一
砂山を細く開いた、両方の裾すそが向いあって、あたかも二頭の恐しき獣の踞うずくまったような、もうちっとで荒海へ出ようとする、路みちの傍かたえに、崖がけに添うて、一軒漁師の小こい家えがある。
崖はそもそも波というものの世を打ちはじめた昔から、がッきと鉄くろがねの楯たてを支ついて、幾億尋ひろとも限り知られぬ、潮うしおの陣を防ぎ止めて、崩れかかる雪のごとく鎬しのぎを削る頼たの母もしさ。砂山に生え交まじる、茅かや、芒すすきはやがて散り、はた年ごとに枯れ果てても、千ち代よ万よろ代ずよの末かけて、巌いわおは松の緑にして、霜にも色は変えないのである。
さればこそ、松五郎。我が勇いさましき船頭は、波打際の崖をたよりに、お浪という、その美しき恋女房と、愛らしき乳ちの児みを残して、日ごとに、件くだんの門かどの前なる細路へ、衝つとその後姿、相あい対むかえる猛獣の間に突つっ立たつよと見れば、直ちに海うな原ばらに潜くぐるよう、砂山を下りて浜に出て、たちまち荒海を漕こぎ分けて、飛ぶ鴎かもめよりなお高く、見果てぬ雲に隠るるので。
留守はただ磯いそ吹く風に藻もく屑ずの匂においの、襷たすきかけたる腕かいなに染むが、浜百合の薫かおりより、空そら燻だきより、女房には一ひと際きわ床ゆかしく、小こど児もを抱いたり、頬ほお摺ずりしたり、子守唄うとうたり、つづれさしたり、はりものしたり、松葉で乾ひも物のをあぶりもして、寂しく今日を送る習い。
浪の音には馴なれた身も、鶏とりの音ねに驚きて、児こと添そい臥ぶしの夢を破り、門かど引ひきあけて隈くまなき月に虫の音の集すだくにつけ、夫恋しき夜よ半わの頃、寝ねま衣きに露を置く事あり。もみじのような手を胸に、弥やよ生いの花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも艪ろの声にのみ耳を澄ませば、生あや憎にく待たぬ時ほと鳥とぎす。鯨の冬の凄すさまじさは、逆巻き寄する海の牙きばに、涙に氷る枕まくらを砕いて、泣く児を揺ゆするは暴あ風ら雨しならずや。
母は腕かいなのなゆる時、父は沖なる暗夜の船に、雨と、波と、風と、艪と、雲と、魚と渦巻く活なり計わい。
津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は暖あたたかに、北は寒く、一ひと条すじ路みちにも蔭かげ日ひな向たで、房州も西にし向むきの、館たて山やま北条とは事かわり、その裏側なる前原、鴨かも川がわ、古川、白しら子こ、忽ごっ戸となど、就なか中んずく、船ふな幽ゆう霊れいの千倉が沖、江見和田などの海岸は、風に向いたる白帆の外には一ひと重えの遮るものもない、太平洋の吹通し、人も知ったる荒あり磯そう海み。
この一軒屋は、その江見の浜の波打際に、城の壁とも、石垣とも、岸を頼んだ若木の家やづ造くり、近ごろ別家をしたばかりで、葺ふいた茅かやさえ浅みどり、新しん藁わらかけた島田が似合おう、女房は子持ちながら、年と紀しはまだ二十二三。
去年ちょうど今時分、秋のはじめが初うい産ざんで、お浜といえば砂いさごさえ、敷しき妙たえの一ひと粒つぶ種だね。日あたりの納戸に据えた枕まく蚊らが帳やの蒼あおき中に、昼の蛍の光なく、すやすやと寐ね入いっているが、可愛らしさは四あた辺りにこぼれた、畳も、縁も、手おも遊ちゃ、玩おも弄ち物ゃ。
犬いぬ張はり子こが横に寝て、起上り小こ法ぼ師しのころりと坐すわった、縁台に、はりもの板を斜めにして、添そえ乳ぢの衣えも紋んも繕わず、姉あねさんかぶりを軽かろくして、襷たすきがけの二の腕あたり、日ざしに惜おし気げなけれども、都育ちの白やかに、紅も絹みの切きれをぴたぴたと、指を反らした手の捌さばき、波の音のしらべに連れて、琴の糸を辿たどるよう、世帯染みたがなお優しい。
秋日和の三時ごろ、人の影より、黍きびの影、一つ赤あか蜻とん蛉ぼの飛ぶ向うの畝あぜを、威勢の可いい声。
﹁号外、号外。﹂
二
﹁三ちゃん、何の号外だね、﹂
と女房は、毎日のように顔を見る同じ漁りょ場うばの馴なじ染みの奴やっこ、張はりものにうつむいたまま、徒つれ然づれらしい声を懸ける。
片手を懐ふと中ころへ突つっ込こんで、どう、してこました買かい喰ぐいやら、一番蛇を呑のんだ袋を懐ふと中ころ。微みじ塵んぼ棒うを縦にして、前歯でへし折って噛かじりながら、縁台の前へにょっきりと、吹矢が当って出たような福助頭に向う顱はち巻まき。少すこ兀はげの紺の筒つつ袖そで、どこの媽かか々あし衆ゅうに貰もらったやら、浅あさ黄ぎの扱しご帯きの裂けたのを、縄に捩よった一ひと重えまわし、小生意気に尻しり下さがり。
これが親おや仁じは念ねん仏ぶつ爺じじいで、網の破れを繕ううちも、数じゅ珠ずを放さず手にかけながら、葎むぐらの中の小窓の穴から、隣の柿の木、裏の屋根、烏をじろりと横目に覗のぞくと、いつも前はだけの胡あぐ坐らの膝ひざへ、台尻重く引つけ置く、三代相伝の火縄銃、のッそりと取上げて、フッと吹くと、ぱッと立つ、障子のほこりが目に入って、涙は出ても、狙ねらいは違えず、真まっ黒くろな羽をばさりと落して、奴やっこ、おさえろ、と見みむ向きもせず、また南な無む阿あ弥み陀だで手内職。
晩のお菜かずに、煮たわ、喰ったわ、その数三万三千三百さるほどに爺じいの因果が孫に報むくって、渾あだ名なを小こが烏らすの三之助、数え年十三の大柄な童わっぱでござる。
掻かき垂たれ眉を上と下、大きな口で莞にっ爾こりした。
﹁姉あね様さん、己おらの号外だよ。今朝、号外に腹が痛んだで、稲葉丸さ号外になまけただが、直きまた号外に治っただよ。﹂
﹁それは困ったねえ、それでもすっかり治ったの。﹂と紅もみ絹ぎ切れの小耳を細かく、ちょいちょいちょいと伸のばしていう。
﹁ああ号外だ。もう何ともありやしねえや。﹂
﹁だって、お前さん、そんなことをしちゃまたお腹が悪くなるよ。﹂
﹁何をよ、そんな事ッて。なあ、姉あね様さん、﹂
﹁甘いものを食べてさ、がりがり噛かじって、乱暴じゃないかねえ。﹂
﹁うむ、これかい。﹂
と目を上うわざまに細うして、下唇をぺろりと嘗なめた。肩も脛すねも懐も、がさがさと袋を揺ゆすって、
﹁こりゃ、何よ、何だぜ、あのう、己おらが嫁さんに遣やろうと思って、姥おんばが店で買って来たんで、旨うまそうだから、しょこなめたい。たった一ツだな。みんな嫁さんに遣るんだぜ。﹂
