一
﹁いまの、あの婦ふじ人んが抱だいて居ゐた嬰あか兒んぼですが、鯉こひか、鼈すつぽんででも有ありさうでならないんですがね。﹂
﹁…………﹂
私わたしは、默だまつて工こう學がく士しの其その顏かほを視みた。
﹁まさかとは思おもひますが。﹂
赤あか坂さかの見みつ附けに近ちかい、唯とある珈コオ琲ヒイ店てんの端はし近ぢかな卓テエ子ブルで、工こう學がく士しは麥ビイ酒ルの硝コ子ツ杯プを控ひかへて云いつた。
私わたしは卷まき莨たばこを點つけながら、
﹁あゝ、結けつ構こう。私わたしは、それが石いし地ぢざ藏うで、今いまのが姑う護ぶ鳥めでも構かまひません。けれども、それぢや、貴あな方たが世せけ間んへ濟すまないでせう。﹂
六月ぐわつの末すゑであつた。府ふ下か澁しぶ谷や邊へんに或ある茶さわ話くわ會いがあつて、斯この工こう學がく士しが其その席せきに臨のぞむのに、私わたしは誘さそはれて一ある日ひ出で向むいた。
談はな話しの聽きゝ人ては皆みな婦ふじ人んで、綺きれ麗いな人ひとが大だい分ぶ見みえた、と云いふ質たちのであるから、羊やう羹かん、苺いちご、念ねん入いりに紫むらさき袱ふく紗さで薄うす茶ちやの饗もて應なしまであつたが――辛しん抱ばうをなさい――酒さけと云いふものは全まる然でない。が、豫かねての覺かく悟ごである。それがために意いぢ地きた汚なく、歸かへ途りに恁かうした場ばし所よへ立たち寄よつた次しだ第いではない。
本ほん來らいなら其その席せきで、工こう學がく士しが話はなした或ある種しゆの講かう述じゆつを、こゝに筆ひつ記きでもした方はうが、讀よまるゝ方かた々〴〵の利りえ益きなのであらうけれども、それは殊こと更さらに御ごか海いよ容うを願ねがふとして置おく。
實じつは往い路きにも同つ伴れ立だつた。
指さす方かたへ、煉れん瓦ぐわ塀べい板いた塀べい續つゞきの細ほそい路みちを通とほる、とやがて其その會くわ場いぢやうに當あたる家いへの生いけ垣がきで、其そ處こで三みつの外そと圍がこひが三さん方ぱうへ岐わかれて三みつ辻つじに成なる……曲まが角りかどの窪くぼ地ちで、日ひか蔭げの泥ぬか濘るみの處ところが――空そらは曇くもつて居ゐた――殘のこンの雪ゆきかと思おもふ、散ちり敷しいた花はなで眞まつ白しろであつた。
下したへ行ゆくと學がく士しの背せび廣ろが明あかるいくらゐ、今いまを盛さかりと空そらに咲さく。枝えだも梢こずゑも撓たわゝに滿みちて、仰あを向むいて見み上あげると屋や根ねよりは丈たけ伸のびた樹きが、對つゐに並ならんで二ふた株かぶあつた。李すもゝの時じせ節つでなし、卯うつ木ぎに非あらず。そして、木もく犀せいのやうな甘あまい匂にほひが、燻いぶしたやうに薫かをる。楕だゑ圓んけ形いの葉はは、羽うじ状やう複ふく葉えふと云いふのが眞まつ蒼さをに上うへから可かは愛いい花はなをはら〳〵と包つゝんで、鷺さぎが緑みどりなす蓑みのを被かついで、彳たゝずみつゝ、颯さつと開ひらいて、雙さう方はうから翼つばさを交かはした、比ひよ翼くれ連ん理りの風ふぜ情いがある。
私わたしは固もとよりである。……學がく士しにも、此この香かう木ぼくの名なが分わからなかつた。
當たう日じつ、席せきでも聞きゝ合あはせたが、居ゐ合あはせた婦ふじ人んれ連んが亦また誰たれも知しらぬ。其その癖くせ、佳いゝ薫かをりのする花はなだと云いつて、小ちひさな枝えだながら硝コ子ツ杯プに插さして居ゐたのがあつた。九きう州しうの猿さるが狙ねらふやうな褄つまの媚なまめかしい姿すがたをしても、下した枝えだまでも屆とゞくまい。小こと鳥りの啄ついばんで落おとしたのを通とほりがかりに拾ひろつて來きたものであらう。
﹁お乳ちゝのやうですわ。﹂
一ひと人りの處しよ女ぢよが然さう云いつた。
成なる程ほど、近ちか々〴〵と見みると、白しろい小ちひさな花はなの、薄うつすりと色いろ着づいたのが一ひとツ一ひとツ、美うつくしい乳ちゝ首くびのやうな形かたちに見みえた。
却さ説て、日ひが暮くれて、其その歸かへ途りである。
