場所 越前国大野郡鹿見村琴弾谷
時 現代。――盛夏
人名 萩原晃(鐘楼守)
時 現代。――盛夏
人名 萩原晃(鐘楼守)
百合(娘)
山沢学円(文学士)
白雪姫(夜叉ヶ池の主)
湯尾峠の万年姥(眷属)
白男の鯉七
大蟹五郎
木の芽峠の山椿
鯖江太郎
鯖波次郎
虎杖の入道
十三塚の骨
夥多の影法師
黒和尚鯰入(剣ヶ峰の使者)
与十(鹿見村百姓)
その他大勢
鹿見宅膳(神官)
権藤管八(村会議員)
斎田初雄(小学教師)
畑上嘉伝次(村長)
伝吉(博徒)
小烏風呂助(小相撲)
穴隈鉱蔵(県の代議士)
山沢学円(文学士)
白雪姫(夜叉ヶ池の主)
湯尾峠の万年姥(眷属)
白男の鯉七
大蟹五郎
木の芽峠の山椿
鯖江太郎
鯖波次郎
虎杖の入道
十三塚の骨
夥多の影法師
黒和尚鯰入(剣ヶ峰の使者)
与十(鹿見村百姓)
その他大勢
鹿見宅膳(神官)
権藤管八(村会議員)
斎田初雄(小学教師)
畑上嘉伝次(村長)
伝吉(博徒)
小烏風呂助(小相撲)
穴隈鉱蔵(県の代議士)
劇中名をいうもの。――(白山剣ヶ峰、千蛇ヶ池の公達)
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三みく国にだ岳けの麓ふもとの里に、暮くれ六むつの鐘きこゆ。――幕を開く。
萩はぎ原わら晃あきらこの時白しら髪がのつくり、鐘しょ楼うろうの上に立ちて夕せき陽ようを望みつつあり。鐘楼は柱に蔦つたからまり、高き石段に苔こけ蒸し、棟には草生ゆ。晃やがて徐おもむろに段を下りて、清水に米を磨とぐお百ゆ合りの背後に行ゆく。
晃 水は、美しい。いつ見ても……美しいな。
百合 ええ。
その水の岸に菖蒲 あり二三輪小さき花咲く。
晃 綺麗 な水だよ。(微笑 む。)
百合 (白髪の鬢 に手を当てて)でも、白いのでございますもの。
晃 そりゃ、米を磨いでいるからさ。……︵框かまちの縁に腰を掛く︶お勝手働き御苦労、せっかくのお手を水仕事で台なしは恐多い、ちとお手伝いと行こうかな。
百合 可 うございますよ。
晃 いや……お手伝いという処だが、お百合さんのそうした処は、咲残った菖蒲を透いて、水に影が映 したようでなお綺麗だ。
百合 存じません。
晃 賞 めるのに怒る奴 がありますか。
百合 おなぶり遊ばすんでございますものを。――そして旦だん那なさ様まは、こんな台所へ出ていらっしゃるものではありません。早くお机の所へおいでなさいまし。
晃 鐘を撞つく旦那はおかしい。実は権ごん助すけと名を替えて、早速お飯まんまにありつきたい。何とも可おそ恐ろしく腹が空いて、今、鐘を撞いた撞しゅ木もくが、杖つえになれば可いいと思った。ところで居いざ催いそ促くという形かたもある。
百合 ほほほ、またお極 り。……すぐお夕飯にいたしましょうねえ。
晃 手品じゃあるまいし、磨いでいる米が、飯に早変わりはしそうもないぜ。
百合 まあ、あんな事を――これは翌朝 の分を仕掛けておくのでございますよ。
晃 翌朝の分――ああ、お所しょ帯たいもち、さもあるべき事です。いや、それを聞いて安心したら、がっかりして余計空いた。
百合 何でございますねえ。……お菜かずも、あの、お好きな鴫しぎ焼やきをして上げますから、おとなしくしていらっしゃいまし。お腹が空いたって、人が聞くと笑います。
晃 (縁を上る)誰に遠慮がいるものか、人が笑うのは、ね、お前。
百合 はい。
晃 お互いに朝寝の時――
百合 知りませんよ。(莞爾 俯向 く。)
晃 煩うるさく薮やぶ蚊っかが押寄せた。裏縁で燻いぶしてやろう。︵納戸、背うし後ろむきに山を仰ぐ︶……雲の峰を焼やき落おとした、三国ヶ岳は火のようだ。西は近おう江み、北は加賀、幽かすかに美み濃のの山々峰々、数すま万んの松たい明まつを列つらねたように旱ひでりの焔ほのおで取巻いた。夜やし叉ゃヶ池へも映るらしい。ちょうどその水の上あたり、宵の明星の色さえ赤い。……なかなか雨らしい影もないな。
百合 ……その竜が棲すむ、夜叉ヶ池からお池の水が続くと申します。ここの清水も気のせいやら、流ながれが沢たん山と痩やせました。このごろは村方で大騒ぎをしています。……暑さは強し……貴あな方た、お身から体だに触さわりはしますまいかと、――めしあがりものの不自由な片山里は心細い。私はそれが心配でなりません。
晃 流ながれが細ったって構うものか。お前こそ、その上夏痩せをしないが可いい。お百合さん、その夕顔の花に、ちょっと手を触ってみないか。
百合 はい、どういたすのでございますか。
晃 花にも葉にも露があろうね。
百合 ああ冷い。水の手にも涼しいほど、しっとり花が濡れましたよ。
晃 世間の人には金が要ろう、田地も要ろう、雨もなければなるまいが、我々二人活いきるには、百日照っても乾きはしない。その、露があれば沢山なんだ。︵戸おも外てに向える障子を閉とざす。︶
百合 貴方、お暑うございましょう。開けておおきなさいましても、もう、そちこち人も通りますまい。
晃 何、更あらたまって、そんな心配をするものか。……晩方閉とじ込こんで一ひと燻いぶし燻しておくと、蚊が大分楽になるよ。
時に蚊かや遣りの煙なびく、
学円。日に焼けたるパナマ帽子、背広の服、落おち着つきのある人じん体ていなり。風呂敷包を斜はすに背しょい、脚きゃ絆はん草わら鞋じば穿き、杖ステッキづくりの洋こう傘もりをついて、鐘楼の下に出づ。打仰ぎ鐘を眺め、
学円 今朝、明六 つの橋を渡って、ここで暮六つの鐘を聞いた。……
お百合は笊 に米をうつす。
学円 やあ、お精が出ます。(と声を掛く。)
百合 はい。(見向く。)
学円 途中、畷 の竹藪 の処へ出て……暗くなった処で、今しがた聞きました。時を打ったはこの鐘でしょうな。
百合 さようでございます。
学円 音も尊い!……立派な鐘じゃ。鐘楼 へ上 ってみても差支えはありませんか。
百合 ︵笊ざるを抱えて立つ︶ええ、大事ござんせん。けれども貴あな客た、御ごじ串ょう戯だんに、お杖やなんぞでお敲たたき遊ばしては不い可けません。
学円 西すい瓜かを買うのではありません。決して敲いてはみますまい。︵笑う。︶
百合 御串戯おっしゃいます。……いいえ、悪いた戯ずらを遊ばすようなお方とは、お見受け申しはしませんけれど、その鐘は、明六つと、暮六つと、夜中丑うし満みつに一度、――三度のほかは鳴らさない事になっておりますから、失礼とは存じましたが、ちょっと申上げたのでございます。さあ、どうぞ御遠慮なく、上って御覧なさいまし。︵夕顔の垣根について入いらんとす。︶
学円 ああ、ちょっと……お待ち下さい。鐘を見ようと思いますが、ふと言ことばを交わしたを御縁に、余り不ぶし躾つけがましい事じゃが、茶なりと湯なりと、一杯お振舞い下さらんか。
百合 お易い事でございます。さあ、貴客 、これへお掛けなさいまし。
学円 御免下さいよ。
百合 真 に見苦しゅうございます。
学円 これは――お寺の庫裡 とも見受ません。御本堂は離れていますか。
百合 いいえ、もう昔、焼けたと申しまして、以前から、寺はないのでございます。
学円 鐘ばかり……
百合 はい。
学円 鐘ばかり……成程、ところで西瓜の一件じゃ。︵帽子を脱ぐ、ほとんど剃てい髪はつしたるごとき一いち分ぶが刈りの額を撫なでて︶や、西瓜と云えば、内に甜まく瓜わうりでもありますまいか。――茶店でもない様子――︵見廻す。︶
学円 この上、晩飯の御難題は言出しませんが、いかんとも腹が空いた。
百合 ほほ。︵と打うち笑えみ︶筧かけひの下に、梨ありのみが冷ひやしてござんす、上げましょう。︵と夕顔の蔭に立廻る。︶
学円 ︵がぶがぶと茶を呑のみ、衣ポケ兜ットから扇子を取って、煽あおいだのを、と翳かざして見つつ︶おお、咲きました。貴あな女たの顔を見るように。
百合 ええ?(聞返す。)
学円 いや、髪の色を見るように。
百合 もう、年をとりますと、花どころではございません。早く干かん瓢ぴょうにでもなりますれば、……とそればかりを待っております。
学円 小ナイ刀フをこれへお遣わし……私わしが剥むきます。――お世話を掛けてはかえって気遣いな。どれどれ……旅の事欠け、不器用ながら、梨なしの皮ぐらいは、うまく剥きます。おおおお氷よりよく冷えた。玉を削るとはこの事じゃろう。
百合 旅を遊ばす御様子にお見受け申します……貴客 は、どれから、どれへお越しなさいますえ?