とくるりと、はり板に並んで向むきをかえ、縁側に手を支ついて、納戸の方を覗のぞきながら、
﹁やあ、寝てやがら、姉あね様さん、己おらが嫁さんは寝ねんねかな。﹂
﹁ああ、今しがた昼寝をしたの。﹂
﹁人情がないぜ、なあ、己おらが旨いものを持って来るのに。
ええ、おい、起きねえか、お浜ッ児こ。へ、﹂
とのめずるように頸うなじを窘すくめ、腰を引いて、
﹁何にもいわねえや、蠅はえばかり、ぶんぶんいってまわってら。﹂
﹁ほんとに酷ひどい蠅ねえ、蚊が居なくッても昼間だって、ああして蚊帳へ入れて置かないとね、可かわ哀いそうなように集たかるんだよ。それにこうやって糊のりがあるもんだからね、うるさいッちゃないんだもの。三ちゃん、お前さんの許とこなんぞも、やっぱりこうかねえ、浜へはちっとでも放れているから、それでも幾いく干らか少なかろうねえ。﹂
﹁やっぱり居ら、居るどころか、もっと居ら、どしこと居るぜ。一つかみ打ふん捕づかめえて、岡おか田だに螺しとか何とかいって、お汁つけの実にしたいようだ。﹂
とけろりとして真顔にいう。
三
こんな年していうことの、世帯じみたも暮くら向しむき、塩焼く煙も一ひと列つらに、おなじ霞かすみの藁わら屋や同士と、女房は打うち微ほほ笑えみ、
﹁どうも、三ちゃん、感心に所帯じみたことをおいいだねえ。﹂
奴やっこは心づいて笑い出し、
﹁ははは、所帯じみねえでよ、姉あねさん。こんのお浜ッ子が出来てから、己おらなりたけ小こづ遣かいはつかわねえ。吉や、七と、一いち銭もんこを遣やってもな、大事に気をつけてら。玩おも弄ち物ゃだのな、飴あめだのな、いろんなものを買って来るんだ。﹂
女房は何となく、手てぬ拭ぐいの中うちに伏ふし目めになって、声の調子も沈みながら、
﹁三ちゃんは、どうしてそんなだろうねえ。お前さんぐらいな年とし紀かっ恰こ好うじゃ、小こど児もの持っているものなんか、引ひっ奪たくっても自分が欲ほしい時だのに、そうやってちっとずつ皆みんなから貰もらうお小遣で、あの児こに何か買ってくれてさ。姉ねえさん、しみじみ嬉しいけれど、ほんとに三ちゃん、お前さん、お食あがりなら可いい、気の毒でならないもの。﹂
奴やっこは嬉しそうに目を下げて、
﹁へへ、何、ねえだよ、気の毒な事はちっともねえだよ。嫁さんが食べる方が、己おらが自分で食べるより旨うまいんだからな。﹂
﹁あんなことをいうんだよ。﹂
と女房は顔を上げて莞にっ爾こりと、
﹁何て情があるんだろう。﹂
熟じっと見られて独ひとりで頷うなずき、
﹁だって、男は誰でもそうだぜ。兄あに哥やだってそういわあ。船で暴あ風ら雨しに濡れてもな、屋根代の要らねえ内で、姉あねさんやお浜ッ児こが雨露に濡れねえと思や、自分が寒い気はしねえとよ。﹂
﹁嘘ばッかり。﹂
と対あい手てが小こど児もでも女房は、思わずはっと赧あからむ顔。
﹁嘘じゃねえだよ、その代かわりにゃ、姉さんもそうやって働いてるだ。
なあ姉さん、己おらが嫁さんだって何だぜ、己が漁に出掛けたあとじゃ、やっぱり、張はりものをしてくんねえじゃ己厭いやだぜ。﹂
﹁ああ、しましょうとも、しなくってさ、おほほ、三ちゃん、何を張るの。﹂
﹁え、そりゃ、何だ、またその時だ、今は着たッきりで何にもねえ。﹂
と面くらった身のまわり、はだかった懐ふと中ころから、ずり落ちそうな菓子袋を、その時縁へ差置くと、鉄砲玉が、からからから。
﹁号外、号外ッ、﹂と慌あわただしく這はい身みで追掛けて平手で横ざまにポンと払はたくと、ころりとかえるのを、こっちからも一ツ払いて、くるりとまわして、ちょいとすくい、
﹁は、﹂
とかけ声でポンと口。
﹁おや、御ごち馳そう走さ様まねえ。﹂
三之助はぐッと呑のんで、
﹁ああ号外、﹂と、きょとりとする。
女房は濡れた手をふらりとさして、すッと立った。
﹁三ちゃん。﹂
﹁うむ、﹂
﹁お前さん、その三尺は、大層色気があるけれど、余りよれよれになったじゃないか、ついでだからちょいとこの端へはっておいて上げましょう。﹂
﹁何こんなものを。﹂
とあとへ退すさり、
﹁いまに解きます繻しゅ子すの帯……﹂
奴やっこは聞き覚えの節になり、中音でそそりながら、くるりと向うむきになったが早いか、ドウとしたたかな足あし踏ぶみして、
﹁わい!﹂
日ひな向たへのッそりと来た、茶の斑ぶ犬ちが、びくりと退すさって、ぱっと砂、いや、その遁にげ状ざまの慌あわただしさ。
四
﹁状ざまを見ろ、弱虫め、誰だと思うえ、小烏の三之助だ。﹂
と呵から々からと笑って大得意。
﹁吃びっ驚くりするわね、唐だし突ぬけに怒鳴ってさ、ああ、まだ胸がどきどきする。﹂
はッと縁側に腰をかけた、女房は草履の踵かかとを、清くこぼれた褄つまにかけ、片手を背うし後ろに、あらぬ空を視ながめながら、俯うつ向むき通しの疲れもあった、頻しきりに胸を撫なで擦さする。
﹁姉あねさんも弱虫だなあ。東京から来て大尽のお邸やしきに、褄を引ひき摺ずっていたんだから駄目だ、意気地はねえや。﹂
女房は手拭を掻かい取ったが、目まぶちのあたりほんのりと、逆の上ぼせた耳にもつれかかる、おくれ毛を撫でながら、
﹁厭いやな児こだよ、また裾すそを、裾をッて、お引摺りのようで人聞きが悪いわね。﹂
﹁錦にし絵きえの姉あね様さまだあよ、見ねえな、皆みんな引摺ってら。﹂
﹁そりゃ昔のお姫様さ。お邸は大尽の、稲葉様の内だって、お小間づかいなんだもの、引摺ってなんぞいるものかね。﹂
﹁いまに解きます繻しゅ子すの帯とけつかるだ。お姫様だって、お小間使だって、そんなことは構わねえけれど、船頭のおかみさんが、そんな弱虫じゃ不い可けねえや、ああ、お浜ッ児こはこうは育てたくないもんだ。﹂と、機械があって人形の腹の中で聞えるような、顔には似ない高慢さ。
女房は打笑みつつ、向直って顔を見た。
﹁ほほほ、いうことだけ聞いていると、三ちゃんは、大層強そうだけれど、その実意気地なしッたらないんだもの、何よ、あれは?﹂
﹁あれはッて?﹂と目をぐるぐる。
﹁だって、源次さん千太さん、理りえ右も衛ん門じ爺いさんなんかが来ると……お前さん、この五月ごろから、粋いきな小烏といわれないで、ベソを掻いた三之助だ、ベソ三だ、ベソ三だ。ついでに鯔ぼらと改名しろなんて、何か高慢な口をきく度に、番ごと籠こめられておいでじゃないか。何でも、恐こわいか、辛いかしてきっと沖で泣いたんだよ。この人は、﹂とおかしそうに正まむ向きに見られて、奴やっこは、口をむぐむぐと、顱はち巻まきをふらりと下げて、