私わたしたちは七なゝ丁ちや目うめの終しう點てんから乘のつて赤あか坂さかの方はうへ歸かへつて來きた……あの間あひだの電でん車しやは然さして込こみ合あふ程ほどでは無ないのに、空そら怪あやしく雲くも脚あしが低ひくく下さがつて、今いまにも一ひと降ふり來きさうだつたので、人ひと通どほりが慌あわたゞしく、一ひと町ちや場うば二ふた町ちや場うば、近きん處じよへ用ようたしの分ぶんも便たよつたらしい、停てい留りう場ぢやう毎ごとに乘のり人ての數かずが多おほかつた。
で、何い時つ何ど處こから乘のり組くんだか、つい、それは知しらなかつたが、丁ちやうど私わたしたちの並ならんで掛かけた向むかう側がは――墓ぼ地ちとは反はん對たい――の處ところに、二十三四の色いろの白しろい婦ふじ人んが居ゐる……
先まづ、色いろの白しろい婦をんなと云いはう、が、雪ゆきなす白しろさ、冷つめたさではない。薄うす櫻ざくらの影かげがさす、朧おぼろに香にほふ裝よそほひである。……こんなのこそ、膚はだへと云いふより、不ぶし躾つけながら肉にくと言いはう。其その胸むねは、合ね歡むの花はなが雫しづくしさうにほんのりと露あらはである。
藍あゐ地ぢに紺こんの立たて絞しぼりの浴ゆか衣たを唯たゞ一ひと重へ、絲いとばかりの紅くれなゐも見みせず素すは膚だに着きた。襟えりをなぞへに膨ふつくりと乳ちゝを劃くぎつて、衣きぬが青あをい。青あをいのが葉はに見みえて、先さつ刻きの白しろい花はなが俤おも立かげだつ……撫なで肩がたをたゆげに落おとして、すらりと長ながく膝ひざの上うへへ、和やは々〳〵と重おも量みを持もたして、二にの腕うでを撓しなやかに抱だいたのが、其それが嬰あか兒んぼで、仰あを向むけに寢ねた顏かほへ、白しろい帽ばう子しを掛かけてある。寢ねが顏ほに電でん燈とうを厭いとつたものであらう。嬰あか兒んぼの顏かほは見みえなかつた、だけ其それだけ、懸けね念んと云いへば懸けね念んなので、工こう學がく士しが――鯉こひか鼈すつぽんか、と云いつたのは此これであるが……
此この媚なまめいた胸むねのぬしは、顏かほ立だちも際きは立だつて美うつくしかつた。鼻はな筋すぢの象ざう牙げぼ彫りのやうにつんとしたのが難なんを言いへば強つよ過すぎる……かはりには目めを恍うつ惚とりと、何なにか物もの思おもふ體ていに仰あを向むいた、細ほそ面おもが引ひき緊しまつて、口くち許もととともに人じん品ぴんを崩くづさないで且かつ威ゐがある……其その顏かほだちが帶おびよりも、きりゝと細ほそ腰ごしを緊しめて居ゐた。面おもてで緊しめた姿すがたである。皓しら齒はの一ひとつも莞につ爾こりと綻ほころびたら、はらりと解とけて、帶おびも浴ゆか衣たも其そのまゝ消きえて、膚はだの白しろい色いろが颯さつと簇むらがつて咲さかう。霞かすみは花はなを包つゝむと云いふが、此この婦をんなは花はなが霞かすみを包つゝむのである。膚はだへが衣きぬを消けすばかり、其その浴ゆか衣たの青あをいのにも、胸むね襟えりのほのめく色いろはうつろはぬ、然しかも湯ゆあ上がりかと思おもふ温あたゝかさを全ぜん身しんに漲みなぎらして、髮かみの艶つやさへ滴したゝるばかり濡ぬれ々〳〵として、其それがそよいで、硝がら子すま窓どの風かぜに額ひたひに絡まつはる、汗あせばんでさへ居ゐたらしい。
ふと明あいた窓まどへ横よこ向むきに成なつて、ほつれ毛げを白しろ々〴〵とした指ゆびで掻かくと、あの花はなの香かが強つよく薫かをつた、と思おもふと緑みどりの黒くろ髮かみに、同おなじ白しろい花はなの小こえ枝だを活いきたる蕚うてな、湧わき立たつ蕊しべを搖ゆるがして、鬢びんづらに插さして居ゐたのである。
唯と、見みた時とき、工こう學がく士しの手てが、確しかと私わたしの手てを握にぎつた。
﹁下おりませう。是ぜ非ひ、談はな話しがあります。﹂
立たつて見みお送くれば、其その婦をんなを乘のせた電でん車しやは、見みつ附けの谷たにの窪くぼんだ廣ひろ場ばへ、すら〳〵と降おりて、一いち度ど暗くらく成なつて停とまつたが、忽たちまち風かぜに乘のつたやうに地ぢば盤んを空そらざまに颯さつと坂さかへ辷すべつて、青あをい火ひば花ながちらちらと、櫻さくらの街なみ樹きに搦からんだなり、暗くら夜がりの梢こずゑに消きえた。
小こさ雨めがしと〳〵と町まちへかゝつた。
