一
木きそ曾かい街ど道う、奈な良ら井いの駅は、中央線起点、飯いい田だま町ちより一五八哩マイル二、海抜三二〇〇尺、と言い出すより、膝ひざ栗くり毛げを思う方が手っ取り早く行旅の情を催させる。
ここは弥や次じ郎ろ兵べ衛え、喜きだ多は八ちが、とぼとぼと鳥とり居いと峠うげを越すと、日も西の山の端はに傾きければ、両側の旅はた籠ご屋やより、女ども立ち出いでて、もしもしお泊まりじゃござんしないか、お風ふ呂ろも湧わいていずに、お泊まりなお泊まりな――喜多八が、まだ少し早いけれど……弥次郎、もう泊まってもよかろう、のう姐ねえさん――女、お泊まりなさんし、お夜食はお飯まんまでも、蕎そ麦ばでも、お蕎麦でよかあ、おはたご安くして上げませず。弥次郎、いかさま、安い方がいい、蕎麦でいくらだ。女、はい、お蕎麦なら百十六銭もんでござんさあ。二人は旅銀の乏しさに、そんならそうときめて泊まって、湯から上がると、その約束の蕎麦が出る。さっそくにくいかかって、喜多八、こっちの方では蕎麦はいいが、したじが悪いにはあやまる。弥次郎、そのかわりにお給仕がうつくしいからいい、のう姐さん、と洒しゃ落れかかって、もう一杯くんねえ。女、もうお蕎麦はそれぎりでござんさあ。弥次郎、なに、もうねえのか、たった二ぜんずつ食ったものを、つまらねえ、これじゃあ食いたりねえ。喜多八、はたごが安いも凄すさまじい。二はいばかり食っていられるものか。弥次郎……馬鹿なつらな、銭は出すから飯をくんねえ。……無むざ慙んや、なけなしの懐ふと中ころを、けっく蕎麦だけ余計につかわされて悄しょ気げ返る。その夜、故郷の江戸お箪たん笥すま町ち引出し横町、取とっ手て屋やの鐶かん兵べ衛えとて、工面のいい馴なじ染みに逢あって、ふもとの山寺に詣もうでて鹿しかの鳴き声を聞いた処ところ……
……と思うと、ふとここで泊まりたくなった。停ステ車エシ場ョンを、もう汽車が出ようとする間まぎ際わだったと言うのである。
この、筆者の友、境さか賛いさ吉んきちは、実は蔦つたかずら木き曾その桟かけ橋はし、寝ねざ覚めの床とこなどを見物のつもりで、上あげ松まつまでの切符を持っていた。霜月の半ばであった。
﹁……しかも、その︵蕎麦二膳ぜん︶には不思議な縁がありましたよ……﹂
と、境が話した。
昨夜は松本で一泊した。御存じの通り、この線の汽車は塩しお尻じりから分のり岐か点えで、東京から上松へ行くものが松本で泊まったのは妙である。もっとも、松本へ用があって立ち寄ったのだと言えば、それまででざっと済む。が、それだと、しめくくりが緩ゆるんでちと辻つじ褄つまが合わない。何も穿せん鑿さくをするのではないけれど、実は日数の少ないのに、汽車の遊びを貪むさぼった旅た行びで、行ゆ途きは上野から高崎、妙義山を見つつ、横川、熊くまの平たいら、浅間を眺め、軽井沢、追分をすぎ、篠しのの井い線に乗り替えて、姨おば捨すて田たご毎とを窓から覗のぞいて、泊りはそこで松本が予定であった。その松本には﹁いい娘の居る旅館があります。懇意ですから御紹介をしましょう﹂と、名のきこえた画家が添え手紙をしてくれた。……よせばいいのに、昨夜その旅館につくと、なるほど、帳場にはそれらしい束髪の女が一人見えたが、座敷へ案内したのは無論女中で。……さてその紹介状を渡したけれども、娘なんぞ寄っても着かない、……ばかりでない。この霜夜に、出しがらの生なま温ぬるい渋茶一杯汲くんだきりで、お夜食ともお飯まんまとも言い出さぬ。座敷は立派で卓は紫した檀んだ。火ひば鉢ちは大きい。が火の気はぽっちり。で、灰の白いのにしがみついて、何しろ暖かいものでお銚ちょ子うしをと云いうと、板前で火を引いてしまいました、なんにも出来ませんと、女ねえ中さんの素そっ気けなさ。寒さは寒し、なるほど、火を引いたような、家中寂ひっ寞そりとはしていたが、まだ十一時前である……酒だけなりと、頼むと、おあいにく。酒はないのか、ござりません。――じゃ、麦ビイ酒ルでも。それもお気の毒様だと言う。姐ねえさん……、境は少々居直って、どこか近所から取り寄せてもらえまいか。へいもう遅うござりますで、飲食店は寝ましたでな……飲食店だと言やあがる。はてな、停ステ車エシ場ョンから、震えながら俥くるまでくる途中、ついこの近まわりに、冷たい音して、川が流れて、橋がかかって、両側に遊ゆう廓かくらしい家が並んで、茶めしの赤い行あん燈どんもふわりと目の前にちらつくのに――ああ、こうと知ったら軽井沢で買った二合罎びんを、次郎どのの狗いぬではないが、皆なめてしまうのではなかったものを。大おお歎ため息いきとともに空すき腹ばらをぐうと鳴らして可あわ哀れな声で、姐さん、そうすると、酒もなし、麦酒もなし、肴さかなもなし……お飯まんまは。いえさ、今晩の旅はた籠ごの飯は。へい、それが間に合いませんので……火を引いたあとなもんでなあ――何の怨うらみか知らないが、こうなると冷遇を通り越して奇きっ怪かいである。なまじ紹介状があるだけに、喧けん嘩かづ面らで、宿を替えるとも言われない。前ぜん世せの業ごうと断あき念らめて、せめて近所で、蕎そ麦ばか饂うど飩んの御都合はなるまいか、と恐る恐る申し出ると、饂飩なら聞いてみましょう。ああ、それを二ぜん頼みます。女中は遁にげ腰ごしのもったて尻じりで、敷居へ半分だけ突き込んでいた膝ひざを、ぬいと引っこ抜いて不ぶし精ょうに出て行く。
待つことしばらくして、盆で突き出したやつを見ると、丼どんぶりがたった一つ。腹の空すいた悲しさに、姐さん二ぜんと頼んだのだが。と詰なじるように言うと、へい、二ぜん分、装もり込んでございますで。いや、相わかりました。どうぞおかまいなく、お引き取りを、と言うまでもなし……ついと尻を見せて、すたすたと廊下を行くのを、継まま児っこのような目つきで見ながら、抱き込むばかりに蓋ふたを取ると、なるほど、二ぜんもり込みだけに汁したじがぽっちり、饂飩は白く乾いていた。
この旅館が、秋あき葉ばさ山ん三尺坊が、飯いい綱づな権現へ、客を、たちものにしたところへ打ぶつ撞かったのであろう、泣くより笑いだ。
その……饂飩二ぜんの昨ゆう夜べを、むかし弥次郎、喜多八が、夕ゆう旅はた籠ごの蕎麦二ぜんに思い較くらべた。いささか仰山だが、不思議の縁というのはこれで――急に奈良井へ泊まってみたくなったのである。
日あしも木曾の山の端はに傾いた。宿しゅくには一ひと時しぐ雨れさっとかかった。
雨ぐらいの用意はしている。駅前の俥は便たよらないで、洋か傘さで寂しく凌しのいで、鴨かも居いの暗い檐のきづたいに、石ころ路みちを辿たどりながら、度胸は据すえたぞ。――持って来い、蕎麦二膳ぜん。で、昨夜の饂飩は暗やみ討うちだ――今こよ宵いの蕎麦は望むところだ。――旅のあわれを味わおうと、硝ガラ子ス張りの旅館一二軒を、わざと避けて、軒に山やま駕か籠ごと干ひ菜ばを釣つるし、土間の竈かまどで、割わり木ぎの火を焚たく、侘わびしそうな旅籠屋を烏からすのように覗のぞき込み、黒き外がい套とうで、御免と、入ると、頬ほお冠かぶりをした親おや父じがその竈の下を焚いている。框かまちがだだ広く、炉が大きく、煤すすけた天井に八は間ち行け燈んの掛かったのは、山駕籠と対ついの註ちゅ文うもん通り。階はし子ごし下たの暗い帳場に、坊主頭の番頭は面白い。
﹁いらっせえ。﹂
蕎麦二膳、蕎麦二膳と、境が覚悟の目の前へ、身軽にひょいと出て、慇いん懃ぎんに会えし釈ゃくをされたのは、焼やき麸ふだと思う︵しっぽく︶の加かや料くが蒲かま鉾ぼこだったような気がした。
﹁お客様だよ――鶴つるの三番。﹂
女中も、服みな装りは木もめ綿んだが、前まえ垂だれがけのさっぱりした、年と紀しの少わかい色白なのが、窓、欄干を覗く、松の中を、攀よじ上るように三階へ案内した。――十畳敷。……柱も天井も丈夫造りで、床の間の誂あつらえにもいささかの厭いや味みがない、玄関つきとは似もつかない、しっかりした屋台である。
敷しき蒲ぶと団んの綿も暖かに、熊くまの皮の見事なのが敷いてあるは。ははあ、膝栗毛時代に、峠とう路げじで売っていた、猿さるの腹ごもり、大おろ蛇ちの肝、獣の皮というのはこれだ、と滑おど稽けた殿様になって件くだんの熊の皮に着座に及ぶと、すぐに台だい十じゅ能うへ火を入れて女ね中えさんが上がって来て、惜し気もなく銅あかの大おお火ひば鉢ちへ打ぶちまけたが、またおびただしい。青い火さきが、堅炭を搦からんで、真赤にって、窓に沁しみ入る山やま颪おろしはさっと冴さえる。三階にこの火の勢いは、大地震のあとでは、ちと申すのも憚はばかりあるばかりである。
湯にも入った。
さて膳だが、――蝶ちょ脚うあしの上を見ると、蕎麦扱いにしたは気恥ずかしい。わらさの照焼はとにかくとして、ふっと煙の立つ厚焼の玉子に、椀わんが真白な半ぺんの葛くずかけ。皿さらについたのは、このあたりで佳かひ品んと聞く、鶫つぐみを、何と、頭かしらを猪ちょ口くに、股またをふっくり、胸を開いて、五羽、ほとんど丸焼にして芳かんばしくつけてあった。