﹁へ、へ、へ。﹂と俯向いて苦笑い。
﹁見たが可いい、ベソちゃんや。﹂
と思わず軽く手をたたく。
﹁だって、だって、何だ、﹂
と奴やっこは口く惜やしそうな顔色で、
﹁己おらぐらいな年と紀しで、鮪まぐ船ろぶねの漕こげる奴やつは沢たん山とねえぜ。
ここいらの鼻はな垂ったらしは、よう磯いそだって泳げようか。たかだか堰せきでめだかを極きめるか、古川の浅い処で、ばちゃばちゃと鮒ふなを遣やるだ。
浪打際といったって、一ひと畝うねり乗って見ねえな、のたりと天上まで高くなって、嶽たけの堂は目の下だ。大風呂敷の山じゃねえが、一波越すと、谷底よ。浜も日本も見えやしねえで、お星様が映りそうで、お太てん陽とう様さまは真まっ蒼さおだ。姉あねさん、凪なぎの可いい日でそうなんだぜ。
処を沖へ出て一つ暴し風け雨と来るか、がちゃめちゃの真まっ暗くらやみで、浪だか滝だか分らねえ、真水と塩水をちゃんぽんにがぶりと遣っちゃ、あみの塩からをぺろぺろとお茶の子で、鼻唄を唄うんだい、誰が沖へ出てベソなんか。﹂
と肩を怒らして大手を振った、奴やっこ、おまわりの真ま似ねして力む。
﹁じゃ、何なんだって、何だってお前、ベソ三なの。﹂
﹁うん、﹂
たちまち妙な顔、けろけろと擬勢の抜けた、顱はち巻まきをいじくりながら、
﹁ありゃね、ありゃね、へへへ、号外だ、号外だ。﹂
五
﹁あれさ、ちょいと、用がある、﹂
と女房は呼止める。
奴やっこは遁にげ足を向うのめりに、うしろへ引かれた腰こし附つきで、
﹁だって、号外が忙しいや。あ、号外ッ、﹂
﹁ちょいと、あれさ、何だよ、お前、お待まちッてばねえ。﹂
衝つと身を起こして追おうとすると、奴やっこは駈かけ出だした五いつ足あしばかりを、一飛びに跳ね返って、ひょいと踞しゃがみ、立った女房の前まえ垂だれのあたりへ、円い頤あご、出おで額こで仰いで、
﹁おい、﹂という。
出足へ唐だし突ぬけに突つッ屈かがまれて、女房の身は、前へしないそうになって蹌よろ踉めいた。
﹁何だねえ、また、吃びっ驚くりするわね。﹂
﹁へへへ、番ごとだぜ、弱虫やい。﹂
﹁ああ、可いいよ、三ちゃんは強うございますよ、強いからね、お前は強いからそのベソを掻いたわけをお話しよ。﹂
﹁お前は強いからベソを掻いたわけ、﹂と念のためいってみて、瞬またたきした、目が渋そう。
﹁不い可けねえや、強いからベソをなんて、誰が強くってベソなんか掻くもんだ。﹂
﹁じゃ、やっぱり弱虫じゃないか。﹂
﹁だって姉あねさん、ベソも掻かざらに。夜よっ一ぴ夜て亡念の火が船について離れねえだもの。理り右え衛む門なんざ、己おらがベソをなんていう口で、ああ見えてその時はお念仏唱えただ。﹂と強がりたさに目をる。
女房はそれかあらぬか、内々危あやぶんだ胸へひしと、色変るまで聞きき咎とがめ、
﹁ええ、亡念の火が憑ついたって、﹂
﹁おっと、……﹂
とばかり三之助は口をおさえ、
﹁黙ろう、黙ろう、﹂と傍わきを向いた、片かた頬ほに笑えみを含みながら吃びっ驚くりしたような色である。
秘かくすほどなお聞きたさに、女房はわざとすねて見せ、
﹁可いいとも、沢たん山とそうやってお秘しな。どうせ、三ちゃんは他人だから、お浜の婿さんじゃないんだから、﹂
と肩を引いて、身を斜め、捩ねじり切りそうに袖そでを合わせて、女房は背そが向いになンぬ。
奴やっこは出る杭くいを打つ手つき、ポンポンと天あた窓まをたたいて、
﹁しまった! 姉あねさん、何も秘すというわけじゃねえだよ。
こんの兄あに哥きもそういうし、乗組んだ理右衛門徒でええも、姉さんには内証にしておけ、話すと恐こ怖わがるッていうからよ。﹂
﹁だから、皆みんなで秘すんだから、せめて三ちゃんが聞かせてくれたって可いじゃないかね。﹂
﹁むむ、じゃ話すだがね、おらが饒しゃ舌べったって、皆みんなにいっちゃ不いけ可ねえだぜ。﹂
﹁誰が、そんなことをいうもんですか。﹂
﹁お浜ッ児こにも内証だよ。﹂
と密そっと伸上ってまた縁側から納戸の母ほ衣ろ蚊が帳やを差さし覗のぞく。
﹁嬰あか児んぼが、何を知ってさ。﹂
﹁それでも夢に見て魘うなされら。﹂
﹁ちょいと、そんなに恐こ怖わい事なのかい。﹂と女房は縁の柱につかまった。
﹁え、何、おらがベソを掻いて、理右衛門が念仏を唱えたくらいな事だけんども。そら、姉あねさん、この五月、三日流しの鰹かつ船おぶねで二晩沖で泊ったっけよ。中の晩の夜中の事だね。
野だも山だも分ンねえ、ぼっとした海の中で、晩おそめに夕飯を食ったあとでよ。
昼間ッからの霧雨がしとしと降りになって来たで、皆みんな胴の間まへもぐってな、そん時に千太どんが漕こがしっけえ。
急に、おお寒い、おお寒い、風か邪ぜ揚あげ句くだ不精しょう。誰ぞかわんなはらねえかって、艫ともからドンと飛下りただ。
船はぐらぐらとしただがね、それで止まるような波じゃねえだ。どんぶりこッこ、すっこッこ、陸おかへ百里やら五十里やら、方角も何も分らねえ。﹂
女房は打うち頷うなずいた襟さみしく、乳ちの張る胸をおさえたのである。
六
﹁晩飯の菜に、塩からさ嘗なめ過ぎた。どれ、糠ぬか雨あめでも飲むべい、とってな、理り右え衛む門どんが入いれ交かわって漕こがしつけえ。
や、おぞいな千太、われ、えてものを見て逃げたな。と艫ともで爺じッさまがいわっしゃるとの、馬鹿いわっしゃい、ほんとうに寒気がするだッて、千太は天あた窓まから褞どて袍ら被かぶってころげた達だる磨まよ。
ホイ、ア、ホイ、と浪の中で、幽かすかに呼ばる声がするだね。
どこからだか分ンねえ、近いようにも聞えれば、遠いようにも聞えるだ。
来やがった、来やがった、陽気が悪いとおもったい! おらもどうも疝せん気きがきざした。さあ、誰ぞ来てやってくれ、ちっと踞しゃがまねえじゃ、筋張ってしょ事がない、と小こは半んと時きでまた理右衛門爺じいさまが潜っただよ。
われ漕こげ、頭痛だ、汝きさま漕げ、脚かっ気けだ、と皆みんな苦い顔をして、出で人てがねえだね。
平ひら胡あぐ坐らでちょっと磁石さ見さしつけえ、此こ家この兄あに哥やが、奴やっこ、汝てめえ漕げ、といわしったから、何の気もつかねえで、船で達者なのは、おらばかりだ、おっとまかせ。﹂と、奴やっこは顱はち巻まきの輪を大きく腕いっぱいに占める真似して、
