子供の時分の冬の夜の記憶の中に浮上がって来る数々の物象の中に﹁行あん燈どん﹂がある。自分の思い出し得られる限りその当時の夜の主なる照明具は石油ランプであった。時たま特別の来客を饗応でもするときに、西洋蝋ろう燭そくがばね仕じか掛けで管の中からせり上がって来る当時ではハイカラな燭台を使うこともあったが、しかし就寝時の有明けにはずっと後までも行燈を使っていた。しかも古風な四角な箱形のもので、下に抽ひき出だしがあって、その中に燈心が入っていたと思う。時には紙を貼り代えたであろうが、記憶に残っているのはいつも煤すすけており、それに針や線香でつついたいたずらの痕跡を印したものである。夜中にふと眼がさめると台所の土ど間まの井戸端で虫の声が恐ろしく高く響いているが、傍には母も父も居ない。戸の外で椶しゅ櫚ろの葉がかさかさと鳴っている。そんなときにこの行燈が忠義な乳う母ばのように自分の枕元を護っていてくれたものである。 母が頭から銀の簪かんざしをぬいて燈心を掻き立てている姿の幻のようなものを想い出すと同時にあの燈油の濃厚な匂いを聯想するのが常である。もし自分が今でもこの匂いの実感を持合わさなかったとしたら、江戸時代の文学美術その他のあらゆる江戸文化を正常に認識することは六むつかしいのではないかという気もする。 石油ランプはまた明治時代の象徴のような気もする。少なくも明治文化の半分はこの照明の下に発達したものであろう。冬の夕まぐれの茶の間の板縁で古新聞を引破ってのホヤ掃除をした経験をもたない現代青年が、明治文学に興味の薄いのは当然かもしれない。ホヤの中にほうっと呼気を吹き込んでおいて棒きれの先に丸めた新聞紙できゅうきゅうと音をさせて拭くのであった。 その頃では神棚の燈明を点ともすのにマッチは汚けがれがあるというのでわざわざ燧ひうちで火を切り出し、先ずホクチに点火しておいてさらに附け木を燃やしその焔を燈心に移すのであった。燧の鉄と石の触れあう音、迸ほとばしる火花、ホクチの燃えるかすかな囁き、附け木の燃えつくときの蒼白な焔の色と亜硫酸の臭気、こうした感覚のコムプレッキスには祖先幾百年の夢と詩が結び付いていたような気がする。 マッチのことは﹁スリツケ﹂と云った。﹁摺り附け木﹂の略称である。高等小学校の理科の時間にTK先生という先生が坩るつ堝ぼの底に入れた塩酸カリの粉に赤せき燐りんをちょっぴり振りかけたのを鞭むちの先でちょっとつつくとぱっと発火するという実験をやって見せてくれたことを思い出す。そのとき先生自身がひどく吃びっ驚くりした顔を今でもはっきり想い出すことが出来る。 マッチの軸木を並べてする色々の西洋のトリックを当時の少年雑誌で読んではそれを実演して友達や甥などと冬の夜長を過ごしたものである。 まだ少年雑誌などというものの存在を知らなかった頃の冬夜の子供遊びにはよく﹁火渡し﹂﹁しりつぎ﹂をやったものである。日本紙を幅五、六分に引き裂いたのに火鉢の灰を少し包み込んで線香大の棒形に捻ひねる。その一端に火をつけて﹁火渡し﹂と云って次の人に渡すと、次の人は﹁しりつぎ﹂と答えて次へ廻す、それからだんだんに東京でいわゆる﹁尻取り﹂をするのであるが、言葉に窮して考えている間に火が消えるとその人は何かしら罰として道化た隠し芸を提供実演しなければならないのである。 その外に﹁カアチ〳〵﹂という遊びがあった。詳しいことは忘れたが、何でも庄しょ屋うやになる人と猟師︵加かは八ちという名になっている︶になる人の外に、狸や猪や熊や色々の動物になる人を籤くじ引ききできめる。そこで庄屋になった人が﹁カアチ〳〵鉄砲打て﹂と命ずると、﹁カアチ︵加八︶﹂になった子が﹁何を打ちましょう﹂と聞く。