球突の球の響
アントン・チエエホフの名戯ぎき曲よく﹁櫻さくらの園その﹂の第だい三幕まく目の舞ぶた台いの左奧おく手には球たま突つき塲ばがある心になつてゐる。舞ぶた台いはいふまでもなく櫻さくらの園そのの女主しゆ人ラアネフスカヤの邸てい宅たくの廣ひろ間まで、時は春はるの夜よ、その地ち方の名家もやがて沒ぼつ落らくといふ悲かなしい運うん命めいの前にあるのだが、そこにはロシヤのいはゆる﹁千八百八十年代だいの知イン識テリ階ゲン級チヤ﹂である處ところのラアネフスカヤを初はじめ、老ろう若じやくの男女達たちの十余よ人が集あつまつて舞ぶと踏うに興けうじてゐる。然しかし、さすがにどことなく哀あい愁しうにみちた空くう氣き。間まもなく邸てい宅たくにいよいよ買かひ手がついたといふ話はなしが傳つたはつて、ラアネフスカヤが悲かなしみに打うたれて卒そつ倒とうする塲ばめ面んとなつてくるのであるがその間あひだ裏うら手からカチン、カチインと絶た※﹇#変体仮名え、11-一-18﹈ず聞きこ※﹇#変体仮名え、11-一-18﹈てくる球たま突つきの球たまの響ひゞきはさういふ塲ばめ面んの空くう氣きと對たい應おうして、いかにも感かんじの美しい、何ともいへない舞台たい効こう果くわをなしてゐる。いつたい﹁櫻さくらの園その﹂には第だい一幕まくの汽き車の音おと、第だい二幕まくのギタアの音色、第だい四幕まくの終をはりの櫻さくらの木を切り倒たふす斧をのの響ひゞきなどと、塲ばめ面ん々々の感かんじと相あひ俟つて音おん響けうの効こう果くわが實じつに巧たくみに用もちゐられてゐるが、私わたしの狹せまい知ちし識きの範はん圍いでは、戯ぎき曲よくに球たま突つきの球たまの響ひゞきなどを用もちゐたのはひとりチエエホフあるのみのやうである。里見、久保田、豊島氏の球突
これも私わたしの讀よんだだけの範はん圍いでいへば、日本では里見さん、久保田万太郎さん、豐島與志雄さんがいづれも短たん篇小説せつの中に球たま突つき塲ばを題だい材ざいにしてゐる。朧氣けな記きお憶くを辿たどれば、久保田さんのは私わたしも二三度ど一緒に行つた事のある、淺あさ草の十二階かい近所しよの球突つき塲ばを背はい景けいにしたもので、そこに久保田さん獨どく特とくの義ぎ理り人情ぜうの世せか界いを扱つてあつたやうに思おもふ。﹇#﹁思ふ。﹂は底本では﹁思ふ﹂﹈里見さんのは確か修しゆ善ぜん寺あたりの球たま突つき塲ばを題だい材ざいにしたもので、そこに集あつまつてくる温おん泉せん客きやくや町の常ぜう連れんの球突つき振ふりそのものを例れいの鮮かな筆ひつ致ちで描ゑがいてあつたかと思おもふ。豐島さんのは今はもう忘わすれてしまつたが、とにかく球たま突つき塲ばといふものはちよつと變かはつた人間げん的てき空くう氣きの漂たゞよふもので球たまの響ひゞきの内には時とすると妙めうに胸むな底そこに沁しみわたるやうな一種しゆの神祕ひか感んが感かんじられる。扱あつかひ方によつては面おも白い小説せつも書けやうといふものである。私自身の球突稽古