学円 さて名な告のりを揚げて、何の峠を越すと云うでもありません。御覧の通り、学校に勤めるもので、暑中休暇に見物学問という処を、遣やって歩あ行るく……もっとも、帰かえ途りみちです。――涼しくば木の芽峠、音に聞こえた中の河かわ内ちか、︵廂ひさしはずれに山見る眉︶峰の茶ちゃ店やに茶ちゃ汲くみ女おんなが赤あか前まえ垂だれというのが事実なら、疱ほう瘡そうの神の建たて場ばでも差支えん。湯の尾峠を越そうとも思います。――落着く前さきは京都ですわ。
百合 お泊りは? 貴客 、今晩の。
学円 ああ、うっかり泊りなぞお聞きなさらぬが可いい。言こと尻ばじりに着いて、宿の御無心申さんとも限らんぞ。はははは、いや、串じょ戯うだんじゃ。御心配には及ばんが、何と、その湯の尾峠の茶汲女は、今でも赤前垂じゃろうかね。
百合 山また山の峠の中に、嘘のようにもお思いなさいましょうが、まったくだと申します。
学円 谷の姫百合も緋ひい色ろに咲けば、何もそれに不思議はない。が、この通り、山ばかり、重かさなり累かさなる、あの、巓いただきを思うにつけて、……夕焼雲が、めらめらと巌いわおに焼やけ込こむようにも見える。こりゃ、赤前垂より、雪女郎で凄すごうても、中の河内が可いいかも分らん。何にしろ、暑い事じゃね。――やっとここで呼い吸きをついた。
百合 里では人死 もありますッて……酷 い旱 でございますもの。
学円 今朝から難なん行ぎょ苦うく行ぎょうの体ていで、暑さに八九里悩みましたが――可おそ恐ろしい事には、水らしい水というのを、ここに来てはじめて見ました。これは清水と見えます。
百合 裏の崕がけから湧わきますのを、筧かけひにうけて落します……細い流ながれでございますが、石に当って、りんりんと佳いい音ねがしますので、この谷を、あの琴こと弾ひき谷だにと申します。貴客、それは、おいしい冷い清水。……一杯汲んで差上げましょうか。
学円 何が今まで我慢が出来よう、鐘つり堂がねどうも知らない前に、この美うつくしい水を見ると、逆さか蜻とん蛉ぼで口をつけて、手で引ひッ掴つかんでがぶがぶと。
百合 まあ、私はどうしましょう、知らずにお米を磨 ぎました。
学円 いや、しらげ水は菖あや蒲めの絞しぼり、夕顔の花の化粧になったと見えて、下流の水はやっぱり水晶。ささ濁りもしなかった。が、村里一統、飲む水にも困るらしく見受けたに、ここの源みなもとまで来ないのは格別、流れを汲取るものもなかったように思う……何ぞ仔しさ細いのある事じゃろうか。
百合 あの、湧きますのは、裏の崕 でござんすけれど。
学円 はあ、はあ。……
百合 水の源もとはこの山奥に、夜叉ヶ池と申します。凄すごい大池がございます。その水みな底そこには竜が棲すむ、そこへ通うと云いまして――毒があると可こ恐わがります。――もう薄暗くて見えますまいけれども、その貴あな客た、流ながれの石には、水がかかって、紫だの、緑だの、口紅ほどな小粒も交まじって、それは綺麗でございますのを、お池の主の眷けん属ぞくの鱗うろこがこぼれたなんのッて、気味が悪いと申すんでございますから。……
学円 綺麗な石が毒蛇の鱗? や、がぶがぶと、豪えらいことを遣やってしもうた。︵と扇子をもって胸を打つ。︶
百合 まあ、(と微笑 み)私どもがこの年まで朝夕飲んで何ともない、それをあの、人は疑うのでございます。
学円 もっとも、もっとも。ものを疑うのは人間の習いですよ。私わしは今のお言ことばで、決して心配はしますまい。現に朝夕飲んでおらるる、――この年と紀しまで――︵と打ち瞻まもり︶お幾いく歳つじゃな。
百合 …………
学円 まあさ、失礼じゃが、お幾歳です?
百合 御免なさいまし、……忘れました。……
学円 ははは、俚こと言わざにも、婦人に対して、貴女はいつ死ぬとは問うても可いい。が、いつ生れた、とは聞くな――とある。これは無遠慮に出過ぎました。……お幾歳じゃと年と紀しは尋ねますまい。時に幾いく干らですか。
百合 幾干かとおっしゃって?
学円 代価じゃ。
百合 あの、お代、何の?……お宝……ま、滅めっ相そうな。お茶代なぞ頂くのではないのでござんす。
学円 茶も茶じゃが、いやあこれは、髯ひげのようにもじゃもじゃと聞えておかしい。茶も勿論、梨を十分に頂いた。お商売でのうても無代価では心苦しい。ずばりと余計なら黙っても差置きますが、旅空なり、御覧の通りの風ふう体てい。ちゃんと云うて取って下さい。
百合 そうまでお気が済みませんなら、少々お代を頂きましょうか。
学円 勿論ともな。
百合 でも、あの、お代とさえ申しますもの、お宝には限りません。そのかわり、短いのでも可ようござんす、お談はな話しを一つ、お聞かせなすって下さいましな。
学円 談話をせい、……談話とは?
百合 方々旅を遊ばした、面白い、珍しい、お話しでございます。
学円 その談話を?
百合 はい、お代のかわりに頂きます。貴あな客たには限りませず、薬売の衆、行ぎょ者うじゃ、巡礼、この村里の人たちにも、お間に合うものがござんして、そのお代をと云う方には、誰どな方たにも、お談話を一ひと条つずつ伺います。沢たん山とお聞かせ下さいますと、お泊め申しもするのでござんす。
学円 むむ、これこそ談話じゃ。︵と小こひ膝ざを拍うって︶面白い。話しましょう。……が、さて談話というて、差当り――お茶代になるのじゃからって、長崎から強こわ飯めしでもあるまいな。や、思出した。しかもこの越えち前ぜんじゃ。
晃 (細く障子を開き差覗 く。)
時に小机に向いたり。双紙を開き、筆を取りて、客の物語る所をかき取らんとしたるなるが、学円と双方、ふと顔を合せて、何とかしけん、燈とも火しびをふっと消す。
百合 どんなお話、もし、貴客 。
学円 ……時にここで話すのを、貴女のほかに聞く人がありますかね。
百合 いいえ、外 にはお月様ばかりでござんす。
学円 道理こそ燈あかりが消えて、ああ、蚊かや遣りの煙で、よくは見えぬが、……納戸に月が射さすらしい。――お待ちなさい。今、言いかけた越前の話というのは、縁の下で牡ぼた丹も餅ちが化けたのです。たとえば、ここで私わしがものを云うと、その通り、縁の下で口真似をする奴やつがある。村中が寄って集たかって、口真似するは何ものじゃ。狐か、と聞くと、違う。と答える。狸か、違う、獺かわうそか、違う、魔か、天てん狗ぐか、違う、違う。……しまいに牡丹餅か、と尋ねた時、おうと云って消え失うせたという――その話をする気であったが、……まだ外に、月が聞くと言わるるから、出直して、別の談はな話しをする気になった。お聞きなさい。これは現在一おと昨と年しの夏――
一人、私わしの親友に、何かかねて志す……国々に伝わった面白い、また異かわった、不思議な物語を集めてみたい。日本中残らずとは思うが、この夏は、山深い北ほっ国こく筋の、谷を渡り、峰を伝って尋ねよう、と夏休みに東京を出ました。――それっきり、行方が知れず、音おと沙さ汰たなし。親兄弟もある人物、出来る限り、手を尽くして捜したが、皆目跡あと形かたが分らんから、われわれ友だちの間にも、最も早はや世にない、死んだものと断あき念らめて、都を出た日を命日にする始末。いや、一時は新聞沙汰、世間で豪えらい騒ぎをした。……
自殺か、怪け我がか、変死かと、果は敢かない事に、寄ると触ると、袂たもとを絞って言い交わすぞ! あとを隠すにも、死ぬのにも、何の理由もない男じゃに、貴女、世間には変った事がありましょうな。……
百合 ああ、貴あな客た、貴客、難あり有がとう存じます。……ほんとうに難有う存じました。︵とにべなく言う。︶
学円 そんなに礼を云うて、茶代のかわりになるのですかい。
百合 もう沢山でございます。
学円 それでは面白かったのじゃね。
百合 ……おもしろいのは、前の牡丹餅の化けた方、あとのは沢山でございます。
学円 さて談話 はこれからなんじゃ、今のはほんの前提 ですが。
百合 どうぞ、……結構でございますから、……そして貴客、もう暗くなります、お宿をお取り遊ばすにも御不自由でございましょうから。……
学円 いやいや、談話の模様では、宿をする事もあると言われた。私わしも一つ泊めて下さい、――この談話は実みがありますから。
百合 先さっ刻きは、貴客、女の口から泊りの事なぞ聞くんじゃない。……その言ことばについて、宿の無心でもされたらどうするとおっしゃって。……もう、清い涼すずしいお方だと思いましたものを、……女ばかり居る処で、宿貸せなぞと、そんな事、……もう、私は気味が悪い。
学円 気味が悪いな? 牡丹餅の化けたのではないですが。
百合 こんな山家は、お化ばけより、都の人が可こ恐おうござんす、……さ、貴客どうぞ。
学円 これは、押出されるは酷 い。(不承々々に立つ。)
百合 (続いて出で、押遣 るばかりに)どうぞ、お立ち下さいまし。
学円 婦人ばかりじゃ、ともこうも言われぬか。鉢の木ではないのじゃが、蚊に焚たく柴もあるものを、……常つね世よの宿なら、こう情なさけなくは扱うまい。……雪の降らぬがせめてもじゃ。
百合 真夏土用の百日旱ひでりに、たとい雪が降ろうとも、……︵と立ちながら、納戸の方を熟じっと視みて、学円に瞳を返す。︶御機嫌よう。
学円 失礼します。
晃 (衝 と蚊遣 の中に姿を顕 し)山沢、山沢。(ときっぱり呼ぶ。)
学円 おい、萩原、萩原か。
百合 あれ、貴あな方た。︵と走り寄って、出足を留めるように、膝を突き手に晃の胸を圧おさえる。︶
晃 帰りやしない、大丈夫、大丈夫。︵と低こご声えに云って︶何とも言いようがない、山沢、まあ――まあ、こちらへ。
学円 私わしも何とも言いようが無い。十に九ツ君だろうと、今ね、顔を見た時、また先さっ刻きからの様子でもそう思うた、けれども、余り思掛けなし――︵引返して框かまちに来きたり︶第一、その頭はどうしたい。
晃 頭もどうかしていると思って、まあ、許して上ってくれ。
学円 埃 ばかりじゃ、失敬するぞ、(と足を拭 いたなりで座に入る)いや、その頭も頭じゃが、白髪はどうじゃ、白髪はよ?……
晃 これか、谷底に棲すめばといって、大うわ蛇ばみに呑まれた次わ第けではない、こいつは仮かつ髪らだ。︵脱いで棄てる。︶
学円 ははあ……(とお百合を密 と見て)勿論じゃな、その何も……
晃 こりゃ、百合と云う。
お百合、座に直った晃の膝に、そのまま俯伏 して縋 っている。
学円 お百合さんか。細君も……何、奥方も……
晃 泣く奴があるか、涙を拭いて、整然 として、御挨拶 しな。
と言ううちに、極 り悪そうに、お百合は衝 と納戸へかくれる。
晃 君に背中を敲 かれて、僕の夢が覚めた処で、東京に帰るかって憂慮 いなんです。
学円 ︵お百合の優しさに、涙もろく、ほろりとしながら︶いや、私わしの顔を見たぐらいで、萩原――この夢は覚めんじゃろう。……何、いい夢なら、あえて覚めるには及ばんのじゃ……しかし萩原、夢の裡うちにも忘れまいが、東京の君の内では親御はじめ、
晃 むむ。
学円 君の事で、多少、それは、寿命は縮められたか分らんが、皆まず御無事じゃ。
晃 ああ、そうか。難有 い。
学円 私 に礼には及ばない。
晃 実に済まん!