﹁ありがたい、……実にありがたい。﹂
境は、その女中に馴なれない手つきの、それも嬉うれしい……酌しゃくをしてもらいながら、熊に乗って、仙せん人にんの御ごち馳そ走うになるように、慇いん懃ぎんに礼を言った。
﹁これは大した御馳走ですな。……実にありがたい……全く礼を言いたいなあ。﹂
心しん底そこのことである。はぐらかすとは様子にも見えないから、若い女中もかけ引きなしに、
﹁旦だん那なさん、お気に入りまして嬉しゅうございますわ。さあ、もうお一つ。﹂
﹁頂ちょ戴うだいしよう。なお重ねて頂戴しよう。――時に姐ねえさん、この上のお願いだがね、……どうだろう、この鶫つぐみを別に貰もらって、ここへ鍋なべに掛けて、煮ながら食べるというわけには行くまいか。――鶫はまだいくらもあるかい。﹂
﹁ええ、笊ざるに三杯もございます。まだ台所の柱にも束にしてかかっております。﹂
﹁そいつは豪ごう気ぎだ。――少し余分に貰いたい、ここで煮るように……いいかい。﹂
﹁はい、そう申します。﹂
﹁ついでにお銚ちょ子うしを。火がいいから傍そばへ置くだけでも冷めはしない。……通いが遠くって気の毒だ。三本ばかり一いち時どきに持っておいで。……どうだい。岩見重太郎が註ちゅ文うもんをするようだろう。﹂
﹁おほほ。﹂
今朝、松本で、顔を洗った水みず瓶がめの水とともに、胸が氷に鎖とざされたから、何の考えもつかなかった。ここで暖かに心が解けると、……分かった、饂うど飩んで虐待した理わ由けというのが――紹介状をつけた画伯は、近頃でこそ一家をなしたが、若くて放浪した時代に信しん州しゅ路うじを経へめ歴ぐって、その旅館には五いつ月つきあまりも閉じ籠こもった。滞とどこおる旅はた籠ごだ代いの催促もせず、帰かえ途りには草わら鞋じせ銭んまで心着けた深切な家うちだと言った。が、ああ、それだ。……おなじ人の紹介だから旅籠代を滞らして、草鞋銭を貰うのだと思ったに違いない。……
﹁ええ、これは、お客様、お麁そま末つなことでして。﹂
と紺の鯉こい口ぐちに、おなじ幅広の前掛けした、痩やせた、色のやや青黒い、陰気だが律りち儀ぎらしい、まだ三十六七ぐらいな、五分刈りの男が丁寧に襖ふす際まぎわに畏かしこまった。
﹁どういたして、……まことに御馳走様。……番頭さんですか。﹂
﹁いえ、当家の料理人にございますが、至って不ふつ束つかでございまして。……それに、かような山やま家がへ辺ん鄙ぴで、一向お口に合いますものもございませんで。﹂
﹁とんでもないこと。﹂
﹁つきまして、……ただいま、女どもまでおっしゃりつけでございましたが、鶫を、貴あな方たさ様ま、何か鍋でめしあがりたいというお言ことばで、いかようにいたして差し上げましょうやら、右、女どももやっぱり田いな舎かもののことでございますで、よくお言がのみ込めかねます。ゆえに失礼ではございますが、ちょいとお伺いに出ましてございますが。﹂
境は少なからず面くらった。
﹁そいつはどうも恐縮です。――遠方のところを。﹂
とうっかり言った。……
﹁串じょ戯うだんのようですが、全く三階まで。﹂
﹁どう仕つかまつりまして。﹂
﹁まあ、こちらへ――お忙しいんですか。﹂
﹁いえ、お膳ぜんは、もう差し上げました。それが、お客様も、貴方様のほか、お二組ぐらいよりございません。﹂
﹁では、まあこちらへ。――さあ、ずっと。﹂
﹁はッ、どうも。﹂
﹁失礼をするかも知れないが、まあ、一ひと杯つ。ああ、――ちょうどお銚子が来た。女ね中えさん、お酌をしてあげて下さい。﹂
﹁は、いえ、手前不調法で。﹂
﹁まあまあ一ひと杯つ。――弱ったな、どうも、鶫つぐみを鍋でと言って、……その何ですよ。﹂
﹁旦那様、帳場でも、あの、そう申しておりますの。鶫は焼いてめしあがるのが一番おいしいんでございますって。﹂
﹁お膳にもつけて差し上げましたが、これを頭から、その脳のう味み噌そをするりとな、ひと噛かじりにめしあがりますのが、おいしいんでございまして、ええとんだ田舎流儀ではございますがな。﹂
﹁お料理番さん……私は決して、料理をとやこう言うたのではないのですよ。……弱ったな、どうも。実はね、あるその宴会の席で、その席に居た芸げい妓しゃが、木曾の鶫の話をしたんです――大分酒が乱れて来て、何とか節というのが、あっちこっちではじまると、木曾節というのがこの時顕あらわれて、――きいても可なつ懐かしい土地だから、うろ覚えに覚えているが、︵木曾へ木曾へと積み出す米は︶何とかっていうのでね……﹂
﹁さようで。﹂
と真四角に猪ちょ口くをおくと、二つ提さげの煙たば草こ入れから、吸いかけた煙きせ管るを、金かねの火ひば鉢ちだ、遠慮なくコッツンと敲たたいて、
﹁……︵伊い那なや高たか遠との余り米︶……と言うでございます、米、この女中の名でございます、お米よね。﹂
﹁あら、何だよ、伊いさ作くさん。﹂
と女中が横にらみに笑って睨にらんで、
﹁旦那さん、――この人は、家うちが伊那だもんでございますから。﹂
﹁はあ、勝かつ頼より様と同国ですな。﹂
﹁まあ、勝頼様は、こんな男ぶりじゃありませんが。﹂
﹁当り前よ。﹂
とむッつりした料理番は、苦笑いもせず、またコッツンと煙管を払はたく。
﹁それだもんですから、伊那の贔ひい屓きをしますの――木曾で唄うたうのは違いますが。――︵伊那や高遠へ積み出す米は、みんな木き曾そ路じの余り米︶――と言いますの。﹂
﹁さあ……それはどっちにしろ……その木曾へ、木曾へのきっかけに出た話なんですから、私たちも酔ってはいるし、それがあとの贄にえ川がわだか、峠を越した先の藪やぶ原はら、福島、上あげ松まつのあたりだか、よくは訊きかなかったけれども、その芸げい妓しゃが、客と一所に、鶫あみを掛けに木曾へ行ったという話をしたんです。……まだ夜よの暗いうちに山道をずんずん上って、案内者の指さし揮ずの場所で、かすみを張って囮おとりを揚げると、夜明け前、霧のしらじらに、向うの尾おの上えを、ぱっとこちらの山の端はへ渡る鶫の群れが、むらむらと来て、羽ばたきをして、かすみに掛かる。じわじわととって占めて、すぐに焚たき火びで附け焼きにして、膏あぶらの熱いところを、ちゅッと吸って食べるんだが、そのおいしいこと、……と言って、話をしてね……﹂
﹁はあ、まったくで。﹂
﹁……ぶるぶる寒いから、煮にえ燗かんで、一杯のみながら、息もつかずに、幾口か鶫を噛かじって、ああ、おいしいと一息して、焚火にしがみついたのが、すっと立つと、案内についた土地の猟師が二人、きゃッと言った――その何なんですよ、芸妓の口が血だらけになっていたんだとさ。生なま々なまとした半熟の小鳥の血です。……とこの話をしながら、うっかりしたようにその芸妓は手ハン巾ケチで口を圧おさえたんですがね……たらたらと赤いやつが沁しみそうで、私は顔を見ましたよ。触さわると撓しないそうな痩やせぎすな、すらりとした、若い女で。……聞いてもうまそうだが、これは凄すごかったろう、その時、東京で想像しても、嶮けわしいとも、高いとも、深いとも、峰谷の重なり合った木曾山中のしらしらあけです……暗い裾すそに焚火を搦からめて、すっくりと立ち上がったという、自然、目の下の峰よりも高い処ところで、霧の中から綺きれ麗いな首が。﹂
﹁いや、旦だん那なさん。﹂
﹁話は拙まずくっても、何となく不気味だね。その口が血だらけなんだ。﹂
﹁いや、いかにも。﹂
﹁ああ、よく無事だったな、と私が言うと、どうして? と訊くから、そういうのが、慌あわてる銃猟家だの、魔のさした猟師に、峰越しの笹ささ原はらから狙ねらい撃ちに二つ弾だ丸まを食らうんです。……場所と言い……時刻と言い……昔から、夜待ち、あけ方の鳥あみには、魔がさして、怪しいことがあると言うが、まったくそれは魔がさしたんだ。だって、覿てき面めんに綺麗な鬼になったじゃあないか。……どうせそうよ、……私は鬼よ。――でも人に食われる方の……なぞと言いながら、でも可こ恐わいわね、ぞっとする。と、また口を手巾で圧えていたのさ。﹂
﹁ふーん。﹂と料理番は、我を忘れて沈んだ声して、
﹁ええ。旦那、へい、どうも、いや、全く。――実際、危のうございますな。――そういう場合には、きっと怪け我ががあるんでして……よく、その姐ねえさんは御無事でした。この贄川の川上、御おん嶽たけ口ぐち。美み濃の寄りの峡かいは、よけいに取れますが、その方かたの場所はどこでございますか存じません――芸げい妓しゃ衆しゅうは東京のどちらの方かたで。﹂
﹁なに、下町の方ですがね。﹂
﹁柳橋……﹂
と言って、覗のぞくように、じっと見た。
﹁……あるいはその新橋とか申します……﹂
﹁いや、その真中ほどです……日本橋の方だけれど、宴会の席ばかりでの話ですよ。﹂
﹁お処が分かって差さし支つかえがございませんければ、参考のために、その場所を伺っておきたいくらいでございまして。……この、深山幽谷のことは、人間の智ち慧えには及びません――﹂