處ところで、私わたしが球たま突つきを初はじめたのは三田の文ぶん科くわの豫よく科わ生だつた二十一の時で、秋あきに例れいのやうにからだを惡わるくして伊い豆づ山の相さが模みや屋りよ旅くわ館んに一月ほどを暮くらしたが、そこに球たま突つき塲ばがあつたので無ぶ聊のまゝ運うん動どうがてら二十點てんといふ處ところあたりから習ならひ出したのが、病みつきの初はじめだつた。元ぐわん來私わたしは少せう年時代から寫しや眞しんをやる、昆こん虫採さい集しうをやる、草花を作つくる將せう棋ぎをさすといふ風で、少せう々趣しゆ味みの多おほ過すぎる方なのだが、そして、一時それぞれにかつと熱ねつ中する方なのだが、球たま突つきも御ご多た分に洩もれず、少すこし味あぢが分り出すともう面おも白くてたまらなくなつて來た。これは球たま突つきを少すこしやつた人の誰たれしも經けい驗けんする事で、夜よる電でん氣きを消けして床にはひると暗くら闇の中に赤白の四つの球たまをのせた青い球たま台たいが浮うかんで來て、取とり方を夢む中で空くう想そうしたりする。友達たちなんかと話はなしてゐると三人の位い置ちが引ひき玉に考かんがへられたり、三つ並ならんだ茶ちや碗の姿すがたが面おも白い押おし玉の恰かつ好こうに見※﹇#変体仮名え、11-三-7﹈たりする。そんな譯わけで伊い豆づ山から歸かへつてくると、早速家の近くに通ひの球たま突つき塲ばを見つけて、さすがに學校を全まつたくエスするといふほどではなかつたが、一時は學校の歸かへりに球たま突つき塲ばへ寄よつて來ないと虫が納をさまらないやうな熱ねつ中振ふりだつた。そして、少せう々病やま膏ひこ肓うこうに入つたかなとやましくなると、なあに運うん動どうのためだといふ風に自じ分で自じ分にいひ譯わけしてゐた。氣分球の本性
結けつ果くわは空しくなかつた。翌よく年は五十點てんになつた。その翌年は百點てんになつた。そして本科くわ二三年の時分には百五十點てんにまでせり登のぼつて、球たま突つき塲ばの常ぜう連れんでも大關せき格かくぐらゐになつたが、何としてもその折をり々の氣き分に左右され勝ちな自じ分の本性せいは爭あらそへなかつた。球たま突つき語ごでいへばいはゆる氣き分球たまで、日々の出來不ふ出來がひどかつた。つまり調てう子がよければ持點てんを一氣きに突つき切る事もたびたびで、自しぜ然ん勝かちが多いが、それが逆ぎやくになると、どうにも當あたりが惡わるくて、負が重かさなつて苛々しい、憂ゆう鬱うつな氣き分で球たま突つき塲ばから歸かへつてくるやうな始しま末つなのだ。從したがつてこはい時は相あひ手からひどくこはがられるが、甘あまい時はまただらしがないほど甘あまくなつてしまふ。その癖くせ負けず嫌きらひだものだから、負けると口惜しさのあまりに意い地ぢになつてやるといふ風になる。そのために金も使つかへば、ずゐぶん無む駄だにも時間かんを潰つぶし勝かちだつた。 然しかし、その内に幾いく分倦きて來た。それに學校を出て、どうにか新進しん作さく家などゝ認みとめられ出して、仕し事が相そう當とうに忙しくなつて來たとなると、さうさう球たま突つき塲ば通ひも出來なくなつた。そして、一月に七八回くわいが二三回くわいになり、やがて一度ど行くか行かないかになると、練れん習しふ不ふ足で腕うでも鈍にぶくなつて來た。百五十點てんがせいぜい百點てんといふ處ところにさがつた。興けう味みがへつた。一年ぐらゐ全くキユウを握にぎらないやうな事にもなつた。それでも去きよ年一昨年あたりはまた少せう々興けう味みが戻もどつて來て、一週しう間かんに一度どぐらゐの程てい度どで和田英作畫ぐわ伯はくや小宮豐隆先生と時々手合あはせの出來る近所しよの球たま突つき塲ばへ通つてゐたが、昨さく年の初しよ夏か兩れう親しんの家から別べつ居きよして、赤坂さか區く新町に家を持ち、馴なじ染みのその球たま突つき塲ばが遠とほくなるとともにまた殆ほとんどやめたやうな形かたちになつた。