一
﹁旦だん那なさん、旦那さん。﹂
目と鼻の前さきに居ながら、大きな声で女中が呼ぶのに、つい箸はしの手をとめた痩やせ形がたの、年配で――浴衣に貸かし広どて袖らを重ねたが――人品のいい客が、
﹁ああ、何だい。﹂
﹁どうだね、おいしいかね。﹂
と額で顔を見て、その女中はきょろりとしている。
客は余り唐だし突ぬけなのに驚いたようだった。――少い経験にしろ、数の場合にしろ、旅はた籠ごでも料理屋でも、給仕についたものから、こんな素朴な、実直な、しかも要するに猪ちょ突とつな質問を受けた事はかつてない。
ところで決して不ま味ずくはないから、
﹁ああ、おいしいよ。﹂
と言ってまた箸はしを付けた。
﹁そりゃ可いい、北ほっ国こく一だろ。﹂
と洒しゃ落れでもないようで、納まった真顔である。
﹁むむ、……まあ、そうでもないがね。﹂
と今度は客の方で顔を見た。目鼻立は十人並……と言うが人間並で、色が赤黒く、いかにも壮じょ健うぶそうで、口くち許もとのしまったは可いいが、その唇の少し尖とがった処が、化ばけ損そこなった狐のようで、しかし不気味でなくて愛あい嬌きょうがある。手てお織りじ縞まのごつごつした布ぬの子こに、よれよれの半襟で、唐とう縮ちり緬めんの帯を不ぶざ状まに鳩胸に高くしめて、髪はつい通りの束髪に結っている。
これを更あらためて見て客は気がついた。先さっ刻きも一度その︵北国一︶を大声で称となえて、裾すそ短みじかな脛すねを太く、臀しりを振って、ひょいと踊るように次の室まの入口を隔てた古い金きん屏びょ風うぶの陰へ飛出して行ったのがこの女中らしい。
ところでその金屏風の絵が、極彩色の狩かの野うの何なに某がし在銘で、玄宗皇帝が同じ榻い子すに、楊よう貴き妃ひともたれ合って、笛を吹いている処だから余よっ程ぽど可お笑かしい。
それは次のような場合であった。
客が、加賀国山やま代しろ温泉のこの近おう江み屋やへ着いたのは、当日午ひる少し下る頃だった。玄関へ立つと、面長で、柔やわ和らかなちっとも気きど取りっけのない四十ぐらいな――後で聞くと主人だそうで――質素な男が出迎えて、揉もみ手でをしながら、御ごと逗うり留ゅうか、それともちょっと御入浴で、と訊きいた時、客が、一晩お世話に、と言うのを、腰を屈かがめつつ畏かしこまって、どうぞこれへと、自分で荷物を捌さばいて、案内をしたのがこの奥の上段の間で。次の室まが二つまで着いている。あいにく宅は普請中でございますので、何かと不ふゆ行きと届どきの儀は御容赦下さいまして、まず御ごゆ緩っくりと……と丁寧に挨あい拶さつをして立つと、そこへ茶を運んで来たのが、いま思うとこの女中らしい。
実は小こは春る日びの明あかるい街道から、衝つと入ったのでは、人顔も容よう子すも何も分らない。縁を広く、張出しを深く取った、古風で落着いただけに、十畳へ敷詰めた絨じゅ毯うたんの模様も、谷へ落葉を積んだように見えて薄暗い。大きな床の間の三さん幅ぷく対ついも、濃い霧の中に、山が遥はるかに、船もあり、朦もう朧ろうとして小さな仙人の影が映さすばかりで、何の景色だか、これは燈あかりが点ついても判はっ然きり分らなかったくらいである。が、庭は赤土に薄日がさして、塔形の高い石いし燈どう籠ろうに、苔こけの真まっ蒼さおなさびがある。ここに一樹、思うままの松の枝ぶりが、飛石に影を沈めて、颯さっと渡る風に静寂な水の響ひびきを流す。庭の正面がすぐに切きっ立たての崖で、ありのままの雑木林に萩つつじの株、もみじを交ぜて、片隅なる山笹の中を、細く蜿うねり蜿り自然の大おお巌いわを削った径こみちが通じて、高く梢こずえを上あがった処に、建出しの二階、三階。はなれ家の座敷があって、廊下が桟かけはしのように覗のぞかれる。そのあたりからもみじ葉越しに、駒こま鳥どりの囀さえずるような、芸げい妓しゃらしい女の声がしたのであったが――
入いれ交かわって、歯を染めた、陰気な大年増が襖ふす際まぎわへ来て、瓶びん掛かけに炭を継いで、茶道具を揃えて銀瓶を掛けた。そこが水屋のように出来ていて、それから大廊下へ出入口に立てたのが件くだんの金屏風。すなわち玄宗と楊貴妃で、銀瓶は可いいけれども。……次にまた浴衣に広どて袖らをかさねて持って出た婦おんなは、と見ると、赭あから顔で、太だい々だいとした乳おん母ばどんで、大縞のねんね子半ばん纏てんで四つぐらいな男の児こを負おぶったのが、どしりと絨毯に坊主枕ほどの膝をつくと、半纏の肩から小こど児もの顔を客の方へ揉もみ出だして、それ、小お父じさんに︵今日は︶をなさいと、顔と一所に引ひっ傾かたげた。
学士が驚いた――客は京の某大学の仏ふつ語ごの教授で、榊さかき三吉と云う学者なのだが、無心の小児に向っては、盗賊もあやすと言う……教授でも学者でも同じ事で、これには莞に爾こ々に々ことして、はい、今日は、と言った。この調子で、薄暗い広間へ、思いのほかのものが顕あらわれるから女中も一々どれが何だか、一向にまとまりが着かなかったのである。
昼ひ飯るの支度は、この乳う母ばどのに誂あつらえて、それから浴室へ下りて一ひと浴あみした。……成程、屋の内は大普請らしい。大工左官がそちこちを、真まっ昼ぴる間まの夜よう討ちのように働く。……ちょうな、鋸のこぎり、鉄かな鎚づちの賑にぎやかな音。――また遠く離れて、トントントントンと俎まないたを打つのが、ひっそりと聞えて谺こだまする……と御ごち馳そ走うに鶫つぐみをたたくな、とさもしい話だが、四高︵金沢︶にしばらく居たことがあって、土地の時のものに予備知識のある学者だから、内々御馳走を期待しながら、門から敷石を細長く引込んだもとの大玄関を横に抜けて、広廊下を渡ると、一段ぐっと高く上る。座敷の入口に、いかにも︵上段の間︶と札に記してある。で、金屏風の背うし後ろから謹んで座敷へ帰ったが、上段の室まの客にはちと不釣合な形に、脇きょ息うそくを横倒しに枕して、ごろんとながくなると、瓶掛の火が、もみじを焚たいたように赫かッと赤く、銀瓶の湯気が、すらすらと楊貴妃を霞ませる。枕もとに松しょ籟うらいをきいて、しばらく理窟も学問もなくなった。が、ふと、昼ひ飯るの膳ぜんに、一ひと銚ちょ子うし添えさせるのを言忘れたのに心づいて、そこで起たち上あがった。
どこを探しても呼よび鈴りんが見当らない。
二三度手を敲たたいてみたが――これは初めから成算がなかった。勝手が大だい分ぶに遠い。座敷の口へ出て、敲いて、敲きながら廊下をまた一段下りた。
﹁これは驚いた。﹂
更に応ずるものがなかったのである。
一体、山代の温泉のこの近江屋は、大まかで、もの事おっとりして、いま式に余り商売にあせらない旅館だと聞いて、甚だ嬉しくて来たのであるが、これでは余り大まか過ぎる。
何か、茸きのこに酔った坊さんが、山奥から里へ迷出たといった形で、手をたたき、たたき、例の玄関の処へ出て、これなら聞えようと、また手を敲こうとする足あし許もとへ、衝つい立たての陰から、ちょろりと出たのは、今しがた乳母どのにおぶわれていた男の児で、人なつッこく顔を見て莞に爾こ々に々こする。
どうも、この鼻はな尖さきで、ポンポンは穏おだやかでない。
仕方なしに、笑って見せて、悄すご々すごと座敷へ戻って、
﹁あきらめろ。﹂
で、所在なさに、金屏風の前へ畏かしこまって、吸きゅ子うすに銀瓶の湯を注ついで、茶でも一杯と思った時、あの小こど児もにしてはと思う、大おおきな跫あし足おとが響いたので、顔を出して、むこうを見ると、小児と一所に、玄関前で、ひょいひょい跳ねている女があった。
﹁おおい、姉さん、姉さん。﹂
どかどかどかと来て、
﹁旦那さんか、呼んだか。﹂
﹁ああ、呼んだよ。﹂
と息を吐ついて、
﹁どうにかしてくれ。――どこを探しても呼鈴はなし、手をたたいても聞えないし、――弱ったよ。﹂
﹁あれ。﹂
と首も肩も、客を圧して、突込むように入って来て、
﹁こんな大でけい内で、手を敲いたって何が聞えるかね。電話があるでねえか、それでお帳場を呼びなさいよ。﹂