女中も俯うつ向むいて暗い顔した。
境は、この場合誰だれもしよう、乗り出しながら、
﹁何か、この辺に変わったことでも。﹂
﹁……別にその、と云ってございません。しかし、流れに瀬がございますように、山にも淵ふちがございますで、気をつけなければなりません。――ただいまさしあげました鶫つぐみは、これは、つい一両日続きまして、珍しく上の峠とう口げぐちで猟があったのでございます。﹂
﹁さあ、それなんですよ。﹂
境はあらためて猪ちょ口くをうけつつ、
﹁料理番さん。きみのお手てぎ際わで膳ぜんにつけておくんなすったのが、見てもうまそうに、香かんばしく、脂あぶらの垂れそうなので、ふと思い出したのは、今の芸げい妓しゃの口が血の一件でね。しかし私は坊さんでも、精進でも、何でもありません。望んでも結構なんだけれど、見たまえ。――窓の外は雨と、もみじで、霧が山を織っている。峰の中には、雪を頂いて、雲を貫いて聳そびえたのが見えるんです。――どんな拍子かで、ひょいと立ちでもした時口が血になって首が上へ出ると……野郎でこの面つらだから、その芸妓のような、凄すごく美しく、山の神の化けし身んのようには見えまいがね。落ち残った柿かきだと思って、窓の外から烏からすが突つかないとも限らない、……ふと変な気がしたものだから。﹂
﹁お米さん――電でん燈きがなぜか、遅いでないか。﹂
料理番が沈んだ声で言った。
時しぐ雨れは晴れつつ、木曾の山々に暮が迫った。奈なら良い井が川わの瀬が響く。
二
﹁何だい、どうしたんです。﹂
﹁ああ、旦那。﹂と暗やみ夜よの庭の雪の中で。
﹁鷺さぎが来て、魚うおを狙ねらうんでございます。﹂
すぐ窓の外、間近だが、池の水を渡るような料理番――その伊作の声がする。
﹁人ひ間とが落ちたか、獺かわうそでも駈かけ廻まわるのかと思った、えらい音で驚いたよ。﹂
これは、その翌日の晩、おなじ旅はた店ごやの、下した座敷でのことであった。……
境は奈良井宿に逗とう留りゅうした。ここに積もった雪が、朝から降り出したためではない。別にこのあたりを見物するためでもなかった。……昨夜は、あれから――鶫を鍋なべでと誂あつらえたのは、しゃも、かしわをするように、膳ぜんのわきで火ひば鉢ちへ掛けて煮るだけのこと、と言ったのを、料理番が心得て、そのぶつ切りを、皿に山もり。目めざ笊るに一杯、葱ねぎのざくざくを添えて、醤しょ油うゆも砂糖も、むきだしに担かつぎあげた。お米が烈々と炭を継ぐ。
越こしの方だが、境の故郷いまわりでは、季節になると、この鶫を珍重すること一通りでない。料理屋が鶫御おん料りょ理うり、じぶ、おこのみなどという立看板を軒に掲げる。鶫うどん、鶫蕎そ麦ばと蕎麦屋までが貼び紙らを張る。ただし安や価すくない。何の椀わん、どの鉢はちに使っても、おん羮あつもの、おん小こぶ蓋たの見識で。ぽっちり三みき臠れ、五いつ臠きれよりは附けないのに、葱と一ひと所つに打ぶち覆まけて、鍋からもりこぼれるような湯気を、天井へ立てたは嬉うれしい。
あまっさえ熱あつ燗かんで、熊くまの皮に胡あぐ坐らで居た。
芸げい妓しゃの化けものが、山賊にかわったのである。
寝る時には、厚あつ衾ぶすまに、この熊くまの皮が上へ被かぶさって、袖そでを包み、蔽おおい、裙すそを包んだのも面白い。あくる日、雪になろうとてか、夜よあ嵐らしの、じんと身に浸しむのも、木曾川の瀬の凄すごいのも、ものの数ともせず、酒の血と、獣の皮とで、ほかほかして三階にぐっすり寝込んだ。
次第であるから、朝は朝飯から、ふっふっと吹いて啜すするような豆腐の汁しるも気に入った。
一いっ昨さく日じつの旅館の朝はどうだろう。……溝どぶの上澄みのような冷たい汁に、おん羮ほどに蜆しじみが泳いで、生煮えの臭さといったらなかった。……
山も、空も氷を透とおすごとく澄みきって、松の葉、枯木の閃きらめくばかり、晃きら々きらと陽ひがさしつつ、それで、ちらちらと白いものが飛んで、奥山に、熊が人じん立りつして、針を噴ふくような雪であった。
朝あ飯さが済んでしばらくすると、境はしくしくと腹が疼いたみだした。――しばらくして、二三度はばかりへ通った。
あの、饂うど飩んの祟たたりである。鶫を過食したためでは断じてない。二ぜん分を籠こみにした生がえりのうどん粉の中あ毒たらない法はない。お腹なかを圧おさえて、饂飩を思うと、思う下からチクチクと筋が動いて痛み出す。――もっとも、戸そ外とは日当りに針が飛んでいようが、少々腹が痛もうが、我慢して、汽車に乗れないという容よう体だいではなかったので。……ただ、誰も知らない。この宿の居心のいいのにつけて、どこかへのつらあてにと、逗とう留りゅうする気になったのである。
ところで座敷だが――その二度めだったか、厠かわやのかえりに、わが座敷へ入ろうとして、三階の欄てす干りから、ふと二階を覗のぞくと、階はし子ごだ段んの下に、開けた障子に、箒ほうきとはたきを立て掛けた、中の小座敷に炬こた燵つがあって、床の間が見通される。……床に行こう李りと二つばかり重ねた、あせた萌もえ葱ぎの風ふろ呂し敷きづつみの、真さな田だひ紐もで中結わえをしたのがあって、旅たび商あき人んどと見える中年の男が、ずッぷり床を背し負よって当たっていると、向い合いに、一人の、中ちゅ年うど増しまの女中がちょいと浮腰で、膝ひざをついて、手さきだけ炬燵に入れて、少し仰向くようにして、旅商人と話をしている。
なつかしい浮世の状さまを、山の崖がけから掘り出して、旅や宿どに嵌はめたように見えた。
座敷は熊の皮である。境は、ふと奥山へ棄すてられたように、里心が着いた。
一おと昨と日い松本で城を見て、天守に上って、その五いつ層つめの朝霜の高層に立って、ぞっとしたような、雲に連なる、山々のひしと再び窓に来て、身に迫るのを覚えもした。バスケットに、等なお閑ざりに絡からめたままの、城あとの崩くずれ堀ぼりの苔こけむす石いし垣がきを這はって枯れ残った小さな蔦つたの紅くれないの、鶫つぐみの血のしたたるごときのを見るにつけても。……急に寂しい。――﹁お米さん、下し階たに座敷はあるまいか。――炬燵に入ってぐっすりと寝たいんだ。﹂
二階の部屋々々は、時ならず商あき人んど衆しゅうの出では入いりがあるからと、望むところの下座敷、おも屋から、土間を長々と板を渡って離れ座敷のような十畳へ導かれたのであった。
肱ひじ掛かけ窓まどの外が、すぐ庭で、池がある。
白雪の飛ぶ中に、緋ひご鯉いの背、真鯉の鰭ひれの紫は美しい。梅も松もあしらったが、大方は樫かし槻けやきの大木である。朴ほおの樹きの二抱かかえばかりなのさえすっくと立つ。が、いずれも葉を振るって、素すは裸だかの山さん神じんのごとき装いだったことは言うまでもない。
午後三時ごろであったろう。枝に梢こずえに、雪の咲くのを、炬燵で斜はす違かいに、くの字になって――いい婦おんなだとお目に掛けたい。
肱掛窓を覗のぞくと、池の向うの椿つばきの下に料理番が立って、つくねんと腕組して、じっと水を瞻みまもるのが見えた。例の紺の筒つつ袖ッぽに、尻しりからすぽんと巻いた前まえ垂だれで、雪の凌しのぎに鳥打帽を被かぶったのは、いやしくも料理番が水中の鯉を覗くとは見えない。大きな鷭ばんが沼の鰌どじょうを狙ねらっている形である。山も峰も、雲深くその空を取り囲む。
境は山間の旅情を解した。﹁料理番さん、晩の御ごち馳そ走うに、その鯉を切るのかね。﹂﹁へへ。﹂と薄暗い顔を上げてニヤリと笑いながら、鳥打帽を取ってお時儀をして、また被り直すと、そのままごそごそと樹きを潜くぐって廂ひさしに隠れる。
帳場は遠し、あとは雪がやや繁しげくなった。
同時に、さらさらさらさらと水の音が響いて聞こえる。﹁――また誰か洗面所の口金を開け放したな。﹂これがまた二度めで。……今朝三階の座敷を、ここへ取り替えない前に、ちと遠いが、手ちょ水うずを取るのに清きれ潔いだからと女中が案内をするから、この離は座な敷れに近い洗面所に来ると、三カ所、水みず道ぐ口ちがあるのにそのどれを捻ひねっても水が出ない。さほどの寒さとは思えないが凍いてたのかと思って、谺こだまのように高く手を鳴らして女中に言うと、﹁あれ、汲くみ込こみます。﹂と駈かけ出して行くと、やがて、スッと水が出た。――座敷を取り替えたあとで、はばかりに行くと、ほかに手ちょ水うず鉢ばちがないから、洗面所の一つを捻ひねったが、その時はほんのたらたらと滴したたって、辛かろうじて用が足りた。
しばらくすると、しきりに洗面所の方で水音がする。炬こた燵つから潜もぐり出て、土間へ下りて橋がかりからそこを覗のぞくと、三ツの水みず道ぐ口ち、残らず三みす条じの水が一いち齊どきにざっと灌そそいで、徒いたずらに流れていた。たしない水らしいのに、と一つ一つ、丁寧にしめて座敷へ戻った。が、その時も料理番が池のへりの、同じ処ところにつくねんと彳たたずんでいたのである。くどいようだが、料理番の池に立ったのは、これで二度めだ。……朝のは十時ごろであったろう。トその時料理番が引っ込むと、やがて洗面所の水が、再び高く響いた。