其そ處こで珈コオ琲ヒイ店てんへ連つれ立だつて入はひつたのである。
こゝに、一ちよ寸つと斷ことわつておくのは、工こう學がく士しは嘗かつて苦くが學くせ生いで、其その當たう時じは、近きん縣けんに賣ばい藥やくの行ぎや商うしやうをした事ことである。
二
﹁利とね根が川はの流ながれが汎はん濫らんして、田たに、畠はたけに、村むら里ざとに、其その水みづが引ひき殘のこつて、月つきを經へ、年としを過すぎても涸かれないで、其そのまゝ溜たま水りみづに成なつたのがあります。……
小ちひさなのは、河かう骨ほねの點ぽつ々〳〵黄きい色ろに咲さいた花はなの中なかを、小こど兒もが徒いたづらに猫ねこを乘のせて盥たらひを漕こいで居ゐる。大おほきなのは汀みぎはの蘆あしを積つんだ船ふねが、棹さをさして波なみを分わけるのがある。千ち葉ば、埼さい玉たま、あの大たい河がの流りう域ゐきを辿たどる旅たび人びとは、時とき々〴〵、否いや、毎まい日にち一ひとツ二ふたツは度たび々〴〵此この水みづに出でつ會くはします。此これを利と根ねの忘わすれ沼ぬま、忘わすれ水みづと呼よんで居ゐる。
中なかには又また、あの流ながれを邸てい内ないへ引ひいて、用よう水すゐぐるみ庭にはの池いけにして、筑つく波ばの影かげを矜ほこりとする、豪がう農のう、大おほ百びや姓くしやうなどがあるのです。
唯たゞ今いまお話はなしをする、……私わたしが出で會あひましたのは、何どうも庭にはに造つくつた大おほ池いけで有あつたらしい。尤もつとも、居ゐま周は圍りに柱はしらの跡あとらしい礎いしずゑも見みあ當たりません。が、其それとても埋うもれたのかも知しれません。一いち面めんに草くさが茂しげつて、曠あら野のと云いつた場ばし所よで、何な故ぜに一いち度どは人じん家かの庭にはだつたか、と思おもはれたと云いふのに、其その沼ぬまの眞まん中なかに拵こしらへたやうな中なか島じまの洲すが一ひとつ有あつたからです。
で、此この沼ぬまは、話はなしを聞きいて、お考かんがへに成なるほど大おほきなものではないのです。然さうかと云いつて、向むかう岸ぎしとさし向むかつて聲こゑが屆とゞくほどは小ちひさくない。それぢや餘よほ程ど廣ひろいのか、と云いふのに、又また然さうでもない、ものの十四五分ふんも歩あ行るいたら、容たや易すく一ひと周まはり出で來きさうなんです。但たゞし十四五分ふんで一ひと周まはりと云いつて、すぐに思おもふほど、狹せまいのでもないのです。
と、恁かう言いひます内うちにも、其その沼ぬまが伸のびたり縮ちゞんだり、すぼまつたり、擴ひろがつたり、動うごいて居ゐるやうでせう。――居ゐますか、結けつ構こうです――其そのつもりでお聞きき下ください。
一いつ體たい、水みづと云いふものは、一ひと雫しづくの中なかにも河かつ童ぱが一ひと個つ居ゐて住すむと云いふ國くにが有ありますくらゐ、氣きご心ころの知しれないものです。分わけて底そこ澄ずんで少すこし白しろ味みを帶おびて、とろ〳〵と然しかも岸きしとすれ〴〵に滿まん々〳〵と湛たゝへた古ふる沼ぬまですもの。丁ちやうど、其その日ひの空そら模もや樣う、雲くもと同おな一じに淀どんよりとして、雲くもの動うごく方はうへ、一いつ所しよに動うごいて、時とき々〴〵、てら〳〵と天てんに薄うす日びが映さすと、其その光ひかりを受うけて、晃きら々〳〵と光ひかるのが、沼ぬまの面おもてに眼まなこがあつて、薄うす目めに白しろく人ひとを窺うかゞふやうでした。
此これでは、其その沼ぬまが、何なんだか不ぶ氣き味みなやうですが、何なに、一ちよ寸つとの間まの事ことで、――四時じ下さがり、五時じ前まへと云いふ時じこ刻く――暑あつい日ひで、大たい層そう疲つかれて、汀みぎはにぐつたりと成なつて一ひと息いき吐ついて居ゐる中うちには、雲くもが、なだらかに流ながれて、薄うすいけれども平たひらに日ひを包つゝむと、沼ぬまの水みづは靜しづかに成なつて、そして、少すこし薄うす暗ぐらい影かげが渡わたりました。
風かぜはそよりともない。が、濡ぬれない袖そでも何なんとなく冷つめたいのです。
