一
むらむらと四あた辺りを包んだ。鼠色の雲の中へ、すっきり浮出したように、薄化粧の艶えんな姿で、電車の中から、颯さっと硝がら子す戸どを抜けて、運転手台に顕あらわれた、若い女の扮みな装りと持物で、大あら略ましその日の天気模様が察しられる。
日ひな中かは梅の香も女の袖そでも、ほんのりと暖かく、襟巻ではちと逆の上ぼせるくらいだけれど、晩になると、柳の風に、黒髪がひやひやと身に染む頃。もうちと経たつと、花曇りという空そら合あいながら、まだどうやら冬の余なご波りがありそうで、ただこう薄暗い中うちはさもないが、処を定めず、時々墨流しのように乱れかかって、雲に雲が累かさなると、ちらちら白いものでも交まじりそうな気けは勢いがする。……両三さん日ち。
今朝は麗うららかに晴れて、この分なら上野の彼ひ岸が桜んも、うっかり咲きそうなという、午ひる頃ごろから、急に吹出して、随分風立ったのが未いまだに止やまぬ。午後の四時頃。
今しがた一ひと時しきり、大路が霞かすみに包まれたようになって、洋こう傘もりはびしょびしょする……番傘には雫しずくもしないで、俥くるまの母ほ衣ろは照てら々てらと艶つやを持つほど、颯さっと一雨掛かかった後で。
大空のどこか、吻ほっと呼い吸きを吐つく状さまに吹散らして、雲切れがした様子は、そのまま晴あ上がりそうに見えるが、淡く濡れた日ひあ脚しの根が定まらず、ふわふわ気きま紛ぐれに暗くなるから……また直きに降って来そうにも思われる。
すっかり雨あま支じた度くでいるのもあるし、雪せっ駄たでばたばたと通るのもある。傘からかさを拡げて大きく肩にかけたのが、伊だ達てに行届いた姿見よがしに、大おお薩ざつ摩まで押して行ゆくと、すぼめて、軽く手に提げたのは、しょんぼり濡れたも好いいものを、と小唄で澄まして来る。皆足どりの、忙せわしそうに見えないのが、水を打った花道で、何となく春らしい。
電車のちょっと停とまったのは、日本橋通とおり三丁目の赤い柱で。
今言ったその運転手台へ、鮮あざ麗やかに出た女は、南部の表つき、薄形の駒こま下げ駄たに、ちらりとかかった雪の足袋、紅こう羽はぶ二た重えの褄つま捌さばき、柳の腰に靡なびく、と一段軽く踏んで下りようとした。
コオトは着ないで、手に、紺こん蛇じゃ目の傘めの細々と艶のあるを軽く持つ。
ちょうど、そこに立って、電車を待合わせていたのが、舟ふな崎ざきという私の知ちか己づき――それから聞いたのをここに記す。
舟崎は名を一かず帆ほといって、その辺のある保険会社のちょっといい顔で勤めているのが、表向は社用につき一軒廻って帰る分。その実は昨ゆう夜べの酒を持越しのため、四時びけの処を待兼ねて、ちと早めに出た処、いささか懐中に心得あり。
一いっ旦たん家うちへ帰ってから出直してもよし、直ぐに出掛けても怪しゅうはあらず、またと……誰か誘おうかなどと、不ふり了ょう簡けんを廻めぐらしながら、いつも乗って帰る処は忘れないで、件くだんの三丁目に彳たたずみつつ、時々、一粒ぐらいぼつりと落ちるのを、洋こう傘もりの用意もないに、気にもしないで、来るものは拒まず……去るものは追わずの気構え。上野行、浅草行、五六台も遣やり過すごして、硝がら子す戸ど越ごしに西洋小こ間まものを覗のぞく人を透かしたり、横町へ曲るものを見送ったり、頻しきりに謀むほ叛ん気ぎを起していた。
処へ……
一目その艶えんなのを見ると、なぜか、気きば疾やに、ずかずかと飛着いて、下りる女とは反対の、車掌台の方から、……早や動うご出きだす、鉄の棒をぐいと握って、ひらりと乗ると、澄まして入った。が、何のためにそうしたか、自分でもよくは分らぬ。
そこにぼんやりと立った状さまを、女に見られまいと思った見栄か、それとも、その女を待合わしてでもいたように四あた辺りの人に見らるるのを憚はばかったか。……しかし、実はどちらでもなかった、と渠かれは云う。
乗合いは随分立たて籠こんだが、どこかに、空席は、と思う目が、まず何より前さきに映ったのは、まだ前側から下りないで、横顔も襟も、すっきりと硝子戸越に透通る、運転手台の婀あだ娜すが姿た。
二
誰も知った通り、この三丁目、中なか橋ばしなどは、通とおりの中でも相あいの宿しゅくで、電車の出では入いりが余り混雑せぬ。
停とまった時、二人三人は他ほかにも降りたのがあったろう。けれども、女に気を取られてそれにはちっとも気がつかぬ。
乗ったのは、どの口からも一帆一人。
入るともう、直ぐにぐいと出る。
ト前の硝がら子す戸どを外から開けて、その女が、何と!