そして時たま友達たちなんかとどこともない球たま突つき塲ばで突ついてはみるが、以前ほど面おも白くない、持點てんも百點てんは少せう々無む理りになつてまあ八十點てんといふ處ところになつてしまつた。 文ぶん壇だんで球たま突つきをやる人は前に書いた里見さん、久保田さん、豐島さんの外ほかに加能作次郎さん、中戸川吉二さん、加宮貴一さんなどで、いづれも手合あはせをやつたが、みんな五十點てん以下だ。然しかしただ一人久保田さんが纎せん細さい緻密みつな作さく品ひんを書く人でありながら球たま突つきではひどく不ぶき器よ用うなのを除のぞけばそれぞれに球たま突つきの中にも作さく品ひんの感かんじが現あらはれてくるから面おも白い。豐島さんの至しご極く落おち着いた瞑想そう家的てきの突つき振ふり、里見さんは持點てんはたしか四十點てんで、まあ十兩れうつけ出しといつた格かくだが、時々實じつに鋭い、實じつにこまかい球たまの取とり方を見せる。全まつたくさすがにといふ感かんじを覺おぼ※﹇#変体仮名え、11-四-28﹈たが、里見さんはちつと身みを入れたら百點てんぐらゐには今でもなれるやうな氣きがする。球たま突つきは二十五歳さいを越こ※﹇#変体仮名え、11-五-1﹈てはもう腕うでが堅かたくなつて上達たつは遲ち々たるものなのだが……。亡き岩野泡鳴氏の思ひ出
球たまの突つき振ふりに作さく品ひんの感かんじが現あらはれるといへば、實じつに私わたしにとつて忘わすれ難かたいのは亡き岩野泡鳴さんだつた。それも亡くなられるほんの三四ヶ月前に万世橋はしのミカドホテルの球たま突つき塲ばで一戰せんを試こゝろみたのだつたが、持點てんも前に擧あげた人達たちよりも聊いさゝか群ぐんをぬいた六十點てんで、その突つき振ふりたるや快くわ活いくわつ奔ほん放ほう、當あたるべからずといつた愉ゆく快わいさだつた。始しし終う﹁はつはつはつは﹂といふ風に笑わらつてゐられるのが、フロツクでも當あたると、詞通とほり呵々大笑せうになる。その少すこし前に芥川龍之介さんの宅たくで初はじめてお眼めにかかつて想そう像ぞうとはまるで違ちがつた實じつに氣き持のいい人柄からに感かんじ入つたものだつたが、球たま突つきの相あひ手としてあんな氣き持のいい印いん象せうを留めてゐる人は先づ珍めづらしい。その後間まもなく、ちやうど三浦うら三崎さきの宿やど屋やに滯たい在ざい中に訃音に接せつした時、私わたしはまだあまりにまざまざしいその折をりの印いん象せうを思おもひ出させられるだけに、哀あい悼とうの氣き持も一そう痛つう切せつだつた。文ぶん壇だんの論ろん陣ぢん今や輕けい佻亂らん雜ざつ卑ひ小に流ながれて、飽あくまでも所しよ信しんに邁まい進しんする堂どう々たる論きや客くなきを思おもふ時、泡ほう鳴めいさんのさうした追つい憶おくも私わたしには深ふかい懷しさである。名手小宮豊隆氏
小宮先生は今は文ぶん壇だんよりも學界かいの方に專せん念ねんされるやうになつてしまはれたが、私わたしの知しれる限かぎりの文ぶん藝げいの道みちに携たづさはる人達たちの内では一番ばんの、百五十點てんといふ球たま突つきの名手である。いふまでもなく先生は私わたしの三田文ぶん科くわ生時代だいからの先生であるが、球たま突つきでは始しし終う喧けん嘩くわ相あひ手で、銀ぎん座ざう裏らの日勝せう亭ていで勝せう負ふを爭あらそつて、その成せい績せきで風月堂どうの洋よう食しよくのおごりつこをしたなどもしばしばである。