﹁どこにある。﹂
﹁そら、そこにあるがね、見えねえかね。﹂
と客の前から、いきなり座敷へ飛込んで、突つっ立たち状ざまに指ゆびさしたのは、床の間傍わきの、子れんじに据えた黒こく檀たんの机の上の立派な卓上電話であった。
﹁ああ、それかい。﹂
﹁これだあね。﹂
﹁私はまたほんとうの電話かと思っていた。﹂
﹁おお。﹂
と目を円くして、きょろりと視みて、
﹁ほんとの電話ですがね。どこか間違ったとこでもあるのかよ。﹂
﹁いや、相済まん、……間違ったのは私の方だ。――成程これで呼ぶんだな。――分りました。﹂
﹁立派な仕しか掛けだろがねえ。﹂
﹁立派な仕掛だ。﹂
﹁北国一だろ。﹂
――それ、そこで言って、ひょいひょい浮うき足あしで出て行ゆく処を、背うし後ろから呼んで、一銚子を誂えた。
﹁可いいのを頼むよ。﹂
と追掛けに言うと、
﹁分った、分った。﹂
と振り向いて合がっ点てん々々をして、
﹁北国一。﹂
と屏風の陰で腰を振って、ひょいと出た。――その北国一を、ここでまた聞いたのであった。
二
﹁まあ、御飯をかえなさいよ。﹂
﹁ああ……御飯もいまかえようが……﹂
さて客は、いまので話の口が解ほどけたと思うらしい面おも色もちして、中休みに猪ちょ口くの酒を一口した。……
﹁……姐ねえさん、ここの前を右へ出て、大おおきな絵はがき屋だの、小料理屋だの、賑にぎやかな処を通り抜けると、旧街道のようで、町まち家やの揃った処がある。あれはどこへ行ゆく道だね。﹂
﹁それはね、旦那さん、那な谷やから片かた山やま津づの方へ行く道だよ。﹂
﹁そうか――そこの中ほどに、さきが古道具屋と、手前が桐とう油ゆ菅すげ笠がさ屋やの間に、ちょっとした紙屋があるね。雑貨も商っている……あれは何と言う家うちだい。﹂
﹁白おし粉ろいや香水も売っていて、鑵かん詰づめだの、石鹸箱はぴかぴかするけど、じめじめとした、陰気な、あれかあね。﹂
﹁全くだ、陰気な内だ。﹂
と言って客は考えた。
﹁それは、旦那さん――あ、あ、あ、何屋とか言ったがね、忘れたよ。口まで出るけども。﹂
と給仕盆を鞠まりのように、とんとんと膝を揺ゆすって、
﹁治じ兵へ衛え坊ぼう主ずの家ですだよ。﹂
﹁串じょ戯うだんではない。紙屋で治兵衛は洒落ではないのか。﹂
﹁何、人が皆そう言うでね。本当の名だか何だか知らないけど、治兵衛坊主で直じきと分るよ。旦那さん、知っていなさるのかね、あの家を。﹂
客は、これより前さき、ちょっと買ものに出たのであった。――実は旅の事欠けに、半紙に不自由をしたので、帳場へ通じて取寄せようか、買いに遣やろうかとも思ったが、式かたのごとき大まかさの、のんびりさの旅館であるから、北国一の電話で、呼寄せていいつけて、買いに遣って取寄せる隙ひまに、自分で買って来る方が手てっ取とり早ばやい。……膳の来るにも間があろう。そう思ったので帽子も被かぶらないで、黙だんまりで、ふいと出た。
直き町の角の煙たば草こ屋やも見たし、絵葉がき屋も覗のぞいたが、どうもその類のものが見当らない。小半町行ゆき、一町行き……山の温いで泉ゆの町がかりの珍しさに、古道具屋の前に立ったり、松茸の香を聞いたり、やがて一軒見附けたのが、その陰気な雑貨店であった。浅い店で、横口の奥が山のかぶさったように暗い。並べた巻紙の上うわ包づつみの色も褪あせたが、ともしく重ねた半紙は戸棚の中に白かった。﹁御免なさいよ、今日は、﹂と二三度声を掛けたが返事をしない。しかしこんな事は、金沢の目めぬ貫きの町の商店でも、経験のある人だから、気きみ短じかにそのままにしないで、﹁誰か居ませんか、﹂と、もう一度呼ぶと、﹁はい、﹂とその時、媚なまめかしい優しい声がして、﹁はい、﹂と、すぐに重ね返事が、どうやら勢いきおいがなく、弱々しく聞えたと思うと、挙こな動しは早く褄つまを軽く急いだが、裾すそをはらりと、長なが襦じゅ袢ばんの艶えんなのが、すらすらと横歩きして、半襟も、色白な横顔も、少し俯うつ向むけるように、納戸から出て来たのが、ぱっと明るみへ立つと、肩から袖が悄しおれて見えて、温室のそれとは違って、冷い穴蔵から引出しでもしたようだった、その顔を背けたまま、﹁はい、何を差上げます。﹂と言う声が沈んで、泣いていたらしい片一方の目を、俯向けに、紅べに入いり友ゆう染ぜんの裏が浅あさ葱ぎの袖口で、ひったり圧おさえた。
中脊で、もの柔かな女の、房ふっさり結った島田が縺もつれて、おっとりした下ぶくれの頬にかかったのも、もの可あわ哀れで気の毒であった。が、用を言うと、﹁はい、﹂と背うし後ろむきに、戸棚へ立った時は、目を圧えた手を離して、すらりとなったが、半紙を抽ひき出だして、立返る頭か髪みも量おもそうに褄さきの運びとともに、またうなだれて、堪兼ねた涙が、白く咲いた山さざ茶ん花かに霜の白おし粉ろいの溶けるばかり、はらはらと落つるのを、うっかり紙にうけて、……はっと思ったらしい。……その拍子に、顔をかくすと、なお濡れた。
うっかり渡そうとして、﹁まあ、﹂と気づいたらしく、﹁あれ、取換えますから、﹂――﹁いや、宜よろしい。……﹂
懐ふと中ころへ取って、ずっと出た。が、店を立離れてから、思うと、あの、しおらしい女の涙ならば、この袂たもとに受けよう。口紅の色は残らぬが、瞳の影とともに玉を包んだ半紙はここにある。――ちょっとは返事をしなかったのもそのせいだろう。不思議な処へ行合せた、と思ううちに、いや、しかし、白い山茶花のその花はな片びらに、日の片あたりが淡くさすように、目が腫はれぼったく、殊に圧えた方の瞼まぶたの赤かったのは、煩らっているのかも知れない。あるいは急に埃ほこりなどが飛込んだ場合で、その痛みに泣いていたのかも分らない。――そうでなくて、いかに悲痛な折からでも、若い女が商いに出てまで、客の前で紙を絞るほど涙を流すのはちと情に過ぎる。大方は目の煩いだろう。
トラホームなぞだと困る、と、その涙をとにかく内側へ深く折込んだ、が。――やがて近江屋へ帰って、敷石を奥へ入ると、酒の空あき樽だる、漬もの桶おけなどがはみ出した、物置の戸口に、石屋が居て、コトコトと石を切る音が、先刻期待した小鳥の骨を敲たたくのと同一であった。
﹁――涙もこれだ。﹂
と教授は思わず苦笑して、
﹁しかし、その方が僥しあ倖わせだ。……﹂
今度は座敷に入って、まだ坐るか坐らないに、金屏風の上から、ひょいと顔が出て、﹁腹おなかが空いたろがね。﹂と言うと、つかつかと、入って来たのが、ここに居るこの女中で。小脇に威勢よく引ひっ抱かかえた黒くろ塗ぬりの飯めし櫃びつを、客の膝の前へストンと置くと、一ひと歩あしすさったままで、突つっ立たって、熟じっと顔を瞰みお下ろすから、この時も吃びっ驚くりした目を遣ると、両手を引込めた布子の袖を、上下に、ひょこひょことゆさぶりながら、﹁給仕をするかね、﹂と言ったのである。
教授はあきらめて落着いて、
﹁おいおいどうしてくれるんだ――給仕にも何にもまだ膳が来ないではないか。﹂
﹁あッそうだ。﹂
と慌てて片足を挙げたと思うと、下して片足をまた上げたり、下げたり。
﹁腹が空いたろで、早くお飯まんまを食わせようと思うたでね。急せいたわいな、旦那さん。﹂
と、そのまま跳はね廻まわったかと思うと。
﹁北国一だ。﹂
と投げるように駈かけ出した。
酒は手酌が習く慣せだと言って、やっと御免を蒙こうむったが、はじめて落着いて、酒量の少い人物の、一銚子を、静しずかに、やがて傾けた頃、屏風の陰から、うかがいうかがい、今度は妙に、おっかなびっくりといった形で入って来て、あらためてまた給仕についたのであった。
話は前後したが、涙の半紙はここにあった。客は何となく折を見て聞いたのである。
﹁いましがたちょっと買ものをして来たんだが、﹂
と言継いで、
﹁彼あそ家こに、嫁さんか、娘さんか、きれいな女が居るだろう。﹂
﹁北国一だ。あはははは。﹂
と、大声でいきなり笑った。