姿見から影を抜ぬけ出だしたような風情で、引返して、車内へ入って来たろうではないか。
そして、ぱっちりした、霑うるみのある、涼しい目を、心持俯ふし目めながら、大きくいて、こっちに立った一帆の顔を、向うから熟じっと見た。
見た、と思うと、今立った旧もとの席が、それなり空いていたらしい。そこへ入って、ごたごたした乗客の中へ島田が隠れた。
その女は、丈たけ長なが掛けて、銀の平打の後うしろざし、それ者しゃも生きっ粋すいと見える服みな装りには似ない、お邸やし好きごのみの、鬢びん水みずもたらたらと漆のように艶つややかな高島田で、強ひどくそれが目に着いたので、くすんだお召めし縮ちり緬めんも、なぜか紫の俤おも立かげだつ。
空すいた処が一ツあったが、女の坐ったのと同おん一なじ側がわで、一帆はちと慌あわただしいまで、急いで腰を落したが。
胸、肩を揃えて、ひしと詰込んだ一列の乗のり客てに隠れて、内証で前へ乗出しても、もう女の爪つま先さきも見えなかったが、一目見られた瞳ひとみの力は、刻み込まれたか、と鮮あざ麗やかに胸に描かれて、白木屋の店みせ頭さきに、つつじが急流に燃ゆるような友ゆう染ぜんの長なが襦じゅ袢ばんのかかったのも、その女が向うへ飛んで、逆さかさにまた硝がら子す越ごしに、扱しご帯きを解いた乱みだ姿れすがたで、こちらを差さし覗のぞいているかと疑う。
やがて、心着くと標しる示しは萌もえ黄ぎで、この電車は浅草行。
一帆がその住すま居いへ志すには、上野へ乗って、須田町あたりで乗換えなければならなかったに、つい本町の角をあれなり曲って、浅草橋へ出ても、まだうかうか。
もっとも、わざととはなしに、一ひと帳ちょ場うばごとに気を注つけたが、女の下りた様子はない。
で、そこまで行ゆくと、途中は厩うま橋やばし、蔵くら前まえでも、駒こま形がたでも下りないで、きっと雷門まで、一緒に行ゆくように信じられた。
何だろう、髪のかかりが芸者でない。が、爪つまはずれが堅かた気ぎと見えぬ。――何だろう。
とそんな事。……中に人の数を夾はさんだばかり、つい同じ車に居るものを、一ひと年とせ、半年、立続けに、こんがらかった苦労でもした中のように種いろ々いろな事を思う。また雲が濃く、大空に乱れ流れて、硝がら子すま窓どの薄暗くなって来たのさえ、確しかとは心着かぬ。
が、蔵前を通る、あの名なだ代いの大煙突から、黒い山のように吹出す煙が、渦巻きかかって電車に崩るるか、と思うまで凄すさまじく暗くなった。
頸えり許もとがふと気になると、尾を曳ひいて、ばらばらと玉が走る。窓の硝子を透すかして、雫しずくのその、ひやりと冷たく身に染むのを知っても、雨とは思わぬほど、実際上うわの空でいたのであった。
さあ、浅草へ行ゆくと、雷門が、鳴出したほどなその騒さわ動ぎ。
どさどさ打ぶちまけるように雪な崩だれて総立ちに電車を出る、乗のり合あいのあわただしさより、仲なか見み世せは、どっと音のするばかり、一面の薄墨へ、色を飛ばした男なん女にょの姿。
風立つ中を群むらがって、颯さっと大幅に境内から、広小路へ散りかかる。
きちがい日びよ和りの俄にわ雨かあめに、風より群集が狂うのである。
その紛れに、女の姿は見えなくなった。
電車の内はからりとして、水に沈んだ硝がら子すば函こ、車掌と運転手は雨にあたかも潜水夫の風情に見えて、束つかの間まは塵ちりも留めず、――外の人の混雑は、鯱しゃちに追われたような中に。――
一帆は誰よりも後おくれて下りた。もう一人も残らないから、女も出たには違いない。
三
が、拍子抜けのした事は夥おび多ただしい。