またしても三条の水道が、残らず開け放しに流れている。おなじこと、たしない水である。あとで手を洗おうとする時は、きっと涸かれるのだからと、またしても口金をしめておいたが。――
いま、午後の三時ごろ、この時も、さらにその水の音が聞こえ出したのである。庭の外には小川も流れる。奈良井川の瀬も響く。木曾へ来て、水の音を気にするのは、船に乗って波を見まいとするようなものである。望みこそすれ、嫌きらいも避けもしないのだけれど、不思議に洗面所の開け放しばかり気になった。
境はまた廊下へ出た。果して、三条とも揃そろって――しょろしょろと流れている。﹁旦だん那なさん、お風ふ呂ろですか。﹂手てぬ拭ぐいを持っていたのを見て、ここへ火を直しに、台十じゅ能うのうを持って来かかった、お米が声を掛けた。﹁いや――しかし、もう入れるかい。﹂﹁じきでございます。……今日はこの新館のが湧わきますから。﹂なるほど、雪の降りしきるなかに、ほんのりと湯の香が通う。洗面所の傍わきの西せい洋よう扉どが湯殿らしい。この窓からも見える。新しく建て増した柱立てのまま、筵むしろがこいにしたのもあり、足場を組んだ処ところがあり、材木を積んだ納な屋やもある。が、荒れた厩うまやのようになって、落葉に埋うもれた、一帯、脇わき本ほん陣じんとでも言いそうな旧家が、いつか世が成金とか言った時代の景気につれて、桑くわも蚕かいこも当たったであろう、このあたりも火の燃えるような勢いに乗じて、贄にえ川がわはその昔は、煮え川にして、温いで泉ゆの湧いた処だなぞと、ここが温泉にでもなりそうな意気込みで、新館建増しにかかったのを、この一座敷と、湯殿ばかりで、そのまま沙さ汰たやみになったことなど、あとで分わかった。﹁女ね中えさんかい、その水を流すのは。﹂閉めたばかりの水道の栓せんを、女中が立ちながら一つずつ開けるのを視みて、たまらず詰なじるように言ったが、ついでにこの仔しさ細いも分かった。……池は、樹きの根に樋といを伏せて裏の川から引くのだが、一年に一二度ずつ水みず涸がれがあって、池の水が干ひようとする。鯉こいも鮒ふなも、一ひと処ところへ固まって、泡あわを立てて弱るので、台所の大おお桶おけへ汲くみ込んだ井戸の水を、はるばるとこの洗面所へ送って、橋がかりの下を潜くぐらして、池へ流し込むのだそうであった。
木曾道中の新版を二三種ばかり、枕まくらもとに散らした炬燵へ、ずぶずぶと潜もぐって、﹁お米さん、……折り入って、お前さんに頼みがある。﹂と言いかけて、初うい々ういしくちょっと俯うつ向むくのを見ると、猛然として、喜多八を思い起こして、わが境は一人で笑った。﹁ははは、心配なことではないよ。――おかげで腹あんばいも至ってよくなったし、……午ひ飯るを抜いたから、晩には入り合せにかつ食い、大いに飲むとするんだが、いまね、伊作さんが渋苦い顔をして池を睨にらんで行きました。どうも、鯉のふとり工ぐあ合いを鑑めき定きしたものらしい……きっと今晩の御ごち馳そ走うだと思うんだ。――昨ゆう夜べの鶫つぐみじゃないけれど、どうも縁あって池の前に越して来て、鯉と隣附き合いになってみると、目の前から引き上げられて、俎まないたで輪切りは酷ひどい。……板前の都合もあろうし、またわがままを言うのではない。……
活いきづくりはお断わりだが、実は鯉こい汁こく大歓迎なんだ。しかし、魚屋か、何か、都合して、ほかの鯉を使ってもらうわけには行くまいか。――差し出たことだが、一尾ぴきか二尾ひきで足りるものなら、お客は幾人だか、今夜の入いり用ようだけは私がその原料を買ってもいいから。﹂女中の返事が、﹁いえ、この池のは、いつもお料理にはつかいませんのでございます。うちの旦那も、おかみさんも、お志の仏の日には、鮒だの、鯉だの、……この池へ放しなさるんでございます。料理番さんもやっぱり。……そして料あの理ひ番とは、この池のを大事にして、可かわ愛いがって、そのせいですか、隙ひまさえあれば、黙ってああやって庭へ出て、池を覗いていますんです。﹂﹁それはお誂あつらえだ。ありがたい。﹂境は礼を言ったくらいであった。
雪の頂から星が一つ下がったように、入いり相あいの座敷に電燈の点ついた時、女中が風呂を知らせに来た。
﹁すぐに膳ぜんを。﹂と声を掛けておいて、待ち構えた湯どのへ、一散――例の洗面所の向うの扉とを開けると、上がり場らしいが、ハテ真暗である。いやいや、提ちょ灯うちんが一燈ぼうと薄白く点いている。そこにもう一枚扉ひらきがあって閉まっていた。その裡なかが湯どのらしい。
﹁半はん作さく事じだと言うから、まだ電でん燈きが点かないのだろう。おお、二ふたつ巴どもえの紋だな。大星だか由ゆら良の之す助けだかで、鼻を衝つく、鬱うっ陶とうしい巴の紋も、ここへ来ると、木曾殿の寵ちょ愛うあいを思い出させるから奥床しい。﹂
と帯を解きかけると、ちゃぶり――という――人が居て湯を使う気けは勢いがする。この時、洗面所の水の音がハタとやんだ。
境はためらった。
が、いつでもかまわぬ。……他ひとが済んで、湯のあいた時を知らせてもらいたいと言っておいたのである。誰も入ってはいまい。とにかくと、解きかけた帯を挟はさんで、ずッと寄って、その提灯の上から、扉とにひったりと頬ほおをつけて伺うと、袖そでのあたりに、すうーと暗くなる、蝋ろう燭そくが、またぽうと明あかくなる。影が痣あざになって、巴が一つ片かた頬ほに映るように陰気に沁しみ込む、と思うと、ばちゃり……内うち端わに湯が動いた。何の隙すき間まからか、ぷんと梅の香を、ぬくもりで溶かしたような白おし粉ろいの香がする。
﹁婦おん人なだ﹂
何しろ、この明りでは、男客にしろ、一所に入ると、暗くて肩も手も跨またぎかねまい。乳に打ぶ着つかりかねまい。で、ばたばたと草ぞう履りを突っ掛けたまま引き返した。
﹁もう、お上がりになりまして?﹂と言う。
通いが遠い。ここで燗かんをするつもりで、お米がさきへ銚ちょ子うしだけ持って来ていたのである。
﹁いや、あとにする。﹂
﹁まあ、そんなにお腹なかがすいたんですの。﹂
﹁腹もすいたが、誰かお客が入っているから。﹂
﹁へい、……こっちの湯どのは、久しく使わなかったのですが、あの、そう言っては悪うございますけど、しばらくぶりで、お掃そう除じかたがた旦だん那なさ様まに立てましたのでございますから、……あとで頂きますまでも、……あの、まだどなたも。﹂
﹁かまやしない。私はゆっくりでいいんだが、婦人の客のようだったぜ。﹂
﹁へい。﹂
と、おかしなベソをかいた顔をすると、手に持つ銚子が湯沸しにカチカチカチと震えたっけ、あとじさりに、ふいと立って、廊下に出た。一度ひっそり跫あし音おとを消すや否や、けたたましい音を、すたんと立てて、土間の板をはたはたと鳴らして駈かけ出した。
境はきょとんとして、
﹁何だい、あれは……﹂
やがて膳ぜんを持って顕あらわれたのが……お米でない、年とし増まのに替わっていた。
﹁やあ、中二階のおかみさん。﹂
行商人と、炬こた燵つで睦むつまじかったのはこれである。
﹁御ごて亭いし主ゅはどうしたい。﹂
﹁知りませんよ。﹂
﹁ぜひ、承りたいんだがね。﹂
半ば串じょ戯うだんに、ぐッと声を低くして、
﹁出るのかい……何か……あの、湯殿へ……まったく?﹂
﹁それがね、旦那、大笑いなんでございますよ。……どなたもいらっしゃらないと思って、申し上げましたのに、御婦人の方が入っておいでだって、旦那がおっしゃったと言うので、米ちゃん、大変な臆おく病びょうなんですから。……久しくつかいません湯殿ですから、内のお上さんが、念のために、――﹂
﹁ああそうか、……私はまた、ちょっと出るのかと思ったよ。﹂
﹁大丈夫、湯どのへは出ませんけれど、そのかわりお座敷へはこんなのが、ね、貴あな方た。﹂
﹁いや、結構。﹂
お酌しゃくはこの方が、けっく飲める。
夜は長い、雪はしんしんと降り出した。床を取ってから、酒をもう一度、その勢いでぐっすり寝よう。晩ば飯んはいい加減で膳を下げた。
跫音が入り乱れる。ばたばたと廊下へ続くと、洗面所の方へ落ち合ったらしい。ちょろちょろと水の音がまた響き出した。男の声も交じって聞こえる。それが止やむと、お米が襖ふすまから円まるい顔を出して、
﹁どうぞ、お風呂へ。﹂
﹁大丈夫か。﹂
﹁ほほほほ。﹂
とちとてれたように笑うと、身を廊下へ引くのに、押し続いて境は手てぬ拭ぐいを提さげて出た。
橋がかりの下り口に、昨夜帳場に居た坊主頭の番頭と、女中頭がしらか、それとも女房かと思う老けた婦おんなと、もう一人の女中とが、といった形に顔を並べて、一ひと団かたまりになってこなたを見た。そこへお米の姿が、足た袋びまで見えてちょこちょこと橋がかりを越えて渡ると、三人の懐ふところへ飛び込むように一ひと団かたまり。
