一
初はつ冬ふゆの夜よふ更けである。
片かた山やま津づ︵加賀︶の温泉宿、半月館弓ゆん野の屋やの二階――だけれど、広い階はし子ごだ段んが途中で一段大きく蜿うねってS形に昇るので三階ぐらいに高い――取とッ着つきの扉ドアを開けて、一人旅の、三十ばかりの客が、寝ねま衣きで薄ぼんやりと顕あらわれた。
この、半ば西洋づくりの構かまえは、日本間が二ふた室まで、四角な縁が、名にしおうここの名所、三湖の雄なる柴しば山やま潟がたを見晴しの露台の誂あつらえゆえ、硝がら子す戸どと二重を隔ててはいるけれど、霜置く月の冷たさが、渺びょ々うびょうたる水面から、自おのずから沁しみ徹とおる。……
いま偶ふと寝覚の枕を上げると、電燈は薄暗し、硝子戸を貫いて、障子にその水の影さえ映るばかりに見えたので、
﹁おお、寒い。﹂
頸えりから寒くなって起きて出た。が、寝ぬくもりの冷めないうち、早く厠かわやへと思う急せき心ごころに、向う見ずに扉ドアを押した。
押して出ると、不意に凄すごい音で刎はね返かえした。ドーンと扉の閉るのが、広い旅館のがらんとした大天井から地の底まで、もっての外に響いたのである。
一つ、大きなもの音のしたあとは、目の前の階子段も深い穴のように見えて、白い灯も霜を敷いた状さまに床に寂しい。木目の節の、点ぼつ々ぼつ黒いのも鼠の足跡かと思われる。
まことに、この大旅館はがらんとしていた。――宵に受持の女中に聞くと、ひきつづき二は十つ日か余りの間団体観光の客が立てつけて毎日百人近く込合ったそうである。そこへ女中がやっと四人ぐらいだから、もし昨きの日うにもおいでだと、どんなにお気の毒であったか知れない。すっかり潮のように引いたあとで、今日はまた不思議にお客が少く、此こ室こに貴あな方たと、離はな室れの茶室をお好みで、御隠居様御夫婦のお泊りがあるばかり、よい処で、よい折から――と言った癖に……客が膳ぜんの上の猪ちょ口くをちょっと控えて、それはお前さんたちさぞ疲れたろう、大掃除の後の骨休め、という処だ。ここは構わないで、湯にでも入ったら可よかろうと、湯治の客には妙にそぐわない世辞を言うと、言ことばに随ついて、ではそうさして頂きます、後生ですわ、と膠にべもなく引ひき退さがった。畳も急に暗くなって、客は胴震いをしたあとを呆あっ気けに取られた。
……思えば、それも便たよ宜りない。……
さて下りる階子段は、一曲り曲る処で、一度ぱっと明るく広くなっただけに、下を覗のぞくとなお寂しい。壁も柱もまだ新しく、隙すき間まとてもないのに、薄い霧のようなものが、すっと這は入いっては、そッと爪つま尖さきを嘗なめるので、変にスリッパが辷すべりそうで、足あし許もとが覚おぼ束つかない。
渠かれは壁に掴つかまった。
掌てのひらがその壁の面に触れると、遠くで湯の雫しずくの音がした。
聞き澄すますと、潟の水の、汀みぎわの蘆あし間まをひたひたと音おと訪ずれる気けは勢いもする。……風は死んだのに、遠くなり、近くなり、汽車が谺こだまするように、ゴーと響くのは海うみ鳴なりである。
更に遠く来た旅を知りつつ、沈むばかりに階段を下おり切きった。
どこにも座敷がない、あっても泊とま客りきゃくのないことを知った長廊下の、底そこ冷びえのする板敷を、影のうように、我ながら朦もう朧ろうとして辿たどると……
﹁ああ、この音だった。﹂
汀の蘆に波の寄ると思ったのが、近々と聞える処に、洗面所のあったのを心着いた。
機械口が緩ゆるんだままで、水が点した滴たっているらしい。
その袖壁の折おれ角かどから、何心なく中を覗くと、
﹁あッ。﹂と、思わず声を立てて、ばたばたと後あとへ退さがった。