ストンと溝へ落ちたような心持ちで、電車を下りると、大粒ではないが、引ひッ包つつむように細かく降ふり懸かかる雨を、中なか折おれで弾はじく精もない。
鼠の鍔つばをぐったりとしながら、我慢に、吾妻橋の方も、本願寺の方も見返らないで、ここを的あてに来たように、素まっ直すぐに広小路を切って、仁王門を真まっ正しょ面うめん。
濡れても判はっ明きりと白い、処々むらむらと斑ふが立って、雨の色が、花はな簪かんざし、箱はこ狭せ子こ、輪わじ珠ゅ数ずなどが落ちた形になって、人出の混雑を思わせる、仲見世の敷石にかかって、傍わき目めも触ふらないで、御みど堂うの方かたへ。
そこらの豆屋で、豆をばちばちと焼く匂においが、雨を蒸して、暖かく顔を包む。
その時、広小路で、電車の口から颯さっと打った網の末すそが一度、混雑の波に消えて、やがて、向むきのかわった仲見世へ、手元を細くすらすらと手繰寄せられた体ていに、前さっ刻きの女が、肩を落して、雪かと思う襟脚細く、紺こん蛇じゃ目の傘めを、姿の柳に引ひっ掛かけて、艶つややかにさしながら、駒下駄を軽く、褄つまをはらはらとちと急いで来た。
と見ると、左側から猶た予めらわないで、真まん中なかへ衝つと寄って、一帆に肩を並べたのである。
なよやかな白い手を、半ば露あら顕わに、飜ひら然りと友染の袖を搦からめて、紺蛇目傘をさしかけながら、
﹁貴あな下た、濡れますわ。﹂
と言う。瞳が、動いて莞にっ爾こり。留と南め奇きの薫かおりが陽かげ炎ろうのような糠ぬか雨あめにしっとり籠こもって、傘からかさが透通るか、と近ちか増まさりの美しさ。
一帆の濡れた額は快よい汗になって、
﹁いいえ、構わない、私は。﹂
と言った、がこれは心から素そっ気けのない意味ではなかった。
﹁だって、召物が。﹂
﹁何、外がい套とうを着ています。﹂
と別に何の知ちか己づきでもない女に、言葉を交わすのを、不思議とも思わないで、こうして二言三言、云う中うちにも、つい、さしかけられたままで五いつ足あし六むあ足し。花の枝を手に提げて、片袖重いような心持で、同じ傘からかさの中を歩あ行るいた。
﹁人が見ます。﹂
どうして見るどころか、人脚の流るる中を、美しいしぶきを立てるばかり、仲店前を逆らって御堂の路みちへ上るのである。
また、誰が見ないまでも、本堂からは、門をうろ抜けの見みと透おし一筋、お宮様でないのがまだしも、鏡があると、歴あり然ありともう映ろう。
﹁御迷惑?﹂
と察したように低こご声えで言ったのが、なお色めいたが、ちっと蛇じゃ目の傘めを傾けた。
目隠しなんど除とれたかと、はっきりした心持で、
﹁迷惑どころじゃ……しかし穏おだやかではありません。一人ものが随分通ります。﹂
とやっと苦笑した。
﹁では、別ッこに……﹂と云うなり、拗すねた風にするりと離れた。
と思うと、袖を斜めに、ちょっと隠れた状さまに、一帆の方へ蛇目傘ながら細ほっそりした背せなを見せて、そこの絵草紙屋の店を覗ながめた。けばけばしく彩った種いろ々いろの千代紙が、染にじむがごとく雨に縺もつれて、中でも紅べにが来て、女の瞼まぶたをほんのりとさせたのである。
今度は、一帆の方がその傍そばへ寄るようにして、
﹁どっちへいらっしゃる。﹂
﹁私?……﹂
と傘からかさの柄に、左ゆん手でを添そえた。それが重いもののように、姿が撓しなった。
﹁どこへでも。﹂
これを聞きき棄ずてに、今は、ゆっくりと歩あ行るき出したが、雨がふわふわと思いのまま軽い風に浮立つ中に、どうやら足あし許もともふらふらとなる。
四