﹁いきなり艫ともへ飛んで出ると、船が波の上へ橋にかかって、雨で辷すべるというもんだ。
どッこいな、と腰を極きめたが、ずッしりと手答えして、槻けやきの大木根こそぎにしたほどな大おおきい艪ろの奴やつ、のッしりと掻いただがね。雨がしょぼしょぼと顱巻に染みるばかりで、空だか水だか分らねえ。はあ、昼間見る遠い処の山の上を、ふわふわと歩あ行るくようで、底が轟ごう々ごうと沸にえくり返るだ。
ア、ホイ、ホイ、アホイと変な声が、真まっ暗くらな海にも隅があってその隅の方から響いて来ただよ。
西さ向けば、西の方、南さ向けば南の方、何でもおらがの向いた方で聞えるだね。浪の畝うねると同おん一なじに声が浮いたり沈んだり、遠くなったりな、近くなったり。
その内ぼやぼやと火が燃えた。船から、沖へ、ものの十四五町と真まっ黒くろな中へ、ぶくぶくと大きな泡が立つように、ぼッと光らあ。
やあ、火が点ともれたいッて、おらあ、吃びっ驚くりして喚わめくとな、……姉あねさん。﹂
﹁おお、﹂と女房は変った声こわ音ね。
﹁黙って、黙って、と理右衛門爺さまが胴の間まで、苫とまの下でいわっしゃる。
また、千太がね、あれもよ、陸おかの人ひと魂だまで、十五の年まで見ねえけりゃ、一生逢あわねえというんだが、十三で出っくわした、奴やつは幸しあ福わせよ、と吐こくだあね。
おらあ、それを聞くと、艪ろづかを握った手首から、寒くなったあ。﹂
﹁……まあ、厭いやじゃないかね、それでベソを掻いたんだね、無理はないよ、恐こ怖わいわねえ。﹂
とおくれ毛を風に吹かせて、女房も悚ぞ然っとする。奴やっこの顔色、赤あか蜻とん蛉ぼ、黍きびの穂も夕づく日。
﹁そ、そんなくれえで、お浜ッ児この婿さんだ、そんなくれえでベソなんか掻くべいか。
炎というだが、変な火が、燃え燃え、こっちへ来そうだで、漕ぎ放すべいと艪をおしただ。
姉さん、そうすると、その火がよ、大方浪の形かただんべい、おらが天あた窓まより高くなったり、船底へ崖がけが出来るように沈んだり、ぶよぶよと転げやあがって、船脚へついて、海蛇ののたくるようについて来るだ。﹂
﹁………………﹂
﹁そして何よ、ア、ホイ、ホイ、アホイと厭な懸声がよ、火の浮く時は下へ沈んで、火の沈む時は上へ浮いて、上うえ下したに底そこ澄ずんで、遠いのが耳について聞えるだ。﹂
七
﹁何でも、はあ、おらと同じように、誰かその、炎さ漕こいで来るだがね。
傍そばへ来られてはなんねえだ、と艪ろづかを刻んで、急いでしゃくると、はあ、不いけ可ねえ。
向うも、ふわふわと疾はやくなるだ。
こりゃ、なんねえ、しょことがない、ともう打うっちゃらかして、おさえて突つっ立たってびくびくして見ていたらな。やっぱりそれでも、来やあがって、ふわりとやって、鳥のように、舳へさきの上へ、水際さ離れて、たかったがね。一あたり風を食って、向うへ、ぶくぶくとのびたっけよ。またいびつ形なりに円くなって、ぼやりと黄色い、薄濁りの影がさした。大きな船は舳から胴の間へかけて、半分ばかり、黄色くなった。婦おん人ながな、裾すそを拡げて、膝ひざを立てて、飛乗った形だっけ。一ぱし大きさも大きいで、艪が上って、向うへ重くなりそうだに、はや他愛もねえ軽いのよ。
おらあ、わい、というて、艪を放した。
そん時だ、われの、顔は真まっ蒼さおだ、そういう汝おめえの面つらは黄色いぜ、と苫とまの間で、てんでんがいったあ。――あやかし火が通ったよ。
奴やっこ、黙って漕げ、何ともするもんじゃねえッて、此こ家んの兄あに哥やが、いわっしゃるで、どうするもんか。おら屈かがんでな、密そっとその火を見てやった。
ぼやりと黄色な、底の方に、うようよと何か動いてけつから。﹂
﹁えッ、何さ、何さ、三ちゃん、﹂と忙せわしく聞いて、女房は庇ひさしの陰。
日ひな向たの奴やっこも、暮れかかる秋の日の黄ばんだ中に、薄黒くもなんぬるよ。
﹁何だかちっとも分らねえが、赤あか目めふ鰒ぐの腸はらわたさ、引ずり出して、たたきつけたような、うようよとしたものよ。
どす赤いんだの、うす蒼あおいんだの、にちにち舳みよしの板にくッついているようだっけ。
すぽりと離れて、海へ落ちた、ぐるぐると廻っただがな、大のしに颯さっとのして、一ひと浪なみで遠くまで持って行った、どこかで魚うおの目が光るようによ。
おらが肩も軽くなって、船はすらすらと辷すべり出した。胴の間じゃ寂ひっそりして、幽かに鼾いびきも聞えるだ。夜は恐ろしく更けただが、浪も平たいらになっただから、おらも息を吐ついたがね。
えてものめ、何が息を吐かせべい。
アホイ、アホイ、とおらが耳の傍はたでまた呼ばる。
黙って漕げ、といわっしゃるで、おらは、スウとも泣かねえだが、腹の中で懸声さするかと思っただよ。
厭いやだからな、聞くまいとして頭あ掉ふって、耳を紛らかしていたっけが、畜生、船に憑ついて火を呼ぶだとよ。
波が平たいらだで、なおと不いけ可ねえ。火の奴やつめ、苦なしでふわふわとのしおった、その時は、おらが漕いでいる艪の方へさ、ぶくぶくと泳いで来たが、急にぼやっと拡がった、狸の睾きん丸たま八はち畳じょ敷うじきよ。
そこら一面、波が黄色に光っただね。
その中に、はあ、細長い、ぬめらとした、黒い島が浮いたっけ。
あやかし火について、そんな晩は、鮫さめの奴が化けるだと……あとで爺じいさまがいわしった。
そういや、目だっぺい。真まっ赤かな火が二つ空を向いて、その背中の突とっ先さきに睨にらんでいたが、しばらくするとな。いまの化ばけ鮫ざめめが、微みじ塵んになったように、大きい形はすぽりと消えて、百とも千とも数を知れねえ、いろんな魚うおが、すらすらすらすら、黄色な浪の上を渡りおったが、化鮫めな、さまざまにして見せる。唐からの海だか、天てん竺じくだか、和オラ蘭ン陀ダだか、分ンねえ夜中だったけが、おらあそんな事で泣きやしねえ。﹂と奴やっこは一息に勇んでいったが、言ことばを途切らし四あた辺りを視ながめた。
目の前なる砂山の根の、その向き合える猛獣は、薄すすきの葉とともに黒く、海の空は浪の末に黄をぼかしてぞ紅くれないなる。
八
﹁そうする内に、またお猿をやって、ころりと屈かがんだ人間ぐれえに縮かまって、そこら一面に、さっと暗くなったと思うと、あやし火の奴やつめ、ぶらぶらと裾すそに泡を立てて、いきをついて畝うねって来て、今度はおらが足の舵かじに搦からんで、ひらひらと燃えただよ。