雪のような女が居て、姿見に真まっ蒼さおな顔が映った。
温いで泉ゆの宿の真夜中である。
二
客は、なまじ自分の他ほかに、離はな室れに老人夫婦ばかりと聞いただけに、廊下でいきなり、女の顔の白しら鷺さぎに擦違ったように吃びっ驚くりした。
が、雪のようなのは、白い頸くびだ。……背うし後ろむきで、姿見に向ったのに相違ない。燈ひの消えたその洗面所の囲まわりが暗いから、肩も腰も見えなかったのであろう、と、疑うたがいの幽霊を消しながら、やっぱり悚ぞ然っとして立たち淀よどんだ。
洗面所の壁のその柱へ、袖の陰が薄うっすりと、立たて縞じまの縞目が映ると、片かた頬ほで白くさし覗いて、
﹁お手ちょ水うず……﹂
と、ものを忍んだように言った。優しい柔かな声が、思いなしか、ちらちらと雪の降りかかるようで、再び悚ぞ然っとして息を引く。……
﹁どうぞ、こちらへ。﹂
と言った時は――もう怪しいものではなかった――紅鼻緒の草履に、白い爪さきも見えつつ、廊下を導いてくれるのであろう。小こづ褄まを取った手に、黒くろ繻じゅ子すの襟が緩い。胸が少しはだかって、褄を引揚げたなりに乱れて、こぼれた浅あさ葱ぎが長く絡からまった、ぼっとりものの中肉が、帯もないのに、嬌しな娜やかである。
﹁いや知っています。﹂
これで安心して、衝つと寄りざまに、斜ななめに向うへ離れる時、いま見たのは、この女の魂だったろう、と思うほど、姿も艶えんに判はっ然きりして、薄化粧した香さえ薫る。湯上りの湯のにおいも可なつ懐かしいまで、ほんのり人肌が、空くうに来て絡まつわった。
階段を這はった薄い霧も、この女の気を分けた幽かすかな湯の煙であったろうと、踏んだのは惜おしい気がする。
﹁何だろう、ここの女中とは思うが、すばらしい中ちゅ年うど増しまだ。﹂
手を洗って、ガタン、トンと、土どま間ば穿きの庭下駄を引摺る時、閉めて出た障子が廊下からすッと開あいたので、客はもう一度ハッとした。
と小がくれて、その中年増がそこに立つ。
﹁これは憚はばかり……﹂
﹁いいえ。﹂
と、もう縞の小袖をしゃんと端はし折ょって、昼夜帯を引ひっ掛かけに結んだが、紅あかい扱しご帯きのどこかが漆の葉のように、紅くれないにちらめくばかり。もの静しずかな、ひとがらな、おっとりした、顔も下ぶくれで、一ひと重えま瞼ぶたの、すっと涼しいのが、ぽっと湯に染まって、眉の優しい、容よう子すのいい女で、色はただ雪をあざむく。
﹁しかし、驚きましたよ、まったくの処驚きましたよ。﹂
と、懐ふと中ころに突つっ込こんで来た、手ハン巾ケチで手を拭ふくのを見て、
﹁あれ、貴あな方た……お手てぬ拭ぐいをと思いましたけれど、唯ただ今いまお湯へ入りました、私のだものですから。――それに濡れてはおりますし……﹂
﹁それは……そいつは是非拝借しましょう。貸して下さい。﹂
﹁でも、貴方。﹂
﹁いや、結構、是非願います。﹂
と、うっかりらしく手に持った女の濡手拭を、引ひっ手た繰くるようにぐいと取った。
﹁まあ。﹂
﹁ばけもののする事だと思って下さい。丑うし満みつ時どきで、刻限が刻限だから。﹂
ほぼその人がらも分ったので、遠慮なしに、半なかば調から戯かうように、手どころか、するすると面おもてを拭いた。湯のぬくもりがまだ残る、木綿も女の膚はだ馴なれて、柔やわらかに滑なめらかである。
﹁あれ、お気味が悪うございましょうのに。﹂
と釣込まれたように、片袖を頬に当てて、取戻そうと差出す手から、ついと、あとじさりに離れた客は、手拭を人質のごとく、しかと取って、
﹁気味の悪かったのは只今でしたな――この夜ふけに、しかも、ここから、唐だし突ぬけだろう。﹂