﹁御苦労様。﹂
わがために、見とどけ役のこの人数で、風呂を検しらべたのだと思うから声を掛けると、一度に揃そろってお時儀をして、屋根が萱かやぶきの長土間に敷いた、そのあゆみ板を渡って行く。土間のなかばで、そのおじやのかたまりのような四人の形が暗くなったのは、トタンに、一つ二つ電燈がスッと息を引くように赤くなって、橋がかりのも洗面所のも一いっ齊せいにパッと消えたのである。
と胸を吐つくと、さらさらさらさらと三筋に……こう順に流れて、洗面所を打つ水の下に、さっきの提ちょ灯うちんが朦もう朧ろうと、半ば暗く、巴ともえを一つ照らして、墨でかいた炎か、鯰なまずの跳はねたか、と思う形に点ともれていた。
いまにも電燈が点つくだろう。湯殿口へ、これを持って入る気で、境がこごみざまに手を掛けようとすると、提灯がフッと消えて見えなくなった。
消えたのではない。やっぱりこれが以前のごとく、湯殿の戸口に点いていた。これはおのずから雫しずくして、下の板敷の濡ぬれたのに、目の加減で、向うから影が映さしたものであろう。はじめから、提灯がここにあった次わ第けではない。境は、斜めに影の宿った水中の月を手に取ろうとしたと同じである。
爪つまさぐりに、例の上がり場へ……で、念のために戸口に寄ると、息が絶えそうに寂ひっ寞そりしながら、ばちゃんと音がした。ぞッと寒い。湯気が天井から雫になって点した滴たるのではなしに、屋根の雪が溶けて落ちるような気けは勢いである。
ばちゃん、……ちゃぶりと微かすかに湯が動く。とまた得ならず艶えんな、しかし冷たい、そして、におやかな、霧に白おし粉ろいを包んだような、人ひと膚はだの気がすッと肩に絡まつわって、頸うなじを撫なでた。
脱ぐはずの衣えも紋んをかつしめて、
﹁お米さんか。﹂
﹁いいえ。﹂
と一ひと呼い吸き間まを置いて、湯どのの裡なかから聞こえたのは、もちろんわが心がわが耳に響いたのであろう。――お米でないのは言うまでもなかったのである。
洗面所の水の音がぴったりやんだ。
思わず立ち竦すくんで四あた辺りを見た。思い切って、
﹁入りますよ、御免。﹂
﹁いけません。﹂
と澄みつつ、湯気に濡ぬれ濡ぬれとした声が、はっきり聞こえた。
﹁勝手にしろ!﹂
我を忘れて言った時は、もう座敷へ引き返していた。
電燈は明るかった。巴の提灯はこの光に消された。が、水は三筋、さらにさらさらと走っていた。
﹁馬鹿にしやがる。﹂
不気味より、凄すごいより、なぶられたような、反感が起こって、炬こた燵つへ仰向けにひっくり返った。
しばらくして、境が、飛び上がるように起き直ったのは、すぐ窓の外に、ざぶり、ばちゃばちゃばちゃ、ばちゃ、ちゃッと、けたたましく池の水の掻かき攪みださるる音を聞いたからであった。
﹁何だろう。﹂
ばちゃばちゃばちゃ、ちゃッ。
そこへ、ごそごそと池を廻って響いて来た。人の来るのは、なぜか料理番だろうと思ったのは、この池の魚うおを愛惜すると、聞いて知ったためである。……
﹁何だい、どうしたんです。﹂
雨戸を開けて、一面の雪の色のやや薄い処ところに声を掛けた。その池も白いまで水は少ないのであった。
三
﹁どっちです、白しら鷺さぎかね、五ごい位さ鷺ぎかね。﹂
﹁ええ――どっちもでございますな。両方だろうと思うんでございますが。﹂
料理番の伊作は来て、窓下の戸とぎ際わに、がッしり腕組をして、うしろ向きに立って言った。
﹁むこうの山口の大林から下りて来るんでございます。﹂
言ことばの中にも顕あらわれる、雪の降りやんだ、その雲の一方は漆うるしのごとく森が黒い。
﹁不断のことではありませんが、……この、旦だん那な、池の水の涸かれるところを狙ねらうんでございます。鯉こいも鮒ふなも半分鰭ひれを出して、あがきがつかないのでございますから。﹂
﹁怜りこ悧うな奴やつだね。﹂
﹁馬鹿な人間は困っちまいます――魚うおが可かわ哀いそ相うでございますので……そうかと言って、夜よっ一ぴ夜て、立番をしてもおられません。旦那、お寒うございます。おしめなさいまし。……そちこち御ごち註ゅう文もんの時刻でございますから、何か、不ふて手ぎ際わなものでも見繕って差し上げます。﹂
﹁都合がついたら、君が来て一杯、ゆっくりつき合ってくれないか。――私は夜ふかしは平気だから。一所に……ここで飲んでいたら、いくらか案か山か子しになるだろう。……﹂
﹁――結構でございます。……もう台所は片附きました、追ッつけ伺います。――いたずらな餓鬼どもめ。﹂
と、あとを口こごとで、空を睨にらみながら、枝をざらざらと潜くぐって行く。
境は、しかし、あとの窓を閉めなかった。もちろん、ごく細目には引いたが。――実は、雪の池のここへ来て幾羽の鷺の、魚うおを狩る状さまを、さながら、炬燵で見るお伽とぎ話ばなしの絵のように思ったのである。すわと言えば、追い立つるとも、驚かすとも、その場合のこととして……第一、気もそぞろなことは、二度まで湯殿の湯の音は、いずれの隙すき間まからか雪とともに、鷺が起たち込んで浴ゆあみしたろう、とそうさえ思ったほどであった。
そのままじっと覗のぞいていると、薄黒く、ごそごそと雪を踏んで行く、伊作の袖そでの傍わきを、ふわりと巴の提灯が点ついて行く。おお今、窓下では提灯を持ってはいなかったようだ。――それに、もうやがて、庭を横ぎって、濡ぬれ縁えんか、戸口に入りそうだ、と思うまで距へだたった。遠いまで小さく見える、としばらくして、ふとあとへ戻るような、やや大きくなって、あの土間廊下の外の、萱かや屋根のつま下をすれずれに、だんだんこなたへ引き返す、引き返すのが、気のせいだか、いつの間にか、中へはいって、土間の暗がりを点ともれて来る。……橋がかり、一方が洗面所、突当りが湯殿……ハテナとぎょッとするまで気がついたのは、その点れて来る提灯を、座敷へ振り返らずに、逆に窓から庭の方に乗り出しつつ見ていることであった。
トタンに消えた。――頭からゾッとして、首筋を硬こわく振り向くと、座敷に、白鷺かと思う女の後ろ姿の頸えり脚あしがスッと白い。
違ちがい棚だなの傍わきに、十畳のその辰たつ巳みに据すえた、姿見に向かった、うしろ姿である。……湯気に山さざ茶ん花かの悄しおれたかと思う、濡ぬれたように、しっとりと身についた藍あい鼠ねずみの縞しま小こも紋んに、朱とき鷺い色ろと白のいち松のくっきりした伊だて達ま巻きで乳の下の縊くびれるばかり、消えそうな弱腰に、裾すそ模もよ様うが軽かろく靡なびいて、片かた膝ひざをやや浮かした、褄つまを友ゆう染ぜんがほんのり溢こぼれる。露の垂たりそうな円まる髷まげに、桔きき梗ょう色いろの手てが絡らが青白い。浅あさ葱ぎの長なが襦じゅ袢ばんの裏が媚なまめかしく搦からんだ白い手で、刷は毛けを優しく使いながら、姿見を少しこごみなりに覗くようにして、化粧をしていた。
境は起たつも坐いるも知らず息を詰めたのである。
あわれ、着た衣きぬは雪の下なる薄もみじで、膚はだの雪が、かえって薄もみじを包んだかと思う、深く脱いだ襟えり脚あしを、すらりと引いて掻かき合わすと、ぼっとりとして膝近だった懐か紙みを取って、くるくると丸げて、掌てのひらを拭ふいて落としたのが、畳へ白おし粉ろいのこぼれるようであった。
衣きぬ摺ずれが、さらりとした時、湯どのできいた人ひと膚はだに紛まがうとめきが薫かおって、少し斜めに居いが返えると、煙たば草こを含んだ。吸い口が白く、艶つや々つやと煙きせ管るが黒い。
トーンと、灰吹の音が響いた。
きっと向いて、境を見た瓜うり核ざね顔がおは、目まぶちがふっくりと、鼻筋通って、色の白さは凄すごいよう。――気の籠こもった優しい眉まゆの両方を、懐か紙みでひたと隠して、大きな瞳ひとみでじっと視みて、
﹁……似合いますか。﹂
と、莞にっ爾こりした歯が黒い。と、莞爾しながら、褄つまを合わせざまにすっくりと立った。顔が鴨かも居いに、すらすらと丈たけが伸びた。
境は胸が飛んで、腰が浮いて、肩が宙へ上がった。ふわりと、その婦おんなの袖そでで抱き上げられたと思ったのは、そうでない、横に口に引き銜くわえられて、畳を空くうに釣つり上げられたのである。
山が真黒になった。いや、庭が白いと、目に遮さえぎった時は、スッと窓を出たので、手足はいつか、尾おひ鰭れになり、我はぴちぴちと跳はねて、婦おんなの姿は廂ひさしを横に、ふわふわと欄間の天人のように見えた。
白い森も、白い家も、目の下に、たちまちさっと……空高く、松本城の天守をすれすれに飛んだように思うと、水の音がして、もんどり打って池の中へ落ちると、同時に炬こた燵つでハッと我に返った。
池におびただしい羽音が聞こえた。
この案か山か子しになど追えるものか。
バスケットの、蔦つたの血を見るにつけても、青い呼い吸きをついてぐったりした。
廊下へ、しとしとと人の音がする。ハッと息を引いて立つと、料理番が膳ぜんに銚ちょ子うしを添えて来た。