学円 さてこれはどうしたわけじゃ。
晃 夢だと思って聞いてくれ。
学円 勿論、夢だと思うておる。……
晃 委くわしい事は、夜すがらにも話すとして、知ってる通り……僕は、それ諸国の物語を聞こうと思って、北国筋を歩あ行るいたんだ。ところが、自身……僕、そのものが一ひと条くだりの物語になった訳だ。――魔法つかいは山を取って海に移す、人間を樹にもする、石にもする、石を取って木この葉にもする。木の葉を蛙かえるにもするという、……君もここへ来たばかりで、もの語かたりの中の人になったろう……僕はもう一層、その上を、物語、そのものになったんだ。
学円 薄気味の悪い事を云うな。では、君の細君は、……(云いつつ憚 る。)
晃 (納戸を振向く)衣服 でも着換えるか、髪など撫 つけているだろう。……襖 一重だから、背戸へ出た。……
学円 ︵伸上り納戸越に透かして見て︶おい、水があるか、蘆あしの葉の前に、櫛くしにも月の光が射さして、仮かつ髪らをはずした髪の艶つや、雪国と聞くせいか、まだ消残って白いように、襟脚、脊筋も透通る。……凄すごいまで美しいが、……何か、細君は魔法つかいか。
晃 可哀想 な事を言え、まさか。
学円 ふん。
晃 この土地、この里――この琴弾谷が、一個 の魔法つかいだと云うんだよ。――
山沢、君は、この山奥の、夜叉ヶ池というのを聞いたか。
学円 聞いた。しかもその池を見ようと思って、今庄 駅から五里ばかり、わざわざここまで入込 んだのじゃ。
晃 僕も一おと昨と年し、その池を見ようと思って、ただ一人、この谷へ入ったために、こういう次第になったんだ。――ここに鐘がある――
学円 ある! 何か、明六つ、暮六つ……丑うし満みつ、と一昼夜に三度鳴らす。その他は一切音をさせない定さだめじゃと聞いたが。
晃 そうだよ。定として、他は一切音をさせてはならない、と一所にな、一日一夜に三度ずつは必ず鳴らさねばならないんだ。
学円 それは?
晃 ここに伝説がある。昔、人と水と戦って、この里の滅びようとした時、越えつの大だい徳とく泰たい澄ちょうが行ぎょ力うりきで、竜神をその夜叉ヶ池に封ふう込じこんだ。竜神の言うには、人の溺おぼれ、地の沈むを救うために、自由を奪わるるは、是非に及ばん。そのかわりに鐘を鋳て、麓ふもとに掛けて、昼夜に三度ずつ撞つき鳴ならして、我を驚かし、その約束を思出させよ。……我が性は自由を想う。自在を欲する。気ままを望む。ともすれば、誓ちかいを忘れて、狭き池の水をして北陸七道に漲みなぎらそうとする。我が自由のためには、世の人畜の生命など、ものの数ともするものでない。が、約束は違たがえぬ、誓は破らん――但しその約束、その誓を忘れさせまい。思出させようとするために、鐘を撞つく事を怠るな。――山沢、そのために鋳た鐘なんだよ。だから一度でも忘れると、たちどころに、大たい雨う、大だい雷らい、大風とともに、夜叉ヶ池から津浪が起って、村も里も水の底に葬って、竜神は想うままに天地を馳はすると……こう、この土地で言伝える。……そのために、明六つ、暮六つ、丑満つ鐘を撞く。……
学円 (乗出でて)面白い。
晃 いや、面白いでは済まない、大切な事です。
学円 いかにも大切な事じゃ。
晃 ところで、その鐘を撞く、鐘撞き男を誰だと思う。
学円 君か。
晃 僕だよ。すなわち萩原晃がその鐘撞夫 なんだよ。
学円 はてな。
晃 ここに小屋がある……
学円 むむ。
晃 鐘撞が住む小屋で、一おと昨と年しの夏、私が来て、代るまでは、弥や太た兵べ衛えと云う七十九になる爺じい様さんが一人居て、これは五十年以この来かた、いかな一日も欠かす事なく、一昼夜に三度ずつこの鐘を打っていた。
山沢、花は人の目を誘う、水は人の心を引く。君も夜叉ヶ池を見に来たと云う。私がやっぱり、池を見ようと、この里へ来た時、暮六つの鐘が鳴ったんだ。弥太兵衛爺じじいに、鐘の所いわ謂れを聞きながら、夜があけたら池まで案内させる約束で、小屋へ泊めて貰った処。
その夜、丑うし満みつの鐘を撞いて、鐘しょ楼うろうの高い段から下りると、爺じじいは、この縁えん前さきで打ぶっ倒たおれた――急病だ。死ぬ苦くる悩しみをしながら、死切れないと云って、悶もだえる。――こうした世間だ、もう以前から、村一統鐘の信心が消えている。……爺じいが死んだら、誰も鐘を鳴らすものがない。一度でも忘れると、掌たなそこをめぐらさず、田地田畠、陸は水になる、沼になる、淵ふちになる。幾万、何千の人の生いの命ち――それを思うと死ぬるも死切れぬと、呻う吟めいて掻もがく。――虫より細い声だけれども、五十年の明あけ暮くれを、一生懸命、そうした信仰で鐘楼を守り通した、骨と皮ばかりの爺じいが云うのだ。……鐘の自おのずから鳴るごとく、僕の耳に響いた。……且かつは臨終の苦くげ患んの可あわ哀れさに、安心をさせようと、――心配をするな親おや仁じ、鐘は俺が撞いてやる、――とはっきり云うと、世にも嬉しそうに、ニヤニヤと笑って、拝みながら死んだ。その時の顔を今に忘れん。
が、まさか、一生、ここに鐘を撞いて終ろうとは思わなかった。丑満は爺が済ました、明六つの鐘一度ばかり、代って撞くぐらいにしか考えなかった。が、まあ、爺が死ぬ、村のものを呼ぼうにも、この通り隣とな家りに遠い。三度の掟おきてでその外は、火にも水にも鐘を撞くことはならないだろう。
学円 その鳴らしてならないというは、どうした次第 じゃね?
晃 鐘は、高く、ここにあって――その影は、深く夜叉ヶ池の碧へき潭たんに映ると云う。……撞しゅ木もくを当てて鳴る時は、凩こがらしにすら、そよりとも動かない、その池の水が、さらさらと波を立てると聞く。元来、竜神を驚かすために打鳴らすのであるから、三度のほかに騒がしては、礼を欠く事に当る。……
学円 その道理じゃ、むむ。
晃 鐘も鳴らせん……処で、不知案内の村を駈かけ廻まわって人を集めた、――サア、弥太兵衛の始末は着いたが、誰も承うけ合あって鐘を撞こうと言わない。第一、しかじかであるからと、爺じいに聞いた伝説を、先祖の遺言のように厳おごそかに言って聞かせると、村のものは哄どっと笑う。……若いものは無理もない。老とし寄よりどもも老寄どもなり、寺の和おし尚ょうまでけろりとして、昔話なら、桃太郎の宝を取って帰った方が結構でござる、と言う。癪しゃくに障った――勝手にしろ、と私もそこから、︵と框かまちを指し︶草わら鞋じを穿はいて、すたすたとこの谷を出て帰ったんだ。帰る時、鹿しか見みむ村らのはずれの土橋の袂たもとに、榎えのきの樹の下に立ってしょんぼりと見送ったのが、︵と調子を低く︶あの、婦おん人なだ。
その日の、明六つの鐘さえ、学校通いの小こど児もをはじめ、指ゆびさしをして笑う上で、私が撞いた。この様子では、最早や今日から、暮六つの鐘は鳴るまいな!……
もしや、岩抜け、山津浪、そうでもない、大おお暴あ風ら雨しで、村の滅びる事があったら、打明けた処……他ほかは構わん、……この娘の生いの命ちもあるまい――待て、二三日、鐘つり堂がねどうを俺が守ろう。その内には、とまた四五日、半月、一月を経ふるうちに、早いものよ、足掛け三年。――君に逢あうまで、それさえ忘れた。……また、忘れるために、その上、年に老朽ちて世を離れた、と自分でも断あき念らめのため。……ばかりじゃ無い、……雁かりがね、燕つばめの行ゆきかえり、軒なり、空なり、行ゆき交かう目を、ちょっとは紛らす事もあろうと、昼間は白髪の仮かつ髪らを被かむる。
学円 (黙然 として顔を見る。)
晃 (言葉途絶える)そう顔を見るな、恥入った。
学円 ︵しばらく、打案じ︶すると、あの、……お百合さんじゃ、その人のために、ここに隠れる気になったと云うのじゃ。
晃 ……ますます恥入る。
学円 いや、恥ずるには及ばん。が、どうじゃ、細君を連れて東京に帰るわけには行ゆかんのかい。
晃 何も三ヶ国と言わん。越前一ヶ国とも言わん。われわれ二人が見棄てて去って、この村と、里と、麓ふもとに棲すむものの生命をどうする。
学円 萩原、(と呼びつつ、寄り)で、君はそれを信ずるかい。
晃 信ずる、信ずるようになった。萩原晃はいざ知らん、越前国三国ヶ岳の麓、鹿見村琴こと弾ひき谷だにの鐘しょ楼うろ守うもり、百合の夫の二代の弥太兵衛は確たしかに信じる。
学円 ︵ひたりと洋服の胡あぐ坐らに手をおき︶何にも言わん。そう信ぜい。堅く進ぜい。奥方の人を離れた美しさを見るにつけても、天がこの村のために、お百合さんを造り置いて、鐘楼守を、ここに据えられたものかも知れん。君たち二人は二ふた柱はしらの村の神じゃ。就なか中んずく、お百合さんは女神じゃな。
百合 (行燈 を手に黒髪美しく立出づる)私、どうしたら可 うございましょう。
学円 や、これは……
百合 貴客 、今ほどは。
学円 さて、お初に……はははは、奥さん。
百合 まあ。……(と恥らう。)
晃 これ、まあ……ではない、よく御挨拶申しな、兄とおなじ人だ。
百合 (黙って手をつく。)
学円 はいはい。いや、御挨拶はもう済みました。貴女 嚔 は出ませなんだか。
晃 うっかり嚔なんぞすると、蚊が飛出す。
百合 あれ、沢山 おなぶんなさいまし。
晃 そんなに、お前、白粉 を粧 けて。
百合 あんな事ばかりおっしゃる。(と優しく睨 んで顔を隠す。)
学円 何にしろ、お睦 じい……ははははは、勝手にお噂 をしましたが、何は、お里方、親御、御兄弟は?