そのまま洗面所へ肩を入れて、
﹁思いも寄らない――それに、余り美しい綺きれ麗いな人なんだから。﹂
声が天井へもつき通して、廊下へも響くように思われたので、急に、ひっそりと声の調子を沈めた。
﹁ほんとうに胆きもが潰つぶれたね。今思ってもぞッとする……別べっ嬪ぴんなのと、不意討で……﹂
﹁お巧じょ言うずばっかり。﹂
と、少し身を寄せたが、さしうつむく。
﹁串じょ戯うだんじゃありません。……︵お手水……︶の時のごときは、頭から霜を浴びて潟の底へ引込まれるかと思ったのさ。﹂
大おお袈げ裟さに聞えたが。……
﹁何とも申訳がありません。――時ならない時分に、髪を結ったりなんかしましたものですから。――あの、実は、今しがた、遠方のお客様から電報が入りまして、この三時十分に動いぶ橋りばしへ着きます汽車で、当方へおいでになるッて事だものですから、あとは皆みんな年下の女たちが疲れて寝ていますし……私がお世話を申上げますので。あの、久しぶりで宵に髪を洗いましたものですから、ちょっと束ねておりました処なんでございますよ。﹂
いまは櫛くし巻まきが艶つや々つやしく、すなおな髪のふっさりしたのに、顔がやつれてさえ見えるほどである。
﹁女おん中な部屋でいたせばようございますのに、床も枕も一杯になって寝ているものでございますから、つい、一風呂頂きましたあとを、お客様のお使いになります処を拝借をいたしまして、よる夜中だと申すのに。……変おば化けでございますわね――ほんとうに。﹂
と鬢びんに手を触ったまままた俯うつ向むく。
﹁何、温泉宿の夜中に、寂しい廊下で出でっ会くわすのは、そんなお化に限るんだけれど、何てたって驚きましたよ――馬鹿々々しいほど驚いたぜ。﹂
言うまでもなく、女中と分って、ものいいぶりも遠慮なしに、
﹁いまだに、胸がどきどきするね。﹂
と、どうした料りょ簡うけんだか、ありあわせた籐とう椅い子すに、ぐったりとなって肱ひじをもたせる。
﹁あなた、お寒くはございませんの。﹂
﹁今度は赫かっ々かとほてるんだがね。――腰が抜けて立てません。﹂
﹁まあ……﹂
三
﹁お澄さん……私は見事に強ね請だったね。――強請ったより強ゆす請りだよ。いや、この時刻だから強盗の所わ業ざです。しかし難あり有がたい。﹂
と、枕だけ刎はねた寝床の前で、盆の上ながらその女中――お澄――に酌をしてもらって、怪けしからず恐悦している。
客は、手を曳ひいてくれないでは、腰が抜けて二階へは上あがれないと、串じょ戯うだんを真顔で強いると、ちょっと微ほほ笑えみながら、それでも心しんから気の毒そうに、否いやとも言わず、肩を並べて、階はし子ごだ段んを――上あがると蜿うねりしなの寂しい白い燈ひに、顔がまた白く、褄つまが青かった。客は、機会のこんな事は人間一生の旅行のうちに、幾いく度たびもあるものではない。辻堂の中で三々九度の杯をするように一杯飲もう、と言った。――酒は、宵の、膳の三本めの銚ちょ子うしが、給仕は遁にげたし、一人では詰つまらないから、寝しなに呷あおろうと思って、それにも及ばず、ぐっすり寐ね込こんだのが、そのまま袋戸棚の上に忍ばしてある事を思い出したし、……またそうも言った。――お澄が念のため時間を訊きいた時、懐中時計は二時半に少し間まがあった。
﹁では、――ちょっと、……掃除番の目ざとい爺やが一人起きましたから、それに言って、心得さす事がありますから。﹂と軽く柔やわらかにすり抜けて、扉ひらきの口から引返す。……客に接しては、草履を穿はかない素足は、水のように、段の中途でもう消える。……宵に鯊はぜを釣落した苦き経験のある男が、今度は鱸すずきを水際で遁にがした。あたかもその影を追うごとく、障子を開けて硝がら子す戸ど越ごしに湖うみを覗のぞいた。
