一
色青く光ある蛇、おびたゞしく棲めればとて、里人は近よらず。其その野のや社しろは、片眼の盲ひたる翁ありて、昔より斉かし眉ずけり。 其その片眼を失ひし時一たび見たりと言ふ、几帳の蔭に黒髪のたけなりし、それぞ神なるべき。 ちかきころ水無月中旬、二十日余り照り続きたる、けふ日ざかりの、鼓ひる子が花おさへ草いきれに色褪せて、砂も、石も、きら〳〵と光を帯びて、松の老おい木きの梢より、糸を乱せる如き薄き煙の立ちのぼるは、木こだ精まとか言ふものならむ。おぼろ〳〵と霞むまで、暑き日の静さは夜半にも増して、眼もあてられざる野の細道を、十と歳おばかりの美少年の、尻を端はし折より、竹の子笠被りたるが、跣はだ足しにて、 ﹁氷や、氷や。﹂ と呼びもて来つ。其より市に行かんとするなり。氷は筵むし包ろづつみにして天秤に釣したる、其片端には、手ごろの石を藁わら縄なわもて結びかけしが、重きもの荷ひたる、力なき身体のよろめく毎に、石は、ふらゝこの如くはずみて揺れつ。 とかうして、此の社の前に来りし時、太き息つきて立停りぬ。 笠は目まぶ深かに被りたれど、日の光は遮らで、白き頸うなじも赤らみたる、渠かれはいかに暑かりけむ。 蚯みみ蚓ずの骸むくろの干乾びて、色黒く成りたるが、なかばなま〳〵しく、心ばかり蠢うごめくに、赤き蟻の群りて湧くが如く働くのみ、葉末の揺るゝ風もあらで、平たき焼石の上に何とか言ふ、尾の尖さきの少し黒き蜻とん蛉ぼの、ひたと居て動きもせざりき。 かゝる時、社の裏の木蔭より婦おん人な二人出で来れり。一人は涼ひが傘さ畳み持ちて、細き手に杖としたる、いま一人は、それよりも年少わかきが、伸上るやうにして、背後より傘さしかけつ。腰元なるべし。 丈高き貴女のつむりは、傘のうらに支ふるばかり、青き絹の裏、眉のあたりに影をこめて、くらく光るものあり、黒髪にきらめきぬ。 怪しと美少年の見返る時、彼かの貴女、腰元を顧みしが、やがて此こな方たに向ひて、 ﹁あの、少しばかり。﹂ 暑さと疲つか労れとに、少年はものも言ひあへず、纔わずかに頷きて、筵を解きて、笹の葉の濡れたるをざわ〳〵と掻分けつ。 雫落ちて、雪の塊は氷室より切出したるまゝ、未だ角も失せざりき。其一角をば、鋸もて切取りて、いざとて振向く。睫まつげに額の汗つたひたるに、手の塞ふさがりたれば、拭ひもあへで眼を塞ぎつ。貴女の手に捧げたる雪の色は真黒なりき。 ﹁この雪は、何どうしたの。﹂ 美少年はものをも言はで、直ちに鋸の刃を返して、さら〳〵と削り落すに、粉はばら〳〵とあたりに散り、ぢ、ぢ、と蝉の鳴きやむ音して、焼砂に煮え込みたり。二
あきなひに出づる時、継母の心なく嘗かつて炭を挽きしまゝなる鋸を持たせしなれば、さは雪の色づくを、少年は然りとも知らで、削り落し払ふまゝに、雪の量は掌たなそこに小さくなりぬ。 別に新しきを進めたる、其もまた黒かりき。貴女は手をだに触れむとせで、 ﹁きれいなのでなくつては。﹂ と静にかぶりをふりつゝいふ。 ﹁えゝ。﹂と少年は力を籠めて、ざら〳〵とぞ掻いたりける。雪は崩れ落ちて砂にまぶれつ。 渋々捨てて、新しきを、また別なるを、更に幾度か挽いたれど、鋸につきたる炭の粉の、其都度雪を汚しつつ、はや残り少なに成りて、笹の葉に蔽はれぬ。 貴女は身みじ動ろきもせず、瞳をすゑて、冷かに瞻みまもりたり。少年は便たよりなげに、 ﹁お母つか様さんに叱られら。お母つか様さんに叱られら。