おらあ、目を塞いだが、鼻の尖さきだ。艫ともへ這はい上あがりそうな形よ、それで片っぺら燃えのびて、おらが持っている艪ろをつかまえそうにした時、おらが手は爪の色まで黄色くなって、目の玉もやっぱりその色に染まるだがね。だぶりだぶり舷ふなべりさ打つ波も船も、黄色だよ。それでな、姉あねさん、金色になって光るなら、金かねの船で大丈夫というもんだが、あやかしだからそうは行かねえ。
時々煙けむのようになって船の形が消えるだね。浪が真まっ黒くろに畝ってよ、そのたびに化物め、いきをついてまた燃えるだ。
おら一生懸命に、艪で掻かきのめしてくれたけれど、火の奴は舵にからまりくさって、はあ、婦おん人なの裾が巻きついたようにも見えれば、爺じじいの腰がしがみついたようでもありよ。大きい鮟あん鱇こうが、腹の中へ、白しら張はり提ぢょ灯うちん鵜う呑のみにしたようにもあった。
こん畜生、こん畜生と、おら、じだんだを蹈ふんだもんだで、舵へついたかよ、と理り右え衛む門じ爺いさまがいわっしゃる。ええ、引ひっからまって点ともれくさるだ、というたらな。よくねえな、一あれ、あれようぜ、と滅め入いった声で松公がそういっけえ。
奴やっこや。
ひゃあ。
そのあやし火の中を覗のぞいて見ろい、いかいこと亡もう者じゃが居らあ、地獄の状さまは一見えだ、と千太どんがいうだあね。
小こど児もだ、馬鹿をいうない、と此こ家この兄あに哥やがいわしっけ。
おら堪たまんなくなって、ベソを掻き掻き、おいおい恐こ怖わくって泣き出したあだよ。﹂
いわれはかくと聞えたが、女房は何にもいわず、唇の色が褪あせていた。
﹁苫とまを上げて、ぼやりと光って、こんの兄哥の形がな、暗くら中やみへ出さしった。
おれに貸せ、奴やっこ寝ろい。なるほどうっとうしく憑つきやあがるッて、ハッと掌てのひらへ呼い吸きを吹かしったわ。
一しけ来るぞ、騒ぐな、といって艪づかさ取って、真まっ直すぐに空を見さしったで、おらも、ひとりでにすッこむ天あた窓ま﹇#ルビの﹁あたま﹂は底本では﹁あまた﹂﹈を上げて視ながめるとな、一面にどす赤く濁って来ただ。波は、そこらに真まっ黒くろな小山のような海坊主が、かさなり合って寝てるようだ。
おら胴の間へ転げ込んだよ。ここにもごろごろと八九人さ、小さくなってすくんでいるだね。
どこだも知んねえ海の中に、船さただ一艘そうで、目の前さ、化物に取巻かれてよ、やがて暴あ風ら雨しが来ようというだに、活いきて働くのはこんの兄哥、ただ一人だと思や心細いけんどもな、兄哥は船頭、こんな時のお船頭だ。﹂
女房は引入れられて、
﹁まあ、ねえ、﹂とばかり深い息。
奴やっこは高慢に打傾き、耳に小さな手を翳かざして、
﹁轟ごう――とただ鳴るばかりよ、長延寺様さ大釣鐘を半日天あた窓まから被かぶったようだね。
うとうととこう眠ったっぺ。相撲を取って、ころり投げ出されたと思って目さあけると、船の中は大水だあ。あかを汲くみ出せ、大変だ、と船も人もくるくる舞うだよ。
苫とまも何も吹飛ばされた、恐しい音ばかりで雨が降るとも思わねえ、天あた窓まから水びたり、真黒な海坊主め、船の前へも後へも、右へも左へも五十三十。ぬくぬくと肩さ並べて、手を組んで突つっ立たったわ、手を上げると袖の中から、口い開あくと咽の喉どから湧わいて、真まっ白しろな水みず柱ばしらが、から、倒さかさまにざあざあと船さ目がけて突つっ蒐かかる。
アホイ、ホイとどこだやら呼ばる声さ、あちらにもこちらにも耳について聞えるだね。﹂
九
﹁その時さ、船は八はっ丁ちょ艪うろになったがな、おららが呼ばる声じゃねえだ。
やっぱりおなじ処に、舵かじについた、あやし火のあかりでな、影のような船の形が、薄ぼんやり、鼠色して煙けむが吹いて消える工ぐあ合いよ、すッ飛んじゃするすると浮いて行ゆく。
難あり有がてえ、島が見える、着けろ着けろ、と千太が喚わめく。やあ、どこのか船も漕こぎつけた、島がそこに、と理り右え衛む門じ爺いさま。直じきさそこに、すくすくと山の形さあらわれて、暗やみの中突つき貫ぬいて大幅な樹の枝が、※﹇#﹁さんずい+散﹂、288-10﹈のあいだに揺ゆすぶれてな、帆柱さ突つっ立たって、波の上を泳いでるだ。
血迷ったかこいつら、爺様までが何をいうよ、島も山も、海の上へ出たものは石いし塊ころ一ツある処じゃねえ。暗かく礁れいわへ誘い寄せる、連つれを呼ぶ幽ゆう霊れい船ぶねだ。気を確たしかに持たっせえ、弱い音ねを出しやあがるなッて、此こ家んの兄あに哥やが怒鳴るだけんど、見す見す天てん竺じくへ吹き流されるだ、地獄の土でも構わねえ、陸おかへ上あがって呼い吸きが吐つきたい、助け船――なんのって弱い音さ出すのもあって、七転八倒するだでな、兄哥真まっ直すぐに突立って、ぶるッと身みぶ震るいをさしっけえよ、突いき然なり素すっ裸ぱだかになっただね。﹂
﹁内の人が、﹂と声を出して、女房は唾つを呑のんだ。
﹁兄あに哥やがよ。おい。
あやかし火さ、まだ舵に憑ついて放れねえだ、天あた窓まから黄色に光った下腹へな、鮪まぐ縄ろなわさ、ぐるぐると巻きつけて、その片かた端はじを、胴の間の横木へ結ゆわえつけると、さあ、念ばらしだ、娑しゃ婆ばか、地獄か見届けて来るッてな、ここさ、はあ、こんの兄あに哥やが、渾あだ名なに呼ばれた海うみ雀すずめよ。鳥のようにびらりと刎はねたわ、海の中へ、飛込むでねえ――真まっ白しろな波のかさなりかさなり崩れて来る、大きな山へ――駈かけ上あがるだ。
百ひゃ尋くひろばかり束つかね上げた鮪縄の、舷ふなべりより高かったのがよ、一ひと掬すくいにずッと伸のした! その、十丈、十五丈、弓なりに上から覗のぞくのやら、反りかえって、睨にらむのやら、口さあげて威おどすのやら、蔽おおわりかかって取り囲んだ、黒坊主の立たちはだかっている中へ浪に揉もまれて行かしっけえ、船の中ではその綱を手ン手に取って、理右衛門爺さま、その時にお念仏だ。
やっと時が立って戻ってござった。舷へ手をかけて、神様のような顔を出して、何にもねえ、八方から波を打ぶッつける暗かく礁れいわがあるばかりだ、迷うな、ッていわしった。
お船頭、御苦労じゃ、御苦労じゃ、お船頭と、皆みんな握にぎ拳りこぶしで拝んだだがね。