風ふぜ情いは一いち段だんで、汀みぎはには、所とこ々ろ〴〵、丈たけの低ひくい燕かき子つば花たの、紫むらさきの花はなに交まじつて、あち此こ方ちに又また一輪りんづゝ、言いひ交かはしたやうに、白しろい花はなが交まじつて咲さく……
あの中なか島じまは、簇むらがつた卯うの花はなで雪ゆきを被かついで居ゐるのです。岸きしに、葉はと花はなの影かげの映うつる處ところは、松まつ葉ばが流ながれるやうに、ちら〳〵と水みづが搖ゆれます。小こう魚をが泳およぐのでせう。
差さし渡わたし、池いけの最もつとも廣ひろい、向むかうの汀みぎはに、こんもりと一本ぽんの柳やなぎが茂しげつて、其その緑みどりの色いろを際きは立だてて、背うし後ろに一ひと叢むらの森もりがある、中なかへ横よこ雲ぐもを白しろくたなびかせて、もう一ひと叢むら、一いち段だん高たかく森もりが見みえる。うしろは、遠とほ里ざとの淡あはい靄もやを曳ひいた、なだらかな山やまなんです。――柳やなぎの奧おくに、葉はを掛かけて、小ちひさな葭よし簀ずば張りの茶ちや店みせが見みえて、横よこが街かい道だう、すぐに水みづ田たで、水みづ田たのへりの流ながれにも、はら〳〵燕かき子つば花たが咲さいて居ゐます。此この方はうは、薄うす碧あをい、眉まゆ毛げのやうな遠とほ山やまでした。
唯と、沼ぬまが呼い吸きを吐つくやうに、柳やなぎの根ねから森もりの裾すそ、紫むらさきの花はなの上うへかけて、霞かすみの如ごとき夕ゆふ靄もやがまはりへ一いち面めんに白しろく渡わたつて來くると、同おなじ雲くもが空そらから捲まき下おろして、汀みぎはに濃こく、梢こずゑに淡あはく、中なかほどの枝えだを透すかして靡なびきました。
私わたしの居ゐた、草くさにも、しつとりと其その靄もやが這はふやうでしたが、袖そでには掛かゝらず、肩かたにも卷まかず、目めなんぞは水すゐ晶しやうを透とほして見みるやうに透とう明めいで。詰つまり、上うへ下したが白しろく曇くもつて、五六尺しやく水みづの上うへが、却かへつて透すき通とほる程ほどなので……
あゝ、あの柳やなぎに、美うつくしい虹にじが渡わたる、と見みると、薄うす靄もやに、中なかが分わかれて、三みつつに切きれて、友いう染ぜんに、鹿かの子こ絞しぼりの菖あや蒲めを被かけた、派は手でに涼すゞしい裝よそほひの婦をんなが三人にん。
白しろい手てが、ちら〳〵と動うごいた、と思おもふと、鉛なまりを曳ひいた絲いとが三みす條ぢ、三みと處ころへ棹さをが下おりた。
︵あゝ、鯉こひが居ゐる……︶
一尺しやく、金きん鱗りんを重おもく輝かゞやかして、水みづの上うへへ飜ひら然りと飛とぶ。﹂
三
﹁それよりも、見みご事となのは、釣つり竿ざをの上あげ下おろしに、縺もつるゝ袂たもと、飜ひるがへる袖そでで、翡かは翠せみが六むつつ、十二の翼つばさを飜ひるがへすやうなんです。
唯と、其その白しろい手ても見みえる、莞につ爾こり笑わらふ面おも影かげさへ、俯うつ向むくのも、仰あふぐのも、手てに手てを重かさねるのも其その微ほゝ笑ゑむ時とき、一ひと人りの肩かたをたゝくのも……莟つぼみがひら〳〵開ひらくやうに見みえながら、厚あつい硝がら子すま窓どを隔へだてたやうに、まるつ切きり、聲こゑが……否いや、四あた邊りは寂ひつ然そりして、ものの音おとも聞きこえない。
向むかつて左ひだりの端はしに居ゐた、中なかでも小こが柄らなのが下おろして居ゐる、棹さをが滿まん月げつの如ごとくに撓しなつた、と思おもふと、上うへへ絞しぼつた絲いとが眞まつ直すぐに伸のびて、するりと水みづの空そらへ掛かゝつた鯉こひが――﹂
――理りが學く士しは言いひ掛かけて、私わたしの顏かほを視みて、而そして四あた邊りを見みた。恁かうした店みせの端はし近ぢかは、奧おくより、二にか階いより、却かへつて椅い子すは閑しづかであつた――
﹁鯉こひは、其それは鯉こひでせう。が、玉たまのやうな眞まつ白しろな、あの森もりを背はい景けいにして、宙ちうに浮ういたのが、すつと合あはせた白しろ脛はぎを流ながす……凡およそ人にん形ぎやうぐらゐな白はく身しんの女ぢよ子しの姿すがたです。釣つられたのぢやありません。釣つり針ばりをね、恁かう、兩りや手うてで抱だいた形かたち。