連つらなり亘わたる山々の薄墨の影の消えそうなのが、霧の中に縁へりを繞めぐらす、湖うみは、一面の大おおいなる銀盤である。その白しろ銀がねを磨いた布目ばかりの浪もない。目の下の汀みぎわなる枯かれ蘆あしに、縦横に霜を置いたのが、天心の月に咲いた青い珊さん瑚ごじ珠ゅのように見えて、その中から、瑪めの瑙うの桟さんに似て、長く水面を遥はるかに渡るのは別館の長廊下で、棟に欄干を繞めぐらした月の色と、露の光をうけるための台うてなのような建ものが、中空にも立てば、水にも映る。そこに鎖とざした雨戸々々が透通って、淡く黄を帯びたのは人なき燈ともしびのもれるのであろう。
鐘の音ねも聞えない。
潟、この湖の幅の最も広く、山の形の最も遠いあたりに、ただ一つ黒い点が浮いて見える。船か雁かりか、※かい﹇#﹁辟/鳥﹂、436-12﹈か、ふとそれが月影に浮ぶお澄の、眉の下の黒ほく子ろに似ていた。
冷える、冷い……女に遁げられた男はすぐに一すくみに寒くなった。一人で、蟻ありが冬ふゆ籠ごもりに貯えたような件くだんのその一ひと銚ちょ子うし。――誰に習っていつ覚えた遣やり繰くりだか、小皿の小鳥に紙を蔽おおうて、煽あおって散らないように杉すぎ箸ばしをおもしに置いたのを取出して、自や棄けに茶碗で呷った処へ――あの、跫あし音おとは――お澄が来た。﹁何もございませんけれど、﹂と、いや、それどころか、瓜の奈良漬。﹁山やま家がですわね。﹂と胡くる桃みの砂糖煮。台だい十じゅ能うに火を持って来たのを、ここの火鉢と、もう一つ。……段の上り口の傍わきに、水屋のような三畳があって、瓶びん掛かけ、茶道具の類が置いてある。そこの火鉢とへ、取分けた。それから隣座敷へ運ぶのだそうで、床の間の壁裏が、その隣座敷。――﹁旦那様の前ですけど、この二ふた室まが取って置きの上等﹂で、電報の客というのが、追ってそこへ通るのだそうである。――
﹁まあお一ひと杯つ。……お銚子が冷めますから、ここでお燗かんを。ぶしつけですけれど、途中が遠うございますから、おかわりの分も、﹂と銚子を二本。行届いた小取まわしで、大びけすぎの小こざ酒かもり。北の海なる海うみ鳴なりの鐘に似て凍る時、音に聞く……安あた宅かの関は、この辺あたりから海上三里、弁慶がどうしたと? 石川県能のみ美ごお郡り片山津の、直なお侍ざむらいとは、こんなものかと、客は広どて袖らの襟を撫なでて、胡あぐ坐らで納まったものであった。
﹁だけど……お澄さんあともう十五分か、二十分で隣と座な敷りへ行ってしまわれるんだと思うと、情なさけない気がするね。﹂
﹁いいえ。――まあ、お重ねなさいまし、すぐにまたまいります。﹂
﹁何、あっちで放すものかね。――電報一本で、遠くから魔術のように、旅館の大戸をがらがらと開けさせて、お澄さんに、夜中に湯をつかわせて、髪を結わせて、薄化粧で待たせるほどの大したお客なんだもの。﹂
﹁まあ、……だって貴方、さばき髪でお迎えは出来ないではございませんか。――それに、手順で私が承りましたばかりですもの。何も私に用があっていらっしゃるのではありません。唯今は、ちょうど季節だものでございますから、この潟へ水鳥を撃ちに。﹂
﹁ああ、銃猟に――鴫しぎかい、鴨かもかい。﹂
﹁はあ、鴫も鴨も居ますんですが、おもに鷭ばんをお撃ちになります。――この間おいでになりました時などは、お二人で鷭が、一いっ百そく二三十も取れましてね、猟袋に一杯、七つも持ってお帰りになりましたんですよ。このまだ陽が上あがりません、霜のしらしらあけが一番よく取れますって、それで、いま時分お着つきになります。﹂