﹂ と訴ふるが如く呟きたれど、耳にもかけざる状さましたりき。附添ひたる腰元は、笑止と思ひ、 ﹁まあ、何うしたと言ふのだね、お前、変ぢやないか。いけないね。﹂ とたしなめながら、 ﹁可哀さうでございますから、あの……﹂と取とり做なすが如くにいふ。 ﹁いゝえ。﹂ と、にべもなく言いひすてて、袖も動かさで立ちたりき。少年は上目づかひに、腰元の顔を見しが、涙ぐみて俯うつむきぬ。 雪ゆきの砕くだけて落散りたるが、見る〳〵水になりて流れて、けぶり立ちて、地の濡色も乾きゆくを、怨めしげに瞻りぬ。 ﹁さ、おくれよ。いゝのを、いゝのを。﹂ と貴女は急せき込こみてうながしたり。 こたびは鋸を下に置きて、筵むしろの中に残りたる雪の塊を、其まゝ引出して、両手に載せつ。 ﹁み、みんなあげよう。﹂ 細りたる声に力を籠めて突出すに、一掴みの風冷たく、水気むら〳〵と立ちのぼる。 流るゝ如き瞳動きて、雪と少年の面を、貴女は屹きつとみつめしが、 ﹁あら、こんなぢや、いけないツていふのに。﹂ といまは苛いらてる状さまにて、はたとばかり掻かい退のけたる、雪は辷すべり落ちて、三ツ四ツに砕けたるを、少年のあなやと拾ひろひて、拳を固めて掴むと見えし、血の色颯と頬を染めて、右め手てに貴女の手を扼とりしばり、ものをも言はで引立てつ。 ﹁あれ、あれ、あれえ!﹂ と貴女は引かれて倒れかゝりぬ。 風一陣、さら〳〵と木の葉を渡れり。三
腰元のあれよと見るに、貴女の裾、袂、はら〳〵と、柳の糸を絞るかのやう、細腰を捩りてよろめきつゝ、ふたゝび悲しき声たてられしに、つと駈寄りて押隔て、
﹁えゝ! 失礼な、これ、これ、御身分を知らないか。﹂
貴女はいき苦しき声の下に、
﹁いゝから、いゝから。﹂
﹁御ごぜ前ん――﹂
﹁いゝから好きにさせておやり。さ、行かう。﹂
と胸を圧して、馴れぬ足に、煩はしかりけむ、穿物を脱ぎ棄すてつ。
引かれて、やがて蔭ある処、小川流れて一本の桐の青葉茂り、紫陽花の花、流にのぞみて、破やれ垣がきの内外に今を盛りなる空地の此方に来りし時、少年は立停りぬ。貴女はほと息つきたり。
少年はためらふ色なく、流に俯して、掴み来れる件の雪の、炭の粉に黒くなれるを、その流れに浸して洗ひつ。
掌にのせてぞ透し見たる。雫ひた〳〵と滴りて、時の間に消え失する雪は、はや豆粒のやゝ大なるばかりとなりしが、水晶の如く透きとほりて、一点の汚もあらずなれり。
きつと見て、
﹁これでいゝかえ。﹂といふ声ふるへぬ。
貴女は蒼あおく成りたり。
後おく馳ればせに追続ける腰元の、一目見るより色を変えて、横様にしつかと抱く。其の膝に倒れかゝりつ、片手をひしと胸にあてて。
﹁あ。﹂とくひしばりて、苦しげに空をあふげる、唇の色青く、鉄か漿ねつけたる前歯動き、地に手をつきて、草に縋すがれる真白き指のさきわなゝきぬ。
はツとばかり胸をうちて瞻みまもるひまに衰へゆく。
﹁御前様――御前様。﹂
腰元は泣声たてぬ。
﹁しづかに。﹂
幽かすかなる声をかけて、
﹁堪かん忍にんおし、坊や、坊や。﹂とのみ、言ふ声も絶え入りぬ。
呆れし少年の縋り着きて、いまは雫ばかりなる氷を其口に齎もたらしつ。腰元腕かいなをゆるめたれば、貴女の顔のけざまに、うつとりと目をき、胸をおしたる手を放ちて、少年の肩を抱きつゝ、ぢつと見てうなづくはしに、がつくりと咽喉に通りて、桐の葉越の日影薄く、紫陽花の色、淋しき其笑顔にうつりぬ。