坊主も島も船の影も、さらりと消えてよ。そこら山のような波ばかり。
急に、あれだ、またそこらじゅう、空も、船も、人の顔も波も大きい大きい海の上さ半分仕切って薄黄色になったでねえか。
ええ、何をするだ、あやかしめ、また拡がったなッて、皆みんなくそ焼けに怒鳴ったっけえ。そうじゃねえ、東の空さお太てん陽とうさまが上あがらっしたが、そこでも、姉あねさん、天と波と、上うえ下したへ放れただ。昨ゆう夜べ、化ばけ鮫ざめの背中出したように、一面の黄色な中に薄ぼんやり黒いものがかかったのは、嶽たけの堂が目の果はてへ出て来ただよ。﹂
女房はほっとしたような顔かお色つきで、
﹁まあ、可よかったねえ、それじゃ浜へも近かったんだね。﹂
﹁思ったよりは流されていねえだよ、それでも沖へ三十里ばかり出ていたっぺい。﹂
﹁三十里、﹂
とまた驚いた状さまである。
﹁何だなあ、姉あねさん、三十里ぐれえ何でもねえや。
それで、はあ夜が明けると、黄色く環わどって透通ったような水と天との間さ、薄あかりの中をいろいろな、片手で片身の奴やつだの、首のねえのだの、蝦が蟇まが呼い吸き吹くようなのだの、犬の背中へ炎さ絡からまっているようなのだの、牛だの、馬だの、異いぎ形ょうなものが、影かげ燈どう籠ろう見るようにふわふわまよって、さっさと駈け抜けてどこかへ行ゆくだね。﹂
十
﹁あとで、はい、理り右え衛む門じ爺いさまもそういっけえ、この年になるまで、昨ゆう夜べぐれえ執しゅ念うね深んぶけえあやかしの憑ついた事はねえだって。
姉あねさん。
何だって、あれだよ、そんなに夜があけて海のばけものどもさ、するする駈かけ出して失うせるだに、手ても許とが明あかるくなって、皆みんなの顔が土つち気けい色ろになって見えてよ、艪ろが白うなったのに、舵かじにくいついた、えてものめ、まだ退のかねえだ。
お太てん陽とうさまお庇かげだね。その色が段々蒼あおくなってな、ちっとずつ固まって掻いすくまったようだっけや、ぶくぶくと裾すその方が水際で膨れたあ、蛭ひるめが、吸い肥ふとったようになって、ほとりの波の上へ落ちたがね、からからと明くなって、蒼黒い海さ、日の下で突つっ張ぱって、刎はねてるだ。
まあ、めでてえ、と皆みんなで顔を見たっけや、めでてえはそればかりじゃねえだ、姉さんも、新しい衣きも物のが一枚出来たっぺい、あん時の鰹かつおさ、今年中での大漁だ。
舳みよしに立って釣らしった兄あに哥やの身からだのまわりへさ、銀の鰹が降ったっけ、やあ、姉さん。﹂
と暮れかかる蜘く蛛もの囲いの檐のきを仰いだ、奴やっこの出おで額こは暗かった。
女房もそれなりに咽の喉どほの白う仰あお向むいて、目を閉じて見る、胸の中うらの覚え書。
﹁じゃ何だね、五さみ月だれ雨じ時ぶ分ん、夜中からあれた時だね。
まあ、お前さんは泣き出すし、爺さまもお念仏をお唱えだって。内の人はその恐しい浪の中で、生いの命ちがけで飛込んでさ。
私はただ、波の音が恐しいので、宵から門かどへ鎖じょうをおろして、奥でお浜と寝たっけ、ねえ。
どんな烈はげしい浪が来ても裏の崖がけは崩れない、鉄の壁だ安心しろッて、内の人がおいいだから、そればかりをたよりにして、それでもドンと打ぶつかるごとに、崖と浪とで戦いくさをする、今打った大砲で、岩が破れやしまいかと、坊やをしっかり抱くばかり。夜中に乳のかれるのと、寂しいばかりを慾よくにして、冷つめたいとも寒いとも思わないで寝ていたのに、そうだったのか、ねえ、三ちゃん。
そんな、荒浪だの、恐しいあやかし火とやらだの、黒坊主だの、船ふな幽ゆう霊れいだのの中で、内の人は海から見りゃ木この葉のような板一枚に乗っていてさ、﹂と女房は首うな垂だれつつ、
﹁私にゃ何にもいわないんだもの……﹂と思わず襟に一ひと雫しずく、ほろりとして、
﹁済まないねえ。﹂
奴やっこは何の仔しさ細いも知らず、慰め顔に威勢の可いい声、
﹁何も済まねえッて事こたアありやしねえだ。よう、姉あねさん、お前に寒かったり冷たかったり、辛い思いさ、さらせめえと思うだから、兄あに哥やがそうして働くだ。おらも何だぜ、もう、そんな時さあったってベソなんか掻きやしねえ、お浜ッ子の婿さんだ、一所に海へ飛込むぜ。
そのかわり今もいっけえよ。兄あに哥やのために姉さんが、お膳ぜん立だてしたり、お酒買ったりよ。
おら、酒は飲まねえだ、お芋で可いいや。
よッしょい、と鰹さ積んで波に乗込んで戻って来ると、……浜に煙が靡なびきます、あれは何ぞと問うたれば﹂
と、いたいけに手をたたき、
﹁石いし々いし合わせて、塩汲くんで、玩おも弄ちゃのバケツでお芋煮て、かじめをちょろちょろ焚たくわいのだ。……よう姉あねさん、﹂
奴やっこは急にぬいと立ち、はだかった胸を手で仕切って、
﹁おらがここまで大きくなって、お浜ッ子が浜へ出て、まま事するはいつだろうなあ。﹂
女房は夕露の濡れた目許の笑顔優しく、
﹁ああ、そりゃもう今日明日という内に、直きに娘になるけれど、あの、三ちゃん、﹂
と調子をかえて、心ありげに呼びかける。
十一
﹁ああ、﹂
﹁あのね、私は何も新しい衣きも物のなんか欲ほしいとは思わないし、坊やも、お菓子も用いらないから、お前さん、どうぞ、お婿さんになってくれる気なら、船頭はよして、何ぞ他ほかの商売にしておくれな、姉ねえさん、お願いだがどうだろうね。﹂
と思い入ったか言ことばもあらため、縁に居ずまいもなおしたのである。
奴やっこは遊び過ぎた黄たそ昏がれの、鴉からすの鳴くのをきょろきょろ聞いて、浮足に目も上うわつき、
﹁姉あねさん、稲葉丸は今日さ日帰りだっぺいか。﹂
﹁ああ、内でもね。今日は晩方までに帰るって出かけたがね、お聞きよ、三ちゃん、﹂
とそわそわするのを圧おさえていったが、奴やっこはよくも聞かないで、
﹁姉あねさんこそ聞きねえな、あらよ、堂の嶽たけから、烏が出て来た、カオ、カオもねえもんだ、盗どろ賊ぼうをする癖にしやあがって、漁さえ当ると旅をかけて寄って来やがら。
姉さん船が沖へ来たぜ、大漁だ大漁だ、﹂
と烏の下で小さく躍る。
﹁じゃ、内の人も帰って来よう、三ちゃん、浜へ出て見ようか。﹂と良おっ人と﹇#ルビの﹁おっと﹂は底本では﹁をっと﹂﹈の帰る嬉しさに、何事も忘れた状さまで、女房は衣えも紋んを直した。
﹁まだ、見えるような処まで船は入りやしねえだよ。見さっせえ。そこらの柿の樹の枝なんか、ほら、ざわざわと烏めい、えんこをして待ってやがる。