門の下で、後うしろを振返って見た時は、何ど店こへか寄ったか、傍わきへ外それたか。仲見世の人通りは雨の朧おぼろに、ちらほらとより無かったのに、女の姿は見えなかった。
それきり逢あわぬ、とは心の裡うちに思わないながら、一帆は急に寂しくなった。
妙に心も更あらたまって、しばらく何事も忘れて、御みど堂うの階段を……あの大おお提ぢょ灯うちんの下を小さく上って、厳おごそかな廂ひさしを……欄干に添って、廻廊を左へ、角の擬ぎぼ宝し珠ゅで留まって、何やら吻ほっと一息ついて、零しずくするまでもないが、しっとりとする帽子を脱いで、額を手ハン布ケチで、ぐい、と拭ぬぐった。
﹁素しら面ふだからな。﹂
と歎息するように独ひと言りごとして、扱しごいて片かた頬ほを撫なでた手をそのまま、欄干に肱ひじをついて、遍あまねく境内をずらりと視ながめた。
早いもので、もう番傘の懐ふと手ころで、高足駄で悠々と歩あ行るくのがある。……そうかと思うと、今になって一目散に駆出すのがある。心は種いろ々いろな処へ、これから奥は、御堂の背うし後ろ、世間の裏へ入る場所なれば、何の卑ひき怯ょうな、相あい合あい傘がさに後おくれは取らぬ、と肩の聳そびゆるまで一人で気き競おうと、雨も霞かすんで、ヒヤヒヤと頬ほおに触る。一雫も酔よい覚ざめの水らしく、ぞくぞくと快く胸が時めく……
が、見みと透おしのどこへも、女の姿は近づかぬ。
﹁馬鹿な、それっきりか。いや、そうだろう。﹂
と打うっ棄ちゃり放す。
大提灯にはたはたと翼つばさの音して、雲は暗いが、紫の棟の蔭、天女も籠こもる廂ひさしから、鳩が二三羽、衝つと出て飜ひら々ひらと、早や晴れかかる銀いち杏ょうの梢こずえを矢大臣門の屋根へ飛んだ。
胸を反らして空模様を仰ぐ、豆売りのお婆ばあの前を、内うち端ばな足取り、裳もすそを細く、蛇じゃ目の傘めをやや前下りに、すらすらと撫なで肩がたの細いは……確たしかに。
スーと傘からかさをすぼめて、手みた洗ら鉢しへ寄った時は、衣きも服のの色が、美しく湛たたえた水に映るか、とこの欄干から遥はるかな心に見て取られた。……折からその道筋には、件くだんの女ただ一人で。
水色の手ハン巾ケチを、はらりと媚なまめかしく口に啣くわえた時、肩越に、振仰いで、ちょいと廻廊の方かたを見上げた。
のめのめとそこに待っていたのが、了りょ簡うけんの余り透く気がして、見られた拍子に、ふらりと動いて、背うし後ろ向きに横へ廻る。
パッパッと田舎の親おや仁じが、掌てのひらへ吸殻を転がして、煙きせ管るにズーズーと脂やにの音。くく、とどこかで鳩の声。茜あかねの姉あねえも三四人、鬱うこ金んの婆ばさ様まに、菜なば畠たけの阿かか媽あも交まじって、どれも口を開けていた。
が、あ、と押おっ魂たま消げて、ばらりと退のくと、そこの横手の開ひら戸きど口ぐちから、艶あで麗やかなのが、すうと出た。
本堂へ詣まいったのが、一廻りして、一帆の前に顕あらわれたのである。
すぼめた蛇じゃ目の傘めに手を隠して、
﹁お待ちなすって?﹂
また、ほんのりと花の薫かおり。
﹁何、ちっとも。……ゆっくりお参まい詣りをなされば可いい。﹂
﹁貴あな下たこそ、前さきへいらしってお待ち下されば可ようござんすのに、出でっ張ぱりにいらしって、沫しぶきが冷つめたいではありませんか。﹂
さっさと先へ行ゆけではない。待ってくれれば、と云う、その待つのはどこか、約束も何もしないが、もうこうなっては、度胸が据すわって、
﹁だって雨を潜くぐって、一人でびしょびしょ歩あ行るけますか。﹂
﹁でも、その方がお好すきな癖に……﹂