﹁どこから来るんだね、遠方ッて。﹂
﹁名古屋の方でございますの。おともの人と、犬が三頭、今夜も大方そうなんでございましょうよ。ここでお支度をなさる中うちに、馴なれました船頭が参りますと、小船二艘そうでお出かけなさるんでございますわ。﹂
﹁それは……対あい手ては大紳士だ。﹂と客は歎息して怯おびえたように言った。
﹁ええ、何ですか、貸座敷の御主人なんでございます。﹂
﹁貸座敷――女じょ郎ろ屋やの亭主かい。おともはざっと幇たい間こもちだな。﹂
﹁あ、当りました、旦那。﹂
と言ったが、軽く膝で手を拍うって、
﹁ほんに、辻つじ占うらがよくって、猟のお客様はお喜びでございましょう。﹂
﹁お喜びかね。ふう成程――ああ大した勢いだね。おお、この静しず寂かな霜の湖を船で乱して、谺こだまが白はく山さんへドーンと響くと、寝ぬくまった目を覚して、蘆の間から美しい紅玉の陽の影を、黒水晶のような羽に鏤ちりばめようとする鷭が、一羽ばたりと落ちるんだ。血が、ぽたぽたと流れよう。犬の口へぐたりとはまって、水しぶきの中を、船へ倒れると、ニタニタと笑う貸座敷の亭主の袋へ納まるんだな。﹂
お澄は白い指を扱しごきつつ、うっかり聞いて顔を見た。
﹁――お澄さん、私は折入って姐ねえさんにお願いが一つある。﹂
客は膝をきめて居直ったのである。
四
渠かれは稲いな田だ雪次郎と言う――宿帳の上を更あらためて名を言った。画家である。いくたびも生しょ死うしの境にさまよいながら、今年初めて……東京上野の展覧会――﹁姐さんは知っているか。﹂﹁ええこの辺でも評判でございます。﹂――その上野の美術展覧会に入選した。
構図というのが、湖畔の霜の鷭なのである。――
﹁鷭は一生を通じての私のために恩人なんです。生いの命ちの親とも思う恩人です。その大恩のある鷭の一類が、夫も妻も娘も忰せがれも、貸座敷の亭主と幇間の鉄砲を食くらって、一いっ時ときに、一いっ百そく二三十ずつ、袋へ七つも詰込まれるんでは遣やり切きれない。――深よふ更けに無理を言ってお酌をしてもらうのさえ、間違っている処へ、こんな馬鹿な、無法な、没常識な、お願いと言っちゃあないけれど、頼むから、後生だから、お澄さん、姐さんの力で、私が居る……この朝だけ、その鷭撃うちを留やめさしてはもらえないだろうか。……男だてなら、あの木曾川の、で、留とめて見ると言ったって、水の流ながれは留められるものではない。が、女の力だ。あなたの情なさけだ。――この潟の水が一時凍らないとも、火にならないとも限らない。そこが御婦人の力です。勿論まるきり、その人たちに留やめさせる事の出来ない事は、解って、あきらめなければならないまでも、手ては筈ずを違えるなり、故障を入れるなり、せめて時間でも遅れさして、鷭が明らかに夢からさめて、水鳥相当に、自衛の守備の整うようにして、一羽でも、獲ものの方が少く、鳥の助かる方が余計にしてもらいたい。――実は小松からここに流れる桟かけ川はしがわで以前――雪間の白鷺を、船で射た友だちがあって、……いままですらりと立って遊んでいたのが、弾た丸まの響ひびきと一所に姿が横に消えると、颯さっと血が流れたという……話を聞いた事があって、それ一羽、私には他人の鷺でさえ、お澄さんのような女が殺されでもしたように、悚ぞ然っとして震え上った。――しかるに鷭は恩人です。――姐さん、これはお酌を強ね請だったような料りょ簡うけんではありません。真人間が、真ま面じ目めに、師の前、両親の前、神仏の前で頼むのとおなじ心で云うんです。――私は孤みな児しごだが、かつて志を得たら、東京へ迎えます。と言ううちに、両親はなくなりました。その親たちの位いは牌いを、……上野の展覧会の今最中、故郷の寺の位牌堂から移して来たのが、あの、大おおきな革かば鞄んの中に据えてあります。その前で、謹んで言うのです。――お位牌も、この姐さんに、どうぞお力をお添え下さい。﹂