﹁まあまあ、北国一としておいて、何だい、娘かい、嫁さんかい。﹂
また大声で、
﹁押おっ惚ぽれたか。旦那さん。﹂
﹁驚かしなさんな。﹂
﹁吃びっ驚くりしただろ、あの、別べっ嬪ぴんに。……それだよ、それが小こは春るさんだ。この土地の芸げい妓しゃでね、それだで、雑貨店の若旦那を、治兵衛坊主と言うだてば。﹂
﹁成程、紙屋――あの雑貨店の亭主だな。﹂
﹁若い人だ、活いきるわ、死ぬるわという評判ものだよ。﹂
﹁それで治兵衛……は分ったが、坊主とはどうした訳かね。﹂
﹁何、旦那さん、癇かん癪しゃ持くもちの、嫉やき妬もちやきで、ほうずもねえ逆のぼ気せし性ょうでね、おまけに、しつこい、いんしん不通だ。﹂
﹁何?……﹂
﹁隠元豆、田たに螺しさあね。﹂
﹁分らない。﹂
﹁あれ、ははは、いんきん、たむしだてば。﹂
﹁乱暴だなあ。﹂
﹁この山代の湯ぐらいでは埒らちあかねえさ。脚かっ気け山やま中なか、かさ粟あわ津づの湯へ、七日湯治をしねえ事には半月十日寝られねえで、身から体だ中掻かき毟むしって、目が引ひッ釣つり上る若旦那でね。おまけに、それが小春さんに、金か子ねも、店も田地までも打ぶち込こんでね。一いっ時ときは、三月ばかりも、家へ入れて、かみさんにしておいた事もあったがね。﹂
――初うい女にょ房うぼう、花嫁ぶりの商いはこれで分った――
﹁ちゃんと金子を突いたでねえから、抱えぬしの方で承知しねえだよ。摺すった揉もんだの挙句が、小春さんはまた褄つまを取っているだがね、一度女房にした女が、客商売で出るもんだで、夜よがふけてでも見なさいよ、いらいらして、逆のぼ気せあ上がって、痛いた痒がゆい処を引ひっ掻かいたくらいでは埒あかねえで、田にしも隠元豆も地だんだを蹈ふんで喰くい噛かじるだよ。血は上ずっても、性しょうは陰気で、ちり蓮れん華げの長い顔が蒼あおしょびれて、しゃくれてさ、それで負けじ魂で、張立てる治兵衛だから、人にものさ言う時は、頭も唇も横町へつん曲るだ。のぼせて、頭ばっかり赫かッ々かッと、するもんだで、小春さんのいい人で、色男がるくせに、頭かみ髪のけさ、すべりと一分刈にしている処で、治兵衛坊主、坊主治兵衛だ、なあ、旦那。﹂
かくと聞けば、トラホーム、目の煩いと思ったは恥かしい。袂たもとに包んだ半紙の雫しずくは、まさに山さざ茶ん花かの露である。
﹁旦那さん、何を考えていなさるだね。﹂
三
﹁そうか――先さっ刻き、買ものに寄った時、その芸げい妓しゃは泣いていたよ。﹂
﹁あれ、小春さんが坊主の店に居ただかね。すいても嫌うても、気きだ立ての優しいお妓こだから、内ない証しょで逢いに行っただろさ。――ほんに、もうお十夜だ――気むずかしい治兵衛の媼ばばも、やかましい芸妓屋の親方たちも、ここ一いち日んち二ふつ日かは講こう中じゅうで出入りがやがやしておるで、その隙ひまに密そっと逢いに行ったでしょ。﹂
﹁お安くないのだな。﹂
﹁何、いとしゅうて泣いてるだか、しつこくて泣かされるだか、知れたものではないのだよ。﹂
﹁同じ事を……いとしい方にしておくがいい。﹂
と客は、しめやかに言った。
﹁厭いやな事だ。﹂
﹁大層嫌うな。……その執しつ拗こい、嫉しっ妬と深ぶかいのに、口く説どかれたらお前はどうする。﹂
﹁横びんた撲はりこくるだ。﹂
﹁これは驚いた。﹂
﹁北国一だ。山代の巴ともえ板はん額がくだよ。四斗八升の米俵、両手で二俵提げるだよ。﹂
﹁偉い!……その勢いきおいで、小春の味方をしておやり。﹂
﹁ああ、すべいよ、旦那さんが言わっしゃるなら。……﹂
﹁わざと……いささかだけれど御祝儀だ。﹂
肩を振って、拗すねたように、
﹁要らねえよ。――私うちこんなもの。……旦那さん。――旅た行びさきで無駄な銭を遣わねえがいいだ。そして……﹂
と顔を向け直すと、ちょっと上まぶたで客を視みて、
﹁旦那さん、いつ帰るかね。﹂
﹁いや、深しん切せつは難あり有がたいが、いま来たばかりのものに、いつ出た程つかは少し酷ひどかろう。﹂
﹁それでも、先さっ刻き来た時に、一晩泊どまりだと言ったでねえかね。﹂
﹁まったくだ、明日は山やま中なかへ行くつもりだ。忙しい観光団さ。﹂
﹁緩ゆっくり居なされば可いいに――では、またじきに来なさいよ。﹂
と、真顔で言った。
客はその言ことばに感じたように、
﹁勿論来ようが、その時、姐さんは居なかろう。﹂
﹁あれ、何でえ?……﹂
﹁お嫁に行くから。﹂
したたか頭かぶりを掉ふって、
﹁ううむ、行かねえ。﹂
﹁治兵衛坊主が、たって欲しいと言うそうだ。﹂
﹁馬鹿を言うもんでねえ。――治兵衛だろうが、忠兵衛だろうが、……一生嫁に行かねえで待ってるだよ。﹂
﹁じゃあ、いっそ、どこへも行かないで、いつまでもここに居ようか。私をお婿むこさんにしてくれれば。……﹂
﹁するともさ。﹂
﹁私は働きがないのだから、婿も養子だ。お前さん養ってくれるかい。﹂
﹁ああ、養うよ。朝から晩まですきな時に湯に入れて、御おま飯んまを食べさして、遊ばしておけばそれでよかろうがね。﹂
﹁勿もっ体たいないくらい、結構だな。﹂
﹁そのくらいなら……私が働く給金でして進ぜるだ。﹂
﹁ほんとかい。﹂
﹁それだがね、旦那さん。﹂
﹁御覧、それ、すぐに変へん替がえだ。﹂
﹁ううむ、ほんとうだ、が、こんな上段の室までは遣やり切きれねえだ。――裏座敷の四畳半か六畳で、ふしょうして下さんせ、お膳の御馳走も、こんなにはつかねえが、私が内ない証しょでどうともするだよ。﹂
客は赤黒く、口の尖とがった、にきびで肥ふとった顔を見つつ、
﹁姐さん、名は何と言う。﹂
と笑って聞いた。
﹁ふ、ふ、ふ。﹂と首を振っている。
﹁何と言うよ。﹂
﹁措おきなさい、そんな事。﹂
と耳みみ朶たぼまで真まっ赤かにした。
﹁よ、ほんとに何と言うよ。﹂
﹁お光だ。﹂
と、飯めし櫃びつに太い両手を突つっ張ぱって、ぴょいと尻を持もっ立たてる。遁にげ構がまえでいるのである。
﹁お光さんか、年と紀しは。﹂
﹁知らない。﹂
﹁まあ、幾いく歳つだい。﹂
﹁顔だ。﹂
﹁何、﹂
﹁私の顔だよ、猿だてば。﹂
﹁すると、幾歳だっけな。﹂
﹁桃栗三年、三みッ歳つだよ、ははは。﹂
と笑いながら駈かけ出だした。この顔が――くどいようだが――楊貴妃の上へ押並んで振向いて、
﹁二はた十ちだ……鼬いたちだ……べべべべ、べい――﹂
四
ここに、第九師団衛えい戍じゅ病院の白い分院がある。――薬師寺、万まん松しょ園うえん、春かす日がや山まなどと共に、療養院は、山代の名勝に入っている。絵はがきがある。御覧なさい。
病院にして名勝の絵になったのは、全国ここばかりであろうも知れない。
この日当りで暖かそうなが、青白い建ものの、門の前は、枯葉半ば、色づいた桜の木が七八株、一列に植えたのを境に、もう温いで泉ゆの町も場末のはずれで、道が一坂小だかくなって、三方は見通しの原で、東に一帯の薬師山の下が、幅の広い畷なわてになる。桂かつ谷らだにと言うのへ通ずる街道である。病院の背後を劃しきって、蜿うね々うねと続いた松まじりの雑木山は、畠を隔てたばかり目の前さきに近いから、遠い山も、嶮けわしい嶺みねも遮られる。ために景色が穏かで、空も優しい。真綿のように処々白い雲を刷はいたおっとりとした青空で、やや斜ななめな陽が、どことなく立渡る初冬の霧に包まれて、ほんのりと輝いて、光は弱いが、まともに照らされては、のぼせるほどの暖かさ。が、陰の袖は、そぞろに冷い。
その近ちか山やまの裾すそは半ば陰ったが、病院とは向う合せに、この畷から少し低く、下くだりめになって、陽の一杯に当る枯草の路みちが、ちょろちょろとついて、その径こみちと、畷の交こう叉さて点んがゆるく三角になって、十坪ばかりの畑が一枚。見みは霽らしの野山の中に一つある。一方が広々とした刈かり田たとの境に、垣根もあったらしいが、竹も塀もこわれごわれで、朽ちた杭くいばかり一本、せめて案か山か子しにでも化けたそうに灰色に残って、尾花が、ぼうと消えそうに、しかし陽を満々と吸って、あ、あ、長のど閑かな欠あく伸びでも出そうに、その杭に凭もたれている。藁わらが散り、木の葉が乱れた畑には、ここらあたり盛さかんに植える、杓しゃ子くし菜なと云って、株の白い処が似ているから、蓮れん華げ菜なとも言うのを、もう散々に引棄てたあとへ、陽気が暖あたたかだから、乾いた土の、ほかほかともりあがった処へ、細く青く芽をふいた。