﹁やあ、伊作さん。﹂
﹁おお、旦だん那な。﹂
四
﹁昨年のちょうど今ごろでございました。﹂
料理番はひしと、身を寄せ、肩をしめて話し出した。
﹁今年は今朝から雪になりましたが、そのみぎりは、忘れもしません、前日雪が降りました。積もり方は、もっと多かったのでございます。――二時ごろに、目の覚さめますような御婦人客が、ただお一ひと方かたで、おいでになったのでございます。――目の覚めるようだと申しましても派手ではありません。婀あ娜だな中に、何となく寂しさのございます、二十六七のお年ごろで、高等な円まる髷まげでおいででございました。――御ごよ容う子すのいい、背のすらりとした、見立ての申し分のない、しかし奥様と申すには、どこか媚なまめかしさが過ぎております。そこは、田いな舎かものでも、大勢お客様をお見かけ申しておりますから、じきにくろうと衆しゅだと存じましたのでございまして、これが柳橋の蓑みの吉きちさんという姐ねえさんだったことが、後に分かりました。宿帳の方はお艶つや様さまでございます。
その御婦人を、旦那――帳場で、このお座敷へ御案内申したのでございます。
風ふ呂ろがお好きで……もちろん、お嫌いやな方もたんとございますまいが、あの湯へ二度、お着きになって、すぐと、それに夜分に一度、お入りなすったのでございます――都合で、新館の建出しは見合わせておりますが、温泉ごのみに石で畳たたみました風呂は、自慢でございまして、旧の二階三階のお客様にも、ちと遠うございますけれども、お入りを願っておりましたところが――実はその、時々、不思議なことがありますので、このお座敷も同様にしばらく使わずにおきましたのを、旦那のような方に試みていただけば、おのずと変なこともなくなりましょうと、相談をいたしまして、申すもいかがでございますが、今こん日にち久しぶりで、湧わかしも使いもいたしましたような次わ第けなのでございます。
ところで、お艶様、その御婦人でございますが、日のうち一風呂お浴びになりますと、︵鎮守様のお宮は、︶と聞いて、お参まい詣りなさいました。贄にえ川がわ街かい道どうよりの丘の上にございます。――山王様のお社やしろで、むかし人身御ごく供うがあがったなどと申し伝えてございます。森しん々しんと、もの寂しいお社で。……村社はほかにもございますが、鎮守と言う、お尋ねにつけて、その儀を帳場で申しますと……道を尋ねて、そこでお一人でおのぼりなさいました。目を少々お煩いのようで、雪がきらきらして疼いたむからと言って、こんな土地でございます、ほんの出来あいの黒い目金を買わせて、掛けて、洋こう傘もりを杖つえのようにしてお出掛けで。――これは鎮守様へ参さん詣けいは、奈良井宿一統への礼儀挨あい拶さつというお心だったようでございます。
無事に、まずお帰りなすって、夕飯の時、お膳ぜんで一口あがりました。――旦那の前でございますが、板前へと、御丁寧にお心づけを下すったものでございますから私てまい……ちょいと御挨拶に出ました時、こういうおたずねでございます――お社へお供くも物つにきざ柿がきと楊よう枝じとを買いました、……石段下のそこの小店のお媼ばあさんの話ですが、山王様の奥が深い森で、その奥に桔きき梗ょうヶがは原らという、原の中に、桔梗の池というのがあって、その池に、お一ひと方り、お美しい奥様がいらっしゃると言うことですが、ほんとうですか。――
――まったくでございます、と皆まで承わらないで、私てまいが申したのでございます。
論より証拠、申して、よいか、悪いか存じませんが、現に私てまいが一度見ましたのでございます。﹂
﹁…………﹂
﹁桔梗ヶ原とは申しますが、それは、秋草は綺きれ麗いに咲きます、けれども、桔梗ばかりというのではございません。ただその大池の水が真まっ桔きき梗ょうの青い色でございます。桔梗はかえって、白い花のが見事に咲きますのでございまして。……
四年あとになりますが、正まひ午るというのに、この峠向うの藪やぶ原はら宿じゅくから火が出ました。正しょ午ううまの刻こくの火事は大きくなると、何いず国こでも申しますが、全く大焼けでございました。
山王様の丘へ上がりますと、一目に見えます。火の手は、七なな条すじにも上がりまして、ぱちぱちぱんぱんと燃える音が手に取るように聞こえます。……あれは山やま間あいの滝か、いや、ぽんぷの水の走るのだと申すくらい。この大おお南みな風みの勢いでは、山火事になって、やがて、ここもとまで押し寄せはしまいかと案じますほどの激しさで、駈かけつけるものは駈けつけます、騒ぐものは騒ぐ。私てまいなぞは見物の方で、お社やしろ前は、おなじ夥なか間まで充いっ満ぱいでございました。
二百十日の荒れ前で、残暑の激しい時でございましたから、ついつい少しずつお社の森の中へ火を見ながら入りましたにつけて、不断は、しっかり行くまじきとしてある処ところではございますが、この火の陽気で、人の気の湧わいている場所から、深いといっても半町とはない。大丈夫と。ところで、私てまい陰気もので、あまり若わか衆しゅづきあいがございませんから、誰を誘うでもあるまいと、杉すぎ檜ひのきの森々としました中を、それも、思ったほど奥が深くもございませんで、一面の草花。……白い桔きき梗ょうでへりを取った百畳敷ばかりの真まっ青さおな池が、と見ますと、その汀みぎわ、ものの二……三……十間とはない処に……お一人、何ともおうつくしい御婦人が、鏡台を置いて、斜めに向かって、お化粧をなさっていらっしゃいました。
お髪ぐしがどうやら、お召ものが何やら、一目見ました、その時の凄すごさ、可おそ恐ろしさと言ってはございません。ただいま思い出しましても御ごし酒ゅが氷になって胸へ沁しみます。ぞっとします。……それでいてそのお美しさが忘れられません。勿もっ体たいないようでございますけれども、家のないもののお仏壇に、うつしたお姿と存じまして、一日でも、この池の水を視ながめまして、その面おも影かげを思わずにはおられませんのでございます。――さあ、その時は、前後も存ぜず、翼はねの折れた鳥が、ただ空から落ちるような思いで、森を飛び抜けて、一目散に、高い石段を駈け下りました。私てまいがその顔の色と、怯おびえた様子とてはなかったそうでございましてな。……お社前の火事見物が、一ひと雪なだ崩れになって遁にげ下おりました。森の奥から火を消すばかり冷たい風で、大だい蛇じゃがさっと追ったようで、遁げた私てまいは、野のう兎さぎの飛んで落ちるように見えたということでございまして。
とこの趣を――お艶様、その御婦人に申しますと、――そうしたお方を、どうして、女おん神なが様みさまとも、お姫様とも言わないで、奥さまと言うんでしょう。さ、それでございます。私てまいはただ目が暗んでしまいましたが、前ぜん々ぜんより、ふとお見上げ申したものの言うのでは、桔梗の池のお姿は、眉まゆをおとしていらっしゃりまするそうで……﹂
境はゾッとしながら、かえって炬こた燵つを傍わきへ払った。
﹁どなたの奥方とも存ぜずに、いつとなくそう申すのでございまして……旦那。――お艶様に申しますと、じっとお聞きなすって――だと、その奥さまのお姿は、ほかにも見た方がありますか、とおっしゃいます――ええ、月の山の端は、花の麓ふも路とじ、螢ほたるの影、時しぐ雨れの提ちょ灯うちん、雪の川べりなど、随分村方でも、ちらりと拝んだものはございます。――お艶様はこれをきいて、猪ちょ口くを下に置いて、なぜか、しょんぼりとおうつむきなさいました。――
――ところで旦那……その御婦人が、わざわざ木曾のこの山やま家がへ一人旅をなされた、用事がでございまする。﹂
五
﹁ええ、その時、この、村方で、不思議千万な、色出入り、――変な姦まお通とこ事件がございました。
村入りの雁かり股またと申す処ところに︵代官婆ばば︶という、庄しょ屋うやのお婆ばあさんと言えば、まだしおらしく聞こえますが、代官婆。……渾あだ名なで分かりますくらいおそろしく権けん柄べいな、家の系図を鼻に掛けて、俺おらが家はむかし代官だぞよ、と二言めには、たつみ上がりになりますので。その了りょ簡うけんでございますから、中年から後家になりながら、手一つで、まず……伜せがれどのを立派に育てて、これを東京で学士先生にまで仕立てました。……そこで一ひと頃ころは東京住ずま居いをしておりましたが、何でも一いっ旦たん微びろ禄くした家を、故ふる郷さとに打ぶっ開ぱだけて、村中の面つらを見返すと申して、估こけ券ん潰つぶれの古家を買いまして、両三年前ぜんから、その伜の学士先生の嫁御、近頃で申す若夫人と、二人で引き籠もっておりますが。……菜大根、茄なす子びなどは料理に醤した油じが費ついえ、だという倹約で、葱ねぶか、韮にら、大にん蒜にく、辣らっ薤きょうと申す五薀うんの類たぐいを、空あき地ち中に、植え込んで、塩で弁ずるのでございまして。……もう遠くからぷんと、その家が臭においます。大蒜屋敷の代官婆。……