御ごら覽んなさい。釣つり濟すました當たうの美びじ人んが、釣つり棹ざをを突つき離はなして、柳やなぎの根ねへ靄もやを枕まくらに横よこ倒だふしに成なつたが疾はやいか、起おきるが否いなや、三人にんともに手てま鞠りのやうに衝つと遁にげた。が、遁にげるのが、其その靄もやを踏ふむのです。鈍どんな、はずみの無ない、崩くづれる綿わたを踏ふみ越こし踏ふみ越こしするやうに、褄つまが縺もつれる、裳もすそが亂みだれる……其それが、やゝ少しば時らくの間あひだ見みえました。
其その後あとから、茶ちや店みせの婆ばあさんが手てを泳およがせて、此これも走はしる……
一いつ體たいあの邊へんには、自じど動うし車やか何なにかで、美びじ人んが一いち日にちがけと云いふ遊ゆさ山んや宿ど、乃ない至し、温をん泉せんのやうなものでも有あるのか、何どうか、其その後ごまだ尋たづねて見みません。其それが有あればですが、それにした處ところで、近きん所じよの遊ゆさ山んや宿どへ來きて居ゐたのが、此この沼ぬまへ來きて釣つりをしたのか、それとも、何なんの國くに、何なんの里さと、何なんの池いけで釣つつたのが、一いつ種しゆの蜃しん氣きろ樓うの如ごとき作さよ用うで此こ處ゝへ映うつつたのかも分わかりません。餘あまり靜しづかな、もの音おとのしない樣やう子すが、夢ゆめと云いふよりか其その海かい市しに似にて居ゐました。
沼ぬまの色いろは、やゝ蒼あを味みを帶おびた。
けれども、其その茶ちや店みせの婆ばあさんは正しやうのものです。現げんに、私わたしが通とほり掛がかりに沼ぬまの汀みぎはの祠ほこらをさして、︵あれは何なに樣さまの社やしろでせう。︶と尋たづねた時ときに、︵賽さいの神かみ樣さまだ。︶と云いつて教をしへたものです。今いま其その祠ほこらは沼ぬまに向むかつて草くさに憩いこつた背うし後ろに、なぞへに道みち芝しばの小こだ高かく成なつた小ちひさな森もりの前まへにある。鳥とり居ゐが一いつ基き、其その傍そばに大おほきな棕しゆ櫚ろの樹きが、五株かぶまで、一列れつに並ならんで、蓬おど々ろ〳〵とした形かたちで居ゐる。……さあ、此これも邸やしきあとと思おもはれる一ひと條つで、其その小こだ高かいのは、大おほきな築つき山やまだつたかも知しれません。
處ところで、一錢せんたりとも茶ちや代だいを置おいてなんぞ、憩やすむ餘よゆ裕うの無なかつた私わたしですが、……然さうやつて賣ばい藥やくの行ぎや商うしやうに歩あ行るきます時じぶ分んは、世よに無ない兩りや親うしんへせめてもの供くや養うのため、と思おもつて、殊しゆ勝しようらしく聞きこえて如いか何ゞですけれども、道だう中ちう、宮みや、社やしろ、祠ほこらのある處ところへは、屹きつと持もち合あはせた藥くすりの中なかの、何なに種しゆのか、一ひと包つゝみづゝを備そなへました。――詣まうづる人ひとがあつて神しん佛ぶつから授さづかつたものと思おもへば、屹きつと病びや氣うきが治なほりませう。私わたしも幸かう福ふくなんです。
丁ちや度うど私わたしの居ゐた汀みぎはに、朽くち木きのやうに成なつて、沼ぬまに沈しづんで、裂さけ目めに燕かき子つば花たの影かげが映さし、破やぶれた底そこを中なか空ぞらの雲くもの往ゆき來きする小こぶ舟ねの形かたちが見みえました。
其それを見み棄すてて、御おだ堂うに向むかつて起たちました。
談はな話しの要えう領りやうをお急いそぎでせう。
早はやく申まをしませう。……其その狐きつ格ねが子うしを開あけますとね、何どうです……
︵まあ、此これは珍めづらしい。︶
几きち帳やうとも、垂さげ幕まくとも言いひたいのに、然さうではない、萌もえ黄ぎと青あをと段だん染だらに成なつた綸りん子ずか何なんぞ、唐から繪ゑの浮うき模もや樣うを織おり込こんだのが窓カア帷テンと云いつた工ぐあ合ひに、格がう天てん井じやうから床ゆかへ引ひいて蔽おほうてある。此これに蔽おほはれて、其その中なかは見みえません。
此これが、もつと奧おくへ詰つめて張はつてあれば、絹きぬ一ひと重への裡うちは、すぐに、御み廚づ子し、神かみ棚だなと云いふのでせうから、誓ちかつて、私わたしは、覗のぞくのではなかつたのです。が、堂だうの内うちの、寧むしろ格かう子しへ寄よつた方はうに掛かゝつて居ゐました。