と云って、肩でわざとらしくない嬌し態なをしながら、片手でちょいと帯を圧おさえた。ぱちん留どめが少し摺ずって、……薄いが膨ふっくりとある胸を、緋ひが鹿の子この下した〆じめが、八ツ口から溢こぼれたように打合わせの繻しゅ子すを覗のぞく。
その間に、きりりと挟んだ、煙きせ管るづ筒つ? ではない。象ぞう牙げぼ骨ねの女扇を挿している。
今圧えた手は、帯が弛ゆるんだのではなく、その扇おう子ぎを、一息探く挿込んだらしかった。
五
紫の矢やが絣すりに箱はこ迫せこの銀のぴらぴらというなら知らず、闇やみ桜ざくらとか聞く、暗いなかにフト忘れたように薄うす紅くれないのちらちらする凄すごい好みに、その高島田も似なければ、薄い駒下駄に紺こん蛇じゃ目の傘めも肖そぐわない。が、それは天気模様で、まあ分る。けれども、今時分、扇おう子ぎは余りお儀式過ぎる。……踊の稽けい古この帰かえ途りなら、相応したのがあろうものを、初しょ手てから素性のおかしいのが、これで愈いよ々いよ不思議になった。
が、それもその筈はず、あとで身みじ上ょうを聞くと、芸人だと言う。芸人も芸人、娘むす手めて品じな、と云うのであった。
思い懸けず、余あんまり変ってはいたけれども、当人の女の名な告のるものを、怪しいの、疑わしいの、嘘う言そだ、と云った処で仕方がない。まさか、とは考えるが、さて人の稼業である。此こな方たから推おし着つけに、あれそれとも極きめられないから、とにかく、不承々々に、そうか、と一帆の頷うなずいたのは、しかし観世音の廻廊の欄干に、立並んだ時ではない。御みど堂うの裏、田たん圃ぼの大だい金きんの、とある数すき寄や屋づ造くり﹇#﹁数寄屋造り﹂は底本では﹁敷寄屋造り﹂﹈の四畳半に、膳ぜんを並べて差向った折からで。……
もっとも事のそこへ運んだまでに、いささか気になる道みち行ゆきの途中がある。
一帆は既に、御堂の上で、その女に、大形の紙さ幣つを一枚、紙入から抜取られていたのであった。
やっぱり練磨の手てわ術ざであろう。
その時、扇子を手で圧おさえて、貴あな下たは一人で歩あ行るく方が、
﹁……お好すきな癖に……﹂
とそう云うから、一帆は肩を揺ゆすって、
﹁こうなっちやもう構やしません。是非相合傘にして頂く。﹂と威おどすように云って笑った。
﹁まあ、駄だ々だッ児このようだわね。﹂
と莞にっ爾こりして、
﹁貴あな方た、﹂と少し改まる。
﹁え。﹂
﹁あの、少々お持合わせがござんすか。﹂
と澄まして言う。一帆はいささか覚悟はしていた。
﹁ああ。﹂
とわざと鷹おう揚ように、
﹁幾いく干らばかり。﹂
﹁十枚。﹂
と胸を素まっ直すぐにした、が、またその姿も佳よかった。
﹁ちょいと、買物がしたいんですから。﹂
﹁お持ちなさい。﹂
この時、一帆は背うし後ろに立った田舎ものの方を振向いた。皆みんな、きょろりきょろりと視ながめた。
女は、帯にも突つっ込こまず、一枚掌たなそこに入れたまま、黙って、一帆に擦すれ違ちがって、角の擬ぎぼ宝し珠ゅを廻って、本堂正面の階段の方へ見えなくなる。
大方、仲見世へ引返したのであろう、買物をするといえば。
さて何をするか、手間の取れる事一通りでない。
煙たば草こももう吸い飽きて、拱こまぬいてもだらしなく、ぐったりと解ける腕組みを仕直し仕直し、がっくりと仰あお向むいて、唇をペろぺろと舌で嘗なめる親おや仁じも、蹲しゃがんだり立ったりして、色気のない大おお欠あく伸びを、ああとする茜あかねの新しん姐ぞも、まんざら雨宿りばかりとは見えなかった。が、綺きれ麗いな姉あね様さまを待まち飽あ倦ぐんだそうで、どやどやと横手の壇を下おり懸けて、
