一、有島武郎氏
私は有島武郎さんの作品を讀よんで、作品のうちに滲にじんでゐる作者の心の世せか界いといふものゝ大きさや、強さといふものを深く感かんじます。そして、線の非ひじ常やうに太い、高らかなリズムをもつてゐるやうな表へう現げん力りよくが鋭く心に迫つて來るやうな氣きがします。そして、如何にも作者が熱ねつ情じや的うてきで、直ちよ情くじ徑やう行けい的かうてきな人であるやうな氣持がしますけれども、最う一歩進すゝめて、作さく品ひんの底そこを味つてゐると、寧ろ作さく者しやの理り智ちといふものがその裡うちに一層強く働はたらいて居るやうな氣がします。即ち或作さく品ひんでは、例へば、﹁石にひしがれたる雜草﹂と云つたやうな作品では、主人公の心持の限げん界かいを越こえて、作者の理り智ちがお芝しば居ゐをし過すぎて居る爲めに、その心持がどうしても頷うなづけなくなつて來る。で、また作さく者しやが愛を熱ねつ心しんに宣せん傳でんして居るやうな場ばあ合ひにでも、寧ろその理り智ちを以て故ことさらにそれを力りき説せつしようとする爲めに、どうかするとその愛は、作さく者しやの心から滲にじみ出たものではなくて、宣せん傳でんの爲めに宣せん傳でんしてゐると云つたやうな感かんじがする事があります。しかし、又一方から見ると作さく者しやの愛あいが實じつ際さいにその衷ちう心しんから滲にじみ出てゐる例へば﹁小さき者へ﹂の中に於ける、子供に對する主人公の愛あいといつたやうな場合には、そこに釀かもされてゐる實じつ感かんの強さから、可成り感かん動どうして作さく品ひんを讀む事が出で來きます。で、一體私は有島氏のその作品竝ならびに作さく者しやの心の世せか界いに對して共きよ鳴うめいも有もち、その眞しん摯しな作さく風ふうに對して頭あたまを下げてゐる者ですが、時に人が、有島氏は僞ぎぜ善んし者やではないか、非常にその創さう作さく的てき態たい度どに於て、進アグ撃レシ的イヴで、意い志しの強つよさうなところがあり乍ら、どつか臆おく病びやうなところがあるではないかといつたやうな言こと葉ばを聞かされた事があります。これは無むろ論ん作さく者しやに對する一種しゆの僻へき見けんかも知れませんが、事じじ實つに於ては、私も氏の作さく品ひんに強く心を惹ひかれ乍らも、どこかにまだ心こゝ持ろもちにぴつたり來ない點がないではありません。その隙すき間まは氏が熱ねつ情じや的うてきな理りさ想う家かのやうに見え乍ら、その底に於ては理智が﹇#﹁理智が﹂は底本では﹁理智か﹂﹈働はたら﹇#ルビの﹁はたら﹂は底本では﹁はだら﹂﹈き過ぎるといふ結けつ果くわから、周しう圍ゐに對してどうしても左さこ顧う右べ眄んせずには居られないといふところがあるかも知れません。從したがつてその思しさ想うや人じん生せい觀くわんの凡てを愛を以て裏づけて行かうとする氏の作さく家かとしての今こん後ごは、どんな轉てん換くわんを見せて行くかも知れませんが、その理智の人としての弱じや點くてんから釀かもされて來る何物かは、可成り氏の行手にいろ〳〵な曲きよ折くせつを出すだらうと思はれます。
二、里見氏
里見さんの作品を讀んで、一番感かん心しんするのは、その心しん理りか解いば剖うの手しゆ腕わんです。批ひひ評やう家かがそれを巧うますぎると云つた爲めに、氏は巧すぎるといふ事が何な故ぜいけないのだと云つたやうな駁ばく論ろんを書いて居られましたが、確たしかに巧すぎるといふ事丈けは否ひて定い出來ないと思ひます。何故ならば、氏の心しん理りか解いば剖うは何ど處こまでも心理解剖で、人間の心持を丁ちや度うど鋭するどい銀ぎんの解かい剖ばう刀たうで切開いて行くやうに、緻ちみ密つに描ゑがいて行かれます。そして、讀よんでゐると、その冴さえた力に驚おどろき、亦引ひき摺ずられても行きますが、さて頁を伏せて見て、ひよいと今作さく者しやに依つて描ゑがかれた人物の心しん理りを考へて見ると、人物の心理の線せんや筋すぢ丈だけは極きはめて鮮あざやかに、巧みに表現されて居ますが、それを包む肝かん腎じんの人間の心こゝ持ろもちの色ニユ合アンスや、味ひが缺かけて居ます。必ひつ然ぜんにどうしてもその心しん理りの動うごき方が、讀よむ者の心こゝ持ろもちにしつくり篏はまつて來ないといふ氣きがします。これを言ひ換かへれば、氏の心しん理りべ描うし寫やは心しん理りか解いば剖うであつて、心しん理りべ描うし寫やではないのでありますまいか。兎に角今の多數の作さく家かの中で、頭の鋭するどさといふ點では、恐らく里見氏は第一人者といふべきでせう。そして、その文ぶん章しやうも如何にもすつきりと垢あか脱ぬけがして居て、讀んで居ては、實に氣きも持ちの好いいものですが、特とくに氏の長所である心しん理りべ描うし寫やといふ點に就て云へば、そこに最う少し人ヒユ間ウメ的エンなものが欲ほしいと思ひます。言ひ換へれば、氏は餘あまり巧うますぎて、人間の本當の心しん理りの境を越えて飛ひや躍くしすぎるのでせう。