何なに心ごころなく、端はしを、キリ〳〵と、手ても許とへ、絞しぼると、蜘く蛛もの巣すのかはりに幻まぼろしの綾あやを織おつて、脈みや々く〳〵として、顏かほを撫なでたのは、薔ば薇らか菫すみれかと思おもふ、いや、それよりも、唯たゞ今いま思おもへば、先さつ刻きの花はなの匂にほひです、何なんとも言いへない、甘あまい、媚なまめいた薫かをりが、芬ぷんと薫かをつた。﹂
――學がく士しは手ハン巾ケチで、口くちを蔽おほうて、一ちよ寸つと額ひたひを壓おさへた――
﹁――其そ處こが閨ねやで、洋やう式しきの寢ねだ臺いがあります。二ふた人り寢ねの寛ゆつたりとした立りつ派ぱなもので、一いち面めんに、光ひかりを持もつた、滑なめらかに艶つや々〳〵した、絖ぬめか、羽はぶ二た重へか、と思おもふ淡あはい朱とき鷺い色ろなのを敷しき詰つめた、聊いさゝか古ふるびては見みえました。が、それは空そらが曇くもつて居ゐた所せ爲ゐでせう。同おなじ色いろの薄うす掻かい卷まきを掛かけたのが、すんなりとした寢ねす姿がたの、少すこし肉にく附づきを肥よくして見みせるくらゐ。膚はだを蔽おほうたとも見みえないで、美うつくしい女をんなの顏かほがはらはらと黒くろ髮かみを、矢やつ張ぱり、同おなじ絹きぬの枕まくらにひつたりと着つけて、此こち方らむきに少すこし仰あを向むけに成なつて寢ねて居ゐます。のですが、其それが、黒くろ目めが勝ちな雙さうの瞳ひとみをぱつちりと開あけて居ゐる……此この目めに、此こ處ゝで殺ころされるのだらう、と餘あまりの事ことに然さう思おもひましたから、此こつ方ちも熟じつと凝みつ視めました。
少すこし高たか過すぎるくらゐに鼻はな筋すぢがツンとして、彫てう刻こくか、練ねりものか、眉まゆ、口くち許もと、はつきりした輪りん郭くわくと云いひ、第だい一いち櫻さく色らいろの、あの、色いろ艶つやが、――其それが――今いまの、あの電でん車しやの婦ふじ人んに瓜うり二ふたつと言いつても可いい。
時ときに、毛け一ひと筋すぢでも動うごいたら、其その、枕まくら、蒲ふと團ん、掻かい卷まきの朱とき鷺い色ろにも紛まがふ莟つぼみとも云いつた顏かほの女をんなは、芳はう香かうを放はなつて、乳ちぶ房さから蕊しべを湧わかせて、爛らん漫まんとして咲さくだらうと思おもはれた。﹂
四
﹁私わたしの目めか眩くらんだんでせうか、婦をんなは瞬またゝきをしません。五分ふんか一いつ時ときと、此こつ方ちが呼い吸きをも詰つめて見みます間あひだ――で、餘あまり調そろつた顏かほ容だちといひ、果はたして此これは白はく像ざう彩さい塑そで、何どう云いふ事ことか、仔しさ細いあつて、此この廟べうの本ほん尊ぞんなのであらう、と思おもつたのです。
床ゆかの下した……板いた縁えんの裏うらの處ところで、がさ〳〵がさ〳〵と音おとが發し出だした……彼あつ方ちへ、此こつ方ちへ、鼠ねずみが、ものでも引ひき摺ずるやうで、床ゆかへ響ひゞく、と其その音おとが、變へんに、恁かう上うへに立たつてる私わたしの足あしの裏うらを擽くすぐると云いつた形かたちで、むづ痒がゆくつて堪たまらないので、もさ〳〵身から體だを搖ゆすりました。――本ほん尊ぞんは、まだ瞬またゝきもしなかつた。――其その内うちに、右みぎの音おとが、壁かべでも攀よぢるか、這はひ上あがつたらしく思おもふと、寢ねだ臺いの脚あしの片かた隅すみに羽は目めの破やぶれた處ところがある。其その透すき間まへ鼬いたちがちよろりと覗のぞくやうに、茶ちや色いろの偏ひら平つたい顏つらを出だしたと窺うかゞはれるのが、もぞり、がさりと少すこしづゝ入はひつて、ばさ〳〵と出でる、と大おほきさやがて三さん俵だら法ぼふ師し、形かたちも似にたもの、毛けだらけの凝かた團まり、足あしも、顏かほも有あるのぢやない。成なる程ほど、鼠ねずみでも中なかに潛もぐつて居ゐるのでせう。
