一
フランスの絵入雑誌を見ていると、モロッコ地方の叛徒の討伐に関する写真ニュースが数々掲載されている。それらの写真の下にある説明の文句を読んで見ると﹁モロッコ地方の Pacification のエピソード﹂と云ったような言葉が使ってある。直訳なら﹁平和化﹂で、先ず﹁平定﹂とでも訳する所であろうが、とにかくフランス人らしい巧妙な措辞である。﹁誅ちゅ戮うりく﹂﹁討伐﹂﹁征伐﹂﹁征討﹂などと、武張ったどこかの国のジャーナリストなら書きたい所であろう。それを﹁平和化﹂と云ったところはやはりフランス人である。
こんなことを考えてから間もなくのことである。ある有名な日本の歴史家がその著書の中に﹁朝鮮征伐﹂という文字を使ったのが甚だ不都合だと云って、某新聞の投書欄でひどく腹を立てた人があった。歴史家も日本人なら、この投書家も日本人である。
老子にこんな言葉があった。﹁果かに而して勿ほこ矜ることなかれ。果かに而して勿うつ伐ことなかれ。果かに而して勿おご驕ることなかれ。果かに而して勿やむ不こと得をえ止ざれ。果かに而して勿きょ強うなることなかれ。﹂老子はなかなかフランス人であったと見える。
二
夜、丸の内の淋しい町を歩いていたとき、子供を負おぶった見みす窄ぼらしい中年の男に亀井戸玉たまの井いまでの道を聞かれ、それが電車でなく徒歩で行くのだと聞いて不審をいだき、同情してみたり、また嘘つきのかたりではないかと疑ぐってみたりしたことがあった。そうして、それに関するいろいろの空想を逞しくした顛てん末まつを随筆にかいたことがある。ところが最近のある晩TS君がやはり丸ビル附近でそれと全く同じような経験をした、と云って話したところによると、やはり同じような子供を背負っていたが、しかしその徒歩での行先は亀井戸ではなくて吉原の裏の方だと云ったそうである。TS君のその話を聞いて間もないある夜のこと、工業倶楽部の近くの辻でバスを待っているとどこからともなく子供を負ぶった中年男が闇の中からひょっくり現われて、浅草までの道を聞くのであった。前に逢った場合と同じように無帽で、同じような五、六歳くらいと思われる男の子を背負っているが、どうも男の顔形にははっきりした見覚えはないので、前に自分の逢ったのと同人であるかどうか、何しろ暗いのでよくは分からない。とにかくこうなるとせっかくの最初の空想も雲消霧散して残るものは世せち智が辛らい苦々しい現実である。それにしてもこの﹁商売﹂が一体どのくらいの収入になるものか、今度逢ったら思い切って一つ聞いてみてやろうと思っている。同じ﹁感傷﹂を売り付けるにしても小説家や映画製作者に比べてみると実に可哀相なみじめな商売である。これはやはり買ってやる方がいいと思う。憎むにはあまりにみじめな商売なのである。
三
文ぶん楽らくの義ぎだ太ゆ夫うを聞きながら気のついたことは、あの太夫の声の音色が義太夫の太ふと棹ざおの三味線の音色とぴったり適合していることである、ピアノ伴奏では困るのである。
小唄勝太郎の小唄に洋楽の管絃伴奏のついた放送を聞いた。勝太郎の声のチャームがすっかり打消されてしまっている。この人の声はやはり唄うた三じゃ味みせ線んの絃の音色に乗るように練習して来たものである。
四
ある食堂の片隅の食卓に女学生が二人陣取ってメニューを点検していた。﹁何たべる﹂﹁何にしよう﹂……﹁御飯だの、おかずだの別々にたべるの面倒くさいわ、チキンライスにしましょう﹂。
ある家庭で歳末に令嬢二人母君から輪飾りに裏うら白じろとゆずり葉と御ごへ幣いを結び付ける仕事を命ぜられて珍しく神妙にめったにはしない﹁うちの用﹂をしていた。裏白やゆずり葉を輪の表に縛り付けるか裏につけるかを議論していた。そのうちに妹の方が﹁こんなもの、はじめから結び付けて売っていればいいと思うわ。その方が合理的だわ……﹂。このチキンライスの話と輪飾りの話には現代思潮の反映がある。
そうかと思うとまたある日本食堂で最近代的な青年二人と少女二人の一行が鯛たい茶ちゃを注文していたが、それが面前に搬はこばれたときにこの四人の新人は、胡麻味噌に浸された鯛の繊肉を普通のおかずのようにして飯とは別々に食ってそうして最後に茶を別々に飲んでいた。ここにも伝統の破壊があるのである。一九三三年のオリジナルな鯛茶の喰い方なのである。
五
幕末ものの映画をその組成要素に分解してみると、割合に少数なエレメントで大抵の用を便じていることが分かる。﹁密謀の集会﹂﹁大広間の評定﹂﹁道中の行列﹂これには大抵同じ土手や昭和国道がつかわれる。﹁花柳街のセット﹂﹁宿屋の帳場﹂﹁河原の剣劇﹂﹁御寺の前の追駆け﹂﹁茶屋の二階の障子の影法師﹂それから……。それからまたどの映画にも必ず根気よく実に根気よく繰返される退屈な立廻りが、どうも孑ぼうの群や蚊かば柱しらの運動を聨想させる。これを製作する監督、またそれを享楽する映画ファンの忍耐心の強いのは驚嘆すべきものである。そうしてまた、あれだけ大勢があれだけ多数の大刀を振廻わして、そうして誰も怪我をしないようにするという芸術はおそらく世界にユニークなものであろう。そう思って見ているとあれは実に面白い見ものである。全く感嘆に値いするものである。
土佐の田舎に﹁花取り﹂と称する踊がある。大勢の踊手が密集した方陣形に整列して白刃を舞わし、音楽に合せて白刃と紙の采さい配はいとを打合わせる。その度たびごとに采配が切断されてその白い紙片が吹雪のように散乱する。音頭取が一つ拍子を狂わせるとたちまち怪我人が出来るそうである。
映画の立廻りの代りにこの﹁花取り﹂を入れて一層象徴化されたる剣の舞を見せたらどうかと思うのである。その方がまだしも﹁芸術的な退屈﹂さである。
︵昭和九年二月﹃文体﹄︶