そこで庄屋殿が例えば﹁狸﹂と仰せられると加八は一同の顔色を注意深く観察して誰が﹁狸﹂であるかを観破するために云わば読心術の練習のようなことをする。﹁狸﹂でない子がわざとなんだか落着かないような様子をして天井を仰いでみたり鼻をこすってみたりして牽制しようとするなどはきわめて初歩であるので、その裏をかくつもりで﹁狸﹂自身がわざとそのような振りをすることもある。これを仮に第二次の作戦とすると、そのもう一つ上の第三次の方策は第一次とほぼ同じようなことになるのである。とにかく幼少なる﹁加八﹂君はここでそのありたけの深謀をちゃんちゃんこの裏にめぐらして最後の狙いを定めて﹁ズドーン﹂と云って火蓋を切る真似をする。うまく当れば当てられたのが代って﹁加八﹂になり当てた﹁加八﹂が庄屋になる。当らなかったら当るまで同じことを繰返すのである。 ﹁神鳴り﹂というのは、一人が雷神になって例えば障子の外の縁側へ出て戸をたたいて雷鳴の真似をする。大勢で車座に坐って茶碗でも石いし塊ころでも順々に手渡しして行く。雷の音が次第に急になって最後にドシーンと落雷したときに運拙つたなくその廻送中の品を手に持っていた人が﹁罰﹂を受けて何かさせられるのである。 パリに滞在中下宿の人達がある夜集まって遊んでいたとき﹁ノーフラージュ﹂をやろうと云い出したものがあった。この﹁難破船﹂の遊びが前述の﹁神鳴り﹂とそっくり同じようである。 先ずはじめに銘々の持ちものを何か一つずつ担たん保ぽ gage として提供させる。それから一人﹁船長﹂がきめられる。次にテーブルを囲んだ人々の環を伝わって卓の下でこそこそと品物が廻される。口々に La mer est calme, la mer est calme.︵好い凪なぎだ︶と云っている。次に何と云ったか忘れたが、とにかく﹁海が荒れ出した﹂という意味の言葉を繰返している。その間にも断えず皆が卓の下で次々に品物を渡しているような真似をしている、その人の環のどこかを実際に品物が移動しているのである。船長がいきなり﹁ノーフラージュ︵難船︶﹂と怒鳴ると、移動がぴたりと止まるのである。自分も一度運悪くこの難船にぶつかって何かケルクショーズをしなければならないことになったので、そのケルクショーズの思案に苦しんでいたら隣席の若いドイツ人がドイツ語でこっそり﹁いちばん年とったダーメに花を捧げたまえ﹂と教えてくれた。幸いにドイツ語はこの席の誰にも通じなかったのである。そこで私は立って窓枠にのせてあった草花の鉢をもって片隅に始めから黙って坐っていた半はん白ぱくの老ろう寡か婦ふの前に進み、うやうやしくそれを捧げる真似をしたら皆が喜んでブラボーを叫んだり手と拍たたいたりした。その時主婦のルコック夫人が甲かん高だかい声を張上げて Elle a rougi ! elle a rougi ! と叫んだ。私はそのときの主婦の灰あ汁くの強過ぎるパリジェンヌぶりに軽い反感を覚えないではいられなかったのであった。 あとで担保に入れてあったガージュを銘々に返していたとき、一本の鉛筆をさし上げて﹁これはどなたのでしたか﹂と主婦が尋ねたら、一座の中の二人のイタリア女の若い方が軽く立上がって親指で自身の胸を指さし、ただ一言ゆっくり静かに Il mio. と云った。そのときほど私はイタリア語というものを優美なものに思ったことはないような気がする。 ドイツの冬夜の追憶についてはもう前に少しばかり書いたような気がするが、今この瞬間に突然想い出したのはゲッチンゲンの歳暮のある夜のことである。雪が降り出して夜中には相当積もった。明りを消して寝ようとしていると窓外に馬の蹄ひづめの音とシャン〳〵〳〵という耳馴れぬ鈴の音がする。