五六里の処、嗅かぎつけて来るだからね。ここらに待っていて、浜へ魚の上るのを狙ねらうだよ、浜へ出たって遠くの方で、船はやっとこの烏ぐれえにしか見えやしねえや。
やあ、見さっせえ、また十五六羽遣やって来た、沖の船は当ったぜ。
姉あねさん、また、着るものが出来らあ、チョッ、﹂
舌打の高慢さ、
﹁おらも乗って行ゆきゃ小こづ遣かいが貰もれえたに、号外を遣って儲もうけ損なった。お浜ッ児こに何にも玩おも弄ち物ゃが買えねえな。﹂
と出おで額こをがッくり、爪つま尖さきに蠣かき殻がらを突ッかけて、赤あか蜻とん蛉ぼの散ったあとへ、ぼたぼたと溢こぼれて映る、烏の影へ足あし礫つぶて。
﹁何をまたカオカオだ、おらも玩弄物を、買お、買おだ。﹂
黙って見ている女房は、急にまたしめやかに、
﹁だからさ、三ちゃん、玩弄物も着物も要らないから、お前さん、漁師でなく、何ぞ他ほかの商売をするように心懸けておくんなさいよ。﹂という声もうるんでいた。
奴やっこははじめて口を開け、けろりと真顔で向直って、
﹁何だって、漁師を止やめて、何だって、よ。﹂
﹁だっても、そんな様子じゃ、海にどんなものが居ようも知れない、ね、恐こわいじゃないか。
内の人や三ちゃんが、そうやって私たちを留守にして海へ漁をしに行ってる間に、あらしが来たり浪が来たり、そりゃまだいいとして、もしか、あの海から上って私たちを漁しに来るものがあったらどうしよう。貝が殻へかくれるように、家うちへ入って窘すくんでいても、向うが強ければ捉つかまえられるよ。お浜は嬰あか児んぼだし、私はこうやって力がないし、それを思うとほんとに心細くってならないんだよ。﹂
としみじみいうのを、呆あきれた顔して、聞き澄ました、奴やっこは上唇を舌で甞なめ、眦めじりを下げて哄くっ々くっとふき出いだし。
﹁馬鹿あ、馬鹿あいわねえもんだ。へ、へ、へ、魚うおが、魚が人間を釣りに来てどうするだ。尾で立ってちょこちょこ歩あ行るいて、鰭ひれで棹さおを持つのかよ、よう、姉あねさん。﹂
﹁そりゃ鰹かつおや、鯖さばが、棹を背し負ょって、そこから浜を歩あ行るいて来て、軒へ踞しゃがむとはいわないけれど、底の知れない海だもの、どんなものが棲すんでいて、陽気の悪い夜なんぞ、浪に乗って来ようも知れない。昼間だって、ここへ来たものは、――今日は、三ちゃんばかりじゃないか。﹂
と女房は早や薄暗い納戸の方かたを顧みる。
十二
﹁ああ、何だか陰気になって、穴の中を見るようだよ。﹂
とうら寂しげな夕ゆう間まぐ暮れ、生なま干びの紅も絹みも黒ずんで、四あた辺りはものの磯いその風。
奴やっこは、旧もと来た黍きびがらの痩やせた地蔵の姿して、ずらりと立並ぶ径こみちを見返り、
﹁もっと町の方へ引越して、軒へ瓦がす斯と燈うでも点つけるだよ、兄あに哥やもそれだから稼ぐんだ。﹂
﹁いいえ、私ゃ、何も今のくらしにどうこうと不足をいうんじゃないんだわ。私は我慢をするけれどね、お浜が可かわ哀いそうだから、号外屋でも何んでもいい、他ほかの商売にしておくれって、三ちゃん、お前に頼むんだよ。内の人が心配をすると悪いから、お前決して、何んにもいうんじゃないよ、可いいかい、解わかったの、三ちゃん。﹂
と因果を含めるようにいわれて、枝の鴉からすも頷うなずき顔。
﹁むむ、じゃ何だ、腰に鈴をつけて駈かけまわるだ、帰ったら一番、爺じい様さまと相談すべいか、だって、お銭あしにゃならねえとよ。﹂
と奴やっこは悄し乎ょげて指を噛かむ。
﹁いいえさ、今が今というんじゃないんだよ。突いき然なりそんな事をいっちゃ不いけ可ないよ、まあ、話だわね。﹂
と軽くいって、気をかえて身を起した、女房は張はり板いたをそっと撫なで、
﹁慾張ったから乾き切らない。﹂
﹁何、姉あねさんが泣くからだ、﹂
と唐だし突ぬけにいわれたので、急に胸がせまったらしい。
﹁ああ、﹂
と片かた袖そでを目にあてたが、はッとした風で、また納戸を見た。
﹁がさがさするね、鴉が入りやしまいねえ。﹂
三之助はまた笑い、
﹁海から魚が釣りに来ただよ。﹂
﹁あれ、厭いや、驚おどかしちゃ……﹂
お浜がむずかって、蚊か帳やが動く。
﹁そら御覧な、目を覚ましたわね、人を驚おどかすもんだから、﹂
と片かた頬ほに莞にっ爾こり、ちょいと睨にらんで、
﹁あいよ、あいよ、﹂
﹁やあ、目を覚さましたら密そっと見べい。おらが、いろッて泣かしちゃ、仕事の邪魔するだから、先さっ刻きから辛抱してただ。﹂と、かごとがましく身を曲くねる。
﹁お逢あいなさいまし、ほほほ、ねえ、お浜、﹂
と女房は暗い納戸で、母ほ衣ろ蚊が帳やの前で身みじ動ろぎした。
﹁おっと、﹂
奴やっこは縁に飛びついたが、
﹁ああ、跣はだ足しだ姉あねさん。﹂
と脛すねをもじもじ。
﹁可いいよ、お上りよ。﹂
﹁だって、姉あねさんは綺きれ麗いずきだからな。﹂
﹁構わないよ、ねえ、﹂
といって、抱き上げた児こに頬ほお摺ずりしつつ、横に見向いた顔が白い。
﹁やあ、もう笑ってら、今泣いた烏からすが、﹂
と縁えん端はしに遠慮して遠くで顔をふって、あやしたが、
﹁ほんとに騒々しい烏だ。﹂
と急に大人びて空を見た。夕空にむらむらと嶽たけの堂を流れて出た、一団の雲の正ただ中なかに、颯さっと揺れたようにドンと一発、ドドド、ドンと波に響いた。
﹁三ちゃん、﹂
﹁や、また爺さまが鴉をやった。遊んでるッて叱られら、早くいって圧おさえべい。﹂
﹁まあ、遊んでおいでよ。﹂
と女房は、胸の雪を、児こに暖く解きながら、斜めに抱いて納戸口。
十三
﹁ねえ、今に内の人が帰ったら、菜のものを分けてお貰もらい、そうすりゃ叱られはしないからね。何だか、今日は寂しくッて、心細くッてならないから、もうちっと、遊んで行っておくれ、ねえ、お浜、もうお父とっさんがお帰りだね。﹂
と顔に顔、児こにいいながら縁へ出て来た。
おくれ毛の、こぼれかかる耳に響いて、号外――号外――とうら寂しい。
﹁おや、もういってしまったんだよ。﹂
女房は顔を上げて、
﹁小こど児もだねえ﹂
と独りでいったが、檐のきの下なる戸おも外てを透かすと、薄黒いのが立っている。
﹁何だねえ、人をだましてさ、まだ、そこに居るのかい、此こい奴つ、﹂
と小こど児もに打ぶたせたそうに、つかつかと寄ったが、ぎょっとして退すさった。