其そい奴つが、がさ〳〵と寢ねだ臺いの下したへ入はひつて、床ゆかの上うへをずる〳〵と引ひき摺ずつたと見みると、婦をんなが掻かい卷まきから二にの腕うでを白しろく拔ぬいて、私わたしの居ゐる方はうへぐたりと投なげた。寢ねみ亂だれて乳ちゝも見みえる。其それを片かた手てで祕かくしたけれども、足あしのあたりを震ふるはすと、あゝ、と云いつて其その手ても兩りや方うはう、空くうを掴つかむと裙すそを上あげて、弓ゆみ形なりに身みを反そらして、掻かい卷まきを蹴けて、轉ころがるやうに衾ふすまを拔ぬけた。……
私わたしは飛とび出だした……
壇だんを落おちるやうに下おりた時とき、黒くろい狐きつ格ねが子うしを背うし後ろにして、婦をんなは斜はす違つかひに其そ處こに立たつたが、呀あ、足あし許もとに、早はやあの毛けむくぢやらの三さん俵だら法ぼふ師しだ。
白しろい踵くびすを揚あげました、階かい段だんを辷すべり下おりる、と、後あとから、ころ〳〵と轉ころげて附くツ着つく。さあ、それからは、宛さな然がら人ひと魂だまの憑つきものがしたやうに、毛けが赫かつと赤あかく成なつて、草くさの中なかを彼あつ方ちへ、此こつ方ちへ、たゞ、伊だて達ま卷きで身みについたばかりのしどけない媚なまめかしい寢ねま着きの婦をんなを追おひす。婦をんなはあとびつしやりをする、脊せす筋ぢを捩よぢらす。三さん俵だら法ぼふ師しは、裳もすそにまつはる、踵かゝとを嘗なめる、刎はね上あがる、身みぶ震るひする。
やがて、沼ぬまの縁ふちへ追おひ迫せまられる、と足あしの甲かふへ這はひ上あがる三さん俵だら法ぼふ師しに、わな〳〵身みも悶だえする白しろい足あしが、あの、釣つり竿ざをを持もつた三人にんの手てのやうに、ちら〳〵と宙ちうに浮ういたが、するりと音おとして、帶おびが辷すべると、衣きものが脱ぬげて草くさに落おちた。
﹁沈しづんだ船ふね――﹂と、思おもはず私わたしが聲こゑを掛かけた。隙ひまも無なしに、陰いん氣きな水みづ音おとが、だぶん、と響ひゞいた……
しかし、綺きれ麗いに泳およいで行ゆく。美うつくしい肉にくの脊せす筋ぢを掛かけて左さい右うへ開ひらく水みづの姿すがたは、輕かるい羅うすものを捌さばくやうです。其その膚はだの白しろい事こと、あの合ねむ歡のは花なをぼかした色いろなのは、豫かねて此この時ときのために用よう意いされたのかと思おもふほどでした。
動うご止きやんだ赤あか茶ちやけた三さん俵だら法ぼふ師しが、私わたしの目めの前まへに、惰だり力よくで、毛けす筋ぢを、ざわ〳〵とざわつかせて、うツぷうツぷ喘あへいで居ゐる。
見みると驚おどろいた。ものは棕しゆ櫚ろの毛けを引ひツ束つかねたに相さう違ゐはありません。が、人ひとが寄よる途とた端んに、ぱちぱち豆まめを燒やく音おとがして、ばら〳〵と飛とび着ついた、棕しゆ櫚ろの赤あかいのは、幾いく千せん萬まんとも數かずの知しれない蚤のみの集かた團まりであつたのです。
早はや、兩りや脚うあしが、むづ〳〵、脊せす筋ぢがぴち〳〵、頸えり首くびへぴちんと來くる、私わたしは七しつ顛てん八はつ倒たうして身から體だを振ふつて振ふり飛とばした。
唯と、何なんと、其その棕しゆ櫚ろの毛けの蚤のみの巣すの處ところに、一ひと人り、頭づの小ちひさい、眦めじりと頬ほゝの垂たれ下さがつた、青あを膨ぶくれの、土どぶ袋つで、肥でつ張ぷりな五ごじ十ふ恰かつ好かうの、頤あご鬚ひげを生はやした、漢をとこが立たつて居ゐるぢやありませんか。何なにものとも知しれない。越ゑつ中ちう褌ふんどしと云いふ……あいつ一ひとつで、眞まつ裸ぱだかで汚きたない尻けつです。
婦をんなは沼ぬまの洲すへ泳およぎ着ついて、卯うの花はなの茂しげりにかくれました。
が、其その姿すがたが、水みづに流ながれて、柳やなぎを翠みどりの姿すが見たみにして、ぽつと映うつつたやうに、人ひとの影かげらしいものが、水みづの向むかうに、岸きしの其その柳やなぎの根ねに薄うす墨ずみ色いろに立たつて居ゐる……或あるひは又また……此こ處ゝの土どぶ袋つと同おな一じやうな男をとこが、其そ處こへも出でて來きて、白はく身しんの婦をん人なを見みて居ゐるのかも知しれません。
私わたしも其その一ひと人りでせうね……
︵や、待まてい。︶
青あを膨ぶくれが、痰たんの搦からんだ、ぶやけた聲こゑして、早はや行ゆき掛かゝつた私わたしを留とめた……