と言った。面おもてが白はく蝋ろうのように色澄んで、伏目で聞入ったお澄の、長い睫まつ毛げのまたたくとともに、床とこに置いた大革鞄が、揺れて熊の動くように見えたのである。
﹁あら! 私……﹂
この、もの淑しずかなお澄が、慌あわただしく言葉を投げて立った、と思うと、どかどかどかと階はし子ごだ段んを踏立てて、かかる夜陰を憚はばからぬ、音が静し寂じ間まに湧わき上あがった。
﹁奥方は寝床で、お待ちで。それで、お出迎えがないといった寸法でげしょう。﹂
と下から上へ投掛けに肩へ浴びせたのは、旦那に続いた件くだんの幇間と頷うなずかれる。白い呼い吸きもほッほッと手に取るばかり、寒い声だが、生ぬるいことを言う。
﹁や、お澄――ここか、座敷は。﹂
扉ドアを開けた出であ会いが頭しらに、爺やが傍そばに、供が続いて突つっ立たった忘くつ八わの紳士が、我がために髪を結って化粧したお澄の姿に、満悦らしい鼻声を出した。が、気きば疾やに頸くびからさきへ突つっ込こむ目に、何と、閨ねやの枕に小ざかもり、媚びや薬くを髣ほう髴ふつとさせた道具が並んで、生なま白じろけた雪次郎が、しまの広どて袖らで、微ほろ酔よいで、夜具に凭もたれていたろうではないか。
正しょうの肌身はそこで藻抜けて、ここに空うつ蝉せみの立つようなお澄は、呼い吸きも黒くなる、相撲取ほど肥った紳士の、臘らっ虎こえ襟りの大おお外がい套とうの厚い煙に包まれた。
﹁いつもの上段の室までございますことよ。﹂
と、さすが客商売の、透かさず機嫌を取って、扉ドア隣へ導くと、紳士の開あけ閉たての乱暴さは、ドドンドシン、続けさまに扉が鳴った。
五
﹁旦だん那なは――ははあ、奥方様と成程。……それから御入浴という、まずもっての御寸法。――そこでげす。……いえ、馬鹿でもそのくらいな事は心得ておりますんで。……しかし御ごこ口うち中ゅうぐらいになさいませんと、これから飛道具を扱います。いえ、第一遠く離れていらっしゃるで、奥方の方で御承知をなさいますまい。はははは、御遠慮なくお先へ。……しかしてその上にゆっくりと。﹂
階はし子ごだ段んに足あし踏ぶみして、
﹁鷭だよ、鷭だよ、お次の鷭だよ、晩の鷭だよ、月の鷭だよ、深よな夜かの鷭だよ、トンと打ぶつけてトントントンとサ、おっとそいつは水くい鶏なだ、水鶏だ、トントントトン。﹂と下りて行ゆく。
あとは、しばらく、隣座敷に、火鉢があるまいと思うほど寂ひっ寞そりした。が、お澄のしめやかな声が、何となく雪次郎の胸に響いた。
﹁黙れ!﹂
と梁はりから天井へ、つつぬけにドス声で、
﹁分った! そうか。三晩つづけて、俺が鷭撃に行って怪我をした夢を見たか。そうか、分った。夢がどうした、そんな事は木こっ片ぱでもない。――俺が汝うぬ等らの手で面つらへ溝どぶ泥どろを塗られたのは夢じゃないぞ。この赫かッと開けた大きな目を見ろい。――よくも汝うぬ、溝泥を塗りおったな。――聞えるか、聞えるか。となりの野郎には聞えまいが、このくらいな大声だ。われが耳は打ぶちぬいたろう。どてッ腹へ響いたろう。﹂
﹁響いたがどうしたい。﹂と、雪次郎は鸚おう鵡むがえしで、夜具に凭もたれて、両の肩を聳そびやかした。そして身構えた。