檐下の黒いものは、身の丈三之助の約三倍、朦もう朧ろうとして頭つむりの円い、袖の平たい、入道であった。
女房は身をしめて、キと唇を結んだのである。
時に身じろぎをしたと覚おぼしく、彳たたずんだ僧の姿は、張はり板いたの横へ揺れたが、ちょうど浜へ出るその二頭の猛獣に護まもられた砂山の横穴のごとき入口を、幅一杯に塞ふさいで立った。背高き形が、傍わきへ少し離れたので、もう、とっぷり暮れたと思う暗さだった、今日はまだ、一ひと条すじ海の空に残っていた。良おっ人とが乗った稲葉丸は、その下あたりを幽かすかな横雲。
それに透すかすと、背のあたりへぼんやりと、どこからか霧が迫って来て、身のまわりを包んだので、瘠やせたか、肥えたか知らぬけれども、窪くぼんだ目の赤味を帯びたのと、尖とがって黒い鼻の高いのが認められた。衣は潮垂れてはいないが、潮は足あとのように濡れて、砂浜を海うみ方てへ続いて、且つその背のあたりが連しきりに息を吐つくと見えて、戦わなないているのである。
心弱き女房も、直ちにこれを、怪しき海の神の、人を漁あさるべく海から顕あらわれたとは、余り目まのあたりゆえ考えず。女房は、ただ総毛立った。
けれども、厭いやな、気味の悪い乞こじ食きぼ坊う主ずが、村へ流れ込んだと思ったので、そう思うと同時に、ばたばたと納戸へ入って、箪たん笥すの傍そばなる暗い隅へ、横ざまに片かた膝ひざつくと、忙せわしく、しかし、殆ほとんど無意識に、鳥ちょ目うもくを。
早く去いってもらいたさの、女房は自分も急いで、表の縁へするすると出て、此こな方たに控えながら、
﹁はい、﹂
という、それでも声は優しい女。
薄黒い入道は目を留めて、その挙ふる動まいを見るともなしに、此こな方たの起たち居いを知ったらしく、今、報謝をしようと嬰あか児ごを片手に、掌てを差出したのを見も迎えないで、大儀らしく、かッたるそうに頭つむりを下に垂れたまま、緩ゆるく二ツばかり頭かぶりを掉ふったが、さも横おう柄へいに見えたのである。
また泣き出したを揺ゆすりながら、女房は手ても持ち無ぶ沙さ汰たに清すずしい目をったが、
﹁何ですね、何が欲ほしいんですね。﹂
となお物もの貰もらいという念は失うせぬ。
ややあって、鼠ねずみの衣の、どこが袖ともなしに手首を出して、僧は重いもののように指を挙げて、その高い鼻の下を指した。
指すとともに、ハッという息を吐つく。
渠かれ飢えたり矣。
﹁三ちゃん、お起きよ。﹂
ああ居てくれれば可よかった、と奴やっこの名を心ゆかし、女房は気転らしく呼びながら、また納戸へ。
十四
強ごう盗とうに出で逢あったような、居もせぬ奴やっこを呼んだのも、我ながら、それにさへ、動どう悸きは一倍高うなる。
女房は連しきりに心ここ急ろせいて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯めし櫃びつを引寄せて、及およ腰びごしに手てお桶けから水を結び、効かい々がいしゅう、嬰ちの児みを腕かいなに抱いたまま、手許も上うわの空で覚おぼ束つかなく、三ツばかり握にぎ飯りめし。
潮風で漆の乾からびた、板いた昆こ布ぶを折ったような、折おし敷きにのせて、カタリと櫃を押おし遣やって、立てていた踵かかとを下へ、直ぐに出て来た。
﹁少人数の内ですから、沢山はないんです、私のを上げますからね、はやく持って行って下さいまし。﹂
今度はやや近寄って、僧の前へ、片手、縁の外へ差出すと、先さっ刻き口を指したまま、鱗うろこでもありそうな汚い胸のあたりへ、ふらりと釣っていた手が動いて、ハタと横を払うと、発はず奮みか、冴さえか、折敷ぐるみ、バッタリ落ちて、昔々、蟹かにを潰つぶした渋柿に似てころりと飛んだ。
僧はハアと息が長い。
余あまりの事に熟じっと視みて、我を忘れた女房、
﹁何をするんですよ。﹂
一足退のきつつ、
﹁そんな、そんな意地の悪いことをするもんじゃありません、お前さん、何が、そう気に入らないんです。﹂
と屹きっといったが、腹立つ下に心弱く、
﹁御おぼ坊うさんに、おむすびなんか、差上げて、失礼だとおっしゃるの。
それでは御おぜ膳んにしてあげましょうか。
そうしましょうかね。
それでははじめから、そうしてあげるのだったんですが、手はなし、こうやって小こど児もに世話が焼けますのに、入いり相あいで忙せわしいもんですから。……あの、茄な子すのつき加減なのがありますから、それでお茶づけをあげましょう。﹂
薄暗がりに頷うなずいたように見て取った、女房は何となく心が晴れて機嫌よく、
﹁じゃ、そうしましょう〳〵。お前さん、何にもありませんよ。﹂
勝手へ後姿になるに連れて、僧はのッそり、夜が固かたまって入ったように、ぬいと縁側から上り込むと、表の六畳は一杯に暗くなった。
これにギョッとして立たち淀よどんだけれども、さるにても婦おん人な一人。
ただ、ちっとも早く無事に帰してしまおうと、灯をつける間まももどかしく、良おっ人との膳を、と思うにつけて、自分の気の弱いのが口くや惜しかったけれども、目を瞑ねむって、やがて嬰ちの児みを襟に包んだ胸を膨ふくらかに、膳を据えた。
﹁あの、なりたけ、早くなさいましよ、もう追ッつけ帰りましょう。内のはいっこくで、気が強いんでござんすから、知らない方をこうやって、また間違いにでもなると不い可けません、ようござんすか。﹂
と茶碗に堆うずたかく装もったのである。
その時、間まの四隅を籠こめて、真まん中なか処どころに、のッしりと大おお胡あぐ坐らでいたが、足を向うざまに突き出すと、膳はひしゃげたように音もなく覆くつがえった。
﹁あれえ、﹂
と驚いて女房は腰を浮かして遁にげさまに、裾すそを乱して、ハタと手を支つき、
﹁何ですねえ。﹂
僧は大いなる口を開けて、また指した。その指で、かかる中うちにも袖で庇かばった、女房の胸をじりりとさしつつ、
︵児こを呉くれい。︶
と聞いたと思うと、もう何にも知らなかった。
我に返って、良人の姿を一目見た時、ひしと取とり縋すがって、わなわなと震えたが、余り力強く抱いたせいか、お浜は冷つめたくなっていた。
こんな心弱いものに留守をさせて、良人が漁すなどる海の幸よ。
その夜はやがて、砂白く、崖がけ蒼あおき、玲れい瓏ろうたる江見の月に、奴やっこが号外、悲しげに浦を駈かけ廻って、蒼わた海つみの浪ぞ荒かりける。
明治三十九年︵一九〇六︶年一月