ところが若夫人、嫁御というのが、福島の商家の娘さんで学校をでた方だが、当世に似合わないおとなしい優やさしい、ちと内輪すぎますぐらい。もっともこれでなくっては代官婆と二人住居はできません。……大蒜ばなれのした方かたで、鋤すきにも、鍬くわにも、連尺にも、婆どのに追い使われて、いたわしいほどよく辛抱なさいます。
霜月の半ば過ぎに、不意に東京から大蒜屋敷へお客人がございました。学士先生のお友だちで、この方はどこへも勤めてはいなさらない、もっとも画えか師きだそうでございますから、きまった勤めとてはございますまい。学士先生の方は、東京のある中学校でれっきとした校長さんでございますが。――
で、その画師さんが、不意に、大蒜屋敷に飛び込んで参ったのは、ろくに旅費も持たずに、東京から遁にげ出して来たのだそうで。……と申しますのは――早い話が、細君がありながら、よそに深い馴なじ染みが出来ました。……それがために、首尾も義理も世の中は、さんざんで、思い余って細君が意見をなすったのを、何を! と言って、一つ横よこ頬ぞっぽを撲くらわしたはいいが、御先祖、お両ふた親おやの位いは牌いにも、くらわされてしかるべきは自分の方で、仏壇のあるわが家には居たたまらないために、その場から門かどを駈け出したは出たとして、知ちか合づきにも友だちにも、女房に意見をされるほどの始末で見れば、行き処どころがなかったので、一ひと夜よしのぎに、この木曾谷まで遁げ込んだのだそうでございます、遁げましたなあ。……それに、その細君というのが、はじめ画えか師きさんには恋人で、晴れて夫婦になるのには、この学士先生が大層なお骨折りで、そのおかげで思いが叶かなったと申したようなわけだそうで。……遁げ込み場所には屈くっ竟きょうなのでございました。
時に、弱りものの画師さんの、その深い馴染というのが、もし、何と……お艶様――手前どもへ一人でお泊まりになったその御婦人なんでございます。……ちょいと申し上げておきますが、これは画師さんのあとをたずねて、雪を分けておいでになったのではございません。その間がざっと半月ばかりございました。その間に、ただいま申しました、姦まお通とこ騒ぎが起こったのでございます。﹂
と料理番は一息した。
﹁そこで……また代官婆ばばに変な癖がございましてな。癖より病で――あるもの知りの方に承りましたのでは、訴訟狂とか申すんだそうで、葱ねぶかが枯れたと言っては村役場だ、小こど児もが睨にらんだと言えば交番だ。……派出所だ裁判だと、何でも上かみ沙ざ汰たにさえ持ち出せば、我に理があると、それ貴あな客た、代官婆だけに思い込んでおりますのでございます。
その、大にん蒜にく屋敷の雁かり股またへ掛かります、この街かい道どう、棒ぼう鼻ばなの辻つじに、巌いわ穴あなのような窪くぼ地ちに引っ込んで、石松という猟師が、小が児きだくさんで籠こもっております。四十親おや仁じで、これの小僧の時は、まだ微びろ禄くをしません以前の……その婆のとこに下男奉公、女かか房あも女中奉公をしたものだそうで。……婆がえろう家来扱いにするのでございますが、石松猟師も、堅い親仁で、はなはだしく御主人に奉っておりますので。……
宵よいの雨が雪になりまして、その年の初雪が思いのほか、夜よな半かを掛けて積もりました。山の、猪しし、兎うさぎが慌あわてます。猟はこういう時だと、夜よ更ふけに、のそのそと起きて、鉄砲しらべをして、炉ろば端たで茶ちゃ漬づけを掻かっ食らって、手てづ製くりの猿さるの皮の毛けず頭き巾んを被かぶった。筵むしろの戸口へ、白しら髪がを振り乱して、蕎そば麦きり切い色ろの褌ふんどし……いやな奴やつで、とき色の禿はげたのを不断まきます、尻しり端ぱし折ょりで、六十九歳の代官婆が、跣はだ足しで雪の中に突っ立ちました。︵内へ怪ばけものが出た、来てくれせえ。︶と顔がん色しょく、手ぶりで喘あえいで言うので。……こんな時鉄砲は強うございますよ、ガチリ、実た弾まをこめました。……旧主人の後室様がお跣足でございますから、石松も素跣足。街道を突っ切って韮にら、辣らっ薤きょう、葱ねぶ畑かばたけを、さっさっと、化けものを見届けるのじゃ、静かにということで、婆が出て来ました納なん戸どぐ口ちから入って、中土間へ忍んで、指さされるなりに、板戸の節穴から覗のぞきますとな、――何と、六枚折の屏びょ風うぶの裡なかに、枕まくらを並べて、と申すのが、寝てはいなかったそうでございます。若夫人が緋ひの長なが襦じゅ袢ばんで、掻かい巻まきの襟えりの肩から辷すべった半身で、画師の膝ひざに白い手をかけて俯うつ向むけになりました、背中を男が、撫なでさすっていたのだそうで。いつもは、もんぺを穿はいて、木もめ綿んのちゃんちゃんこで居る嫁御が、その姿で、しかもそのありさまでございます。石松は化けもの以上に驚いたに相違ございません。︵おのれ、不義もの……人にん畜ちく生しょう。︶と代官婆が土つち蜘ぐ蛛ものようにのさばり込んで、︵やい、……動くな、その状ざまを一寸でも動いて崩くずすと――鉄あ砲れだぞよ、弾あ丸れだぞよ。︶と言う。にじり上がりの屏風の端から、鉄砲の銃すぐ口ちをヌッと突き出して、毛の生えた蟇ひきがえるのような石松が、目を光らして狙ねらっております。
人相と言い、場合と申し、ズドンとやりかねない勢いでごさいますから、画師さんは面めん喰くらったに相違ございますまい。︵天罰は立たち処どころじゃ、足四本、手四つ、顔つら二つのさらしものにしてやるべ。︶で、代官婆は、近所の村方四軒というもの、その足でたたき起こして廻って、石松が鉄砲を向けたままの、そのありさまをさらしました。――夜のあけ方には、派出所の巡おま査わり、檀だん那なで寺らの和おし尚ょうまで立ち会わせるという狂い方でございまして。学士先生の若夫人と色男の画師さんは、こうなると、緋ひが鹿の子この扱しご帯きも藁わらすべで、彩さい色しきをした海なま鼠このように、雪にしらけて、ぐったりとなったのでございます。
男はとにかく、嫁はほんとうに、うしろ手に縛くくりあげると、細引を持ち出すのを、巡おま査わりが叱しかりましたが、叱られるとなお吼たけり立って、たちまち、裁判所、村役場、派出所も村会も一所にして、姦かん通つうの告訴をすると、のぼせ上がるので、どこへもやらぬ監禁同様という趣で、ひとまず檀那寺まで引き上げることになりましたが、活いき証じょ拠うこだと言い張って、嫁に衣きも服のを着せることを肯ききませんので、巡おま査わりさんが、雪のかかった外がい套とうを掛けまして、何と、しかし、ぞろぞろと村の女小こど児もまであとへついて、寺へ参ったのでございますが。﹂
境はききつつ、ただ幾いく度たびも歎たん息そくした。
﹁――遁にがしたのでございましょうな。画師さんはその夜のうちに、寺から影をかくしました。これはそうあるべきでございます。――さて、聞きますれば、――伜せがれの親友、兄弟同様の客じゃから、伜同様に心得る。……半年あまりも留守を守ってさみしく一人で居ることゆえ、嫁女や、そなたも、伜と思うて、つもる話もせいよ、と申して、身じまいをさせて、衣きものまで着かえさせ、寝る時は、にこにこ笑いながら、床を並べさせたのだと申すことで。……嫁御はなるほど、わけしりの弟分の膝に縋すがって泣きたいこともありましたろうし、芸げい妓しゃでしくじるほどの画師さんでございます、背中を擦さするぐらいはしかねますまい、……でございますな。
代官婆の憤り方をお察しなさりとう存じます。学士先生は電報で呼ばれました。何と宥なだめても承知をしません。ぜひとも姦通の訴訟を起こせ。いや、恥も外聞もない、代官といえば帯刀じゃ。武士たるものは、不義ものを成せい敗ばいするはかえって名誉じゃ、とこうまで間違っては事面倒で。たって、裁判沙汰にしないとなら、生きておらぬ。咽のど喉ぶ笛え鉄砲じゃ、鎌かま腹ばらじゃ、奈良井川の淵ふちを知らぬか。……桔きき梗ょうヶがい池けへ身を沈める……こ、こ、この婆ばばあめ、沙汰の限りな、桔梗ヶ池へ沈めますものか、身投げをしようとしたら、池が投げ出しましょう。﹂
と言って、料理番は苦笑した。
﹁また、今時に珍しい、学校でも、倫理、道徳、修身の方を御研究もなされば、お教えもなさいます、学士は至っての御孝心。かねて評判な方で、嫁御をいたわる傍はたの目には、ちと弱すぎると思うほどなのでございますから、困こうじ果てて、何とも申しわけも面めん目ぼくもなけれども、とにかく一度、この土地へ来てもらいたい。万事はその上で。と言う――学士先生から画えか師きさんへのお頼みでございます。
さて、これは決はた闘しじ状ょうより可おそ恐ろしい。……もちろん、村でも不義ものの面つらへ、唾つばと石とを、人間の道のためとか申して騒ぐ方かたが多い真まん中なかでございますから。……どの面さげて画師さんが奈良井へ二度面がさらされましょう、旦だん那な。﹂