畑の裾は、町裏の、ごみごみした町まち家や、農家が入乱れて、樹こだ立ちがくれに、小こな流がれを包んで、ずっと遠く続いたのは、山中道みちで、そこは雲の加減で、陽が薄赤く颯さっと射さす。
色も空も一ひと淀よどみする、この日ひだ溜まりの三角畑の上ばかり、雲の瀬に紅べにの葉が柵しがらむように、夥おび多ただしく赤あか蜻とん蛉ぼが群れていた。――出会ったり、別れたり、上うえ下したにスッと飛んだり。あの、紅また薄紅、うつくしい小さな天女の、水晶の翼は、きらきらと輝くのだけれど、もう冬で……遊びも闌たけなわに、恍うっ惚とりしたらしく、夢をうように、ふわふわと浮きつ、沈みつ、漾ただよいつ。で、時々目がさめたように、パッと羽を光らせるが、またぼうとなって、暖かに霞んで飛交う。
日ひな南たの虹にじの姫たちである。
風情に見み愡とれて、近江屋の客はただ一人、三角畑の角に立って、山を背に繞めぐらしつつ彳たたずんでいるのであった。
四あた辺りの長の閑どかさ。しかし静しずかな事は――昼飯を済すませてから――買ものに出た時とは反対の方に――そぞろ歩ある行きでぶらりと出て、温いで泉ゆの廓くるわを一巡り、店さきのきらびやかな九谷焼、奥深く彩った漆器店。両側の商店が、やがて片側になって、媚なまめかしい、紅べにがら格ごう子しを五六軒見たあとは、細せせ流らぎが流れて、薬師山を一方に、呉くれ羽はじ神んじ社ゃの大鳥居前を過ぎたあたりから、往ゆき来かう人も、来る人も、なくなって、古ぼけた酒さか店みせの杉葉の下もとに、茶と黒と、鞠まりの伸びたほどの小犬が、上になり下になり、おっとりと耳を噛かんだり、ちょいと鼻づらを引ひっかき合ったり。……これを見ると、羨うらやましいか、桶おけの蔭から、むくと起きて、脚をひろげて、もう一匹よちよちと、同じような小こい狗ぬは出て来ても、村の閑し寂じ間まか、棒ぼう切きれ持った小こど児もも居ない。
で、ここへ来た時……前むこ途う山の下から、頬ほお被かぶりした脊の高い草わら鞋じばきの親おや仁じが、柄の長い鎌を片手に、水だか酒だか、縄からげの一いっ升しょ罎うびんをぶら下げたのが、てくりてくりと、畷を伝い、松茸の香を芬ぷんとさせて、蛇の茣ご蓙ざと称となうる、裏白の葉を堆うずたかく装もった大おお籠かごを背し負ょったのを、一ツゆすって通過ぎた。うしろ形つきも、罎と鎌で調子を取って、大手を振った、おのずから意気の揚々とした処は、山の幸を得た誇ほこりを示す。……籠に、あの、ばさばさ群った葉の中に、鯰なまずのような、小こぶ鮒なのような、頭の大おおきな茸たけがびちびち跳ねていそうなのが、温いで泉ゆの町の方へずッと入った。しばらく、人に逢ったのはそればかりであった。
客は、陽ひなたの赤蜻蛉に見み愡とれた瞳を、ふと、畑はた際ぎわの尾花に映すと、蔭の片袖が悚ぞ然っとした。一度、しかとしめて拱こまぬいた腕を解ほどいて、やや震える手さきを、小こび鬢んに密そっと触れると、喟きぜ然んとして面おもてを暗うしたのであった。
日ひな南たに霜が散ったように、鬢にちらちらと白しら毛がが見える。その時、赤蜻蛉の色の真まっ紅かなのが忘れたようにスッと下りて、尾花の下もとに、杭の尖さきに留とまった。……一度伏せた羽を、衝つと張った、きらりと輝かした時、あの緑の目を、ちょっと此こな方たへ振動かした。
小狗の戯たわむれにも可なつ懐かしんだ。幼おさ心なごころに返ったのである。
教授は、ほとびるがごとき笑顔になった。が、きりりと唇をしめると、真まっ黒くろな厚い大おおきな外がい套とうの、背腰を屁びりに屈かがめて、及およ腰びごしに右の片手を伸のばしつつ、密そっと狙ねらって寄った。が、どうしてどうして、小こど児ものように軽く行かない。ぎくり、しゃくり、いまが大切、……よちりと飛附く。……南なむ無さん三ぽ宝う、赤蜻蛉は颯さっと外それた。
はっと思った時である。
﹁おほほほほ。ははははは。﹂
花々しく調子高に、若い女の笑声が響いた。
向うに狗いぬ児ころの形かげも、早や見えぬ。四あた辺りに誰も居ないのを、一息の下もとに見渡して、我を笑うと心着いた時、咄とっ嗟さに渋面を造って、身を捻ねじるように振向くと……
この三角畑の裾の樹こだ立ちから、広ひろ野のの中に、もう一ひと条すじ、畷なわてと傾斜面の広き刈田を隔てて、突当りの山裾へ畦あぜ道みちがあるのが屏風のごとく連つらなった、長く、丈せいの高い掛かけ稲いねのずらりと続いたのに蔽おおわれて、半ばで消えるので気がつかなかった。掛稲のきれ目を見ると、遠山の雪の頂が青空にほとばしって、白い兎が月に駈かけるようである。下も水のごとく、尾花の波が白く敷く。刈残した粟あわの穂の黄色なのと段々になって、立蔽う青い霧に浮いていた。
と見向いた時、畦の嫁菜を褄つまにして、その掛稲の此こな方たに、目も遥はるかな野原刈田を背にして間あわいが離れて確しかとは見えぬが、薄うす藍あいの浅あさ葱ぎの襟して、髪の艶つややかな、色の白い女が居て、いま見合せた顔を、急に背けるや否や、たたきつけるように片袖を口に当てたが、声は高々と、澄切った空を、野に響いた。
﹁おほほほほほ、おほほほ、おほほほほほ。﹂
おや、顔に何かついている?……すべりを扱しごいて、思わず撫なでると、これがまた化かされものが狐に対する眉毛に唾つばと見えたろう。
金切声で、﹁ほほほほほほ。﹂
十歩ばかり先に立って、一人男の連つれが居た。縞しまがらは分らないが、くすんだ装なりで、青磁色の中なか折おれ帽ぼうを前のめりにした小こづ造くりな、痩やせた、形の粘ねば々ねばとした男であった。これが、その晴やかな大おお笑わらいの笑声に驚いたように立留って、廂ひさし睨にらみに、女を見ている。
何を笑う、教授はまた……これはこの陽気に外套を着たのが可おか笑しいのであろうと思った……言うまでもない。――途中でな、誰を見ても、若いものにも、老とし人よりにも、外套を着たものは一人もなかった。湯の廓は皆柳の中を広どて袖らで出で歩あ行るく。勢いきおいなのは浴衣一枚、裸はだ体かも見えた。もっとも宿を出る時、外套はと気がさしたが、借りて着込んだ浴衣の糊のりが硬こわ々ごわと突つっ張ぱって、広袖の膚はだにつかないのが、悪く風を通して、ぞくぞくするために、すっぽりと着込んでいるのである。成程、ただ一人、帽子も外套も真まっ黒くろに、畑に、つッくりと立った処は、影法師に狐が憑ついたようで、褌ふんどしをぶら下げて裸で陸おかに立ったより、わかい女には可お笑かしかろう……
いや、蜻とん蛉ぼつ釣りだ。
ああ、それだ。
小こび鬢んに霜のわれらがと、たちまち心着いて、思わず、禁ぜざる苦笑を洩もらすと、その顔がまた合った。
﹁ぷッ、﹂と噴出すように更に笑った女が、堪たまらぬといった体ていに、裾をぱッぱッと、もとの方かたへ、五いつ歩あし六むあ歩し駈かけ戻もどって、捻ねじたように胸を折って、
﹁おほほほほ。﹂
胸を反そらして、仰あお向むけに、
﹁あはははは。﹂
たちまちくるりとうしろ向きに、何か、もみじの散りかかる小紋の羽織の背筋を見せて、向うむきに、雪の遠山へ、やたらに叩おじ頭ぎをする姿で、うつむいて、
﹁おほほ、あはは、あははははは。あははははは。﹂
やがて、朱とき鷺い色ろの手ハン巾ケチで口を蔽うて、肩で呼い吸きして、向直って、ツンと澄すまして横顔で歩あ行るこうとした。が、何と、自おのずから目がこっちに向くではないか。二つ三つ手巾に、すぶりをくれて、たたきつけて、また笑った。
﹁おほほほほ、あははは、あははははは。﹂