晃 山沢、何にもない孤みな児しごなんだ。鎮守の八はち幡まんの宮の神かん官ぬしの一人娘で、その神官の父おと親っさんも亡くなった。叔父があって、それが今、神官の代理をしている。……これの前だが、叔父というのは、了りょ簡うけんのよくない人でな。
学円 それはそれは。
晃 姪 のこれを、附けつ廻しつしたという大難ぶつです。
百合 ほんとうに、たよりのない身から体だでございます。何にも存じません、不ふつ束つかものでございますけれど、貴あな客た、どうぞ御ふびんをお懸けなすって下さいまし。︵しんみりと学円に向って三みつ指ゆびして云う。︶
学円 ︵引き入れられて、思わず涙ぐむ。︶御殊勝ですな。他人のようには思いません。
晃 ︵同じく何となく胸せまる。涙を払って︶さあさあ、親類というお言葉なんだ。遠慮のない処、何にも要らん。御ごふ吹いち聴ょうの鴫しぎ焼やきで一杯つけな。これからゆっくり話すんだ。山沢、野菜は食わしたいぜ、そりゃ、甘うまいぞ。
学円 奥方、お立ちなさるな。トそこでじゃな、萩原、私わしは志した通り、これから夜を掛けて夜叉ヶ池を見に行ゆく気じゃ。種いろ々いろ不思議な話を聞いたら、なお一層見たくなった。御飯はお手料理で御ごち馳そ走うになろうが、お杯には及ばん、第一、知ってる通り、一滴も飲めやせん。
晃 成程、そうか、夜叉ヶ池を見に来たんだ。……明あし日たにしては、と云うんだけれども、道は一里余り、が、上りが嶮けわしい。この暑さでは夜が可いい。しかし、四五日は帰さんから、明日の晩にしてくれないかい。
学円 いや、学校がある。これでも学生の方ではないから勝手に休めん。第一、遊び過ぎて、もう切詰めじゃ。
晃 それは困った、学校は?……先刻 、落着く先は京都だと云ったようだな。
学円 むむ、去年から。……みやづかえの情なさけなさじゃ。何しろ、急ぐ。
晃 分った、では案内かたがた一所に行く。
学円 君も。
晃 ……直ぐに出掛けよう。
学円 それだと、奥方に済まんぞ。
晃 何を詰 らない。
百合 いいえ……(と云いしがしおしおと)貴方 、直ぐにとおっしゃって、……お支度は、……
晃 土橋の煮にし染め屋やで竹の皮づつみと遣やらかす、その方が早はや手てま廻わしだ。鰊にしんの煮びたし、焼どうふ、可よかろう、山沢。
学円 結構じゃ。
晃 事が決れば早いが可いい。源佐衛門は草履で可よし、最さい明みょ時うじどのは、お草わら鞋じ、お草鞋。
学円 やあ、おもしろい。奥さん、いずれ帰かえ途りには寄せて頂く。私は味噌汁が大好きです。小こ菜なを入れて食べさして発たたせて下さい。時に、帰途はいつになろう。……
晃 さあ、夜 が短い。明方になろうも知れん。
学円 明けがた……は可いいが、︵と草鞋を穿はきながら︶待て待て、一所に気軽に飛出して、今夜、丑満つの鐘はどうするのじゃ。
晃 百合が心得ておる。先代弥太兵衛と違う。仙人ではない、生身の人間。病気もする、百合が時々代るんだよ。
学円 では、池のあたりで聞きましょう。――奥方しっかり願います。
百合 はい、内をお忘れなさいませんように、私は一生懸命に。(と涙声にて云う。)
晃 ……おい、あの、弥太兵衛が譲りの、お家の重ちょ宝うほうと云う瓢ひょ箪うたんを出したり、酒を買う。――それから鎌を貸しな、滅多に人の通わぬ処、路はあっても熊笹ぐらいは切らざあなるまい。……早くおし。
百合 はい、はい。
学円 やあ、どぎどぎと鋭いな。(と鎌を見る。)
晃 月影に……︵空へかざす︶なお光るんだ。これでも鎌を研とぐことを覚えたぜ。――こっちだ、こっちだ。︵と先へ立つ。︶
百合 お気をつけ遊ばせよ。(とうるみ声にて、送り出づる時、可愛 き人形袖にあり。)
晃 何だい、こんなもの。(見返る。)
百合 太郎がちょっとお見送り。︵と袖でしめつつ︶小お父じちゃんもお早くお帰りなさいまし、坊やが寂しゅうございます。︵と云いながら、学円の顔をみまもり、小こ家やの内を指し、うつむいてほろりとする。︶
学円 ︵庇かばう状さまに手を挙げて、また涙ぐみ︶御ごも道っと理もじゃ、が、大丈夫、夢にも、そんな事が、貴女、︵と云って晃に向きかえ︶私わしに逢うて、里心が出て、君がこれなり帰るまいか、という御心配じゃ。
百合 (きまりわるげに、つと背向 になる。)
晃 ああ、それで先刻 から……馬鹿、嬰児 だな。
学円 何かい、ちょっと出懸 に、キスなどせんでも可 いかい。
晃 旦那方じゃあるまいし、鐘撞 弥太兵衛でがんすての。
と両人連立ち行く。
百合 ︵熟じっとしばし︶まさかと思うけれど、ねえ、坊や、大丈夫お帰んなさるわねえ。おおおお目ン目を瞑ねむって、頷うなずいて、まあ、可愛い。︵と頬ほお摺ずりし︶坊やは、お乳つぱをおあがりよ。母かあさんは一人でお夕飯も欲しくない。早く片附けてお留守をしましょう。一人だと見て取ると、村の人が煩うるさいから、月は可よし、灯を消して戸をしめて。――
と框 にずッと雨戸を閉める。閉め果てると、戸の鍵 がガチリと下りる。やがて、納戸の燈 、はっと消ゆ。
出る化ものの数々は、一ツ目、見みこ越し、河太郎、獺かわうそに、海坊主、天守におさかべ、化猫は赤あか手てぬ拭ぐい、篠しの田だに葛くずの葉、野やか干んべ平い、古狸の腹はら鼓つづみ、ポコポン、ポコポン、コリャ、ポンポコポン、笛に雨を呼び、酒買小僧、鉄かね漿つけ着おん女なの、けたけた笑わらい、里の男は、のっぺらぼう。
と唄――
与よじ十ゅう、竹の小おが笠さを仰あお向むけに、鯉こいを一尾、嬉しそうな顔して見て、ニヤニヤと笑って出づ。
与十 大でかい事をしたぞ。へい、雪さ豊年の兆しるしだちゅう、旱ひでりは魚うおの当りだんべい。大沼小沼が干たせいか、じょんじょろ水に、びちゃびちゃと泳いだ処を、ちょろりと掬しゃくった。……︵鯉跳ねる︶わい! 銀の鱗うろこだ。ずずんと重い。四貫目あるべい。村長様が、大おお囲い炉ろ裡りの自在竹に掛った滝登りより、えッと大でっけえ。こりゃ己おらがで食おうより、村会議員の髯ひげどのに売るべいわさ。やれ、鯉。髯どのに身売をしろじゃ。値になれ、値になれ。︵鯉跳ねる︶ふあ、銀の鱗だ。金かねが光る――光るてえば、鱗てえば、ここな、︵と小屋を見て︶鐘かね撞つき先生が打ぶってしめた、神かん官ぬし様の嬢様さあ、お宮の住すま居いにござった時分は、背中に八枚鱗が生えた蛇体だと云っけえな。……そんではい、夜さり、夜ばいものが、寝床を覗のぞくと、いつでもへい、白しろ蛇へびの長なげいのが、嬢様のめぐり廻って、のたくるちッて、現に、はい、目のくり球廻らかいて火を吹いた奴やつさえあっけえ。……
鐘撞先生には何事もねえと見えるだ。まんだ、丈夫に活いきてござって、執とり殺ころされもさっしゃらねえ。見ろやい、取っても着けねえ処に、銀の鱗さ、ぴかぴかと月に光るちッて、汝われがを、︵と鯉をじろじろ︶ばけものか蛇体と想うて、手を出さずば、うまい酒にもありつけぬ処だったちゅうものだ。――嬢様が手本だよ。はってな、今時分、真まっ暗くらだ。舐なめ殺ころされはしねえだかん、待ちろ。︵と抜足で寄って、小屋の戸の隙すき間まを覗く。︶
蟹かに五ごろ郎う。朱顔、蓬おどろなる赤あか毛げが頭しら、緋ひの衣したる山伏の扮いで装たち。山やま牛ごぼ蒡うの葉にて捲まいたる煙たば草こを、シャと横よこ銜ぐわえに、ぱっぱっと煙を噴きながら、両腕を頭上に突つッ張ぱり、ト鋏はさみを極きめ込こみ、踞しゃがんで横よこ這ばいに、ずかりずかりと歩あ行るき寄って、与十の潜すき見みする向むこ脛うずねを、かっきと挟んで引く。
与十 痛いてえ。︵と叫んで︶わっ、︵と反る時、鯉ぐるみ竹の小笠を夕顔の蔭に投ぐ。︶ひゃあ、藪やぶ沢さわの大おお蟹がにだ。人殺し!
と怪けし飛んで遁にぐ。――蟹五郎すかりすかりと横に追う。
鯉こい七しち。鯉の精。夕顔の蔭より、するすると顕あらわる。黒こく白びゃ鱗くうろこの帷かた子びら、同じ鱗うろ形こがたの裁たッ着つけ、鰭ひれのごときひらひら足袋。件くだんの竹の小笠に、面おもてを蔽おおいながら来り、はたとその小笠を擲なげうつ。顔白く、口のまわり、べたりと髯ひげ黒し。蟹、これを見て引返す。
鯉七 ︵ばくばくと口を開けて、はっと溜ため息いきし︶ああ、人間が旱ひでりの切なさを、今にして思当った。某それがしが水離れしたと同然と見える。……おお、大蟹、今ほどはお助け嬉しい、難あり有がたかったぞ。
蟹五郎 水心、魚心だ、その礼に及ぼうかい。また、だが、滝登りもするものが、何じゃとて、笠の台に乗せられた。
鯉七 里へ出る近道してな、無理な流ながれを抜けたと思え。石に鰭が躓つまずいて、膚はだ捌さばきのならぬ処を、ばッさりと啖くらった奴よ。
蟹五郎 こいつにか。(と落ちたる笠を挟んで圧 える。)
鯉七 鬼若丸以来という、難儀に逢わせた。百姓めが、汝うぬ。︵と笠を蹈ふむ。︶
笠 己 じゃねえ、己じゃねえ。(と、声ばかりして蔭にて叫ぶ。)
鯉七 はあ、いかさま汝きさまのせいでもあるまい。助けてやろう――そりゃ行け。やい、稲が実ったら案か山か子しになれ!
