﹁黒色のほがらかさ﹂ともいうものの象徴が黒くろ楽らくの陶器だとすると、﹁緑色の憂愁﹂のシンボルはさしむき青磁であろう。前者の豪健闊かっ達たつに対して後者にはどこか女性的なセンチメンタリズムのにおいがある。それでたぶん、年じゅう胃が悪くて時々神経衰弱に見舞われる自分のような人間には楽焼きの明るさも恋しいがまた同時に青磁にも自然の同情があるのかもしれない。
故夏なつ目めそ漱うせ石き先生も青磁の好きな人間の仲間であったが、先生も胃が悪くて神経衰弱であったのである。先生は青磁の鉢はちに羊よう羹かんを盛った色彩の感じを賞したことがあったように記憶する。
青磁の皿さらにまっかなまぐろのさしみとまっ白なおろし大根を盛ったモンタージュはちょっと美しいものの一つである。いきのよいさしみの光沢はどこか陶器の光沢と相通ずるものがある。逆に言えば陶器の肌はだの感触には生きた肉の感じに似たものがある。ある意味において陶器の翫がん賞しょうはエロチシズムの一変形であるのかもしれない。
青磁の徳利にすすきと桔きき梗ょうでも生けると実にさびしい秋の感覚がにじんだ。あまりにさびしすぎて困るかもしれない。
青磁の香炉に赤あか楽らくの香合のモンタージュもちょっと美しいものだと思う。秋の空を背景とした柿かきもみじを見るような感じがする。
博物館などのように青磁は青磁、楽は楽と分類的に陳列してあるのも結構ではあるが、しかしそういう器物の効果を充分に発揮させるようなモンタージュを見せてくれる展覧会などもたまにはあっていいかもしれない。もっとも茶会の記事などを見ると実際自分の考えているようなモンタージュ展を実行しているのであるが、それは限られた少数の人だけのためのものでだれでもいつでも見られる種類のものではない。
西にし川かわ一いっ草そう亭ていの生花の展覧会などはある意味で花やくだものと容器とのモンタージュの展覧会であるが、あれをもっと拡張したような展観方法があってもいいと思う。
器物の美にはもちろんそれ自身に内在する美があるには相違ないが、それを充分に発揮させるためにはその器物の用と相関連したモンタージュの把はあ握くが必要ではないかと考えるのである。
赤楽の茶わんもトマトスープでも入れられては困るであろう。
︵昭和六年十二月、雑味︶