﹁お待まち遠どおだんべいや。﹂
と、親仁がもっともらしい顔かお色つきして、ニヤリともしないで吐ほざくと、女どもは哄どっと笑って、線香の煙の黒い、吹上げの沫しぶきの白い、誰たそ彼がれのような中へ、びしょびしょと入って行ゆく。
吃びっ驚くりして、這しや奴つ等ら、田舎ものの風をする掏す賊りか、ポン引ひきか、と思った。軽くなった懐ふと中ころにつけても、当節は油断がならぬ。
その時分まで、同じ処にぼんやりと立って待ったのである。
六
早く下りよ、と段はそこに階きざはしを明けて斜めに待つ。自分に恥じて、もうその上は待っていられないまでになった。
端へ出るのさえ、後を慕って、紙さ幣つに引ひき摺ずられるような負まけ惜おしみの外聞があるので、角の処へも出ないでいた。なぜか、がっかりして、気が抜けて、その横手から下りて、路みちを廻るのも億おっ劫くうでならぬので、はじめて、ふらふらと前へ出て、元の本堂前の廻廊を廻って、欄干について、前さっ刻き来がけとは勢いきおいが、からりとかわって、中なか折おれの鍔つばも深く、面おもてを伏せて、そこを伝う風も、我ながら辿たど々たどしかった。
トあの大提灯を、釣鐘が目めの前まえへぶら下ったように、ぎょっとして、はっと正面へ魅つままれた顔を上げると、右の横手の、広ひろ前まえの、片隅に綺麗に取って、時ならぬ錦にし木きぎが一ひと本もと、そこへ植わった風情に、四あた辺りに人もなく一人立って、傘からかさを半開き、真まっ白しろな横顔を見せて、生はえ際ぎわを濃く、美しく目迎えて莞にっ爾こりした。
﹁沢たん山と、待たせてさ。﹂と馴なれ々なれしく云うのが、遅くなった意味には取れず、逆さかさまに怨うらんで聞える。
言葉戦い合かなうまじ、と大手を拡げてむずと寄って、
﹁どこにしましょう。﹂
﹁どちらへでも、貴あな下たのお宜よろしい処が可ようござんす。﹂
﹁じゃ、行く処へいらっしゃい。﹂
﹁どうぞ。﹂
ともう、相合傘の支度らしい、片袖を胸に当てる、柄よりも姿が細ほっそりする。
丈がすらりと高島田で、並ぶと蛇じゃ目の傘めの下に対つい。
で、大だい金きんへ入った時は、舟崎は大胆に、自分が傘からかさを持っていた。
けれども、後で気が着くと、真しん打うちの女太夫に、恭うやうやしくもさしかけた長柄の形で、舟崎の図は宜しくない。
通されたのが小こざ座し敷きで、前さっ刻き言ったその四畳半。廊下を横へ通かよ口いぐち﹇#ルビの﹁かよいぐち﹂は底本では﹁かよひぐち﹂﹈がちょっと隠れて、気の着かぬ処に一ひと室まある……
数す寄きに出来て、天井は低かった。畳の青さ。床柱にも名があろう……壁に掛けた籠かごに豌えん豆どうのふっくりと咲いた真まっ白しろな花、蔓つるを短かく投込みに活いけたのが、窓明りに明あかるく灯を点ともしたように見えて、桃の花より一層ほんのりと部屋も暖い。
用を聞いて、円ま髷げに結いった女中が、しとやかに扉ひらきを閉めて去いったあとで、舟崎は途中も汗ばんで来たのが、またこう籠こもったので、火鉢を前に控えながら、羽織を脱いだ。
それを取って、すらりと扱しごいて、綺麗に畳む。
﹁これは憚はばかり、いいえ、それには。﹂
﹁まあ、好きにおさせなさいまし。﹂
と壁の隅へ、自分の傍わきへ、小こひ膝ざを浮かして、さらりと遣やって、片手で手ハン巾ケチを捌さばきながら、
﹁ほんとうにちと暖か過ぎますわね。﹂
﹁私は、逆のぼ上せるからなお堪たまりません。﹂
﹁陽気のせいですね。﹂
﹁いや、お前さんのためさ。﹂