と放す。しかけにて、竹の小笠はたはたと煽 って遁 げる。
はははは飛ぶわ飛ぶわ、南瓜畠 へ潜って候 。
蟹五郎 人間の首が飛んだ状さまだな、気きび味す助け、気味助。かッかッかッ。︵と笑い︶鯉七、これからどこへ行く。
鯉七 むう、ちと里方へ用がある。ところで滝を下って来た。何が、この頃の旱ひでりで、やれ雨が欲しい、それ水をくれろ、と百姓どもが、姫ひい様さまのお住すま居い、夜叉ヶ池のほとりへ五う月る蠅さきほどに集たかって来うせる。それはまだ可よい。が、何の禁まじ厭ないか知れぬまで、鉄かな釘くぎ、鉄かな火ひば箸し、錆さび刀がたなや、破われ鍋なべの尻まで持込むわ。まだしもよ。お供物だと血迷っての、犬の首、猫の頭、目を剥むき、髯ひげを動かし、舌をべらべら吐く奴を供えるわ。胡きゅ瓜うりならば日野川の河かっ童ぱが噛かじろう、もっての外な、汚む穢そうて汚穢うて、お腰元たちが掃除をするに手が懸かかって迷惑だ。
ところで、姫ひい様さまのお乳母どの、湯ゆの尾おと峠うげの万まん年ねん姥うばが、某それがしへ内意==降らぬ雨なら降るまでは降らぬ、向後汚いものなど撒まき散ちらすにおいてはその分に置かぬ==と里へ出て触れい、とある。ためにの、この鰭ひれを煩わす、厄介な人間どもよ。
蟹五郎 その事かい、御苦労、御苦労。ところで、大池の姫ひい様さまには、なかなか雨を下さる思おぼ召しめしは当分ないかい。
鯉七 分らんの。旱は何も、姫ひい様さま御存じの事ではない。第一、其そこ許もとなども知る通りよ。姫様は、それ、御縁者、白はく山さんの剣ヶ峰千蛇ヶ池の若旦那にあこがれて、恋し、恋しと、そればかり思詰めてましますもの、人間の旱なんぞ構っている暇があるものかッてい。
蟹五郎 神通 広大――俺をはじめ考えるぞ。さまで思悩んでおいでなさらず、両袖で飜然 と飛んで、疾 く剣ヶ峰へおいでなさるが可 いではないか。
鯉七 そこだの、姫様 が座をお移し遊ばすと、それ、たちどころに可恐 しい大津波が起って、この村里は、人も、馬も、水の底へ沈んでしまう……
蟹五郎 何が、何が、第一俺が住すま居いも広うなる……村が泥沼になるを、何が遠慮だ。勧めろ、勧めろ。
鯉七 忘れたか、鐘つりがねがここにある。……御先祖以来、人間との堅い約束、夜昼三度、打つ鐘を、彼あい奴つ等らが忘れぬ中うちは、村は滅びぬ天地の誓ちか盟い。姫ひい様さまにも随ま意まにならぬ。さればこそ、御ごう鬱っか懐い、その御ふびんさ、おいとしさを忘れたの。
蟹五郎 南なむ無さん三ぽ宝う、堂の下で誓を忘れて、鐘つりがねの影を踏もうとした。が、山も田たん圃ぼも晃きら々きらとした月夜だ。まだまだしめった灰も降らぬとなると、俺も沢を出て、山の池、御殿の長屋へ行ゆかずばなるまい。同道を頼むぞ、鯉。
鯉七 むむ、その儀は、ぱくりと合のみ点こんだ。かわりにはの、道が寂しい……里へは、きこう同道せい。
蟹五郎 帰途 はお池へ伴侶 だ。
鯉七 月の畷 を、唄うて行 こうよ。
蟹五郎 何と唄う?
鯉七 ==山を川にしょう==と唄おうよ。
蟹五郎 面白い。
と同音に、鯉はふらふらと袖を動かし、蟹は、ぱッぱッと煙けむを吹いて、==山を川にしょう、山を川にしょう==と同音に唄い行く。行掛けて淀よどみ、行むこ途うを望む。
鯉七 待て、見馴 れぬものが、何やら田の畝 を伝うて来る。
蟹五郎 かッかッ、怪しいものだ。小蔭 れて様子を見んかい。
両個、姿を隠す。
百合 ︵人形を抱き、媚なまめかしき風情にて戸を開き戸こが外いに出づ。︶夜の長い事、長い事……何の夏が明あけ易やすかろう。坊やも寝られないねえ、――お月様幾つ、お十三、七つ――今も誰やら唄うて通ったのをお聞きかい、――山を川にしょ――ああ、この頃では村の人が、山を川にもしたかろう、お気の毒だわねえ。……まあ、良い月夜、峰の草も見えるような。晃さん、お客様の影も、あの、松のあたりに見えようも知れないから、鐘かね堂つきどうへ上あがりましょうね。……ひょっとかして、袖でも触って鳴ると悪いね、田たん圃ぼの広場へ出て見ようよ。︵と小屋のうらに廻って入る。︶
鯰ねん入にゅう。花道より、濃い鼠すかしの頭ずき巾ん、面つら一面に黒し。白き二にこ根んの髯ひげ、鼻下より左右にわかれて長く裾すそまで垂る。墨染の法ころ衣もを絡まとい、鰭ひれの形したる鼠の足袋。一ひと本もとの蘆あしを杖つえつき、片手に緋ひぶ総さ結びたる、美しき文ふば箱こを捧げて、ふらふらと出で来きたる。
鯰入 遥はる々ばると参った。……もっての外の旱かん魃ばつなれば、思うたより道中難儀じゃ。︵と遥はるかに仰いで︶はあ、争われぬ、峰の空に水気が立つ。嬉しや、……夜叉ヶ池は、あれに近い。︵と辿たどり寄る。︶
鯉、蟹、前途 に立顕 る。
鯉七 誰だ。これへ来たは何ものだ。
蟹五郎 お山の池の一の関、藪沢 の関守 が控えた。名のって通れ。
鯰入 ︵杖を袖にまき熟じっと視みて︶さては縁のない衆生でないの。……これは、北陸道無双の霊山、白山、剣ヶ峰千蛇ヶ池の御ごき公んだ達ちより、当国、三国ヶ岳夜叉ヶ池の姫君へ、文づかいに参るものじゃ。
鯉七 おお、聞及んだ黒和尚 。
蟹五郎 鯰入は御坊 かい。
鯰入 これは、いずれも姫君のお身内な。夜叉ヶ池の御ごけ眷んぞ属くか。よい所で出会いました、案内を頼みましょう。
蟹五郎 お使 、御苦労です。
鯉七 ちと申つかった事があって、里へ参る路ではあれども、若君のお使、何は措おいてもお供しょう。姫様、お喜びの顔が目に見える。われらもお庇かげで面目を施します、さあ、御坊。
蟹五郎 さあ、御坊。
鯰入 ︵ふと、くなくなとなって得え進まず。︶しばらく。まず、しばらく。……
鯉七 御坊、お草臥 れなら、手を取りましょう。
蟹五郎 何と腰を押そうかい。
鯰入 いやいや疲れはしませぬ。尾おひ鰭れはのらのらと跳ねるなれども、ここに、ふと、世にも気きが懸かりが出来たじゃまで。
鯉七 気懸りとは? 御坊。
鯰入 ここまで辿たどって、いざ、お池へ参ると思えば、急にこの文ふば箱こが、身にこたえて、ずんと重うなった。その事じゃ。
鯉七 恋の重荷と言いますの。お心入れの御状なれば、池に近し、御双方お気が通って、自然と文箱に籠こもりましたか。
蟹五郎 またかい。姫ひい様さまから、御坊へお引出ものなさる。……あの、黄こが金ね白しろ銀がね、米、粟あわの湧わきこぼれる、石いし臼うすの重おも量みが響きますかい。
鯰入 ︵悄しょ然うぜんとして︶いや、私わしが身に応こたえた処は、こりゃ虫が知らすと見えました。御ごほ褒う美びに遣わさるる石臼なれば可よけれども==この坊主を輪切りにして、スッポン煮を賞しょ翫うがんあれ、姫、お昼寝の御目覚ましに==と記してあろうも計られぬ。わあ、可おそ恐ろしや。︵とわなわなと蘆の杖とともにふるい出す。︶
鯉七 何でまた、そのような飛んだ事を? 御坊。……
鯰入 いやいや、急に文ふば箱この重いにつけて、ふと思い出いた私わしが身の罪科がござる。さて、言い兼ねましたが打開けて恥を申そう。︵と頸うなじをすくめて、頭を撫なで︶……近頃、此こな方たし衆ゅうの前ながら、館やかた、剣ヶ峰千蛇ヶ池へ――熊に乗って、黒髪を洗いに来た山女の年とし増まがござった。裸はだ身かみの色の白さに、つい、とろとろとなって、面目なや、ぬらり、くらりと鰭を滑らかいてまつわりましたが、フトお目めざ触わりとなって、われら若君、もっての外の御機嫌じゃ。――処をこの度の文づかい、泥に潜った閉門中、ただおおせつけの嬉しさに、うかうかと出て参ったが、心付けば、早や鰭の下がくすぽったい。︵とまた震う。︶
蟹五郎 かッ、かッ、かッ、︵と笑い︶御坊、おまめです。あやかりたい。
鯰入 笑われますか、情なさけない。生いの命ちとまでは無うても、鰭、尾を放て、髯ひげを抜け、とほどには、おふみに遊ばされたに相違はござるまい。……これは一いち期ごじゃ、何としょう。︵と寂しく泣く。︶
鯉、蟹、これを見て囁 き、頷 く。
鯉七 いや、御坊、無い事とも言われませぬ。昔も近江街道を通る馬ま士ごが、橋の上に立った見も知らぬ婦おんなから、十里前さきの一里塚の松の下の婦おんなへ、と手紙を一通ことづかりし事あり。途中気懸りになって、密そっとその封じ目を切って見たれば、==妹御へ、一ひとつ、この馬士の腸はらわた一組参らせ候そろ==としたためられた――何も知らずに渡そうものなら、腹を割さかるる処であったの。
鯰入 はあ、(とどうと尻餅つく。)
蟹五郎 お笑止だ。かッかッかッ。
鯉七 幸 、五郎が鋏 を持ちます……密 と封を切って、御覧が可 かろう。
鯰入 やあ、何と、……それを頼みたいばッかりに恥を曝さらした世よま迷いご言とじゃ。……嬉しや、大目に見て下さるかのう。
蟹五郎 もっとも、もっとも。
鯉七 また……(と声を密 めて)恋し床 しのお文なれば、そりゃ、われわれどもがなお見たい。
鯰入 (わななきながら、文箱を押頂き、紐を解く。)
鯉、蟹ひしと寄る。蓋 を放って斉 しく見る。
鯰入 やあ!
鯉七 ええええ。
蟹五郎 やあやあやあ!