八やつ口くちを洩もる紅くれないに、腕の白さのちらめくのを、振って揉もんで身みも悶だえする。
きょろんと立った連つれの男が、一ひと歩あし返して、圧おさえるごとくに、握にぎ拳りこぶしをぬっと突出すと、今度はその顔を屈かがみ腰に仰向いて見て、それにも、したたかに笑ったが、またもや目を教授に向けた。
教授も堪こらえず、ひとり寂しくニヤニヤとしながら、半ば茫然として立っていたが、余りの事に、そこで、うっかり、べかッこを遣ったと思え。
﹁きゃっ、ひいッ。﹂と逆に半身を折って、前へ折曲げて、脾ひば腹らを腕で圧えたが追おッ着つかない。身を悶え、肩を揉み揉みへとへとになったらしい。……畦の端の草もみじに、だらしなく膝をついた。半襟の藍に嫁菜が咲いて、
﹁おほほほほほほ、あはははは、おほほほほほ。﹂
そこを両脇、乳も、胸も、もぞもぞと尾花が擽くすぐる! はだかる襟の白さを合すと、合す隙に、しどけない膝小僧の雪を敷く。島し田ま髷だも、切れ、はらはらとなって、
﹁堪忍してよう、おほほほほ、あははははは。﹂
と、手をふるはずみに、鳴なる子こな縄わに、くいつくばかり、ひしと縋すがると、刈田の鳴子が、山に響いてからからから、からからからから。
﹁あはははははは。おほほほほほ。﹂
勃む然っとした体ていで、島田の上で、握拳の両手を、一度打ちょ擲うちゃくをするごとくふって見せて、むっとして男が行くので、はあはあ膝を摺ずらし、腰を引いて、背には波を打たしながら、身を蜿うねらせて、やっと立って、女は褄を引合せざまに振向くと、ちょっと小腰を屈めながら、教授に会釈をするが疾はやいか。
﹁きゃあ――﹂と笑って、衝つと駈かけざまに、男のあとを掛稲の背うし後ろへ隠れた。
その掛稲は、一杯の陽の光と、溢あふれるばかり雀を吸って、むくむくとして、音のするほど膨れ上って、なお堪こらえず、おほほほほ、笑声を吸込んで、遣やり切きれなくなって、はち切れた。稲穂がゆさゆさと一斉に揺れたと思うと、女の顔がぼっと出て、髪を黒く、唇を紅あかく、
﹁おほほほほほほほ、あはははははは。﹂
﹁白だ痴ら奴め、汝おどれ!﹂
ねつい、怒いかった声が響くと同時に、ハッとして、旧もとの路へ遁にげ出した女の背に、つかみかかる男の手が、伸びつつ届くを、躱かわそうとしたのが、真横にばったり。
伸のしかかると、二ツ三ツ、ものをも言わずに、頬とも言わず、肩とも言わず、男の拳が、尾花の穂がへし折れるように見えて打擲した。
顔も、髪も、土どろまみれに、真まっ白しろな手を袖口から、ひしと合せて、おがんで縋って、起きようとする、腕を払って、男が足を上げて一つ蹴た。
瞬くばかりの間である。
﹁何をする、何をする。﹂
たかが山やま家がの恋である。男女の痴話の傍そば杖づえより、今は、高き天そら、広き世を持つ、学士榊三吉も、むかし、一高で骨を鍛えた向陵の健児の意気は衰えず、
﹁何をする、何をするんだ。﹂
草の径みちももどかしい。畦あぜともいわず、刈田と言わず、真まっ直すぐに突つっ切きって、颯さっと寄った。
この勢いに、男は桂谷の山手の方へ、掛稲を縫って、烏とともに飛んで遁にげた。
﹁おお。﹂
﹁あ、あれ、先さっ刻きの旦那さん。﹂
遁げた男は治兵衛坊主で――お光に聞いた――小春であった。
﹁外套を被かぶって、帽子をめして、……見違えて、おほほほほ、失礼な、どうしましょう。﹂
と小春は襟も帯も乱れた胸を、かよわく手でおさえて、片手で外套の袖に縋りながら、蒼まっ白さおな顔をして、涙の目でなお笑った。
﹁おほほほほほ、堪忍、御免なすって、あははははは。﹂
妙とし齢ごろだ。この箸がころんでも笑うものを、と憮ぶぜ然んとしつつ、駒下駄が飛んで、はだしの清い、肩も膝も紅くれないの乱れた婦おんなの、半ば起きた肩を抱いた。
﹁御免なすって、旦那さん、赤蜻蛉をつかまえようと遊ばした、貴あな方たの、貴方の形が、余り……余り……おほほほほ。﹂
﹁いや、我ながら、思えば可お笑かしい。笑うのは当り前だ。が、気の毒だ。連つれの男は何という乱暴だ。﹂
﹁ええ、家うちではかえって人目に立つッて、あの、おほほ、心しん中じゅうの相談をしに来た処だものですから、あはははは。﹂
ひたと胸に、顔をうずめて、泣きながら、
﹁おほほほほほほ。﹂
五
﹁旦那さん、そんなら、あの、私、……死なずと大事ございませんか……﹂
﹁――言うだけの事はないよ、――まるッきり、お前さんが慾よくばかりでだましたのでみた処で……こっちは芸げい妓しゃだ。罪も報むくいもあるものか。それに聞けば、今までに出来るだけは、人情も義理も、苦労をし抜いて尽しているんだ。……勝手な極ごく道どうとか、遊ゆう蕩とうとかで行留りになった男の、名は体ていのいい心中だが、死んで行ゆく道連れにされて堪たまるものではない。――その上、一人身ではないそうだ。――ここへ来る途中で俄にわ盲かめ目くらの爺とっさんに逢って、おなじような目の悪い父親があると言って泣いたじゃないか。﹂――
掛かけ稲いね、嫁菜の、畦あぜに倒れて、この五尺の松に縋すがって立った、山代の小春を、近江屋へ連戻った事は、すぐに頷うなずかれよう。芸げい妓しゃである。そのまま伴って来るのに、何の仔しさ細いもなかったこともまた断るに及ぶまい。
なお聞けば、心中は、単に相談ばかりではない。こうした場所と、身の上では、夜中よりも人目に立たない、静しずかな日ひな南たの隙を計って、岐えだ路みちをあれからすぐ、桂谷へ行くと、浄じょ行うぎ寺ょうじと云う門徒宗が男の寺。……そこで宵の間まに死ぬつもりで、対あい手ての袂たもとには、商あきないものの、︵何とか入らず︶と、懐中には小ナイ刀フさえ用意していたと言うのである。
上うわ前まえの摺ずり下さがる……腰帯の弛ゆるんだのを、気にしいしい、片手でほつれ毛を掻きながら、少しあとへ退さがってついて来る小春の姿は、道みち行ゆきから遁にげたとよりは、山奥の人ひと身みご御く供うから助たす出けだされたもののようであった。
左山中道みち、右桂谷道、と道みち程しる標べの立った追おい分わけへ来ると、――その山中道の方から、脊のひょろひょろとした、頤あごの尖とがった、痩やせこけた爺じいさんの、菅すげの一もんじ笠を真まっ直すぐに首に据えて、腰に風呂敷包をぐらつかせたのが、すあしに破やぶ脚れぎ絆ゃはん、草わら鞋じば穿きで、とぼとぼと竹の杖つえに曳ひかれて来たのがあった。
この竹の杖を宙に取って、さきを握って、前へも立たず横よこ添ぞいに導きつつ、くたびれ脚を引摺ったのは、目も耳もかくれるような大おおきな鳥打帽の古いのをかぶった、八つぐらいの男の児こで。これも風呂敷包を中なか結ゆわえして西さい行ぎょ背うじ負ょいに背負っていたが、道みち中なかへ、弱々と出て来たので、横に引ひっ張ぱり合あった杖が、一方通せん坊になって、道みち程しる標べの辻の処で、教授は足を留めて前へ通した。が、細せせ流らぎは、これから流れ、鳥居は、これから見え、町もこれから賑にぎやかだけれど、俄めくらと見えて、突つっ立たった足を、こぶらに力を入れて、あげたり、すぼめたりするように、片手を差出して、手探りで、巾きん着ちゃくほどな小こど児もに杖を曳かれて辿たどる状さま。いま生いの命ちびろいをした女でないと、あの手を曳いて、と小春に言ってみたいほど、山家の冬は、この影よりして、町も、軒も、水も、鳥居も暗く黄たそ昏がれた。
駒下駄のちょこちょこあるきに、石段下、その呉羽の神の鳥居の蔭から、桃もも割われぬれた結ゆい立たてで、緋ひが鹿の子この角つの絞しぼり。簪かんざしをまだささず、黒くろ繻じゅ子すの襟の白おし粉ろい垢あかの冷たそうな、かすりの不断着をあわれに着て、……前まえ垂だれと帯の間へ、古風に手てぬ拭ぐいを細こまかく挟んだ雛おし妓ゃくが、殊勝にも、お参まい詣りの戻もどりらしい……急いそ足ぎあしに、つつッと出た。が、盲めく目らの爺とっさんとすれ違って前へ出たと思うと、空から抱留められたように、ひたりと立留って振向いた。
