚を許さない、その為ため男は遂つひに家出して今は愛あた宕ごち町やう何丁目何番地小をが川はか方たに二人して日ひか蔭げも者のの生くら活しをして居る。窮きゆ迫うはくに窮きゆ迫うはくを重ね、ちび〳〵した借金も積つもりて今は何としても立たち行ゆかぬ様さまとなつた。そこで如い何かなることがあつても貴あな様たさまにはと誓つて居たけれど其その誓ちかひも捨て義理も忘れてお願ひ申すのである、何どう卒か二十円だけ用意して明みや晩うばん来て呉くれまいか――といふのである。
明晩とは今夜である銀之助はしみ〴〵静しづの不ふし幸あはせを思つた。静しづは男に愛お着もはれ又また男を愛お着もふ女である。そして可かれ憐んで正直で怜れい悧りな女であるが不思議と関係のない者からは卑いやしい人間のやうに思はれる女で実に何者にか詛のろはれて居るのではないかと思つた。しかし銀之助には以も前との恋の情こゝろは少すこしもなかつた。
どうせ飛び出すのだ、何しろ訪ねて見ようと銀之助は先まづ懐くわ中いちゆうを改めると五円札が一枚と余あとは小こせ銭んで五六十銭あるばかり。これでも仕方がない不足の分は先むか方ふの様子を見てからの事と直すぐ下に降おりた。
﹃房ふさ、遅くなつたら閉しめても可いいよ。﹄
﹃アラ如ど何うしてもお出でになりますので御ご座ざいますか。﹄と房ふさはきよと〳〵して気が気でない。
﹃何なに心配しないでも可いいよ。奥おく様さんに急に用が出来たから出たつて言つてお呉くれ。﹄
外は星ほし夜づくよで風の無い静かな晩である。左へ廻まがれば公園脇の電車道、銀之助は右に折れてお濠ほり辺ばたの通ひと行ゞほりのない方を選んだ。ふと気が着いて自じた家くから二三丁先の或ある家いへの瓦がす斯と燈うで時計を見ると八時過すぎである。
外で冷ひやゝかな空気に触れると酔よひが足りない。もすこし飲んで出れば可よかつたと思つた。
愛あた宕ごち町やうは七八丁の距離しかないので銀之助は静しづのこと、今の妻さいの元もと子このことを考へながら、歩あゆむともなく、徐のろ々〳〵歩あるいた。
成なる程ほど比べて見ると静しづには何ど処こか卑いやしいところがあつて、元子にはそれがない。
静しづの卑いやしいやうに他ひとから思はれるところは何な故ぜであるかと考へた。静しづには何ど処こかに色ッぽい風ふうがある。女によ性せいにはなくてならぬ節みさ操をといふ釘くぎが一本ぽん足りないで、其その為ため身から体だ全体に﹃たるみ﹄が出来て居る、其その﹃たるみ﹄が卑いやしい色を成して居るのだ、それが証拠には自分の前に静しづには情をと夫こが有つたらしく、自分の後のちに今の男があるではないか。
けれども自分の経験に依よると静しづは自分と関係してる間あひだは決して自分を不安に思はしめるやうなことは無かつた。正直で可かれ憐んで柔にう和わで身も魂も自分に捧げて居をるやうであつた。
銀之助は斯かう考かんがへて来ると解わからなくなつた。節みさ操をといふものが解わからなくなつた。
成なる程ほど元子は見たところ節みさ操を々/々\して居る。けれど講習会を名なに何をして居るか知れたものでない。想像して見ると不審の点は数いく多らもある。今夜だつて何を働いて居るか自分は見て居ない。自分の見る事も出来ないこと、それが自分に猛烈な苦悩を与へることを元子は実行して居るではないか。
考へれば考へるほど銀之助には解わからなくなつた。忌いま々〳〵しさうに頭を振ふつて、急に急いそ足ぎあしで愛あた宕ごち町やうの闇くらい狭い路ろ地ぢをぐる〳〵廻まはつて漸やつと格かう子し戸どの小さな二階かい屋やに﹁小川﹂と薄暗い瓦がす斯と燈うの点つけてあるのを発め見つけた。﹁小をが川はか方た﹂とあつた、よろしいこれだと、躊ため躇らうことなく格かう子しを開あけて