カーテンを上げて覗のぞいてみると、人ひと気けのない深夜の裏通りを一台の雪ゆき橇ぞりが辷すべって行く、と思う間もなく、もう町のカーヴを曲って見えなくなってしまった。 子供の時分にナショナルリーダーを教わったときに生れてはじめて雪橇というものの名を聞き覚え、その絵を見て、限りなき好奇心と異国の冬への憧憬を喚び起こされたのであったが、その実物をこの眼に見、その鈴の音を耳にしたのは実にこの夜が初めてでありそうしてまたおそらく最後でもあった。しかも、それがかすかな雪明かりに窓からちらと見えた後影だけで消えてしまった。それだけにその印象はかえって一倍強烈であったのかもしれない。ともかくもその瞬間に自分が子供の時分に夢みていた生きっ粋すいの西洋というものが忽然と眼前に現われて忽然と消えてしまったのであった。今の日本人ことに都会人が西洋へ行って西洋の都市に暮していても、真に西洋を感じるということはおそらく比較的稀であろう。ただかえってこんな思わぬ不用意の瞬間に閃光のごとくそれを感じるだけであろうかと思われる。 この雪夜の橇の幻の追憶はまた妙な聯想を呼出す。父が日清戦争に予備役で召集されて名古屋にいたのを、冬の休みに尋ねて行ってしばらく同じ宿屋に泊っていたときのことである。戦争中で夜までも忙がしいので父の帰りは遅いことがしばしばあった。自分だけ早くから寝てもなかなか寝付かれないので、もう帰るかもう帰るかと心待ちにしていると自然と表通りを去来する人力車の音が気になる。凍結した霜夜の街を駆け行く人力車の車輪の音――またゴム輪のはまっていなかった車輪が凍いてた夜の土と砂利を噛む音は昭和の今日ではもうめったに聞くことの出来ないものになってしまった。 だんだん近付いて来る車の音が宿の前で止まるかと思っているとただそのまま行過ぎて消えてしまう。今度こそと思ったのもまた行過ぎる。そんなことを繰返し繰返し十二時過ぎても眠られないで待っている。やっと車の音が玄関へ飛び込んで来ると思うと番頭や女中の出迎える物音がしてそうして急に世の中が賑やかに明るくなった。﹁ほう、まだ起きていたのか﹂と云ってびっくりしたような顔をして見せるのであったが、その顔に何となしに寄る年の疲れが見えて鬚ひげの毛の白くなったのが眼につくのであった。 凍てた霜夜の土で想い出すことがもう一つある。子供の頃、寒月の冴えた夜などに友達の家から帰って来る途中で川沿いの道の真中をすかして見ると土の表面にちょうど飛とび石いしを並べたようにかすかに白っぽい色をした斑点が規則正しく一列に並んでいる。それは昔この道路の水準がずっと低かった頃に砂利をつめた土俵を並べて飛石代りにしてあった、それをそのまま後に土で埋めて道路面を上げたのであるが、砂利が周囲の湿気を吸収するために、その上に当るところだけ余計に乾燥して白く見えるとの事であった。しかし、どうしてそれが月夜の晩によく見えるかは誰も説明する人はなかった。それはとにかく、寒月に照らし出されたこの﹁飛石の幽霊﹂には何となく神秘的な凄味が感ぜられた。埋められた過去が月の光に浮かされて浮び上がっているのだというような気がしたのかもしれない。 そういう晩には綿わた入いれ羽ばお織りをすっぽり頭からかぶって、その下から口笛と共に白い蒸気を吹出しながら、なるべく脇目をしないようにして家路を急いだものである。そういう時にまたよく程近い刑務所の構内でどことなく夜警の拍子木を打つ音が響いていた。そうして河向いの高い塀の曲り角のところの内側に塔のような絞首台の建物の屋根が少し見えて、その上には巨杉に蔽われた城山の真暗なシルエットが銀砂を散らした星空に高く聳えていたのである。 ︵昭和九年十二月﹃短歌研究﹄︶