﹁これは何と言われても来られまいなあ。﹂
﹁と言って、学士先生との義理合いでは来ないわけにはまいりますまい。ところで、その画師さんは、その時、どこに居たと思おぼし召めします。……いろのことから、怪けしからん、横よこ頬ぞっぽを撲はったという細君の、袖そでのかげに、申しわけのない親御たちのお位いは牌いから頭をかくして、尻しりも足もわなわなと震えていましたので、弱った方でございます。……必ず、連れて参ります――と代官婆ばばに、誓って約束をなさいまして、学士先生は東京へ立たれました。
その上京中。その間のことなのでございます、――柳橋の蓑みの吉きち姉ねえさん……お艶様が……ここへお泊まりになりましたのは。……﹂
六
﹁――どんな用事の御都合にいたせ、夜やち中ゅう、近所が静まりましてから、お艶様が、おたずねになろうというのが、代官婆の処ところと承っては、一人ではお出し申されません。ただ道だけ聞けば、とのことでございましたけれども、おともが直じ接かについて悪ければ、垣かき根ね、裏口にでもひそみまして、内々守って進じようで……帳場が相談をしまして、その人選に当たりましたのが、この、ふつつかな私てまいなんでございました。……
お支した度くがよろしくばと、私てまい、これへ……このお座敷へ提ちょ灯うちんを持って伺いますと……﹂
﹁ああ、二つ巴どもえの紋のだね。﹂と、つい誘われるように境が言った。
﹁へい。﹂
と暗く、含むような、頤おとがいで返事を吸って、
﹁よく御存じで。﹂
﹁二度まで、湯殿に点ついていて、知っていますよ。﹂
﹁へい、湯殿に……湯殿に提灯を点つけますようなことはございませんが、――それとも、へーい。﹂
この様子では、今しがた庭を行く時、この料理番とともに提灯が通ったなどとは言い出せまい。境は話を促した。
﹁それから。﹂
﹁ちと変な気がいたしますが。――ええ、ざっとお支度済みで、二度めの湯上がりに薄化粧をなすった、めしものの藍あい鼠ねずみがお顔の影に藤ふじ色いろになって見えますまで、お色の白さったらありません、姿見の前で……﹂
境が思わず振り返ったことは言うまでもない。
﹁金の吸く口ちで、烏しゃ金くどうで張った煙きせ管るで、ちょっと歯を染めなさったように見えます。懐かい紙しをな、眉まゆにあてて私てまいを、おも長に御覧なすって、
――似合いますか。――﹂
﹁むむ、む。﹂と言う境の声は、氷を頬ほお張ばったように咽の喉どに支つかえた。
﹁畳のへりが、桔きき梗ょうで白いように見えました。
︵ええ、勿体ないほどお似合いで。︶と言うのを聞いて、懐紙をおのけになると、眉のあとがいま剃そり立たての真まっ青さおで。……︵桔梗ヶ池の奥様とは?︶――︵お姉きょ妹うだい……いや一倍お綺きれ麗いで︶と罰ばちもあたれ、そう申さずにはおられなかったのでございます。
ここをお聞きなさいまし。﹂……
︵お艶さん、どうしましょう。︶
﹁雪がちらちら雨まじりで降る中を、破れた蛇じゃ目の傘めで、見すぼらしい半はん纏てんで、意気にやつれた画師さんの細君が、男を寝取った情おん婦なとも言わず、お艶様――本妻が、その体ていでは、情い婦ろだって工くめ面んは悪うございます。目を煩わずらって、しばらく親おや許もとへ、納な屋や同然な二階借りで引き籠こもって、内職に、娘子供に長なが唄うたなんか、さらって暮らしていなさるところへ、思い余って、細君が訪ねたのでございます。﹂
︵お艶さん、私わたしはそう存じます。私が、貴あな女たほどお美しければ、﹁こんな女房がついています。何の夫やどが、木きそ曾かい街ど道うの女なんぞに。﹂と姦まお通とこ呼ばわりをするその婆ばばあに、そう言ってやるのが一番早分りがすると思います。︶︵ええ、何よりですともさ。それよりか、なおその上に、﹁お妾めかけでさえこのくらいだ。﹂と言って私わたしを見せてやります方が、上になお奥さんという、奥行があってようございます。――﹁奥さんのほかに、私ほどのいろがついています。田いな舎かで意地ぎたなをするもんですか。﹂婆ばばあにそう言ってやりましょうよ。そのお嫁さんのためにも。︶――
﹁――あとで、お艶様の、したためもの、かきおきなどに、この様子が見えることに、何ともどうも、つい立ち至ったのでございまして。……これでございますから、何の木曾の山やま猿ざるなんか。しかし、念のために土地の女の風俗を見ようと、山王様御ごさ参んけ詣いは、その下心だったかとも存じられます。……ところを、桔梗ヶ池の、凄すごい、美しいお方のことをおききなすって、これが時々人目にも触れるというので、自然、代官婆の目にもとまっていて、自分の容きり色ょうの見劣りがする段ひには、美しさで勝つことはできない、という覚悟だったと思われます。――もっとも西洋剃かみ刀そりをお持ちだったほどで。――それでいけなければ、世の中に煩うるさい婆ばばあ、人だすけに切っちまう――それも、かきおきにございました。
雪道を雁かり股またまで、棒ぼう端ばなをさして、奈良井川の枝流れの、青白いつつみを参りました。氷のような月が皎こう々こうと冴さえながら、山気が霧に凝って包みます。巌がん石せき、がらがらの細ほそ谿たに川がわが、寒さに水みず涸がれして、さらさらさらさら、……ああ、ちょうど、あの音、……洗面所の、あの音でございます。﹂
﹁ちょっと、あの水口を留めて来ないか、身から体だの筋々へ沁しみ渡るようだ。﹂
﹁御同然でございまして……ええ、しかし、どうも。﹂
﹁一人じゃいけないかね。﹂
﹁貴あな方たさ様まは?﹂
﹁いや、なに、どうしたんだい、それから。﹂
﹁岩と岩に、土橋が架かかりまして、向うに槐えんじゅの大きいのが枯れて立ちます。それが危なかしく、水で揺れるように月影に見えました時、ジイと、私てまいの持ちました提ちょ灯うちんの蝋ろう燭そくが煮えまして、ぼんやり灯ひを引きます。︵暗くなると、巴ともえが一つになって、人ひと魂だまの黒いのが歩あ行るくようね。︶お艶様の言葉に――私てまい、はッとして覗のぞきますと、不注意にも、何にも、お綺きれ麗いさに、そわつきましたか、ともしかけが乏しくなって、かえの蝋燭が入れてございません。――おつき申してはおります、月夜だし、足あし許もとに差さし支つかえはございませんようなものの、当館の紋の提灯は、ちょっと土地では幅が利きます。あなたのおためにと思いまして、道はまだ半町足らず、つい一っ走りで、駈かけ戻りました。これが間違いでございました。﹂
声も、言ことばも、しばらく途絶えた。
﹁裏うら土どべ塀いから台所口へ、……まだ入りませんさきに、ドーンと天てん狗ぐぼ星しの落ちたような音がしました。ドーンと谺こだまを返しました。鉄砲でございます。﹂
﹁…………﹂
﹁びっくりして土手へ出ますと、川べりに、薄い銀のようでございましたお姿が見えません。提灯も何も押おっ放ぽり出して、自分でわッと言って駈かけつけますと、居いど処ころが少しずれて、バッタリと土手っ腹の雪を枕まくらに、帯腰が谿川の石に倒れておいででした。︵寒いわ。︶と現うつつのように、︵ああ、冷たい。︶とおっしゃると、その唇くちびるから糸のように、三みす条じに分かれた血が垂れました。
――何とも、かとも、おいたわしいことに――裾すそをつつもうといたします、乱れ褄づまの友ゆう染ぜんが、色をそのままに岩に凍りついて、霜の秋草に触さわるようだったのでございます。――人も立ち会い、抱き起こし申す縮ちり緬めんが、氷でバリバリと音がしまして、古ふる襖ぶすまから錦にし絵きえを剥はがすようで、この方が、お身から体だを裂く思いがしました。胸に溜たまった血は暖かく流れましたのに。――
撃ちましたのは石松で。――親おや仁じが、生くら計しの苦しさから、今夜こそは、どうでも獲えものをと、しとぎ餅もちで山の神を祈って出ました。玉たま味み噌そを塗なすって、串くしにさして焼いて持ちます、その握飯には、魔が寄ると申します。がりがり橋という、その土橋にかかりますと、お艶様の方では人が来るのを、よけようと、水が少ないから、つい川の岩に片足おかけなすった。桔きき梗ょうヶがい池けの怪しい奥様が、水の上を横に伝うと見て、パッと臥ふし打うちに狙いをつけた。俺おれは魔を退治たのだ、村方のために。と言って、いまもって狂っております。――
旦だん那な、旦那、旦那、提灯が、あれへ、あ、あの、湯どのの橋から、……あ、あ、ああ、旦那、向うから、私てまいが来ます、私てまいとおなじ男が参ります。や、並んで、お艶様が。﹂
境も歯の根をくいしめて、
﹁しっかりしろ、可おそ恐ろしくはない、可恐しくはない。……怨うらまれるわけはない。﹂
電燈の球たまが巴になって、黒くふわりと浮くと、炬こた燵つの上に提灯がぼうと掛かった。
﹁似合いますか。﹂
座敷は一面の水に見えて、雪の気はいが、白い桔梗の汀みぎわに咲いたように畳に乱れ敷いた。