が、そのまま何もなくバッタリ留やんだ。――聞け、時に、ピシリ、ピシリ、ピシャリと肉を鞭むち打うつ音が響く。チンチンチンチンと、微かすかに鉄瓶の湯が沸たぎるような音が交まじる。が、それでないと、湯気のけはいも、血ちし汐おが噴くようで、凄すさまじい。
雪次郎はハッと立って、座敷の中を四五度たび廻った。――衝つと露台へ出る、この片隅に二枚つづきの硝がら子すを嵌はめた板戸があって、青い幕が垂れている。晩方の心覚えには、すぐその向うが、おなじ、ここよりは広い露台で、座敷の障子が二三枚覗のぞかれた――と思う。……そのまま忍寄って、密そっとその幕を引ひきなぐりに絞ると、隣室の障子には硝子が嵌め込こみになっていたので、一面に映るように透いて見えた。ああ、顔は見えないが、お澄の色は、あの、姿見に映った時とおなじであろう。真うつむけに背ののめった手が腕のつけもとまで、露あら呈わに白く捻ねじ上あげられて、半身の光つ沢やのある真綿をただ、ふっくりと踵かかとまで畳に裂いて、二ふた条すじ引伸ばしたようにされている。――ずり落ちた帯の結むす目びめを、みしと踏んで、片膝を胴腹へむずと乗のり掛かかって、忘くつ八わの紳士が、外套も脱がず、革帯を陰気に重く光らしたのが、鉄の火ひば箸しで、ため打ちにピシャリ打ちピシリと当てる。八寸釘を、横に打つようなこの拷ごう掠りゃくに、ひッつる肌に青い筋の蜿うねるのさえ、紫色にのたうちつつも、お澄は声も立てず、呼い吸きさえせぬのである。
﹁ええ! ずぶてえ阿あ魔まだ。﹂
と、その鉄かな火ひば箸しを、今は突刺しそうに逆に取った。
この時、階段の下から跫あし音おとが来なかったら、雪次郎は、硝子を破って、血だらけになって飛込んだろう。
さまでの苦痛を堪こらえたな。――あとでお澄の片頬に、畳の目が鑢やすりのようについた。横顔で突つっぷして歯をくいしばったのである。そして、そのくい込んだ畳の目に、あぶら汗にへばりついて、鬢びんのおくれ毛が彫込んだようになっていた。その髪の一ひと条すじを、雪次郎が引いてとった時、﹁あ痛、﹂と声を上げたくらいであるから。……
かくまでの苦痛を知らぬ顔で堪えた。――幇ほう間かんが帰ってからは、いまの拷掠については、何の気色もしなかったのである。
銃猟家のいいつけでお澄は茶漬の膳を調えに立った。
扉ドアから雪次郎が密そっと覗くと、中段の処で、肱ひじを硬直に、帯の下の腰を圧おさえて、片手をぐったりと壁に立って、倒れそうにうつむいた姿を見た。が、気けは勢いがしたか、ふいに真まっ青さおな顔して見ると、寂しい微笑を投げて、すっと下りたのである。
隣室には、しばらく賤いやしげに、浅ましい、売女商売の話が続いた。
﹁何をしてうせおる。――遅いなあ。﹂
二度まで爺やが出て来て、催促をされたあとで、お澄が膳を運んだらしい。
﹁何にもございません。――料理番がちょと休みましたものですから。﹂
﹁奈良漬、結構。……お弁当もこれが関でげすぜ、旦那。﹂
と、幇間が茶づけをすする音、さらさらさら。スウーと歯ぜせりをしながら、
﹁天気は極上、大猟でげすぜ、旦那。﹂
﹁首かど途でに、くそ忌いま々いましい事があるんだ。どうだかなあ。さらけ留やめて、一番新地で飲んだろうかと思うんだ。﹂
六
﹁貴あな方た、ちょっと……お話がございます。﹂
――弁当は帳場に出来ているそうだが、船頭の来ようが、また遅かった。――
﹁へい、旦那御機嫌よう。﹂と三人ばかり座敷へ出ると、……﹁遅いじゃねえか。﹂とその御機嫌が大不機嫌。﹁先さっ刻きお勝手へ参りましただが、お澄さんが、まだ旦那方、御飯中で、失礼だと言わっしゃるものだで。﹂――﹁撃ぶつぞ。出ろ。ここから一発はなしたろか。﹂と銃猟家が、怒りだちに立った時は、もう横雲がたなびいて、湖の面おもてがほんのりと青ずんだ。月は水線に玉を沈めて、雪の晴れた白山に、薄紫の霧がかかったのである。