﹁そんな事をおっしゃると、もっと傍そばへ。﹂
と火鉢をぐい、と圧おして来て、
﹁そのかわり働いて、ちっと開けて差上げましょう。﹂
と弱々と斜ななめにひねった、着流しの帯のお太鼓の結むす目びめより低い処に、ちょうど、背うし後ろの壁を仕切って、細い潜くぐり窓の障子がある。
カタリ、と引くと、直ぐに囲いの庭で、敷松葉を払ったあとらしい、蕗ふきの葉が芽めぐんだように、飛石が五六枚。
柳の枝しお折り戸ど、四ツ目垣。
トその垣根へ乗越して、今フト差さし覗のぞいた女の鼻筋の通った横顔を斜はす違っかいに、月影に映す梅の楚ずわえのごとく、大おおいなる船の舳へさきがぬっと見える。
﹁まあ、可いいこと!﹂
と嬉しそうに、なぜか仇あど気けない笑顔になった。
七
﹁池があるんだわね。﹂
と手を支ついて、壁に着いたなりで細ほっそりした頤おとがいを横にするまで下から覗のぞいた、が、そこからは窮屈で水は見えず、忽こつ然ぜんとして舳へさきばかり顕あらわれたのが、いっそ風情であった。
カラカラと庭下駄が響く、とここよりは一段高い、上の石畳みの土間を、約束の出であろう、裾すそ模もよ様うの後姿で、すらりとした芸者が通った。
向うの座敷に、わやわやと人声あり。
枝しお折り戸どの外を、柳の下を、がさがさと箒ほうきを当てる、印しる半しば纏んてんの円い背せなかが、蹲うずくまって、はじめから見えていた。
それには差構いなく覗いた女が、芸者の姿に、密そっと、直ぐに障子を閉めた。
向直った顔が、斜めに白い、その豌えん豆どうの花に面した時、眉を開いて、熟じっと視みた。が、瞳を返して、右め手てに高い肱ひじ掛かけ窓まどの、障子の閉ったままなのを屹きっと見み遣やった。
咄とっ嗟さの間の艶あで麗やかな顔の働きは、たとえば口紅を衝つと白おし粉ろいに流して稲妻を描いたごとく、媚なまめかしく且つ鋭いもので、敵あり迫らば翡ひす翠いに化して、窓から飛んで抜けそうに見えたのである。
一帆は思わず坐り直した。
処へ、女中が膳ぜんを運んだ。
﹁お一ツ。﹂
﹁天気は?﹂
﹁可いい塩あん梅ばいに霽あがりました。……ちと、お熱過ぎはいたしませんか。﹂
﹁いいえ、結構。﹂
﹁もし、貴あな女た。﹂
女が、もの馴なれた状さまで猪ちょ口くを受けたのは驚かなかったが、一ツ受けると、
﹁何うぞ、置いて去いらしって可ようござんす。﹂と女中を起たたせたのは意外である。
一帆はしばらくして陶とう然ぜんとした。
﹁更あらためて、一ひと杯つ、お知ちか己づきに差上げましょう。﹂
﹁極きまりが悪うござんすね。﹂
﹁何の。そうしたお前さんか。﹂
と膝をぐったり、と頭こうべを振って、
﹁失礼ですが、お住とこ所ろは?﹂
﹁は、提ちょ灯うちんよ。﹂
と目めも許との微ほほ笑えみ。丁ちょうと、手にした猪口を落すように置くと、手ハン巾ケチではっと口を押えて、自分でも可おか笑しかったか、くすくす笑う。
﹁町名、町名、結構。﹂
一帆は町名と聞違えた。
﹁いいえ、提灯なの。﹂
﹁へい、提灯町。﹂
と、けろりと馬鹿気た目とろでいる。
また笑って、
﹁そうじゃありません。私の家うちは提灯なんです。﹂
﹁どこの? 提灯?﹂
﹁観音様の階段の上の、あの、大おおきな提灯の中が私の家うちです。﹂
﹁ええ。﹂と云ったが、大概察した。この上尋ねるのは無益である。
﹁お名は。﹂
﹁私? 名ですか。娘……﹂
﹁娘むす子めこさん。――成程違いない、で、お年と紀しは?﹂
﹁年は、婆さん。﹂
﹁年は婆さん、お名は娘、住とこ所ろは提灯の中でおいでなさる。……はてな、いや、分りました……が、お商売は。﹂