︵見みて貰もれえたいものがあるで、最もう直ぢきぢやぞ。︶と、首くびをぐたりと遣やりながら、横わう柄へいに言いふ。……何なんと、其その兩りや足うあしから、下した腹ばらへ掛かけて、棕しゆ櫚ろの毛けの蚤のみが、うよ〳〵ぞろ〳〵……赤あか蟻ありの列れつを造つくつてる……私わたしは立たち窘すくみました。
ひら〳〵、と夕ゆふ空ぞらの雲くもを泳およぐやうに柳やなぎの根ねから舞まひ上あがつた、あゝ、其それは五ごゐ位さ鷺ぎです。中なか島じまの上うへへ舞まひ上あがつた、と見みると輪わを掛かけて颯さつと落おとした。
︵ひい。︶と引ひく婦をんなの聲こゑ。鷺さぎは舞まひ上あがりました。翼つばさの風かぜに、卯うの花はなのさら〳〵と亂みだるゝのが、婦をんなが手てあ足しを畝うねらして、身みをくに宛さな然がらである。
今いま考かんがへると、それが矢やつ張ぱり、あの先さつ刻きの樹きだつたかも知しれません。同おなじ薫かをりが風かぜのやうに吹ふき亂みだれた花はなの中なかへ、雪ゆきの姿すがたが素まつ直すぐに立たつた。が、滑なめらかな胸むねの衝つと張はる乳ちゝの下したに、星ほしの血ちなるが如ごとき一ひと雫しづくの鮮から紅くれなゐ。絲いとを亂みだして、卯うの花はなが眞まつ赤かに散ちる、と其その淡うす紅べにの波なみの中なかへ、白しろく眞まつ倒さかさまに成なつて沼ぬまに沈しづんだ。汀みぎはを廣ひろくするらしい寂しづかな水みづの輪わが浮ういて、血ちし汐ほの綿わたがすら〳〵と碧みどりを曳ひいて漾たゞよひ流ながれる……
︵あれを見みい、血ちの形かたちが字じぢやらうが、何なんと讀よむかい。︶
――私わたしが息いきを切きつて、頭かぶりを掉ふると、
︵分わからんかい、白たは痴けめが。︶と、ドンと胸むねを突ついて、突つき倒たふす。重おもい力ちからは、磐ばん石じやくであつた。
︵又また……遣やり直なほしぢや。︶と呟つぶやきながら、其その蚤のみの巣すをぶら下さげると、私わたしが茫ばう然ぜんとした間あひだに、のそのそ、と越ゑつ中ちう褌ふんどしの灸きうのあとの有ある尻しりを見みせて、そして、やがて、及およ腰びごしの祠ほこらの狐きつ格ねが子うしを覗のぞくのが見みえた。
︵奧おくさんや、奧おくさんや――蚤のみが、蚤のみが――︶
と腹はらをだぶ〳〵、身みも悶だえをしつゝ、後あと退じさりに成なつた。唯と、どしん、と尻しり餅もちをついた。が、其その頭あたまへ、棕しゆ櫚ろの毛けをずぼりと被かぶる、と梟ふくろふが化ばけたやうな形かたちに成なつて、其そのまゝ、べた〳〵と草くさを這はつて、縁えんの下したへ這はひ込こんだ。――
蝙かう蝠もり傘がさを杖つゑにして、私わたしがひよろ〳〵として立たち去さる時とき、沼ぬまは暗くらうございました。そして生なまぬるい雨あめが降ふり出だした……
︵奧おくさんや、奧おくさんや。︶
と云いつたが、其その土どぶ袋つの細さい君くんださうです。土と地ちの豪がう農のう何なに某がしが、内ない證しようの逼ひつ迫ぱくした華くわ族ぞくの令れい孃ぢやうを金か子ねにかへて娶めとつたと言いひます。御ごて殿んづくりでかしづいた、が、其その姫ひめ君ぎみは可おそ恐ろしい蚤のみ嫌ぎらひで、唯たゞ一匹ぴきにも、夜よるも晝ひるも悲ひめ鳴いを上あげる。其その悲かなしさに、別べつ室しつの閨ねやを造つくつて防ふせいだけれども、防ふせぎ切きれない。で、果はては亭てい主しゆが、蚤のみを除よけるための蚤のみの巣すに成なつて、棕しゆ櫚ろの毛けを全ぜん身しんに纏まとつて、素すつ裸ぱだかで、寢しん室しつの縁えんの下したへ潛もぐり潛もぐり、一ひと夏なつのうちに狂くる死ひじにをした。――
︵まだ、迷まよつて居ゐさつしやるかなう、二ふた人りとも――旅たびの人ひとがの、あの忘わすれ沼ぬまでは、同おなじ事ことを度たび々〳〵見みます。︶
旅はた籠ご屋やでの談はな話しであつた。﹂
工こう學がく士しは附つけたして、
﹁……祠ほこらの其その縁えんの下したを見みましたがね、……御ごぞ存んじですか……異いる類ゐ異いぎ形やうな石いしがね。﹂
日ひを經へて工こう學がく士しから音おと信づれして、あれは、乳にう香かうの樹きであらうと言いふ。