鯰入 文箱 の中は水ばかりよ。
と云う時、さっと、清き水流れ溢 る。
鯉七 あれあれあれ、姫様 が。
はっと鯰入とともに泳ぐ形に腹ばいになる。蟹は跪ひざまずいて手を支つかう。――迫せり上あげにて――
夜叉ヶ池の白雪姫。雪なす羅うすもの、水色の地に紅くれないの焔ほのおを染めたる襲した衣がさね、黒こく漆しつに銀ぎん泥でい、鱗うろこの帯、下した締じめなし、裳もすそをすらりと、黒髪長く、丈に余る。銀しろがねの靴をはき、帯腰に玉のごとく光輝く鉄てつ杖じょうをはさみ持てり。両手にひろげし玉たま章ずさを颯さっと繰落して、地ちず摺りに取る。
右に、湯尾峠の万まん年ねん姥うば。針のごとき白しら髪が、朽くち葉ばい色ろの帷かた子びら、赤あか前まえ垂だれ。
左に、腰元、木の芽峠の奥山椿、萌もえ黄ぎの紋もん付つき、文金の高たか髷まげに緋ひの乙女椿の花を挿す。両方に手を支ついて附添う。
十五夜の月出づ。
白雪 ふみを読むのに、月の明 は、もどかしいな。
姥 御前様 、お身体 の光りで御覧ずるが可 うござります。
白雪 (下襲 を引いて、袖口の炎を翳 し、やがて読果てて恍惚 となる。)
椿 姫様 。
姥 もし、御前様 。
白雪 可なつ懐かしい、優しい、嬉しい、お床しい音たよ信りを聞いた。……姥うば、私は参るよ。
姥 たまたま麓 へお歩行 が。
椿 もうお帰り遊ばしますか。
白雪 どこへ?……(と聞返す。)
姥 お住居 へ。
白雪 何?
姥 夜叉ヶ池へでござりましょう。
白雪 あれ、お前は何を言う……私の行くのは剣ヶ峰だよ。
一同 剣ヶ峰へ、とおっしゃりますると?
白雪 聞かずと大事ないものを――千蛇ヶ池とは知れた事――このおふみの許 へさ。(と巻戻し懐中 に納めて抱 く。)
姥 (居直り)また……我儘 を仰せられます。お前様、ここに鐘 がござります。
白雪 む、(と眦 をあげて、鐘楼を屹 と見る。)
姥 お忘れはなさりますまい。山ながら、川ながら、御おん前まえ様さまが、お座をお移しなさりますれば、幾万、何千の生類の生いの命ちを絶たねばなりませぬ。剣ヶ峰千蛇ヶ池の、あの御方様とても同じ事、ここへお運びとなりますと、白山谷は湖になりますゆえ、そのために彼かな方たからも御越の儀は叶かないませぬ。――姥うばはじめ胸を痛めます。……おいとしい事なれども、是非ない事にござります。
白雪 そんな、理窟を云って……姥、お前は人間の味方かい。
姥 へへ、︵嘲あざ笑わらい︶尾のない猿ども、誰がかばいだていたしましょう。……憎ければとて、浅ましければとて、気き障ざなればとて、たとい仇かた敵きなればと申して、約束はかえられませぬ、誓を破っては相成りませぬ。
白雪 誓盟 は、誰がしたえ。
姥 御先祖代々、近くは、両、親御様まで、第一お前様に御遺言ではございませぬか。
白雪 知っています。(とつんとひぞる。)
姥 もし、お前様、その浅ましい人間でさえ、約束を堅く守って、五百年、七百年、盟ちか約いを忘れぬではござりませぬか。盟約を忘れませねばこそ、朝六つ暮六つ丑満つ、と三度の鐘を絶たやしませぬ。この鐘の鳴りますうちは、村里を水の底には沈められぬのでござります。
白雪 ええ、怨うらめしい……この鐘さえなかったら、︵と熟じっと視みて、すらりと立直り︶衆みなに、ここへ来いとお言い。
椿 ︵立って一方を呼ぶ。︶召します。姫ひい様さまが召しますよ。
鯉七 (立上がり一方を)やあ、いずれも早く。(と呼ぶ。)
眷けん属ぞくばらばらと左右に居流る。一同得えものを持てり。扮いで装たちおもいおもい、鎧よろいを着つけたるもあり、髑どく髏ろを頭かしらに頂くもあり、百鬼夜行の体ていなるべし。
虎杖 虎杖入道 。
鯖江 鯖江 ノ太郎。
鯖波 鯖波 ノ次郎。
この両個、「兄弟のもの。」と同音に名告 る。
塚 十三塚の骨寄鬼 。
蟹五郎 藪沢 のお関守は既に先刻より。
椿 そのほか、夥あま多たの道どう陸ろく神じんたち、こだますだま、魑ち魅み、魍もう魎りょう。
影法師、おなじ姿のもの夥多あり。目も鼻もなく、あたまからただ灰色の布を被 る。
影法師 影法師も交りまして。
とこの名のる時、ちらちらと遠近 に陰火燃ゆ。これよりして明滅す。
鯉七 身内の面々、一同参り合せました。
鯰入 憚 りながら法師もこれに。……
白雪 おお、遠い路を、大儀。すぐにお返事を上げましょうね、そのために皆を呼びましたよ。
姥 や、彼方 へお返事につきまして、いずれもを召しました?――仰せつけられまする儀は?
白雪 姥うば、どう思うても私は行ゆく。剣ヶ峰へ行かねばならぬ。鐘さえなくば盟ちか約いもあるまい……皆が、あの鐘、取って落して、微みじ塵んになるまで砕いておしまい。
姥 ええええ仰せなればと云うて、いずれも必ずお動きあるな。︵眼まなこを光らし、姫を瞻みつめて︶まだそのようなわやくをおっしゃる。……身うちの衆をお召出し、お言葉がござりましては、わやくが、わやくになりませぬ。天の神々、きこえも可おそ恐れじゃ。……数かずの人間の生いの命ちを断つ事、きっとおたしなみなさりませい。
白雪 人の生命のどうなろうと、それを私が知る事か!……恋には我身の生命も要らぬ。……姥、堪忍して行ゆかしておくれ。
姥 ああ、お最いと惜しい。が、なりますまい。……もう多しば年らく御辛抱なさりますと、三十年、五十年とは申しますまい。今の世は仏の末法、聖ひじりの澆ぎょ季うき、盟ちか誓いも約束も最早や忘れておりまする。やッと信仰を繋つなぎますのも、あの鐘を、鳥の啄つついた蔓つた葛かずらで釣つるしましたようなもの、鎖も絆きずなも切れますのは、まのあたりでござります。それまでお堪こらえなさりまし。
白雪 あんな気の長い事ばかり。あこがれ慕う心には、冥よみ土じの関を据えたとて、夜よのあくるのも待たりょうか。可よし、可し、衆みなが肯きかずば私が自分で。︵と気が入る。︶
椿 あれ、お姫様。
姥 これは何となされます……取棄てて大事ない鐘なら、お前様のお手は待たぬ……身内に仰せまでもない。何、唐から銅かねの八千貫、こう痩やせさらぼえた姥が腕でも、指で挟んで棄てましょうが、重いは義理でござりまするもの。
白雪 義理や掟おきては、人間の勝手ずく、我と我が身をいましめの縄よ。……鬼、畜生、夜叉、悪鬼、毒蛇と言わるる私が身に、袖とて、褄つまとて、恋路を塞ふさいで、遮る雲の一ひと重えもない!……先祖は先祖よ、親は親、お約束なり、盟ちか誓いなり、それは都合で遊ばした。人間とても年が経たてば、ないがしろにする約束を、一ひと呼い吸き早く私が破るに、何に憚はばかる事がある! ああ、恋しい人のふみを抱いて、私は心も悩乱した、姥、許して!
姥 成程、お気が乱れましたな。朝あけ六つ暮六つただ一度、今宵この丑満一つも、人間が怠れば、その時こそは瞬く間まも待ちませぬ。お前様を、この姥がおぶい申して、お靴に雲もつけますまい。人は死のうと、溺おぼれようと、峰は崩れよ、麓ふもとは埋れよ。剣ヶ峰まで、ただ一飛び。……この鐘を撞つく間うちに、盟誓をお破り遊ばすと、諸神、諸仏が即座のお祟たたり、それを何となされます!
鯉七 当国には、板いた取どり、帰かえる、九くず頭りゅ竜うの流ながれを合せて、日野川の大河。
蟹五郎 美濃の国には、名だたる揖斐 川。
姥 二個 の川の御支配遊ばす。
椿 百万石のお姫様。
姥 我ままは……
一同 相成りませぬ。
姥 お身体 。
一同 大事にござります。
白雪 ええ、煩うるさいな、お前たち。義理も仁義も心得て、長なが生いきしたくば勝手におし。……生いの命ちのために恋は棄てない。お退どき、お退き。
一同、入乱れて、遮り留とどむるを、振払い、掻かい潜くぐって、果はては真まん中なかに取とり籠こめられる。
お退きというに、え……
とじれて、鉄てつ杖じょうを抜けば、白しろ銀がねの色、月に輝き、一同は、はッと退のく。姫、するすると寄り、颯さっと石段を駈かけ上のぼり、柱に縋すがって屹きっと鐘を――
諸神、諸仏は知らぬ事、天の御ごば罰ちを蒙こうむっても、白雪の身よ、朝日影に、情なさけの水に溶くるは嬉しい。五体は粉に砕けようと、八やつ裂ざきにされようと、恋しい人を血に染めて、燃えあこがるる魂は、幽かすかな蛍の光となっても、剣ヶ峰へ飛ばいでおこうか。
と晃こう然ぜんとかざす鉄杖輝く……時に、月夜を遥はるかに、唄の声す。
==ねんねんよ、おころりよ、ねんねの守はどこへいた、山を越えて里へ行いった、里の土産に何貰うた、でんでん太鼓に笙しょうの笛==
白雪 ︵じっと聞いて、聞きき惚ほれて、火かえ焔んの袂たもとたよたよとなる。やがて石段の下を呼んで︶姥、姥、あの声は?……
姥 社 の百合でござります。
白雪 おお、美しいお百合さんか、何をしているのだろうね。
姥 恋人の晃の留守に、人形を抱きまして、心遣 りに、子守唄をうたいまする。
白雪 恋しい人と分れている時は、うたを唄えば紛れるものかえ。
姥 おおせの通りでござります。
一同 姫様 、遊ばして御覧じませぬか。
白雪 思いせまって、つい忘れた。……私がこの村を沈めたら、美しい人の生いの命ちもあるまい。鐘を撞つけば仇あだだけれども、︵と石段を静しずかに下りつつ︶この家やの二人は、嫉ねたましいが、羨うらやましい。姥、おとなしゅうして、あやかろうな。
姥 (はらはらと落涙して)お嬉しゅう存じまする。
白雪 (椿に)お前も唄うかい。
椿 はい、いろいろのを存じております。
鯉七 いや、お腰元衆、いろいろ知ったは結構だが、近ごろはやる==池の鯉よ、緋ひご鯉いよ、早く出て麩ふを食え==なぞと、馬鹿にしたようなのはお唄いなさるな、失礼千万、御機嫌を損じよう。
椿 まあ……お前さんが、身勝手な。
一同 (どっと笑う。)――
白雪 人形抱いて、私も唄おう……剣ヶ峰のおつかい。
鯰入 はあ、はあ、はッ。
白雪 お返事を上げよう……一所に――椿や、文箱 をお預り。――衆 も御苦労であった。
一同敬う。=でんでん太鼓に笙しょうの笛、起上り小こ法ぼ師しに風かざ車ぐるま==と唄うを聞きつつ、左右に分れて、おいおいに一同入る。陰火全く消ゆ。
月あかりのみ。遠くに犬吠ほえ、近く五ごい位さ鷺ぎ啼なく。
お百合、いきを切って、褄つまもはらはらと遁にげ帰り、小こ家やの内に駈かけ入いり、隠る。あとより、村長畑はた上がみ嘉かで伝ん次じ、村の有志権ごん藤どう管八、小学校教員斎田初雄、村のものともに追おっ掛かけ出づ。一方より、神官代理鹿しか見みた宅くぜ膳ん、小こり力き士し、小こが烏らす風ふろ呂す助けと、前あと後さきに村のもの五人ばかり、烏え帽ぼ子し、素すお袍う、雑ぞう式しき、仕しち丁ょうの扮いで装たちにて、一頭の真まっ黒くろき大牛を率いて出づ。牛の手綱は、小力士これを取る。
村一 内へ隠れただ、内へ隠れただ。
村二 真暗 だあ。
初雄 灯 を消したって夏の虫だに。
管八 踏込 んで引摺出 せ。
村のもの四五人、ばらばらと跳おど込りこむ。内に、あれあれと言う声。雨戸ばらばらとはずるる。
真まん中なかに屹きっとなり――左右を支えて、
百合 何をおしだ、人の内へ。
管八 人の内も我が内もあるものかい。鹿見一郡六ヶ村。
初雄 焼土 になろう、野原に焦 げようという場合であるです。
宅膳 ︵ずっと出で︶こりゃ、お百合、見苦しい、何をざわつく。唯ただ今いまも、途中で言聞かした通りじゃ。汝きさまに白羽の矢が立ったで、否いや応おうはないわ。六ヶ村の水切れじゃ。米ならば五万石、八千人のために、雨あま乞ごいの犠に牲えになりましょう! 小こど児ものうちから知ってもおろうが、絶体絶命の旱ひでりの時には、村第一の美女を取って裸はだ体かに剥むき……
百合 ええ。(と震える。)
宅膳 黒牛の背に、鞍くら置かず、荒縄に縛いましめる。や、もっとも神妙に覚悟して乗って行ゆけば縛るには及ばんてさ。……すなわち、草を分けて山の腹に引上せ、夜叉ヶ池の竜神に、この犠いけ牲にえを奉るじゃ。が、生いの命ちは取らぬ。さるかわり、背に裸はだ身かみの美女を乗せたまま、池のほとりで牛を屠ほふって、角ある頭こうべと、尾を添えて、これを供える。……肉は取って、村一同冷ひや酒ざけを飲んで啖くらえば、一天たちまち墨を流して、三日の雨が降ふり灌そそぐ。田も畠はたも蘇よみ生がえるとあるわい。昔から一度もその験しるしのない事はない。お百合、それだけの事じゃ。我慢して、村長閣下の前につけても御奉公申上げい。さあ、立とう、立ちましょう。
百合 叔父さん、何にも申しません、どうぞ、あの、晃さん、旦那様のお帰りまでお待ちなすって下さいまし。もし、皆さん、堪忍して下さいまし。……手を合せて拝みます。そ、そんな事が、まあ、私に……
管八 何だとう?