と訊きいた。
後に舟崎が語って言うよう――
いかに、大の男が手玉に取られたのが口くや惜しいといって、親、兄、姉をこそ問わずもあれ、妙とし齢ごろの娘に向って、お商売? はちと思切った。
しかし、さもしいようではあるが、それには廻廊の紙さ幣つがある。
その時、ちと更あらたまるようにして答えたのが、
﹁私は、手品をいたします。﹂
近頃はただ活動写真で、小屋でも寄よ席せでも一向入いりのない処から、座敷を勤めさして頂く。
﹁ちょいと嬰あ児かさんにおなり遊ばせ。﹂
思おも懸いがけない、その御礼までに、一つ手前芸を御覧に入れる。
﹁お笑い遊ばしちゃ、厭いやですよ。﹂と云う。
﹁これは拝見!﹂と大おお袈げ裟さに開き直って、その実は嘘だ、と思った。
すると、軽く膝を支ついて、蒲ふと団んをずらして、すらりと向うへ、……扉ひらきの前。――此こな方たに劣らず杯さかずきは重ねたのに、衣きぬの薫かおりも冷ひやりとした。
扇子を抜いて、畳に支ついて、頭つむりを下げたが、がっくり、と低うな頭だれたように悄しおれて見えた。
﹁世渡りのためとは申しながら……前さきへ御祝儀を頂いたり、﹂
と口くち籠ごもって、
﹁お恥かしゅう存じます。﹂と何と思ったか、ほろりとした。その美しさは身に染みて、いまだ夢にも忘れぬ。
いや、そこどころか。
あの、籠かごの白い花を忘れまい。
すっと抜くと、掌てのひらに捧げて出て、そのまま、子れん窓じまどの障子を開けた。開ける、と中庭一面の池で、また思懸けず、船が一舳そう、隅田に浮いた鯨のごとく、池の中を切し劃きって浮く。
空は晴れて、霞かすみが渡って、黄金のような半輪の月が、薄うっすりと、淡い紫の羅うすものの樹こだ立ちの影を、星を鏤ちりばめた大おお松たい明まつのごとく、電燈とともに水に投げて、風の余なご波りは敷しき妙たえの銀の波。
ト瞻みつめながら、
﹁は、﹂と声が懸かかる、袖を絞って、袂たもとを肩へ、脇わき明あけ白き花一ひと片ひら、手を辷すべったか、と思うと、非あらず、緑の蔓つるに葉を開いて、はらりと船へ投げたのである。
ただ一ひと攫つまみなりけるが、船の中に落つると斉ひとしく、礫つぶて打った水の輪のように舞って、花は、鶴の羽はのごとく舳へさきにまで咲きこぼれる。
その時きりりと、銀の無地の扇子を開いて、かざした袖の手のしないに、ひらひらと池を招く、と澄すみ透とおる水に映って、ちらちらと揺ゆらめいたが、波を浮いたか、霞を落ちたか、その大おおきさ、やがて扇ばかりな真まっ白しろな一羽の胡こち蝶ょう、ふわふわと船の上に顕あらわれて、つかず、離れず、豌えん豆どうの花に舞う。
やがて蝶が番つがいになった。
内は寂ひっ然そりとした。
芸者の姿は枝しお折り戸どを伸上った。池を取とり廻まわした廊下には、欄てす干りご越しに、燈とう籠ろうの数ほど、ずらりと並ぶ、女中の半身。
蝶は三ツになった。影を沈めて六ツの花、巴ともえに乱れ、卍まんじと飛交う。
時にそよがした扇子を留めて、池を背うし後ろに肱ひじ掛かけ窓まどに、疲れたように腰を懸ける、と同じ処に、肱ひじをついて、呆あっ気けに取られた一帆と、フト顔を合せて、恥じたる色して、扇子をそのまま、横に背そむいて、胸越しに半面を蔽おおうて差さし俯うつ向むく時、すらりと投げた裳もすそを引いて、足袋の爪先を柔かに、こぼれた褄つまを寄せたのである。
フト現うつつから覚めた時、女の姿は早やなかった。
女中に聞くと、
﹁お車で、たった今……﹂
明治四十四︵一九一一︶年二月