三、志賀直哉氏
作者の素テン質ペラメントの尊さといふものを最もつともよく感じるのは、志賀直哉氏です。一體私は﹁留女﹂以來氏の作品を、今のどの作家の作品よりも好きなのですが、中でも﹁夜の光﹂の中に收められてゐる﹁正義派﹂﹁出來事﹂﹁范の犯罪﹂﹁清兵衞と瓢箪﹂特に﹁和解﹂には最も感かん嘆たんさせられました。恐らく洗せん煉れん琢たく磨まされ、その表現の一々がテエマに對たいして少しの無む駄だも、少しの弛ゆるみもなく、簡かん潔けつ緊きん張ちやうを極きはめてゐる點てんに於て、志賀氏の作さく品ひん程ほどなのはありません。この頃の冗じよ漫うま弛んち緩くわんの筆を徒らに伸のばしたやうな、所いは謂ゆる勞らう作さくを見れば見る程、その一字一句も苟いやしくしない氏の創さう作さく的てき態たい度どに頭が下らずには居られません。氏の人生を見る眼めは直たゞちにその底に横はつてゐる眞しん髓ずゐを捉とらへてしまひます。そして、それを最もつとも充じう實じゆつ﹇#ルビの﹁じうじゆつ﹂はママ﹈した意味の短かさを以て表へう現げんします。そして茲にこそ氏の作さく家かとして天てん稟びんの素そし質つの尊さがあるのでせう。恐らくこの點に就ついては各人に異いろ論んのない事と思ひます。ところが﹁和解﹂丈けは、氏としては珍らしい程の長ちや篇うへんであり、亦、構こう圖づや表へう現げんの點に多少の難なんがある爲めに、それに就ていろ〳〵の議ぎろ論んを聞きました。私はよく友人の井汲や小島と、それ〴〵の作さく家かに就て度たび毎ごとに議論をし合ひますが、三人の意見が、例へば前に擧げた四つの作では完くわ全んぜんに一致ちして居ながら﹁和解﹂に於ては全く違ちがつてゐて、今でもまだ議ぎろ論んをし合ひます。私が﹁和解﹂を非ひじ常やうに傑れた作さく品ひんだと主張するに反して、井汲や小島は﹁和解﹂を餘り感かん心しんしてゐないのです。即ち二人は、この作の表へう現げん形けい式しきや構こう圖づ﹇#ルビの﹁こうづ﹂は底本では﹁こづう﹂﹈の不統一な事を擧あげて、作のテエマの效エフ果エクトが薄うすいと云ひ、私は作の構こう圖づや形けい式しきに對する缺けつ點てんを蔽おほ﹇#ルビの﹁おほ﹂は底本では﹁お﹂﹈ふ丈けに、作の内容が深ふかい爲ために、この作の有もつ尊たふとさを主しゆ張ちやうして止まなかつたのです。こゝらにも各人が作の價か値ちを批ひは判んする心持の相さう違ゐがあると見えますが、﹁和解﹂に描ゑがかれてゐる作のテエマ、即ち父と子の痛いたましい心の爭さう鬪とうに對して働はたらいてゐる作者の實じつ感かん﹇#ルビの﹁じつかん﹂は底本では﹁じんかん﹂﹈、主人公の心の苦くも悶んに對する作者の感アイ情ンヒ輸ウル入ングの深ふかさは、張り切つた弦ゆづるのやうに緊きん張ぢやう﹇#ルビの﹁きんぢやう﹂はママ﹈した表へう現げんと相俟つて、作の缺けつ點てんを感かんじる前に、それに對して感かん嘆たんしてしまひます。その父ちゝと子の心と心とが歔きよ欷きの中にぴつたり抱き合ふ瞬しゆ間んかんの作さく者しやの筆には、恐ろしい程眞しん實じつな愛あいの發はつ露ろを鋭するどく描ゑがき出してゐるではありませんか。かうなつて來ると、一體私は内ない容ようの方に心を惹ひかれるものですが、とても形式方面の缺けつ點てんや非ひな難んを顧かへりみる暇はありません。その描ゑがかれてゐる事に對して、作の大きな尊たふとさを感かんじて了ふのです。無論作さく品ひんといふものに、表へう現げん形けい式しきの完くわ全んぜんといふ事は必ひつ要えうな事ですが、表現の如いか何んを問はず、作さく者しやがかういふ意い味みに眞しん實じつを捉へて、それを適てき確かくに現はし得てゐるとすれば、そこに最う深ふかい作の意い味みがあるのではありますまいか。私は又氏の﹁流行感冒と石﹂といふ作さく品ひんを讀んで、氏が日にち常じや生うせ活いくわつの出來事から、如い何かに深く人生の眞しん實じつを捉へ得てゐるかといふ事を、しみ〴〵感じずには居られませんでした。