早いもので、湖に、小さい黒い点が二つばかり、霧を曳ひいて動いた。船である。
睡ねむ眠りは覚めたろう。翼を鳴らせ、朝霜に、光あれ、力あれ、寿いのちながかれ、鷭よ。
雪次郎は、しかし、青い顔して、露台に湖に面して、肩をしめて立っていた。
お澄が入って来た――が、すぐに顔が見られなかった。首筋の骨が硬こわばったのである。
﹁貴方、ちょっと……お話がございます。﹂
お澄が静しずかにそう言うと、からからと釣つりを手繰って、露台の硝がら子す戸どに、青い幕を深く蔽おおうた。
閨ねやの障子はまだ暗い。
﹁何とも申しようがない。﹂
雪はとなって手を支ついた。
﹁私は懺ざん悔げをする、皆嘘だ。――画えか工きは画工で、上野の美術展覧会に出しは出したが、まったくの処は落第したんだ。自や棄けまぎれに飛出したんで、両親には勘当はされても、位いは牌いに面目のあるような男じゃない。――その大おお革かば鞄んも借かりものです。樊はんの盾だと言って、貸した友だちは笑ったが、しかし、破りも裂きも出来ないので、そのなかにたたき込んである、鷭を画かいたのは事実です。女じょ郎ろ屋やの亭主が名古屋くんだりから、電報で、片山津の戸を真夜中にあけさせた上に、お澄さんほどの女に、髪を結いわせ、化粧をさせて、給仕につかせて、供をつれて船を漕こがせて、湖の鷭を狙ねら撃いうちに撃って廻る。犬が三頭――三疋とも言わないで、姐さんが奴やつ等らの口うつしに言うらしい、その三頭も癪しゃくに障った。なにしろ、私の画えが突つっ刎ぱねられたように口くや惜しかった。嫉ねた妬みだ、そねみだ、自棄なんです。――私は鷭になったんだ。――鷭が命乞いに来た、と思って堪こらえてくれ、お澄さん、堪忍してくれたまえ。いまは、勘定があるばかりだ、ここの勘定に心配はないが、そのほかは何にもない。――無論、私が志を得たら……﹂
﹁貴方。﹂
とお澄がきっぱり言った。
﹁身を切られるより、貴方の前で、お恥かしい事ですが、親兄弟を養いますために、私はとうから、あの旦那のお世話になっておりますんです。それも棄て、身も棄てて、死ぬほどの思いをして、あなたのお言葉を貫きました。……あなたはここをお立ちになると、もうその時から、私なぞは、山の鳥です、野の薊あざみです。路みち傍ばたの塵ちりなんです。見返りもなさいますまい。――いいえ、いいえ……それを承知で、……覚悟の上でしました事です。私は女が一生に一度と思う事をしました。貴方、私に御褒美を下さいまし。﹂
﹁その、その、その事だよ……実は。﹂
﹁いいえ、ほかのものは要りません。ただ一ひと品しな。﹂
﹁ただ一品。﹂
﹁貴方の小指を切って下さい。﹂
﹁…………﹂
﹁澄に、小指を下さいまし。﹂
少からず不良性を帯びたらしいまでの若者が、わなわなと震えながら、
﹁親が、両ふた親おやがあるんだよ。﹂
﹁私にもございますわ。﹂
と凜りんと言った。
拳こぶしを握って、屹きっと見て、
﹁お澄さん、剃かみ刀そりを持っているか。﹂
﹁はい。﹂
﹁いや、――食くい切きってくれ、その皓しら歯はで。……潔くあなたに上げます。﹂
やがて、唇にふくまれた時は、かえって稚おさ児なごが乳を吸うような思いがしたが、あとの疼いた痛みは鋭かった。
渠かれは大夜具を頭から引ひっ被かぶった。
﹁看病をいたしますよ。﹂
お澄は、胸白く、下じめの他ほかに血が浸にじむ。……繻しゅ子すの帯がするすると鳴った。
大正十二︵一九二三︶年一月