初雄 貴女 、お百合さん、何ですか。
百合 叔父さん、後生でございます……晃さんの帰りますまで。
宅膳 またしても旦那様じゃ。晃、晃と呆あきれた奴やつめが。これ、潮うしおの満みち干ひ、月の数……今日の今夜の丑うし満みつは過されぬ。立ちましょう、立ちましょう。
管八 言うことを肯 かんと縛 り上げるぞ。
嘉伝次 村、郡こおりのためじゃ、是非がない。これ、はい、気の毒なものじゃわい。
管八 お神官 、こりゃいかんでえ?
宅膳 引立 てて可 うござる。
管八 来い、それ。
と村のもの取込むる。百合遁 げ迷う。
風呂助 埒 あかんのう。私 にまかせたが可うござんす。
とのさばり掛 り、手もなく抱 すくめて掴 み行く。仕丁 手伝い、牛の背に仰 けざまに置く。
百合 ああれ。(と悶 ゆる。)
胴にまわし、ぐるぐると縄を捲まく。お百合背せなを捻ねじて面おもてを伏す。黒髪颯さっと乱れて長く牛の鰭ひづ爪めに落つ。
嘉伝次 宅膳どん、こりゃ、きものを着ていて可 いかい。
宅膳 はあ、いずれ、社やしろの森へ参って、式のごとく本支度に及びまするて。社務所には、既に、近頃このあたりの大地主になれらましたる代議士閣下をはじめ、お歴々衆、村民一同の事をお憂きづ慮かいなされて、雨あま乞ごいの模様を御見物にお揃いでござりますてな。
嘉伝次 その事じゃっけね。
初雄 皆、急ぐです。
管八 諸君努力せよかね、はははは。
一同、どやどやと行 きかかる。
晃 ︵衝つと来り、前ゆく途てに立って、屹きっと見るより、仕丁を左右へ払いのけ、はた、と睨にらんで、牛の鼻はな頭づらを取って向け、手たづ縄なを、ぐい、と緊しめて、ずかずか我家の前。腰なる鎌を抜くや否や、無言のまま、お百合のいましめの縄をふッと切る。︶
百合 ︵一目見て︶おお晃さん、︵ところげ落ち、晃のうしろに身をかくして、帯の腰に取とり縋すがり︶旦那様、いい処へ。貴あな下た。どうして、まあ、よく、まあ、早う帰って下さいました、ねえ。
晃 ︵百合を背うし後ろに庇かばい、利とが鎌まを逆さか手てに、大勢を睨ねめつけながら、落着いたる声にて︶ああ、夜叉ヶ池へ――山やま路みち、三の一ばかり上った処で、峰裏幽かすかに、遠く池ある処と思うあたりで、小こど児もをあやす、守唄の声が聞えた。……唄の声がこの月に、白しら玉たまの露を繋つないで、蓬おどろの草も綾あやを織って、目に蒼あおく映ったと思え。……伴つ侶れが非常に感に打たれた。――山沢には三みッ歳つになる小児がある。……里心が出て堪えられん。月の夜よみ路ちに深みや山ま路じかけて、知らない他国にうことはまた、来る年の首かど途でにしよう。帰り風が颯さっと吹く、と身から体だも寒くなったと云う。私もしきりに胸騒ぎがする。すぐに引ひっ返かえして帰ったんだよ。︵と穏おだやかに、百合に向って言い果てると、すッと立って、瓢ひさごを逆さかさに、月を仰いで、ごッと飲む。︶
百合、のび上って、晃が紐ひもを押え頸くびに掛けたる小おが笠さを取り、瓢を引く。晃はなすを、受け取って框かまちにおく。すぐに、鎌を取ろうとする。晃、手を振って放さず、お百合、しかとその晃の鎌を持つ手に縋りいる。
晃 帰れ、君たちア何をしている。
初雄 更あらためて断るですがね、君、お気の毒だけれども、もう、村を立去ってくれたまえ。
晃 俺をこの村に置かんと云うのか。
初雄 しかりです。――御承知でもあるでしょう、また御承知がなければ、恐らく白ば痴かと言わんけりゃならんですが、この旱ひでりです、旱かん魃ばつです。……一滴の雨といえども、千金、むしろ万金の場合にですな。君が迷信さるる処のその鐘つりがねはです。一度でも鳴らさない時はすなわちその、村が湖になると云うです。湖になる……結構ですな。望む処である、です、から、して、からに、そのすなわちです。今夜からしてお撞つきなさらない事にしたいのです。鐘を撞かん事になってみる日になってみると、いたしてから、その、鐘を撞くための君はですな、名は権助と云うかどうかは分からんですが、ええん!
村二三 ひやひや。(と云う。)
村四五 撞木野郎 、丸太棒 。(と怒鳴る。)
初雄 えへん、君はこの村において、肥こや料しの糟かすにもならない、更に、あえて、しかしてその、いささかも用のない人です。故にです、故にですな、我々一統が、鐘を、お撞きになるのを、お断りを、しますと同時に、村を、お立ち去りの事を宣告するのであるです。
村二三 そうだ、そうだとも。
晃 望む処だ。……鐘を守るとも守るまいとも、勝手にしろと言わるるから、俺には約束がある……義に依よって守っていたんだ。鳴らすなと言うに、誰がすき好んで鐘を撞くか。勿論、即時にここを去る。
村四五 出て行 け、出て行け。(と異口同音 。)
晃 お百合行ゆこう。――︵そのいそいそ見繕いするを見て︶支度が要るか、跣はだ足しで来い。茨いばらの路は負おぶって通る。︵と手を引く。︶
お百合その袖に庇かばわれて、大勢の前を行ゆく。――忍んで様子を見たる、学円、この時密そっとその姿を顕あらわす。
管八 (悪く沈んだ声して)おいおい、おい待て。
晃 (構わず、つかつかと行く。)
管八 待て、こら!
晃 何だ。(と衝 と返す。)
管八 汝 、村のものは置いて行 け。
晃 塵 ひとっ葉 も持っちゃ行かんよ。
管八 その婦 は村のものだ。一所に連れて行 く事は出来ないのだ。
晃 いや、この百合は俺の家内だ。
嘉伝次 黙りなさい。村のものじゃわい。
晃 どこのものでも差支えん、百合は来たいから一所に来る……留とどまりたければ留るんだ。それ見ろ、萩原に縋すがって離れやせん。︵微笑して︶置いて行ゆけば百合は死のう……人は、心のままに活いきねばならない。お前たちどもに分るものか。さあ、行ゆこう。
宅膳 ︵のしと進み︶これこれ若いもの、無分別はためにならんぞ。……私わしが姪めいは、ただこの村のものばかりではない。一郡六ヶ村、八千の人の生いの命ちじゃ、雨あま乞ごいの犠に牲えにしてな。それじゃに、……その犠牲の女を連れて行ゆくのは、八千の人の生命を、お主ぬしが奪取って行ゆくも同然。百合を置いて行ゆかん事には、ここは一足も通されんわ。百合は八千の人の生命じゃが。……さあ、どうじゃい。
学円 しばらく、︵声を掛け、お百合を中に晃と立並ぶ。︶その返答は、萩原からはしにくかろう。代って私わしが言う。――いかにも、お百合さんは村の生せい命めいじゃ。それなればこそ、華かち冑ゅうの公子、三男ではあるが、伯爵の萩原が、ただ、一人の美しさのために、一代鐘を守るではないか――既に、この人を手て籠ごめにして、牛の背に縄目の恥ちじ辱ょくを与えた諸君に、論は無益と思うけれども、衆人環めぐり視みる中において、淑女の衣ころもを奪うて、月夜を引廻すに到っては、主、親を殺した五逆罪の極悪人を罪するにも、洋の東西にいまだかつてためしを聞かんぞ!