﹁や、姉ちゃん。﹂――と小こど児もが飛着く。
見る見るうちに、雛妓の、水晶のようなった目は、一杯の涙である。
小春は密そっと寄添うた。
﹁姉ちゃん、お父ちゃんが、お父ちゃんが、目が見えなくなるから、……ちょっと姉ちゃんを見てえってなあ。……﹂
西行背負の風呂敷づつみを、肩の方から、いじけたように見せながら、
﹁姉ちゃん、大すきな豆の餅あんもを持って来た。﹂
ものも言い得ず、姉さんは、弟のその頭つむりを撫なでると、仰いで笠の裡うちを熟じっと視みた。その笠を被かぶって立てる状さまは、かかる苦界にある娘に、あわれな、みじめな、見すぼらしい俄盲目には見えないで、しなびた地じぞ蔵うぼ菩さ薩つのようであった。
親おや仁じは抱しめもしたそうに、手探りに出した手を、火やけ傷どしたかと慌てて引いて、その手を片手おがみに、あたりを拝んで、誰ともなしに叩おじ頭ぎをして、
﹁御免下され、御免下され。﹂
と言った。
﹁正念寺様におまいりをして、それから木賃へ行ゆくそうです。いま参りましたのは、あの妓こがちょっと……やかたへ連れて行きましたの。﹂
突つき当あたりらしいが、横町を、その三人が曲りしなに、小春が行きすがりに、雛おし妓ゃくと囁ささやいて﹁のちにえ。﹂と言って別れに、さて教授にそう言った。
――来た途中の俄盲目は、これである――
やがて、近江屋の座敷では、小春を客分に扱って、膳を並べて、教授が懇ねんごろに説いたのであった。
﹁……ほんとに私、死なないでも大事ございませんわね。﹂
﹁死んで堪たまるものか、死ぬ方が間違ってるんだ。﹂
﹁でも、旦那さん、……義理も、人情も知らない女だ、薄情だと、言われようかと、そればかりが苦になりました。もう人が何と言いましょうと、旦那さんのお言ことばばかりで、どんなに、あの人から責められましても私はきっぱりと、心中なんか厭いやだと言います。お庇かげさまで助りました。またこれで親兄弟のいとしい顔も見られます。もう、この一年ばかりこのかたと言いますもの、朝に晩に泣いてばかり、生きた瀬はなかったのです。――その苦くるしみも抜けました。貴方は神様です。仏様です。﹂
﹁いや、これが神様や仏様だと、赤蜻蛉の形をしているのだ。﹂
﹁おほほ。﹂
﹁ああ、ほんとに笑ったな――もう可よし、決して死ぬんじゃないよ。﹂
﹁たとい間違っておりましても、貴方のお言ことばばかりで活いきます。女の道に欠けたと言われ、薄情だ、売ばい女ただと言う人がありましても、……口に出しては言いませんけれど、心では、貴方のお言葉ゆえと、安心をいたします。﹂
﹁あえて構わない。この俺が、私と言うものが、死ぬなと言ったから死なないと、構わず言え。――言ったって決して構わん。﹂
﹁いいえ、勿体ない、お名ふだもおねだり申して頂きました。人には言いはしませんが、まあ、嬉しい。……嬉しゅうございますわ。――旦那さん。﹂
﹁…………﹂
﹁あの、それですけれど……安心をしましたせいですか、落がっ胆かりして、力が抜けて。何ですか、余り身から体だにたわいがなくって、心細くなりました。おそばへ寄せて下さいまし……こんな時でございませんと、思い切って、お顔が見られないのでございますけど、それでも、やっぱり、暗くて見えはしませんわ。﹂
と、膝に密そっと手を置いて、振仰いだらしい顔がほの白い。艶つや濃こき髪の薫かおりより、眉がほんのりと香においそうに、近々とありながら、上段の間は、いまほとんど真まっ暗くらである。
六
実は、さきに小春を連れて、この旅館へ帰った頃に、廊下を歩あ行るき馴なれたこの女が、手を取ったほど早や暗くて、座敷も辛かろうじて黒あい白ろの分るくらいであった。金きん屏びょ風うぶとむきあった、客の脱すてを掛けた衣いこ桁うの下もとに、何をしていたか、つぐんでいて、道どう陸ろく神じんのような影を、ふらふらと動かして、ぬいと出たものがあった。あれと言った小春と、ぎょっとした教授に﹁北国一。﹂と浴あびせ掛けて、またたく間に廊下をすっ飛んで行ったのは、あのお光であったが。
直すぐに小春が、客の意を得て、例の卓上電話で、二人の膳を帳場に通すと、今度註文をうけに出たのは、以前の、歯を染めた寂しい婦おんなで、しょんぼりと起たち居いをするのが、何だか、産う女ぶ鳥めのように見えたほど、――時間はさまでにもなかったが、わけてこの座敷は陰気だった。
頼もしいほど、陽気に賑にぎやかなのは、廂ひさしはずれに欄干の見える、崖の上の張出しの座敷で、客も大勢らしい、四五人の、芸妓の、いろいろな声に、客のがまじって、唄う、弾く、踊っていた。
船の舳みよしの出たように、もう一座敷重かさなって、そこにも三さみ味せ線んの音がしたが、時々哄どっと笑う声は、天てん狗ぐが谺こだまを返すように、崖下の庭は暮れるものを、いつまでも電燈がつかない。
小春の藍あいの淡い襟、冷い島田が、幾いく度たびも、縁を覗のぞいて、ともに燈ともしを待ちもした。
この縁の突当りに、上うわ敷しきを板に敷込んだ、後こう架かがあって、機械口の水も爽さわやかだったのに、その暗紛れに、教授が入った時は一滴の手ちょ水うずも出なかったので、小春に言うと、電話までもなく、帳場へ急いで、しばらくして、真しん鍮ちゅうの水さしを持って来て言うのには、手水は発動機で汲くみ上あげている処、発電池に故障があって、電燈もそのために後おくれると、帳場で言っているそうで。そこで中なか縁えんの土間の大おおきな石の手水鉢、ただし落葉が二三枚、不思議に燈籠に火を点ともしたように見えて、からからに乾いて水はない。そこへ誘って、つき膝で、艶えんになまめかしく颯さっと流してくれて、
﹁あれ、はんけちを田たん圃ぼみ道ちで落して来て、……﹂
﹁それも死神の風呂敷だったよ。﹂
﹁可こ恐わいわ、旦那さん。﹂
その水さしが、さて……いまやっぱり、手水鉢の端はたに据すわっているのが幽かすかに見える。夕暮の鷺さぎが長い嘴くちばしで留ったようで、何となく、水の音も、ひたひたとするようだったが、この時、木みみ菟ずくのようになって、とっぷりと暮れて真まっ暗くらだった。
﹁どうした、どうした。……おお、泣いているのか。――私は……﹂
﹁ああれ、旦那さん。﹂
と、厠かわやの板戸を、内から細目に、小春の姿が消えそうに、
﹁私、つい、つい、うっかりして、あのお恥かしくって泣くんですわ……ここには水がありません。﹂
﹁そうか。﹂
と教授が我が手で、その戸を開けてやりつつ、
﹁こっちへお出で、かけてやろう。さ。﹂
﹁は。﹂
﹁可いいか、十分に……﹂
﹁あれ、どうしましょう、勿体ない、私は罰が当ります。﹂
懐紙に二階の影が散る。……高い廊下をちらちらと燭しょ台くだいの火が、その高たか楼どのの欄てす干りを流れた。
﹁罰の当ったはこの方だ。――しかし、婦おん人なの手に水をかけたのは生れてからはじめてだ。赤ん坊になったから、見ておくれ。お庇かげで白髪が皆消えて、真まっ黒くろになったろう。﹂
まことに髪が黒かった。教授の顔の明るさ。
﹁この手水鉢は、実さね盛もりの首くび洗あらいの池も同じだね。﹂
﹁ええ、縁起でもない、旦那さん。﹂
﹁ま、姦まお通とこめ。ううむ、おどれ等。﹂
﹁北国一だ。……危あぶねえよ。﹂
殺した声と、呻うめく声で、どたばた、どしんと音がすると、万歳と、向むこう二階で喝やん采や、ともろ声に喚わめいたのとほとんど一所に、赤い電燈が、蒟こん蒻にゃくのようにぶるぶると震えて点ついた。
七
小春の身を、背に庇かばって立った教授が、見ると、繻しゅ子すの黒足袋の鼻緒ずれに破れた奴やつを、ばたばたと空に撥はねる、治兵衛坊主を真まう俯つ向むけに、押伏せて、お光が赤あか蕪かぶのような膝をはだけて、のしかかっているのである。
﹁危い――刃ものを持ってるぞ。﹂
絨じゅ毯うたんを縫いながら、治兵衛の手の大おお小ナイ刀フが、しかし赤黒い電燈に、錆さび蜈むか蚣でのように蠢うごめくのを、事ともしないで、