﹃お宅にお静しづさんといふ人が同居し居られますか。﹄
と訊きくや、直すぐ現はれたのが静しづであつた。
﹃能よく来て下くださいました。待まつて居たんですよ。サアどうか上あがつて下くださいましな。﹄と低い艶つやのある声は昔のまゝである。
﹃イヤ上あがるまい。貴あな方たは一ちよ寸つと出られませんか。﹄
﹃そうね、一ちよ寸つと待つて下さい。﹄と急いで二階へ上あがつたが間まもなく降おりて来て
﹃それでは其そ所こいらまで御ごい一つし所よに歩あるきませう。﹄
二人は並んで黙つて路地を出た。出るや直すぐ銀之助は
﹃よくこれが出しましたね。﹄と親指を静しづの眼めの前へ突き出した。
﹃アラ彼あんな事を。相あひ変かはらず口が悪いのね。﹄
﹃別れてから、たつた五年じアありませんか。﹄
﹃ほんとに五年になりますね、昨きの日ふのやうだけれど。﹄
二ふた人りの言葉は一ちよ寸つと途と断ぎれた。そして何ど所こへともなく目あて的どなく歩あるいて居るのである。
﹃今のこれとは何い時つからです。﹄と銀之助は又また親指を出した。
﹃これはお止よしなさいよ、変ですから。一をと昨と年しの冬からです。﹄
﹃それまでは。﹄
﹃貴あな様たと不い可けなくなつてから唯ただ家うちに居ました。﹄
﹃たゞ。﹄
﹃そうよ。﹄と言つて﹃おゝ薄ら寒い﹄と静しづは銀之助に寄り添そつた。銀之助は思はず左の手を静しづの肩に掛けかけたが止よした。
﹃僕も酔よひが醒さめかゝつて寒くなつて来た。静しづちやんさへ差さしつかへ無けれア彼あの角かどの西洋料理へ上がつてゆつくり話しませう。﹄
静しづは一ちよ寸つと考かんがへて居たが
﹃最も早う遅いでせう。﹄
﹃ナアに未まだ。﹄
静しづは又また一ちよ寸つと考へて
﹃貴あな郎た私わたしのお願ねがひを叶かなへて下すつて。﹄と言はれて気が着つき、銀之助は停たち止どまつた。
﹃実は僕ぼく今夜は五円札一枚しか持もつて居ないのだ。これは僕の小こづ使かひ銭せんの余りだから可いいやうなものゝ若もしか二十円と纏まとまると、鍵かぎの番人をして居る妻さい君くんの手からは兎とても取れつこない。どうかして僕が他よそから工くめ面んしなければならないのは貴あな女たにも解わかるでせう。だから今夜はこれだけお持もちなさい。余あとは二三日中うちに如ど何うにか為しますから。﹄と紙かみ入いれから札さつを出だして静しづに渡した。
﹃ほんとに私わたしは、こんなことが貴あな郎たに言はれた義理ぢアないんですけれど、手紙で申し上げたやうな訳わけで……﹄
﹃最も早う可いいよ、僕には解わかつてるから。﹄
﹃だつて全く貴あな様たにお願ひして見る外ほか方法が尽つきちやつたのですよ……。﹄
﹃最も早う解わかつてますよ。それで余あとの分ぶんは何いづれ二三日中うちに持もつて来ます。﹄
銀之助は静しづに分わかれて最も早う歩くのが慊いやになり、車を飛ばして自う宅ちに帰つた。遅くなるとか、閉しめても可いいとか房ふさに言つたのを忘れて了しまつたのである。
帰つて見ると未まだ元もと子こは帰かへ宅つて居ない。房ふさも気きげ慊んを取る言葉がないので沈だま黙つて横を向いてると、銀之助は自分でウヰスキーの瓶びんとコツプを持もつて二階へ駈かけ上がつた。
精きで三四杯あほり立てたので酔よひが一いつ時ときに発して眼めがぐらぐらして来た。此この時とき
﹃断然元もと子こを追ひ出して静しづを奪つて来る。卑いやしくつても節みさ操をがなくつても静しづの方が可いい﹄といふ感が猛然と彼の頭に上のぼつた。
﹃静しづが可いい、静しづが可いい﹄と彼は心に繰くり返かへしながら室内をのそ〳〵歩いて居たが、突然ソハの上に倒れて両手を顔にあてゝ溢あふるゝ涙を押おさへた。
︵明治40﹇#﹁40﹂は縦中横﹈年9月﹁太陽﹂︶