尤もつとも、負けても實じつはおごつて頂いたゞく方が多おほかつたがどういふのかこの師して弟いの勝せう負ふはとかくだれ勝かちで、仕し舞まひには兩れう方共とも憂ゆう鬱うつになつて、むつつりしたこはい顏かほつきで變へんに意い地ちにかかつた仕しあ合ひになつてしまふ。また時とすると、腕うでよりも口の仕しあ合ひになつてしまふ。然しかし、ここにも先生の風格かくは現あらはれて、その突つき振ふりたるや悠ゆう々重じう厚こうの感かんじがある。そして、一面めんには纎せん細さい妙めう巧こうの赴おもむきを見る。いはば私わたしにとつては實じつに好こう々敵てき手だつたのだが、先生今や東北青葉ば城ぜう下に去さつて久しく相あひ見ゆる機きを得えない。時々思おもひ出すと、私わたしには脾肉にくの歎たんに堪たへないものがあるのである。球突に淫する和田英作畫伯
和田英作畫ぐわ伯はくとは一おと昨ゝ年しの春はる頃ころ近所しよの球たま突つき塲ばで初はじめて御ごめ面んし識きを得えた。そして、一時はやつぱり近所しよに住すんでをられた小宮先生を交まじへて、三巴ともゑの合がつ戰せんを交まじへたものだつた。和田先生は持點てん八十點てんだが、五十前後の年輩はいの方には珍めづらしい奇きれ麗いな、こまかな突つき振ふりをされる。しかも、やや淫いんするといへるほどの熱ねつ心家で、連れん夜や殆ほとんど出席せきを欠かかされた事がなかつた。無むろ論ん、私わたしには望のぞみの好こう敵てき手だつた。大正十三年から十四年への晩ばんを除じよ夜やの鐘を聞ききながら、先生と勝せう負ふを爭あらそつた事もある。そして、勝せう負ふをしながら畫ぐわ談だんを聞きかせて頂いたゞいたりするのも、私わたしには一つの樂たのしみだつた。然しかし、赤阪さかに移うつり住んでからは、全まつたく先生とも會くわ戰いせんの機きを得えない。尤もつとも、その球たま突つき塲ばが廢はい業げうしたせゐもあるが、先生もこの頃ころは明めい治ち大帝てい繪くわ畫いぐ館わくわんの壁へき畫ぐわの御ごき揮ご毫うにお忙しくもあるらしい。心よき誘惑
とにかく球たま突つきといふものは少すこし味あぢが分つてくると、實じつにデリケエトな興けう味みのある勝せう負ふ事だ。たとへば秋あきの温おん泉せん塲ばの靜しづかな夜よ更けなどに、好このもしい相あひ手と勝せう負ふに熱ねつ中しながら、相そう當たう腕うでが出來なければ冴※﹇#変体仮名え、11-七-25﹈ない處ところのあの球たまの響ひゞきを聞きく氣き持はちよつと何ともいへない。下町などの球たま突つき塲ばによくあるいはゆる球たま突つき塲ば氣き分なるものは、私わたしには甚はなはだ有あり難かたくないものだが、さういふ純じゆ粹んすいな境けう地ちになると、ちよつと淫しても惡わるくない誘ゆう惑わく物ぶつだ。震しん災さい後の東京けうには實じつ際さい驚おどろくほど球たま突つき塲ばがふ※﹇#変体仮名え、11-七-32﹈た。然しかし、球たま台たい、球たま、キユウ、チヨウク、お客きやくの人柄から、建たて物ものの感かんじ、周しう圍いの状ぜう態たい、經けい營えい者しやの經けい營えい振ふり――さうした條ぜう件けんがいい氣き持に揃そろふのは實じつに困こん難なんな事なので、さてしつくりと勝せう負ふを樂たのしみたくなるやうなのはめつたにない。とにかく文ぶん壇だんでも若わかい作さく家達たちの間あいだにだいぶはやり出したといふ。關くわん西では令れい孃ぜう夫ふ人の間あいだに大流りう行だといふ。球たま突つきの趣しゆ味みは今の處ところひろまつて行くばかりらしい。︵一五、二、一六︶