﹁何が、犬にも牙きばがありゃ、牛にも角があるだあね。こんな人間の刃ものなんぞ、どうするかね。この馬鹿野郎。それでも私が来ねえと、大事なお客さんに怪我をさせる処だっけ。飛んでもねえ嫉やき妬もち野やろ郎うだ。大でけい声を出してお帳場を呼ぼうかね、旦那さん、どうするね。私が一つ横ずっぽう撲はりこくってやろうかね。﹂
﹁ああ、静しずかに――乱暴をしちゃ不いけ可ない。﹂
教授は敷居へ、内へ向けて引きながら、縁側の籐とう椅い子すに掛けた。
﹁君は、誰を斬るつもりかね。﹂
﹁うむ、汝おどれから先に……当あた前りまえじゃい。うむ、放せ、口くや惜しいわい。﹂
﹁迷惑をするじゃあないか。旅の客が湯治場の芸げい妓しゃを呼んで遊んだが、それがどうした。﹂
﹁汝おどれ、俺の店まで、呼出しに、汝、逢あい曳びきにうせおって、姦まお通とこめ。﹂
﹁血迷うな、誤解はどうでも構わないが、君は卑劣だよ。……使った金か子ねに世の中が行ゆき詰づまって、自分で死ぬのは、間違いにしろ、勝手だが、死ぬのに一人死ねないで、未練にも相手の女を道づれにしようとして附つけ絡まとうのは卑劣じゃあないか。――投出す生いの命ちに女の連つれを拵こさえようとするしみったれさはどうだ。出した祝儀に、利息を取るよりけちな男だ。君、可愛い女と一所に居る時は、蚤のみが一つ余計に女にたかっても、ああ、おれの身をかわりに吸え、可哀想だと思うが情だ。涼しい時に虫が鳴いても、かぜを引くなよ、寝ねび冷えをするなと念じてやるのが男じゃないか。――自分で死ぬほど、要らぬ生いの命ちを持っているなら、おなじ苦労をした女の、寿命のさきへ、鼻毛をよって、継つぎ足たしをしてやるが可いい。このうつくしい、優しい女を殺そうとは何事だ。これ聞け。俺も、こんな口を利いたって、ちっとも偉い男ではない。お互に人間の中の虫だ。――虫だが、書物ばかり食っている、しみのような虫だから、失礼ながら君よりは、清きれ潔いだよ。それさえ……それでさえ、聞けよ。――心中の相談をしている時に、おやじが蜻とん蛉ぼ釣る形の可おか笑しさに、道端へ笑い倒れる妙とし齢ごろの気の若さ……今もだ……うっかり手ちょ水うずに行って、手を洗う水がないと言って、戸を開け得ない、きれいな女と感じた時は、娘のような可愛さに、唇の触ったばかりでも。﹂
﹁ううむ、ううむ。﹂と呻うなった。
﹁申訳のなさに五体が震える。何だ、その女に対して、隠元、田たに螺しの分際で、薄汚い。いろも、亭主も、心中も、殺すも、活いかすもあるものか。――静しずかにここを引揚げて、早く粟津の湯へ入れ――自分にも二つはあるまい、生いの命ちの養生をするが可いい。﹂
﹁餓鬼めが、畜生!﹂
﹁おっと、どっこい。﹂
﹁うむ、放せ。﹂
﹁姐ねえさん、放しておやり。﹂
﹁危あぶねえ、旦那さん。﹂
﹁いや、私はまだその人に、殺されも、斬られもしそうな気はしない。お放し。﹂
﹁おお、もっともな、私がこの手を押えているで、どうする事も出来はしねえだ。﹂
﹁さあ、胸を出せ、袖を開けろ。私は指一つ圧おさえていない。婦おん人なが起たってそこへ縋すがれば、話は別だ。桂かつ清らし水みずとか言うので顔を洗って私も出直す――それ、それ、見たが可いい。婦おん人なは、どうだ、椅子の陰へ小さく隠れて、身を震わしているじゃあないか。――帰りたまえ。﹂
また電燈が、滅びるように、呼い吸きをひいて、すっと消えた。
﹁二人とも覚えてけつかれ。﹂
﹁この野郎、どこから入った。ああ、――そうか。三畳の窓を潜くぐって、小ちっこい、庭にわ境ざかいの隣とな家りの塀から入ったな。争われぬもんだってば。……入った処から出て行くだからな。壁を摺ずって、窓を這はって、あれ板塀にひッついた、とかげ野郎。﹂
小春は花のいきするように、ただ教授の背うし後ろから、帯に縋って、さめざめと泣いていた。
八
ここの湯の廓くるわは柳がいい。分けて今宵は月夜である。五株、六株、七株、すらすらと立ち長く靡なびいて、しっとりと、見みつ附けを繞めぐって向合う湯宿が、皆この葉はご越しに窺うかがわれる。どれも赤い柱、白い壁が、十五間けん間口、十間間口、八間間口、大きな︵舎︶という字をさながらに、湯ゆけ煙むりの薄い胡ごふ粉んでぼかして、月影に浮いていて、甍いらかの露も紫に凝るばかり、中空に冴さえた月ながら、気の暖かさに朧おぼろである。そして裏に立つ山に湧わき、処々に透く細い町に霧が流れて、電燈の蒼あおい砂すな子ごを鏤ちりばめた景色は、広ひろ重しげがピラミッドの夢を描いたようである。
柳のもとには、二つ三つ用心水みずの、石で亀きっ甲こうに囲った水みず溜たまりの池がある。が、涸かれて、寂しく、雲も星も宿らないで、一面に散込んだ柳の葉に、山谷の落葉を誘って、塚を築いたように見える。とすれば月が覗のぞく。……覗くと、光がちらちらとさすので、水があるのを知って、影が光る、柳も化粧をするのである。分けて今年は暖あたたかさに枝し垂だれた黒髪はなお濃こまやかで、中にも真まん中なかに、月光を浴びて漆のように高く立った火の見階ばし子ごに、袖を掛けた柳の一ひと本もとは瑠るり璃てん天じょ井うの階子段に、遊女の凭もたれた風情がある。
このあたりを、ちらほらと、そぞろ歩ある行きの人通り。見附正面の総湯の門には、浅あさ葱ぎに、紺に、茶の旗が、納おさ手めて拭ぬぐいのように立って、湯の中は祭まつ礼りかと思う人声の、女まじりの賑かさ。――だぶだぶと湯の動く音。軒のき前さきには、駄菓子店みせ、甘酒の店、飴あめの湯、水菓子の夜店が並んで、客も集れば、湯ゆ女なも掛ける。髯ひげが啜すする甘酒に、歌の心は見えないが、白い手にむく柿の皮は、染めたささ蟹がにの糸である。
みな立つ湯気につつまれて、布子も浴衣の色に見えた。
人の出入り一盛り。仕出しの提ちょ灯うちん二つ三つ。紅あかいは、おでん、白いは、蕎そ麦ば。横路地を衝ついと出て、やや門かどとざす湯宿の軒を伝う頃、一しきり静しずかになった。が、十夜をあての夜興行の小芝居もどりにまた冴える。女房、娘、若わか衆いしゅたち、とある横町の土塀の小こみ路ちから、ぞろぞろと湧いて出た。が、陸軍病院の慰安のための見物がえりの、四五十人の一行が、白い装よそおいでよぎったが、霜の使つか者いが通るようで、宵過ぎのうそ寒さの再び春に返ったのも、更に寂せき然ぜんとしたのであった。
月つき夜よが鴉らすが低く飛んで、水を潜くぐるように、柳から柳へ流れた。
﹁うざくらし、厭いやな――お兄あんさん……﹂
芝居がえりの過ぎたあと、土塀際の引込んだ軒下に、潜くぐ戸りどを細目に背にした門かど口ぐちに、月に青い袖、帯黒く、客を呼ぶのか、招くのか、人待顔に袖を合せて、肩つき寒く佇たたずんだ、影のような婦おんながある。と、裏の小路からふらりと出て、横合からむずと寄って肩を抱いた。その押つぶしたような帽子の中の男の顔を、熟じっとすかして――そう言った。
﹁お門かどが違うやろね、早う小春さんのとこへ行く事や。﹂と、格子の方へくるりと背く。
紙屋は黙って、ふいと離れて、すぐ軒ならびの隣とな家りの柱へ、腕で目をおさえるように、帽子ぐるみ附くッ着ついた。
何の真似やら、おなじような、あたまから羽織を引ひっかぶった若い衆しゅが、溝を伝うて、二人、三人、胡う乱ろ々う々ろする。
この時であった。
夜よも既に、十一時すぎ、子ねの刻か。――柳を中に真向いなる、門かども鎖とざし、戸を閉めて、屋根も、軒も、霧の上に、苫とま掛かけた大船のごとく静まって、梟ふくろが演戯をする、板歌舞伎の趣した、近江屋の台所口の板戸が、からからからと響いて、軽く辷すべると、帳場が見えて、勝手は明あかるい――そこへ、真まっ黒くろな外がい套とうがあらわれた。