そりゃあるいは雨も降ろう、黒くろ雲くもも湧わき起ろうが、それは、惨さん憺たんたる黒牛の背の犠ぎせ牲いを見るに忍びないで、天道が泣かるるのじゃ。月が面おもてを蔽おおうのじゃ。天を泣かせ、光を隠して、それで諸君は活いきらるるか。稲は活きても人は餓うえる、水は湧いても人は渇かつえる。……無法な事を仕しい出だして、諸君が萩原夫婦を追うて、鐘を撞つく約束を怠って、万一、地つちが泥海になったらどうする! 六ヶ村八千と言わるるか、その多くの生命は、諸君が自ら失うのじゃ。同じ迷信と言うなら言え。夫婦仲なか睦むつまじく、一生埋うも木れぎとなるまでも、鐘しょ楼うろうを守るにおいては、自分も心を傷きずつけず、何等世間に害がない。
管八 黙れ、煩 い。汝 が勝手な事を言うな。
初雄 一体君は何ものですか。
学円 私 か、私は萩原の親友じゃ。
宅膳 藪 から坊主が何を吐 す。
学円 いかにも坊主じゃ、本願寺派の坊主で、そして、文学士、京都大学の教授じゃ。山沢学円と云うものです。名な告のるのも恥入りますが、この国は真宗門徒信仰の淵えん源げん地ちじゃ。諸君のなかには同じ宗門のよしみで、同情を下さる方もあろうかと思うて云います。︵教員に︶君は学校の先生か、同おな一じ教育家じゃ。他人でない、扱うてくれたまえ。︵神かん官ぬしに︶貴あな方たも教えの道は御親類。︵村長に︶村長さんの声名にもお縋り申す。……︵力士に︶な、天下の力士は侠きょ客うかくじゃ、男おと立こだてと見受けました。……何分願います、雨乞の犠牲はお許しを頼む。
これがために一同しばらくためらう。……代議士穴隈 鉱蔵、葉巻をくゆらしながら、悠々と出づ。
鉱蔵 其そい奴つ等ら騙かた賊りじゃ。また、騙賊でのうても、華族が何だ、学者が何だ、糧かてをどうする!……命をどうする?……万事俺が引受けた。遣やれ、汝きさ等まら、裸にしようが、骨を抜こうが、女めろ郎う一人と、八千の民、誰たれか鼎かなえの軽けい重ちょうを論ぜんやじゃ。雨乞を断行せい。
力士真先 に、一同ばらりと立懸 る。
学円 私 を縛 れ、(と上衣 を脱ぎ棄て)かほど云うても肯入 れないなら止 むを得ん、私 を縛れ、牛にのせい。
晃 ︵からりと鎌を棄て︶いや、身代りなら俺を縛れ。さあ、八やつ裂ざきにしろ、俺は辞せん。――牛に乗せて夜叉ヶ池に連れて行ゆけ。犠に牲えによって、降らせる雨なら、俺が竜神に談判してやる。
百合 あれ、晃さん、お客様、私が行きます、私を遣って下さいまし。
晃 ならん、生いの命ちに掛けても女房は売らん、竜神が何だ、八千人がどうしたと! 神にも仏にも恋は売らん。お前が得心で、納得して、好んですると云っても留めるんだ。
鉱蔵 ︵ふわふわと軽く詰め寄り、コツコツと杖を叩いて︶血迷うな! たわけも可いい加減にしろ、女も女だ。湯屋へはどうして入る?……うむ、馬鹿が!︵と高笑いして︶君たち、おい、いやしくも国のためには、妻子を刺さし殺ころして、戦争に出るというが、男児たるものの本分じゃ。且つ我が国の精神じゃ、すなわち武士道じゃ。人を救い、村を救うは、国家のために尽つくすのじゃ。我が国のために尽すのじゃ。国のために尽すのに、一晩媽かか々あを牛にのせるのが、さほどまで情なさけないか。洟はな垂ったらしが、俺は料りょ簡うけんが広いから可いいが、気の早いものは国賊だと思うぞ、汝きさま。俺なぞは、鉱蔵は、村はもとよりここに居るただこの人じん民みん蒼そう生せいのためというにも、何なん時どきでも生命を棄てるぞ。
時に村人は敬礼し、村長は頤 を撫 で、有志は得意を表す。
晃 死ね!(と云うまま落したる利鎌 を取ってきっと突 つく。)
鉱蔵 わあ。(と思わず退 る。)
晃 死ね、死ね、死ね、民のために汝きさま死ね。見事に死んだら、俺も死んで、それから百合を渡してやる。死ね、死しなないか。
とじりりと寄るたび、鉱蔵ひょこひょこと退る。お百合、晃の手に取縋ると、縋られた手を震わしながら、
し、しからずんば決闘せい。
一同その詰寄るを、わッわと遮り留 む。
傍そばへ寄るな、口が臭いや、こいつらも! 汝きさ等まらは、その成なり金きんに買われたな。これ、昔も同じ事があった。白雪、白雪という、この里の処女だ。権勢と迫害で、可い厭やがるものを無理に捉とらえて、裸はだ体かを牛に縛いましめて、夜叉ヶ池へ追上せた。……処女は、口く惜やしさ、恥かしさ、無念さに、生きて里へ帰るまい。其そな方たも、……其方も……追っては屠ほふらるる。同じ生いの命ちを、我に与えよ、と鼻はな頭づらを撫でて牛に言い含め、終よも夜すがら芝を刈りためたを、その牛の背に山に積んで、石を合せて火を放つと、鞭むちを当てるまでもない。白い手を挙げ、衝つとさして、麓ふもとの里を教うるや否や、牛は雷いかずちのごとく舞まい下さがって、片かた端っぱしから村を焼いた。……麓にぱっと塵ちりのような赤い焔ほのおが立つのを見て、笑えみを含んで、白雪は夜叉ヶ池に身を沈めたというのを聞かぬか。忘れたか。汝等。おれたちに指でも指してみろ、雨は降らいで、鹿見村は焔になろう。不ふら埒ちな奴等だ。
鉱蔵 世よま迷いご言とを饒しゃ舌べるな二才。村は今既に旱ひでりの焔に焼けておる。それがために雨乞するのじゃ。やあ衆みんな、手ぬるい、遣れ遣れ。︵いずれも猶予するを見て︶埒らち明あかんな、伝吉ども来い。︵と喚わめく。︶
博徒伝吉、威 の長ドスをひらめかし、乾児 、得ものを振って出づ。
伝吉 畳んでしまえ、畳んでしまえ。
乾児 合点 だ。
晃 山沢、危いぞ。
とお百合を抱くようにして三人鐘しょ楼うろうに駈かけ上あがる。学円は奥に、上り口に晃、お百合、と互に楯たてにならんと争う。やがて押おし退のけて、晃、すっくと立ち、鎌を翳かざす。博徒、衆ともに下より取巻く。お百合、振上げたる晃の手に縋すがる。
一同 遣れ遣れ、遣っちまえ、遣っちまえ。
学円 言語道断、いまだかつて、かかる、頑がん冥めい暴ぼう虐ぎゃくの民を知らん! 天に、――天に銀河白し、滝となって、落ちて来い。︵合掌す。︶
晃 大事な身体 だ、山沢は遁 げい、遁げい。
と呼ばわりながら、真まっ前さきに石段を上れる伝吉と、二ふた打うち三みう打ち、稲妻のごとく、チャリリと合す。
伝吉退く。時に礫 をなげうつものあり。
晃 (額に傷 き血を圧 えて)あッ。(と鎌を取落す。)
百合 ︵サソクにその鎌を拾い︶皆さん、私が死にます、言いい分ぶんはござんすまい。︵と云うより早く胸さきを、かッしと切る。︶
晃 しまった!(と鎌を捩取 る。)
百合 晃さん――御無事で――晃さん。(とがっくり落入る。)
一同色沮 みて茫然 たり。
晃 一人は遣らん! 茨いばらの道は負おぶって通る。冥めい土どで待てよ。︵と立直る。お百合を抱いだける、学円と面おもてを見合せ︶何時だ。︵と極めて冷静に聞く。︶
学円 (沈着に時計を透かして)二時三分。
晃 むむ、夜よごとに見れば星でも了わかる……ちょうど丑うし満みつ……そうだろう。︵と昂こう然ぜんとして鐘を凝視し︶山沢、僕はこの鐘を搗つくまいと思う。どうだ。
学円 (沈思の後)うむ、打つな、お百合さんのために、打つな。
晃 (鎌を上げ、はた、と切る。どうと撞木 落つ。)
途端にもの凄すさまじき響きあり。――地震だ。――山やま鳴なりだ。――夜叉ヶ池の上を見い。夜叉ヶ池の上を見い。夜叉ヶ池の上を見い。真まっ暗くらな雲が出た、――と叫び呼よばわる程こそあれ、閃せん電でん来り、瞬く間も歇やまず。衆は立つ足もなくあわて惑う、牛あれて一蹴けりに駈かけ散らして飛び行ゆく。
鉱蔵 鐘を、鐘を――
嘉伝次 助けて下され、鐘を撞 いて下されのう。
宅膳 救わせたまえ。助けたまえ。
と逃げまわりつつ、絶叫す。天地晦かい冥めい。よろぼい上るもの二三人石段に這はいかかる。
晃、切払い、追い落し、冷々然として、峰の方かたに向って、学円と二人彫像のごとく立ちつつあり。
晃 波だ。
と云う時、学円ハタと俯うつ伏ぶしになると同時に、晃、咽の喉どを斬きって、うつぶし倒る。
白雪。一ひと際きわ烈はげしきひかりものの中うちに、一たび、小屋の屋根に立たち顕あらわれ、たちまち真まっ暗くらに消ゆ。再び凄すさまじじき電いなびかりに、鐘楼に来り、すっくと立ち、鉄てつ杖じょうを丁ちょうと振って、下より空さまに、鐘に手を掛く。鐘ゆらゆらとなって傾く。
村一同昏こん迷めいし、惑乱するや、万まん年ねん姥うば、諸しょ眷けん属ぞくとともに立ちかかって、一人も余さず尽ことごとく屠ほふり殺す。――
白雪 姥 、嬉しいな。
一同 お姫様。(と諸声 凄 し。)
白雪 人間は?
姥 皆、魚うおに。早や泳いでおります。田たに螺し、鰌どじょうも見えまする。
一同 (哄 と笑う)ははははははは。
白雪 この新しい鐘ヶ淵ふちは、御夫婦の住すま居いにしょう。皆おいで。私は剣ヶ峰へ行ゆくよ。……もうゆきかよいは思いのまま。お百合さん、お百合さん、一所に唄をうたいましょうね。
たちまちまた暗し。既にして巨きょ鐘しょう水にあり。晃、お百合と二人、晃は、竜りゅ頭うずに頬ほお杖づえつき、お百合は下に、水に裳もすそをひいて、うしろに反らして手を支き、打仰いで、熟じっと顔を見合せ莞にっ爾こりと笑む。
時に月の光煌こう々こうたり。
学円、高く一人鐘しょ楼うろうに佇たたずみ、水に臨んで、一いち揖ゆうし、合掌す。
月いよいよ明あきらかなり。
(――幕)
大正二(一九一三)年三月