背うし後ろについて、長なが襦じゅ袢ばんするすると、伊だて達ま巻きばかりに羽織という、しどけない寝乱れ姿で、しかも湯上りの化粧の香が、月に脈うって、ぽっと霧へ移る。……と送って出しなの、肩を叩こうとして、のびた腰に、ポンと土間に反った新しい仕込みの鯔ぼらと、比ひ目ら魚めのあるのを、うっかり跨またいで、怯おびえたような脛はぎ白く、莞にっ爾こりとした女が見える。
﹁くそったれめ。﹂
見え透いた。が、外套が外へ出た、あとを、しめざまに細ほっそりと見送る処を、外套が振返って、頬ずりをしようとすると、あれ人が見る、島田を揺ふって、おくれ毛とともに背いたけれども、弱々となって顔を寄せた。
これを見た治兵衛はどうする。血は火のごとく鱗うろこを立てて、逆さかさまに尖とがって燃えた。
途端に小春の姿はかくれた。
あとの大戸を、金の額ぶちのように背し負ょって、揚々として大得意の体ていで、紅こう閨けいのあとを一散歩、贅ぜいを遣やる黒外套が、悠然と、柳を眺め、池を覗のぞき、火の見を仰いで、移うつ香りがを惜おし気げなく、酔えいざましに、月の景色を見る状さまの、その行く処には、返かえ咲りざきの、桜が咲き、柑こう子じも色づく。……他よその旅館の庭の前、垣根などをぶらつきつつ、やがて総湯の前に近づいて、いま店をひらきかけて、屋台に鍋なべをかけようとする、夜よなしの饂うど飩ん屋やの前に来た。
獺かわ橋うそばしの婆さんと土地で呼ぶ、――この婆さんが店を出すのでは……もう、十二時を過ぎたのである。
犬ほどの蜥とか蜴げが、修羅を燃もやして、煙のように颯さっと襲った。
﹁おどれめ。﹂
と呻うめくが疾はやいか、治兵衛坊主が、その外套の背うし後ろから、ナイフを鋭く、つかをせめてグサと刺した。
﹁うーむ。﹂と言うと、ドンと倒れる。
獺橋の婆さんが、まだ火のない屋台から、顔を出してニヤリとした。串じょ戯うだんだと思ったろう。
﹁北国一だ――﹂
と高く叫ぶと、その外套の袖が煽あおって、紅あかい裾が、はらはらと乱れたのである。
九
――﹁小春さん、先さっ刻きの、あの可愛い雛おし妓ゃくと、盲めく目らの爺とっさんたちをここへお呼び。で、お前さんが主人になって、皆みんなで湯へ入って、御馳走を食べて、互に慰めもし、また、慰められもするが可いい。
治兵衛坊主は、お前さんの親たち、弟に逢った事はないか。――なければそれもなお好都合。あの人たちに訳を話すと、おなじ境きょ界うがいにある夥なか間まだ、よくのみ込むであろうから、爺さんをお前さんの父親、小こど児もを弟に、不意に尋ねて来た分に、治兵衛の方へ構えるが可よい。場合によれば、表向き、治兵衛をここへ呼んで逢わせるも可よかろう。あの盲めしいた人、あの、いたいけな児こ、鬼も見れば角がなごむ。――心配はあるまいものの、また間まち違がいがないとも限らぬ。その後こう難なんの憂うれ慮いのないように、治兵衛の気を萎なやし、心を鎮めさせるのに何よりである。
私は直ぐに立って、山中へ行く。
わざとらしいようでもあるから、別室へと思わぬでもなけれど、さてそうして、お前は爺さんたちと、ここに一所に。……決して私に構うなと言った処で、人情としてそうは行くまい、顔の前に埃ほこりが立つ。構わないにしても気が散ろう。
泣きも笑いもするがいいが、どっちも胸をいためぬまで、よく楽たのしみ、よくお遊び。﹂――
あの陰気な女中を呼ぶと、沈んで落着いただけに、よく分って、のみ込んだ。この趣を心得て、もの優しい宿の主人も、更あらためて挨拶に来たので、大勢送出す中を、学士の近江屋を発た程ったのは、同じ夜よの、実は、八時頃であった。
勿論、小春が送ろうと言ったが、さっきの今で、治兵衛坊主に対しても穏おだやかでない、と留めて、人目があるから、石屋が石を切った処、と心づもりの納屋の前を通る時、袂たもとを振切る。……
お光が中くらいな鞄かばんを提げて、肩をいからすように、大おお跨またに歩あ行るいて、電車の出発点まで真まっ直すぐに送って来た。
道は近い、またすぐに出る処であった。
﹁旦那さん、蚤のみにくわれても、女あまッ子は可哀相だと言ったが、ほんとかね。﹂
停車場じょうの人ごみの中で、だしぬけに大声でぶッつけられたので、学士はその時少なからず逡巡しつつ、黙って二つばかり点うな頭ずいた。
﹁旦那さん、お願だから、私に、旦那さんの身についたものを一ひと品しな下んせね。鼻紙でも、手ハン巾ケチでも、よ。﹂
教授は外套を、すっと脱いだ。脱ぎはなしを、そのままお光の肩に掛けた。
このおもみに、トンと圧おされたように、鞄を下へ置いたなりで、停車場を、ひょいと出た。まさか持ったなりでは行くまいと、半ば串じょ戯うだんだったのに――しかし、停車場を出ると、見通しの細い道を、いま教授がのせたなりに、ただ袖に手を掛けたばかり、長い外套の裾をずるずると地に曳ひき摺ずるのを、そのままで、不思議に、しょんぼりと帰って行くのを見て、おしげなくほろりとして手を組んだ。
発車した。
――お光は、夜よの隙ひまのあいてから、これを着て、嬉しがって戸おも外てへ出たのである。……はじめは上段の間へ出向いて、
﹁北国一。﹂
と、まだ寝ないで、そこに、羽二重の厚あつ衾ぶすま、枕を四つ、頭あわせに、身のうき事を問い、とわれ、睦むつ言ごとのように語り合う、小春と、雛おし妓ゃく、爺さん、小こど児もたちに見せびらかした。が、出る時、小春が羽織を上に引っかけたばかりのなりで、台所まで手を曳いた。――ああ、その時お光のかぶったのは、小児の鳥打帽であったのに――
黒い外套を来た湯ゆ女なが、総湯の前で、殺された、刺された風うわ説さは、山中、片山津、粟津、大だい聖しょ寺うじまで、電車で人とともに飛んでたちまち響いた。
けたたましい、廊下の話声を聞くと、山中温泉の旅館に、既に就寝中だった学士が、白いシイツを刎はねて起きた。
寝床から自動車を呼んで、山代へ引返して、病院へ移ったという……お光の病室の床に、胸をしめて立った時、
﹁旦那さん、――お光さんが貴あな方たの、お身代り。……私はおくれました。﹂
と言って、小春がおもはゆげに泣いて縋すがった。
﹁お光さん、私だ、榊だ、分りますか。﹂
﹁旦那さんか、旦那さんか。﹂
と突拍子な高調子で、譫うわ言ごとのように言ったが、
﹁ようこそなあ――こんなものに……面つらも、からだも、山猿に火ひ熨の斗しを掛けた女だと言われたが、髪の毛ばかり皆みんなが賞ほめた。もう要らん。小春さん。あんた、油くさくて気の毒やが、これを切って、旦那さんに上げて下さんせ。﹂
立会った医師が二人まで、目を瞬しばたたいて、学士に会釈しつつ、うなずいた。もはや臨終だそうである。
﹁頂戴しました。――貰ったぞ。﹂
﹁旦那さん、顔が見たいが、もう見えんわ。﹂
﹁さ、さ、さ、これに縋らっしゃれ。﹂
と、ありなしの縁えんに曳かれて、雛妓の小ことみ、弟が、かわいい名の小次郎、ともに、杖まで戸惑いしてついて来て、泣いていた、盲めく目らの爺さんが、竹の杖を、お光の手に、手さぐりで握らせるようにして、
﹁持たっしゃれ、縋らっしゃれ。ありがたい仏様が見えるぞい。﹂
﹁ああい、見えなくなった目でも、死ねば仏様が見られるかね。﹂
﹁おお、見られるとも、のう。ありがたや阿あ弥み陀だ様。おありがたや親しん鸞らん様も、おありがたや蓮れん如にょ様も、それ、この杖に蓮華の花が咲いたように、光って輝いて並んでじゃ。さあ、見さっしゃれ、拝まっさしゃれ。なま、なま、なま、なま、なま。﹂
﹁そんなものは見とうない。﹂
と、ツト杖を向うへ刎はねた。
﹁私は死んでも、旦那さんの傍そばに居て、旦那さんの顔を見るんだよ。﹂
﹁勿体ないぞ。﹂
と口のうちで呟つぶやいて、爺おやじが、黒い幽霊のように首を伸のばして、杖に縋って伸上って、見えぬ目を上うわねむりに見据えたが、
﹁うんにゃ、道もっ理ともじゃ。俺おらも阿弥陀仏より、御開山より、娘の顔が見たいぞいの。﹂
と言うと、持った杖をハタと擲なげた。その風ふう采さいや、さながら一いっ山さんの大導師、一体の聖者のごとく見えたのであった。
大正十二︵一九二三︶年一月